-- 2004.02.29 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.07.07 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★ |
★このページは<#1>麗江編の続きです。ここでは中甸県をご紹介します。
[ちょっと一言] 中甸県(現:香格里拉県)は私たちが訪れた直後の2002年1月に香格里拉(シャングリラ)県 -香格里拉はシャングリラ(Shangri-La)に漢字を当てたもの- と名称変更されました。しかし乍ら私たちが中甸を旅したのは飽く迄も旧名称の時である為に、この旅行記は旧名称「中甸」で記します事を予めお断りして置きます。
「雲南桃源倶楽部」の小池さん・松岡さん・井本さんと私は、2001年10月17日朝に雲南省麗江県の大研鎮を発ち、北西隣の中甸県に向かいました。同行のメンバーは麗江と同じ、それに通訳の馮琨さん、運転手の和建科さんです。中甸の旅程は以下の通りです。
10/17(水) 麗江 → 虎跳峡 → 小中甸
→ 中甸 マイクロバス 碧塔大酒店
夕食後、チベット民族風情館 マイクロバス
18(木) 碧塔海を観光、松賛林寺 マイクロバス 同上
19(金) 街中散歩、下給温泉 タクシー 同上
20(土) 中甸 → 昆明(2手に別れる)飛行機
昆明 → 成都 列車 成昆鉄道の車中
それでは香格里拉(シャングリラ)(※1)と形容される中甸の旅をお楽しみ下さい。実は私たちが旅した直後の2002年1月から中甸県は香格里拉県に名称変更された(→後で詳述)のですが、私たちが旅してた時は中甸県でしたので旧名の儘書き進めます。地図は▼下▼です。
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
(1)虎跳峡鎮で昼食
私たちは虎跳峡を見学後、マイクロバスで移動し中甸県の虎跳峡鎮という小さな街の川べりの食堂で昼食を摂りました(左下の写真)。そうです、もう中甸県に入ったのです。
魚や鶏料理の食事の後、食堂の周りを少し散歩しました。左が食堂の台所裏に積み重ねて在った練炭です。
ところで皆さん右の写真、何だか解りますか?、これは食堂の近くをウロウロして居た時に川の上の橋から写したものですが、実は肉を取った後のヤクの頭蓋骨(※2)を川の水で晒して居るのです。何故そんな事をするか?、それは後のお・楽・し・み!!
ここから先はチベット族が住む地域です、腹拵えをしたら出発進行!!
++++ チベット族について ++++
チベット族(Tibetan)は、チベット高原の中国西蔵(チベット)自治区(※2-1)を中心に青海省、甘粛省南部、四川省西部、雲南省西北部、ブータン、シッキム、ネパール北部、インド西北部、パキスタン東北部に居住。人口は430万以上。シナ・チベット語族派のチベット・ビルマ語派チベット語分枝に属し、形質的にはモンゴロイドとされ短頭型と長頭型とが在る。短頭型の方が本来的と考えられ、長頭型には碧眼の人々が多く見られ内陸アジア西方民族との混血と考えられます(△1のp473~474)。
歴史的には古くから馬を飼育する遊牧民として司馬遷の『史記』に登場し、それに拠ると古代国家・周(※3)を建国した人々はチベット系或いはチベット族との混血民族なのです。周の初代文王の呼称の西伯とは「西方の諸侯の頭」という意味(△2のp56)で西方の遊牧民を表し、文王の子・武王(※3-1)は「左手に黄金で飾った鉞(まさかり)を杖つき、右手に犛牛(ぼうぎゅう)の白毛をつけた旗をもち」て商郊牧野の誓い -商は殷の首都、即ち敵の首都郊外の牧草地で誓い- を立てます(△2のp67)が、犛牛とはヤク(※2)のことでヤクこそチベット人が開発した家畜なのです(△3のp140~141)。尚、この箇所は『史記』の中でも取り分け感動的且つ重要な部分なので下の「ちょっと一言」に全文を掲載して置きます。
周の始祖の后稷(※3-2)の母は姜原(きょうげん)という姓名ですが、別の本には「姜原の「姜」は「羌」に同じで、東北チベットの遊牧民、いわゆる「西戎」の名前である。始祖の棄が后稷、すなわち穀物の神であるとしているのは、のちに周人が農耕化してからの変化であって、后稷の子孫の系譜に「高圉(こうぎょ)」「亜圉」など牧畜の神の名があるのは、本来の周人が農耕民でなかったことを示すものである。」と書いてます(△2-1のp33)。因みに「圉(ぎょ)」とは「(家畜などを)飼う。馬飼い。」と出て来ます。
古代は奴隷制で1950年代迄農奴制が続いた地域も在ります。古くは西方から移入したボン教を信奉して居た様ですが、7世紀初めソンツェン・ガンポ(※4)が建国した吐蕃王国時代(※4-1)に仏教が導入されチベット文字が考案されました。チベット族は非常に自立心の強い民族で、15世紀にダライ・ラマ(=大海の師)(※5、※5-1)に象徴される活仏制度(※5-2)に依拠したラマ教(=チベット仏教)(※2-2)を確立し、葬制は今でも鳥葬や水葬を行っていて、ヤクという羊と牛の掛け合わせの様な家畜を飼うなど、独特の文化を堅持して居ます。
尚、ダライ・ラマはソナム・ギャッツォが16世紀にモンゴルのアルタイ汗から得た称号で、ダライはモンゴル語で「大海」、ラマはチベット語で「師」の意味(※5)で、現在のモンゴル族の大多数はラマ教徒です。ダライ・ラマは現在14世でインドに亡命中。
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▼下の「ちょっと一言」▼が武王の「商郊牧野の誓い」の全文です。興味無い方はスキップして下さい。
[ちょっと一言] 『史記』周本紀には「正月甲子の日、早朝、武王(※3-1)は商郊牧野にいって誓いを立てた。この日武王は、左手に黄金で飾った鉞(まさかり)を杖つき、右手に犛牛(ぼうぎゅう)の白毛をつけた旗をもち、将士をさしまねいて、「遠く西土の将士ら、ご苦労であった」とねぎらい、「ああ、わが有国の大君はじめ、司徒・司馬・司空・次卿・衆大夫・師氏・千夫の長・百夫の長、および庸・蜀・羌・髳・微・纑・彭・濮の八国蛮夷の人々よ、なんじらの干(たて)をならべ矛を立てよ。わしはいま誓いを立てよう」と言い、誓言を告げた。「古人は言えり。牝鶏は晨(あした)を告げず(※3-3)。晨を告げるは家の滅びるしるしと。いま殷王紂は、ただ婦言を聴いて祖先の祭祀を報ぜず、暗愚にして家国を棄て、王父母弟をすてて用いず、四方の罪多く逃亡せる者を崇んで長とし、信じて用い、百姓を暴虐し高国(=殷国)を残害す。ゆえに今われ発(はつ)は、ここに敬んで天の罰をおこなう。今日のこと、ただ六歩七歩にしてとどまり、止まって軍を整えよ。つとめよ、将士ら。敵を撃ち刺すも四度五度、多くも六度七度にとどめ、止まって軍を整えよ。つとめよや将士ら。こいねがわくは威武桓々(いぶかんかん)、虎のごとく羆のごとく豺のごとく離(ち)のごとく、商郊の牧野に武勇をあらわせ。逃れる敵はみだりに殺さず、これを西土の役とせよ。つとめよや将士ら。なんじらもしつとめずば、なんじらの身戮(りく)せられん」と。」と在り(△2のp67~68)、これから殷と周の世紀の決戦が始まりますが殷軍は戦意を失い「正月甲子の日」(=前1023年)に呆気無く決着が付いて仕舞います。
ここで私が重要視するのは、周の武王が殷との決戦を前に八国蛮夷の部族を名指しして「商郊牧野の誓い」で檄(げき)を飛ばしているという事です。『史記』の注を記すと、庸(揚子江・漢水の南部)・蜀(四川)・羌(西蜀)・髳(巴蜀)・微(巴蜀)・纑(西北地方)・彭(西北地方)・濮(揚子江・漢水の南部)です。しかも武王は「左手に黄金で飾った鉞(まさかり)を杖つき、右手に犛牛(ぼうぎゅう)の白毛をつけた旗をもち」と自らチベット族の様な格好をして居るのです。特に羌は本文で出て来ましたが、古くから歴史に登場し今でも羌(チャン)族として残っているチベット系遊牧民族です。つまり周を建国した人々と西方の遊牧民族との関係は非常に濃密で、本文で述べた通り周の建国はチベット系或いはチベット族との混血民族であると結論付けられるのです。
