板東のドイツ人俘虜たち
[日独の心の交流と『第九』日本初演]
(The German captives in Bando, Tokushima)

-- 2005.12.09 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2006.07.28 改訂

 ■はじめに - 「板東」という所

 皆さん、現在の徳島県鳴門市の「板東」という所をご存知ですか?、今の番地で言うと大麻町ですが嘗ては徳島県板野郡板東町(←更に厳密には板東町檜です)と呼ばれて居た所です。JR高徳線には今でも板東駅 -各駅停車しか止まらない無人駅- が在ります。地元の人や四国遍路の旅をされた方なら少しはご存知かも知れませんね。四国遍路と言ったのは、ここ大麻町板東に四国霊場八十八箇所の第1番札所の霊山寺(りょうぜんじ)(山号:竺和山、開基:行基菩薩)が在るからですが、それで「板東」という地名を記憶に留めてるお遍路さんは、実は少ないでしょう。つまり鳴門市の「板東」はマイナーな世界です。高校野球・プロ野球で活躍後タレントに成った板東英二の出身地と言った方が解り易いでしょうか、この人の苗字が地名と一致して居ますね。まぁ「板東」とは”そういう所”です。
 そしてここに嘗て

  ドイツ人俘虜収容所(die Deutsche Kriegsgefangene[独],
            the German captive accommodation[英])


が在りドイツ人が収容されて居たという話は、もう古老や物知りの世界です。しかし何せ大正時代(1910年代)の話ですから古老の方も殆ど居なく成りました。「好事家」及び「閑人」を以て自認する私は、年末近い05年12月18日(日)に板東俘虜収容所跡を訪ねました(板東にはその前にも行ってます)。この日は南国徳島では10数年振りの積雪が出迎えて呉れ、非常に身が引き締まりました。

 尚、巻末には「鳴門市での戦後の日独交流の略年表」を付しました。又「参考資料」として現在の青島(チンタオ)リューネブルクの様子も載せて置きました。
 更に「日本に於けるベートーヴェンの第九」の巻末資料の「板東俘虜収容所と『第九』初演関連の略年表」も併せてご覧下さい。

 ■板東のドイツ人俘虜収容所

 先ず何故に、ドイツ人の俘虜が「板東」に収容されねば為らなかったのか?、という経緯から話を始めなければ為りませんね。時代は第一次世界大戦(※1)に遡ります。

 (1)第一次世界大戦のあらまし

 第一次世界大戦とは1914年7月28日[オーストリアのセルビアへの宣戦布告]~18年11月11日[ドイツの降伏]迄、ヨーロッパを中心に30余ヶ国が参加して戦った史上初の世界的規模の戦争です。この戦争はハプスブルク家(※2)の伝統を固守する黄昏のオーストリア・ハンガリー帝国(※2-1)と、19世紀後半に台頭した帝国主義列強(英・仏・露・独など)の殖民領土拡大の野心と、バルカン半島やトルコの民族主義とが複雑に絡み合った戦争で、導火線に火を点けたのは開戦1ヶ月前のセルビア民族主義者に依るサラエボ事件(※1-1)でした。二重帝国の主宰国オーストリアは事件の背後でセルビアが糸を引いて居たと断じた訳です。事実この事件は衆目監視のパレード中での白昼堂々の”明殺” -暗殺では無しに- である点や陰謀の臭いが濃い点で、後のダラスでのケネディ大統領暗殺(1962年)と状況的に共通点が多いのです(△1のp196~201)。
 大戦勃発の詳細は【脚注】※1~※2に譲るとして、日本は日英同盟の為イギリスに援助を要請された形で協商側(※3) -英・露・日- に付き1914(大正3)年8月23日にドイツに宣戦布告して参戦して行きました(△2のp8)。で、何処を攻めたか?、と言うとドイツ本国では無く、中国山東省の青島(チンタオ、「参考資料」を参照)でした。青島は1897年にドイツ人宣教師が中国人に殺害されたのを口実に、翌98年3月6日にドイツの租借地(※4) -年限99年間の実質的な植民地- と成り、単なる漁村に過ぎなかった所にドイツが巨費を投じて東洋艦隊の基地とすべく軍港を築き、ドイツ的都市計画の基に道路や鉄道や上下水道を整備して「東洋の真珠」「東洋のベルリン」と呼ばれた近代的な街に生まれ変わって居たのです。日本はここで戦力の不備なドイツ守備隊を攻め1914年11月7日に”勝つべくして”勝ち、まんまと青島占領に成功しました。
 この戦いを青島戦争又は日独戦争と呼んで居ます。ドイツも日本も植民地獲得の野心を裡に秘めた中国大陸への進出でした。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 青島での日独の交戦では当初は複葉機での世界初の空中戦も演じられましたが、総力でぶつかる地上戦に移ると、日本軍は要塞を攻略する為に神尾光臣中将指揮下の久留米18師団を主力とした3万の兵力を投入し、これにインド兵を含むバーナジストン少将麾下のイギリス軍千名を加わえ青島包囲網を布きました。これに対し敗色濃厚のドイツ守備軍はメイヤー・ワルデック総督以下5千名足らずで、しかもその2/3は東アジアから掻き集めた義勇兵で、戦力も幾つかの砲台とたった1機の複葉機でした。11機の飛行機を擁する日英連合軍は10月31日から総攻撃を開始し砲台を壊滅させ、ドイツ軍を降伏させました(△2のp10)。
 余談ですが、このインド兵の様に植民地の傭兵を最前線に投入するのがイギリスなどの帝国主義・植民地支配の列強の常套手段で、イギリスは他にも勇敢で恐れられたグルカ兵(=ネパール人傭兵、※5)を最前線に投入し、自国民の損害を最小限に留めて居ます。


 [ちょっと一言]方向指示(次) 青島で有名な青島ビール(青島啤酒)はドイツ租借時代に産業振興策として技術移転されたものです。その後日本が青島を攻略し第二次世界大戦で敗れる1945年迄日本が保有して居ましたが、日本の敗戦と共に中国に接収され最初は国営企業として、今は民営化されて居ます。

