-- 2005.12.09 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2009.11.04 改訂
■はじめに - このページの位置付けと日本の『第九』状況
ベートーヴェン(※1)の『交響曲第9番「合唱付き」』に関しては、晩年の作品にも拘わらず合唱部分は『合唱幻想曲』の合唱に酷似し更には青年時代の歌曲の曲想に基づいて居るという『第九』誕生秘話を2004年4月に「ベートーヴェンの合唱幻想曲と第九」という論考を掲載したのが最初です。従ってこの論考が[知られざる『第九』物語]シリーズの第1作に成ります。
その後、私は
クラシック音楽を楽しむ会【ブラボー、クラシック音楽!】
という会を04年10月から立ち上げ主宰することに成りました(←そう成った切っ掛けと経緯は「「ブラボー、クラシック音楽!」発足の経緯」をお読み下さい)。そして05年12月9日に
ベートーヴェン「交響曲第9番「合唱付き」」
という『第九』の曲目解説を掲載しました。このページは[知られざる『第九』物語]シリーズの第2作ですが、実はこの曲目解説と同時に書き進め同時に掲載したもので曲目解説の一部を補完する内容を盛り込んで在ります。
現在、日本では毎年12月に成ると皆が挙(こぞ)って -普段クラシック音楽などに全く無縁な人でも- ベートーヴェンの『第九』の演奏したり聴きに行ったりして居ます。特にシロウト(素人)さんがこの時だけ合唱に参加し、やれ千人だ1万人だと、お祭り騒ぎです。この現象は曲目解説にも記した様に『第九』が参加型の楽曲だからです。何しろ日本では『第九』と言えば唯一ベートーヴェンの『交響曲第9番』を指すのであって、”音楽以外の作品”や”他の作曲家の楽曲”や”ベートーヴェンの他ジャンルの楽曲”の第9番を指すのでは決して有りません、つまり唯一無二なのです。
ところが、では何故『第九』が日本で”年末恒例”に成ったのか?、と訊かれると答えられません。又、『第九』の日本初演が東京では無く四国の辺境の地で意外な人たちに依って行われた話を知って居る人は極めて少数です。このページでは日本国内に於ける「知られざる『第九』物語」をご紹介します。
尚、巻末の「板東俘虜収容所と『第九』初演関連の略年表」を適宜参照して下さい。
■日本に於ける知られざる『第九』の話あれこれ
(1)板東のドイツ人俘虜収容所 - 四国地区を板東に集約
耳の聞こえないベートーヴェンがウィーンで自ら指揮をして『第九』の世界初演を行った時の有名なエピソードは[知られざる『第九』物語#1]の「ベートーヴェンの合唱幻想曲と第九」に記しましたが、日本初演も大変劇的です。
それは何と、徳島県鳴門市板東(当時は板野郡板東)に嘗て在った板東俘虜収容所(△1の12~15)のドイツ兵捕虜に依る演奏が日本初演(→後で詳述)だからです。
板東収容所跡地は現在「ドイツ村公園」に成り、慰霊碑や新ドイツ館が建ち資料の展示をして居ます。右の写真は新ドイツ館の庭に立つベートーヴェン像(05年12月18日撮影)です。
そもそも日本とドイツ -当時はあの栄光のハプスブルク家(※2)を継承する黄昏のオーストリア・ハンガリー帝国(※2-1)- が戦火を交えることに成った切っ掛けとドイツ人捕虜が日本に移送されて来た経緯を簡略に記すと凡そ次の様なものです。
日独戦争はドイツが1898年から租借して居た中国の青島(チンタオ、※3)を、日本が第一次世界大戦(1914~18年)勃発の機に乗じてドイツに返還を迫ったのが発端です。1914(大正3)年8月23日に日本から宣戦布告し、青島のドイツ軍要塞への激しい総攻撃に依り同年11月7日にドイツは日本に降伏、以後日本が青島を占領します。日本は同年11月11日に総勢4600余名の捕虜を東京・名古屋・大阪・姫路・徳島・丸亀・松山・福岡・熊本に俘虜収容所を急遽建設し分散収容しました。
