石敢當-沖縄は何でこんなに多いの?
(Why are there a lot of Ishigantos ?, Okinawa)

-- 2013.06.10 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.06.30 改訂

 ■はじめに - 我が国の石敢當の分布

 私は今年からウチナーンチュ(「沖縄の人」)に成った者ですが、初めて那覇市の国際通り -那覇の観光客のメッカ- に来て見て吃驚仰天、「ウヒャ、何だこれは?!」と思いました。石に黒や白の墨色を「石敢當」/「石敢当」(※1)と陰刻した物が滅多矢鱈に多く、もう数えるのが嫌に成る程です。まぁ”コウイウ物”に気が付かない人は無頓着ですが、私の様につい目が行って仕舞う者にとっては眩しい光景です。
 では一体日本全国にはどの位在るのか、と言うと「石敢當の存在する都道府県」(1999年4月1日現在)という資料が在ります(△1のp19)。この本は丹念に調べて居るので、その中から2桁以上存在する県を抜き出すと、

    秋田県               27基
    東京都               10
    大阪府               11
    徳島県               11
    宮崎県               90
    鹿児島県            1153(下の島も含む)
         (奄美諸島       377)
         (大隅・吐噶喇列島    25)
    沖縄県            10000以上(→後出)

だけです。後は皆1桁です。
 沖縄や鹿児島が多い事は知って居ましたが、沖縄(特に那覇)は異常に多いことがデータの上からも解ります。私は沖縄は精々3000基と思って居たので吃驚しますが、でも国際通りを見て納得です。
 そこで沖縄は後回しにして他を見てみましょう。先ず東京都に10基在るのは肯けます。後で見て分かると思いますが、日本の石敢當が造立されるのが殆どが1700年以降で、時代で言えば江戸時代の元禄時代以降なのです。元禄時代が最後の上方文化の仇花ですが、これ以降の江戸の文化は文字通り「江戸で生まれ江戸で花咲く」のです。当然、好事家や風流人が江戸に集まり石敢當も話題に上り、蘊蓄(うんちく)を披露する書物も可なりの数出ます(△1のp205~230)。
 その他では東北の秋田県が多いのは何故か?、に個人的には興味を惹かれます。
 それにしても冒頭に記した様に那覇は異常に多い。それで沖縄は再び後回しにして沖縄以外の県から見て行きましょう。そうすれば石敢當という物は結構珍しい存在なのだという事が解って戴けるでしょう。
 又、そもそも石敢當とは何か?、という根本的疑問については、一通り石敢當を見て行った後で「石敢當考」の章で扱います。

 ■沖縄以外の石敢當

 (1)滋賀県


     2004年3月7日(日)の撮
    影です(高島郡安曇川町)。元々
←石  この日は「関西歴史散歩の会」(
    下村治男会長)で「継体大王生誕
    の地を訪ねて」という会に参加し
    ての事でした。
←敢   これが滋賀県で唯一の石敢當
    す。字は本来ならもう少しはっき
    り撮れる筈ですが、何しろこの雪
    なので一発勝負です。私はここで
←當  リタイアしてこの日は帰りました
    。
 横に在る説明板(安曇川町教育委員会(平成7(1995)年6月))に依ると「町指定文化財」と在り、「この石柱の正面には、「石敢当」、右側面には、「すぐ北国街道」、左側面には、「すぐ京大津道」、また裏面には、「天保十三年壬寅春正月安原氏建之」と、それぞれ陰刻されており、道標の役目も兼ねています。」と記して在ります。
 大きさは高さ109cm、幅18cmの四角柱で、材質は白みかげ(花崗岩)です。天保13(1842)年に建立され明治23(1890)年迄はこの場所に在りましたが、同年巡査駐在所が出来た為に安曇小学校の玄関脇に移され、やがて駐在所も移転し小学校が昭和58~59(1984)年に改築された時に又元の場所に戻ったそうです(△1のp40)。

 (2)埼玉県

 私が埼玉加須市を旅したのは04年4月19日(月)です。加須市って何処?、何の為に加須市を?、と思う方が殆どだと思いますので、そういう方は▼下▼をご覧下さい。
  2004年・鯉幟の町-加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)

