漱石の猫、即ち”吾輩”を追って
[猫文士の心#1:夏目漱石]
(Pursuing the SOSEKI's CAT, namely, 'Wagahai')

-- 2007.03.07 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2013.10.21 改訂

 ■はじめに - 漱石の猫は”吾輩”以外に有り得ない

 夏目漱石の「猫」(SOSEKI's CAT)(※1)と言えば、即ち”吾輩(Wagahai)”以外に有り得ません。性別は男(♂)年齢不詳(→後で計算)
 それ程”吾輩”は有名な猫であり、又広く一般の尊敬を勝ち得て居ます。所縁の土地には”吾輩”のが作られ顕彰碑も立って居ます。明治の文豪・漱石も陰では”吾輩”の事を「馬鹿猫」呼ばわりしてるみたいです(△1のp283)が、面と向かっては逆らえないのです。それはそうでしょう、これから先作家として「食って行けるかどうか」判らない状況の中で、どうやら漱石が作家で「食って行ける」感触を掴んだのは”吾輩”がヒットしたからに他為りません。そういう意味で漱石は”吾輩”には一目も二目も置いているのです。その事はこのページを読んで戴けば解る筈です。
 この”吾輩”の舞台に成った家が千駄木の家で、当時の住所は本郷区駒込千駄木町57番地です。因みに同じ絵葉書の中で、千駄木を此猫は向三軒両隣の奴等が大嫌い」(△1のp283)と”吾輩”の所為にして居ますが、これは実は胃弱の英語教師の苦沙弥先生(←漱石がモデル)の心情(即ち真情)で、その事は”吾輩”を読めば一目瞭然です。胃弱に関しては晩年の小説『硝子戸の中』(→後出)の中で「私の病気と云えば、何時も極(きま)った胃の故障なので、いざとなると、絶食療法より外に手の着けようがなくなる。」と書いて居て(△2のp121)、死んだのも胃潰瘍が原因です。

 私は”吾輩”「漱石の猫」を追って新宿(生誕地)早稲田(終焉地)御茶ノ水(小学校)千駄木(”吾輩”の舞台)犬山の明治村(生家保存地)を取材して旅しました。新宿・早稲田が05年11月28日(月)、御茶ノ水・千駄木が07年1月19日(金)、そして愛知県犬山の明治村が07年1月30日(火)です。取材と言っても写真を撮るだけですが、アッハッハ!
 私は名探偵に成った様な気分で”吾輩”即ち「漱石の猫」の足取りをルーペ(※2)を持って追い掛けましたゾ。そして07年3月7日から当ページを書き始めました。”吾輩”を追い掛け乍ら、同時に胃弱先生の誕生から”吾輩”のヒット迄を明らかにして居ます。と言うのは胃弱先生の生い立ちは意外と知られて居ないからです。
 尚、当ページは横書きなので引用文の漢数字はアラビア数字に変換しました。

 当ページでは「文学散歩」をして居ますが、文学散歩は多少煩わしいので文学に興味無い方は「◆で始まる段」を全て読み飛ばして下さい(←「◆で始まる段」の文字の色はこの段と同じです)。
 まぁ、要するに写真の在る段だけ見て行けば「文学散歩」はスキップ出来ます。

 おっと、背景画像には”吾輩”のコピーが沢山居るのう、ちょっと声を掛けて見るか...。

                猫のマスコット。 ニャ~オ!

 ■生前と誕生

 漱石は1867(慶応3)年1月5日東京府東京市牛込区馬場下横町(現:東京都新宿区喜久井町)の周辺11ヶ町を纏める名主(※3) -江戸時代の名残で今の町長や区長的な顔役- の夏目小兵衛尚克(54歳)、千枝(41歳)の5男3女の末子(=5男)として生まれます(→詳細は後出)。名は金之助。生後直ちに里子(※5)として四谷の古道具屋に出されましたが間も無く戻ります(満0歳、△3のp237)。尚、新宿区馬場下町は今も在ります。
 漱石はこの本名を大変気に入って居た様で、漱石書簡集を見ると自分の名を殆ど「金之助」「金」「夏目金之助」と認(したた)めて居ます(△1、△1-1)。この事については後で触れます

          拡大
    ┌────────────────────────────┐
    ↓                            │
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  説明板 モニュメント                      │
   ↓   ↓                         ┌──┐

 右の写真で、通りの向こうのビルの1階が牛丼の吉野家 -「牛すき鍋定食」の幟が立つ- の脇に、電柱の左側に夏目漱石誕生之地のモニュメント(記念碑)が少し見えて居ます。
 その部分を拡大したのが左の写真です。

 私は通りを渡り記念碑に近付いて写真を撮りました(左右下の写真)。

 左が記念碑「夏目漱石誕生之地」「遺弟子安倍能成書」と在ります。
 右が説明板で、読んで戴ければ解ります。
 

 夏目坂通りの標識(左下の写真)と夏目坂の説明柱(中央下の写真)と夏目坂の長いだらだら坂を坂上から撮ったもの(右下の写真)です。
 この夏目坂は金之助の父・尚克の命名とされて居ます。尚克は名主(※3)として没落したとは言え、近所の坂に自分の姓を付ける事位は未だ出来たのです。説明柱にもその事が書かれて居ます。

    ◆小説『硝子戸の中』

 これからは暫く「文学散歩」です。文学に興味無い方はスキップして下さい。
 漱石の小説『硝子戸の中』(△2のp96~143)は晩年の大正4(1915)年4月に出版されました(△3のp245)が、一体どれ位の人が読んだでしょうか?、恐らく『猫』を読んだ人が100人居たとすれば『硝子戸の中』を読んだ人は1人位でしょう。只、幼少時のことがフィクションを交えず有りの儘に書かれて居るので、『硝子戸の中』は寧ろ学者や研究者向けの資料として価値が有ります。私もこれから漱石(=金之助)の幼少時の事を調べたいので『硝子戸の中』は資料として重要です。
 ここで「硝子戸の中」とは漱石の終焉地、即ち牛込区早稲田南町7番地(現:新宿区早稲田南町7番地)の「漱石山房」の書斎です。

    ◆生家、里子に出されたこと

 「私の旧宅は今私の住んでいる所から、四五町東の馬場下という町にあった。町とは云い条、其実小さな宿場としか思われない位、子供の時の私には、寂れ切って且寂しく見えた。もともと馬場下とは高田の馬場の下にあるという意味なのだから、江戸絵図で見ても、朱引内か朱引外か分らない辺鄙な隅の方にあったに違ないのである。」と在ります(△2のp117)。
 そして「私は両親の晩年になって出来た所謂末ッ子である。私を生んだ時、母はこんな年齢(とし)をして懐妊するのは面目ないと云ったとかいう話が、今でも折々は繰り返されている。
 単に其為ばかりでもあるまいが、私の両親は私が生れ落ちると間もなく、私を里に遣ってしまった。其里というのは、無論私の記憶に残っている筈がないけれども、成人の後聞いて見ると、何でも古道具の売買を渡世(とせい)にしていた貧しい夫婦ものであったらしい。」
と在ります(△2のp129)。これが生まれて直ぐに里子(※5)に出された話です。

    ◆喜久井町・夏目坂は生前、金之助の父が命名

 「今私の住んでいる近所に喜久井町という町がある。是は私に生れた所だから、外(ほか)の人よりもよく知っている。...<中略>...。
 此町は江戸と云った昔には、多分存在していなかったものらしい。江戸が東京に改まった時か、それともずっと後になってからか、年代はたしかに分らないが、何でも私の父が拵えたものに相違ないのである。
 私の家の定紋が井桁に菊なので、夫(それ)にちなんだ菊に井戸を使って、喜久井町としたという話は、父自身の口から聴いたのか、又は他のものから教わったのか、何しろ今でもまだ私の耳に残っている。父は名主がなくなってから、一時区長という役を勤めていたので、或はそんな自由も利いたかも知れないが、...<中略>...。
 父はまだ其上に自宅の前から南へ行く時に是非共登らなければならない長い坂に、自分の姓の夏目という名を付けた。」
と在り(△2のp122)、これが先程の夏目坂です。

 ■幼年期~小学校卒業

 金之助(=漱石)の幼少~若年時代の生い立ちは可なり複雑です。金之助は里子から戻りますが、翌1868(明治元)年に新宿の名主塩原昌之助の養子に出され塩原姓(満1歳)を名乗ります(→塩原姓は満21歳迄続きます)。73(明治6)年に養父は浅草の戸長に任命され浅草区諏訪町に住みます(満6歳、△3のp237)。しかし養父母に不和が生じ離縁したので生家に戻り、74(明治7)年秋に浅草の戸田小学校に入学(満7歳)、翌年には塩原姓の儘生家に引き取られます。そして76(明治9)年に牛込区市ヶ谷山伏町の市ヶ谷小学校に転向(満9歳)。1878(明治11)年10月に転向先の神田区猿楽町の錦華小学校を卒業します(満11歳、△3のp237)。
 尚、ここで注意して戴きたいのは漱石の時代は秋入学(=9月に入学、7月に卒業)である事で、これは柳田国男(1875~1962年、漱石より8歳年下)の場合と同じです。その事は漱石の『三四郎』 -主人公の三四郎は東京帝国大学の学生- に「学年は9月11日に始まった。」と書かれて居ます(△xのp34)。しかし、この時代の学制は未だ過渡的です。{このリンクは2013年10月21日に追加}