3年後の1917(大正6)年4月に開所された鳴門の板東俘虜収容所には四国の徳島(206人)・丸亀(333人)・松山(414人)が集約(計953人)されました。この時先陣の徳島組は収容所正門に陣取り同胞の入場を『プロイセン行進曲』で出迎えたのでしたが、これを演奏したのが徳島オーケストラ(→後出)で、彼等が最初に入場した時演奏したのが徳島のブラスバンドでした(△2のp48~49)。そして1918年6月1日に『第九』の日本初演が行われたのです。
更に1918年8月7日には久留米から一部合流し最終的に板東のドイツ人捕虜が1028人と成り1920年2月末迄約3年間使用されました(△1のp8~15)。久留米からの合流組は残念乍ら「『第九』の日本初演」には間に合わなかったのです。
◆当時の板東収容所 - 捕虜の文芸レベルの高さと日常生活
板東収容所内には印刷所が在り定期的な新聞 -所内新聞として捕虜自身の手で発行したディ・バラッケ(Die Baracke)の存在は大きい- の発行、本の出版、所内紙幣や切手の発行が行われ、野外音楽堂ではオーケストラや吹奏楽団や合唱団や劇団などの演奏会や演劇や講演会が催されました。所内にはボウリング場やテニスコートの施設が在りスポーツが励行され、野菜の栽培や養豚養鶏やケーキ作りやソーセージ作りなどが営まれ、健康保険組合も在り、所外の地元民との交流も盛んでした。つまり”塀の中”の方が当時の”塀の外”の平均的日本人より文化レベルが遥かに高かい「模範収容所」でした(△1のp30~110、128)。
『第九』の日本初演を遣った程音楽のレベルは高かったのですが、演劇でもシラー/ゲーテ/シェークスピアなどお馴染みの作家からドイツの馴染みで無い作家の作品も在り(△3のp113~114)、総じて音楽・演劇・文学のレベルは非常に高かったと言えます。松江豊寿所長(→後出)の寛大な処置は在ったにしても、捕虜の文芸レベルの高さが無ければ何も生み出されません。では何故、レベルの高さを保持出来たのか?、今と成っては「神のみぞ知る」です。幾つかの幸運が重なったのでしょう。
当時の日常生活は、給費規定(1917年)に拠れば「将校及ビ准士官ハソノ階級ニヨリ、毎月40円乃至100円ヲ現金支給シテ自炊セシム。下士官ハ一律毎月12円、兵卒ハ同9円ニ相当スル現品ヲ支給シテ、共同炊事ヲナサム。」と在り、定額以上は貯金させました(△1のp84、金額は数字に変更)。そして「捕虜は一大消費団体であり、1000人が来れば軍から約2万円という金が支払われ、それ以外にも元の勤務先からの給料、家族からの送金、救援暖帯からの義援金も加わる。それらが地元を潤すことになる。板東の場合も、捕虜の一年分の食費が町の数年分の歳入に匹敵した。」と在る様に(△1のp36)、捕虜の経済効果は大きかったのです。
尚、板東俘虜収容所については、より▼詳しい情報が下▼に載って居ます。
「板東のドイツ人俘虜たち」(The German captives in Bando, Tokushima)
{板東のドイツ人俘虜収容所の詳細については06年7月28日にリンクを追加しました。}
(2)『第九』の劇的な日本初演
板東での音楽活動の中心は、徳島から来たヘルマン・ハンゼンと丸亀から来たパウル・エンゲルです。
ハンゼンは青島では膠州沿岸砲兵隊(MAK)の軍楽兵曹長 -膠州は湾口に青島(チンタオ)が在る(※3-1)- で、徳島に来て徳島オーケストラとブラスバンドの指揮をし、自らはヴァイオリンを弾きました。ハンゼンは徳島の2ヶ月目頃、即ち1915(大正4)年2月頃に徳島オーケストラを結成した様で、翌16(大正5)年2月頃には総勢約30名でオーボエとファゴットを除く最低限の陣容に整えた様です。左が軍楽兵曹長のヘルマン・ハンゼン(左の写真は青島赴任前の彼、※4)です。
一方、エンゲルは青島守備の為ジャワから招集された二等兵で、ブレーメン出身でドレスデン音楽学校で教鞭を取りヴァイオリン奏者としてドイツ各地のアマチュアのオーケストラで演奏したり、「ベートーヴェンに関してはドイツで5番目位に上手い」と捕虜たちが噂をしてた程のプロ級の腕前だった様で(△2のp52)、15(大正4)年7月に丸亀でエンゲル・オーケストラを結成して居ます。この様にハンゼンとエンゲルは板東以前にオーケストラを可なりのレベルに訓練し何回か演奏会も催して居た事実を過小評価しては為らないと思います。
