2005年・伊勢鹿伏兎城
[鈴鹿関の温故知新・その1]
(Ruins of Kabuto castle, Mie, 2005)

−− 2005.03.03 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.03.10 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
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 ■はじめに − 遠足の様な車中

 05年2月13日(日)、「日本古城友の会」(尾原隆男会長)の皆さんと伊勢の鹿伏兎(かぶと)城跡を見て来ました。
写真0:柘植駅に停車する関西本線のワンマンカー。
 午前10時45分にJR関西本線の加太(かぶと)駅に集合、ということでしたが8時20分に天王寺駅から大和路快速に乗り、加茂駅(京都府)でローカル色の強い亀山行き普通列車のディーゼル・ワンマンカーに乗り換えて、10時28分に加太駅に到着。何と2時間ちょい列車に乗った訳です。右が柘植駅に停車中のワンマンカーです。
 2輌編成の前の車輌は殆ど「古城友の会」の”貸し切り”状態、途中伊賀上野城加太越えのスイッチバック(後述)で喚声を上げ、丸で子供の”遠足”の様でした。
 加太、同じ字を「かだ」と読むと和歌山県の南海加太支線の終点駅に成って仕舞いますが、ここは三重県鈴鹿郡関町大字加太市場の「かぶと」です。

 ■伊勢鹿伏兎城

 (1)加太駅

写真1−1:加太(かぶと)駅舎。 駅舎はプレハブの無人駅ですが、大きな一枚板に「加太驛」と墨書した表札が中々オシャレです(左の写真)。駅には郵便ポストが1つと自動販売機が有るだけです。
写真1−1:加太駅前の福祉バスの時刻表。 バス停が在るので覗くと三重交通の「福祉バス」が中学生以上100円・小学生50円・幼児は無料で、僅かに運行して居る様です。右の写真が時刻表です。
 他には駅の南南東に聳える錫杖ヶ岳の案内板が在り、加太が古代の大和みち(大和街道、現在の国道25号線)に沿って開けたこと、大海人皇子(=天武天皇)や義経や家康が加太越えをしたこと、加太は良質の杉・檜を産すること、錫杖ヶ岳(676m)は円錐形をした修験道の山であり雨乞いの山であったこと、などが記されて居ます。
 こういう山は大抵の場合、私が探求して居る神奈備・磐座信仰の対象とされて居る筈なので調べてみたら、案の定そうでした。その詳細を▼下の[ちょっと一言]▼に纏めて置きましたので、興味有る方はご覧下さい。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 鈴鹿郡関町加太と安芸(あげ)郡芸濃(げいのう)町河内との境に聳える布引山系の錫杖ヶ岳は、本文に記した様に遠方からでも目立つ三角形の山容から、古くから磐座信仰(=神道)と修験道(=仏教)の聖地 −両方の信仰が重なる山は多い− とされて来ました。山名は修験者の持つ錫杖に由来するとも、その形から地元で「雀頭(じゃくとう)」と呼び習わされて来た岩稜が頂上に在りこれが訛ったとも伝えられて居ます。又、江戸時代の画家・谷文晁は「日本名山図会」に「百丈岳」として描いて居ます。
 晴れた日には遠く木曾御嶽や伊勢湾・知多半島迄見渡せる、という山頂は突兀(とつこつ)とした岩から成り、この岩が雲を呼び寄せ雨を降らすと考えられて来た様です。山頂の石碑には「大日如来、立志大明神、飛龍大権現」と在り、正に修験道・磐座信仰(立志大明神は芸濃町の立志神社の祭神)・龍神信仰(雨は龍神が降らすと考えられて居ます)の神仏習合の聖山で、「南無八幡大菩薩」の幟を先頭にした雨乞い登山は大正時代頃迄続いて居たそうです。南側山麓には安濃(あのう)ダムの人造湖・錫杖湖が在ります。


