ミドリコの2000年・チベット旅日記
[ミドリコさんの旅行記#1]
(Travel diary of Tibet by Midoriko, China, 2000)

-- 2003.08.17 ミドリコ
2019.03.30 改訂
[編集:エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■エルニーニョからの一言

 2002年、中国は雲南省・景洪に行く飛行機の中で偶然一緒に成り、タイ族民家のホームステイに付いて来た山村みどりさんに、この度チベット旅行の原稿を寄せて貰いましたので、その全文を掲載します。ペンネームはミドリコです。

 ■チベット旅日記

 2000年6月4日~25日、中国西部の青海省の西寧からチャンタン高原を走破して、チベット(※1)入りをめざす。途中、海抜3000~4000mを越えるため、高度順化をかねて、西寧、共和で数日をすごす。これが、結果的には効を奏し、高山病になやまされることなく、サカダワ(お釈迦様生誕の供養)のチベットに出会うことができた。
 それではわたしの旅日記をご覧下さい。

  ◆6月4日:成田→北京泊

 いつものように、ネットで探した格安チケット。格安チケットを利用するようになるのと同時に、成田空港に行くのも、東京駅からの座席指定、エクスプレスに乗るのは卒業。折り目正しく、頑固に、安い路線を利用することに。
 リュックを担いで、日暮里から通勤路線の京成電鉄で成田空港へ。実の所、8kgのリュックとカメラ2台は少々重く感じるのだが...。
    (*j@)

 北京到着はもう夜。日本との時差1時間、まったく問題なし。でも、中国国内は北京からチベット、シルク・ロードに至るまで、4000km離れようが、5000km隔たろうが、革命的に統一時間。これに慣れるのには、少々の時間が必要。
 北京空港が改装され、まるで成田のよう。嘘ではない、ほんとうですよ。あんまりビックリして、トイレでスッテンコロリン滑って、しりもちをついてしまった。

  ◆6月5日:北京→西寧泊(海抜2250m)

 朝10時に、宿泊した賓館のシャトルバスで、10分足らずで北京空港に到着。シャトルバスというと誤解をまねきそう、たんなるワゴン車です。
 国内線の待合室に、少数民族の衣装を着た子供数人。胸にさげたカードで、全国○○代表団のご一行様が、帰路の途中と判明。サラール族(サラ族)土族チベット族と、それぞれの民族衣装を着ている(中国の少数民族に関しては最下行の関連リンクから参照して下さい)。チベット人の少年に聞くと、奇遇にもチャプチャ(チャプチャはチベット読み、中国表記は強引に「共和」としている)の子供だった。ふっ!ふ!ふ!、わたしたちも、共和に行くのよと、住所と名前を聞いておく。
 西寧は、チベットへの陸路の入口。ここから遥か2000kmの先がラサ。西寧→ラサのあいだ、海抜4000mの草原をぬけ、5000mの峠を越え、という試練の旅、ワクワク、ドキドキ。西寧は、かつての東京オリンピックを迎える町のよう。いたるところ掘り返し、でこぼこ、穴ぼこだらけ。夜、食事の後ホテルへ帰る道も、やっぱり穴ぼこだらけ。柵なんかなんにもなし、いわんやロープも、注意を促す看板もなし。まるで、穴にはまるのが、間抜けといわんばかり。ほんとうに、だれも落ちないのだろうか?
 一昨年西寧に来た時に見つけた回族(イスラム教徒、男も女も白い木綿のキャップをつけている)のパン屋さんも、いずこにか移転。レンガ作りの棟続きの建物も、新しい高層ビルに変化。とっても疲れやすい町になってしまって、残念至極。車と高層ビルは、どこにいても、疲労困憊。

