北斎の「琉球八景」
(Hokusai's 'Ryukyu 8 scenic spots', Naha)

-- 2015.05.15 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2015.12.30 改訂

 ■はじめに - 徐葆光と周煌

 私が葛飾北斎の『琉球八景』(※1)という絵(←厳密には木版画)が在る事を知ったのは沖縄に来てから(△1のp15)、即ち2013年3月にモノレールの見栄橋駅の近くに在る「長虹堤」の説明板を見てからです(→第6景「長虹秋霽」の章で詳説)。それで「長虹堤」を色々知らべて行ったら北斎の『琉球八景』の第6景「長虹秋霽」に行き当たったという訳です。そして北斎の『琉球八景』は素晴らしい!、と感動して仕舞いました。
 そして更に色々知らべて行ったら周煌著の『琉球国志略』(※2)という書物に北斎が参照した8枚の元絵が在り、「琉球八景」の漢詩が徐葆光(※2-1)に依って詠まれて居ることが解り、それで「琉球八景」を纏めてみようと思い立った次第です。
 尚、『琉球国志略』は原田禹雄氏が訳注を施した『周煌 琉球国志略』(周煌著、原田禹雄訳注、榕樹書林)(△2)を基本文献とし、必要に応じて平田嗣全氏訳注のもの(△2-1)を参照して居ます。
 さて、その8枚の元絵は

  首巻の「図絵」(△2のp70~85)

に載って居ます。徐葆光の漢詩は

  第1景「泉崎夜月」:巻5 の「山川」の「橋梁」(△2のp375)
  第2景「臨海潮聲」:巻7 の「祠廟」の「寺院」(△2のp462)
  第3景「粂村竹籬」:巻4下の「風俗」の「屋宇」(△2のp316)
  第4景「龍洞松濤」:巻8 の「勝蹟」の「龍洞」(△2のp496)
  第5景「筍崖夕照」:巻5 の「山川」の「国内の山」(△2のp329)
  第6景「長虹秋霽」:巻5 の「山川」の「橋梁」(△2のp376)
  第7景「城嶽靈泉」:巻7 の「祠廟」の「嶽祠」(△2のp444)
  第8景「中島蕉園」:巻5 の「山川」の「国内の山」(△2の330)

にそれぞれが在り、この第1景「泉崎夜月」~第8景「中島蕉園」を「琉球八景(=中山八景)」と呼びます(←『琉球国志略』では「中山八景」と呼んで居ます)。中山(ちゅうざん)とは琉球の別称(※3)なのです。又、徐葆光の「中山八景」は全て五言絶句(※4~※4-4)で詠まれて居ます。
 徐葆光(?~1723年)は康熙帝の1719年夏に琉球尚敬王の冊封副使(←正使は海宝(かいほう))として来琉しているのに対し、周煌(1714~85年)は乾隆帝の1756年夏に尚穆王の同じく冊封副使(←正使は全魁(ぜんかい))として来琉して居り、その年代的開きは37年有り、この時には徐葆光は既に他界して居ます。つまり冊封副使として来琉した徐葆光と周煌は冊封が1代異なって居る事に注意して下さい。即ち、この『周煌 琉球国志略』の徐葆光の詩は全て引用なのです。訳者の原田氏が「はじめに」で述べている様に「その多くを端木という姓の人物によって書かれ、周煌がそれに目を通しつつ、加筆したのではないか、と考えられる。...<中略>...『志略』のほとんどが、諸書の引用によって成立しているのだが、引用にあたって誤字と脱字が多い。更に、引用した書名の誤記もある。」という事です(△2のp2)。私が『琉球国志略』の【脚注】に「誤記が多いのが難点。」(※2)と付したのは、その為です。

