§.ベートーヴェンの合唱幻想曲と第九
[知られざる『第九』物語#1]
(Chorus Fantasy and Symphony No.9, Beethoven)

−− 2004.04.05 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.12.09 改訂

 ■はじめに
 皆さん、ベートーヴェン(※1)の『合唱幻想曲』、正確には『ピアノ、合唱と管弦楽のための合唱幻想曲 ハ短調 作品80』という曲をご存知ですか?、ご存知では無くても題名だけでも聞いた事はお有りですか?
 ベートーヴェン、と言えば特にクラシック音楽に興味が無い人でもその名前を知らない人は居ないでしょう。そういう意味ではビートルズや美空ひばりと同じ様な存在です。そしてベートーヴェンの諸作品の中で最も知られて居るのが所謂『運命』(正式名称は『交響曲第5番 ハ短調 作品67』)と『第九』(『交響曲第9番 ニ短調 作品125』)ではないでしょうか。しかし『運命』の出出しの「ダ・ダ・ダ・ダーン」(※2)と『第九』第4楽章の合唱「歓喜の歌」(※3)以外の楽曲を聴き知っている人と言うと極めて少数に成って仕舞い、それがクラシック音楽ファンと呼ばれる人たちです。この”極端さ”が現代日本文化の”薄っぺらさ”なのですが。
 反対にそのクラシック音楽ファンの間でも、恐らく殆ど知られて無いのが『合唱幻想曲』です。斯く言う私も題名だけしか知らず、数年前にFMラジオで聴いたのが最初で、クラシック音楽番組でも殆ど放送されない”超マイナー”な曲です。
 ところが初めて聴いたら、これが”一風変わった”面白さが有るのです。では何故面白い?...それがこれからお話しする内容で、即ちその背後に『第九』誕生秘話が隠されて居るからです!!
 尚、末尾には「ベートーヴェンの略年譜」を付しました。又、参照ページに『第九』や『合唱幻想曲』の歌詞を纏めて在りますので、随時▼下▼から参照して下さい。
  「資料−合唱幻想曲と第九の歌詞」

 ■『合唱幻想曲』の”一風変わった”面白さ
 『合唱幻想曲』の面白さとは、この曲の合唱のメロディーが如何にも『第九』の「歓喜頌歌」を彷彿とさせ乍ら、しかし『第九』とは異なる気分を醸し出して居る点です。この曲は歌曲の伴奏風なピアノ独奏から始まり、それが勿体振って暫く続いた後やがて管弦楽が出て来るのでピアノ協奏曲かなと思いきや、途中で『第九』の有名な”O Freunde!(おお 友よ)”の如くに5度のホルンが鳴ると「「歓喜頌歌」に似たメロディー」が先ずピアノで次いで管弦楽で変奏曲風に繰り返された後、最後に独唱と合唱で歌い上げられるという”一風変わった”形式で、ベートーヴェンには珍しく和やかなサロン的な雰囲気がする曲です。ベートーヴェンは最終的に管弦楽に声楽を加えて、人間の至高の精神の楽園を歌い上げようとして『第九』に辿り着くのですが、初めて聴いた時この曲はそこに至る実験作だと直感しました。
 そこで少し調べてみると、この曲は何とベートーヴェンの絶頂期の『運命』『田園』(『交響曲第6番 ヘ長調 作品68』)と同じ1808年に作曲され、しかもこの年の12月22日に『運命』『田園』と共に、イグナツ・フォン・ザイフリートの指揮でウィーンのテアター・アン・デア・ヴィーンで初演されましたが、この演奏会は完全に失敗に終わって居ます(△1のp89〜90)。
 皆さんもご存知の様にベートーヴェンは聴覚障害に悩まされて居ましたが、この後段々悪化する耳の疾患と闘い乍ら作曲を続け、1823年の『ミサ・ソレムニス 作品123』(=『荘厳ミサ曲』)で管弦楽と合唱の融合を完成させた自信 −ベートーヴェンは書簡の中で「これ迄に書きました最大作は大ミサ」と語って居ます(△2のp233)− の上に1824年2月に『第九』の作曲を完了します。
 つまり『合唱幻想曲』こそ、皆が知っている『運命(=第五)』と『第九』との架け橋と成る曲なのです。しかし『運命』と同じハ短調で書かれ『田園』と同じ和やかな気分の『合唱幻想曲』から、「歓喜頌歌」を壮絶に歌い上げる『第九』に至る間には、悪化する耳疾や周囲の無理解 −それは自身の”孤高で自我の強い”理想主義(後述)の裏返し− との苦闘の歳月が在りました。