 (2)鹿伏兎氏の墓所

写真2−1:神福寺と牛谷山。 駅から100m位西の踏切を渡ると直ぐに神福寺が在り、その裏山が城山の牛谷山(標高264m)です(左の写真)。神福寺は嘗ての鹿伏兎氏の居館と言われ、今は鹿伏兎氏の菩提寺です。
 寺の山門の入口には「鹿伏兎氏菩提所」の石柱「三重県指定史跡 鹿伏兎城跡の案内板」が在ります。
 左下の写真は、その案内板の地図部分(囲みの中が簡単な縄張図)で、下に「霊山道及び城跡は未調整の為遂行注意」と書かれて居ます。
写真2−2:鹿伏兎城跡の案内板の地図と縄張図。写真2−4:鹿伏兎氏の墓の五輪塔の拡大。写真2−3:鹿伏兎氏の墓。

 寺の境内の西側が墓地で、入って直ぐの正面には2つの五輪塔が在り、これが鹿伏兎氏の墓です(中央上の写真)。
 上の写真の右側の墓塔を拡大したのが右上の写真で、「加太氏墓」と刻印されて居るのが読めます。
 神福寺の詳細は後述することにして、先ずは城山(=牛谷山)に登ります。

 (3)鹿伏兎城跡その1 − 主郭が在る東尾根

 鹿伏兎城は中世の山城です。正慶2(=元弘3、1333)年、亀山関氏(※1〜※1−2)の五男・盛政が正平22(1367)年領地を5人の子に分割、四男・盛宗(実親)が加太谷を領し地名を採って鹿伏兎讃岐守を名乗ったのが鹿伏兎氏の祖で、この年に子・定俊が牛谷山に築いたのが牛谷城です。定俊は又、一族の菩提寺・神福寺を創建して居ます。
 その後、定俊6世の孫・定好が城を大修築して鹿伏兎城と改め、その子・定長が天文11(1542)年に将軍・足利義晴に白鷹を献じ白鷹城の称を給わりました(△1)。鹿伏兎氏の系図を以下に記します。

      <鹿伏兎氏初代>
  関盛政──鹿伏兎盛宗─→

       └→─定俊──忠賀──忠業──定孝──定則──定好─→

       └→┬定長─────┬定秀─┬盛氏
         └定住<坂氏> │   └六郎
                 ├定義─┬定基
                 │   └定俊──重宣──定雅・・・邦憲
                 └定保<林氏>──保春

 戦乱の時代は鹿伏兎氏は宗家・関氏と行動を共にします。永禄10(1567)年に始まった織田信長の伊賀侵攻には定長は伊賀の神戸氏に従い信長軍に抗しますが、翌年に神戸友盛が信長の三男・信孝を養子に迎えて和睦したので関氏と共に一応は信長の傘下に入ります。
 しかし元亀元(1570)年の浅井長政と信長の「姉川の合戦」では、定長の子・定秀(宗心)は家督を弟・定義に譲り長政を助勢し討死します。更に反信長で蜂起した長島一揆に四郎盛氏・六郎の兄弟も加勢し戦死、ここに鹿伏兎氏嫡流は滅亡します。
 その後「本能寺の変」(※2)で信長死後、織田信雄(信長の次男)・羽柴秀吉連合と神戸信孝(信長の三男)・柴田勝家・滝川一益連合との後継者争いが起こった際、城を引き継いだ定義は神戸信孝方に与し、天正11(1583)年信雄・秀吉連合軍に攻められ鹿伏兎城は落城、定義は京に逃れて客死し、約200年の鹿伏兎氏の栄華は終焉しました。
 尚、鹿伏兎城の支城には「下の城」と呼ばれた平之沢城、定住が築城した鍛冶ヶ坂城、定保が乗っ取った林城が在ります。

 さて、大きな観音像が立っている神福寺墓地の北西の裏手に城山への登り口が在ります。行き成り細く急な登り道を登って行くと、間も無く杉木立の林(赤松も混在)に成り視界が遮られます。途中には杉の大木が根刮(こそ)ぎ倒れ道を塞いで居たり(左下の写真)、樹木に張ったロープを伝って登らなければ為らない急斜面も在りました(右下の写真)。坂道の下でロープの張力を保持する為に体重を掛けているのが、この日の案内担当の川端さんです。
写真3−1:横倒しで生き続ける杉の大木。写真3−2:ロープを伝って登る私たち。