 ■北斎の『琉球八景』

 北斎の『琉球八景』については今迄も少し触れて居ます。例えば「日本、珍にして奇なる光景#2」に於いては「北斎の『琉球八景』は『琉球国志略』のモノクロの元絵を、北斎 -北斎は沖縄には来て無い!- がカラーの版画にした非常に”優れ物”です。この元絵から北斎の版画が作れるとは誰も思わないでしょう、それ程素晴らしい北斎の創作です。」と既に述べて居ます。
 「「文化スケベ学」とは何ぞや?」に於いては『琉球国志略』は【脚注】※2に在る様に周煌の著。1756(乾隆21)年に冊封副使として来琉し約7ヶ月の滞在経験を纏めた地誌で、翌年に上呈される。後に日本に伝わり、1831(天保2)年と1832(同3)年に和刻本が刊行」され、この和刻本を元に北斎は1832(天保3)年の琉球王の使節の「江戸上り」に併せて刊行したものです。当時「江戸上り」は江戸町人の好奇の的(まと)で、「琉球八景」は江戸の土産物として売られました。しかし私が驚くのは原図は拙い白黒の絵、ところか北斎のはカラーの浮世絵で恰も見て来た如くの見事な出来で、原図を遥かに凌いで居る点です。『富嶽三十六景』の筆力(※1-1)は伊達じゃ無いですゾ!!」と述べて居り、そして私は何時か『琉球八景』について書いてみたいと密かに思って居ます、北斎の晩年は小布施に行ったりと余り知られて無い事実が在るのです。」と思いを吐露し、その思いが実現したのが当ページです。「「文化スケベ学」とは何ぞや?」は既に出版して居て本のタイトルは『文化スケベ学のすゝめ』という本です(△1-1のp31)ので、宜しく!

 (1)江戸上り

 江戸上り1634~1850年に18回行われ、琉球国王即位の謝恩使と将軍交代時の慶賀使が在ります。島津家久(※5)が琉球を帰属させた -帰属とは島津氏・幕府側の捉え方で有り琉球から見たら侵略です- のが1609(慶長14)年ですから、「江戸上り」はそういう”政治的な状況”と密接な関係に有った事、島津氏・幕府側としたら「江戸上り」を思い切り派手に演出する必要性が有った事、は押さえて置く必要が有ります。

 左の3枚 -本当は横に長い1枚です- が1832(天保3)年の「江戸上り」(第16次の謝恩)を描いた「琉球人行列彩色」の浮世絵で、尚育王が将軍徳川家斉に謝恩を表す為に総勢98人の謝恩使を送ったのです。
 先頭グループ(=第1グループ)は「金鼓」と書かれた旗を持ち、銅鑼や喇叭や皷(つづみ)が続きます。
 第2グループは騎馬の掌翰史、次いで「豊見城王府」と書かれた牌を持ち、凉傘という差傘の後、豊見城王の登場で、最後に鑓(やり)龍刀で背後を守ります。
 第3グループは白馬に乗った童子が続きます。 更に行列には音曲も奏され、琉球人行列は賑やかで色鮮やかなので、江戸町人の好奇心を大いに引いたのです。江戸上りは今風に言えば琉球パレードですが、しかし略1年掛かりの行列なのです。
 尚、正使の尚楷(豊見城王子朝春)は往路の鹿児島にて死去した為、普天間親雲上朝典が急遽豊見城王子役を務めました。
 

 (2)『琉球八景』は代表作『富嶽三十六景』と同時期に制作
      - 北斎72歳の時

 北斎は89歳迄生きましたが『琉球八景』は1832年の作と考えられ、晩年に差し掛かった72歳の時の作品です。ここで北斎が「カラーの版画」で描いたと記しましたが、この様な多色刷浮世絵版画を専門用語で錦絵(※6)と言います。ご存じの如く北斎は浮世絵師です。上述の『富嶽三十六景』は北斎の代表作ですので、機会が有れば『富嶽三十六景』をご覧になって下さい。私が何故この様なことを言うのか?、と問われれば『富嶽三十六景』(※1-1)も1831(天保2)年から刊行を開始して居り、つまりこの『琉球八景』は代表作『富嶽三十六景』と同時期に制作して居るからです。しかし70歳を過ぎてから代表作を制作するとは凄いと言う前に”驚き呆れる”ばかりです。こういう人は大いに長生きして欲しいですが、最近の鈍(なま)った社会で多老(←これは私の造語です)を貪りダラダラ生きて居る年寄り -はっきり言って余剰老人- が多いのには閉口します、何とか為らないものでしょうか。