 ■最高の到達点での「歓喜」 − 『合唱幻想曲』から『第九』へ
 (1)「歓喜頌歌」の着想
 ところで殆ど知られて無い事実として、ベートーヴェンがシラーの詩『歓喜に寄す』(※3、※3−1、△3)を曲にすることを思い立ったのは極めて早くボン大学聴講生時代最後の年(=1792年、21歳)です。因みに、彼は1789年5月からボン大学聴講生に成りましたが、その直後に起きたフランス革命(※4)に関する感動的講義を聴いた事は彼の音楽に決定的な影響を及ぼし、フランス革命こそがモーツァルトとベートーヴェンの音楽の質の違いを齎した分水嶺です。フランス革命を予感する様な内容の『歓喜に寄す』をシラーが発表したのは1786年2月(=ベートーヴェン15歳の時)で、この詩は可なりの反響を呼び多くの作曲家がこの詩に曲を付けて居ます。
 [ちょっと一言]方向指示(次) ベートーヴェンはウィーン留学5年前の1787年(16歳)に初めてウィーンに単独行しモーツァルトに面会して居ますが、弟子入りは叶いませんでした。彼が初めてのウィーン行きを急に思い立って決行したことは、帰りの旅費が無くなりアウグスブルクでシャーデン弁護士に3カロリンの無心をし中々返済出来ない事を詫びている手紙から推察出来ます(△2のp15〜16)。又この手紙には彼がボンに帰郷後母が亡くなったことも記されて居ます。ベートーヴェンはモーツァルトから教えを受け、願わくば弟子入りを期待して出掛けましたが、生憎モーツァルトは父の重病や『歌劇「ドン・ジョヴァンニ」』の作曲で多忙で、この2人の天才同士の出会いは噛み合わず正に「一期一会」に終わりました。
 ところでベートーヴェンの作品表を見ると、1791年のモーツァルトの死から程無い1792〜93年に『モーツァルトの「フィガロの結婚」から「もし伯爵様が踊るなら」の主題によるピアノとヴァイオリンのための12の変奏曲 ヘ長調 WoO40』 −WoOとは、ベートーヴェンの「作品番号無しの作品」に対する目録番号− という長い題の変奏曲を作曲し、初恋の女性と目されて居るブロイニング家の長女エレオノーレに献呈して居ます(△1、△2のp19〜23)。この曲がモーツァルトへの鎮魂歌だったのかも知れません。


 ベートーヴェンが1786年に直ぐに『歓喜に寄す』に接したかどうかは不明ですが、92年11月(21歳)にハイドン(※5)に師事する為 −ハイドンに90年と92年にボンで面会済み、モーツァルトは前年に他界− ウィーンに赴く前にボン大学でこの詩の講義を受け、『歓喜に寄す』を歌曲にしょうとスケッチを始めたことが詩を講じた教授から報告されて居ます(△1のp30〜31)。兎に角15〜21歳の何処かでこの詩に大きく心を揺り動かされ共感した若きベートーヴェンは、以後ずっとこの詩の”熱”に魘(うな)され続け苦しみ乍らも、益々想い入れを強くして行くのです。
 27歳の時、即ち『ピアノ・ソナタ「悲愴」』を作曲する前年の1798年に21歳の時のスケッチを更に進めて『歓喜に寄す』の詩の一部に旋律を付けた習作を書き残して居ます。98年と言うと彼の師ハイドンの『オラトリオ「天地創造」』が作曲・初演された年であり、『歓喜に寄す』を交響曲の中に組み入れ「歓喜頌歌」として壮絶な合唱で歌い上げる構想は、もしかしたら『天地創造』に啓示されて着想されたのかも知れない、と私は考えて居ます。何故ならオラトリオ(=聖譚曲)という形式は、音楽的には一般に独唱・合唱・管弦楽で構成され演奏会形式(オペラの様に演劇形式では無く)で演奏されることと、『天地創造』のテキストの内容は旧約聖書の「創世記」とミルトンの『失楽園』(※6)を基にした人間賛歌ですが、熱烈な共和主義の信奉者であったベートーヴェンはイギリスに於いて共和主義運動に参加したミルトンや、ドイツで共和主義的な「疾風怒涛」運動(※3−2)の推進者であるシラーに共鳴して居たからです。事実、1800年4月には自作の『交響曲第1番』と共にハイドンの『天地創造』からのアリアや二重唱を自分の演奏会で演奏して居ます(△1のp55)。
 ヨーロッパの共和主義のバックボーンにはこの頃会員数が大きく拡大したフリーメーソン(※7、※7−1)が存在し、モーツァルトもそのメンバーだったとも言われて居ます。ベートーヴェンがフランツ・ヴェーゲラー博士に宛てた手紙の中で「兄は君達の秘密共済組合会館(フライマウレルロール)で僕の歌曲を唱ったとのことだが...」と書いてます(△2のp109)が、この「秘密共済組合」と呼ばれたフライマウレル(Freimaurer)こそフリーメーソンのドイツ語です。
 しかし、ベートーヴェンの共和主義と言うのは政治的なものでは無く「人間肯定と自由と平等」という理想主義に根ざして居ます。『交響曲第3番 変ホ長調 作品55』をナポレオン・ボナパルトに「人民の英雄」として献呈する積もりで書き上げましたが、後にナポレオン1世として帝位に就くと「あの男も俗人だった」と叫び献呈を中止したというエピソードは有名で、この話が俗に『エロイカ(Eroica)』(日本語では『英雄』とか『英雄交響曲』と呼ばれる基に成って居ます。