←杉の根が
 剥き出し
 上の写真の杉は横倒しですが、根は確り土を抱え込んで居て、ちゃんと生きて居ます。
 間も無く尾根に辿り着き勾配は緩やかに成って2段続きの郭が現れ、更に進むと山頂の削平地に出ます。ここが主郭(※3)なのでしょう、登り始めて約25分位でした。曲輪(※3−1)は細長く伸びた尾根を利用したもので、城というよりです、とても大勢が立て籠もることは出来そうに有りません。
写真3−3:主郭から南の眺望。写真3−4:主郭奥の土塁の跡。
 主郭にも杉と松が群生して視界は遮られた儘です。松の枝の間から辛うじて南南西のゴルフ場(双鈴GC関コース)方面を望んだのが左の写真です。

 右が主郭の奥に築かれた土塁の跡です。
 


写真4−1:大手口に立つ城址の説明板。
 この土塁を進んで行くと「史跡 鹿伏兎城跡」の説明板「鹿伏兎(加太)城址」の木柱が立っている地点に出ます(左の写真)。前述した築城の経緯を記して在ります。
 ここをU字にターンし下り坂を降りて行くと坂道に高さ2m位の野面積み石垣が在り、ここを防衛線にして居たことが判ります。どうやらここが大手口の様です(左下の写真が石垣を坂上から撮ったもの、右下が坂下から撮ったもの)。
写真4−2:大手口の石垣(坂上から)。写真4−3:大手口の石垣(坂下から)。

写真4−4:井戸の跡。 これで午前の部は終了。先程の主郭の木立に戻り昼食。しかしこの日は霙が降らんばかりの寒さでビールでは体が冷え、熱燗を飲みた〜い気分でした。
 弁当を食った後、午後の部の出発前に午前中通り過ぎて来た2段続きの郭の東側の崖下平坦部に掘られた直径1.5m位(目測)の井戸跡を見に行きました(右の写真)。ご覧の様に穴の壁面には石垣が積まれその周囲は木の柵で囲まれて居ました。
 この柵が当時の遺物かどうか知りませんが、山城では雨水を貯めて飲用にして居た所も多く、この井戸跡は山城としては大変立派なものです。

 (4)鹿伏兎城跡その2 − 観音霊場が在る西尾根

写真5−1:主郭の西隣の尾根から主郭の尾根を望む。 午後は先程の石垣の在る坂を下って行き主郭の西隣の尾根を南進しました。途中少し見晴らしの良い場所が在り、主郭の在る尾根を側面から望むことが出来ます(右の写真)。白く見えているのは露出して居る大岩で、この山域の所々で見られます。
 そして更に進むとコンクリートの建て屋に覆われた小さな石仏が並んで居る所に出くわしました。ここは観音霊場のミニコースで、左下の写真の石仏は「一番」と刻まれて居ます。
 中央下は「7番〜33番→」と書かれた標識板です。そちらへ行ってみると右下の写真の様に観音像が坂道に一列に並んで居ます。
写真5−2:観音霊場の一番の仏像。写真5−3:観音霊場の「7番〜33番→」と書かれた標識板。写真5−4:観音霊場の仏像群。
 これで判ったことは、私たちが午前中登って来た東尾根コース以外に、こちらの西尾根から登るコースが在るということです。しかもこちらのコースが大手口に直接連なっているので、往時はこちらがメインだったとも考えられます。右上の写真の石仏が並んだ坂を降りて行けば下山出来そうです。
 ここが霊場に成ったのは神福寺が「東海白寿三十三観音霊場」の寺(後述)だからで、城よりはずっと後の時代でしょう。
写真5−5:観音霊場の五角形の穴が有る丸石。
 そしてこの霊場の近くの道の端に対角線の長さが目測で約40cm位の五角形の穴が掘られた丸い石を見付けました(右の写真)。用途不明です。
 又この付近の斜面の岩盤は露出して居て、この辺りはちょっと不思議な雰囲気が漂って居ます。

 


写真6−1:西尾根から見た加太(かぶと)の村と錫杖ヶ岳。
 西尾根の突端は南の見張らしが利き、左の写真の様に南東方面の加太の村を見下ろすことが出来、写真の左から1/3辺りに三角形の頂上を見せているのが錫杖ヶ岳で、それを拡大したのが下の写真です。
写真6−2:西尾根から見た錫杖ヶ岳の拡大。