 ところで、北斎の『琉球八景』の表題は全て右の様な枠の中に書かれて居ます。

  第1行  ××××     サブタイトル
  第2行  琉球八景     メインタイトル(共通)
  第3行  前北斎為一筆   作者(共通)

 第1行の「××××」が第1景~第8景のサブタイトルです。この例は第2景「臨海湖聲」です(←右の写真で元絵の”潮”が”湖”に成っている事については後で詳述します)。第2行と第3行はどれも共通です。
 ここで第3行ですが、これは「以前の北斎、今は為一が筆を執る」という意味です。「為一(いいつ)」は北斎の画号の一つで、北斎という人は【脚注】※1に示した様に画号を幾つも使い分け、その中に「為一」も在ります。しかし「為一」という画号は「北斎」程には行き渡って居ないので「前北斎」と入れてある訳です。

 ■第1景 - 泉崎夜月(いずみざきやげつ)

 『琉球国志略』に泉崎橋は漫湖の支流にある。二つの橋門に月が照ると、つねに月光が澄みわたり、青々とした水が広々とたたえて、まるで玻璃世界の中のようで、もはや凡俗の思いもなくなる。中山八景のひとつである。徐葆光の「泉崎夜月」の詩に、

    名月送潮来    月きよく潮みちきたり
    橋上不知暮    暮れなずむ泉崎橋
    遥見渡頭人    はるかなり渡し場のひと
    紛紛厰西去    おのがじし陶廠(壺屋)の西へ

と、ある。ここは壺屋に近いので、そういっているのである。」
と、巻5の「山川」の「橋梁」に出て来ます(△2のp375)。


 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「泉崎夜月」の絵です(△2のp70~71)。


 下が北斎の「泉崎夜月」の錦絵です。

 ■第2景 - 臨海潮聲(りんかいちょうせい)

 『琉球国志略』に臨海寺は那覇の北砲台(三重城)の堤防の上にある。旧名は定海寺である。汪楫の隷書の「臨海寺」の額がある。国王の祈願所である。門は東向き、仏堂は南向きで三楹である。東向きに板閣ひとつがある。石垣が四周し、汐は石垣の下までよせる。中山八景のひとつである。鐘があり、明の天順三(1459)年の鋳造である。」と情景描写され(△2のp461)、続いて胡靖の詩が引用され、その後で「徐葆光の「臨海潮聲」の詩に、

    晨鐘応潮生    あかつきの鐘に潮みち
    夕唄応潮止    夕ぐれの経に汐ひく
    老僧無我聞    老僧は聞く耳もたず
    常定潮声裏    汐の音(ね)に定坐(じょうざ)まします

と、ある。」
と、巻7の「祠廟」の「寺院」に出て来ます(△2のp462)。

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「臨海潮聲」の絵です(△2のp72~73)。

 下が北斎の「臨海”湖”聲」の錦絵です。元絵は「臨海潮聲」ですが、北斎はどういう訳か不明ですが「臨海湖聲」にして在り、「潮」→「湖」への転換が成されて居ます。「臨海”湖”聲」の表題の拡大写真は先程見た通りです。字を読み違えたとは考えられません、何故ならば上の元絵では荒波が立って居るからです。対して下の北斎の絵では水面は静かです。これは明らかに北斎が意図的に転換したものです。
 北斎という人は諧謔精神が旺盛で、洒落や飄逸な冗談や川柳などが大好きでした -これは「当サイトのコンセプトについて」とも共通して居ます- から、日本人が馴染み深い琵琶湖とか霞ヶ浦に場所を移したのでしょう。