  ◆6月6日:西寧泊

 今日は、旧暦で「端午の節句」(←確かに2000年6月6日は旧暦5月5日でした)。工事だらけの町を抜け出して互助に行くと、民族衣装を着た人にあえると、情報を得る。西寧からミニバスで2時間。このミニバス、町を出るまでが容易なことではない。まず、客が満席になるまで、車掌がドアーから半身乗り出しながら、大声で互助、互助とがなりたて、町を徐行。ミニバスが宅配もかね、あちらの街角で荷物をうけとり、こちらの街角では大荷物が車内に持ち込まれるという有様。大声の客呼びこみ、ぎゅうぎゅうの大荷物。ほんとうの出発まで、ゆうに小半時は過ぎることになる。
 互助に着くが、土族の特徴の大きな帽子をかぶったおばあさん一人、虎の飾り物を背中に下げている幼児二人。あとは、これといった目を引くものもない小さな町。
 タクシーで、小庄民族村に行くことに。田舎の村に到着。車を降りるとすぐに、農家の人が5~6人近づいてくる。そばに来て、分かった!、おばさんたち、即席のみやげ物売りに変身したのだ。おばさんの列につきながら、村の中を写真を撮りながらうろうろ。一軒の家の中に入る。ちょうど時分は、昼時。その屋のお婆さん、土産物売りはあきらめて、わたしたちに、昼食をすすめる。土間の台所で、面(めん)を食べるのも一興と、3人分を頼む。米の粉で作った面、なんと言おうか?、見た目はうどん、食べると食感は、うどんと葛餅のミックスのような微妙なあじわい。まあ、唐辛子を振りかければ、何の問題もなし。
 さて、お婆さんにお代を尋ねると、もじもじ、もごもご。わたしたちを取り巻いて、いちぶ始終を見学していた、即席土産物売りのおばさんたちと、急遽、ヒソヒソ烏合の集会。おばあさん、顔にありありと、思い切ったぞとの痕跡を残して、一碗!四元!。この場所で、四元とは、あんまりなと、思ったけど、お婆さんの大奮闘に免じて、値切らず町の相場の料金をはらう。しかし、土族の老人は、何語を話しているのだろう?

  ◆6月7日:西寧→共和(海抜2800)泊

 4時間ほどで、共和に到着。このあたりは、まったくの、チベット人地区で、漢族は逆に、少数民族になっている。
 ここからは、しばらくの間、宿泊は招待所。風呂なしは覚悟だが、どうか神様トイレだけは水がありますように。部屋が運悪く3階。リュックを背負って上がると、心臓がすこしドキドキ。あっ、やっぱり高度が上がったんだと実感。
 夜、町の中心の公園から歌声。公園のあちこちに一群の人、その中心に一対の男女が歌の掛け合い。男が歌い、女が歌い、また、男が、女が...。女の声、高らかに朗々と響く、と、同時にとりかこんでいる人々から賞賛のため息。電気の明かりもなく、人々の顔も見分けもつかず。目をつぶると、昼間通って来た草原のまっただなかにいるよう。しかし、声の高くて、澄んでいること!!

  ◆6月8日:共和泊

 今日から、朝ご飯は由緒正しい中国式。豆奨(豆乳のよう、でも、毎朝作るできたて。スーパーで売っているパック詰めとは雲泥の差)と油条(揚げパンかな?)。これで、わたしも中国の庶民の一員。三人で食べても4元ほど。
 共和で、ランクルを探す。郊外にある寺を2ヵ所ほど回ろうと、街中をうろうろ。人だかりはしてくるものの、ほんの数語のチベット語ではらちがあかず。こちらの口をついて出てくる言葉は、ただ行き先の寺の名ばかり、チャムル・ゴンパドゥンカル・ゴンパのみ(ゴンパは寺のこと)。これをなんとか聞き取った感のいいチベット人たちが、あれこれしゃべるが、意思の疎通ははかれず。
 こんなことをしているうちに、後ろの方から意味の分かる言葉が投げかけられる。う~ん、日本語ではないか!!、10年ほど前に小田原に来ていたという中国の人。やれやれ、助かった。これで無事にランクルを見つけることができた。
 人垣に囲まれながら、ランクルと案内人を見つける。案内人、出かける前に、きびきびと買い物、コーラに西瓜、鳥の足(言葉どうりの足、つめが4本ついているところ)を、ビニール袋一つ。
 さあ、出発!、地元のお寺に、出発。道は、ぬかるんだ道が、轍のあとをのこしたまま、コンクリートのように、がんがんに乾燥して、がたがたなんて、序の口、おおきくうねって車は、走っている。
 車中、案内人さん、わたしたちにコーラをすすめ、運転手さんとひたすら、件の鳥の足を、しゃぶっている。
 チャムル・ゴンパに到着。共和で買い込んだ西瓜、このお寺へのおみやげのようだった。ということは、この案内人は、ガイドを兼ねながら、菩提寺に参詣したものと思われる。
 子供の僧の多いこと。寺の一室に案内される。なかに、老僧がお一人端座されている。思わず敬語をつかいたくなるような、自然体の僧侶。年のころ60~70と推察するが...。そうであれば、中国が侵攻してきて以降、文化大革命をへて、いかばかりの苦労であったのかと、かってに想像の世界にはいる。
 バター茶をふるまわれる。なんどか飲むうちに、ようやくなれてきたかな?、お昼時なので、幸運にも、ツァンパをご馳走される。左手で茶碗をまわしながら、右手薬指でこねるうちにできあがり。バター茶、ツァンパで食事とは、まるで河口慧海のような。ほっ!ほっ!ディープなチベットの旅です。