 ここで引き返し、元来たコースを通って下山しました。

 ■神福寺

 再び牛谷山の麓に建つ神福寺(三重県鈴鹿郡関町大字加太市場)に戻って来ました。山門の石段下には「鹿伏兎氏菩提所」の石柱が立って居ます(左下の写真)。
写真T1−1:神福寺の山門。写真T1−2:神福寺山門の扁額(拡大)。
写真T1−3:神福寺山門の「平重盛公後裔之菩提所」の表札(拡大)。
 又、山門入口の左には「平重盛公後裔之菩提所」の表札(※4)が掛かって居ます。右がその拡大写真です。
 伊勢は平氏の地ですが、鹿伏兎氏も桓武平氏の末流で、関氏共々家紋は揚羽蝶紋です。
 神福寺は南北朝時代が幕を閉じた直後の応永元年(1394)年、鹿伏兎定俊が一族の菩提寺として仏通痴兀(ちこつ)禅師を開基として建立しました。山号は医王山臨済宗東福寺派の禅寺です。御本尊は薬師如来(伝・行基の作) −そもそも山号の医王(※5)は薬師如来を指します− で、現在は東海白寿三十三観音霊場の第15番札所(※6、※6−1)でもあります。
 この寺は、鹿伏兎氏居館を中心に東西150mは家臣の屋敷地であった、という鹿伏兎氏居館に比定されて居ますが、近年ここから0.5km程西の関町大字加太市場字市場が発掘調査され、15〜16世紀の掘立柱建物跡大量の土師器皿類・青磁盤などが出土し、鹿伏兎氏居館は「字市場」に在ったのではないか、との新説も出て居ます(△2)。
その「字市場」は先程見た観音霊場が在る西尾根から下山すると、行き着きそうな地点です。


写真T2−1:説明する神福寺の住職。 寺の境内には禅寺らしく石庭が在り、その庭を前にした縁側の上で、第38代神福寺住職は鹿伏兎氏や寺に纏わる話を熱心にして下さいました(左の写真)。
 住職の話で面白かったのは、関氏や鹿伏兎氏は昔は、あの楠木正成と同じ「悪党」(※7)一派だったこと、この辺りの忍者は「無足人」(※8)と呼ばれて居たこと、徳川家康が伊賀越え・加太越えした時に伊賀の「無足人」たちが家康を警護し鹿伏兎氏も家康を出迎えた話、などです。
 その家康に纏わるエピソードを下に紹介しましょう。

    ++++ 家康の伊賀・加太越えと鹿伏兎氏 ++++
 徳川家康は6月2日の「本能寺の変」(※2)を堺で知った時、「ヤバイ」と直感したのでしょう。急遽堺を脱出し三河に引き返して居ます。そのルートは凡そ

  堺 → 枚方 → 木津川越え[船] → 宇治田原城 → 信楽小川城
    → 伊賀越え → 加太越え → 亀山 → 伊勢長太ノ浦
    → 伊勢湾越え[船] → 三河岡崎城