 旧・錦華小学校1873(明治6)年に開校し1993(平成5)年に廃校に成り、現在は錦華・小川・西神田の3校が統合され1993年にお茶の水小学校幼稚園も併設、千代田区猿楽町1丁目)に成りました(左の写真)。


 お茶の水小学校は明治大学の裏手に在り、錦華小学校(←お茶の水小学校の隣)の跡地の一部は錦華公園に成り、漱石の『吾輩は猫である』の有名な出出しの一節吾輩は猫である 名前はまだ無い(△4のp5)がひっそりと刻まれて居り、「明治十一年 夏目漱石 錦華に学ぶ」と在ります(右の写真、写真の左にお茶の水小学校・幼稚園の表札が見えて居ます)。
 

    ◆塩原家の養子と成る - 養子先のごたごた

 「私は何時頃其里から取り戻されたか知らない。然しじき又ある家へ養子に遣られた。それは慥(たしか)私の4つの歳であったように思う。」と在ります(△2のp130)が、私の4つの歳というのは漱石の記憶違いで年譜に拠ると漱石が1歳の時です。養子に出された先は塩原家です。
 「私は物心のつく8、9歳迄其所で成長したが、やがて養家に妙なごたごたが起ったため、再び実家へ戻る様な仕儀となった。」と在ります(△2のp130)が、これは明治7(1874)年に養父が日根野かつという後家と出来て仕舞った為(△2のp325)で、良く在る話ですね。
 金之助の塩原姓は明治21(1888)年の満21歳迄続きます。そして漱石書簡集は翌明治22(1889)年から始まります(△1のp5)。

    ◆父母を祖父母と思っていた

 「浅草から牛込へ遷された私は、生れた家へ帰ったとは気が付かずに、自分の両親をもと通り祖父母とのみ思っていた。そうして相変わらず彼等を御爺さん、御婆さんと呼んで豪も怪しまなかった。向(むこう)でも急に今迄の習慣を改めるのが変だと考えたものか、私にそう呼ばれながら澄ました顔をしていた。」と在り、更にそれを訂正する切っ掛けは「貴君が御爺さん御婆さんだと思っていらっしゃる方は、本当はあなたの御父さんと御母さんなのですよ。先刻(さっき)ね、大方その所為であんなに此方(こっち)の宅(うち)が好きなんだろう、妙なものだな、...<後略>...。」という下女の言葉でした(△2のp130)。
 この様に子供時代の金之助は里子、養子、父母を祖父母と思っていた、小学校の転校の多さなど複雑な家庭環境で育って居ます。



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    ◆長兄は肺病

 「私の長兄はまだ大学とならない前の開成校にいたのだが、肺を患って中途で退学してしまった。...<中略>...。
 此兄はとうとう肺病で死んでしまった。死んだのは慥(たし)か明治20年だと覚えている。すると葬式も済み、待夜(たいや、※7)も済んで、まず一片付という所へ一人の女が尋ねて来た。...<中略>...。兄は病気のため、生涯妻帯しなかった。...<中略>...。兄の遺骨の埋められた寺の名を教わって帰って行った此女は、わざわざ甲州から出て来たのであるが、元柳橋の芸者をしている頃、兄と関係があったのだという話を、私は其時始めて聞いた。...<中略>...。彼女が今になって兄の弟の私に会うのは、彼女にとって却って辛い悲しい事かも知れない。」
と在ります(△2のp138~139)。
 因みに、開成校というのは東京大学の母体で、東京大学は1877(明治10)年に東京開成学校と東京医学校が合併して出来ました。

    ◆2番目の兄は放蕩息子

 「其頃従兄の家には、私の2番目の兄がごろごろしていた。此兄は大の放蕩もので、よく宅(うち)の懸物や刀剣類を盗み出しては、それを二足三文に売り飛ばすという悪い癖があった。...<中略>...。
 斯ういう連中がいつでも一つ所に落ち合っては、寐そべったり、縁側へ腰を掛けたりして、勝手な出放題を並べていると、時々向うの芸者屋の竹格子の窓から「今日は」などと声を掛けられたりする。...<中略>...。
 私は其頃まだ十七八だったろう、...<中略>...。」
と在ります(△2のp114~115)。
 因みに漱石の兄弟姉妹(5男3女)は

    長男:大一(大助) ┐
    次男:栄之助(直則)├─ *.兄3人の括弧内は諱(元服名)
    三男:和三郎(直矩)┘
    四男:久吉        *.幼逝
    長女:ちか        *.幼逝
    次女:          *.異母姉
    三女:          *.異母姉
    五男:金之助<漱石>

で、金之助は末子の5男です。四男久吉と長女ちかは金之助が生まれる前に幼逝しています。

 ■中学校~夏目姓に戻る迄

 1878(明治11)年10月に錦華小を卒業した金之助(=漱石)は神田区一ツ橋の東京府立第一中学校(満11歳、後の日比谷高校)に入学しますが、81(明治14)年に麹町の二松学舎に転向し漢学を学び(満14歳)、83(明治16)年に大学予備門受験の為に駿河台の成立学舎英語を学びます(満16歳)。84(明治17)年9月、大学予備門予科に入り、この頃から下宿を始め(満17歳)、86(明治19)年にはアルバイトも始めます(満19歳)、要するに自活意識が起こった訳です。又この年7月に学校を落第、以後は反省し首席を通します。大学予備門が第一高等中学(←所謂「一高」)と改称。
 そして88(明治21)年に塩原家より復籍し、漸く夏目姓に戻りました(満21歳)(△3のp238)。

    ◆漱石は夏目姓と金之助という本名に愛着が有った

 ここで漱石が夏目姓及び金之助という本名に愛着を持っていた例として、有名な文学博士辞退の意志を文部省に書き送った書簡、即ち明治44(1911)年2月21日(麹町区内幸町胃腸病院より文部省専門学務局長○○○○○へ)が在ります。その中で漱石は「...<前略>...然る処小生は今日迄たゞの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りたゞの夏目なにがしで暮したい希望を持って居ります。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。此際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが右の次第故学位授与の儀は御辞退致したいと思ひます。...<前略>...」と伝え、夏目金之助と署名して居ます(△1-1のp33)。「たゞの夏目なにがし」を2度使い漱石では無く本名の金之助を使っている所に私は夏目姓はの愛着を感じる訳ですが、それは21歳迄夏目姓を使えなかった事の裏返しと思われます。

 ■正岡子規との交友と「漱石」の誕生

 1889(明治22)年1月に正岡子規(※10~※10-4、※11~※11-1) -二人は一高の同級生、他に南方熊楠が居た- を交友を結びますが、5月9日に子規初めて喀血、5月13日の子規見舞いの手紙で初めて俳句を記し、5月27日に子規の「七艸集」評の手紙で初めて漱石の号(※1-1~※1-3)を使い、これが筆名(ペンネーム)の夏目漱石に成ります(→後出)(満22歳)。漱石の漱石書簡集もこの年から始まります(△1のp5)。
 90(明治23)年7月には一高を卒業し帝国大学に入学し英文学を専攻します(満23歳)。翌91年には特待生に成ります(満24歳)が、これは86(明治19)年の落第が利いているのでしょう。92(明治25)年には東京専門学校(今の早稲田大学)の講師と成り「老子の哲学」(△2のp265~276)を大学研究論文として書きます(満25歳)が、これは晩年の「則天去私」(※1-4)にも通じるものです。この年に松山で高浜虚子(※10-5) -子規が後継者と認めた- を知ります(△3のp238~239)。
 作家の夏目漱石にとって最も重要な出会いは正岡子規との遭遇ですので、「文学散歩」で見て行きましょう。

    ◆明治22(1889)年、子規との出会い

 正岡子規(←未だ常規(つねのり)と言っていた)と金之助が知り合ったのは明治22(1889)年1月で、二人は一高の同級生だったのですが、二人にはそれだけでは無い何か -引き合う何か- が有るのを感じ取り二人は意気投合して居るのが判ります。
 しかし常規は5月9日に初めて喀血します。自分でも結核が思わしく無い事は知って居ましたから何時とは判らないがやがて喀血するだろうと思って居ました、それが5月9日だったという事です。常規はこの時

    卯の花の 散るまで鳴くか 子規(ほととぎす)    正岡常規

と詠んで自ら子規(しき)と号したのです。この号は本名の常規の「規」が入っていて実に格好良く決まって居ます。多分「何時か喀血するであろう」と予期していた常規はこの俳句を用意していたと私は思います、この時から正岡子規と名乗ります。