 ■第3景 - 粂村竹籬(くめむらちくり)

 『琉球国志略』に「この国の人は、朝起きると、この所で顔を洗う。湯を使わないからであろう。村の小路は、すべてきわめてゆったりとして清らかである。細かい葉の小さなを植えこんだり、十里香を並べて植えて、生垣にしており、時々剪定して、きっちり形をととのえる。久米村では、これが最も盛んで、中山八景のひとつである。徐葆光の「粂村竹籬」の詩に、

    村村編竹墻    村々の竹のいけ垣
    筠緑満秋径    秋の径(みち)いま竹の春
    客伴迷東西    つれだちて迷うたのしさ
    隔籬忽相応    よびかわす垣根ごしにて

と、ある」
と、巻4下の「風俗」の「屋宇」に出て来ます(△2のp316)。

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「粂村竹籬」の絵です(△2のp74~75)。


 下が北斎の「粂村竹籬」の錦絵です。

 ■第4景 - 龍洞松濤(りゅうどうしょうとう)

 『琉球国志略』に龍洞は奥[武]山にある。多くの松が青々と茂り、清らかな風が静かに吹きよせるたびに、波の音と松風とがひびきあう。中山八景のひとつである。徐葆光の「龍洞松濤」の詩に、

    中山松最奇    中山の松めずらしく
    臨水更増勝    汀(みぎわ)にはさらにすぐれぬ
    虚涛応暮潮    松風と夕潮きこえ
    颯然満秋聴    吹く風にこの秋のおと

と、ある。」
と、巻8の「勝蹟」の「龍洞」に出て来ます(△2のp496)。

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「龍洞松濤」の絵です(△2のp76~77)。



 下が北斎の「龍洞松濤」の錦絵です。

 ■第5景 - 筍崖夕照(じゅんがいせきしょう)

 『琉球国志略』に波上は辻の東北にある。一名、石筍崖(※11)という。この山の下の海には、石芝や石松が生えており、その多くは白色で多孔性で、精巧にできており、枝が四方にひろがったようになっている。山の上は、石垣で四方を囲み、木造の高殿が三棟ある。かたわらにあるのは、護国寺である。その石の崖の左に小さな祠がある。八月十八日の夜には、人々はここで潮をみる。中山八景のひとつである。」と在り(△2のp328)、続いて胡靖の「波上」の詩が引用され、その後で「徐葆光の「筍崖夕照」の詩に、

    日日晩来遊    日々おそく来たり遊べば
    残霞水外浮    夕光(ゆうかげ)は海にうかべり
    郷心随日下    郷心(さとごころ)日とともに消え
    不覚海東流    知らざりき海の東流(とうる)を

と、ある。」
と、巻5の「山川」の「国内の山」に出て来ます(△2のp329)

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「筍崖夕照」の絵です(△2のp78~79)。



 下が北斎の「筍崖夕照」の錦絵です。

 ■第6景 - 長虹秋霽(ちょうこうしゅうせい)

 『琉球国志略』に「長虹橋は真和志の牧志村の長虹隄の上にある。その近くには塩田が多い。中山八景のひとつである。徐葆光の「長虹秋霽」の詩に、

    跨海臥長隄    海越えて堤つらなり
    秋来宜暁望    秋きたり暁にみゆ
    脚底彩雲生    足許ゆ彩雲(あやぐも)はわき
    月在虹霓上    虹の上(え)に有明の月

と、ある。」
と、巻5の「山川」の「橋梁」に出て来ます(△2のp376)。

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「長虹秋霽」の絵です(△2のp80~81)。




 下が北斎の「長虹秋霽」の錦絵です。



 ところが『北斎漫画』に、この絵の下絵らしき絵が載って居るのです。「南海 長虹橋」という画題が入って居ます(△xのp272~273)。「南海」は沖縄の海を表して居ます。蚭。虹。