1918(大正7)年6月1日、ハンゼン指揮の徳島オーケストラに依り『第九』全曲が日本初演されました(△2のp32~33)。4人の独唱者もいる完全なものですが、”塀の中”の制約からソプラノとアルトは男声で、これを聴いた日本人は残念乍ら衛兵だけでした。更にその1年前の17年6月10日には第4楽章のみの初演が同じ奏者で行われて居ます(△2のp34)。因みに、エンゲル指揮のエンゲル・オーケストラは『第九』全曲初演の約1ヶ月前の18年4月28日にベートーヴェンの『運命』を日本初演して居ます(△2のp58)。
(3)寛大なる板東収容所の真相
では板東収容所で上述の様な寛大な処置が採られた本当の理由は何か?
その<理由の第1>は幕末の不平等条約に遠因が在ります。幕末は「内なる討幕運動」と同時進行的に「欧米列強の外圧」が日に日に増して居た時代で、外圧に押され日本は先ず1854(安政元)年に日米和親条約(※5)で鎖国を解き開国する事を強いられ、続いて1858(安政5)年に時の大老井伊直弼がハリスに脅迫された形で独断的に日米修好通商条約(※5-1)を結び貿易や裁判などに関する不平等を飲まされました。「安政の大獄」(※5-2)、「桜田門外の変」(※5-3)を経て倒幕(=1867年の大政奉還)への流れを一気に加速させた不平等条約は、つまりは日本が蒙昧な後進国と見做され”半人前”扱いされた結果です。新生明治政府にとってこの不平等は重く圧し掛かり、明治政府が極端な欧米化路線を採った背景には日本が近代的な”一人前の紳士の国”であると世界(=欧米先進国)に認知させるという悲願が為政者の考えの深層に在った事が一因を成して居ます。結局、治外法権条項の不平等は1894(明治27)年の英米との通商航海条約(※6、※6-1の[1])、関税自主権の不平等は1911(明治44)年の日米通商航海条約(※6-1の[2])に依って漸く撤廃され、先ずは”一人前”に成りました。
しかし更に”紳士の国”と認められる為には日本が外国人捕虜を”紳士的”に寛大に遇する必要が有り、それは当時の暗黙の了解の下での国策だったのです。それ故に板東のみならず日露戦争時のロシア人俘虜収容所でも同様に寛大に遇しました。尚、日本の寛大政策も1930年頃迄で、ブラック・サーズデー(Black Thursday)と呼ばれた1929年の世界恐慌(※7)以後は経済が逼迫しやがて第二次世界大戦(←日本では太平洋戦争と呼ぶことが多い)へと突入して行きました。
[ちょっと一言] 全面戦争に嵌まり込んだ第二次世界大戦では一転して七三一部隊(※8)の様に捕虜を人体実験に使ったり日本軍の捕虜虐待が敗戦後に戦勝国から非難されました。しかし、アメリカの日本への原爆投下も多種の実験的要素を含んで居た事実を日本人は被爆国民として忘れては為りません。
とは言っても板東収容所が同時期の他の収容所よりも自由で『第九』の日本初演や地元住民との交流など成果を上げたのも事実で、私は<理由の第2>として倒幕の大潮流の中で幕府の肩代わりをして明治維新の”負け組み”に陥った会津藩出身の松江豊寿所長の敵の痛みを知る「武士の情け」の精神を挙げます。特に松江所長の一家は不毛の地の斗南藩(※9)で苦労したとの事です(△1のp24、△4のp386~387)。世間 -板東収容所のことや斗南藩を知る人々の世間は少数派ですが- では<理由の第1>で指摘した歴史認識が欠如した儘この<理由の第2>だけが”美談”にされて居るので、私は遺憾に感じて居ます。