    ◆明治22年5月13日 - 漱石書簡集の最初の手紙

 それを見舞ったのが同年5月13日の漱石書簡集の最初の手紙です(△1のp5)。「牛込区喜久井町1番地より本郷区真砂町常盤会寄宿舎正岡常規へ」という書簡の発信元と宛先が付いていて、型通りの見舞いの文句の後5月13日と日付が在り、その後に

 「...<前略>...
    帰ろふと 泣かずに笑へ 時鳥
    聞かふとて 誰も待たぬに 時鳥
                        金之助
  正岡大人
      梧右

 何れ二三日中に御見舞申上べく...<中略>...
 僕の実兄も今日吐血して病床にあり斯く時鳥が多くてはさすが風流の某も閉口の外なし呵々」
と続きます(△1のp6)。時鳥とは「ほととぎす」と読みます。因みに、金之助の2句は初めて詠んだ句という事で素人臭い句ですね。注意して貰いたいのは未だ本名の金之助を使用して居る事です。ここで「僕の実兄も今日吐血して病床にあり」と言っているのは三男の直矩です(△1のp897)。


 ところで、「ほととぎす」の漢字は広辞苑に拠ると、杜鵑/霍公鳥/時鳥/子規/杜宇/不如帰/沓手鳥/蜀魂など幾つも在ります。又、「ほととぎす」の他に、あやなしどり/くつてどり/うづきどり/しでのたおさ/たまむかえどり/夕影鳥/夜直鳥(よただどり)など、変名も複数存在します。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 。







    ◆明治22年5月27日の手紙で初めて「漱石」を使う
       - 漱石書簡集の2番目の手紙

 書簡の発信元と宛先は前と同じで、「昨日は存外の長座定めて御蒼蝿の事と恐入り奉る其切砌り妄評を加え御返呈申上候七草集定めて迂生帰宅後御読了の事と存じ...<中略>...批評の後に付したる28字の9絶に御座候是は余り大人気なく小児の手習と...<中略>...
                      菊井の里
                        漱石より
  丈鬼様
 七草集には流石の某も寛名を曝すは恐レビデゲスと少しく通がりて当座の間に合せに漱石となんしたり顔に認め侍り後にて考ふれば漱石とは書かで漱石(←筆者注:三水偏「氵」に「敕」を使用、フォント無しと書きし様に覚え候此段御含みの上御正し被下度先は其為の口上左様...<後略>...」
というものです(△1のp6~7)。前日に漱石が子規を見舞って長居をした様です。
 七草集(或いは七艸集)は子規(常規)が明治21、22年に執筆し友人に回覧した詩文集です。「28字の9絶」とは七言絶句の漢詩 -七言四句の28文字- が9首のことで漱石の「七艸集評」の漢詩を指します(△1のp897)。「丈鬼」は子規の別号で本名の常規を音読みして「じょうき」に別の漢字「丈鬼」を当て嵌めたものです。そしてこの手紙で初めて「漱石」の号を使い、やがて筆名(ペンネーム)として定着するのです。そういう意味でこの手紙には歴史的意義が有るのです。これを読むと、漱石は子規との間で「遊び」をし、それを楽しんでいる事が伝わって来ます、「恐レビデゲス」と松山弁も出て来ます。

      ◆◆漱石という号について - 蒙求

 そこで漱石という号について、金之助はどこからヒントを得たのか。
 「文壇諸名家雅号の由来」(『中学世界』11巻15号、明治41年11月20日)には「小生の号は、少時『蒙求』(※1-5、※1-6)を読んだ時に故事を覚えて早速つけたもので、今から考へると、陳腐で、俗気のあるものです。然し、今更改名するのも億劫だから、其儘用ひて居ります。慣れて見ると、好も嫌ひもありません。夏目と云ふ苗字と同じ様に見えます。」と在ります(△5のp464)。
 又、「雅号の由来」(『時事新報』、大正2年10月2日)には漱石といふ故事は『蒙求』にあります。従つて旧幕時代の画印にも俳人にも同じ名をつけた人があります。私が蒙求を読んだのは子供の時分ですから前人に同じ雅号があるかないか知りませんでした。然しざらにある名でもなく又全くない名でもなく丁度中途半ぱで甚だ厭味(いやみつ)ポイ者です。」と在ります(△5のp467)。
 又、手紙にも書いて居ます。明治38(1905)年4月13日に「午前10時、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区曙町森巻吉へ」と成って居て、「拝啓先日は失敬君のくれた菓子は僕が大概くつて仕舞つた。子供もたべました。...<中略>...僕の号は蒙求にもある極めて俗な出処でいやになつてるが仕方がないから用いて居る。...<後略>...」と在ります(△1のp293)。
 どれも『蒙求』で









    ◆明治22年大晦日の手紙は「遊び」の極致
       - 「睾丸をしてデレリと陋巷にたれこめて」には参った!!

 結局、明治22(1889)年の手紙は全て子規宛です。そして子規は8月頃から郷里の松山に帰ります。12月31日の大晦日の手紙は「遊び」の極致「牛込区喜久井町1番地より松山市湊町4丁目16番戸正岡常規へ(正岡子規『筆まかせ』より)」です。帰省後は如何病身は如何読書は如何執筆は如何、...<中略>...閑中の閑、静中の静を領する也俗に申せば銭のなきため不得巳握り睾丸をしてデレリと陋巷(ろうこう)(※12)にたれこめて御坐る也...<中略>...兎角大兄の文はなよ/\として婦人流の習気を脱せず近頃篁村流に変化せられ旧来の面目を一変せられたる様なりといへとも未だ真率の元気に乏しく従ふて人をして案を拍て快と呼ばしむる箇処少きやと存候總て文章の妙は胸中の思想を飾り気なく平たく造作なく直敍スルガ妙味と被存候さればこそ...<中略>...併し此 Idea を得るより手習するが面白しと御意遊ばさば夫迄なり一言の御答もなし只一月の赤心を吐露して歳暮年始の礼に代る事しかり穴賢
 御前此書を読み冷笑しながら「馬鹿な奴だ」と云はんかね兎角御前の coldness には恐れ入りやす
    十二月卅一日              漱石
  子規御前」

と成って居ます(△1のp11~13)。
 漱石はこの手紙で初めて「子規」の号を使います。そして子規と漱石は付き合って丁度1年ですが、「銭のなきため不得巳握り睾丸をしてデレリと陋巷(ろうこう)にたれこめて御坐る也」下ネタを臆する事無く堂々と使っていて、これは凄い!!
 つまり「遊び」が通じる相手には徹底してエスカレートし意気投合して居ます。それ故に子規と漱石は運命的出会いをしたのです。そして子規の文章を「大兄の文はなよ/\として」居ると酷評して憚(はばか)りません。これは文学的な「遊び」の極致の手紙として後世に残る逸品です!!
 尚、『筆まかせ』は子規の随筆集「明治22、3年頃の漱石の子規宛書簡はこれに書き写されて保存された」と注に在ります(△1のp897)。又、「篁村流」とは江戸時代の饗庭篁村(こうそん)の事で軽妙な筆を言います。

    ◆明治23年正月の手紙

 正月の手紙も正岡子規宛で「牛込区喜久井町1番地より松山市湊町4丁目16番戸正岡常規へ(正岡子規『筆まかせ』より)」と在り、「...<前略>...当年の正月は不相変(あいかわらず)雑煮を食ひ寐てくらし候寄席へは5、6回程参りかるたは2返取り候一日神田の小川亭と申にて鶴蝶と申女義太夫を聞き女子にてもかゝる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心そこで愚兄余に云ふ様「芸がよいと顔迄よく見える」と其当否は君の御批判を願ひます...<後略>...」という内容です(△1のp14)。
 鶴蝶とは鶴沢鶴蝶という中堅の女義太夫語りが出て来ます(漱石満22歳)。この頃流行った女義太夫については
  人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)

の中の「補遺ページ」で扱って居ますので、そちらを参照して下さい。

    ◆早くも明治23年に厭世的な心情を吐露

 明治23(1890)年8月9日の手紙(発信元と宛先は上と同じ)では「...<前略>...此頃は何となく浮世がいやになりどう考へても考へ直してもいやで/\立ち切れず去りとて自殺する程の勇気もなきは矢張り人間らしき所が幾分かあるせいならんか...<後略>...」と言って居ます(満23歳、△1のp21)。漱石は後年、博士も教授も投げ捨てますが、その厭世的な傾向は既にこの頃から徐々に醸成されて行きます。