  ◆6月9日:共和→茶卡(海抜3104m)

 共和からラサ(※2、※2-1)まで、ランクルを雇う。日本で、なんどファックスのやり取りをしたことだろう。出発する前に、疲労困憊!
 西寧からラサまで、バスで1泊2日の行程。途中5000mの峠ごえ、海抜4000mをゆうに超す大草原・チャンタン高原。さすがに、バスで行く元気もなし。そちらは、若者にまかせて、ゆっくりと時間をかけて、シニア番はランクルで、ガイドをつけて。
 中国旅行七不思議の一つ。ランクルを雇うと運転手は当然として、ガイドもセット。どんなに要らないといっても、旅行社の「規則です。」の一言で、ガイドが付いてきてしまう。これって、いまだに、釈然としないものの一つ。まして、チベット人のなかを旅するのに、漢族のガイドは困りもの。なんどかチベットを旅するうちに、チベット人の漢族嫌いを、納得してしまったのだ。ガイド・運転手は、チベット人をと、しつこく指定するが、登場したガイドは、典型的漢族でした。運転手は、少数民族の土族といっていた。
 ここ共和で、ランクルと合流するように手配をしてきたのだが、時々、不安がよぎっていた。もう、西寧で代金全額支払ったのに、迎えにこなかったらどうしようと?
 よかった!ランクルが来ました。これで、高度順化の旅日程は終了。今回のガイドさんは、大当たり。色白、プクプクした、まるで蒸かしたての饅頭のような好青年。彼のおかげで、日本語、中国語(普通語)、中国語(青海省方言)、英語と、車内は、言葉の渦。そのどれもが、お互いに不自由という、笑うに笑えない状態。即席外国語学校の開設。間に座っていたこのガイド君。もう一つ隠されたおお働き。車は、ランクルとはいえ、道も、負けてません。揺れること、半端でなく、右によったり、左に傾いたり。ああ、間にはさまっている色白、ぷくぷくのガイド君、クッションよろしく、揺れを吸収してくれる。密かに命名、蒲団君
 倒淌河を越えたあたりからは、まっすぐな舗装道路。雨の中を快適に飛ばす。雨の中、車は、青海湖にそって走る。雨に濡れながら、五体投地で、青海湖を一周する僧侶にあう。ひたすら前方を見つめ、自分の身の丈しか一歩で前進せず。体を大地にひれ伏す時の、ザァー、ザァーという音。いまだ耳から離れず。青海湖一周遊に1週間はかかるという、あの屈強の若者でも。
 途中、チベット人のパオに立ち寄る。聞きしにまさるチベット犬の大吼え。これにがぶりとやられたひには、たまりません。狂犬病の恐怖で、即刻帰国の憂き目をみそう。ガイド君、用意周到にお土産の西瓜を用意。西瓜は、チベットの人たち(遊牧民の)にとって、珍しく、高いものらしい。戦後の、ベビーブーマーの一員としては、ああ、わたしたちのバナナと同じだわと、このパオのチベットの人に親近感を覚える。
 宿泊したところ、賓館とは名ばかり。食堂にいくと、まるで、小学校の体育館に椅子とテーブルを置いてあるよう。小姐の姿もなく、がらんとして寒々しい。食事は、調理場に入り込んで、置いてある材料を見ながら、調理師に料理を注文する仕組み。
 今日は、おおだすかり。運転手さんがきびきびと、自分の食べたいものを仕切ってくれる。テーブルで、お茶をすすっているうちに、菜のできがり。前回のこういう場面を、思い出す。言葉は不自由だは、料理法はわからないはで、大往生。
 今日の最高海抜は、橡皮山3817m。高度順化が効を奏したか、無疵。

  ◆6月10日:茶卡→ゴルムド泊(海抜2800m)