人間の態度や行動というものは常に歴史的状況の中で制約を受けて居ますので、単純な善意だけで無く周囲との関わりの中で相対的に割り出された「折り合い点」や妥協、場合に依っては打算が入り込むものです。板東収容所時代の日本は収容所という”限定された空間”を「模範収容所」に仕立て<理由の第1>から日本の近代性(=”一人前”)と徳性(=”紳士の国”)を欧米先進国にアピールする外交的必要性が有ったという歴史認識を確りと持つことが大切です。従って松江所長の寛大さもその様な時代的要請と「折り合い」を付けた上での態度だと私は考えて居ます。
{この節は05年12月22日にベートーヴェン像の写真を載せ、稿を加筆修正しました。}
(4)日本人に依る『第九』の本邦初演
板東俘虜収容所での『第九』の日本初演はドイツ人捕虜に依るものでした。では日本人に依る本邦初演はと言うと、1824年の世界初演から100周年を記念して1924年に催されて居ます。第4楽章のみが1924(大正13)年1月26日福岡での九州帝国大学、全曲演奏は同年11月29日東京での東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽部)の演奏です。
板東での初演の話が知られて無かった間は、この後者の東京での演奏が日本初演として長らく信じられて居ました。板東の話は現在でも”御当地”を除いて一般には殆ど知られて無いので、今でもそう信じられて居る向きも有ります。
(5)『第九』が毎年末に多く演奏される理由
冒頭にも記した様に我が国では12月に成るとあちこちで『第九』が演奏され、最早年末の”恒例行事”に成って居ます。その理由として以下の[1]が割合と世間に流布されて居る説で、日本の年末の演奏の淵源がこの辺に在るのかも知れません。序でに他の月を恒例としてる所も挙げて置きます。
[1].日本のプロのオーケストラの草分けである新交響楽団(現NHK交響楽団)の常任指揮者にJ.ローゼンストック(※10)が在任中に、ドイツに倣って始めたのが最初という説が在ります(△5のp103~106)。
[2].そのドイツ本国で今日『第九』の年末演奏を恒例にして居るのは老舗のライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団です。
[3].一方、ドレスデンではワーグナー(※11)が『第九』を1846年に再発掘した日を記念して毎年4月5日に演奏されます。因みに、ワーグナーはベートーヴェンに、取り分け『第九』に心酔し自身の殿堂バイロイト祝祭劇場の起工式の為に『第九』を奉納し、又『第九』に関する重要な論文も書いた -他にも著述が多い- 人です。
[4].鳴門市では、板東俘虜収容所に於いて日本初演が行われた6月1日に因み毎年6月上旬を恒例にして居ます。
この様に必ずしも年末限定では無いということも知って置いて戴きたいですね。しかし、それとは別にベートーヴェンの誕生日が12月16日(又は17日、※1)なので年末の演奏も或る程度は意味が有るというのが私の見解です。
■余計な一言 - 歴史とメロドラマを混同し勝ちな日本人
歴史を美しいメルヘンや感涙を誘うメロドラマと同列に見るのは幼稚で危険な態度です。松江所長やハンゼンやエンゲルを板東俘虜収容所での”美談”の主人公として美化し過ぎたり偶像化したりすると、「片手落ちの綺麗事」や「安っぽいヒューマニズム」に嵌まる危険性が多分に有ります。テレビの”歴史大河ドラマ”の影響かどうかは知りませんが、私の見る所どうも日本人の多くは歴史とメロドラマを混同し勝ちで、それは結局は歴史認識の欠如に起因して居ます。そして決まってアイドル(=偶像)を創り上げ筋書きの単純な薄っぺらい”お涙頂戴劇”を幻視して、安っぽい感動に浸るのが好きです。こういう日本人の傾向については既に04年に心理分析(=心理の解剖)をして居ますので、そちらを参照して下さい。
ドラマの場合はどんな見方をしようと見る人の勝手で良いのですが、繰り返しますが歴史的事柄に対峙する場合にはやはり確りした歴史認識が必要です。
{この章は05年12月22日に追加}
■結び - 大麻比古神社境内の「ドイツ橋」
「日本に於ける知られざる『第九』の話」は如何でしたでしょうか?