 (2)ドイツ人俘虜

 この時に捕虜に成って日本に移送されたドイツ兵4627名が「ドイツ人俘虜」と呼ばれた人たちです。但し、この戦いでドイツの戦死者が209名であるのに対し、勝った日本の戦死者は1014名(=5倍近く)も居ました。こういう点に人的損害を極小化するヨーロッパと「死」を名誉とする日本との”戦術の違い”がハッキリと見て取れますね。
 日本はこんなに大量の捕虜は予想して無かった様で、取り敢えず全国の12箇所 -東京(255人)、静岡(約100人)、名古屋(約500人)、大阪(536人)、姫路(約400人)、徳島(206人)、丸亀(316人)、松山(396人)、福岡(約450人)、久留米(1314人)、大分(205人)、熊本(約500人)- の寺や公民館などの応急施設に1914(大正3)年中に全員を分散収容しました(△2のp12~13)。具体的にどんな所に収容されたのか、四国に限って記して置きましょう。

  11月11日 丸亀(西本願寺塩屋別院)に収容
         松山(大林寺、大越地区の寺、公民館)に収容
  12月 3日 徳島(富田浦町の県会議事堂)に収容


 (3)松山のロシア人俘虜収容所を振り返る

 ところで、松山は日清戦争の時から俘虜収容所が置かれ、日清戦争(1894~95年)の時既に俘虜収容所が出来、日露戦争(1904~05年)の時は約4千人のロシア人が収容された近代以降最古の俘虜の町です。収容所の周りに鉄条網も柵も無く俘虜の身分で道後温泉にも入れたし、お金を持っていれば松ヶ枝の遊郭に上がる事も出来たと言います。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 漱石の『坊つちやん』でも主人公が道後温泉の上等な湯に入ります(△3の31)が、俘虜の記述は有りません。『坊つちやん』の発表は1906年ですが、彼が松山中学教諭として赴任した1895~96年の経験を基に書いて居ますので、時代的には日清戦争の直後です。

 何故そんなに俘虜に寛大だったのか??
 その理由は幕末の不平等条約に遠因が在ります。幕末は「内なる討幕運動」と同時進行的に「欧米列強の外圧」が日に日に増して居た時代で、外圧に押され日本は先ず1854(安政元)年に日米和親条約(※6)で鎖国を解き開国する事を強いられ、続いて1858(安政5)年に時の大老井伊直弼がハリスに脅迫された形で独断的に日米修好通商条約(※6-1)を結び貿易や裁判などに関する不平等を飲まされました。「安政の大獄」(※6-2)、「桜田門外の変」(※6-3)を経て倒幕(=1867年の大政奉還)への流れを一気に加速させた不平等条約は、つまりは日本が蒙昧な後進国と見做され”半人前”扱いされた結果です。新生明治政府にとってこの不平等は重く圧し掛かり、明治政府が極端な欧米化路線を採った背景には日本が近代的な”一人前の紳士の国”であると世界(=欧米先進国)に認知させるという悲願が為政者の考えの深層に在った事が一因を成して居ます。結局、治外法権条項の不平等は1894(明治27)年の英米との通商航海条約(※7、※7-1の[1])、関税自主権の不平等は1911(明治44)年の日米通商航海条約(※7-1の[2])に依って漸く撤廃され、先ずは”一人前”に成りました。
 しかし更に”紳士の国”と認められる為には日本が外国人捕虜を”紳士的”に寛大に遇する必要が有り、それは当時の暗黙の了解の下での国策だったのです。それ故に板東のみならず日露戦争時のロシア人俘虜収容所でも同様に寛大に遇しました。尚、日本の寛大政策も1930年頃迄で、ブラック・サーズデー(Black Thursday)と呼ばれた1929年の世界恐慌(※8)以後は経済が逼迫しやがて第二次世界大戦(←日本では太平洋戦争と呼ぶことが多い)へと突入して行きました。

 という訳です。日独戦争のドイツ人俘虜も、松山のロシア人俘虜程では無いですが”旧き佳き”時代だったのです。

 (4)板東俘虜収容所の建設と開所

 当初の収容環境は区々(まちまち)で平均すると2[㎡/人]位しか無く、衛生面でも色々問題が有りました。それに対処する為に、帝国陸軍は翌1915(大正4)年から戦時国際公法(※9)に則った俘虜収容所の新設と統合 -これも日本を”紳士的”に見せる国策で、この頃は未だ戦時国際公法に従う余裕が有った- を実施し(△2のp35)、習志野収容所(千葉県、918人)、青野ヶ原収容所(兵庫県、490人)、似島収容所(広島県、545人)、板東収容所(徳島県、第1次で953人)、久留米収容所(福岡県、1136人)の5ヶ所を急遽新設し、1918年迄には最終的に名古屋収容所(509人)と新設収容所の6ヶ所に統合収容したのです(△2のp13)。因みに新設の板東の所長に就く松江豊寿中佐(後に大佐)はそれ以前は徳島の所長でした。
 以上の様に新設収容所の一つとして板東が選ばれた訳ですが、地元住民には何も知らされず、正に「寝耳に水」の話でした。村から町に成った直後の1917(大正6)年の春、人口僅か5千余りの板野郡板東町の西端の陸軍用地で突貫工事が始まり(△2のp30)、更に収容所が在った板野郡大麻町檜の周辺の人口は僅か500人足らずで(△2のp18)、突貫工事が俘虜収容所だと知らされた時には大きな衝撃が走り早速「女子供は外へ出せんぞ」という話に成った様です。。
 こうして1917年4月6日に四国は板東に集約され徳島収容所からの第1陣206名が行進曲を奏する軍楽隊を先頭に東の方角から遣って来ました。住民たちは「地の底から湧き上がる様な音」に先ず驚き、次いで初めて見る「青い眼」の大男たちの姿に一層驚きました。そして8日に丸亀から第2陣333名9日に松山から第3陣414名が合流し、第1次で953人を収容しました(△2のp14)。そして1918年6月1日『第九』の日本初演が行われたのです。
 その後1918年8月7日に久留米より一部合流し最終的に板東の収容者は1028名に成った訳です(←久留米からの合流組は残念乍ら「『第九』の日本初演」には間に合わなかったのです)。