 (2)「歓喜」へのステップ
 しかしベートーヴェンは「歓喜頌歌」の最初のスケッチから30年余りもキャンバスに絵の具を塗ることをせずに居ました。それは彼の理想主義から、「歓喜頌歌」は”最高の到達点”で無ければ為らない、と思い込む様に成って行ったからだと思います。その助走の実験的ステップとして作曲したのが『合唱幻想曲』なのです。「歓喜頌歌」を”最高の到達点”にする為に別の実験作が必要だった訳です。では『合唱幻想曲』の「「歓喜頌歌」に似たメロディー」は何時頃作曲されたのか?
 『合唱幻想曲』を作曲したのは前述の様に1808年(37歳)ですが、実はこのメロディーは学生として作曲を勉学中にゴットフリート・アウグスト・ビュルガーの詩に1795年(24歳)に作曲した『歌曲 WoO118「相愛(Gegenliebe)」』のメロディー −厳密には「相愛」は『歌曲 WoO118「愛されぬ者の嘆息と相愛(Seufzer eines Ungeliebten und Gegenliebe)」』の後半部分を指し、奇しくも同年ベートーヴェンはアルト歌手M.ヴィルマンに求婚し断られて居ます− から採られて居るのです。そしてこのメロディーが後に『第九』の「歓喜頌歌」に結実する事に成ります(→『歌曲「相愛」』の歌詞とWoO番号の説明を参照)。
 何故この歌曲のメロディーを採用したかは解りませんが、兎に角1808年にクリストフ・クフナー(※8)と伝えられる詩人に「歓喜」をテーマに詩作を依頼し、『相愛』のメロディーを付け合唱に編曲したと考えられます。そして『合唱幻想曲』を”一風変わった”雰囲気にして居るのが、ピアノのソロで始まりピアノ協奏曲風に奏される前半と、合唱が入る後半との唐突な感じのする取り合わせです。
 ところで私が何故「歓喜」をテーマに詩作を依頼した、と推測したかは『合唱幻想曲』の歌詞の内容からです。この歌詞はシラーの『歓喜に寄す』と同じ様に、「歓喜」「芸術」「愛」という言葉を鏤(ちりば)め、それを高く賛美して居るからです。つまり、それ程シラーの『歓喜に寄す』に対する想い入れ(=感情移入)が強かったと言えます。

 (3)『第九』の誕生
 ベートーヴェンは「歓喜頌歌」に関して色々と実験を積み重ね逡巡して居る間に時が経って仕舞い、一時は”最高の到達点”を『交響曲第10番』に於いて実現させようと考えた様ですが、1822年にロンドンのフィルハーモニック協会から交響曲の作曲依頼が届き、その為の『交響曲第9番』を作曲して居る内に気分が高揚して来て、遂に「歓喜頌歌」を『9番』に組み入れることを決心し、『合唱幻想曲』で実験して来たメロディーを土台にシラーの詩に作曲したのです。その結果、今の形の『第九』が1824年2月に誕生(53歳)し『交響曲第10番』は幻に終わりました。それは実に『合唱幻想曲』から16年、「歓喜」のスケッチから31年、『歌曲「相愛」』から29年、シラーの詩が発表されてから37年後の結実でした。ベートーヴェンが何故「歓喜頌歌」を『交響曲第10番』を待たずに『第9番』に組み入れたのか?、ひょっとしたらそれは自らの「死」を予知したから、或いは「死」の予兆を感じたからとも考えられます。実際、彼はその3年後の56歳で永眠して居ます。
 ベートーヴェンが実際に『第九』に用いたシラーの詩は改訂版テキスト(=1803年以降)ですが、前述の如く彼は少なくとも1792年にはこの詩に接して居ますから、初版の血潮滾(たぎ)る”熱”に触れた筈です(※3−3)。『第九』の終楽章で圧倒的に高揚し”最高の到達点”に達するパワーの源泉は、ベートーヴェンがシラーの『歓喜に寄す』に初めて出会って感動した15〜21歳の「若き心の高揚」に在るのではないか、と私は考えて居ます。
 尚、『第九』は1826年にベートーヴェン自身の言葉で、「シラーの詩『歓喜に寄す』を終末の合唱とする、プロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世陛下(※9)に畏敬の念をもって捧げられた交響曲、作品125」と記されマインツにて刊行されました(△4)。それは死の1年前の事でした。
 以上が私が知り得た『第九』誕生秘話の全容です。