板東俘虜収容所での『第九』の日本初演の話はFMラジオか何かで少しだけ知って居たに過ぎませんでしたので、このページを書く為に05年の10月と12月の2度現地を訪ねました。実は現地に行かなくてもこのページの原稿は今在る資料を基に書けたのですが、やはり現地を見て置こうと思い立ってのことです。特に12月の旅では四国で10年振り位の大雪とぶつかり、JR板東駅から大麻山(538m)への雪道を何度も転び乍ら辿り着いた薄らと雪化粧の大麻山と大麻比古神社はとても印象的でした。
「猿出没」「マムシに注意」という立て札が立つ大麻比古神社本殿裏手(=山側)の境内にはドイツ人捕虜たちが帰国を前に記念として築いた「ドイツ橋」(右の写真、05年12月18日撮影)と呼ばれる石橋が残って居ます。近くには標柱が立ち側面に「獨逸橋」「どい津橋」と古い書体で彫って在りました。土手に積もった雪をご覧下さい。
大麻比古神社を見た後で板東俘虜収容所跡に行き新ドイツ館の展示を見て資料を購入して帰りました。私は板東俘虜収容所に関する更に詳細な話を別途書こうと思って居ますので、現地の見聞や資料はその時に役立つでしょう。
尚、[知られざる『第九』物語]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
{この章は05年12月22日に追加、その後に板東のドイツ人俘虜収容所の詳細については06年7月28日にリンクを追加しました。}
>>>■その後
●特別解説:『第九』誕生秘話と日本初演秘話
第59回例会(2009年11月4日)に「『第九』誕生秘話と日本初演秘話」と題して特別解説をしました。ベートーヴェンの『第九』の合唱部が作曲者の若い頃からの曲想であること、しかもベートーヴェンは『合唱幻想曲』で一度実験をした後に漸く『第九』の合唱部を作曲して居る事、『第九』日本初演は板野郡(現:鳴門市)板東のドイツ人捕虜たちである事、など当ページと直接関係の在る話をさせて戴きました。
この日は特別解説の後に『合唱幻想曲』、次に若い頃からの曲想である『歌曲「愛されぬ者の嘆息と相愛」』を、最後に私が主張して居る様に『第九』の合唱(=「歓喜頌歌」)では無く第3楽章を聴きました。その理由は『第九』の合唱は小学校低学年でも知って居る反面、第3楽章の天に登る様な美しさを殆どの大人でも知らないからです。何故知らないか?、と言えば『第九』と言えば「歓喜頌歌」で後は寝ているのが殆どだからです。この日は耳の穴をかっぽじって貰って第3楽章を聴いて戴きました。
{この章は09年11月4日に追加}
板東俘虜収容所と『第九』初演関連の略年表
1824(文政 7)年
x月 x日 ベートーヴェン『第九』を作曲
5月 7日 ウィーンにてベートーヴェン指揮で『第九』全曲を世界初演
1898(明治31)年
3月 6日 独清条約締結(ドイツ、青島(チンタオ)を租借)
1914(大正 3)年
6月28日 サラエヴォ事件(オーストリア皇太子夫妻暗殺)
7月28日 オーストリアがセルビアに宣戦 → 第一次世界大戦に突入
8月23日 日本、ドイツに宣戦布告
11月 7日 日本軍、中国青島(=ドイツ租借地)を陥落させる
ドイツ兵4627名が日本の捕虜に成り12箇所に分散収容
11月11日 丸亀(西本願寺塩屋別院)に収容
松山(大林寺、大越地区の寺、公民館)に収容
12月 3日 徳島(富田浦町の県会議事堂)に収容、所長=松江豊寿
1915(大正 4)年 順次収容所を新設、最終的には 6箇所に統合
2月 ヘルマン・ハンゼン、徳島にて徳島オーケストラ結成
6月 徳島オーケストラの練習風景写真が現存(約20名)
7月 パウル・エンゲル、丸亀にてエンゲル・オーケストラ結成
1916(大正 5)年
2月 この頃、徳島オーケストラ最低限の陣容に(約30名)
1917(大正 6)年
4月 6日 板東俘虜収容所開所、所長=松江豊寿
4月 6日 徳島収容所より 206名収容
8日 丸亀収容所より 333名収容
9日 松山収容所より 414名収容
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計 953名
17日 ハンゼン指揮&徳島オーケストラ第1回演奏会
5月25日 ボウリング場完成
6月10日 ハンゼン指揮&徳島オーケストラ『第九』第4楽章を日本初演
11日 テニスコート完成