    ◆嫂の死 - 俳句を子規に送る

 明治24(1891)年8月3日の子規への手紙(発信元と宛先は上と同じ)では俳句を30首も詠んで居ます。俳句が上達した所を子規に見て貰いたかったのでしょう、「...<前略>...不幸と申し候は余の儀にあらず小生嫂(あによめ)の死亡に御座候...<中略>...
 悼亡の句数首左に書き連ね申候俳門をくゞりし許りの今道心佳句のあり様は無之一片の衷情御酌取り御批判被下候はゞ幸甚...<後略>...」
と添えて居ます(△1のp30~33)。「小生嫂(あによめ)の死亡とは漱石の兄・直矩の妻を指します。実はこの女性は美人で漱石が密かに恋したと言われる女性です。漱石の句より数首を載せます。

    君逝きて 浮世に花は なかりけり
    遺骨や 是も美人の なれの果
    今日よりは 誰に見立てん 秋の月
    吾恋は 闇夜に似たる 月夜かな
     漱石


 心情 -即ち嫂への恋心の真情- が吐露されて居ると思います。




    ◆子規に宛てた長文の手紙 - 明治24年11月7日、11日

 この頃(=明治22後半~24年)の漱石の子規宛の手紙は長文のものが可なり在り、漱石は漢詩を使ったり互いに冷やかし合って居て、子規の病状が未だ比較的良好な事が窺えます。漱石もふざけて「平凸凹」などを使って居ます(△1のp28、29、34、44、46,48)。
 そんな中から長文の手紙を挙げると明治24(1891)年11月7日で、「牛込区喜久井町1番地より本郷区真砂町常盤会寄宿舎正岡常規へ」です。文面は「思ひ掛なき君が思ひがけなくも明治豪傑譚気節論まで添へて御恵投あらんとは真似て思ひがけなく驚入候何は偖(さて)ありがたく受納仕候御手紙は再三操(←原注)返し豪傑譚は興味に連れ一息に読了仕候当時少しく風邪の気味にて脳嶺岑々の折柄はからずも半日清閑の工夫を得申候段拝謝仕候。...<後略>...」というものです(△1のp35~41)。子規の「明治豪傑譚」「気節論」に興味有る方は原書を当たって下さい。まぁ兎に角、漱石がこの話題について7ページに亘って論じて居るのには恐れ入ります、しかも手紙で。漱石はこういう議論が好きなのです!
 更に11月11日の手紙(発信元と宛先は上と同じ)では、未だ「気節論」の続きを論じて居ます(△1のp41~44)、好きですね。私が興味有るのは「...<前略>...
 僕前年も厭世主義今年もまだ厭世主義なり嘗て思ふ様世に立つには世を容るゝの量あるか世に容れられるの才なかるべからず御存の如く僕は世を容るゝの量なく世に容れらるゝの才にも乏しけれどどうかこうか食ふ位の才はあるなり...<中略>...此増加につらて漸々慈憐主義に傾かんとす然し大体より差引勘定を立つれば矢張り厭世主義なり唯極端ならざるのみ之を撞着と評されては仕方なく候...<中略>...
 秋ちらほら野菊にのこる枯野かなの一句千金の値あり
 睾丸の句は好まず、笠の句もさのみ面白からず
    十一月十日夜              平凸凹乱筆
  子 規
       臥禅傍」

というものです(△1のp43~44)。ここで漱石は「厭世主義」だと自己分析している事は注目に値します。



 漱石は「秋ちらほら野菊にのこる枯野かな」が素晴らしいと言って居ます。「睾丸の句」は注に拠ると、子規の明治24年の句「雲助の睾丸黒き榾火(ほたび)哉」を指し、「笠の句」もやはり明治24年の「順礼の笠を霰のはしりかな」を指します(△1のp901)。この「睾丸の句」は明治22年に漱石が言った睾丸をしてデレリと陋巷(ろうこう)にたれこめて御坐る也」”御返し”ではないか、と思えます。何れにせよ子規と漱石は「言葉遊び」を楽しんで居るのです。
 明治25年以降は子規への長文の手紙は在りません、即ち病状が悪化してのです。









    ◆東京専門学校での漱石の教師排斥運同

 明治25(1892)年12月25日の手紙は「牛込区喜久井町1番地より下谷区上根岸88番地正岡常規へ」「...<前略>...小生不相変毎日々々通学仕居候間乍憚御休神被下度候偖(さて)運動一件御書状にて始めて承知仕り少しく驚き申候然し学校よりは未だ何等の沙汰無之辞職勧告書抔(など)も未だ到着不仕御報に接する迄は頓とそんな処に御気がつかれず平気の平左に御座候過日学校使用のランプの蓋に「文集はサッパリ分らず」と書たるものあれど是は例の悪口かゝる事を気にしては一日も教師は務まらぬ訳と打捨をき候...<中略>...此際断然と出講を断はる決心の御座候」と在ります(△1のp48~49)。
 これは漱石が東京専門学校(今の早稲田大学)の英語講師をしていた時に、子規から漱石の教師排斥運同が起こりそうだという手紙を貰った事への返信です。漱石は一部の生徒には評判が良く無かった様です。後に教師を辞めたいと常に言う様に成ります(→後出)が、或いはこの時の教師排斥運動がトラウマ(※13)に成っているのかも知れません。手紙の最後で漱石は「此際断然と出講を断はる決心の御座候」と言ってます。
 尚、吉原の鷲神社には子規の句碑が在ります。

 ■大学院、松山中学・五高に赴任、結婚

 1893(明治26)年7月に東京帝国大学英文科を卒業し大学院に進学し東京帝国大学寄宿舎に入ります(満26歳)。10月、東京高等師範(後の東京教育大学、今の筑波大学)の英語教師に成ります(年俸450円)。94(明治27)年には肺病の為療養し(満27歳)、10月に寄宿舎を出て小石川区表町73番地の法蔵院に転居。
 95(明治28)年4月、高等師範の教師を止め、子規の郷里松山中学教諭として赴任 -後の小説『坊つちやん』に結実- し、12月に貴族院書記官長・中根重一の長女の鏡子と見合いをし(満28歳)、この頃より俳句を本格的に遣ります。翌96(明治29)年4月、松山中学を辞任し五高(今の熊本大学)の教師と成り、6月に熊本市光琳寺町に一家を構え妻(鏡子)を迎えます(満29歳)。後で出て来る野間真綱はこの時の教え子です(△3のp239~240)。
 それでは又「文学散歩」をしましょう。

    ◆東京帝国大学寄宿舎からの最初の手紙

 明治26(1893)年7月27日、発信元と宛先は「東京帝国大学寄宿舎より埼玉県北足立郡尾間木村中尾斉藤阿具へ」と成っていて「...<前略>...大兄大学院許可証は未だ下付不相成是は文部省の貸費一條まだ落着不仕故と書記官の話しに御座候但し右辞令書廻達次第許可証は直ちに交付に相成る事と存候...<中略>...
    七月廿六日               金之助
  斉藤君
...<後略>...」
という内容です(△1のp51)。もう寄宿舎に入居してるのに大学院許可証が未だ届いて無いと言ってます。斉藤阿具という名は後の千駄木の家の大家として出て来ます。漱石が「斉藤君」と言って居るので大学の同級生でしょう。漱石は明治26年7月~明治27年10月迄、東京帝国大学寄宿舎に入ります

    ◆法蔵院からの最初の手紙(葉書)

 明治27(1894)年10月16日の葉書は「小石川区表町73番地法蔵院より麹町区飯田町4丁目狩野亨吉へ(はがき)」で、「所々流浪の末遂に此所に蟄居致候閑暇の節は御来遊可被下候
            小石川区表町73番地法蔵院にて
                        夏目金之助」
というものです(△1のp63)。




    ◆漱石が子規の故郷の松山中学に赴任 - 言いたい放題

 明治28(1895)年5月28日の子規への手紙は「松山市1番町愛松亭より神戸市神戸県立病院内正岡常規へ」と成って居ます。手紙の文面は「拝呈首尾よく大連湾より御帰国は奉賀候へども神戸県立病院はちと寒心致候長途の遠征旧患を喚起致候訳にや心元なく存候小生当地着以来昏々俗流に打混じアツケラ閑として消光...<中略>...大抵の人は田舎に辛防は出来ぬ事と存候当地の人間随分小理窟を云う処のよし宿屋下宿皆ノロマの癖に不親切なるが如し大兄の生国を悪く云ては済まず失敬々々
 道後(※14)へは当地に来てより3回入湯の来り候...<中略>...当地にては先生然とせねばならぬ故衣服住居も80円の月俸に相当せねばならず小生如き丸裸には当分大閉口なり...<中略>...
 当地出生軍人の娘を貰はんか/\と勧むるものあり貰はんか貰ふまいかと思案せしが少々血統上思はしからぬ事ありて御免蒙れり...<後略>...」
非常に面白い内容です(△1のp68~71)。
 先ず子規は日清戦争の従軍記者として戦地に赴きましたが喀血の為大連より神戸港に明治28年5月23日に帰国、しかし喀血が激しい為に神戸県立病院に7月23日迄入院しました。この年の4月から子規の故郷に赴任した漱石は「愛松亭」という料理屋の2階に2、3ヶ月逗留しました。漱石は言いたい放題ですが子規との確固とした信頼関係が有ればこそ、即ち大兄の生国を悪く云ては済まず失敬々々」に表れて居ます。