 (5)捕虜の文芸レベルの高さと日常生活

 板東収容所内には印刷所が在り定期的な新聞 -所内新聞として捕虜自身の手で発行したディ・バラッケ(Die Baracke)(※10)の存在は大きい- の発行、本の出版、所内紙幣や切手の発行が行われ、野外音楽堂ではオーケストラや吹奏楽団や合唱団や劇団などの演奏会や演劇や講演会が催されました。所内にはボウリング場テニスコートの施設が在りスポーツが励行され、野菜の栽培や養豚養鶏やケーキ作りやソーセージ作りなどが営まれ、健康保険組合も在り、所外の地元民との交流も盛んでした。つまり”塀の中”の方が当時の”塀の外”の平均的日本人より文化レベルが遥かに高かい「模範収容所」でした(△2のp30~110、128)。
 『第九』の日本初演を遣った程音楽のレベルは高かったのですが、演劇でもシラー/ゲーテ/シェークスピアなどお馴染みの作家からドイツの馴染みで無い作家の作品も在り(△4のp113~114)、総じて音楽・演劇・文学のレベルは非常に高かったと言えます。松江所長の寛大な処置は在ったにしても、捕虜の文芸レベルの高さが無ければ何も生み出されません。では何故、レベルの高さを保持出来たのか?、今と成っては「神のみぞ知る」です。幾つかの幸運が重なったのでしょう。

 当時の日常生活は、給費規定(1917年)に拠れば「将校及ビ准士官ハソノ階級ニヨリ、毎月40円乃至100円ヲ現金支給シテ自炊セシム。下士官ハ一律毎月12円、兵卒ハ同9円ニ相当スル現品ヲ支給シテ、共同炊事ヲナサム。」と在り、定額以上は貯金させました(△2のp84、金額は数字に変更)。そして「捕虜は一大消費団体であり、1000人が来れば軍から約2万円という金が支払われ、それ以外にも元の勤務先からの給料、家族からの送金、救援暖帯からの義援金も加わる。それらが地元を潤すことになる。板東の場合も、捕虜の一年分の食費が町の数年分の歳入に匹敵した。」と在る様に(△2のp36)、捕虜の経済効果は大きかったのです。
 面白い記事を拾うと、「一つのバケツで顔、手足、陰部まで洗うのが、日本人には奇異に感じられた。」と記されて居ます(△2のp50)。彼等は肉食ですが1ヶ月の消費量は豚が90~100頭、牛が30頭で、屠殺も捕虜自ら行い「2間と4間のソギ葦平屋建てで、セメントを床にはっていた。」と在ります(△2のp70~71)。捕虜たちは外出が好きで時には大麻山を越えて瀬戸内海にも行きました(△2のp68)。1918年にはスペイン風邪が流行し板東でも犠牲者が出ました(△2のp80~81)。又、ヴェルサイユ条約調印以後には個人生活が認められる様に成り、金持ちの捕虜たちは裏山にセカンドハウスを作り200戸近く出来ました(△2のp88~89)。そしてドイツ人は合理的個人主義と記されて居ます(△2のp53)、これは今も全く変わって居ません。
 一方、板東俘虜収容所が特別な存在に成った背景には、板東の人たちが四国遍路を「おせったい」する気持ちで捕虜に接したと思われます。遍路捕虜は或る意味で似た境遇とも言えるのです。
 尚、【参考文献】△2、△5の著者は板東俘虜収容所の近くに生まれ、父は収容所の郵便係でした(△2のp3、187)。

 ■俘虜の解放と収容所の閉鎖

 1918年11月11日にドイツ降伏で第一次世界大戦は終結し、翌年の6月28日にドイツがヴェルサイユ条約(※1-2)に調印して完了です。捕虜の解放は連合国側の国籍を有する者からヴェルサイユ条約調印前に順次行われ、後は条約調印後に行われました(△2のp43~45)。ここで残留希望者とは日本或いは青島(チンタオ)に残留を希望した者です。日本に残留希望者は34名でした。「ドイツ兵の墓」が死亡した11名の墓碑です。下のデータは別ページの巻末資料「板東俘虜収容所と『第九』初演関連の略年表」にも載って居ます。

  1919年 5月19日  9名のポーランド系隔離俘虜解放
          20日  5名のユダヤ系隔離俘虜解放
        6月 1日  アルサス出身者28名解放
          27日 ドイツ橋完成
          28日 ドイツ、ヴェルサイユ条約に調印
        8月26日  ハンゼンを含むシュレジヴィヒ出身の7名解放
          31日 板東俘虜の墓碑「ドイツ兵の墓」除幕式
       12月25日  クレーマン少佐ら、604名送還
  1920年 1月16日  午前残留希望者92名出発、午後52名送還
          28日  残りの220名解放
               (生存者計1017名を解放、11名死亡)
        2月 8日 板東俘虜収容所閉鎖

 そして板東ドイツ人俘虜収容所1920年2月8日に閉鎖されたのです。

 その後、第一次大戦中の板東ドイツ人俘虜収容所の「日独の心の交流」を懐かしく思った人々がフランクフルト・バンドー会ハンブルク・バンドー会ドイツ兵を偲ぶ会などを創り、やがてリューネブルク市と鳴門市の姉妹都市締結に繋がって行きました(△2のp176~187)。

 ■板東 - 『第九』日本初演の地

 板東での音楽活動の中心は、徳島から来たヘルマン・ハンゼンと丸亀から来たパウル・エンゲルです。1918(大正7)年6月1日、ハンゼン指揮の徳島オーケストラに依り『第九』全曲が日本初演されました(△5のp32~33)。4人の独唱者もいる完全なものですが、”塀の中”の制約からソプラノとアルトは男声でした。
 『第九』日本初演の詳細は▼下のページ▼を
  日本に於けるベートーヴェンの第九(Beethoven's Symphony No.9 in Japan)