 ■第7景 - 城嶽靈泉(じょうがくれいせん)

 『琉球国志略』に城嶽は真和志の古波蔵にある。老松がびっしりと生い茂り、百株もあろうか。東へ三十余歩ゆくと、泉があって、旺泉と名づけられている。石から流れ出て、甚だ甘潔で、中山八景のひとつである。徐葆光の「城嶽靈泉」の詩に、

    瑞泉托王居    瑞泉は王宮に出て
    巨榜標金闕    その名をば額にかかげぬ
    玉乳瀉巌溜    玉乳は流れてたまり
    泠泠自幽絶    冷たくてかすかなるかも

と、ある」
と、巻7の「祠廟」の「嶽祠」に出て来ます(△2のp443~444)。

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「城嶽靈泉」の絵です(△2のp82~83)。



 下が北斎の「城嶽靈泉」の錦絵です。

 ■第8景 - 中島蕉園(なかしましょうえん)

 『琉球国志略』に中島は泉崎にあり、南は奥[武]山と[漫]湖を距てて遥かにむかいあっている。昔は芭蕉が多かったのだが、今はない。中山八景のひとつである。徐葆光の「中島蕉園」の詩に、

    芭影墻頭合    まがき越し芭蕉(ばしゃ)は茂りて
    人家住録雲    人住めり緑の蔭に
    機声織明月    月きよく機を織る音
    幅幅冰綃紋    織りなせりつめたきあやめ

と、ある。」
と、巻5の「山川」の「国内の山」に出て来ます(△2のp329~330)。

 左が『琉球国志略』の首巻の「図絵」に載っている「中島蕉園」の絵です(△2のp84~85)。



 下が北斎の「中島蕉園」の錦絵です。

 ■結び - 




φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:葛飾北斎(かつしかほくさい)は、江戸後期の浮世絵師(1760~1849)。元は川村氏、後一時中島氏。江戸本所に生れる。葛飾派の祖。初め勝川春章の門に入り、春朗と号し、後に宗理・画狂人・戴斗・為一・卍など、画風と共にしばしばその号を変えた。洋画を含む様々な画法を学び、優れた描写力と大胆な構成を特色とする独特の様式を確立。版画では風景画や花鳥画、肉筆画では美人画や武者絵に傑作が多く、「北斎漫画」などの絵手本や小説本の挿絵にも意欲を示した。フランス印象派に影響を与えたとも言う。高名の割りに終生貧しかった。代表作「富嶽三十六景」、他に「諸国名橋奇覧図」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:富嶽三十六景(ふがくさんじゅうろっけい)は、葛飾北斎画の浮世絵版画の揃物。富士山を主題とし、全46図。1831年(天保2)刊行開始「凱風快晴」(通称「赤富士」)、「神奈川沖浪裏」は特に著名。






※2:琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)は、周煌の著。1756(乾隆21)年に冊封副使として来琉し約7ヶ月の滞在経験を纏めた地誌で、翌年に上呈される。後に日本に伝わり、1831(天保2)年と1832(同3)年に和刻本が刊行され、北斎の「琉球八景」(1832)の元絵と成った。誤記が多いのが難点。



周煌 编辑

周煌(1714—1785年),字景桓,号绪楚,又号海珊(一作海山),为清代四川涪州(今重庆市涪陵区)人。乾隆二年(1737年)二甲进士,任翰林院编修19年。1756年奉诏以中王副使出使琉球,3年后归,升侍讲学士、内阁学士。1755年任《四库全书》总阅,后历任工部、兵部尚书,皇太子总师傅,都察院左都御史等职。卒后諡号文恭。周煌一生能文工诗善书,笔法遒劲,著作颇丰,有《琉球国志略》、《海山诗稿》等近10种。《清史稿》有传。其有关作品收录于《益州书画录》中。