というもので、供の者は僅かに40名位でした。その中に穴山梅雪(※9)も居たのですが、それ迄家康と行動を共にして来た梅雪はこの時何故か家康に疑念を抱き別行動を企て、木津川の渡し手前の草内(くさじ)で土民に襲われ落命して居ます。
 昔から山賊の栖(すみか)であった伊賀・加太 −鹿伏兎氏もこうした山賊上がりの出− の峠を家康が越える時、伊賀の「無足人」約200人が道案内と警護に当たりました。この時の頭領が服部半蔵と言われ、後に徳川幕府に取り立てられる基に成って居ます。
 そもそも伊賀の土豪たちは信長の徹底した伊賀攻めに遭い、追っ手を駆けられ女子供迄皆殺しにされて居ますが、その時船で三河に逃れた僅かな残党たちは家康に庇護されたのです。そういう話を伝え聞いて居た伊賀近隣の人々は信長に対しては「ざまあ見ろ」と思ったに違い無く、家康には恩義を感じていたものと思われます。鹿伏兎氏も信長の傘下に入った後も何人かは信長に抗して居ます(前述)、それがこの辺りの人々の心情です。この逃避行で家康が加太に到着した際、鹿伏兎定義は老身の自分に代わり次男・定俊を亀山迄の護送役に付けて居ます。これらの人々の助けが有って、家康は嘗て伊賀の残党が三河に逃れた時と同様に、長太ノ浦から船で脱出出来たのです。岡崎城に着いたのは6月4日と伝えられて居ます。
 ちょっと脱線しますが、反信長感情が強い土地は他に岐阜(美濃)が有りますね。斉藤家を擁する美濃地方も信長に徹底的に潰されました。そもそも信長を殺(や)った明智光秀は美濃の土岐源氏の支流です。そして家康は何故か、反信長陣営の人々を後に重用します。前述の服部半蔵然り、春日局小野お通は美濃斉藤家所縁の者です。更には家康の風水顧問・天海(※10)は光秀の成り代わりというオカルト的な説迄有ります。
 これが「生涯第一の御艱難」と後々迄語り継がれた家康の堺脱出で、この逸話は梅雪の話と共に『三河物語(下)』(△3のp64〜65)でも語られて居ます。
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 尚、上のエピソードで、家康を亀山迄護送した定俊の末裔は今日迄続き、その中に桑名藩士出身で東京地方裁判所長や貴族院議員を務めた加太邦憲が居ます(系図参照)。

    ◆飛散寸前の杉花粉

 左下は加太駅の近くで写した杉の枝です。加太は林業が主産業です。白っぽく見えるのがはち切れそうに杉花粉を宿した種子で、間も無くこれが割れて杉花粉が飛散するのです。
写真T2−2:杉花粉を宿した種子。
 しかし、花粉症なる奇妙なビョーキの御蔭で、杉はすっかり”悪者”にされて居ます、昔はこんなビョーキ無かったんですがねえ。事実、私の田舎なんか山で杉を切って売ってましたし杉の製材所も遣ってました。だから私はヘッチャラです。
 そう言えば数10年前に「排気ガスや煤煙を吸うと鼻毛が伸びる」なんて歌が在りましたね、防衛本能というヤツですね、生物の。今は皆クルマに乗り排気ガスや煤煙に強く成った代わりに、自然の花粉に弱く成ったのです。環境適応の結果ですね。
 だから花粉症に罹る人はシティ・ボーイ又はシティ・ガールなんですね、私は”田舎っぺ”でっせ!
 ところで花粉とは雄蕊の配偶体、つまり動物で言えば雄の精子に相当します。故に「花粉症=精子アレルギー」であるというチン説が在るのをご存知ですか?、ムッフッフ!
    {この節は05年3月10日に追加}

 ■SL時代の申し子 − 中在家信号場のスイッチバック

 JR関西本線は奈良駅を過ぎると、次の木津〜月ヶ瀬口迄は京都府相楽郡で、その次の島ヶ原駅から三重県です。月ヶ瀬口、島ヶ原の辺りは滋賀県も迫っていて、奈良・京都・滋賀・三重の1府3県の県境です。そして加茂から先は単線で非電化です。従って加茂駅で大和路快速は終わり乗り継いだのは2輌編成のディーゼル・ワンマンカーでした。”本線”と言い乍ら実は辺境を走る”完璧なローカル線”で、加太駅の様な無人駅が結構在ります。まあ、県境だから辺境には違い有りませんが。
写真J1:加太越えの信号場ホーム跡とスイッチバック用支線。 ところで柘植〜加太駅間には冒頭で述べたスイッチバック(※11)が在り、私たちの列車は一旦支線(=引上線)に入り、それから逆進して後方の支線(=発着線)で待機、対向車の通過後に進み出し本線に復帰し発進しました。
 列車が駅に停車し切れず行き過ぎて逆進したのは幾度か経験してますが、登山列車でも無いのにスイッチバックで逆進したのは初めての経験ですね。支線が枝分かれする地点には”停車しない小さなホーム”(右の写真、後述)が在ります。私は好奇心がムラムラと湧いたので帰ってから調べてみました。

 JRではこういう施設信号場(或いは信号所、※11−1)と呼び、ここは中在家信号場です。1928(昭和3)年に敷設され往年のSL全盛時代、即ち蒸気機関車が活躍して居た頃、中在家は坂の斜面がきつく −柘植方向に25パーミル(=25/1000、※12)の登り勾配− 加太越えの難所と呼ばれ、特に貨物列車は一気に登れない為ここに退避線を作りスイッチバックして登っていたのです。