 ■私の唯我独尊的『第九』論 − 理想主義に潜む事大主義
 以上の様な長い道程を経て誕生した『第九』ですが、以下は私の唯我独尊的『第九』論です(※10)。
 ベートーヴェンの”孤高で自我の強い”理想主義(=唯我独尊的理想主義)から生まれた『第九』は、1824年5月7日にウムラウフと作曲者自身の指揮で『序曲「献堂式」』と『ミサ・ソレムニス』の一部と共にウィーンのケルントネルトール劇場に於いて初演され、練習不足の為に不出来でしたが聴衆には熱狂的に迎えられました。この時、既に耳の聞こえないベートーヴェンは聴衆の拍手喝采の音に気付かず、見兼ねたアルト歌手カロリーネ・ウンガーに促されやっと客席に向き直り熊の様に無骨に頭を下げた、と伝えられて居ます。
 しかし、聴衆の関心は長続きしませんでした。彼の死後忘れられ掛けていた『第九』を積極的に取り上げたのはワーグナー(※11)で、1830年に総譜を写譜しピアノ曲に編曲して研究し、1846年4月5日ドレスデン旧歌劇場にて自らザクセン王立管弦楽団を指揮 −この時有名な論文『第九交響曲への綱領』を発表し、ドレスデン新聞にも『第九』の紹介記事を掲載− し、この曲の真価を決定付けました(※12、△5のp94)。ワーグナーは熱烈なベートーヴェン、取り分け『第九』崇拝者で、ベートーヴェンや『第九』についての論文や随想を他にも幾つか残して居ます。これはベートーヴェンの”唯我独尊”ワーグナーの”唯我独尊”が互いに引き合った結果と言えるでしょう。
 この様に『第九』の「歓喜頌歌」はベートーヴェンがシラーに共感した”孤高で自我の強い”理想主義の結晶なのですが、ともするとそこに鏤(ちりば)められたシラーの美辞麗句が「普遍的な理想主義」の大義名分の蜃気楼の役を果たし、『第九』が”鼻持ち為らない事大主義”(※13)に持ち上げられる傾向が有るのも否定出来ません。実際『第九』はヒトラー以降しばしば政治的なプロパガンダ −それは人心掌握の為の壮麗な儀式− に利用されて来ました。しかし、その一方で『第九』は弱い立場の人々に「勇気と希望」を与えて来たのも事実です。これを私は『第九』の両義性 −「勇気と希望」を与えると共に「負の一面」を併せ持つ存在− と呼びますが、『第九』の場合は演奏者も聴衆も事大主義的先入観を排して「純粋に音楽的に接する」という心構えが大切です。尚、『第九』の両義性については『第九』の曲目解説
  ベートーヴェン「交響曲第9番「合唱付き」」
の中で更に詳細に論じて居ます。{このリンクは05年12月9日に追加}
 そういう意味に於いて私は『第九』の第3楽章をじっくりと聴いて貰いたいと思いますね。このアダージョの楽章は実に美しく、聴いて居ると天に上る様な澄み切った響きがして、正に「天上の音楽」そのものです。この澄み切った美しさは『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」 変ホ長調 作品73』の第2楽章 −やはりアダージョの楽章− にも言えます。私はベートーヴェンは短気で可なり分裂質的な性格(=天才型の性格)だと考えて居ますが、『第九』の第3楽章や『皇帝』の第2楽章には、”唯我独尊”とは反対の”浪漫的な抒情性”が滲み出て居ます。事実、彼はロマン派の先駆者でした。但し”抒情性”と言っても彼はやはり古典派様式(※1−1)から出発して居ますので、何か凜とした孤高なものと彼独自の頑固な自我(=”孤高で自我の強い”理想主義)が有り、その点に於いて『運命』の終楽章や『第九』の「歓喜頌歌」に見られる唯我独尊的境地と通底して居ます。つまり両者共に「天上志向」で、これがベートーヴェンに於ける「分裂の統合」のキーワードです。