一方、殷本紀を見ると「牝鶏は晨(あした)を告げず」と揶揄されているのは殷の紂王の寵妃の妲己(だっき)です。妲己は淫乱で国政にも口を出し殷が滅びる原因と成りました。紂王は「甲子の日に紂の兵が敗れ、紂は逃げて鹿台に登り、宝玉で飾った着物を着て火に飛びこんで死んだ。周の武王は紂の頭を斬って白旗の上にかけ、妲己を殺し、箕子(きし)を牢屋から出し、此干の墓を封じ、商容の住む黒門に表彰した。」と在ります(△2のp58)。紂王は最後迄華美な宝石とか着物への執着を捨て切れなかった様です。箕子はこの様に『史記』に書かれ、朝鮮に渡り箕子朝鮮(※3-4)を建国したと伝えられて居ますが、特に朝鮮の歴史学会は箕子朝鮮に否定的です。理由は中国の漢族の事大主義と見做されている為です。箕子に関しては▼下▼でも書いて居ます。{このリンクは2014年9月14日に追加}
謎の三柱鳥居(The mysterious Trinity torii)
尚、古代の殷(紂王と妲己)と周(武王)との戦いは大変面白い箇所で興味有りの方は『封神演義』(△2-2)という小説がお薦めです。この小説は『三国志演義』『水滸伝』と同じく明代に成立して居ます。明という時代は中国人のパワーが思い切り前に出た面白い時代ですね。その後、清代の阿片戦争で中国は沈んで行く訳ですが。
この中の「八国蛮夷」の蜀(四川)・髳(巴蜀)・微(巴蜀)は三星堆文明を担った部族です。特にここに在る様に古蜀は殷の滅亡に力を貸しましたが、三星堆の青銅鋳造技術は殷の青銅技術の学習、或いは殷の青銅技術者の古蜀への拉致が考えられて居ますので、この部分は三星堆から見ても重要です。因みに三星堆や成都の西がチベット高原です。三星堆遺跡については▼下のページ▼を参照して下さい。{このリンクは2014年9月14日に追加}
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
(2)小中甸の紅葉
虎跳峡鎮からマイクロバスで小中甸河に沿う様に国道214号を北上すること約2時間で小中甸に着きました。途中金星には軍の駐屯地らしき所も見えました。小中甸はチベット族の放牧地の中の、通り過ぎて仕舞いそうな小さな村です。しかし紅葉のタイミングにドンピシャと合わせるなんて難しいのです、この幸運に感謝です!!
先ずは下の小中甸の紅葉をご覧戴きましょう。
上の写真の遠くに見える民家がチベット族の集落で、この様な小さな集落がポツンポツンと点在して居るのが特徴の様です。遊牧民族は元々はテントで家畜と共に移動する生活なので、農耕民族の様な大集落は作らないのでしょう。後でチベット族の人に聞いた話ですが、ここ中甸県のチベット族は家を構えて居ますが、夏用の”家と牧草地”と冬用の”家と牧草地”の2つを持ち、夏季と冬季でその間を移動するそうです。写真の右側で紅葉を撮影して居るのは青い目のガイジンさんで、私たちと同じく紅葉の情報を仕入れて来たのでしょう。
右の2枚の写真をご覧下さい。真っ赤に紅葉して居るのは人の膝位の低い灌木の葉です。名称は不明です。
これは花では無いですが「中国名花集」に載せました。{このリンクは05年3月24日に追加}
左下が牧草地の囲いの中で草を食んで居るヤクで、干し草を吊るして居る独特の形が印象的です。囲いの奥の丘にも点々と紅葉して居る灌木が見えます。
右下の写真は私、まあ記念写真です。
中甸県の観光の中心は6~8月の夏で、日本の高山地域や寒冷地と同じく一斉に花が咲き乱れ美しいそうですが、私たちはこの紅葉を見る為にわざわざこの季節を選んだのです。牧草地では早朝には霜が降りる季節です。実際には写真の方角だけでは無く、周り中360度の紅葉のパノラマは言葉で言い尽くせない感動で、忘れ得ぬ想い出です。
(3)中甸に到着
中甸県は正式には迪慶蔵(チベット)族自治州中甸県 -迪慶蔵族自治州は中甸県・徳欽県・維西リス族自治県の3県- で、中甸県の県庁・中心鎮に州政府が在ります。チベット族の遊牧文化圏で、四方を山に囲まれた盆地に在る中甸市街地の標高が既に3276m、年平均気温12.5℃、人口は約12万です。中甸県の西は2つの県を挟んでミャンマー、北西は1つの県を挟んで西蔵(チベット)自治区、北は四川省に接して居ます。チベット族以外の少数民族はリス族、ナシ族、イ族、ペー族、回族、プミ族などで、少数民族が約75%を占めます。
★尚このページの最初に記した様に、中甸県は私たちが訪れた直後の2002年1月に香格里拉(シャングリラ)県 -香格里拉はシャングリラ(Shangri-La)に漢字を当てたもの- と名称変更されました。それは中甸の自然が、ジェームズ・ヒルトン(※1-1)の小説『失われた地平線(Lost Horizon)』(△4)の中で描かれた架空の理想郷・シャングリラの記述とほぼ一致すること(←ナシ族の民族音楽学者の宣科氏の提唱)、又「迪慶」がチベット語で「吉祥如意の地」即ちシャングリラ(=桃源郷)の意味を持つ(※1~※1-3)こと、などからです。因みにこの小説に拠ればラ(La)とはチベット語で「山間の峠」だそうです(△4のp74)。
しかし私たちが訪れた時は未だ中甸県でしたので、この訪問記では旧来の中甸という名称を使います。
[ちょっと一言] ここでヒルトンの小説中のシャングリラの比定地は中甸では無いと言って置きましょう。ヒルトンはカラコラム峠の北、四川省の打箭(現:康定)の西千百マイル(=1760km)辺りのチベット人の住む地とし、現在のチベット自治区北西部の崑崙山脈の山中にシャングリラを設定して居ます(△4のp301、70、74)。そこではカラカル(「青い月」)(△4のp111)と呼ばれる円錐形の高峰(=ラ(La)) -宣科氏は中甸県の梅里雪山主峰の卡格博峰(6740m)をカラカルと見做したのでは、と私は推測して居ます- が聳(そび)え、山間にラマ寺院が在り渓谷の草原にチベット人が住み、「中庸」の掟を守り乍ら自給自足的で静謐な生活を過ごし「不老」を保つ所として描いて居ます。小説はそこに欧米人が今で言うハイジャックに遭って迷い込む(△4のp9)という一種の漂流譚で、外界に出ると「不老」が瓦解し一挙に歳を取るという「浦島伝説」的要素も合わせ持ち(△4のp290)、現実界に帰った主人公は記憶を喪失します(△4のp18)。陶淵明の『桃花源記』(※1-2、※1-3)も漂流譚・浦島伝説的不老の崩壊・場所の記憶喪失などの共通項で括られ「桃源郷」を記した両作の興味有る類似ですが、多分ヒルトンは『桃花源記』を読んで居たのだと思います。彼はチベット探検記や歴史を詳しく調べて居ます(△4のp130)。
小説の中でヒルトンは大1次世界大戦後の「虚無」と西欧物質文明に対する「懐疑」を主人公に担わせ、世界は再び大戦争(=巨大な混沌)に巻き込まれると「大ラマ」に予言させて居ます(△4のp271)。この小説は主人公が1931年5月20日にインドのバスクールを発ち同年10月5日に四川省中江の伝道病院に着く迄が中心に書かれて居ます(△4のp305)が、この小説を発表した1933年は18世紀以来中国の宗主権下に入っていたチベットが20世紀のイギリスの実力介入に依りイギリス保護下で”ダライ・ラマ自治国”の観を呈して居た時代(※2-1)であり、それをイギリス生まれの作者が描いて居るという点は押さえて置く必要が有ります。つまり作者の「虚無」も「懐疑」も西欧中心史観に他為らず私はそこに限界或いは不満を感じます。私は少し違った解釈をして居ますが、それは後程提示します。その後、チベットが今日の中華人民共和国のチベット自治区に編入されたのは1965年のことです。
ところでヒルトンも「雲南省からやって来る中国人の苦力(クーリー)たちが、担いできた茶の荷物をチベット人に引き渡す場所」(△4のp313)と書いている打箭(現:康定)は茶馬古道のお茶の集配地で、私が香格里拉を2度目に訪れた2004年秋に買った本に詳しく載って居ます(△5のp244~248)。{茶馬古道の記事は05年1月4日に追加}
小中甸からマイクロバスで引き続き国道214号を北上、約1時間で中甸のホテルに着きました、午後4時頃です。この市街地で既に標高3276mの為、ホテルの売店には小型の酸素ボンベが常備されて居ます。
左下の写真の様にホテル・碧塔大酒店の内部はチベット様式の原色の内装が施して在ります(小池さん撮影)。左から井本さん、私(後ろ向き)、松岡さん、そして通訳の馮さんです。
そして直ぐに夕食。この日は後でチベットの民族舞踊を見に行くので、ホテルに着いて直ぐに早めの晩飯です。特に右下の写真のサヤエンドウの炒め物と茶色の陶器に入っているヤクの内臓の煮込み料理(←日本風に言えばモツの煮込み)は香辛料が効いて旨かったですね。他の人が気持ち悪がって余り食べなかったので私が一人で殆ど食って仕舞いましたね、アッハッハ!