 今日は、ちょっとした冒険あり。昼食をピクニックにしようということで、途中の外国人非開放地区で、買い物。徳令哈という町、近くに軍事施設があるとかで、非開放。外国人が入るには、3種の許可証が必要。ガイド君、前回は、許可書をとろうとしたが、不許可。今日は、あえてお忍びで、強行突破を、と。
 わたしと運転手さん、代表で市場に。わたしは外国人第1号と、言われ、内心ヤッター。車内に残る3人は、無言の行。
 市場に着いてみると、拍子抜けするくらい、のんびり。青海省の他の市場と変わるところなし。買い物をすませ、それなりに緊張して車に戻る。でも、でも、ぼんやりの気質が災いして、車のドアーに手をかけたとたん、緊張の糸プッツリ。「ただいま」と、いつもの声でみんなに挨拶。車内の3人、あわててわたしを、車中に引き込む。大失笑をかう。
 ピクニックは、大成功。地平線には山並み、広がる草原、並木の下の木陰でコーヒーを沸かす。日本から持参したコッフェルと固形燃料が威力を発揮。重い思いをした甲斐があった。ここで、沸かしたてのお湯で、コーヒー、紅茶をいただけるなんて、何に向かって感謝したらよいのやら。
 こんなのんびりとした旅も、すてたものじゃない。メニューは、鳥1匹、鳥の足(ほんとうに鳥の足だけ。ガイド、運転手には大人気。食べた日本人の感想は、一言、鳥の足臭い!!嫌い!!)、西瓜にメロン、トマト、キュウリ、パン、あとはコーヒー。奮発して桃も買ってしまった。
 この草原、広州、上海から送られた人たちが拓いたそうな。ここれもまた、文革の影だろうか?
 一路ラサをめざす。途中、塩湖。文字どうり塩の湖、湖畔に塩が波花のようにふきよせている。なめてみるが、精製してない塩は、塩辛いのではなく、苦いと知らされる。途中、塩の道があるという。塩を運ぶ道ではなく、塩で作った道だという。半信半疑、車を降りる。同行の三人、互いに顔を見合わせながら、内心、これだから中国の人の話にはつきあえないよね~~と思いつつ、しゃがみこむ。一斉のせい!で、道をなめると、ほんと!、道は塩辛いのでした。その道の名は、萬丈塩橋

  ◆6月11日:ゴルムド→アムド泊

 5000mを超える旅の始まりは、早朝5:30、まだ外は真っ暗。七時半ごろに、道教の寺に着く。山を背にして、一軒。海抜3500mをこえ、山脈は屹立し、草木もみあたらなくなっている。ここで、ただ一人修行している道士。庭先で朝食をつかわしてもらう。道士、傍らで、横笛を吹く。無音の世界に、笛のねのみ。遥かなかなたまで来たな~と、寝不足の頭を抱えながら、しんみりとする。
 ここのトイレの風流なこと、ピカ一でした。三方を赤レンガで囲まれ、上は、青天井。数m下は、赤茶色の水の流れる河。天然自然の”水洗”トイレ
 前に広がるのは草原、振り向いても草原。海抜4000mを超える草原、360度に広がる。点在するヤクの群れ、羊の群れ。
 野生動物がいるのではと目を凝らす。ヤッパリいた、アントロープ。こちらは車の中でジット見つめ、アントロープは、逃げようかどうしようかと、振り向いたままこちらをジット見つめる。幸せな、視線の交換。これは、人間の勝手な解釈か。
 同行の人、趣味が釣り。ぜひ1度釣り糸を垂れたいと。太公望の望みをかなえるのには、今日は絶好のロケーション。場所は長江(揚子江)に最初にかかっている橋のたもと。最初の橋とはいっても、さすが揚子江、生まれたてながら、川幅はすでに多摩川の川幅を超えている。
 涌き出る雲の下、釣り糸を垂れているのは、揚子江。回りはみはるかす草原、高山植物の開花時期をむかえ、草原に鮮やかな彩りをそえている。
 今回のピーク、唐古拉山脈5206mに向かう。抜けるような青空、遠くに雷鳴か?、空は光を失い、冬の夕暮れのようになるにつれ、体に響く轟音と化した雷鳴、稲妻は前方数千mの山肌に。車の中にいてさえもいささかの恐怖心。車はスピードを落とすも、前方の視界ゼロ。さっきまでの夏の青空は、などと思うまもなく、雨、嵐。
 気温が急降下、お互いに体を寄せ合う。雨はあっという間もなく、車にバラバラという音とともに。雨ではなく、(あられ)。それも、霰などという、なまやさしいものではない。ブッカキ氷を、上空からわたしたちの車めがけて、ブチまけたかのよう。内心、クワバラ、クワバラと呟く。



 あれよ、あれよといううちに、地表は霰で真っ白。高山植物の咲いている草原が、ホンノしばしの天候で、激変。冬世界に。
 唐古拉山口5206mについたときは、太陽が燦燦と、霰でうめ尽された地表をクリスタルガラスのように照り返している。30分前後の出来事に、茫然自失。チベットの人に習って、「ラジャロー、ラジャロー」の掛け声とともに、ルンタを撒く。天空の女神に感謝、感謝。

 女神が、わたしたちに微笑んだのか、足元から、虹が。燃え滾るような赤、抜けるような鮮やかさ。
 同行日本人といわず、中国人といわず、お互いの幸運にひたすら感謝、感謝。知らず知らずのうちに、お互いの眼に、光るものが。