ご覧下さい。

 ■板東俘虜収容所跡を訪ねて

 (1)板東の概略
地図1:JR板東駅の大麻町のマップ。
 「板東」という所はJR板東駅の北約1.8kmに大麻比古神社(→後で詳述、※11)が祖神を祀り、その背後には御神体山である大麻山が優雅な姿を見せて居ます。そして駅の北約800m位の所に冒頭で触れた四国霊場八十八箇所の第1番札所の竺和山霊山寺が在ります。
 俘虜収容所跡は現在ドイツ村公園と成って駅の北西約1.3km位の所に在ります。無人のJR板東駅のイラストマップ(右の写真)が参考に成ります。
 私はこの日は、霊仙寺 → 大麻比古神社 → 新ドイツ館 → 俘虜収容所跡、という順に巡りましたが収容所跡だけ行く人の為に直接収容所跡に行くコースで、つまり私が辿ったのと逆コースでご紹介しましょう。

 (2)ドイツ村公園

    大麻山  眼鏡橋風にデザインされたアーチ
     ↓       ↓
写真1-2:板東谷川から大麻山を望む。
 ドイツ村公園に行くには右上のマップに従い霊山寺を目指して進み、霊山寺の門前を通る県道12号を西に進みます。途中、板東谷川に架かる橋が在り、左の写真の様に大麻山高速道路(高松自動車道)の眼鏡橋風にデザインされたアーチが見えます(→何故、眼鏡橋風かは後で解ります)。
 


写真1-3:ドイツ村公園の入口。
 この橋を渡り150m位進むと新ドイツ館(→後出)に通じる車道と交叉しますが、そこを通り過ぎて100m位先を北に入るとドイツ村公園の入口です(右の写真)。
 左の門柱に「ベートーヴェン「第九」日本初演の地」、右の門柱に「板東俘虜収容所跡」と書かれた表札が掛かって居ます。
 中に入ると「友愛(Freundshaft)」と刻まれた石碑が置かれ、その碑板の隣にこの公園の謂れを記した碑板(左下の写真)が在ります。

写真1-5:ドイツ村公園内のドイツ橋を模した橋。 右の写真が下の碑板に記されて居るドイツ橋を模した橋です(本物は後で見に行きます)。
 地面が白いのは一昨日から夜間に降った雪です。
写真1-4:ドイツ村公園内の謂れを記した碑板。
 左上の碑板には「953人のドイツ兵士」と在りますが、これは第1次の兵士で、後で久留米から一部受け入れて実際には1028人に成って居ます。

 ここは現在は鳴門市大麻町桧ですが当時は板野郡大麻町檜で、この辺りがバラッケ(※10)と呼ばれた収容所の建物が建っていた所ですが、最早その当時の遺跡は在りません。余所に比べ恵まれた環境に在ったとは言え、見知らぬ異国の地で募る望郷の念と明日への出口が知れない不安とに苛(さいな)まれる収容所暮らしには、やはり体験した者でしか解らない辛い思いが有ったことと思われます。そういう体験の無い私はこれ以上語るのを止めましょう。


 (3)「ドイツ兵の墓」と合同慰霊碑

 そこで次に、その墓碑 -ドイツ人が建てた当時の遺跡- を見に行きます。この公園を北に抜け道路を渡り、登り口に「慰霊碑」と案内板が立っている細い道が通じている北の丘を少し(=約150m位か?)登って行くと、道の手前に銅板が嵌め込まれた合同慰霊碑(→後で説明)が在り、その奥にドイツ人が建てた墓碑が、並んで建って居ます。


写真2-1:ドイツ俘虜の墓碑「ドイツ兵の墓」。 右の写真がその墓碑で、今では「ドイツ兵の墓」と呼ばれて居ます。これはこの地で亡くなった仲間11名の為に俘虜たちが3ヶ月掛かりで付近の山や川から石材を集めて完成したドイツ人の遺跡です。1919(大正8)年8月31日の除幕式ではヴェルナー指揮のオーケストラに依りワーグナーの「ローエングリン」の前奏曲が捧げられました(△5のp166)。
 この墓碑には「ここを今は亡き戦友たちの安らぎの場とし、我々が故国に帰る時までの一時の宿とし、ここに墓地が存続し続けて、後年訪れる人たちに我々の苦しみを語りかけてくれ、同時に又ドイツ人の誠実と戦友愛の証たらしめよう。」(発案者のハンス・コッホ)という俘虜たちの願いが込められて居ます(△5のp163)。
 ところで先程の「ドイツ兵の墓」は、俘虜たちが去った後は日本の第二次世界大戦突入や少し奥まった場所の所為も有り暫く忘れられた存在に成って居ました。ここが再び注目された切っ掛けは、第二次大戦後にバラッケに戦争引揚者が住む様に成ってからでした。その中の一人の高橋春枝さんという女性が”草葉の陰に”埋もれて居たこの「墓」を見付け13年間も清掃と献花を続けていたのを新聞で紹介され、漸く世間に知れることと成りドイツ大使などが訪れる様に成ってからでした。その後隣に合同慰霊碑が建てられたり、日本とドイツの交流が盛んに成ったのです。こうした無償の行為に対し高橋春枝さんには1964(昭和39)年7月14日にドイツからドイツ功労勲章が授与されて居ます(△2のp172~175)。

写真2-2:戦後建てられた合同慰霊碑。 次は合同慰霊碑(右下の写真)です。これは後の1976(昭和51)年11月14日のドイツ国民慰霊祭の日にドイツ総領事と鳴門市長に依って序幕されたもので、銅板の碑には「第一次世界大戦中(1914~1918年)日本での捕虜生活のうちに歿した兵士たちの霊を祀る」と在り、日本の各地の俘虜収容所で没した兵士たちの名前が刻まれて居ます。献花の上にも雪が積もって居ます。
 その人数だけ墓碑に刻まれて居る順に記して置きましょう。

    板東  : 9名
    青野ヶ原: 6
    福岡  : 2
    熊本  : 1
    久留米 :11
    丸亀  : 1
    松山  : 1
    名古屋 :12
    習志野 :31
    似島  : 9
    大分  : 2
    大阪  : 1
    静岡  : 1
   ---------
    計    87名