(4)チベット族の民族舞踊
夕食の後マイクロバスでチベット民族風情館へ行き、チベット族の民族音楽と民族舞踊を鑑賞しに行きました。外は雨が降り寒かったですね、やはり夜は冷えます。中に入る前にチベット人の案内役から、白紗(※6)と称する細長いマフラー状の薄い布(実際には合成繊維でした)を渡されてこれを首に掛ける様に言われ、更に建物の敷居を跨ぐ時は必ず左足から跨ぐ、などと色々な約束事の説明を受けました。五体投地礼(※7)で毎朝お祈りするチベット族はこういう規律に厳しいのだそうです。(→因みに同じラマ教(=チベット仏教)を信奉するモンゴル族も五体投地で礼拝します。)
風情館の建物は寺院の様に原色のチベット様式の装飾が施して在り観光用に民族舞踊などを催して居ます。左下が建物の入口の写真です、ピンクや白の花はコスモスでした。右下は建物の内部の一室で人物写真や絵画が飾って在りました。
この後、私のデジカメが電池不足の為フラッシュ機能が不調に成りました。乾電池式なのですが、交換用の電池をホテルに置いて来て仕舞い、失敗でした。
案内される儘広間に入ると既に他の客(殆ど漢族観光客)が大勢居て、広間を囲む様に数人ずつグループでテーブルに座って居ます。私たちもテーブル席に着きました。
左上の写真(小池さん撮影)のテーブルの上に並んで居るのがこの地方で獲れる裸麦(※8)を原料にした食べ物(炒り豆状の物、粉状の物、薄焼きパン状の物)や酸味の有るヤクのチーズをチベットの作法で撮み乍ら、高盃に注がれた強いチンゴー酒(裸麦の焼酎)やヤクのバター茶を飲みました。
その内チベット族の衣装を着た男女が広間に登場し、音楽が奏でられ民族舞踊が始まりました(右上の写真、小池さん撮影)。男性が弾いて居るのは胡琴の様な楽器で、楽器にも白紗が掛けて在ります。
(1)碧塔海
この日は碧塔海という、宿泊して居るホテルが名前を冠して居る湖に行きます。朝食をホテルで摂り外に出ると寒い、耳が痛い程です。念の為ホテルで小型酸素ボンベを各自1本ずつ買ってマイクロバスに乗り込みました。今日は地元の女性ガイドが同行します。
湖は市街地の東方に25km程の所に在りますが、廻り込んで行くので途中市街地を一望出来る地点を通過して進みます。郊外に出ると放牧場が現れチベット族の民家やヤクの群れなどが見えます。やがて小川が流れる湿地帯に成ります。右の写真は湿地帯の紫色の茎に青色の葉の草で、高さは10cm位です。この草も「中国名花集」に載って居ます。{このリンクは05年3月24日に追加}
そして山道を暫く登ると碧塔海の駐車場に着きました、ホテルを出て2時間弱です。ここは可なりの観光スポットらしく、既に数多くの車やバスが駐車して居ました。駐車場の近くの展望台には、下の写真の様な大きなラマ仏塔が建っていて、ここは標高4000m近い高地です。背後の切り立った山は雪山(万年雪の山)ではありません。
さて碧塔海はこの仏塔から可なり急な山道を30分位下って行かねば為らないので、井本さんは右の写真の様にロバに乗って下山です(30元位)。前を歩いて居る女性がチベット族の”馬子”です。
このロバは虎跳峡の駕籠屋よりタフですね、下に着くとちょっと休んだだけで帰りの客を乗せ直ぐに上り始めます。
山道を下ると平坦な湿原に出ます。湿原には丸太で組んだ通路を渡して在り、ちょっと日本の尾瀬ヶ原の様な風景です(左下の写真)。この花も「中国名花集」に載って居ます。{このリンクは05年3月24日に追加}
又、余り目立たないのですが、この湿原には小さな青い花が点々と群生して居ました(右上の写真:ほぼ実物大)。この木の通路を10分位歩いて進むと碧塔海に出ます。
碧塔海は東西に細長い湖の真ん中に島が1つ有り、海抜は3569m、広さ160ヘクタール、平均水深20m、透明度10数mです。湖の周りは碧塔海自然保護区で、針葉樹の原始林に覆われて居て高地性の花々が咲きます。特に5月~7月には石楠花(しゃくなげ)の花が咲き乱れ、湖面に落ちたその花弁を飲み込んだ魚が、その微弱毒素に酒に酔った様に水面を漂う様を「石楠魚酔」と言うそうです。
左下が湖畔の「碧塔海湖区介溢」の石碑と私です(小池さん撮影)。写真を分断したのは石碑の文字部分だけコントラストを上げる為です。
右下は湖を背景にした井本さん。背後に遊覧船が見えて居ます。
そして井本さんを残して15人乗り位の、遊覧船と言うには御粗末な乗合い船(30分弱の乗船で20[元/人])で湖を一周しました。左下の写真が船上で、右から小池さん、松岡さん、私。
右下の写真は船で近付いた小島の岸辺で、紅葉して居るのは多分漆です。
船から降りて井本さんと合流し、又少し湖の周りを歩きました。左は有料でチベット族と観光客とが記念撮影する為の、頭部から背筋が白いヤクです。私は無料でヤクだけ撮りました。
これで碧塔海見学は終了。私たちは船着場近くの簡易食堂で軽い昼食後、駐車場迄引き返すのですが、帰りは全員ロバのお世話に為りました。
しかし、帰りのロバは長蛇の列で、乗るのに1時間近く並んで待たされましたが、こういう時の中国人(特に漢族)のマナーは最低、皆どんどん割り込んで来ます。中国は元々「マナーの国」だった筈ですが?!
私たちは通訳の馮さんに「アカン、アカン、ワシらが先に並んどるんや、コラッ!」と大阪布施辺りの凄みを利かせて、中国語で言って貰いました...ホンマかいな?!