    ++++ 25パーミルって、角度では何度? ++++
 ここで25/1000の勾配と言うと角度では何度か?、という疑問が湧きます。それには逆三角関数アークタンジェント(arctan)を解けば宜しいのです。

  arctan(25/1000) = 0.0249948[rad] = 1.432[deg]

 角度にして僅か1.5[度]弱の登りなのですね、しかし100mの水平移動で2.5mの登りですから自重の重いSLにはキツイのでしょう。
    −−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−


 旧国鉄が分割民営化された際に貨物は廃止され、ディーゼルエンジンの気動車が走る今日では簡単に峠を越えて行きますが、単線の為対向車待ち合わせに今でもスイッチバックが利用されて居ます(1998年以前は列車交換と待避が同時に可能な様に発着線を2本備えて居ました)。上で見た”停車しない小さなホーム”とは「信号場のホーム跡」で、嘗てはここに駅舎が建ち人が駐在して居たのです。

 私はこの事を再確認する為に3月9日にわざわざ此処を撮影しに行きました。上の写真は加太から柘植に向かうワンマンカーの中から撮ったもので、前述の様に若干登り勾配に成って居ました。という訳でここは鉄道ファンやマニアには有名な場所の様です、私は鉄道マニアでは無いですが。尚、鉄道ファンにお薦めの更なるスポットも別のページに掲載して居ますので、興味有る方は最下行の関連リンクからご覧下さい。
 フーム、こうして分析してみると「こういう所が好きな鉄道ファン」「土塁や石垣や堀の跡が好きな古城ファン」とは相通じるものが有りますね、ムッフッフ!
    {この章は05年3月10日に追加}

 ■結び − 「夜の部会」も有りまっせ!


写真e:「夜の部会」の面々。 古城を訪ねて新しきを知る「温故知新の旅」もひょんな事から逆三角関数に迄脱線して仕舞いましたが、「昼の部会」の”遠足”を終え、夜は天王寺駅ターミナルビルの居酒屋で、半ば”恒例”の「夜の部会」に突入しました。やはりコミュニケーションを密にして意思の疎通を図ることは良い事です。
 この日は寒くて昼飯の時から熱燗を飲みたいと思っていた私は、念願の熱燗で早速”意思の疎通”を図って仕舞いました。右の写真が「夜の部会」の面々です。
 この次は夕方このお店に直行し、「夜の部会」だけ参加しようかしら、などと思ったりして、ブッハッハッハッハ!!

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:亀山関氏(かめやませきし)は、室町時代の伊勢国の豪族。鈴鹿関(現、三重県関町)に興り、桓武平氏を称した。鈴鹿・河曲(かわわ)の2郡に栄えたが、織田信長の伊勢侵攻で衰退。盛信・一政父子は豊臣・徳川両氏に仕えるが、1618(元和4)年改易、断絶。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※1−1:鈴鹿関(すずかのせき)は、三関の一。701年(大宝1)開設。三重県鈴鹿郡関町付近に比定される。東国への交通の要衝。789年(延暦8)廃止。
※1−2:三関(さんかん/さんせき)とは、古代、反乱者の東国脱出を阻止する為に設けられた伊勢国の鈴鹿関、美濃国の不破関(ふわのせき)、越前国の愛発関(あらちのせき)。後に都が平安京に移るに及び、愛発関を除き、近江国の逢坂関(おうさかのせき)又は勢多関(せたのせき)を加えた。大事有る時は朝廷から特別の使を派して警固させた。

※2:本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582年(天正10)6月2日織田信長が備中高松城包囲中の豊臣秀吉を救援しようとして本能寺に宿泊した時、先発させた明智光秀が叛逆して丹波亀山城から引き返し、信長を襲って殺した事変。