 板東の死者が9名で、先程の「ドイツ兵の墓」より2名少ないのですが、これはこの合同慰霊碑が1918年迄と成っているのに対し、「墓」の方は1919年夏の建立なので、この半年の差に拠るものと思われます。
写真2-3:リューネブルク市との「姉妹都市盟約締結30周年記念植樹林」。
 この墓地の少し奥には、鳴門市とドイツのリューネブルク市との「姉妹都市盟約締結30周年記念植樹林」の標柱が在り(右の写真の左側)、右側の標柱には「寄贈 リューネブルク市シビタンクラブ」と在り、雪原に白い標柱は映えて居ました。鳴門市とリューネブルク市が姉妹都市盟約を締結したのは1974年4月18日のことです。

 (4)大麻比古神社 - 忌部氏の四国開拓の拠点

   大麻山
    ↓
 左が薄らと雪を戴いた阿讃山脈の大麻山(538m)大麻比古神社(鳴門市大麻町、※11)の大鳥居です。創建は古く阿波国一の宮ですが、それよりも古代の忌部氏(→後に斎部と改名)(※12)が四国開拓の拠点とした所です。祭神の大麻比古神忌部氏の祖・天太玉命(※12-1、※12-2)とされ(△6のp224)、天太玉命の孫の天富命(※12-3)は忌部氏に鏡・玉・矛・盾・木綿(ゆう)・麻を作らせ、更に天日鷲命(※12-4)の孫が忌部氏に阿波国を開拓し穀(かぢ)や麻を蕃殖したと、斎部広成(※13)が著した『古語拾遺』(※13-1)は伝えます(△7のp33、尚、祭神に関しては異説も在ります(△6-1のp364))。忌部氏は祭祀を司り収穫が在れば祝詞(のりと)を奏上したのです(△7のp37)。
 尚、猿田彦神は古来大麻山に斎き祀る神です。大麻山頂上に奥宮が在り、旧暦7月16~17日には奥宮例祭が行われます。ところで大麻山は航海の目印山で山頂からは瀬戸内海が一望の下に眺められます。

 確かに四国は忌部氏と所縁が深く、私は相当四国の忌部氏関連の地を調べて廻りました(→下の[ちょっと一言])。『古語拾遺』には歴史の”負け組”の悲哀が書かれて居り、最初は朝廷への祭祀は中臣氏と忌部氏で分け合って居ましたが次第に中臣氏(※12-5)のみに独占されて行くのです(△7のp37、48)。因みに、その政治部門が政教分離で中臣氏から分かれたのが藤原氏で、藤原氏が権力を独占し「我が世の春」の栄華を極めた事は皆さんも良く御存知でしょう。そして一般に「三種の神器」 -八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)・八尺瓊曲玉- と言いますが、『古語拾遺』の最も際立って居る点は八咫鏡・天叢雲剣(草薙剣)「神器は二種」としている点です(△7のp27)。

 [ちょっと一言]方向指示(次)徳島県には他に山崎忌部神社(主祭神:天日鷲命)が在り、この鎮座地はつい最近迄「麻」の文字が残って居ました。この地は旧名・麻殖(おえ)郡山崎郷→麻植郡山川町→そして04年10月1日に麻植郡の3町1村が合併して吉野川市山川町に成り、由緒有る麻植(おえ、古くは麻殖)」の地名が消えましたが、近くには忌部山古墳群が在り、忌部氏が麻と共に植えた楮から伝統的な手漉きの和紙が今でも生産されて居ます。尚、JR徳島線の麻植塚駅西麻植駅は存続して居ます。又、讃岐の大麻神社(善通寺市大麻町)はやはり大麻山(618m)の東麓に在り、天太玉命を主祭神として祀って居ます(△6-1のp338~341)。
 更に『古語拾遺』には、天富命が阿波忌部氏の一部を率いて先ず紀伊国に拠点を作り、次いで関東に出向き安房(阿波と同じ読み「あわ」)地方を開拓し安房忌部氏の祖に成った伝承が記され、今の千葉県館山市には安房神社(主祭神:天太玉命[上の宮]、天富命[下の宮])が在りますが、これらの行路は黒潮文化と密接な関係が在ります。更に出雲、讃岐の忌部氏についても言及して居ます(△7のp32~34)。


 ところで、四国霊場八十八箇所の第1番札所の霊山寺は大麻比古神社に懐に抱かれる様に存在してますが、讃岐の大麻神社は善通寺市(※14)に在り、ここは空海(※14-1)の地元です。そして斎部広成空海は完璧に同時代を生きて居り何やら”因縁”を感じて仕舞います。
    {この節は06年7月28日に最終更新しました。}


 (5)ドイツ橋

 ドイツ橋と「めがね橋」は大麻比古神社の境内に在ります。それには大麻比古神社のイラストマップ(右の写真)が役立ちます。ドイツ橋は境内裏に回り奥宮遥拝所の西に進むと在ります。


 左下がドイツ人が築いたドイツ橋で、「ドイツ兵の墓」とほぼ併行して作られ1919(大正8)年6月27日に完成して居ますが、それはドイツがヴェルサイユ条約に調印する1日前のことでした。橋の高さは目測3m位、板東谷川に注ぐ細い川に架けられて居て現在は渡れません。四国では10数年振りの雪ですので雪景色のドイツ橋は滅多に見れるものでは有りません!
 この写真の右上の方に説明板が在りますが、私が興味を引かれたのは説明板脇の標識石柱で(右下の写真)、何となればご覧の様に(←少し見難いですが)、「獨逸橋」「どい津橋」と古い書体で彫って在ったからです。
写真3-1-1:ドイツ橋。写真3-1-2:ドイツ橋の標識石柱。

 ところで、このドイツ橋の奥の斜面を少し登った所にも当時の遺構らしき物が在りました(左下の写真)。橋の様にも見えますが、中央の穴は周りをセメントで覆われ奥は塞がれて居ます(右下の写真)。
写真3-2-1:当時の遺構らしき物。写真3-2-2:当時の遺構らしき物の塞がれた穴。
写真3-3:「めがね橋」の雪景色。
 奥宮遥拝所に戻り、その近くの池に架かっている小さな橋が「めがね橋(眼鏡橋)」の雪景色です(右の写真)。説明板に拠るとこの池も橋もドイツ人たちが造ったものですが、1992(平成4)年3月吉日に神社が池を拡張し橋の周辺も整備して「心願の鏡池」と命名したそうです。多分ドイツ俘虜たちの望郷の念 -心願の境地- を慮(おもんばか)ってのことでしょう。
 この橋は高さ1m足らずの小さなもので歩いて渡れます。


 尚、境内では左右の写真を見ましたので御注意下さい。左は「まむし」、右は「猿」です。
 ドイツ人の俘虜は「まむし」に咬まれなかったでしょうか??
 