(2)温泉源を突き止める
さて事前の調査に拠ると、碧塔海に来た道の途中から脇道に入った所に温泉が在るらしい、ということで私たちは帰りにそこへ寄ってみることにしました。
在りました!、朝来る時牧草地を抜け湿地帯の方に行きましたが、そこを牧草地の奥の集落の方に入って行くと、右の写真の様に丘の中腹に何やら”湯煙らしきもの”が立ち上って居ます。
近付くと間違い無く湯煙で、その下には何かの施設の建物が見えて来ました。施設の入口と湯煙の所に、例のラマ仏塔が見えて居ます。ここは下給温泉という名称です。
しかし、こうして体験してみると白く特徴的形体のラマ仏塔は遠くからの目印に成っていることが解りました。そういう目的が含まれて居るかどうかは知りませんが。
ここは何かの保養所の様な感じです。赤い屋根と白壁の施設の建物は宿泊所で、建物の1階には土産物屋や麻雀卓やゲーム機などが在り、何人かが麻雀をして居ました。
私たちは温泉場を見せて呉れる様に頼むと、左の写真のバンガローに案内されました。この写真は後述の温泉源から撮ったもので、バンガローの向こうにはラマ仏塔が見えて居ます。バンガローの中はタイル張りで、そこに空の木製の浴槽が在り、鉄管の湯と水の蛇口を捻って温度調節する仕掛けで、清潔な感じです。ここでは利用者は全て少人数でバンガローの個室を借り、その中で温泉に入るシステムの様です。
硫黄系の所謂”温泉の匂い”がするので、私はバンガローの裏に廻ると岩が在って、温泉がちょろちょろ流れて居ます。私は匂いのする方に岩を登って行くと、在・り・ま・し・た、温泉が湧き出して居る「温泉源」です。
左の写真の白く見える富士山型の岩に直径20cm位の穴が在り、そこから温泉が泡立ち乍ら湯気を立てて湧き出して居ます。私は注意深く指を入れてみると、50~60℃位でしょうか、アチッと言う程では無く、ぬるくも無く、好い温度ですゾ!!
通訳に訊いたら、この後ラマ寺院を見学する予定に成っている、ということで今日は下見だけ、温泉入浴は明日のお楽しみです。
(3)松賛林寺(帰化寺)
一旦ホテルに戻り、疲れたので休むと言う井本さんと小池さんが降り、松岡さんと私は引き続きガイドと通訳の案内で、雲南省最大のラマ教寺院・松賛林寺(別名を帰化寺、小ポタラ)に向かいました(下の写真)。
この寺は清朝の1679年、ダライ・ラマ5世に依り創建された寺で、現在でも700名余りの僧侶や修行僧たちが起居を共に生活して居ますす。ダライ・ラマ5世は日本で言えば親鸞の様な存在で、当時抱えていた”内憂”の教団内対立で優位に立ち、”外患”のモンゴルとは融和政策を採り、信者の範囲を拡大したチベット仏教の「中興の祖」です。
小高い小山の頂上に寺院が在り、中腹には僧侶たちの住居用の建物が寺院を取り囲む様に建っていて、この小山全体が”砦”構造に成って居ます。車は小山の麓の駐車場迄で、上の写真は山門を入った所で山上の”砦”を仰ぎ見て撮ったものです。奥に石の階段が見えて居ますが、ガイドは階段を上がる時も必ず左足から上がる様にと言いました、それがチベット式の作法だそうです。
上の2枚が階段を上り切った頂上の寺院の建物です。この後私たちは右上の写真の建物に入り内部を見学しましたが、屋内は撮影禁止です。中には僧侶たちが居て、修行や日常生活について色々と説明をして呉れました。
寺院内部を見学して再び山門の所に戻って来ました。山門の内部の壁や天井には素晴らしい極彩色の仏画が描かれて居ましたので、それを撮りました。右の壁画では琵琶の様な楽器を演奏して居ます。
左下の壁画には白い象が描かれて居ます。
右下は天井画と周囲の壁面の絵です。天井には8弁の花の様な図案が、周囲にはこの世に居ない架空の動物も描かれて居ます。
最後に右が松賛林寺山門で、この山門が出入口です。こういう細密な装飾はナシ族の寺院でも見られましたが、チベット文化の特色の様です。柱の奥に赤字に金文字で「松賛林寺」と書かれた扁額が掛かって居ます。
山門の屋根の上に船の舵取り機の様な円形の両側にヤギの様な動物(実は小鹿で金色臥鹿と呼ぶ)が居るのが印象的でした。
それにしても、ラマ寺内部の色彩感覚はスゴイ!、普通じゃ無いですね、 -サイケデリック(※9)- つまり幻覚剤に因る幻覚状態を私などは嗅ぎ取って仕舞いますが皆さんはどうでしょうか?、ムッフッフ!
(4)納帕海
帰りに納帕海に寄りました。ここは広い湿原にチベット族の遊牧生活を観光客に見学させて居る所で、馬やヤクを放牧して居て色々な土産物を売ったり、観光客を馬やロバに乗せ草原を一周したりして居ます。この季節(=乾季)では湿原は殆ど干上がっていて、所々に僅かな水溜まりが在るだけです。
私たちは先程ロバに乗ったので、少し歩いただけで、雪の無い切り立った石卡雪山を背景に写真を撮って帰りました(右の写真)。
(5)龍潭
左が帰りのマイクロバスの中から撮った龍潭(△6のp162)で、ご覧の様に三日月形をして居ます。湿原の僅かな低地に水が溜まった様に見えますが、これが地図に載ってるという事は水が涸れないのです。何処かに水源が在るのでしょう。
因みに、中国では龍潭という池は彼方此方に在ります。麗江にも在りました。
こうしてホテルに帰りました。麗江からここ迄同行した運転手の和建科さんは、この後マイクロバスを運転して麗江に帰りました。
(6)ヤクの生頭蓋
晩飯前にホテル前のメインストリート・長征路を南に向かって散歩しました。ジャガイモの焼芋を買って食べ乍ら市場や街中の売店をウロウロしました。
下の写真をご覧下さい。これはたった今肉を削いだばかりの血の滴るヤクの生(なま)頭蓋で、鼻先から血が滴って居ます、スゴイ迫力ですね。因みにここはヤク肉の焼肉屋で、この様に店の軒先に、表通りに向かって堂々と晒して居ました。
私はこれを見て食欲がモリモリと湧いて来ましたよ、アッハッハ!!、この滴る血に誘われて私の様な客が大勢寄り付くのでしょう。
さて、何故ヤクの頭蓋骨を晒すのか?、このページ冒頭の虎跳峡では頭蓋骨に綱を括り付け川の流れで晒していました。これは乾燥させて家の入口などに飾るのです。ナシ族の村でも時々見掛けますが、どうもチベット系部族の間ではこのヤクや水牛など、牛の頭蓋骨を乾燥させて家の門などに飾る習俗が有り、これは家に「福」を招来するお呪(まじな)いで、魔除け・厄除けの意味も有るそうです。
この乾燥したヤクの頭蓋骨は土産物屋でも売ってますが、私はプラスチック製の小さな模造品を買いました(右上の写真、ほぼ実物大)。尚、ヤクはチベット人が開発した芸術品で「ヤク程役に立つ家畜は居ない」という私の持論はココから参照して下さい。
帰りがけに良い匂いがするので見ると、道端で鍋にご飯とソーセージの様な具をいれて”釜飯風御飯”を炊いて売って居ます。これ食ってみたかったのですが、ホテルで晩飯を用意して在るということで、お預け、...残念!
(7)夜の中甸市街
夕食後、ホテルから長征路の北の集貿市場界隈を少し散歩しましたが、どの店も夜は8時で店仕舞いし真っ暗に成ります。小雨が降って寒い中、物好きに夜の街をほっつき歩いて居るのは私たちだけでした。そんな中で怪し気な光りが点っている所を見て廻りました。
左下は皆帰って行った後の市場脇のゴーカート場です、もの凄く”場違いな感じ”です。右下が映画館近くの映画の立看板です。
上の2枚は裏の路地の情景ですが、右の写真は長征路の表通りです。辺りがすっかり闇に包まれて居る中、ここだけがご覧の様に赤いネオンで毳毳(けばけば)しく、”怪し気”な感じです。私は期待に胸躍らせてドアを開けると、何と子供が居ます、そしてパソコンの画面を見て居ます。良く見ると大人も居ます、10人位居ます、パソコンがズラッと並んで居ます。
?!、...何とここはインターネット・バーでした。
表のネオンを見て下さい。
XINLONG INTERNET BAR
と書いて在ります。
ということで、誰も居ない夜の街は”意外性”に満ちて居ました。
(1)「中央市場」の朝市
下が農貿市場と言う中甸市街で一番大きな、言わば「中央市場」の早朝の風景です。少数民族の街や村では市場、特に朝市は必見です。
先ず左が生きた地鶏を抱えて売っているチベット族の小母ちゃん、この様に互いにお喋りし乍ら楽しそうに遣って居て商売が目的かお喋りが目的か判りませんが、女性のお喋り好きは日本も同じです!