 ■作曲者の息遣いが聞こえる『合唱幻想曲』
 以上の様に考察した後で、再び『合唱幻想曲』を聴いてみると非常に味わい深く鑑賞することが出来ます。この曲には『第九』に見られる様な”唯我独尊”の事大主義も無ければ”浪漫的な抒情性”も有りません。寧ろモーツァルトの『クラリネット五重奏曲 イ長調』の様な純粋な室内楽的アンサンブルとして楽しめます。つまり古典派的な曲(※1−1)なのです。
 そして「「歓喜頌歌」に似たメロディー」の管弦楽や合唱を軽い気持ちで聴いて行くと、途中でフェルマータで音を引き延ばす箇所が在ります。私はこの部分が大変好きで、延音の後再び歌い出す所がオシャレな感じです。又「歓喜頌歌」でトゥッティで総奏するのと似た和音も出て来ます。
 前述の様にベートーヴェンは若い頃から『歓喜に寄す』に曲を付けることを構想して居て、この『合唱幻想曲』で器楽と声楽との融合を実験して居たことは確かです。それ故に『合唱幻想曲』からは絵画の下描きとしてのデッサンの様に、作曲者の息遣いが伝わって来る様な気がします。

 ■結び − 謙虚に大胆に聴く
 「結び」として、先ず芸術作品を鑑賞する場合の私の方法論を述べて置きましょう。
 一般に創作者(=芸術家など)が創作する作品自体は一つ一つ独立した存在ではありますが、それは生身の創作者の”或る時点での纏め作業”の成果であり、一人の創作者から生み出された個々の作品同士は互いに何らかの有機的関連を持っているものです。ですから自分なりにテーマを持って、一人の創作者の作品を幾つかじっくりと鑑賞して行くと、一つの作品だけでは解らない事が炙り出されて透けて見えて来るものです。それは文学でも絵画でも音楽でも...、有らゆる分野に於いて共通して言えることです。勿論この時の「理解」は主観的なもので、客観的真理を捉えたものとは言い切れません、奥底の真理はそう簡単には捉えられないでしょう。でも私たち通常の人間は評論家では無いのですから、真理にそれ程拘泥(こだわ)る必要は有りません。或る程度こちらの主観で楽しめれば良いのです。逆に創作者にしても主観で創作して居るのです。私が「ベートーヴェンの”唯我独尊”」という表現を敢えて使ったのもそういう意味からです。
 そもそも芸術作品を鑑賞するという行為は「創作者の主観」と「鑑賞者の主観」とが一定の緊張感を保ち乍ら「交差する」ことなのです。互いに共鳴し合う交差も在れば、拒否する交差も在ります。或いは何の興味や反応すらも覚えない、つまり交差しない(=鑑賞の対象に成らない)場合も有ります。その交点は多分に両者のその時点の主観に依存します。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 私は一個人の認識 −即ち脳が「知覚」した結果の認識− は全て「主観」だと考えて居ます。「客観」については、或る共同体の個々人の「主観」の平均値が「その共同体に於けるその時点での客観」である、と考えて居ます。つまり観念論的な絶対的客観を否定する立場で、私の考えは「相対的・限定的な客観論」と言い得るでしょう。

 私たち鑑賞者は創作者の全作品を創作者と同じレベルで理解することは不可能です、作品への感情移入に費やす時間と思い込みの深さが違います。そういう意味で鑑賞者は常に謙虚で在らねば為りません。しかし一方、作品は創作者の手を離れ公表された時点で独立して独り歩きを始めます。そういう意味で鑑賞者は時として大胆に作品に踏み込めるのです。
 ということで『合唱幻想曲』と『第九』、更には『第九』とハイドンの『天地創造』を聴き比べ、これを謙虚さ大胆さを以て咀嚼(そしゃく)すると興味深い味わいを甘受することが出来る、ということを提示しました。『合唱幻想曲』はそれ自体で”一風変わった”魅力を具えている作品です、皆さんも是非一度聴いてみて下さい。
 最後にベートーヴェンの生涯については末尾の「略年譜」を参照して下さい。音楽以外にベートーヴェンに特に影響を及ぼしたフランス革命やナポレオンの事跡や、当時の世界を大きく揺るがして居た動向も付加して在ります。これを見ればベートーヴェンが生きた時代は近代が幕開けする世界史の激動の時代であったことがお解り戴けると思います。

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 ベートーヴェンの略年譜(Career of Ludwig van Beethoven):1770〜1827