    ◆愛媛県には少々愛想が尽きた

 明治28年11月7日の子規への手紙は「松山市2番町8番戸上野方より下谷区上根岸町82番地正岡常規へ」と在り、「遂に東京へ御帰りのよし大慶の至に存候僂麻(←筆者注:リウマチの事)(※15)も差したる事ならざるよし随分御気をつけ可被成候...<前略>...
 12月には多分上京の事と存候此頃愛媛県には少々愛想が尽き申候故どこかへ巣を替へんと存候今迄は随分義理と思ひ辛防致し候へども只今では口さへあれば直ぐ動く積りに御座候貴君の生れ故郷ながら余り人気のよき処では御座なく候...<後略>...」
と在ります(△1のp75)。
 結局、愛媛県の松山はノロマの癖に不親切」とか「愛媛県には愛想が尽きた」と言われ、事実漱石は1年で松山中学教諭を辞めて仕舞いますが、果たして熊本は...。


      ◆◆松山は道後温泉と「坊っちゃん」の町

 松山には言わずと知れた道後温泉(※14)の町で、1894(明治27)年建築の道後温泉本館漱石の「坊っちゃん」を中心に”町興し”をして居ます。この松山の経験が『坊つちやん』のヒット作に繋がる訳ですから漱石は悪口ばかりも言ってられないのでは。文豪漱石と言えども良く読まれたのは、結局の所『吾輩は猫である』と『坊つちやん』の2作だけなのです。後の本ははっきり言って小難しいのでそんなに読まれて無い訳です。最近の”本離れ”の中ではこの2作もスマフォ(※Ψ)で筋を検索するだけという状況なのです。



『伊予国風土記』逸文には


 ところで松山は又、日清戦争(1894~95年)の時既に俘虜収容所が出来、日露戦争(1904~05年)の時は約4千人のロシア人が収容された近代以降最古の俘虜の町でも在ります。収容所の周りに鉄条網も柵も無く俘虜の身分で道後温泉にも入れたし、お金を持っていれば松ヶ枝の遊郭に上がる事も出来たと言います。松山はマイナスイメージの俘虜収容所などは忘れたいかも知れませんね、でもこれは歴史的事実なのです。。その事は▼下▼を参照して下さい。
  板東のドイツ人俘虜たち(The German captives in Bando, Tokushima)


    ◆子規への結婚の挨拶、熊本にも失望

 明治29(1896)6月11日の子規宛の漱石結婚の手紙。「熊本市光琳寺町より下谷区上根岸町82番地正岡常規へ」と在り、「中根事去る8日着昨9日結婚略式執行致候近頃俳况如何に御座候や小生は頓と振はず当夏は東京に行きたけれど未だ判然せず俳書少々当地にて掘り出す積りにて参り候処案外にて何もなく失望致候右は御披露まで余(よ)は後便に譲る 頓首
    衣更へて京より嫁を貰ひけり
                        愚陀佛
  子規様」

というものです(△1のp85)。

    ◆高浜虚子へ初めての手紙 - 明治29年12月5日

 明治29(1896)年12月5日に高浜虚子(※10-5)に初めて手紙を書いて居ます。漱石は明治25(1892)年に虚子を知ります直接手紙を書くのはこの時が初めてです。「熊本市合羽町237番地より神田区淡路町1丁目1番地高田屋方高浜清へ」と在り、「...<前略>...今日日本人31号を読みて君が書牘体(しょとくたい)の一文を拝見致し甚だ感心致候立論も面白く行文は秀でゝ美しく見受申候此道に従つて御進みあらば君は明治の文章家なるべし益御奮励の程奉希望候...<中略>...子規子近来の模様如何此方より手紙を出しても一向返事もよこさず多忙か病気か無性か或は三者の合併かと存候...<後略>...」という内容です(△1のp94~95)。「日本人31号」と在るのは、雑誌『日本人』31号に載った虚子の俳話の事です(△1のp906)。
 ところで「高浜清」は虚子の本名です。虚子の号は「清(きよし)」→「きょし」→「虚子」という転換だという事が解ります。
 虚子は漱石より7歳年下ですが、漱石は虚子には未だ遠慮が有り「此道に従つて御進みあらば君は明治の文章家なるべし益」と御世辞を言ってます。少し前の同年11月15日の子規への手紙にも「...<前略>...虚子の俳論を読み候内容と外容の議論「論事矩」を応用したる所面白く御座候...<後略>...」と書いてます(△1のp94)。実際、虚子は大成しますのでこの言葉は”おべんちゃら”では無いですが。
 そして漱石は「子規子近来の模様如何」と音信不通の子規の様子を聞いて居ます。実はその答えは約半年後の手紙に在ります。明治30(1897)年4月18日の手紙は「熊本市合羽町237番地より下谷区上根岸町82番地正岡常規へ」と在り、腰部切開後の景況あまり面白からぬ由困つた事と存候...<後略>...」と在ります(△1のp98)。つまり子規は脊椎カリエス(※10-3、※10-4)で腰の切開手術を受けて居たのです。以後、子規は歩行の自由を失います







    ◆熊本でも教師を辞めたいと子規に吐露

 明治30(1897)年4月23日の子規への手紙。「熊本市合羽町237番地より下谷区上根岸町82番地正岡常規へ」と在り、「...<前略>...単に希望を臚列(ろれつ)するならば教師をやめて単に文学的の生活を送りたきなり換言すれば文学三昧にて消光したきなり月々五六十の収入さえあれば今にも東京へ帰りて勝手な風流を仕る覚悟なれど遊んで居つて金が懐中に舞ひ込むといふ訳にもゆかねば衣食丈は小々堪忍辛抱して何かの種を探し(但し教師を除ク)其余暇を以て自由な書を読み自由な事を言ひ自由な事を書かん事を希望致候...<後略>...」というものです(△1のp99~101)。これは五高の教師時代(熊本)です。漱石は東京に帰りたいのと教師は嫌だというのが一緒に成って居ます、こういう混同は漱石だけで無く良く起こります。しかし私は東京専門学校での漱石の教師排斥運同がトラウマ(※13)として刷り込まれていると診て居ます。


    ◆新婚の虚子をからかった手紙 - 明治31年1月6日

 漱石は虚子にも大分慣れたと見え明治31(1898)年1月6日には得意の冗談めいた手紙を出して居ます。「熊本県飽託郡大江村401番地より府下日暮里村元金杉137番地○○方高浜清へ」と成って居り、文面は「...<前略>...承はれば近頃御妻帯のよし何よりの吉報に接し候心地千秋萬歳の寿をなさんが為め一句呈上致候
    初鴉(はつからす)東の方を新枕(にいまくら)
 小生旧冬より肥後小天と申す温泉に入浴同所にて越年致候
...<中略>...
    甘からぬ屠蘇や旅なる酔心地
...<中略>...
    正月五日夜               漱石
  虚子君
 乍末筆御令閨へよろしく御鳳声願上候」
という内容です(△1のp118~119)。虚子も新婚ですが、漱石も1年半前に妻帯し正月に温泉に来ている訳ですから大差無い訳です。不風流な「初鴉(はつからす)」を態々もって来なくて良さそうなものですが、ここが漱石の諧謔なので有り、親しみの表現なのです。











 ■イギリス留学中













    ◆留学往路の船旅 - 日記より

 船でロンドンに着く迄(留学往路)は漱石の日記が情報を提供してくれます。
 明治33(1900)年9月8日の横浜港出発は「横浜発遠洲(←原注)洋ニテ船少シク揺(ゆれ)ク晩餐ヲ喫スル能(あた)ハズ」と書かれ(△1-2のp7)、9月19日には「微雨尚已マズ、天漸ク晴レントス
  阿呆鳥熱き国へぞ参りける
  稲妻の砕ケテ青シ浪ノ花
 午後4時頃香港着、九龍ト云フ処ニ横着ニナル是ヨリ香港迄ハ絶エズ小蒸汽アリテ往復ス...<後略>...」
と在り(△1-2のp10)、この船旅で初めて俳句を詠んで居ます。又、10月1日には「12時頃コロンボ着、黒奴夥(←筆者注:黒奴隷)多船中ニ入込来リ口々ニ客ヲ引ク頗ル煩ワシ...<中略>...6時半旅館ニ帰リテ晩餐ニ名物ノ「ライス」カレヲ喫シテ帰船ス...<後略>...」と在ります(△1-2のp12)。「コロンボ」はセイロン島南西岸の都市。「「ライス」カレ」とは勿論カレーライスの事です。明治時代はライスカレーの呼び方の方が多かった様です。