下は檻に入ったウサギ、勿論食用です。
左下は姉ちゃんが豚肉を売って居ます。机の上から紐が垂れて居るのはハムとソーセージで、これはユーラシア牧畜文化圏共通の産物です。
下はもう御馴染み、ヤクの生頭蓋です。この地方の”牛肉”であるヤクの肉屋の売り場に肉塊と一緒に無造作に転がって居ました。これも後で乾燥させるのでしょう。
他には丁度カボチャの様な形に固めたヤクのチーズも在りました。その他野菜や香辛料。ここで気付いたことは、高地で寒冷の為に他の雲南地域と違いハエが殆ど居ない、ということです。そう言えば麗江も比較的ハエが少なかったですね。
食糧売り場の横には衣料品や雑貨など大小様々な物を売っていて、私は反(そ)りが入ったチベット・ナイフやラマ教の世界観を描いた極彩色の掛け軸(右の写真)などを買いました{このリンクは2015年7月7日に追加}。差し詰めここは街の百貨店です。ところが、チベット・ナイフは中甸空港でX線で発見され没収されました、今回はあの「9.11」の僅か1ヶ月後(※10)と在ってチェックが厳重だったのです、残念!!
(2)中甸市街地散策
ホテルで朝食後、午前中は私たちだけで市街地散策です。ホテル前の長征路を南へ進みます。
右が州政府の門です。「迪慶蔵族自治州人民政府」という物々しい表札が右の門柱に掛かっているのが読めると思います。左の門柱にはチベット文字で同じ事が書いて在るのでしょう。
そして赤い横断幕に「慶祝国慶」と在ります。確か国慶節は10月1日だったと思いますが、10月一杯は行事が続くのでしょうか?
そして、今正に門内に入ろうとして居る車はベンツ(車のマークに注目)です、乗っているのは間違い無くエライはんでっせ!
そして左の写真を良くご覧下さい、門の上部に「松茸綜合交易市場」と書かれて居ます。州政府の少し南で見付けました。そう、ここ中甸は日本向け松茸を栽培して出荷して居るのです(※11)。で、門の中に入ってみましたが、中の建物は閉まり人も居ません。後で聞いた話に拠ると、ここ中甸での松茸のシーズンは8月20日頃とのことで、今は完全にシーズンオフなのです。
前述の如くここは年平均気温12.5℃の寒冷高地です。
焼き松茸は麗江でも食べました、旨・か・っ・た!
そして右は「松茸綜合交易市場」の近くのホテルでお茶をした時のチベット族の従業員の呉紅梅さん、「紅梅」とは佳き名ですね。大体中国のホテルで民族衣装を着ている女性は地元の少数民族で、スーツを着ているのが漢民族の様です。
因みに松岡さん(右)は紅梅さんがとても”お気に入り”でしたのでツーショットで撮りました、松岡さんは”にやけた顔”をして居ますね。この写真は保存版として「中国名花集」にも登録しました!!{このリンクは05年3月24日に追加}
❤
お茶の後、再び街中をブラブラと歩き乍ら帰りましたが、その時に見た光景が下の2枚の写真です。左下は日本の中学生位のラマ教少年僧が熱心にパソコンを見詰めている瞬間です。昨日見学した松賛林寺の中の光景が思い出され、昨夜のインターネット・バーの中の光景も頭を過(よぎ)って来ました。そして私は何故か楽しい気分に成ったのを覚えて居ます。
右下は道端で象棋(中国象棋)(←中国の将棋は「象棋」と書く)をして居るオジサンたちです。カウボーイ・ハットを被ったオジサンが居ますが、これが中甸ファッションです。中甸の売店では良くカウボーイ・ハットを売っていて、これを被って歩いて居る人を随分見掛けました。ウシ科のヤク(※2)を飼って生活して居るチベット族は正に”東洋のカウボーイ”なのです。
道端でタマを飛ばしたり、輪投げでタバコを取るゲーム(=一種の博奕)(右の写真、小池さん撮影)に興じたりしました。私は小銭を摩られました!
それから私は漢方の冬虫夏草(中国では冬虫草)(※12、△7のp79)の「蝉菌(せみたけ)」(※12-1、△7のp24~27)を買いました、私は是非これが欲しかったのです(左下の写真、この写真は後日帰国後に撮影)。中甸は漢方とか冬虫草の宝庫です。
蝉菌(せみたけ)とは、セミタケのこと。私が買った蝉菌の効能書には、又の名を金虫草、「海抜4000米以上的雪山之中」に成長する稀有の貴重品で「蛋白質、炭水化合物、脂肪...」などを含み、用法は「泡酒」、「清心、明目、朴肺、平胆、利胆、強精、止血」などに効き、経常服用すれば「保健強身、防病」に良い、と在りました。
眼 翅
↓ ↓
左の写真は略実物大で体長は37mm位です。何蝉か?、どうもニイニイゼミの様に見えます。私はこれを6匹買いました、1匹20元でしたが6匹で100元に負けて貰いました。
地下の蝉の幼虫 -蝉は通常幼虫として7年間を地下で過ごし成虫して地上で約半月の命です!- がこの様に冬虫草にされて仕舞いますが、中国人の漢方への偏執狂的”拘泥り”を日本に帰ってからゆっくりと研究してみる積もりですゾ!
この後、一旦ホテルに戻りました。
(3)餃子で遅い昼食
餃子は元来は北方の食べ物です。従って雲南省では”普通は”見掛けません。”普通は”と言ったのは、中国も最近は国際化が進み都市部ではハンバーガー・ショップや回転寿司も有り、それと同時に”省際化”も進み、北の食べ物が南に進出したり、その逆も有るからです。そして雲南省で稀に在るのが水餃子です。
昼飯 -と言っても14:30頃- を外で食べることに成り、又々街をぶらつき長征路を南へ進み少し脇道に入ってみました。すると「餃子」の看板を掛けた田舎びた小さな店を見付けたので入りました。
店では地元の人が3、4人食事をして居て、小母ちゃんが一人で料理して居ます。メニューと金額が書いて在り、どれも安い!、1皿数元の餃子をそれぞれが1皿ずつ注文。ビールは無かったので直ぐ近くの万屋(よろずや)から調達。で、出て来た餃子の量にビックリです、日本より大きい水餃子が1人前で20個位も在ります。
これだけでも食べ切れないのは判って居ましたが、メニューを見るとヤク肉の餃子が在ります。これは倍以上の値段ですが、折角だからこれを「焼き餃子」にして食おう、という事に成り例に依ってメニューを指差して注文。しかし「焼き」をどう遣って伝えるか?、ここには通訳は来て無いので、厨房に入りフライパンを指差して小母ちゃんに身振り手振りで伝えました。その甲斐有って目出度くヤク肉の焼き餃子を食べることが出来ました。
左上の写真(小池さん撮影)がそれで、もう判りますね、焦げて茶色く見えるのがヤク肉の焼き餃子、白いのが水餃子、箸が乗っている皿が薬味入りの醤油です。旨かった!!