1770年:12月16日(←17日説も在る)ドイツのボンに生まれ17日に受洗。
    (ハイドン38歳、モーツァルト14歳)
     イギリス産業革命開始。
1775年:( 4歳)アメリカ独立戦争開始。
1778年:( 7歳)3月26日最初のピアノ独奏会をケルンで開催。
     パヴァリア継承戦争開始。
1781年:(10歳)小学校を退学しネーフェに入門、和声と作曲の勉強を始める。
     83年には最初の『ピアノ・ソナタ 作品161』を作曲。
1784年:(13歳)ネーフェのボン宮廷管弦楽団の次席オルガニストに就任。
1785年:(14歳)ブロイニング家のピアノ教師と成る。
1786年:(15歳)2月、シラーが詩『歓喜に寄す』を発表。
1787年:(16歳)4月、ウィーンのモーツァルトを訪ねる(一期一会)。
1789年:(18歳)ボン大学聴講生に成る。
     アメリカ初代大統領にワシントンが就任。
     7月14日フランス革命勃発、ボン大学で革命の感動的講義を聴く。
1790年:(19歳)12月、ボンでハイドンに初会見。
1791年:(20歳)12月5日、モーツァルト死去
1792年:(21歳)『歓喜に寄す』の歌曲をスケッチ。
     11月10日ウィーンに留学しハイドンに師事
     フランス、王政廃止し共和制に。
1793年:(22歳)フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネット処刑。
1794年:(23歳)『ピアノ三重奏曲 作品1』を作曲。
1795年:(24歳)『歌曲「愛されぬ者の嘆息と相愛」』を作曲。
     アルト歌手M.ヴィルマンに求婚し断られる。
1796年:(25歳)ナポレオン登場(イタリア遠征軍司令官)
1797年:(26歳)1月31日、シューベルト誕生
1798年:(27歳)ハイドン『オラトリオ「天地創造」』を作曲・初演。
     『歓喜に寄す』の歌曲を習作。
1799年:(28歳)『ピアノ・ソナタ「悲愴」』を作曲。
     11月「ブリュメール18日のクーデター」(ナポレオン第一統領)。
1800年:(29歳)『交響曲第1番』を作曲。
1801年:(30歳)『ピアノ・ソナタ「月光」』を作曲。神聖ローマ帝国崩壊。
1802年:(31歳)耳疾の不治を悟る。夏ハイリゲンシュタットに転地。
     10月6日、失意の裡に「ハイリゲンシュタットの遺書」を書く。
1804年:(33歳)『ピアノ・ソナタ「ヴァルトシュタイン」』、
     『交響曲第3番「英雄」』をナポレオンに献呈する積もりで作曲。
     5月18日ナポレオン皇帝即位の為、彼への献呈を取り消す。
1805年:(34歳)歌劇『フィデリオ』(初題は「レオノーレ」)の第1作、
     『ピアノ・ソナタ「熱情」』を作曲。
1806年:(35歳)ブルンスヴィック家のテレーゼと婚約。
     『弦楽四重奏曲「ラズモフスキー」』
     『ヴァイオリン協奏曲 作品61』を作曲。
     ナポレオンのライン同盟で神聖ローマ帝国滅亡、大陸封鎖令
1808年:(37歳)『交響曲第5番「運命」』『交響曲第6番「田園」』
     『合唱幻想曲』を作曲。
1809年:(38歳)5月31日、ハイドン死去
         『ピアノ協奏曲第5番「皇帝」』を作曲。
1810年:(39歳)テレーゼとの婚約解消。『ピアノ・ソナタ「告別」』を作曲。
1811年:(40歳)『ピアノ三重奏曲「大公」』を作曲。
1812年:(41歳)『交響曲第7番』『交響曲第8番』を作曲。
1813年:(42歳)ライプツィヒで5月22日ワーグナー誕生
                10月、ナポレオン軍に勝利。
1814年:(43歳)4月ナポレオン退位、エルバ島に配流。
1818年:(47歳)『ピアノ・ソナタ「ハンマークラヴィーア」』を作曲。
1821年:(50歳)セントヘレナ島でナポレオン死去
1823年:(52歳)『ミサ・ソレムニス』を作曲。
1824年:(53歳)2月に『交響曲第9番「合唱付き」』を作曲、5月7日に初演
1826年:(55歳)生涯最後の作『弦楽四重奏曲 作品135』を作曲。
1827年:(56歳)3月18日、シューベルトが病床を見舞う(一期一会)。
         3月26日雷雨の中で死去
         3月28日頭骨を切り解剖し、
          彫刻家ダンハウザーが死面(デスマスク)を採る。

    {この略年譜は【参考文献】△1、△2の年表を基に作成し、04年4月8日に追加}

−−− 完 −−−

【脚注】
※1:ベートーヴェン(Ludwig van Beethoven)は、ドイツの作曲家(1770.12.16〜1827.3.26)。ボンに生まれ主にウィーンで活動。古典派三巨匠の一人(他はハイドンとモーツァルト)で、ロマン派音楽の先駆。九曲の交響曲や歌劇「フィデリオ」の他、「荘厳ミサ曲」、ソナタ・弦楽四重奏曲・協奏曲など不朽の傑作を多く遺した。作風は、ハイドン/モーツァルトの影響下に在る第1期から、自己の様式を確立した第2期を経て、晩年の聴力を失い乍らも深い境地に到達した第3期へ発展。
※1−1:古典派音楽(こてんはおんがく、classic music)とは、バロック時代に続く、1720年頃から19世紀初頭の簡潔で自然な様式の音楽。一般に、1780年頃以降のウィーン古典派を指す。それ以前の前古典派には北ドイツ楽派/初期ウィーン楽派/マンハイム楽派等を含む。ウィーン古典派は円熟期のハイドンモーツァルト、中期迄のベートーヴェンに当たり、今日の音楽教育の基礎と成っている。古典音楽。→ソナタ形式。