 そういう訳で全く偶然に石敢當を見付けたのです。その時の記事を「2004年・鯉幟の町-加須市」からコピーしましたので、先ずはそれをご覧下さい。

----▼(コピー)
 加須駅の近くには千方神社加須市中央2丁目)が在ります。創建時期は不明ですが、ここには百足退治で知られる、あの藤原秀郷(※5)の六男の鎮守府将軍修理太夫・千方を祀って居ます。左が神社の鳥居から境内を撮ったものです。
 境内は殺風景ですが、目ぼしい物としては一つだの石敢当(右の写真)という高さ1.2m位の魔除けの石が在ります。この石の中央に「石敢當」と刻んで在るのですが、風化して彫りが浅く成っていて写真では字は読めません。この石の傍には市教育委員会の説明板が在り、それに拠ると文化14(1817)年に在郷の守護神として建てられ1954年迄近くの鉄鋼所裏に在ったものを、同年ここに移したと在ります。石敢当は道教(=中国の民間信仰、※6)の風習(△2のp58)で九州・沖縄地方には多いのですが、関東地方では非常に珍しい物「思わぬ発見」でした。一説に拠ると「石敢当」とは中国の力士の名前(→後出)とかです。
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 以上が当時の記事のコピーですが、文献に依り補足して置きます。石敢當の大きさは高さ128cm、幅52cm、厚さ22cmで安山岩です。「文化十四年丁丑冬十一月長至日」「鵬斎陳人興書」と刻まれて居るそうです。文化14年については既に記しましたが、鵬斎とは亀田鵬斎(※7)の事で、近くの久喜に遷善館が創立された享和3(1803)年に当地に招かれて居ます(△1のp31~32)。埼玉県の石敢當は2基のみで、これは加須市指定民俗文化財です。
 尚、04年4月19日撮影加須市の原画が壊れて仕舞い、当ページの写真の原画は在りません。このページに貼り付けてある写真だけが、こうして見れます。原画破壊ついては詳細に検討して在りますので、▼下▼を
  初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)

ご覧下さい。

 (3)大分県

 私が大分県臼杵市を訪れたのは2010年9月19日(日)です。臼杵の町は以前にも来たことが在り、その時の模様は▼下のページ▼に記して居ます。
  2003年・福岡&大分食べ歩る記(Eating tour of Fukuoka and Oita, 2003)

 今回は有名な磨崖仏(※8)などを見に行きましたが、その前に臼杵の町にフラリと寄り町中で偶然に石敢當と出会(くわ)しました。私は石敢當自体には然程興味が有るという訳では無いので石敢當に出会うのは何時も偶然の結果です。それでも、こうして旅を続けて居ると石敢當の写真も少しずつ溜まって来るものなのです。
 以前は八幡社境内に在る(△1のp56)と書いてますが、現在は観光客向けに整備された八町大路の外れに在ります、住所は臼杵市畳屋町

 左の写真の様に花などで飾られて居ます。石敢當は高さ143cm、幅39cm、厚さ15cmの凝灰岩に右の写真の様に「石敢當」と陰刻されて居ます(△1のp56)。唐人町(※9)という地名が今も在る様に石敢當の風習も唐人から伝わったものと思われます。
 町の説明書には誰とは書いて無いですが「唐人の名筆家の作」と在り、又、大友宗麟(※10)が臼杵に城を構えて勢い盛んな頃、取引上の喧嘩や諍(いさか)いが絶えなかったのを「中国にこれを治める良い法が在る」と「石敢當」の3文字を石に刻したら喧嘩が治まった、と在ります。
 因みに、豊後臼杵城は元々は臼杵湾に浮かぶ丹生島に大友宗麟が永禄5(1562)年に築いた海城です。上の話が本当だとすると、この石敢當は相当に古く1570~80年頃の造立ということに成ります。この石敢當は江戸時代には拓本が採られ書家の間では結構有名だった(△1のp57)そうで、造立の古さも箔を付けて居るのでしょう。
 この石敢當は現在は臼杵市指定民俗文化財で大分県では唯一です。しかし現在置かれて居る状況は、写真の様に石敢當の前に花などが在り完全に”見世物”に成って居ます、ちょっと残念ですね。

 (4)大阪府

  (4)-1.池田市

 ここを訪ねたのは2011年1月22日(土)です。小林一三記念館へ行った序でに近くを散策していて偶然に見付けたのが右の写真です(池田市建石町)。高さ60cm位、幅と厚さ25cm位の大きさで、昭和47(1972)年の建立らしく未だ新しく書体も新しい「石敢当」の文字が見えます。八塩野家前と成って居て(△1のp44)、一応大阪府の11基の中にカウントされて居ますが、詳細は不明。
 私の見た所、T字型の道の突き当たり(→後出)に在りましたので、正しい位置(=在るべき所に在る)に置かれて居ました。多分、石敢当に造詣の深い方がここに置き、家内安全を託してあるのでしょう。