(4)いざ、温泉へ
夕方は松岡さんと私が通訳の馮さんを伴ない、200元でタクシーをチャーターして昨日下見した下給温泉に行きました。以後、松岡さんはこのパターンを多用します。
もう道は判って居るのでどんどん進みましたが、途中建築中のチベット族民家を見付けて撮ったのが右の写真です。礎石の上にやや中膨らみの柱(多分直径30cm位)が立って居ます。右前方にトラックの車輌が写って居ますので比較して下さい。
井本さんと小池さんはホテルで按摩をして貰う事に成りました。
私たちはバンガローの1室を借り(50元位)、蛇口を捻って湯を張り温泉に入りました(左の2枚、左が私、右が松岡さん)。
実はこの写真撮るのに苦労したのです、何せレンズが直ぐ曇って見えなく成ります。窓を開け湯気を追い出してやっと撮り、後でコントラストを上げて処理して有ります。
左の写真は木の浴槽に湯を張った所。奥の鉄管の蛇口を捻ると温泉が出、温泉特有の匂いがします。この湯を抜くのは外からで、係の兄ちゃんがします。
写真には写って居ませんが、浴槽のこちら側にはベッドが1つ在り休める様に成って居ます。
左上の写真で私が持っているのが焼酎と紙コップ、先ずはこれで乾杯、湯加減は良好、気分は最高!!!
(^O^)
通訳の馮さんに訊いたら、中国では温泉に入る人は少ないそうです。やはり風呂好き、温泉好きは日本人の特徴なのでしょう。
(5)夕食は西蔵風鍋
今日は中甸での「最後の晩餐」ということで、市街地に在る豪華な門構えの西蔵民族レストランでチベットの民族料理を食べることに成りました。
左下が中の建物からの眺めで、今潜って来た門の向こうに夕日を浴びたラマ仏塔が見えて居ます。右の様な豪華なチベット族の民族衣装を着た姉ちゃん -「中国名花集」に登録- が出迎えて呉れました。{このリンクは05年3月24日に追加}
そしてメイン料理が左下の「西蔵風鍋」、これは旨い、絶品です。
これは要するにヤクの肉に豆腐、蒟蒻(こんにゃく)、それからゴボウの様な根菜(←或いは朝鮮人参系の根かも)、韮、菊菜(の様な物)、ニンニクなどを山椒をたっぷり(唐辛子は少々)効かせた塩味のスープで煮た鍋料理 -写真で白く見えるのが豆腐、茶色がヤクの肉、灰色が蒟蒻- です。
蒟蒻・豆腐は日本のそれとほぼ同じですが、ヤクの肉はハッキリ言って硬い、シチューなど煮込み用に使う「牛のスジ肉」を煮込まないで食っていると思って下さい。それにゴボウの様な木の根も硬い、しかしこれがヤクの肉と良く合います。従って肉を食う為には顎を相当使います。
大体私は、日本人はハンバーグみたいなビチャビチャした軟弱な肉に馴らされ思考も軟弱に成っている、と普段から日本人の肉食感覚に批判的な人間ですから、これはもう私にピッタリです。しかも山椒が辛いので食べて行く内に頭の天辺から汗が吹き出して来ますが、これをビールや焼酎で冷やし乍ら食うのは最高、西蔵風鍋は”粗野で豪快な”料理です。
帰る頃には右の写真の様に三日月が出て居ました(後日調べたら01年10月19日は旧暦の9月3日でした)。
私は今回の旅でチベット紋様に大変魅かれました、それは細密で奇抜で呪いを込めた様な象徴性を秘めた、独特の感性です(下の3枚の写真)。これは顕教と対峙する曼荼羅的な密教(※2-3)を育んだ精神と相呼応するものです(△8のp152~158)。
左と中央がチベット民族風情館でのものです。左の写真の上部の図には、宙に浮いた楼閣の様な建物の両脇に架空の動物が描かれて居て、下部の図の四隅には蜂(蜜蜂か?)が描かれて居ます。蜂の尾部には「⇒」という形の針も描かれて居ます。
右が西蔵風鍋を食べたレストランでの扉の装飾で、日本の欄間の透かし彫(※13)の様な浮彫で、鳳凰の様な図案です。
その他、寺院建築に於ける装飾の細密性は既に見て来た通りで、上の紋様と合わせチベット系のナシ族にも共通するものです。
しかし下の写真の様に、民家の壁に必ず施す”念が籠もった”感じの丸い文様や、松賛林寺で見た様な一見スペイン的とも言える象牙色の壁はチベット族だけのものです。この民家は下給温泉村で撮影したものです。
現代チベット文化の基礎を築いた吐蕃王のソンツェン・ガンポ(※4)は、南のネパールから自らの妃を迎え、東の唐からは息子の妃 -太宗の皇女・文成公主(※4-2)- を迎えましたが、息子が若くして病没すると王は文成公主を自らの第2妃とし、ネパールと唐の文化を積極的に受容したと伝えらて居ます。それだけでは無く彼等の鳥葬や水葬の習俗にはゾロアスター教(※14)即ち西の古代ペルシャの影響が見て取れ、彼等がヤクから作る乳製品は更に西方のユーラシア遊牧文化との関連性が指摘され、馬を通じた北方のモンゴル騎馬民族との関係も濃厚です。それは正にチベット民族の置かれた地政学(※15、△9のp151)そのもので、私はチベット文化が中国内に於いて果たした役割は今日考えられて居る以上に深く、古く、且つ大きいのではないか、と思います。それは古代国家・周(※3)の存在であり周がチベット系である事は前述した通りです。
20日の朝、曇っているかなと思っていたら濃霧でした。空港は既に「香格里拉」 -2002年1月からの名称変更の準備が完了- に成って居り、我々は中甸空港(香格里拉空港)の入口で記念撮影(左下の写真、左から小池さん・井本さん・松岡さんです)。この空港は1999年に完成したもので、「国内出発」と書かれて居る所が国内便の玄関入口です。
しかし濃霧で飛行出来ず、8時頃出発の予定が12時過ぎ(約4時間遅れ)に、漸く昆明に向けて飛び立ちました。空港で待たされて居る間、当局からの説明は全く無しでした。
右上が空港で待機して居るジェット機を待合室から写したもので、濃霧の状態がお判り戴けると思います。但し、この飛行機は私たちが乗る便では有りません、我々の便は未だ昆明から到着して無いのです。
私は御土産に買ったチベット・ナイフをこの中甸空港で没収された事は既に書きました。
私たちの飛行機が飛び立った頃から天候は一時的に良く成り、玉龍雪山の上では雲も一部晴れ、上空からの玉龍雪山を撮影することが出来ました。昆明に着いたらその後再び曇って来たので、これは全くの幸運と言わざるを得ません。この写真は[麗江・中甸の旅#1:麗江編]に載せて在ります。
それにしても小中甸の紅葉は見事でしたね、これは一生思い出として残るでしょう。そして下給温泉が良かったですね。こういう素っ裸で入る”日本式”の温泉は外国では非常の少ないのです、殆どの場合水着着用で、だから混浴と言っても”水着混浴”ですから全然面白く無いですね。でも温泉に素っ裸で入って中国の焼酎で乾杯した事はグッド・アイデアでした。出来れば日本酒が飲みたかったですね、アッハッハ!!