9月30日 所内新聞「ディ・バラッケ(Die Baracke)」発刊
11月 7日 レー二ンのロシア革命
20日 カムブレーのドイツ軍敗北
1918(大正 7)年
3月 3日 ドイツのブレスト・リトフスク対ソ単独講和
3月 8日 霊山寺にて俘虜美術展覧会
4月16日 隔離俘虜(=ポーランド系)と一般俘虜の闘争事件
22日 初めての人形劇
28日 エンゲル指揮&エンゲル・オーケストラ『運命』を日本初演
5月26日 前青島民政長官オットー・ギユンター伯到着
26日 クローン指揮&東京音楽学校『運命』を日本人初演
27日 俘虜伝票(=所内紙幣)使用
6月 1日 ハンゼン指揮&徳島オーケストラ『第九』全曲の日本初演
(中学教員・生徒95人が所内見学するも『第九』演奏前に帰る)
8月 2日 日本軍シベリアに出兵
7日 久留米収容所より一部合流、計1028名
xx日 徳川頼貞侯爵、板東で『第九』演奏を聴く
25日 収容所郵便局開設
10月 2日 徳島オーケストラ、MAKオーケストラと改称
11月 9日 ドイツのヴィルヘルム2世退位(ドイツ敗北を認める)
11日 ドイツ降伏で第一次世界大戦終結
12月 4日 スペイン風邪に因る最初の犠牲者
1919(大正 8)年
1月21日 第1回日帰り遠足(以後第46回迄)
2月 9日 第1回工ンゲル&ヴィナー合同演奏会
17日 板東俘虜の墓碑建立開始
5月19日 9名のポーランド系隔離俘虜解放
20日 5名のユダヤ系隔離俘虜解放、隔離俘虜分置所解散
6月 1日 アルサス出身者28名解放
27日 ドイツ橋完成
28日 ドイツ、ヴェルサイユ条約に調印
7月 6日 エンゲル・オーケストラ4周年記念公演
25日 ハンゼン送別演奏会でハンゼン最後の指揮
8月26日 ハンゼンを含むシュレジヴィヒ出身の 7名解放
31日 板東俘虜の墓碑「ドイツ兵の墓」除幕式
9月29日 「ディ・バラッケ」最終号刊行
10月23日 シベリアの戦友の為の興行
11月10日 MAKとエンゲルの初の合同演奏会
12月25日 クレーマン少佐ら、604名送還
1920(大正 9)年
1月16日 午前残留希望者92名出発、午後52名送還
28日 残りの 220名解放(生存者計1017名を解放、11名死亡)
2月 8日 板東俘虜収容所閉鎖
1924(大正13)年 この年は『第九』の世界初演から100年目
1月26日 榊保三郎指揮&九州帝大『第九』第4楽章を日本人初演
11月29日 クローン指揮&東京音楽大学『第九』全曲を日本人初演
1926(昭和 1)年 宮沢賢治、ベートーヴェン百年祭レコード鑑賞会を花巻で開く
【脚注】
※1:ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、ドイツの作曲家(1770.12.16~1827.3.26)。ボンに生まれ主にウィーンで活動。古典派三巨匠の一人(他はハイドンとモーツァルト)で、ロマン派音楽の先駆。九曲の交響曲や歌劇「フィデリオ」の他、「荘厳ミサ曲」、ソナタ・弦楽四重奏曲・協奏曲など不朽の傑作を多く遺した。作風は、ハイドン/モーツァルトの影響下に在る第1期から、自己の様式を確立した第2期を経て、晩年の聴力を失い乍らも深い境地に到達した第3期へ発展。
※2:ハプスブルク家(Habsburger[独])は、中欧を中心とする広大な地域に君臨した家門。ヨーロッパで最も由緒有る家柄の一。1438~1806年の神聖ローマ皇帝は全てこの家門から出た。皇帝フランツ2世は1804年からオーストリア皇帝としてフランツ1世を名乗る。又、婚姻政策の結果、1516~1700年スペイン王位を占める。第一次大戦敗北の為、王朝は1918年に崩壊。
※2-1:オーストリア・ハンガリー帝国(Austria-Hungary, Austro-Hungarian Empire)は、ハプスブルク家がハンガリーのマジャール貴族と妥協して、1867年ハンガリー王国の建設を認め、同君連合(オーストリア皇帝がハンガリー王を兼ねる)の下に成立した二重帝国。第一次大戦に敗れ、1918年解体。