  (4)-2.大阪市中央区 - 空堀商店街

 これは今年、もう沖縄で生活する事に決めた2013年3月3日(日)に、こんな事もあろうかと写真を撮って置いたのです。この日は沖縄で住む家を色々検討する為に午前10時から梅田に集まったのです、思い出します。写真はその前に撮りました。

 この石敢當は旧八光信用金庫の店頭脇に在りました。高さ40cm位、幅30cm位、厚さ5cm位の黒い石に白で「石敢當」と陰刻されて居ます。場所は空堀商店街に横から入る通りが在り、八光信用金庫前がちょうどT字路の突き当たり(→後出)に成り位置としては正しいのです。住所は大阪市中央区谷町7です。
 八光信用金庫というのは少々ややこしく、元々ここに在ったのは大阪産業信用金庫で、それが1997年に八光信用金庫に吸収合併され八光信用金庫と成り、2005年に阪奈信用金庫と合併して大阪東信用金庫と成り、何処かへ行って仕舞いました。その跡に入って来たのが「こんぶ屋」です。
 もう良くは覚えて居ませんがこの石敢當がここに置かれたのは2001年頃と思います。何故なら私かこの近所に越して来たのが2001年の秋ですから。実は何故私がこんなローカルな場所に詳しいのかと言えば、ここは私が沖縄へ引っ越す前に住んで居た家から5分位の場所なんです。つまりここは「私の庭」なのです!!
 八光信用金庫時代は石敢當は表に置かれ”睨みを利かす”役割を果たして居ましたが、「こんぶ屋」に成ってからはご覧の様に邪魔物扱いをされて居ます。それなら取り払ったらと思うのですが、そうすると”祟り”が怖いのかも知れません。
 これは大阪府の11基(△1のp19)の中に入ってません。【参考文献】△1は1999年出版なので、つまり埒外な訳です。

                (*_@)

 以上で全てです。別に石敢當を撮ろうと思って撮った訳では無いですが、色々な所を経巡っていると”コウイウ物”の写真も溜まるのです。そして石敢當という物は結構珍しい存在なのだという事が解って戴けた事と思います。

 ■沖縄県

 四川省出身の周煌の著した『琉球国志略』(※23)の巻4下「風俗」の「屋宇」に、「屋上門前多安瓦獅。及立片石。刻石敢當者。」という記述が在ります(△1のp201、△6の315)。大意は「屋上や門前に瓦獅(=シーサー、※25)を安んじ、及び片石を立て石敢當と刻む者多し」と成ります。つまり1756年に既に「琉球には石敢當が多い」と言って居るのです。そして現在は【参考文献】△1の著者も「県全域で一万基を上廻ることになるのではないかと思うが、果たして実態はいかかであろうか。」(△1のp67)と書いて居ます。私も全く同感です、特に国際通りの多さは物凄い!






 ■元祖中国

 それは肇興トン寨貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州黎平県肇興トン寨)に在りました。肇興トン寨 -「寨」は「砦」という意味だが「村」と解して良い- のトン族(侗族、Dong zu)の人たちは皆がという単一の姓、つまり皆親戚同士なのです。ここに民家が800余戸、人口約4000人が暮らして居ます。トン族については▼下▼をご覧下さい。
  2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)

 私は2009年1月24日に肇興トン寨を訪れました。肇興トン寨の記事は未だホームページに定着してませんので、取り敢えず「2002年・三江のトン族を訪ねて」の中の記事で

----▼(コピー)
 次は三江の奥地を抜けて貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州のトン族の村を訪れてみたいですね、そして是非木組みで建築して居る場面を見たいですね、更に彼等の合唱音楽を聴き、さっぱりした漬物清酒の様な味の酒を”たらふく”飲みた~い!
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と述べて居るのを紹介します。「貴州省黔東南ミャオ族トン族自治州のトン族の村を訪れてみたい」と言って居るのが肇興トン寨の事です。侗族の村には必ず左下の写真の様な鼓楼が在ります。