高度3000~4000mという厳しい自然環境の中でチベット文化を育み、歴史的にも早く(=古く)から登場するチベット人たちの生き様が”ほんの少し”だけ理解出来た様な気がして居ます。
こうして昆明に着いて、ずっと一緒だった通訳の馮琨さんと別れました。小池・井本さん組は昆明で1泊後西双版納へ行きました。松岡さんと私は雲南民族学院に留学中の直美ちゃんと合流し列車で四川省の成都に向かいました(成都の旅はこちらです)。{このリンクは05年1月4日に追加}
ここから二手に別れてそれぞれの旅に出、24日の朝再び昆明で合流し帰国しました。
私は出来ればもう一度中甸(香格里拉)を訪れたいと思って居ます。次に行く時は白水台に行きたい、街の屋台で売っていた”釜飯風御飯”を食ってみたい、そして西蔵風鍋をもう一度食いたい、などなどです。
麗江地区では瀘沽湖ですね。寧蒗彝族自治県に住むモソ人(摩梭人)はナシ族と同系と見られて居ますが母系制を厳格に守り妻問い婚(※16、※16-1)を今に残して居るという、民族学的に特異な存在で非常に興味が在りますね。でも離婚(=縁切り)率も可なり高いそうです。
その後、2004年の秋に再び香格里拉(嘗ての中甸)に行く機会が有りましたが私個人の望み(=”釜飯風御飯”を食ってみたいとか)は果たして居ません。唯一残念だったのは小中甸の紅葉がもう終わっていた事ですね、同じ時期に行ったのですが紅葉のタイミングは年々変動しますので難しいですね。やはり2001年が幸運だったのです。{この記事は05年1月4日に追加}
尚、[麗江・中甸の旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
>>>■その後 - 「三江並流」世界遺産に登録
ところで、昨年の03年7月にユネスコは、金沙江(長江上流)、瀾滄江(ベトナムのメコン河上流)、怒江(ミャンマーのサルウィン河上流)の3つの川が並行して流れる雲南省西北部を「三江並流(Three Parallel Rivers)」として世界自然遺産に登録しました。ここは元々中国政府が「三江併流風景名勝区」として管理して来た保護区群で、中甸県も含まれます。香格里拉(シャングリラ)と名称変更した中甸もこれから観光客が増えることでしょう。
{この記事は05年1月4日に追加}
【脚注】
※1:シャングリラ(Shangri-La)とは、(J.ヒルトンの小説「失われた地平線」の中の理想郷の名から)
[1].地上の楽園、桃源郷。
[2].秘密基地。
<出典:「研究社 新英和・和英中辞典」、「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※1-1:ジェームズ・ヒルトン(James Hilton)は、イギリスの小説家(1900~1954)。教師と生徒との美しい交情を描いた「チップス先生、さようなら」の作者。他に「失われた地平線」(この小説はチベットが舞台)、「今宵ぞさらば」「心の旅路」など。
※1-2:桃源郷(とうげんきょう、earthly paradise, Shangri-La)とは、(陶淵明の「桃花源記」に書かれた理想郷から)俗世間を離れた別天地。仙境。武陵桃源。桃源。
※1-3:桃花源記(とうかげんき)は、東晋の陶淵明作。武陵の漁夫が道に迷って桃林の奥に在る村里に入り込む。そこは秦の乱を避けた者の子孫が世の変遷を知ること無く、平和で裕福な生を楽しんで居る仙境であった。歓待されて帰り、再び尋ねようとしたが見付からなかったという内容。
※2:ヤク(yak[チベット])は、ウシ科の哺乳類。体長約3m、雌はそれより小形。毛色は灰色乃至は暗褐色で、頭は白っぽい。体側の毛は長く伸びている。肩が盛り上がった体形。カシミールやチベットの高地に棲む。荷役用とし、又、肉用・乳用としても重要。野生のものは殆ど絶滅。犛牛(ぼうぎゅう)。
中国語では、「「牛」偏に「毛」」と「牛」、と書きますが「「牛」偏に「毛」」が Unicode(UTF-8) でもフォントが無いので、私は「毛牛」で許して貰います。
※2-1:チベット(Tibet、西蔵)は、中国四川省の西、インドの北、パミール高原の東に位置する高原地帯。18世紀以来、中国の宗主権下に在ったが、20世紀に入りイギリスの実力に依る支配を受け、その保護下の”ダライ・ラマ自治国”の観を呈して居たが、第二次大戦後中華人民共和国が掌握、1965年チベット自治区と成る。住民は殆どチベット族で、チベット語を用い、チベット仏教を信仰する。平均標高約4千mで、東部・南部の谷間では麦などの栽培、羊・ヤクなどの牧畜が行われる。面積約120万㎢。人口239万(1995)。区都ラサ(拉薩)。
※2-2:チベット仏教(―ぶっきょう、Tibetan Buddhism, Lamaism)とは、仏教の一派。吐蕃王国時代にインドからチベットに伝わった大乗仏教と密教の混合形態。チベット大蔵経を用いる。後にモンゴル・旧満州(中国東北地方)・ネパール・ブータン・ラダックにも伝播した。主な宗派はニンマ派(紅教)・サキャ派・カギュー派・ゲルク派(黄教)の4派。俗称、ラマ教。
※2-3:密教(みっきょう、esoteric Buddhism)とは、仏教の流派の一。深遠で、凡夫に窺い得ない秘密の教え。悟りの境地は曼荼羅(又は曼陀羅)に象徴される。インドで大乗仏教の発展の極に現れ(7~8世紀)、中国・日本の他ネパール・チベットなどにも広まった。日本では、真言宗系(空海)の東密と天台宗系(最澄)の台密とが在る。秘密教。秘密仏教。←→顕教。
※3:周(しゅう)は、この場合、中国の古代王朝の一(前1100~前256)。姓は姫。殷に朝貢していたが、西伯(文王)の子・発(武王)がこれを滅ぼして建てた。第12代幽王迄は鎬京(こうけい)に都したが、前771年犬戎の侵略を受けて一旦滅亡。第13代平王は東遷し、翌年即位、都を成周(今の洛陽付近)に移した。東遷以前を西周、それ以後を東周(春秋戦国時代に当たる)と言う。37代で滅亡。
※3-1:武王(ぶおう)は、この場合、周王朝の祖(B.C.11世紀頃)。姓は姫(き)。名は発。文王の長子。弟周公旦を補佐とし、太公望を師とし、文王の築いた国力を基礎に殷の紂王(ちゅうおう)を討ち天下を統一、鎬京(こうけい)を都とした。在位10年余。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-2:后稷(こうしょく)は、[1].[書経舜典](「后」は君、「稷」は五穀の意)古代中国伝説上の農事を司る長官。
[2].周の始祖と伝えられる伝説上の人。母姜原が巨人の足跡を踏んで妊娠し、生れると直ぐに棄てられた事から、棄(弃)と名付けられた。後、農耕に貢献。帝尭に挙用されて農師と成り、舜の世に[1]の后稷の官に付いた。武王はその16世の孫と伝える。周代に農業神として崇拝された。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-3:「牝鶏(ひんけい)晨(あした)す」とは、[書経牧誓]牝鶏が時を造る意で、女が勢力を奮う事の譬え。家や国が滅ぶ前兆/原因であるとされた。
※3-4:箕子朝鮮(きしちょうせん)は、古朝鮮の一つ。殷の箕子が、前1023年の紂王(ちゅうおう)の死後に開いたとされる朝鮮の伝説上の王朝。首都は王倹城(現:平壌)。前194年、衛満に滅ぼされた。→箕子。
※4:ソンツェン・ガンポ(Sronbtsan sgampo)は、古代チベット王国(吐蕃)を建てた王(伝説上は33代目)(581?~649)。ネパールから王女を妃に迎え、唐の太宗に迫ってその娘の文成公主を息子の妃に迎えたが、息子が夭逝した為に自分の妃とした。2妃の感化によって仏教に帰依し、トンミ・サンボタ(Thommi Sambhota)をインドに派してチベット文字を制定したと伝える。
※4-1:吐蕃(とばん)は、7~9世紀にチベットの王朝を指した中国側の呼称。吐蕃はチベット最初の統一王朝で、ソンツェン・ガンポが620年代に諸氏族を統合して建て、都をラサ(拉薩)に置いた。唐と和戦を繰り返したが、8世紀後半には優位に立った。インド/中国の仏教を入れ、チベット文化の基礎が作られた。843年、仏教弾圧を図ったダルマ王が殺された後に分裂、間も無く滅んだ。 <出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※4-2:文成公主(ぶんせいこうしゅ)は、吐蕃王ソンツェン・ガンポに嫁した唐の皇女(625~680)。640、41年頃チベットに送られ、中国文化を伝えるのに功があった。
補足すると、唐から降嫁した皇女・文成公主のチベットに降嫁する時、禁制の蚕を密かに持ち出しチベットに養蚕を伝えたという話は語り草に成って居ます。彼女は王の息子との間に王子を儲けましたが王の息子が病没すると、父王ソンツェンの妃に成ります。父王が没した後は寡婦として様々なチベット文化の向上に努め、今ではラマ教の尊像に刻まれチベット人から広く敬慕されて居ます。