 (6)新ドイツ館

写真4-1:新ドイツ館。
 1972(昭和47)年5月10日にファッハヴェルク様式の「ドイツ館」 -今では「旧ドイツ館」と呼ぶ- が完成しましたが、建物の老朽化が進み所蔵品も収容し切れなく成った為1993(平成5)年10月13日に姉妹都市リューネブルクの市庁舎に似た塔を持つ、大理石作りの「新ドイツ館」が建てられました(左下の写真)。
写真4-2-1:新ドイツ館の庭に在るベートーヴェン像。
 左が「新ドイツ館」の敷地内に立つベートーヴェン像で、下が像建立の経緯を記した台座の説明板です。説明板には1918年6月1日のベートーヴェンの『第九』日本初演の模様と市制50周年を記念して像を建立した旨が記されて居ます。
写真4-2-2:ベートーヴェン像の台座の説明板。
写真4-3:新ドイツ館背後の丸山の上に建つ「ばんどうの鐘」。
 そして左が「新ドイツ館」背後の丸山(標高120m)の上に立つ「ばんどうの鐘」で、1983(昭和58)年6月12日、第2回の鳴門市『第九』演奏会の日に完成して居ます。高さ約13m、八角形の白タイル張りの塔の頂にはドイツ産業連盟が西ドイツで鋳造しルフトハンザ航空で空輸されて来た重さ100kgの鐘が吊るされて居ます。
 この鐘には日独両国語で「諸国民の永久平和と友好の為に」と記され、毎日3回友好の音色を板東の地に響かせて居ます。

 ところで、近くには賀川豊彦記念館(右下の写真、※15)が在りました。「ばんどうの鐘」が背後の山に見えて居ます。
 

                       ばんどうの鐘
                          ↓

 『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』に拠ると、「回漕業者・賀川純一と徳島の芸妓・菅生かめ」の子で、鳴門市は母方に所縁の地です。
 私は賀川豊彦については殆ど知らず、キリスト教社会主義に共感を覚え、やがて灘神戸生協を経て現・コープこうべ(日本最大の生協)を設立、生活協同組合運動・世界連邦運動に邁進したそうです。灘神戸生協と言ったら私も知って居ます、私の”地元”ですから。
 

 ■結び - 100年前の事実は忘れて行く

 思わぬ10数年振りの積雪でしたが、記録的な寒波で鹿児島市や何と屋久島でも雪が降り島民も吃驚しているそうです。
 板東はJRの無人駅が在る何の変哲も無い町ですが、今から約90年前はドイツ人捕虜が居て活気を呈し、そして『第九』の日本初演が催され板東(バンドー)は特別な存在に成りました。大正時代(1912~25年)は今から約90年前ですが、これを100年前としても大差は無いと思います。冒頭で述べた通り既に古老や物知りの世界なのです。その古老や物知りも100年前の出来事を知って居る人は殆どが既に物故されて居るのです。板東がドイツ人俘虜収容所が在った事や『第九』の日本初演が行われた地だということも、若い世代は新しいニュースや情報に追い捲られて、どんどん忘れて行きます。私が訪ねた板東の新ドイツ館でも訪れる人は僅かです。これは板東に限った事では無く他の場所でも同様です。
 私は最近しばしば思うのですが、人間という生き物は「100年前の事実は忘れて行く」様で、これを風化と言いますが、どうやらこれは一つの定理ではないかと思えます。そこでこれをエルニーニョの小定理に加えることにします。

  鳴門市での戦後の日独交流の略年表

1947(昭和22)年
    5月15日 鳴門市、市制施行
1964(昭和39)年
    7月14日 「ドイツ兵の墓」を守った高橋春枝さんにドイツ功労勲章授与
1967(昭和42)年
    1月 1日 大麻町、板野郡から鳴門市に編入
1972(昭和47)年
    5月10日 鳴門市「旧ドイツ館」完成
1974(昭和49)年
    4月18日 鳴門市とドイツのリューネブルク市が姉妹都市提携
1976(昭和51)年
   11月14日 合同慰霊碑建立
1978(昭和53)年
    4月 1日 ドイツ村公園完成
1982(昭和57)年
    5月15日 鳴門市文化会館落成記念で市民参加の『第九』を演奏
        以後6月1日を「第九の日」と定め6月上旬に『第九』演奏
1983(昭和58)年
    6月12日 「ばんどうの鐘」建立
1993(平成 5)年
   10月13日 鳴門市「新ドイツ館」完成
1997(平成 9)年
    5月15日 「新ドイツ館」庭にベートーヴェン像を建立
    {この略年表は06年2月26日に最終更新しました。}

 ◆◆◆参考資料 - 青島(チンタオ)とリューネブルク

 (1)青島(ちんたお、Qingdao)

 青島は中国山東省の南東部、膠州湾の南東端に在る港湾都市で面積は約1万920㎢(市区は約1340㎢)、人口は約710万(市区は約230万、2001年)。
 1898年にドイツの租借地と成り、第一次世界大戦初期に日本が占領しましたが、1922年中国に還付。現在の青島は山東省第2の都市に発展して居ます。1984年に沿海開放都市に指定され、85年からは経済技術開発区の造成が始まり、香港・台湾を始め韓国や日本などからの進出企業は5千社近くに達し、86年には日本の政令指定都市の様な計画単列都市に指定されました。日本では下関市と友好関係に在ります。
 産業は青島ビールで知られる食品や紡績などを中心とする軽工業と、大連に次ぐ北方第2位の青島港の対外貿易と海洋開発、ラオシャン(ろう山:「ろう」は山偏に勞)や海水浴場などの観光産業です。
 市街区にはドイツ租借時代のヨーロッパ風建築が多く残され異国情緒溢れる町並みを形成して居ます。特産として知られる青島ビールもドイツの技術を受け継いだものです。

