-- 2007.07.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
始めに日本の山城(※1、※1-1の[3])について述べましょう。
先ず、古代山城とは、663年(←日本では天智天皇2年の時)の白村江の戦(※2、※2-1)に敗れた倭国(=日本)・百済連合軍 -百済は滅亡- は今度は唐・新羅連合軍が倭国を攻めに来ると考え、慌てて前線防衛の為に対馬・北九州・長門など、瀬戸内海防衛の為に安芸や讃岐、そして大和朝廷防衛の為に大和・近江に山城を築きます。その際に亡命百済人が高度な築城技術を倭国に伝えた事から朝鮮式山城と呼びます。結局、唐・新羅連合軍は攻めて来なかったのですが、その時の築城記事は『日本書紀』(△2のp34~52)に緊張感を以て書かれて居ます。
その後、中世の武将たちや戦国武将に依って中世山城(※1-1の[3])が作られ、近世(=江戸時代)に入ると太平な社会は山城を必要としなく成り代わって平城(※1-1の[1])が作られました。
以上を図示すると▼下▼の様に成ります。
<日本の山城>
┌─ 神籠石系(6世紀?~7世紀後半)
山城 ─┤
│ ┌─ 古代山城(7世紀後半)
│ │ (朝鮮式山城)
└─ 山城系 ─┤
└─ 中世山城(13世紀~16世紀)
*.近世以降は山城は造られなく成った
尚、私見を述べると、朝鮮式山城は直接的には百済から伝えられましたが、その大元は高句麗(※3)で日本の初期築城技術は高句麗→百済→倭国と伝わったと考えて居ます。又、神籠石系については
神籠石とは?(What is the GOD'S ROCK in Japan ?)
を参照して下さい。
古代山城系の山城は上に記した様に築城の目的・年代が明確なのです。即ち築城の目的は倭国防衛であり、築城の年代は白村江の敗戦(663年、天智2年)から数年以内です。
ここで『日本書紀』から記事を拾って見ましょう。
<天智紀の重要事項(緑色:古代山城関連)>
・天智2(663)年
白村江の戦(※2、※2-1)に敗れる
・天智3(664)年
12月:是歳、対馬嶋・壱岐嶋・筑紫国等に、防(さきもり)と烽(すすみ)とを置く。又筑紫に、大堤を築きて水を貯へしむ。名けて水城(みずき)と曰(い)ふ(△2のp34)。
・天智4(665)年
8月:...を遣(まだ)して、城(き)を長門国に築(つ)かしむ。...を筑紫国に遣(まだ)して、大野及び椽(き、=基肄城)、二城を築かしむ(△2のp34)。
・天智6(667)年
3月:辛酉の朔己卯(=19日)に、都を近江に遷す(△2のp38)。
11月:倭国の高安城・讃岐国の山田郡の屋嶋城・対馬国の金田城を築く(△2のp40)。
・天智7(668)年
1月:丙戌の朔戊子(=3日)に、皇太子即天皇位す(△2のp42)。
2月:丙辰の朔戊寅(=23日)に、古人大兄皇子の女倭姫王を立てて、皇后とす(△2のp42)。
10月:大唐の大将軍英公、高麗(=高句麗)を打ち滅す(△2のp46)。
・天智8(669)年
10月:庚申(=15日)に、天皇、東宮大皇弟(=大海人皇子)を藤原内大臣(=鎌足)の家に遣して、大織冠と大臣の位とを授く。仍(よ)りて姓を賜ひて、藤原氏とす。...辛酉(=16日)に藤原内大臣薨(みう)せぬ(△2のp50)。
・天智9(670)年
2月:戸籍を造る。...又、長門城一つ・筑紫城二つを築く(△2のp52)。
・天智10(671)年
4月:丁卯の朔辛卯(=25日)に、漏剋を新しき台に置く。初めて候時を打つ。鐘鼓を動(とどろか)す(△2のp56)。
11月:丁巳(=24日)に、近江宮に災(ひつ)けり(△2のp62)。
12月:癸亥の朔乙丑(=3日)に、天皇、近江宮に崩りましぬ(△2のp64)。
古代山城一覧
名称 読み 建設年 所在地・推定地 現状
高安城 たかやすのき 667年 奈良県生駒郡平群町久安寺・大阪府八尾市高安山 城壁や水門跡が発見されたが、667年以降の築城の可能性も残されている。
また、あまりにも規模が大きい為に検証が進んでいない。
屋嶋城 やしまのき 667年 香川県高松市屋島東町 石垣、土塁、水門跡、見張台等が発見されたが検証が済んでいない。
長門城 ながとのき 665年 山口県下関市 不明
大野城 おおのじょう 665年 福岡県太宰府市・大野城市 土塁、石垣、門跡 建物跡
基肄城 きいじょう 665年 佐賀県三養郡基山町小倉
基山(414m) 礎石建物跡、城門 石垣、水門、土塁
金田城 かねたのき 667年 長崎県対馬市美津島町黒瀬城山 城壁(石垣)、城門跡、水門、望楼跡