 この鼓楼の奥に高さ60~70cmの水路脇の石の石敢當を見付けました(右上の写真)。八卦図の中に「勅令」、その下に「泰山石敢當」と陰刻されて居ます。又、この写真では小さくて見えなく成って居ます(←又、墨を入れて無い)が「泰山石敢當」の両横には、右側に「一路福呈」と、左側に「対我生財」と刻まれて居ます。「泰山」(※30、※30-1)は、ここでは特定の山では無く「高く大きな山」の意味です。しかしこの造りは可なり真新しい感じで、これが置かれる前に古い石敢當が在ったのかどうか、は判りません。

 実は09年は1月26日が旧暦の1月1日(=旧正月)に当たります。旧正月が都会では廃れて仕舞った日本では解り難いでしょうが、中国の少数民族の村では今でも旧正月の方が祭としても大きく”本当の正月”なのです。都会に出て居る若者が帰って来るのも新正月よりも旧正月なのです。沖縄も盆と正月は旧暦の方が盛んです。私が子供時代、田舎(=山梨県)ではやはり旧正月が盛んでした。
 という訳で明後日が旧元旦のこの日は村人は彼方此方に座を広げ真昼間から酒宴を開いて居ました。私の様な見知らぬ者にも「おい酒を呑んでけ」「当ても色々在るぞ」と声を掛けるので、私も「それじゃ1つ」と言いつつ3杯位、焼酎を戴きました、ホッホッホ!

                (*_<)

 後は2006年10月に台湾の澎湖群島に行き離島巡りをしてた時に等身大位の石敢當を遠くから1基見ているのみです。この時「泰山」が在ったかどうかは覚えて無いですね、唯「石敢當」は遠くからでも読めたのです。でもこの時はバイクの後ろに乗っていたので写真を取るのを遠慮しましたが、今から思うと「撮っとけば良かった」と思います。
 兎に角、私の10年間位の中国少数民族の旅では石敢當を見掛けたのは上の2回のみ、写真に撮ったのは肇興トン寨の1回のみです。本場の福建省ではもっと多いのでしょう。私が経巡った少数民族の村々では石敢當は殆ど無かったのです。つまり、石敢當は中国少数民族の町や村では珍しいものなのです。肇興トン寨のものは、少数民族が長い間に”漢化”された結果だと思います。上の写真の様に石敢當は真新しい感じでした。

 ■石敢當考

 (1)石敢當の発祥地は福建省

 最古の石敢當は福建省莆田県の770(代宗の大暦5)年に造立されたもので、『與地紀勝』という宋の書物に載って居ます(△1のp163~164)。2番目もやはり福建省で福州于山頂の旧九仙観内の12世紀中葉の造立のもの(△2のp58、p36)なので、発祥地はどうやら福建省(※14、※14-1)です。最古のものと2番目とが400年位飛んでますが、石敢當が一般に広まったのは15~16世紀からです。その為に石敢當の効用が曖昧に成って仕舞ったと思われます。
 「敢當(敢当)」は「当たる所敵無し」という意味です。一方、「石敢當」が力士の名であるという俗説は、『舊五代史』(旧五代史)(※15、※15-1)に出て来る勇者の名「石敢」に由来する様ですが「石敢當」では有りません(△1のp122~124)。
 今日の石敢當の効用は魔除けとされて居ます。特に一直線にしか進めない悪鬼に対し「当たる所敵無し」の石敢當は絶大な力を発揮しますから、三叉路とかT字路の突き当たりに置かれるのです。又、石の魔力・呪力に対する信仰も在ったと思われます。中国では良く土地などを道士(※6-1)に鑑定して貰いますが、道士は風水(※16)などを駆使して「ここに石敢當を置いた方が良い」などと宣います(△2のp58~59)。上の大分県臼杵の石敢當は正にこれです。
 ところで、石敢當を置く背景には中国漢民族に共通する道教 -或いはもっと広く道教的文化と言っても差し支え有りません- が有ります。もっと”土着的”なもので儒教や仏教とは明らかに異なるものです。因みに道教は日本の神道の基層を成して居ます。石敢當の根源の心は「道の神(みちのかみ)」(※2、※2-6)への単純素朴な信仰或いは呪(まじな)いです。道の神への信仰ほ日本でも道祖神(※2-1)などに見られ、中国でも見られます
 石敢當は福建省の漢民族 -それは華僑(※14-2)とオーバーラップし乍ら琉球/台湾/シンガポール/マレーシアなどに波及した- の間に広まった習俗と思われます。何故なら、石敢當の分布と可なり一致するのです。