  ・膠州湾(こうしゅうわん、Jiaozhou bay)は、中国山東省南岸に在る湾。湾口に青島(チンタオ)が在る。1898年以来ドイツが租借、第一次大戦の際日本が占領したが、1922年中国に返還


 (2)リューネブルク

 リューネブルク(Lüneburg)は、ドイツのニーダーザクセン州の中心都市。ハンブルクの南東50km位に位置します。人口は約7万人(2003年)。有名な自然保護地区リューネブルガーハイデの端に在り、そこへの観光基地でもある保養都市。昔は岩塩の採掘で栄え、その街道は現在は「塩街道(ザルツ・シュトラーセ)」と呼ばれ観光地の一つです。
 1974(昭和49)年4月18日、徳島県鳴門市とドイツのリューネブルク市姉妹都市を提携。

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)は、三国同盟(独・墺・伊)と三国協商(英・仏・露)との対立を背景として起った世界的規模の大戦争。サラエボ事件を導火線として1914年7月28日オーストリアはセルビアに宣戦、セルビアを後援するロシアに対抗してドイツが露/仏/英と相次いで開戦、同盟側(トルコ/ブルガリアが参加)と協商側(同盟を脱退したイタリアの他ベルギー/日本/アメリカ/中国などが参加)との国際戦争に拡大。最後迄頑強に戦ったドイツも18年11月11日に降伏、翌年ヴェルサイユ条約に拠って講和成立。欧州大戦。第一次大戦。
※1-1:サラエボ事件(―じけん)とは、1914年6月28日、ボスニアの首都サラエボでオーストリア皇嗣フランツ・フェルディナント夫妻がパレード中に、セルビアの民族主義的秘密結社「黒手組」の結社員プリンツィプ(1894~1918)に銃で暗殺された事件。第一次世界大戦の導火線と成った。
※1-2:ヴェルサイユ条約(―じょうやく、Treaty of Versailles)は、1919年6月、第一次大戦の戦後処理の為、連合国側とドイツとの間にヴェルサイユで調印された講和条約。国際連盟規約及びドイツの領土・賠償・軍備問題などに関する諸条項を含む。

※2:ハプスブルク家(Habsburger[独])は、中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパで最も由緒有る家柄の一。1438~1806年の神聖ローマ皇帝は全てこの家門から出た。皇帝フランツ2世は1804年からオーストリア皇帝としてフランツ1世を名乗る。又、婚姻政策の結果、1516~1700年スペイン王位を占める。第一次大戦敗北の為、王朝は1918年に崩壊
※2-1:オーストリア・ハンガリー帝国(Austria-Hungary, Austro-Hungarian Empire)は、ハプスブルク家がハンガリーのマジャール貴族と妥協して、1867年ハンガリー王国の建設を認め、同君連合(オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる)の下に成立した二重帝国。第一次大戦に敗れ、1918年解体。

※3:協商(きょうしょう)とは、[1].consultation。互いに話し合って取り決めること。
 [2].agreement。2つ以上の国家間に於いて、或る事柄に関し、同盟関係に成らない程度で親善関係を協定すること。又その協定。
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※4:租借(そしゃく)とは、或る国が他国の領土の一部を借りること。原則として租借国が統治権を行使する。

※5:グルカ兵(―へい、Gurkha soldier)は、(Gurkha は、ネパール王国のシャハ(ゴルカ(Gorkha))王朝を建てた民族の総称)イギリス軍に属するネパール人傭兵。19世紀中葉以降、インド内外のイギリス植民地で活動し、勇猛さで知られる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:日米和親条約(にちべいわしんじょうやく、Japan-U.S. amity agreement)は、1854年(安政1)神奈川で、アメリカ全権使節ペリーと幕府全権林大学頭韑(あきら)以下4名との間に締結調印された条約。アメリカ船の下田・箱館寄港、薪水食糧購入、漂着アメリカ人の保護、最恵国条款などを定めた。続いて日本はイギリス/ロシア/オランダと略同じ内容の条約を締結。神奈川条約。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-1:日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Japan-U.S. amity trade agreement)は、1858年(安政5)神奈川で、アメリカ全権委員ハリスと大老井伊直弼の使者の下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震(ただなり)との間で締結調印された条約。公使・領事の交換、下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、貿易の自由、領事裁判権などを決めたが、一般外国人に治外法権を認める、関税自主権が無いなど、我が国に不利な点が多い不平等条約であった。続いて日本は略同じ内容の条約をイギリス/ロシア/オランダ/フランスと締結、一括して安政五箇国条約、勅許を得て無いので安政の仮条約とも通称される。調印の是非を巡り安政の大獄に発展。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※6-2:安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、安政5年から翌年に掛けて大老井伊直弼が尊攘運動派らに下した弾圧事件。井伊が勅許を得ないで仮条約(=日米修好通商条約を始めとする五箇国条約)に調印し、又、家茂を将軍に迎えた事に反対した公卿・諸大名を罰し、梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内ら多数の志士を投獄・処刑。
※6-3:桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年(1860)3月3日の雪の朝、大老井伊直弼安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら18人が、桜田門外で直弼を暗殺した事件。

※7:日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく、Japan-Britain treaty of commerce and navigation)は、日本がイギリスとの間に1894年(明治27)締結、99年実施した条約。治外法権の撤廃関税自主権の部分的回復を勝ち取る。同様の条約が他の欧米諸国とも締結され、条約改正の半ばが達成された。
※7-1:日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく、Japan-U.S. treaty of commerce and navigation)は、
 [1].1894年(明治27)、同年の日英通商航海条約に続き、治外法権の撤廃関税自主権の部分的回復を実現させた条約。
 [2].1911年(明治44)関税自主権を完全回復し、条約改正を完成させた条約。