鞠智城 くくちじょう 奈良・平安初期 熊本県山鹿市菊鹿町米原字長者原・
菊池市木野字深迫 64棟の建物跡
茨城 いばらき 奈良時代 広島県福山市蔵王町(蔵王山一帯) 不明
常城 つねき 665年 広島県府中市本山町・
福山市新市町常 亀ヶ岳山頂七ッ池周辺 不明
三野城 みのじょう 7世紀後半 福岡県福岡市博多区美野島 不明
稲積城 いなづみのき 7世紀後半 福岡県糸島郡志摩町 不明
三尾城 みおのき 滋賀県高島市 不明
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【脚注】
※1:城郭用語には独特の表現が多いので、このページに出て来る城郭用語を以下に纏めて列記して置きます。<出典:【参考文献】△1のp362~363>
※1-1:城の築かれて居る地形に依り、江戸の儒学者・荻生徂徠が平城、平山城、山城に分類したのが始まり。
[1].平城(ひらじろ/ひらじょう、flatland-castle)とは、平地に築かれた城。
[2].平山城(ひらやまじろ/ひらさんじょう、hill-castle)とは、平地に在る丘陵を利用して造った城を言い、特に丘陵部の上部平面のみを利用した中世の丘陵城郭(=丘城)に端を発する。
[3].山城(やまじろ/さんじょう、mountain-castle)とは、通常独立した山頂に築かれ山頂の平坦部に段状に曲輪の配置が為されて居る城を言う。日本では、古代に北九州の大野城、近畿の高安城などが最初。これらは古代朝鮮の築城法の影響を受けて居るとされ、古代山城(又は朝鮮式山城)と言う。以後これに倣い中世~戦国に掛けて自然の要塞としての地形を利用した山城が多数造られ、中世山城と言う。中世城郭には山城が多く、戦闘専用の砦(=詰の城)としての性格が強く、居住用には「根小屋」と言われる館を山麓に構える場合が多い。
[4].水城(みずじろ、water-castle)とは、特に河川・湖・海を利用した城を指し、築城技術的には平城の一種(又は変種)。
※1-2:穴太積石垣(あのうづみいしがき)とは、織田信長の安土城築城を皮切りに近江穴太(あのう)の石垣師(=穴太衆)の整然とした強固な石垣を言い、その石積み技法は近世城郭の端緒を開いた。
※1-3:縄張(なわばり)とは、城を築く場所を選定(=地取り、選地)した所に、機能・目的に応じて設計し曲輪や虎口の配置を決めること。配置工事する際に縄打ちすることから縄張と言う。
※1-4:曲輪/郭/廓(くるわ)とは、一定の区域の周囲に築いた土や石の囲い。
※1-5:主郭(しゅかく)/本丸(ほんまる)とは、一城内に於いて中心を成す曲輪。
※1-6:虎口(こぐち)とは、城の内外、曲輪間の出入口のことで、小さく出入口を築く「小口」から来ている。
※2:白村江(はくすきのえ/はくそんこう)は、(スキは古代朝鮮語で村の意)朝鮮南西部を流れる錦江河口の古名。今の群山付近。白江。
※2-1:白村江の戦(はくすきのえのたたかい/はくそんこう―)は、663年、白村江で、日本・百済連合軍と唐・新羅連合軍との間に行われた海戦。日本は百済王子豊璋を救援する為に軍を進めたが、唐の水軍に敗れ、百済は滅亡した。
※3:高句麗・高勾麗(こうくり、Koguryo)は、古代朝鮮の国名(0頃~668)。三国の一。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国と言う。中国東北地方の南東部から朝鮮北部に渡り、4~5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年より集安の丸都城、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。中国東北部に移された高句麗の遺民は後に渤海国を建てた。故都集安や平壌に壁画古墳を残し、遼寧省や集安に古代山城を残す。高麗(こま)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『別冊歴史読本 日本「廃城」総覧』(新人物往来社編・発行)。
△2:『日本書紀(五)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
●関連リンク
@補完ページ(Complementary):日本の神籠石・序論▼
神籠石とは?(What is the GOD'S ROCK in Japan ?)
日本にも関係深い高句麗▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')