※5:ダライ・ラマ/達頼喇嘛(Dalai Blama)は、(ダライはモンゴル語で「大海」、ラマはチベット語で「師」の意)チベット仏教ゲルク派の法王。代々転生者が相続する。歴代法王の名がギャンツォ(大海)で終るので、ダライ・ラマと称される。1642年のダライ・ラマ政権樹立以後、チベットの首都ラサにポタラ宮を造営し、観音菩薩の化身として政教両面に亘るチベットの法王と成る。現在の14世テンジン・ギャンツォは、1959年以来インドに亡命中。ギェルワ・リンポチェ。
※5-1:転生(てんせい/てんしょう、reincarnation)とは、[1].[仏]迷いの生死を繰り返すこと。輪廻。「輪廻転生(りんねてんしょう)」。
[2].生まれ変わること。生活を一変させること。
※5-2:活仏(かつぶつ)は、[1].活仏(いきぼとけ)。
[2].チベット語のトゥルク(化身)の訳。仏/菩薩/聖僧などの生れ変りと信じられている者。→ダライ・ラマ。
※6:紗(しゃ/さ)とは、生糸を絡織(からみおり)にした織物で、透き目が粗く、軽くて薄いもの。さ。薄絹(うすぎぬ)。うすもの。
※7:五体投地(ごたいとうち)とは、〔仏〕両膝・両肘・額を地に付けて、尊者・仏像などを拝すること。最高の礼法。接足礼。頂礼(ちょうらい)。日本霊異記下「五体を地に投げ」。
『日本霊異記』が書かれた平安初期には日本でも五体投地の礼が行われて居たのでしょう。日本ではその後鎌倉時代に念仏仏教が流行し次第に仏教本来の礼拝様式が失われて行ったのです。
※8:裸麦・稞麦(はだかむぎ、rye)は、オオムギの主要な一変種。果実と穎(えい)とが離れ易いのでこの名が在り、離れ難いものは皮麦(かわむぎ)と呼ぶ。西日本に多く栽培する。
※9:サイケデリック(psychedelic)とは、ギリシャ神話のプシュケー(Psyche)が語源。プシュケーはキューピッド(Cupid)が愛した美少女で霊魂の化身。転じて「霊が見える」の意に成り、更に転じて
[1].(形容詞として)幻覚を起こさせる。幻覚剤の。(名詞として)LSDなどの幻覚剤を指す。
[2].麻薬に因って生じる幻覚や陶酔の状態に似ている様子。
[3].1960年代中頃に生まれた美術・音楽の新動向としてのサイケデリック・アート(psychedelic art)を指す。極彩色の光と音を総合し、一種の幻覚に似た雰囲気を作り出すもの。LSDなどの幻覚作用との関連からLSDアート(LSD art)とも呼ばれた。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「研究社 新英和・和英中辞典」より>
※10:「9.11」とは、2001年9月11日に国際テロ組織のアルカイダのメンバーがハイジャックした旅客機でニューヨークの貿易センタービルや国防総省ペンタゴンなど、同時に複数の標的に”特攻”を掛け、その後のアメリカのアフガニスタン攻撃やイラク攻撃など国際的緊張の端緒と成った事件。
※11:中国の人は、日本人の様に松茸を好んで食べるという習慣は無く中甸での松茸栽培は専ら日本向けです。
※12:冬虫夏草(とうちゅうかそう、plant worm, vegetative wasp)とは、土中の昆虫の幼虫・蜘蛛(くも)などに寄生して、その体から子実体(しじったい)を生ずる菌類。中国起源の名称で、寄生された虫は冬は生きているが、後に寄生菌が虫を殺し、初夏頃から棒状その他の子実体を形成するのが名の由来。寄生菌は子嚢菌、又は不完全菌類の、セミタケ(蝉茸)・クモタケ(蜘蛛茸)など。古来中国では、蛾類その他の幼虫に菌の寄生したものを乾燥して生薬とした。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
補足すると、中でも標高3000~4000mの高山でコウモリガ(蝙蝠蛾)の幼虫に菌が寄生した物を最高級品とする。
※12-1:蝉茸/蝉菌(せみたけ)は、地中のセミの幼虫に寄生する子嚢菌類。子実体は棍棒状で高さ数cm、分枝することも有る。淡黄褐色、胞子は糸状。所謂、冬虫夏草の一。
※13:欄間(らんま)は、天井と鴨居(かもい)との間に、採光・通風・装飾の為に、竹の節・格子(こうし)・透かし彫・又は丸彫彫刻の板を取り付けてある部分。出入口上方の明り取りなどにも言う。
※14:ゾロアスター教(―きょう、Zoroastrianism)は、前6世紀ペルシャの預言者ゾロアスター(Zoroaster)の創始した宗教。善神をアフラ・マズダ、悪神をアフリマン(アングラ・マイニュ)と称し、勤倹力行に依って悪神を克服し、善神の勝利を期することを教旨とし、善神の象徴である太陽・星・火などを崇拝。アヴェスタ教典を奉じ、古代ペルシャの国教として栄え、中国には南北朝の頃伝来、祆教(けんきょう)又は拝火教と称。7世紀来、イスラム教の興隆と共に急速に衰微。インド西海岸に残る信徒はパルシーと呼ばれる。マズダ教。ザラットラ教。
※15:地政学(ちせいがく、Geopolitik[独], geopolitics[英])とは、政治現象と地理的条件との関係を研究する学問。ドイツの学者ラッツェル(F.Ratzel1844~1904)の政治地理学に基づいてスウェーデンの学者チェーレン(R.Kjell n1864~1922)が首唱、主にドイツに於いて第一次大戦後の政治的関心と結び付き、ハウスホーファー(K.Haushofer1869~1946)に依って発展、ナチスがこれを支持。地理政治学、地政治学。
※16:妻問い婚(つまどいこん)とは、婚姻様式の一。夫が妻の家を訪れるだけで、同居しないもの。
※16-1:妻問い(つまどい)とは、男が女を訪れて求婚すること。万葉集3「―しけむ葛飾(かずしか)の真間の手児奈が」。
補足すると、日本にも「万葉集」や「源氏物語」や「伊勢物語」に出て来る様に、妻問い婚は平安時代頃迄は割と有り触れた習俗でしたが、その後急速に廃れました。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『縮刷版 文化人類学事典』(石川栄吉・梅棹忠夫・大林太良・蒲生正男・佐々木高明・祖父江孝男編、弘文堂)。
△2:『史記1 本紀』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。
△2-1:『読む年表 中国の歴史』(岡田英弘著、WAC)。
△2-2:『封神演義(上・中・下)』(作者不詳、安能務訳、講談社文庫)。作者は許仲琳、或いは陸西星とも言われる。
△3:『家畜系統史』(コンラット・ケルレル著、加茂儀一訳、岩波文庫)。
△4:『失われた地平線』(ジェームズ・ヒルトン作、増野正衛訳、新潮文庫)。
△5:『茶馬古道 中国人文地理的顛峰之旅』(《茶馬古道》編集部編(責任編集:周宏)、陜西師範大学出版社)。
△6:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△7:『冬虫夏草図鑑』(清水大典著、家の光協会)。
△8:『チベット密教の本(死と再生を司る秘密の教え)』(学研編・発行)。
△9:『悪の論理 - 地政学とは何か』(倉前盛通著、角川文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):虎跳峡や
中甸(2002年から香格里拉に名称変更)の地図▼
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):モンゴルや中国の内蒙古自治区の地図▼
地図-モンゴル国と中国の内蒙古
(Map of Mongolia and Neimenggu, -Mongolia, China-)
@参照ページ(Reference-Page):四川省広漢市の三星堆の地図▼
地図-中国・四川省の成都と三星堆
(Map of Chengdu and Sanxingdui of Sichuan, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@参照ページ(Reference-Page):旧暦の日付と月の形の関係▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
@補完ページ(Complementary):四川省広漢市の三星堆博物館▼
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
@横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
私が中甸で買ったラマ教の極彩色の掛け軸▼
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(Travel of China and Mongolia, 1998, Madoka)
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(Travel diary of Tibet by Midoriko, China, 2000)
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