※8:世界恐慌(せかいきょうこう、the world crisis)とは、世界的規模の経済恐慌。一般に資本主義諸国に連鎖的に広がるのを特徴とし、1929年の大恐慌を指す場合が多い。アメリカに始まったこの恐慌は数年に亘って世界全体に蔓延し、当時の資本主義経済を脅かした。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※9:戦時国際公法(せんじこくさいこうほう)とは、戦時に於ける国際間の法律関係の規準を規定した法律の総称。交戦法規と中立法規とに分ける。戦時公法。戦時国際法。

※10:バラック(barrack)は、[1].粗造の仮小屋。仮建築。
 [2].軍隊の休養に当てる急築の営舎。廠舎(しょうしゃ)。

※11:大麻比古神社(おおあさひこじんじゃ)は、徳島県鳴門市大麻町に在る元国幣中社。祭神は大麻比古神で、一説に天太玉命(忌部氏の祖と言う。阿波国一の宮。

※12:忌部/斎部(いむべ/いみべ/いんべ)氏は、古代の氏族の一。朝廷の祭祀に奉仕。伝承上の祖は天太玉命。姓は連(むらじ)・首(おびと)など。連は天武天皇の時に宿禰(すくね)に昇格。他に伊部・諱部などとも書く。
※12-1:天太玉命(あまのふとたまのみこと)は、日本神話の五部神(いつとものおのかみ)の一。天岩屋戸の前で天香山の真榊を取り、玉・鏡・和幣(にきて)を掛け、天照大神の出現を祈った。忌部氏(斎部氏)の祖とする。
※12-2:五部神/五伴緒神(いつとものおのかみ)とは、日本神話で天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従ってこの国に降った五神天児屋根命(あまのこやねのみこと)・太玉命(ふとたまのみこと)・天鈿女命(あまのうずめのみこと)・石凝姥命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の総称。
 補足すると、五部神はそれぞれ下記の
  天児屋根命:中臣藤原氏の祖
  太玉命  :忌部氏(斎部氏)の祖
  天鈿女命 :猿女君(さるめのきみ)の祖
  石凝姥命 :鏡作部(かがみつくりべ)の祖
  玉祖命  :玉造部(たまつくりべ)の祖
5つの氏族や品部の祖神とされる。
※12-3:天富命(あまのとみのみこと)は、日本神話で、天太玉命の孫。神武天皇の時代、天種子命と共に神事を司り、又、造営に与り、鏡・玉・木綿(ゆう)などを作ったと言う。
※12-4:天日鷲命(あまのひわしのみこと)は、出雲の国譲り神話に登場する神で、『日本書紀』の一書では作木綿者(ゆうつくり)として居る。古代の木綿(ゆう)とは楮(こうぞ)のことで織物繊維の原料にされて居た。又、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、穀木綿(ゆう)を植えて和幣(にきて)を作ったことから麻植神(おえのかみ)とも言う。阿波の忌部連、弓削連、多米連、天語連などの祖神
※12-5:天種子命(あまのたねこのみこと)は、日本神話で、天児屋根命の孫(一説に子)。神武天皇の即位に天つ神の寿詞(よごと)を奏し、後に祭祀を司ったと言う。中臣氏の祖

※13:斎部広成(いんべのひろなり)は、平安初期の官人(生没年未詳:770頃~830頃か)。斎部氏の勢力が衰えたことを嘆き、807年(大同2)「古語拾遺」を著してその由来を明らかにした。
※13-1:古語拾遺(こごしゅうい)は、歴史書。斎部広成著。1巻。807年(大同2)成る。古来中臣氏と並んで祭政に与(あずか)って来た斎部氏が衰微したのを嘆き、その氏族の伝承を記して朝廷に献じた書。記紀に見えない伝承も少なく無く、「三種の神器」(鏡・剣・曲玉)に対し神器二種説(鏡・剣)を説く。

※14:善通寺(ぜんつうじ)は、香川県善通寺市に在る真言宗善通寺派の総本山。四国八十八箇所第75番の札所。807年(大同2)空海帰朝後、出生の地に父佐伯善通の名を採り創建したと言う。
※14-1:空海(くうかい)は、平安初期の僧(774~835)。我が国真言宗の開祖讃岐の人。灌頂号は遍照金剛。初め大学で学び、後に仏門に入り四国で修行、804年(延暦23)入唐して恵果(けいか)に学び、806年(大同1)帰朝。京都の東寺・高野山金剛峯寺の経営に努めた他、宮中真言院や後七日御修法の設営に依って真言密教を国家仏教として定着させた。又、身分を問わない学校として綜芸種智院(しゅげいしゅちいん)を設立。詩文に長じ、又、三筆の一。著「三教指帰」「性霊集」「文鏡秘府論」「十住心論」「篆隷万象名義」など。諡号は弘法大師

※15:賀川豊彦(かがわとよひこ)は、キリスト教社会運動家(1888~1960)。神戸の人。神戸貧民街の伝道をはじめ、関西の友愛会の指導者となり、農民組合・消費組合運動にも関係。第二次大戦後は伝道・生活協同組合運動世界連邦運動に尽力。小説「死線を越えて」。

    (以上出典は主に広辞苑)

【参考文献】
△1:『秘密結社の手帖』(澁澤龍彦著、河出文庫)。

△2:『「第九」の里ドイツ村 -板東俘虜収容所- 改訂版』(林啓介著、(有)井上書房)。

△3:『坊つちやん』(夏目漱石著、新潮文庫)。

△4:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第2号』(「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会編、鳴門市ドイツ館)。

△5:『望郷のシンフォニー(「第九」日本初演事情)』(林啓介著、長征社)。

△6:『神道の本(八百万の神々がつどう神秘的祭祀の世界)』(学研編・発行)。
△6-1:『日本の神々 神社と聖地2』(谷川健一編、白水社)。

△7:『古語拾遺』(斎部広成撰、西宮一民校注、岩波文庫)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):スペイン風邪が流行▼
資料-最近流行した感染症(Recent infectious disease)
補完ページ(Complementary):板東で『第九』日本初演▼
日本に於けるベートーヴェンの第九(Beethoven's Symphony No.9 in Japan)


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