※2:この「ダ・ダ・ダ・ダーン」という動機をベートーヴェン自ら「運命はこの様に戸を叩く」と表現したと伝えられ、これが「運命」という俗称の由来に成って居ます。

※3:「歓喜の歌」又は「喜びの歌」と呼ばれる合唱部分は、シラーの詩「歓喜に寄す」に基づく頌歌(しょうか)、即ち祝(ほ)ぎ歌で、「第九」では「歓喜への頌歌」或いは「歓喜頌歌」と言います。
 シラーはこの詩を1986年2月に、彼が編集・発行する雑誌「ターリア」第2号に発表しました。
※3−1:F.シラ−(Friedrich von Schiller)は、ドイツの作家(1759.11.10〜1805.5.9)。疾風怒涛期の戯曲「群盗」「たくらみと恋」などから出発し、後に古典主義に転じ、「ドン・カルロス」「ワレンシュタイン」「オルレアンの少女」「ヴィルヘルム・テル」などの歴史劇を書く。他に歴史書「オランダ独立史」「三十年戦争史」、論文「人間の美的教育に関する書簡」「素朴文学と情感文学」、詩「歓喜に寄す」など。
※3−2:疾風怒涛(しっぷうどとう)は、シュトゥルム・ウント・ドラング(Sturm und Drang[独])の訳語で、 18世紀後半ドイツに起こった文学革新運動。啓蒙主義の悟性偏重的側面に反対し、社会の旧習を主観的/感情的に激しく批判した。ドイツの劇作家クリンガー戯曲の題名に由来。この時期にゲーテの「若きウェルテルの悩み」シラーの「群盗」などが書かれた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3−3:シラーは晩年の1803年に「歓喜に寄す」の第9節を削除しトーンダウンしますが、フランス革命(1789〜99年)直前の高揚した気分を歌い込んだ
  「百万の人々よ抱き合え!、この口づけを全世界に!」
という「疾風怒涛」のフレーズは維持されて居ます。

※4:フランス革命(―かくめい、the French Revolution)は、1789〜99年フランスに起ったブルジョア革命。ブルボン王朝の積年の失政、啓蒙思想の影響、第三身分(平民)の台頭などを要因として発生、封建的な旧制度と絶対王政を倒し、人権宣言を公布、ルイ16世は処刑され、共和制が成立。又、周囲の諸国との間に革命戦争を起す中で革命が激化し、ジャコバン派独裁下に恐怖政治を現出、94年その終結後ナポレオンが出現、99年のクーデターを経て第1帝政が成立し終焉。大革命(la Revolution)。

※5:ハイドン(Franz Joseph Haydn)は、オーストリアの作曲家(1732〜1809)。ハンガリーのエステルハージ侯爵の宮廷楽長。ウィーン古典派三巨匠の一人(他はモーツァルトとベートーヴェン)。ソナタ・弦楽四重奏曲・交響曲の形式を大成して古典派様式を確立し、モーツァルトやベートーヴェンに影響を与えた。作は百曲余りの交響曲、弦楽四重奏曲、オラトリオ「天地創造」「四季」など。「交響曲の父」「弦楽四重奏曲の父」と呼ばれる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※6:ミルトン(John Milton)は、イギリスの詩人(1608〜1674)。清教徒革命に参加、自由と民主制の為に戦い、クロムウェルの共和政府にも関与。失明し、王政復古後は詩作に没頭。叙事詩「失楽園」「復楽園」、悲劇「闘士サムソン」、言論の自由を論じた「アレオパジティカ」など。
 『失楽園(Paradise Lost)』はミルトンの叙事詩。12巻1万行余り。1667年刊。アダムとイヴの楽園追放の説話を聖書に取材し、清教徒的世界観を展開し乍ら神とサタンとの闘争を描く。楽園喪失。「復楽園」はその続編。