 10月9日の日記には「猶 Aden ニ泊ス...<中略>...10時頃出帆始メテ阿弗利加ノ土人ヲ見ル...<後略>...」と在り、10月10日には「昨夜 Babelmandeb 海峡ヲ過ギテ紅海ニ入ル始メテ熱ヲ感ズ...<中略>...
  日は落ちて海の底より暑かな
と俳句が詠まれて居ます(△1-2のp14)。10月13日には「朝9時頃「スエズ」ニ着ス満目突兀(とっこつ)トシテ一草一木ナシ是ヨリ運河ニ入ル...<後略>...」と在り、10月14日には「Port Said ニ着ス午前8時出帆是ヨリ地中海ニ入ル...<後略>...」と在ります(△1-2のp15)。10月19日に「午後2時頃 Genoa ニ着ス...<後略>...」と在ります(△1-2のp16)。「Genoa」とはジェノヴァ(Genova)の英語読みで、漱石は英文学者ですから。そして10月20日に「午前8時半ノ汽車ニテ Genoa ヲ出発ス...<中略>...8時頃漸ク「パリス」ニ着ス...<後略>...」と在ります(△1-2のp16~17)。漱石が「パリス」と呼んで居るのが花の都・パリ(Paris)です。パリを英語読みにしたらパリスに成るのです、漱石は英文学者ですから。そして22日には「...<前略>...午後2時ヨリ渡辺氏ノ案内ニテ博覧会ヲ観ル規模宏大ニテ2日ヤ3日ニテ容易ニ観尽セルモノニアラズ方角サヘ分ラヌ位ナリ「エヘル」塔ノ(←原注)上リテ...<後略>...」と在ります(△1-2のp17)。「博覧会」とは1900年にパリで開催された万国博覧会「規模宏大ニテ2日ヤ3日ニテ容易ニ観尽セルモノニアラズ方角サヘ分ラヌ位ナリ」と書いて居ます。「「エヘル」塔」とは勿論エッフェル塔です。そして10月27日の日記では「博覧会ヲ覧ル日本ノ陶器西陣織尤モ異彩ヲ放ツ」と在り(△1-2のp18)、日本の出展物も観て居ます。

 10月28日に漸く「巴里ヲ発シ倫敦ニ至ル船中風多シテ苦シ晩ニ倫敦ニ着ス」と(△1-2のp18)、横浜を出発してから約1.7月で倫敦(ロンドン)に着きました。そして11月1日には「...<前略>...市内ヲ散歩シ理髪店ニ入ル4時 Andrews氏会合茶ヲ喫ス...<後略>...」と在ります(△1-2のp19)。「茶ヲ喫ス」と在るのは勿論、女王陛下の飲み物・紅茶です。

      ◆◆19世紀後半~20世紀前半はロンドンは煤煙公害

 明治34(1901)年1月3日の日記には「倫敦ノ町ニテ霧アル日大(←原注)陽ヲ見ヨ黒赤クシテ血ノ如シ、鳶色ノ地ニ血ヲ以テ染メ抜キタル太陽ハ此地ニアラズバ見ル能ハザラシ。...<後略>...」と在ります(△1-2の29)。ロンドンの濃霧で有名(→後出)ですが、そればかりでは無いのです。翌1月4日には「倫敦ノ町ヲ散歩シテ試ミニ啖(←原注)ヲ吐キテ見ヨ真黒ナル塊リノ出ルニ驚クベシ何百万ノ市民ハ此煤烟ト此塵埃ヲ吸収シテ毎日彼等ノ肺臓ヲ染メツゝアルナリ我ナガラ鼻ヲカミ啖ヲスル事ハ気ノヒケル程気味悪キナリ」と在ります(△1-2の30)。

 実は漱石がロンドンに留学した時期は煤煙公害(←未だ公害という言葉は無かった)が最悪の状態でした。世界に先駆けて産業革命(※x)を成し遂げたロンドンは、しかし工場や乗り物からの煤煙 -当時は石炭が中心、動力は蒸気機関(※x-1)、因みに産業革命は蒸気機関に依って齎されました- が物凄かったのです。これを典型的に示すのがオオシモフリエダシャクという蛾の色が、煤煙で黒っぽく成った蛾の方が煤煙で汚れなくて白っぽい蛾よりも鳥の餌に成り難い、従ってオオシモフリエダシャクは黒い色に成ったという昆虫学では有名な研究成果 -これを工業暗化(※x-2)と呼ぶ- として発表された事です。これは生物の環境適応能力を示して居ますが同時に生物の保護色とも関係して居ます。漱石の日記は正にその状態を言って居ます。今21世紀では北京が煤煙公害(←やはり石炭を使用して居る)ですね。

 しかし濃霧の日も在りました。1月12日の日記には「...<前略>...濃霧春夜ノ朧月ノ如シ市内皆燭明シテ事務ヲトル、...<後略>...」と在り(△1-2のp33)、ロンドンでは濃霧煤煙が渾然一体と成っていた様です!

      ◆◆漱石の観察眼

 明治34(1901)年1月5日の日記は鋭い観察眼が窺えます、即ち此煤烟中ニ住ム人間ガ何故美クシキヤ解シ難シ思フニ全ク気候ノ為ナラン大(←原注)陽ノ光薄キ為ナラン、往来ニテ向フカラ背ノ低キ妙ナキタナキ奴ガ来タト思ヘバ我姿ノ鏡ニウツリシナリ、我々ノ黄ナルハ当地ニ来テ始メテ成程ト合点スルナリ
 妄(みだ)リニ洋行生ノ話ヲ信ズベカラズ彼等ハ己ノ聞キタル事見タル事ヲ universal case トシテ人ニ話ス豈計(あにはか)ラン其多クハ皆 particular case ナリ、又多キ中ニハ法螺ヲ吹キテ厭ニ西洋通ガル連中多シ、彼等ハ洋服ノ嗜好流行モ分ラヌ癖ニ己レノ服ガ他ノ服ヨリ高キ故時好(じこう)ニ投ジテ品質最モ良好ナリト思ヘリ洋服屋ニダマサレタリトハ嘗テ思ハズ斯ノ如キ者ヲ着テ得々トシテ他ノ日本人ヲ冷笑シツゝアリ愚ナル事夥シ」
と記して居ます(△1-2のp30)。日本人はuniversal case(一般的な場合)」として吹聴するが、その多くはparticular case(個別な場合)」だと看破して居て、日本人の弱点を言い当てて居ます。

      ◆◆ロンドンのもう一つの名物 - シルクハットとフロックコート

 明治34(1901)年1月17日の日記には「倫敦デハ silk hatfrock-coat(※y) ガ流行ル中ニハ屑屋カラ貰タ様ナ者ヲ被ツテ歩行テ居ルノモアル思フニ英国ノ浪人ナルベシ...<後略>...」と在ります(△1-2のp33)。漱石は英文学者(※1)ですゾ!

      ◆◆虚子より「ホトトギス」が届く

 1月22日の日記には「The Queen is sinking. ...<中略>...ほとゝぎす届く子規尚生きてありと在ります(△1-2のp34)。「The Queen is sinking.」は女王 -Alexandrina Victoria(1819~1901年)(△1-2のp883)- が危篤である事を記して居ます。そして虚子から「ホトトギス」が届いた事と、虚子の手紙から「子規尚生きてあり」と子規の消息を書いてますが、この突き放す様な表現は漱石と子規の間でのみ通用するユーモアと解釈出来ます。翌日の日記には「昨夜6時半女皇死去ス」と記され、続いて英文で半旗が掲げられた事などが記されて居ます。そして2月20日の日記には「...<前略>...
 故郷の妻に文ヲツカハス、晩に虚子ヨリほとゝぎす4巻3号を送り来るうれし夜ほとゝぎすを読む」
と在り(△1-2のp42)、「ホトトギス」を心待ちにしていた事が解ります。








    ◆留学先から子規に宛てた最初の手紙

 明治34(1901)年4月9日の手紙は、発信元はロンドンの New Road で宛先は「下谷区上根岸町82番地正岡常規へ」と成って居て、「其後は頓と御無沙汰をして済まん君は病人だから固より長い手紙をよこす訳はなし虚子君も編緝(へんしゅう)多忙で「ほとゝぎす」丈を送つてくれる位が精々だらうとは出立前から予想して居つたのだから手紙のこないのは左迄驚かないが此方は倫敦といふ世界の勧工場の様な馬市の様な処へ来たのだから時々は見た事聞た事を君等に報道する義務がある是は単に君の病気を慰める許りでなく虚子君に何でもよいからかいて送つてくれろと二三度頼れた時にへい/\よろしう御座いますと大(←原注)揚に受合ったのだから手紙をかくのは僕の義務さ夫は承知だが僕も遊びに来た訳でもなし酔興にもごついて居る仕儀でもないのだから可成時間を利用し様と思ふのでね遂々いづ方へも無音になつてまことに申訳がない。
    四月九日夜               漱石」
という内容で(△1のp181)、同日の日記にも「...<前略>...正岡に長き手紙を認(したた)む」と在ります(△1-2のp55)。