  ◆6月12日:アムド→ナチュ→ダムション→ナムツォ泊(海抜4718m)

 ぬかるんだ道で、いまにも横転するのではないか。こんなに細い山道、瓦礫が一つこけただけで、車は、転落するのではないか。落ちて行く先は、数m下の河。そんな道を、揺られながらひたすら乗りつづけて、チベットの人が聖湖と崇めるナムツォに。厳しい景色には、ふさわしく途切れることのない高山植物の花々。
 太陽がまさに落ちきらんという時に、ナムツォに到着。刻一刻と夕闇迫り、周囲の山々はすでに暗闇、湖のみ薄明かり。海抜は5000mに近く、木々もなく、峻厳な景観。聖湖にふさわしい佇まい。

  ◆6月13日:ナムツォ→ラサ泊

 朝起きて、近くのゴンパ(寺)に行こうかと思うが、5000m近い海抜、さすが気力でず、ぼんやりと湖を見ている。これが、2度めの高山実感。
 いつのまにか、トイレは、青天井の下となってしまっている自分を発見!
 夜遅く、やっとラサに着く。ナチュからランクル変わるが、これがそうとう年代もの。これを警戒して、日本車を指定したのだが、敵もさるもの、日本車には違いないが、窓は動かず、なかなか発進せず。なんど、地元の人にお尻を押してもらったことか。最後には、やっぱりパンク。パンク修理を待つあいだ、道脇の木陰でしばし休憩。足元の水溜りを見るともなく見ると、うじゃうじゃとおたまじゃくし。のんびりと、う~~ん、今度からは、車種のみならず、使用年数も指定せねばならないのか。車を持たないわたしには、手に余ることになりそう。

  ◆6月14日:ラサ泊

 今日1日、旅の事務処理の日。両替したり、帰りの国内線チケットを買ったりと、野暮用ばかり。ふらりぶらりの貧乏たびは、これが、曲者。思わぬ時間を食う。午後から、セラ寺で、お坊さんたちの問答があるという。急遽、行くことにする。
 セラ寺の問答が行なわれている広場に近づくと、聞こえる、聞こえる。お坊さんの掛け声と、手を打ち鳴らすパチパチという音。広場に数十人のお坊さん、ほとんどが20歳前後だろうか。二人一組で、問いかけるものは立ち、答えるものは座り。日本での禅問答を考えていたら、大きくはずれ。言葉がわからないので想像するのみだが、内容禅問答、しかし、戸外で、大声を出しながらの禅問答は、肉体派禅問答とでも言っていい、爽快感。

  ◆6月15日:ラサ泊

 一日、パルコルをグルグルと回る。パルコルは、ジョカンという、チベット人にとって心臓とでもいうお寺を中心に、同心円状にある門前町かな。寺あり、食堂あり、宿あり、店ありと、ラサにいるチベットの人に必要なものは、すべてあり。さらに、ラサのチベット人は朝に、夕に、経文の入ったマニ車を左手にくるくると回しながら、口には、オンマニペメフム(南妙法蓮華経)。パルコルをグルグルとお寺巡り。

 6月は、お釈迦様の生誕月(チベット暦)。チベット各地からのお坊さんも、喜捨を求めて
、パルコルをぐるぐる。
 わたしたちも、負けじと、今日はパルコルを4周もしてしまった。暑さに疲れると、チベットのおばあさん、おじいさんのたまる寺ムルニンパに立ち寄り、一緒に休憩。狭い境内に、立錐の余地もないほどのチベットの人、人...。ホンの数語のチベット語で、おたがい分かったのどうか、不明ながら、ニコニコ、ニコニコ。チベットの人の、心やさしさを実感する一時。

  ◆6月16日:ラサ→シガツェ→ギャンツェ泊

 シガツェまでタクシーで行くと、その日のうちにギャンツェに着けそう。これは、ありがたいとタクシーを前日に手配。ラサを出て、ポタラ宮(右の写真(△1のp10より))を過ぎたあたり、右手前方から女の人が飛び込んできたかと、思うまもなくタクシーは急停車。女性2人、タクシーにぶつかる。一人は顔から血を流し、もう一人の人は助け起こされているところ。乗っていたタクシーに乗せ、病院へと言い残しその場を去る。そうこうするうちの人だかり。
 言葉をもたない悲しさ。トラブルに巻き込まれないように、立ち去るのみ。これでよかったのだろうか?、よかったのだと、自分を納得させるも、心沈む出来事。車中、全員声なし。
 ギャンツェに着き、事故の情報を集めるもうまくいかず。ギャンツェで、サカダワ(お釈迦様生誕の供養)があるはずと、片言の中国語で、情報を集めるが、埒があかず。同行者が、い合わせたアメリカ人から情報を得る。やはり、ある、ある。なにかありそう。これも、不確かな情報だが、居残る価値はあるぞ!