※3:青島(ちんたお、Qingdao)は、中国山東省の南東部、膠州湾の南東端に在る港湾都市。1898年ドイツの租借地と成る。第一次大戦初期に日本が占領したが、1922年中国に還付。省最大の工業都市。ドイツ統治時代の教会や町並みが残る。特産物は青島ビール。人口218万4千(1995)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-1:膠州湾(こうしゅうわん、Jiaozhou bay)は、中国山東省南岸に在る湾。湾口に青島(チンタオ)が在る。1898年以来ドイツが租借、第一次大戦の際日本が占領したが、1922年中国に返還。
※4:ヘルマン・ハンゼン(ハンセンとも)(Hermann Hansen)は、ドイツの軍楽隊指揮者(1886.11.26~1927.3.13)。1886年にグリュックスブルクで生まれ近くのフレンスブルクで、育ちシュテッティーン(現ポーランド領)で音楽を学ぶ。1904年に海軍に入隊し、青島では膠州沿岸砲兵隊(MAK)の軍楽兵曹長としてオーケストラとブラスバンドの指揮をし、自らはヴァイオリンを弾く。1918年6月1日、『第九』全曲の日本初演。19年8月、北シュレジヴィヒの帰属を決める住民投票の為帰国後、20年市役所に勤務し25年声楽クラブ「フェニックス」の指揮者に。1927年病死。<出典:「新ドイツ館」の展示資料>
※5:日米和親条約(にちべいわしんじょうやく、Japan-U.S. amity agreement)は、1854年(安政1)神奈川で、アメリカ全権使節ペリーと幕府全権林大学頭韑(あきら)以下4名との間に締結調印された条約。アメリカ船の下田・箱館寄港、薪水食糧購入、漂着アメリカ人の保護、最恵国条款などを定めた。続いて日本はイギリス/ロシア/オランダと略同じ内容の条約を締結。神奈川条約。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-1:日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく、Japan-U.S. amity trade agreement)は、1858年(安政5)神奈川で、アメリカ全権委員ハリスと大老井伊直弼の使者の下田奉行井上清直・目付岩瀬忠震(ただなり)との間で締結調印された条約。公使・領事の交換、下田・箱館の他に神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港、貿易の自由、領事裁判権などを決めたが、一般外国人に治外法権を認める、関税自主権が無いなど、我が国に不利な点が多い不平等条約であった。続いて日本は略同じ内容の条約をイギリス/ロシア/オランダ/フランスと締結、一括して安政五箇国条約、勅許を得て無いので安政の仮条約とも通称される。調印の是非を巡り安政の大獄に発展。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-2:安政の大獄(あんせいのたいごく)とは、安政5年から翌年に掛けて大老井伊直弼が尊攘運動派らに下した弾圧事件。井伊が勅許を得ないで仮条約(=日米修好通商条約を始めとする五箇国条約)に調印し、又、家茂を将軍に迎えた事に反対した公卿・諸大名を罰し、梅田雲浜・吉田松陰・頼三樹三郎・橋本左内ら多数の志士を投獄・処刑。
※5-3:桜田門外の変(さくらだもんがいのへん)は、安政7年(1860)3月3日の雪の朝、大老井伊直弼の安政の大獄などの弾圧政策を憎んだ水戸浪士ら18人が、桜田門外で直弼を暗殺した事件。
※6:日英通商航海条約(にちえいつうしょうこうかいじょうやく、Japan-Britain treaty of commerce and navigation)は、日本がイギリスとの間に1894年(明治27)締結、99年実施した条約。治外法権の撤廃、関税自主権の部分的回復を勝ち取る。同様の条約が他の欧米諸国とも締結され、条約改正の半ばが達成された。
※6-1:日米通商航海条約(にちべいつうしょうこうかいじょうやく、Japan-U.S. treaty of commerce and navigation)は、
[1].1894年(明治27)、同年の日英通商航海条約に続き、治外法権の撤廃、関税自主権の部分的回復を実現させた条約。
[2].1911年(明治44)関税自主権を完全回復し、条約改正を完成させた条約。