    ◆明治34年4月に Tooting に転居

 明治34年5月8日の手紙は発信元がロンドンの Tooting に成って居り、宛先は妻です。文面は「...<前略>...2週間許前に又宿替をした此度は日本橋を去る4里許り西南の方だ矢張り下宿の主人や神さんはもとの奴だ実は変わりたいのだが妙な縁故で出にくい様な訳になって居る...<後略>...」という引っ越した事が出て来ます(△1のp183)。
 注に拠ると、これがロンドンに於ける3度目の転居です(△1のp911)。そして漱石はここも「実は変わりたいと言って居ます。「日本橋」と言ってるのはロンドンを日本に譬えたものでロンドン橋でしょう。
 この様に漱石は教師を辞めたいとか留学中の転居も何度か行って居ますから、漱石の場合は常に不満な訳で憂鬱症(鬱病)の一種(→後出)だと思います。


    ◆寺田寅彦への手紙・その1 - 明治34年9月12日

 明治34(1901)年9月12日の手紙は、発信元はロンドン(←Tooting から Clapham Common4度目の転居をしている)で宛先は「東京理科大学寺田寅彦(学生)」と成って居て、物理学者で文学者の寺田寅彦(※16)です。文学に関しては漱石の弟子です。「其後は存外の御無沙汰失敬大兄も御無事御勉学何かメンデルゾーン(←原注:メンデルスゾーン)抔(など)のブー/\鳴らして御得意の事と存候小生も矢張碌々生命を維持するにいそがしく候只今は倫敦の西南に住居致居候...<中略>...御家内御病気のよし是はナンボ君でも御閉口の事と御察し申上候随分御療養専一喀血抔は一寸流行るものだが頗る難有からぬ奴に候子規抔もあぶなき事と心配の至の候...<中略>...
 学問をやるならコスモポリタンのものに限り英文学なんかは掾の下の力持日本へ帰つても英吉利に居つてもあたまの上がる瀬は無之候小生の様な一寸生意気になりたがるものゝ見せしめにはよき修業に候君なんかは大に専門の物理学でしつかりやり給え...<中略>...
 僕も帰つて熊本へは行き度ない可成東京に居りたい然し東京に口があるかないか分らず其上熊本へは義理があるから頗る閉口さ...<中略>...
 僕は留学期限を1年のばして仏蘭西へ行き度が聞届られさうにもない
 君下宿で淋しければ時々僕の留守宅へでも遊びに行つて見給え──それも話しがなくてつまらないか──夫ならよし給え
 僕の趣味は頗る東洋的発句的だから倫敦抔にはむかない支那へでも洋行してフカの鰭か何かをどうも乙だ抔と言ひながら覚翫して見度い
 貞ちゃんへよろしく
    九月十二日               漱石
  寅日子様」

は漱石の心が良く表現されて居ます(△1のp187~189)。
 漱石は寅彦が可愛くて仕様が無いのです、だから冗談が出るのです。寅彦の妻君が喀血をし郷里に帰ったので下宿住まいの寅彦を労り、そこで正岡子規に思いが向かうのです。そして仏蘭西(=フランス)に行きたいと言って居ます。「僕の趣味は頗る東洋的発句的だから」は偽らざる真情です。尚「貞ちゃん」とは寅彦の長女・貞子です(△1のp911)。

 その10日後の9月22日付けの妻への手紙には「寺田寅彦から手紙が来た寺田の妻は吐血した夫に病気後子を生んださうだ妻は国に帰し自身は下宿をする
 可愛相だから時々僕の留守宅へでも遊びに行けと申してやつた行くかも知れない」
と書いて居ます(△1のp191)。寅彦への思い遣りが伝わって来ます。
 因みに「天災は忘れた頃にやって来る」(※16-1)という諺は寺田寅彦の言葉です。又、寅彦という名は寅年の寅の日(←寅彦の生年月日は1878年11月28日)に生まれたからです。

    ◆子規への最後の手紙 - 明治34年12月18日

 明治34(1901)年12月18日の留学先からの手紙が在ります。ロンドンの Clapham Common から「下谷区上根岸町82番地正岡常規へ」と在り、文面はロンドンの「日本の柔術師と西洋の相撲取の勝負」など呑気な話題が書かれ「こちらへ来てお世辞を真に受けて居ると大変な事になる。...<中略>...今や濃霧窓に迫つて書斎画暗く時針1時を報ぜんとして撫腹食を欲する事頻なり。此美しき数句を千金の掉尾(ちょうび)(※17)として筆を置く。12月18日」というものです(△1のp192~194)。ロンドンの「濃霧」は有名です。
 そして翌年の明治35(1902)年9月19日に子規が肺結核の為に亡くなったので、これが「子規へ最後の手紙」と成りました。

      ◆◆子規を追悼する手紙 - 明治35年12月1日

 そして明治35(1902)年12月1日に子規を追悼する手紙を虚子に出します。留学先のロンドン(Clapham Common)から宛先が「麹町区富士見町4丁目8番高浜清へ」で、「啓。子規病状は毎度御裏送のほとゝぎすにて承知致候処、終焉の模様逐一御報被下奉謝候。小生出発の当時より生きて面会致す事は到底叶ひ申間敷と存候。是は双方とも同じ様な心持にて別れ候事故今更驚きは不致、只々気の毒と申より外なく候。但しかゝる病苦になやみ候よりも早く往生致す方或は本人の幸福かと存候。倫敦通信の儀は子規存生中慰藉かたがたかき送り候筆のすさび、取るに足らぬ冗言と御覧被下度、其後も何かかき送り度とは存候ひしかど、御存じの通りの無精ものにて、其上時間がないとか勉強をせねばならぬ抔(など)と生意気な事ばかり申し、つい/\御無沙汰をして居る中に故人は白玉楼中の人と化し去り候様の次第、誠に大兄等に対しても申し訳なく、亡友に対しても慚愧の至に候。
 同人生前の事につき何か書けとの仰せ承知は致し候へども、何をかきてよきや一向わからず、漠然として取り纏めつかぬに閉口致候。...<中略>...昨夜ストーヴの傍にて左の駄句を得申候。...<中略>...日本に帰り候へば随分の高襟(はいから)党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。
        倫敦にて子規の訃を聞きて
    筒袖や秋の柩にしたがはず
    手向くべき線香もなくて暮の秋
    霧黄なる市に動くや影法師
    きりぎりすの昔を忍び帰るべし
    招かざる薄(すすき)に帰り来る人ぞ
 皆無雑句をなさず。叱正。(十二月一日、倫敦、漱石拝)」
という内容です(△1のp210~211)。漱石は相変わらず「日本に帰り候へば随分の高襟(はいから)党に有之べく、胸に花を挿して自転車へ乗りて御目にかける位は何でもなく候。」と冗談を言って居ます。子規に合掌!、そして漱石、虚子にも合掌!!

                (-_-)
                _A_



    ◆漱石日記の評価

 漱石の日記は明治34(1901)の11月13日迄細々(こまごま)と続きます(△1-2のp83)が、暫く中断して次の日記は明治40(1907)の3月28日に再開します(△1-2のp225)。全集の「日記及断片」の小宮豊隆氏(※1-7)の解説にも「漱石は平生あまり日記をつけなかった。」と書いてある通りです(△1-2のp857)。その中で常用日記に近い形で比較的克明に書いて在るのが、この章で参照した留学往路と留学中1年目の日記のみです。留学中2年目は「日記及断片」に一切在りませんし留学帰路の日記は在りません留学帰路の書簡も在りません)。以後も日記と言うより創作の覚書的な物が殆どです。





 ■帰国


 明治35(1902)年12月に帰国の途に着き、明治36(1903)年1月神戸に着き汽車で帰京します。東京で家を探す間、嫁の父・中根重一の家(牛込区矢来町3番地中ノ丸中根方)に2月26日迄厄介に成ります。
 漱石の「子規を追悼する手紙」の次の手紙は明治38年1月30日の手紙で、発信元はもう中根方に成って居ます。即ち、留学帰路の書簡は全く在りません















    ◆千駄木の家に引っ越す知らせ - 明治36年2月23日の手紙

 明治36(1903)年2月23日の手紙で「午後3時20分、牛込区矢来町3番地中ノ丸中根方より小石川区林町64番地菅虎雄へ」と在ります。文面は「...<前略>...先般来御配慮にあつかり候住宅一件先方より来る25日に引払う旨申越候につき当方にては翌26日に引移り度と存候...<後略>...」と在ります(△1のp214)。

 ■千駄木


 この千駄木の家(当時:本郷区駒込千駄木町57番地、現:文京区向丘2-20-7)は明治36(1903)年2月26日~明治39(1906)年12月26日の3年間住み『吾輩は猫である』の舞台に成った所で、現在家屋は愛知県犬山市の「明治村」に移築されて居ます。

    ◆千駄木の家から最初の手紙(葉書)