  ◆6月17日:ギャンツェ泊 白居寺

 白居寺で、僧侶によるチャム(雅楽かな?、ずいぶん違うけど)がある。
 朝粥を食べて出かけると、すでにチベタン大勢。ビーチパラソルを広げ、傘をさし、準備万端整っている様子。チャン(自家製ビール)を飲んだり、お菓子のすすめあいをしたり、昔の小学校の運動会の大型番。食べたり、飲んだりしているあいまに、チャムも見る。3時過ぎまで延々とつづく。
 高度4000mの空の下、となりのチベタンから借りた雨傘、日よけに有り難かった。でも、見終わって宿にもどるころには、フラフラ、魂の抜けたような疲労感。陽射しがちがう、日本とは。
 ギャンツェの町は、午後3時を過ぎるころになると、強風が吹きだす。強風というより、砂塵。目も開けていられず、時々、立ち止まる。この一陣の砂塵がおさまると、雨。打ち水をうったようなおしめり。日も暮れると、町はしっとりとした佇まい。
 数百人のチベット人が、周囲の集落から集まってくるのに、昨日たずねた漢族の人たちは、なにもないと、言う。いったい、どうなってるんだ?

  ◆6月18日:ギャンツェ泊 白居寺

 朝ご飯をいつもどうり、小龍包1こ、おかゆ1椀ですませ、ふたたび白居寺へ。白居寺のチョルデンをみる。大きく目玉を書いてある塔、42mにおよぶ高さ。下から右回りに上がりながら、各部屋の壁画、仏像を見学。最上階にとうたつすると、下界に、ギャンツェの町、前方にそびえる城壁。町の周囲は、菜の花畑、チンコー麦畑。目にやさしい光景ながら、頭に中には見てきたばかりの原色の仏像、壁画が旋回。息づいている仏教と自然という、チベットの旅の醍醐味。
 明日は、早朝から大タンカの開帳があるという。やったー!!

  ◆6月19日:ギャンツェ→シガツェ泊

 大タンカ(仏像画、数十m)の開帳。白居寺の裏山。朝、5時過ぎ、真っ暗闇のなか出かける。通りにでると、白居寺に向かうチベタンの人の流れ。「タシデレ」と朝の挨拶、「タンカ?」と聞くと、満面の笑みとともにうなづき、指差すは白居寺。やっぱりタンカの開帳があるのだと、確信。
 裏山とはいっても山は山、登らなくてはならない。カメラの入ったバックをチベタンのおばさんに持ってもらってやっと到達、裏山に。そのなかには、あれ~~、パスポートも入ってるのに、とは思っても持ってもらはないことには、いかんせん登れません。暗闇の中、登るにつれて、薄明かり、夜が明けてくる。大タンカの下では、20~30人の僧侶による法要の真最中。太鼓、ほら貝、シンバル、ドルジェの演奏もあり。
 読経の僧侶には、バター茶、炊き立てのご飯が振舞われていた。このご飯、バター茶のかおりのする、(なつめ)入りのとびきり甘い味。膝にひろげた布に、このご飯をつつんで、それぞれが懐にしまう。年のころ、ハイティーンの僧侶が半数以上なので、この甘味は、さぞかしご馳走になるだろう。
 今日は、まだまだ事件続出。ギャンツェからシガツェへ行く途中、公安のねずみ取りに出くわす。警察官一名同乗し、パスポートを取り上げられる。パスポートは、わたしの命なのに。ミニバスに乗ったままシガツェの公安に。ギャンツェは入境許可書が必要と、のたまう。しかるにわたしたちは、不法滞在だと。まあ、わたしたちは、入境許可書不携行ですけどね!、行きはいけいけ、帰りは通さないとは、なんなのこれは。罰金500元。
 公安の一室に着くと、ほかにまだ、数グループがつかまっている。緊迫した雰囲気はまるでなく、いくらまで値切れるのかと、耳を澄ますが、先着のグループの取り調べの声は聞こえず。罰金も値切らなくてはと、ムニャムニャとやっているうちに、200元に。ナンダ、コレハ。
 さらに追い討ち、同行者、またまた高山病で不調。公安から人民病院へ直行。酸素吸入、点滴。
 朝5時から、大奮闘。ホット一息ついて食事にありついたのは、夜8時頃か?、ほとほと疲れた。

  ◆6月20日:シガツェ→ラサ泊

 シガツェで、タシルンポ寺を見学。中国政府がリキをいれていると見えて、文革の痕跡払拭。寺入口のおこもさんは、すざましかった。いままで出会ったおこもさんたちの、なんとのんびりしていたことか。回りから、助けられる度合いの差か?、寺のぴかぴかの復興と、半ばプロ化したおこもさん。他の地区では見られなかった光景。ここには、もう来ません!!