※7:フリーメーソン(Freemason)/フリーメーソンリー(Freemasonry)は、直訳すると「自由な石工」。アメリカ/ヨーロッパを中心にして世界中に組織を持つ慈善・親睦団体。起源には諸説有るが、18世紀初頭ロンドンから広まる。貴族・上層市民・知識人・芸術家などが主な会員で、理神論に基づく参入儀礼や徒弟・職人・親方の三階級組織がその特色。普遍的な人類共同体の完成を目指す。モーツァルトの歌劇「魔笛」などで知られる。フリーメイソン。
 補足すると、「広辞苑」では「慈善・親睦団体」と成って居ますが「現代用語の基礎知識(1999年版)」に在る様に、表向きの単なる「慈善・親睦団体」では無くやはり世界的秘密結社と言えます。起源はローマ時代(一説にはイスラエルの王ソロモンの神殿を築いた)の「石工組合」に在るとされて居ます。18世紀にはやはり秘密結社の薔薇十字団の会員が多数参加し、フランス革命アメリカ建国の原動力に成って居ます。
※7−1:理神論(りしんろん、deism)とは、世界の根源として神の存在を認めはするが、これを人格的な主宰者とは考えず、従って奇跡や啓示の存在を否定する説。啓示宗教に対する理性宗教。17〜18世紀のヨーロッパに現れ、代表者はイギリスのトーランド/ヴォルテール/レッシングら。自然神論。自然神教。←→有神論、汎神論。

※8:クフナーはベートーヴェンの音楽に合わせて急いで詩を書いた、という話が伝わって居ますが、1845年刊の『クフナー全集』には載って無く、巻末の自伝にも言及されて無いので、現在ではクフナー説を疑問視する人も可なり居ます。

※9:フリードリヒ・ヴィルヘルム3世(Friedrich Wilhelm III)は、プロイセンの国王(1770〜1840、在位1797〜1840)。ナポレオン戦争で敗れ屈辱的なティルジットの和約を結んだ。ウィーン会議後はメッテルニヒの影響下に在った。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>

※10:唯我独尊(ゆいがどくそん、self-righteousness, self-conceit)とは、[1].天上天下唯我独尊の略で、釈尊が生れた時、一手は天を指し、一手は地を指し、7歩進んで、四方を顧みて言ったという語で、宇宙間に自分より尊いものは無いという意。
 [2].転じて、世の中で自分一人だけが優れて居るとすること。独り善がり
※10−1:唯我論(ゆいがろん、solipsism)とは、実在するのは我が自我とその所産のみであって、他我その他全ては我が自我の観念又は現象に過ぎないとする主観的認識論でバークリー、フィヒテ、シュティルナーらの立場。ウィトゲンシュタインもこれに属すると見ることが出来る。独我論。独在論。

※11:ワーグナー(Richard Wagner)は、ドイツの作曲家(1813〜1883)。旧来の歌劇に対し、音楽・詩歌・演劇などの総合を目指した楽劇を創始、又、バイロイト祝祭劇場を建設。歌劇「さまよえるオランダ人」「タンホイザー」「ローエングリン」、楽劇「トリスタンとイゾルデ」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「ニーベルングの指環」「パルジファル」など。

※12:この1846年4月5日の『第九』再発掘の日を記念して、ドレスデンでは毎年4月5日に『第九』が演奏されます。
 又『第九交響曲への綱領』は今日でも『第九』の評論として第一級の内容を保って居ます。

※13:事大主義(じだいしゅぎ、toadyism, flunkyism)とは、(事(じ)は「仕え従う」の意)自己の思想に固執せず、権力や時の主流的な思想・行動に付き従って自分の存立を維持する社会的姿勢。「長いものには巻かれろ」の姿勢。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『ベートーヴェン』(大築邦雄著、音楽之友社)。

△2:『ベートーヴェン書簡集』(エーメリヒ・カストナー編、小松雄一郎訳、岩波文庫)。特に巻末の「ベートーヴェン重要作品年表と索引」は出色で、詳細な註と共に貴重な資料です。

△3:『シラー』(内藤克彦著、清水書院)。

△4:『立体クラシック音楽』(吉崎道夫著、朝日出版社)。

△5:『ヴァーグナー』(高木卓著、音楽之友社)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):『合唱幻想曲』と
『第九』の歌詞やWoO番号▼
資料−合唱幻想曲と第九の歌詞(Lyrics of Chorus Fantasy and Symphony No.9)
モーツァルトとの「一期一会」の出会い▼
モーツァルト「アイネ・クライネ・ナハトムジーク」
(Serenade 'Eine Kleine Nachtmusik', Mozart)

ベートーヴェンとナポレオンやフリーメーソン▼
ナポレオン戦争に関わる音楽(Music related to the Napoleonic Wars)
『第九』の曲目解説(『第九』の両義性について詳説)▼
ベートーヴェン「交響曲第9番「合唱付き」」(Symphony No.9, Beethoven)
「主観と客観」についての私の考え▼
客観主義のエルニーニョ的転回(ElNino-like change of objectivism)


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