 (2)日本の文人と石敢當

 しかし又、芥川龍之介は乃木希典をモデルにした小説『将軍』の中で石敢當は出て来ます、舞台は日露戦争当時の奉天(今の瀋陽)です(△xのp158)。

  「将軍に従った軍参謀の一人、――穂積中佐は鞍の上に、春寒の曠野を眺めて行った。が、遠い枯木立や、路ばたに倒れた石敢當も、中佐の眼には映らなかった。それは彼の頭には、一時愛読したスタンダアルの言葉が、絶えず漂って来るからだった。」

 芥川は日本人が殆ど知らない石敢當について高い見識を有して居た人で(△1のp81~83)、彼は後の1921年に上海を旅行して『上海游記』(△xのp3~59)を書いて居ます。
 又、森鴎外はやはり日露戦争当時の正白旗 -瀋陽と大連の中間の村- に於いて

    撫でてみる 掌(たなごころ)あつし 石敢當(せきかんとう)

という俳句を詠んでます(△1のp267)。
 私は日本人が遼東半島で見出した石敢當は福建の漢民族、即ち閩人(ビン人)(※14-1)が齎したのでは、と考えて居ます。

                (@_*)

 (3)沖縄に石敢當が何故多いのか?

 最後に日本の状況を見て見ましょう。造立年が明らかなもので我が国で最古のものは、宮崎県えびの市飯野)の元禄2(1689)年の銘が入ったもので「石敢當」と刻されて居ます(△1のp59~60)。同様に我が国で2番目に古い石敢當は沖縄県久米島具志川村字西銘の上江洲家)に在り、「泰山石敢當」と刻されて居り雍正11(1733)年の造立です(△1のp68~69)。大分県臼杵のは造立年が記されて居らず、言い伝えでは1570~1580年造立と確かに古いのですが物的証拠に欠けている訳です。
 では最後に沖縄に何故多いのか?、について私見を述べましょう。福建省の漢民族 -彼等は自分たちを閩(ビン)(※14-1)と呼んだ- と沖縄は縁が非常に濃いのです。ここ迄書いたら琉球の歴史を知る人ならばお解りでしょう、そう1392(明の太祖、洪武25、日本の明徳3)年閩人三十六姓と言われた福建省の漢民族たちが先端の技術を携えて那覇久米村(粂村)に住んだのです(△7のp44)。入植は1580(明の神宗、万暦8、日本の天正8)年も未だ続いて居ます。沖縄の石敢當の習俗も元は閩人三十六姓の漢民族が齎したのではないか(?)、と私は考えて居ます。そして沖縄の人たちも充分に”漢化”されたのです。
 今日の沖縄の石敢當の異常とも言える多さには些か呆れますが、これは戦後のブームに因る所大なりです。そこで知りたいのは、戦前の焦土と化す前の昭和10(1935)年頃の石敢當の数ですね。私はそれが3000基位と思って居るのですが...。

 ■結び - 



 石敢當は沖縄ではシーサー(※25)と同じ様に”土産品”として確固たる地位を占めて居ますので、沖縄観光の記念として買って帰るのも良いかも知れませんゾ。斯く言う私も石敢當のミニチュアを買って家に置いて在ります。まぁ、ウチナーンチュ(「沖縄の人」)ですから私は。



φ-- おしまい --ψ

【脚注】

※1:石敢當/石敢当(せきかんとう/いしがんとう)とは、沖縄や九州南部で、道路の突き当たりや門・橋などに、「石敢當(当)」の3字を刻して建てて在る石碑。中国伝来の民俗で、悪魔除けの一種。