  ◆6月21日:ラサ泊

 ふたたび、パルコルをうろうろ。物欲の女王とかして、チベット絨毯にまで、食指をうごかしそう。

  ◆6月22日:ラサ泊

 ガンデン寺に行く。ジョカンの前からミニバスに乗る。出発前は、見慣れたいつもの光景。物売りが入れ替わり、立ち代り登場。カター一枚一元、ルンタ一束一元、飴もと、見飽きない光景。
 ガンデン寺は標高4000mを超すところに位置。もう、高度順化がすんでいるので、何の問題もなし。ラサからミニバスで、2時間。建物は、復興したようだが、壁画、仏像あまりの稚拙さに目を覆わんばかり。文化革命による破壊の深さ、想像を絶する。
 チベット人の寺参りは、どうも2種ありそう。寺の中を、バター灯明をあげながら、くまなく回るのと、寺の外回りを大きく回るのと。ここでは、外回りするチベット人のあとを追跡。細い山道、こわごわついて行くも、あっというまにおいてきぼり。どんな年寄りを選んでついて行っても、ダメ、置いてけぼりの憂き目に。でも、次から次へと、チベット人はネーコルして来るので、先達を選ぶのに困ることなし。チベット人は、いわくありげなところで祈ったり、その土をほじって手にとったり、大岩のあいだをすりぬけたり、両手で遠眼鏡をしてその大岩をながめたりと、楽しげな信仰活動にいそがしそう。



 このネーコルの途中、上空を禿げたか数羽。そばにいたチベットの女のこのジェスチャーで、鳥葬と気づく。道の下、数100mか。僧侶が読経の傍ら、解体使遺体を解体か、と思うまもなく、禿げたか数十羽、上空から突撃、凝集。この間数十分。見学に駆けつけたチベット人、五体投地をしてその場を離れ、僧侶も離れ。あとには何事もなかったかのように、禿げたかが上空を旋回。禿げたかは、ずんずん旋回、いつのまにかに遥かかなた。魂を天空に運ぶかのよう。
 写真集で見ていた鳥葬の阿鼻叫喚の印象とは無縁。自然に抱かれた、静かな鳥葬。禿げたかは、天から使わされた、魂の運搬人ではなかろうか?

  ◆6月23日:ラサ→成都→北京泊

 乗り継ぎ便でも、その日のうちに下界に。北京ダックで打ち上げ。ああ、都会の食べ物は美味、美味!もう、旅もおわり。

  ◆6月24日:北京→成田?

 朝6時に北京市内からタクシーで空港へ。雨の中、早朝なので交通渋滞にまきこまれることなく、空港着。支払いをめぐって運チャンと少々摩擦。帰国を控えて、中国人から日本人に変身をおえてしまっているので、値切るエネルギー湧かず、言われるまま、プラス20元。150元で20元の釣り。
 これが、偽札事件の発端とはつゆしらず。小銭の消化などといいながら、下界価格の7~8倍を払いつつ面を待つこと暫し。係員が来て、さきほどの支払いの中に偽札がと。10元札、2枚。急に偽札といわれても、どこでつかまされたか見当もつかず、前前日の中国銀行の両替ばかりが脳裏にうかぶ。めんを食べ終えて、得心。あの運チャンが怪しい。たったの20元、北京の運チャンにとってもたいした金額とも思えないが、でも、あの運チャンからもらった釣銭の20元紙幣。これしかない、怪しいのは。
 昨晩の北京市内の運チャンの市内グルグル回りといい、今日の運チャンといい、北京の人は、あたりは柔らかいが、することがえげつないと怒り心頭。同行者たち、わたしよりさらにボルテージあがる。わたしも、できない中国語でタクシーの車内しゃべりつづけた挙句のこの出来事二つ、とうぶん中国はイヤダ。
 まったく、都会の人間ほど文明態度から遠のくのはなぜか?、怒りつつ機内に、8時半。旅の疲れで、しばし昼寝。
    Z.z.z... (-_-;)

 うん?、変だゾ、飛行機飛んでいる形跡なし。隣席の人に聞くと、飛行機の故障でそのまま空港にいるということらしい。朝食を食べさせられても、ダメ。延々と3時過ぎまで機内に幽閉。空調もきかず、飛行機の扉を開けるが、温度は上昇。回りを見渡すと、みな額に汗。
    (>o<)