※2-1:徐葆光(じょほこう)は、清の官僚(?~1723)。江蘇省出身。字は亮直。号は澄斉。1719年琉球尚敬王の冊封副使として、正使の海宝(かいほう)と共に来琉。詩文を通じて琉球の文人と交流し、滞在中に見聞を調査して「中山伝信録」を著した。雍正(ようせい)元年死去。中山八景の漢詩は後に葛飾北斎の「琉球八景」のイメージを喚起した。



※3:中山(ちゅうざん)とは、この場合、琉球の別称。

※4:五言絶句(ごごんぜっく)は、漢詩形の一。五言四句から成る近体詩。六朝の民歌に起り、唐代に至って形が定まった。五絶。
※4-1:絶句(ぜっく)とは、この場合、漢詩形の一。4句から成り、起・承・転・結の構成を採る。1句が五言のもの(五言絶句七言のもの(七言絶句とが在る。六朝の民歌に源を発し、唐初に確立、盛唐に至って盛行。その平仄法(しょうそくほう)は律詩の前半、又は後半に準拠。
※4-2:平仄(ひょうそく)とは、[1].平と仄。平字(ひょうじ)仄字(そくじ)。又、漢詩作法に於ける平字・仄字の韻律に基づく排列の決まり。
 [2].辻褄。条理。
※4-3:平字(ひょうじ)とは、漢字の四声(しせい)の内、平声(ひょうしょう)の韻に属する漢字。←→仄字(そくじ)。
※4-4:仄字(そくじ)とは、漢字の四声(しせい)の内、上声・去声・入声(にっしょう)の漢字。即ち仄声韻の漢字。←→平字(ひょうじ)。

※5:島津家久(しまづいえひさ)は、安土桃山~江戸初期の武将(1576~1638)。慶長の役に父義弘と共に従軍。薩摩藩主と成り琉球を1609(慶長14)年に帰属させた。

※6:錦絵(にしきえ)は、1765年(明和2)鈴木春信らに依って創始された華麗な多色刷浮世絵版画。以後、浮世絵版画の代表的名称と成り、春信始め鳥居清長喜多川歌麿歌川豊国葛飾北斎歌川広重ら優れた作者と彫師摺師との協力の下に主題と技法の幅を広げ、広く世に迎えられた。江戸絵。吾妻錦絵。東錦絵。





※11:石筍(せきじゅん)とは、鍾乳洞の床上に水が滴下し、含まれている炭酸カルシウムが沈殿・堆積して生じた筍(たけのこ)状の突起物





    (以上出典は主に広辞苑)

【参考文献】
△1:『めんそーれ沖縄! ~新天地沖縄と物外館の思い出~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△1-1:『文化スケベ学のすゝめ ~「文化の地下水脈」に光を当てる~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。

△2:『周煌 琉球国志略』(周煌著、原田禹雄訳注、榕樹書林)。
△2-1:『周煌 琉球国志略』(周煌著、平田嗣全訳注、三一書房)。





△x:『北斎漫画 2.森羅万象』(葛飾北斎著、和田京子編、青幻舎文庫)。全3巻(1.江戸百態、2.森羅万象、3.奇想天外)で4000枚に及ぶ北斎漫画を全て網羅して居ます。




△7:『沖縄県の歴史』(新里恵二・田港朝昭・金城正篤著、山川出版社)。


●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):諧謔や飄逸な洒落は
当サイトのコンセプトの一つ▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
参照ページ(Reference-Page):南西諸島と沖縄の地図▼
地図-日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)


補完ページ(Complementary):浮世絵の春画や
北斎の『琉球八景』について言及▼
「文化スケベ学」とは何ぞや?(What is the Cultural Sukebelogy ?)
私が那覇へ引っ越した理由▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)


北斎の『琉球八景』の第6景「長虹秋霽」に言及▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)



「多老」社会や余剰老人について▼
日本の現状は「多老」だ(Present Japan is the SURPLUS OLD-PEOPLE society)







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