※3:主郭(しゅかく)/本丸(ほんまる)とは、一城内に於いて中心を成す曲輪。
※3−1:曲輪/郭/廓(くるわ)とは、一定の区域の周囲に築いた土や石の囲い。

※4:平重盛(たいらのしげもり)は、平安末期の武将(1138〜1179)。清盛の長子。世に小松殿・小松内府、又は灯籠大臣と言う。保元・平治の乱に功有り、累進して左近衛大将、内大臣を兼ねた。性謹直・温厚で、武勇人に勝れ、忠孝の心が深かったと伝えられる。

※5:医王(いおう)とは、[1].法を説いて人の悩みを癒す仏・菩薩を医師に譬えた語。
 [2].薬師如来の異称。

※6:観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)は、(梵語 Avalokitesvara 観察する事に自在な者の意)「妙法蓮華経」普門品(観音経)などに説かれる菩薩。大慈大悲で衆生を済度する事を本願とし、勢至菩薩と共に阿弥陀如来の脇侍。衆生の求めに応じて種々に姿を変えるとされ、三十三身が最も有名。又、六観音・三十三観音など、多くの変化観音が現れた。その住所は南海の補陀洛山とされ、中国では普陀山、日本では那智山を当てる。観音。観世音。光世音。観自在。施無畏者。
※6−1:三十三所(さんじゅうさんしょ)とは、〔仏〕観世音を安置した33ヵ所の霊場。観世音の三十三身に基づく。各霊場に御詠歌(巡礼歌)が在り、巡礼する者は必ずこれを唱える。坂東三十三所・秩父三十三所・江戸三十三所なども在るが、一般に西国三十三所を指す。三十三観音。三十三番札所。

※7:悪党(あくとう)とは、鎌倉後期から南北朝時代に掛けて、秩序を乱す者として支配者の禁圧の対象と成った武装集団。風体、用いる武器などに、従来の武士とは異なる特色を持ち、商工業・運輸業など非農業的活動に携わる者も少なく無かった。

※8:無足(むそく)とは、この場合、(知行の料足の無い意)鎌倉・室町時代、武士が所領を持たないこと。又、その武士。無禄(むろく)。
※8−1:無足人(むそくにん)とは、[1].無足の状態に在る人。
 [2].無足と同じ。又、田地を持たない農民。

※9:穴山梅雪(あなやまばいせつ)は、戦国時代、甲斐武田氏の武将(1541〜1582)。名は信君。母は信玄の姉。駿河江尻の城主。武田滅亡後、徳川家康と共に上洛し、本能寺の変の時に帰国の途中一揆勢に殺された。

※10:天海(てんかい)は、江戸初期の天台宗の僧(1536〜1643)。南光坊と称。会津の人。南都北嶺を遊学した後、川越喜多院などに住す。徳川家康の知遇を受け、内外の政務に参画、延暦寺の復興と日光山の整備にも尽力。家康の死後、東照大権現の贈号と日光山改葬を主導。又、寛永寺を創建し、大蔵経を刊行、天海版と称せられる。諡号は慈眼大師(じげんたいし)。
 補足すると、風水は古代中国の道教的宇宙観に基づく方位観念で、都城・住宅・墳墓の位置などを定める術で、日本にも古くから伝わり平城京、平安京、江戸城下町などは皆風水理論に従って建設されて居ます。家康は江戸城を中心とした風水固めを天海に仰ぎ、例えば寛永寺は丑寅の鬼門封じ、日光東照宮は江戸の真北の玄武の守りを固めるものです。

※11:スイッチバック(switchback)とは、折返し式の鉄道線路。急勾配の途中に停車場を設置する為に本線から分岐して設けられるものと、勾配など地形上の必要から本線が折り返すものとが在る。
※11−1:信号場(しんごうじょう、signal place)とは、列車の行違い・待合わせなどをする為に待避線・信号機などを設けた場所。JRでは停車場の一種とする。

※12:パーミル(per mill)は、1000分の幾つかを表す語。千分率。プロミル。記号は[‰]。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「日本古城友の会」第496回例会資料『伊勢 鹿伏兎城を訪ねて』。

△2:『市場遺跡発掘調査報告』(三重県埋蔵文化財センター編・発行)。

△3:『三河物語(下)』(大久保彦左衛門著、小林賢章訳、教育社新書)。

●関連リンク
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(Be thankful everybody !, 2003 beginning)

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(Okunimi-yama, Nara, 2002 winter solstice)

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