 やっと、空港に戻るが、係員の説明まるでなし。1、2人の係員を、情報を求めて取り囲むが効果なし。飛び交う怒号の叱責。延々と6時過ぎまで。やっと5星ホテルに移送されたのは7時過ぎ。朝から12時間近く経過。あのまま飛んでいればとっくの昔に、ヨーロッパに着いているぞ。
 やれやれ、情報のない中のトラブルはストレスが高い。

  ◆6月25日:北京→成田

 予行演習の甲斐あって、なにごともなく帰国できました。

                \(^O^)/

 ■旅を振り返り

 わたしは、ひさかたぶりに読みかえして、再度旅を楽しみましたが、余人に読む価値があるのかどうか、不明です。
 エルニーニョさんの呼びかけで、読み返して、楽しい時間が過ごせました。
    感謝!、感謝!

 でも、旅の虫を、起こしたようです(2003.08.16)。

 ■エルニーニョからの二言目

 やあ、ミドリコさん、どうも有り難う御座います。中々厳しい旅をして居ますね。
 私も2001年に濃霧の為に空港で数時間待たされたことが有りました(←奇しくも同じチベット族の中甸で)が、やはり何の説明も無かったですね。まあ、この時は外を見れば濃霧だということは一目瞭然でしたが、やはり説明無しでしたよ。サービス精神というものが全く無い!
 しかし、これは必ずしも国民性の所為だけでは無いですね、中国の空港で働く人は公務員ですから。日本でもサービス精神の有る役所など皆無です。つまり「官は強し、民は弱し」です。尤も中国は「漢は強し」が1枚付加されますが、ムッフッフ!
    {この文章は2004年2月29日に最終更新しました。}
    {その後、出版する為に2019年3月30日に写真を追加しました。尚、ミドリコさんのチベトの写真は2006年の撮影です。}


 尚、[ミドリコさんの旅行記]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

♪♪♪ おしまい ♪♪♪

【脚注】
※1:チベット(Tibet、西蔵)は、中国四川省の西、インドの北、パミール高原の東に位置する高原地帯。18世紀以来、中国の宗主権下に在ったが、20世紀に入りイギリスの実力に依る支配を受け、その保護下の”ダライ・ラマ自治国”の観を呈して居たが、第二次大戦後中華人民共和国が掌握、1965年チベット自治区と成る。住民は殆どチベット族で、チベット語を用い、チベット仏教を信仰する。平均標高約4千mで、東部・南部の谷間では麦などの栽培、羊・ヤクなどの牧畜が行われる。面積約120万㎢。人口239万(1995)。区都ラサ(拉薩)

※2:ラサ/拉薩(Lhasa)は、(チベット語で「仏の地」の意)中国チベット自治区の区都チベット仏教(=ラマ教)の聖地。標高3500mの高地に在り、マルポリ(紅山)の上にはダライ・ラマポタラ宮(世界遺産)、市内にチベット仏教の総本山のジョカン大聖殿が在る。唐代には吐蕃(とばん)の邏娑(ラサ)城として知られた故地。人口22万3千(2000)。ラッサ。
※2-1:ダライ・ラマ/達頼喇嘛(Dalai Blama)は、(ダライはモンゴル語で「大海」、ラマはチベット語で「師」の意)チベット仏教ゲルク派の法王。代々転生者が相続する。歴代法王の名がギャンツォ(大海)で終るので、ダライ・ラマと称される。1642年のダライ・ラマ政権樹立以後、チベットの首都ラサにポタラ宮を造営し、観音菩薩の化身として政教両面に亘るチベットの法王と成る。現在の14世テンジン・ギャンツォは、1959年以来インドに亡命中。ギェルワ・リンポチェ。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『チベット密教の本(死と再生を司る秘密の教え)』(学研編・発行)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
参照ページ(Reference-Page):中国や日本の旧暦と季節の歳時記▼
資料-「太陽・月と暦」早解り(Quick guide to 'Sun, Moon, and CALENDAR')
ミドリコさんのタイ族民家のホームステイ日記▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
チベット族地域の他の旅行記(濃霧で飛行待機)▼
2001年・紅葉の中甸(Red leaves of Zhongdian, China, 2001)
回族について▼
昆明の「清真」通り('Qingzhen' street of Kunming, China)
日本の「端午の節句」▼
2004年・鯉幟の町-加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)
モンゴル族の五体投地礼の様子▼
まどかの1998年中国・モンゴルの旅
(Travel of China and Mongolia, 1998, Madoka)

チベット族などについては「中国の少数民族」からどうぞ▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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