※2:道の神(みちのかみ)は、道路・旅行の安全を司る神障の神/塞の神(さえのかみ)。道祖神。万葉集17「―たち幣(まい)はせむ」。
※2-1:道祖神(どうそじん)は、道路の悪霊を防いで行人を守護する神。日本では、障の神/塞の神(さえのかみ)と習合され、中世後期以降は夫婦円満から土俗的な性神(せいしん)としての性格を強め、陰陽石にも成って居る。近世には道陸神(どうろくじん)とも言った。中国道教「道祖の神」に由来。手向けの神。遊女記(朝野群載3)「百大夫、―之一名也」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-2:障の神/塞の神(さえのかみ/さいのかみ)とは、(伊弉諾尊が伊弉冉尊を黄泉国(よみのくに)に訪ね、逃げ戻った時、追い掛けて来た黄泉醜女(よもつしこめ)を遮り止める為に投げた杖から成り出た神で、障(さえぎ)るが原意)邪霊の侵入を防ぐ神。行路の安全を守る神。村境などに置かれ、中世後期にはその形から良縁・出産・夫婦円満の神(=道祖神)と習合された。道の神。久那斗神/岐神(くなとのかみ)。道祖神(さえのかみ/どうそじん)。今昔物語集13「すべて人無し。只―の形を造りたる有り」。
 補足すると、「道祖神」と「道の神/障の神/塞の神」とは元来別の神ですが、中世後期にはこれらが混同され同一視される様に成りました。因みに広辞苑では、「近世には」習合されたと成って居ましたが、『日本の神様[読み解き]事典』(川口謙二編著、柏書房)のp343には『源平盛衰記』(南北朝時代には成立)に道祖神と書いて「さえのかみ」と訓じて居り、既に中世後期には習合(混同)が起きて居ます。従ってそこを「中世後期には」に改めました。
※2-3:久那斗神・来名戸神(くなとのかみ)/岐神・船戸神(ふなとのかみ)とは、伊弉諾尊が黄泉国(よみのくに)から逃げ帰り、禊祓(みそぎはらえ)をした時に投げ捨てた杖から化生した神。集落の入口などの分岐点に祀られ、災禍の侵入を防ぐ神、又、道路や旅行の神とされた。道の神。岐(ちまた)の神。道祖神。
※2-4:岐の神/衢の神(ちまたのかみ)とは、[1].道の分岐点を守って、邪霊の侵入を阻止する神。障の神/塞の神(さえのかみ)。道祖神。神代紀下「衢神(ちまたのかみ)」。
 [2].(天孫降臨の時、天の八衢(やちまた)に迎えて先導したから言う)猿田彦神の異称
※2-5:八衢(やちまた)とは、道が八つに分れた所。又、道が幾つにも分れた所。迷い易い譬えにも言う。万葉集2「橘の蔭踏む道の―に」。
※2-6:門の神(かどのかみ)/門神(もんしん)は、門を守護する神。天岩戸別神。門守。







※5:藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、平安中期の下野の豪族。(生没年未詳:890頃~950頃か)。左大臣魚名の子孫と言われる。田原(俵)藤太とも。下野掾・押領使。940年(天慶3)平将門の乱を平らげ、功に依って鎮守府将軍。弓術に秀で、百足(むかで)退治などの伝説が多い。


※6:道教(どうきょう、Taoism)は、中国漢民族の伝統宗教。黄帝老子を教祖と仰ぐ。古来のアニミズムや巫術(=シャーマニズム)や老荘道家の流れを汲み、これに陰陽五行説神仙思想などを加味して、不老長生の術を求め、符呪・祈祷などを行う。後漢末の五斗米道(天師道)に始まり、北魏の寇謙之(こうけんし)に依って改革され、仏教の教理を取り入れて次第に成長。唐代には宮廷の特別の保護を受けて全盛。金代には王重陽が全真教を始めて旧教を改革、旧来の道教は正一教として江南で行われた。民間宗教として現在迄広く行われる。
※6-1:道士(どうし)とは、
 [1].道義を体得した人士。
 [2].仏道を修める人。俗人に対し僧の称。
 [3].道教を修める人。道人。
 [4].方士。仙人。



※7:亀田鵬斎(かめだほうさい)は、江戸後期の儒学者(1752~1826)。名は長興・興。江戸生れ。折衷学派の井上金峨に師事し、古文辞学を排撃。著「論語撮解」「善身堂詩鈔」など。


※8:磨崖仏/摩崖仏(まがいぶつ)は、自然の丘陵の岩壁に彫刻された仏像。インド・中国に多いが、日本では臼杵大谷(おおや)のものが有名。

※9:唐人町(とうじんまち)は、江戸時代、日本に来住した中国人の集団居住地。

※10:大友宗麟(おおともそうりん)は、戦国時代の武将(1530~1587)。名は義鎮(よししげ)。豊後の府内に居り、九州の内6ヵ国守護と成る。キリシタンに帰依して、南蛮貿易を盛んにした。