※7:世界恐慌(せかいきょうこう、the world crisis)とは、世界的規模の経済恐慌。一般に資本主義諸国に連鎖的に広がるのを特徴とし、1929年の大恐慌を指す場合が多い。アメリカに始まったこの恐慌は数年に亘って世界全体に蔓延し、当時の資本主義経済を脅かした。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8:731部隊/七三一部隊(ななさんいちぶたい)は、旧日本陸軍の細菌戦部隊の秘匿名。正式名称は関東軍防疫給水部。1936年編成。初代の部隊長は石井四郎。哈爾浜(ハルビン)近郊で生物化学兵器の研究・開発を行い、日中戦争では実戦に使用。又、中国人などの政治犯・捕虜に依る人体実験を行い、多数を殺害。石井機関。
※9:斗南藩(となみはん)とは、会津藩が明治3(1870)年5月に会津藩主容保(かたもり)の子・容大(かたはる、当時1歳)を知事に藩士家族1万7千人が下北半島の新領地・斗南へ3万石で移封。火山灰で実際は7千石位と言われる。しかし翌年7月に廃藩置県に成り斗南県に、同年9月に弘前県に、11月に青森県に成った。今は青森県むつ市田名部(原子力船寄港地)。
補足すると、柴五郎(斗南藩士)は斗南移封を「挙藩流罪」と言ってます。
※10:J.ローゼンストック(Joseph Rosenstock)は、アメリカの指揮者(1895~1985)。ポーランド生れ。1936~46年、新交響楽団(今のNHK交響楽団)を指揮・育成。
※11:ワーグナー(Richard Wagner)は、ドイツの作曲家(1813~1883)。旧来の歌劇に対し、音楽・詩歌・演劇などの総合を目指した楽劇を創始、又、バイロイト祝祭劇場を建設。歌劇「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」、楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ニーベルングの指環」「パルジファル」など。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『「第九」の里ドイツ村 -板東俘虜収容所- 改訂版』(林啓介著、(有)井上書房)。
△2:『望郷のシンフォニー(「第九」日本初演事情)』(林啓介著、長征社)。
△3:『「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究 第2号』(「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究会編、鳴門市ドイツ館)。
△4:『斗南藩子弟記』(永岡慶之助著、文春文庫)。
△5:『<第九>と日本人』(鈴木淑弘著、春秋社)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):スペイン風邪が流行▼
資料-最近流行した感染症(Recent infectious disease)
@補完ページ(Complementary):板東のドイツ人俘虜収容所について▼
板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)
「折り合い」やアイドル出現過程について▼
理性と感性の数学的考察(Mathematics of Reason and Sense)
「片手落ちの綺麗事」や「安っぽいヒューマニズム」について▼
片手落ちの綺麗事を払拭せよ!(Sweep away unbalanced virtue !)
アイドル主役のメロドラマを望む大衆に対する私の意見▼
スポーツ解体チン書(Anatomical talking about sports)
『第九』の曲目解説▼
ベートーヴェン「交響曲第9番「合唱付き」」(Symphony No.9, Beethoven)
【ブラボー、クラシック音楽!】を立ち上げた経緯▼
「ブラボー、クラシック音楽!」発足の経緯
ハプスブルク家全盛の頃▼
モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
(Serenade 'Eine Kleine Nachtmusik', Mozart)
「『第九』誕生秘話と日本初演秘話」の活動記録▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')
私が主宰する【ブラボー、クラシック音楽!】▼
ブラボー、クラシック音楽!(Bravo, CLASSIC MUSIC !)