※23:琉球国志略(りゅうきゅうこくしりゃく)は、周煌の著。1756(乾隆21)年に冊封副使として来琉し約7ヶ月の滞在経験を纏めた地誌で、翌年に上呈される。後に日本に伝わり、1831(天保2)年と1832(同3)年に和刻本が刊行され、北斎の「琉球八景」(1832)の元絵と成った。誤記が多いのが難点。







※25:シーサーは、(獅子さんの意)魔除けの一種。沖縄で、瓦屋根に取り付ける素朴な焼物の唐獅子像。






※30:泰山/岱山/太山(たいざん、Tai Shan)は、[1].中国の名山。山東省泰安の北方に在り、五岳中の東岳。古来、天子が諸侯をここに会し、封禅の儀式を行なった。又、死者の集まる山とも言われ、仏典では地獄のことを太山と呼ぶことも在る。標高1524m。
 [2].高く大きな山
※30-1:封禅(ほうぜん)とは、中国古代に天子が行なった祭祀。は泰山の山頂に土壇を造って天を祭ること、は泰山の麓の小丘(梁父山)で地を祓い山川を祀ること。前219年の始皇帝前110年の前漢の武帝のそれが著名。史記に封禅書が在る。










※14:福建(ふっけん、Fujian)は、中国南東部の省。台湾海峡に面する。省都は福州。面積約12万㎢。山地が9割を占める。略称は(ビン)。古来、東アジア海上交通の中心地。又、華僑の主要な出身地。米の他、甘蔗・茶・果物などを産する。
※14-1:閩(びん)とは、[1].中国、五代の十国の一(909~945)。後梁から閩王に封ぜられた王審知福州を都として建てた国。6世で南唐に滅ぼされた。
 [2].福建省の別称。
※14-2:華僑(かきょう、overseas Chinese)は、中国本土から海外に移住した中国人及びその子孫。東南アジアを中心に、全世界に散在する。牢固たる経済的勢力を形成し、その本国への送金は、中国国際収支の重要な要素を成していた。第二次大戦後は二重国籍を捨て、現地の国籍を取得する者が増加し、彼らを華人と呼び、中国籍を保持した儘の者を華僑と呼んで両者を区別する場合が在る。唐/宋代以後、東南アジア方面に移住する中国人が増え、19世紀以後は全世界に広がった。現在、その数約2,000万人。その地域の商業/貿易上の主導権を握るものが多い。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>



※15:旧五代史(きゅうごだいし)は、150巻。宋の薛居正らが勅を奉じて撰し、974年成る。五代の王朝の歴史。
※15-1:五代十国(ごだいじっこく)とは、唐の滅亡から宋の統一に至る間に、華北に興亡した五代王朝と、華北以外の諸地方に割拠・興亡した10国との併称。

※16:風水(ふうすい)とは、[1].吹く風と流れる水。
 [2].fortune-telling by wind and water。方位と山川/水流などの様子を考え合わせて、都城/住宅/墳墓の位置などを定める術。特に、中国や李朝朝鮮では墓地の選定などに重視され、現在も普及。風水術。風水説。
 補足すると、風水古代中国の道教的宇宙観に基づく方位観念で、都城・住宅・墳墓の位置などを定める術で、日本にも古くから伝わり平城京、平安京、江戸城下町などは皆風水理論に従って建設されて居ます。家康は江戸城を中心とした風水固めを天海に仰ぎ、例えば寛永寺は丑寅の鬼門封じ、日光東照宮は江戸の真北の玄武の守りを固めるものです。




    (以上出典は主に広辞苑)

【参考文献】
△1:『石敢當』(小玉正任著、琉球新報社)。

△2:『道教の神々』(窪徳忠著、講談社学術文庫)。


△6:『周煌 琉球国志略』(周煌著、原田禹雄訳注、榕樹書林)。




△x:『芥川龍之介全集 第五巻』(芥川龍之介著、岩波書店)。


△7:『沖縄県の歴史』(新里恵二・田港朝昭・金城正篤著、山川出版社)。


●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):南西諸島と沖縄の地図▼
地図-日本・南西諸島と沖縄
(Map of South-West Islands and Okinawa -Japan-)


参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)



私がウチナーンチュに成った訳▼
2013年・那覇空港を遊ぶ(Play the Naha Airport, Okinawa, 2013)



埼玉県加須市の石敢當は「思わぬ発見」でした▼
2004年・鯉幟の町-加須市(Kazo and carp streamer, Saitama, 2004)

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トン族の村で石敢當や「道の神」を確認▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)


中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


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