 明治36(1903)年3月4日の葉書で「午後6時20分、本郷区駒込千駄木町57番地より小石川区竹早町狩野亨吉へ(はがき)」と在り、内容は「御病気如何に候や御養生専一に候今般左記の処へ転居致候間一寸御通知申上候
駒込千駄木町57
新住所の案内です(△1のp214)。

    ◆明治37年の正月の絵葉書

 明治37(1904)年1月3日の絵葉書は「午後8時、本郷区駒込千駄木町57番地より下谷区谷中清水町5番地橋口貢へ(絵はがき)」
    人の上春を写すや絵そら言
という俳句が詠まれて居ます(△1のp236)。

    ◆千駄木の家を早くも転居しようとする漱石

 同年6月17日の葉書は「午後0時20分、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区台町36番地同学舎内野村伝四へ(はがき、表の署名に「千駄木の住人某先生」とあり)」と成っていて、「昨日散歩の序(ついでに)同学舎の前を通れり没趣味にして且汚穢極まる建物なり伝四先生此内に閑居して試験の下調をなしつゝあるかと思へば気の毒の至なり...<中略>...
 昨日ハンケチ1ダースとビスケツト1箱をもらふハンケチで汗をふきビスケツトをかぢる
  転居せんと思ふがよき家はなきか
と在ります(△1のp243)。
 貰ったハンケチとビスケットで冗談を言った後、千駄木に来て4ヶ月で早くも転居先を教え子に依頼して居ます。漱石は教師を辞めたい辞めたいと言ってますが、家も入居間も無く転居したいと言い出します。1年間の留学中も3回位引っ越して居ますから、漱石の場合は常に不満な訳で憂鬱症(鬱病)の一種(→後出)だと思います。

      ◆◆冗談で暑さに対抗

 同年7月20日の野間真綱への手紙では最後に「涼しい処で美人の御給仕で甘い物をたべてそして一日遊んで只で帰りたく候」と冗談を言い「無人島の天子とならば涼しかろ」と一句添えて居ます(△1のp250~251)。暑かった様です。

 ■『猫(1)』を「ホトトギス」に発表 - 明治37年12月

 (1)『猫(1)』の発表

 明治37(1904)年12月半ば『吾輩は猫である(1)』「ホトトギス」の明治38年1月号 -号の年月日の1ヶ月前に編集し発表される- に発表し話題を浚います。何故、俳句雑誌の「ホトトギス」に小説の『猫(1)』が載ったのか?、というと高浜虚子が子規門下の俳人たちと文章朗読会「山会」を開いていたからで、それのネタとして『猫(1)』が採り上げられたという訳です。

    ◆有名な『猫(1)』の書き出し

 『吾輩は猫である』は次の様に始まります。
 
        一
 吾輩は猫である。名前はまだ無い
 どこで生まれたかとんと見当がつかぬ。なんでも薄暗いじめじめした所でニャー/\泣いていた事だけは記憶している。吾輩はここで始めて人間というものを見た。しかもあとで聞くとそれは書生という人間中でいちばん獰悪(どうあく)な種族であったそうだ。この書生というのは時々われわれをつかまえて煮て食うという話である。...<中略>...書生が動くのか自分だけが動くのかわからないがむやみに目が回る。胸が悪くなる。到底助からないと思っていると、どさりと音がして目から火が出た。それまでは記憶しているがあとはなんの事やらいくら考え出そうとしてもわからない。
 ふと気がついてみると書生はいない。たくさんおった兄弟が一匹も見えぬ。肝心の母親さえ姿を隠してしまった。その上今までの所とは違ってむやみに明るい。目を明いていられぬくらいだ。はてななんでも様子がおかしいと、のそのそはい出してみると非常に痛い。吾輩は藁の上から急に笹原の中へ捨てられたのである。」
と(△4のp5~6)。つまり『猫(1)』では”吾輩”は書生に依って捨てられた事に成って居て、それで書生を徹底的に憎む訳です。

      ◆◆断片に”吾輩”の原形が - 「我輩」に成って居る

 全集の「日記及断片」の明治37・38年の断片-5に『猫(1)』の冒頭部分の一原型(△1-2のp887)と目される記述が在ります。日付は有りませんが『猫(1)』が公表されたのが明治37年12月半ばですから、この断片はそれ以前ということに成ります。それに拠ると我輩の向こふの家に○○○といふ書生の合宿所がある此書生等は日常我輩の疳癪を起して大声を発するのを謹聴するの栄を得る果報者である時として先生の仮声(かせい)抔(など)を使つて我輩を驚かしめる其所に女の召使か何かゞ居つて此書生と二人仮声を使ふ其標本を一寸諸君に御紹介する、但し此書生共は種々研究の結果色々な仮色を使ひ分ける或る時は某教授となりある時は某先生となる中々多芸なものである余慶な事であるが其代りに役者の仮声でも習つたら小使取位になるだらうと思はれるが学校の先生の仮声では単に我輩を驚殺せしむるのみで他に何等の効能もないのは気の毒である。...<後略>...」という内容です(△1-2のp113~114)。この断片では”吾輩”が「我輩」に成って居ますが、書生下女(=女の召使)や苦沙弥迷亭寒月(=某教授や某先生)の原形が登場し、漱石独特の皮肉(=小使取)も利いて居ます。
 実は『猫(1)』のもう一つの原形と目される断片が在りますが、それは後のお楽しみに!

    ◆”吾輩”が夏目家の住人に成った経緯

 「ここへはいったら、どうにかなると思って竹垣のくずれた穴から、とある邸内にもぐり込んだ。縁は不思議なもので、もしこの竹垣が破れていなかったなら、吾輩はついに路傍に餓死したかもしれんのである。一樹の陰(※m)とはよく言ったものだ。...<中略>...しかしひもじいのと寒いのにはどうしても我慢ができん。吾輩は再びおさんのすきを見て台所へはい上がった。するとまもなくまた投げ出された。...<中略>...その時におさんという者はつくづくいやになった。このあいだおさんさんまを盗んでこの返報をしてやってから、やっと胸のつかえがおりた。吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、この家(うち)の主人が騒々しいなんだといいながら出て来た。下女は吾輩をぶら下げて主人のほうへ向けてこの宿なしの子猫がいくら出しても出してもお台所へ上がって来て困りますという。主人は鼻の下の黒い毛をひねりながら吾輩の顔をしばらくながめておったが、やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へはいってしまった。主人はあまり口をきかぬ人と見えた。下女はくやしそうに吾輩を台所へほうり出した。かくして吾輩はついにこの家(うち)を自分の住み家ときめる事にしたのである。...<中略>...できうる限り吾輩を入れてくれた主人のそばにいる事をつとめた。」と在ります(△4のp6~8)。この様に「書生」に捨てられ「下女のおさん」に意地悪をされましたが、煮え切らない主人の一言で”吾輩”は夏目家の住人に成りました。だから多少は主人に恩義を感じて居るという訳です。


    ◆教師が一番楽な仕事

 「吾輩に主人はめったに吾輩と顔を合わせる事がない。職業は教師だそうだ。...<中略>...彼は胃弱で皮膚の色が淡黄色を帯びて弾力のない不活発な徴候をあらわしている。そのくせに大飯を食う。大飯を食ったあとでタカジャスターゼ(※n、※n-1)を飲む。飲んだあとで書物をひろげる。2、3ページ読むと眠くなる。よだれを本の上へたらす。これが彼の毎夜繰り返す日課である。吾輩は猫ながら時々考える事がある。教師というものは実に楽なものだ。人間と生まれたら教師となるに限る。...<中略>...それでも主人に言わせると教師はどつらいものはないそうで彼は友だちが来るたびになんとかかんとか不平を鳴らしている。」と在り(△4のp7~8)、”吾輩”は「人間と生まれたら教師となるに限る」と言ってます。漱石が「教師を辞めたい」と言って居るのは書簡集にも何度も出て来ます。

    ◆金縁めがねの美学者・迷亭 - 法螺吹きだが憎めない個性派

 「ある日その友人で美学(※q、※q-1)とかをやっている人が来た時に下(しも)のような話をしているのを聞いた。」
 「どうもうまくかけないものだね。ひとのを見るとなんでもないようだがみずから筆をとってみると今さらのようにむずかしく感ずる」これは主人の述懐である。なるほどいつわりのないところだ。彼の友は金縁のめがね越に主人の顔を見ながら、「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで絵がかけるわけのものではない。昔イタリーに大家アンドレア、デル、サルト(※j)が言った事がある。絵をかくならなんでも自然そのものを写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに鳥あり。走るに獣あり。池に金魚あり。故木に寒鴉(かんあ)あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も絵らしい絵えをかこうと思うならちと写生をしたら」
 「へえアンドレア、デル、サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にそのとおりだ」と主人はむやみに感心している。金縁の裏にはあざけるような笑いが見えた。」...<後略>...」
と在り(△4のp11)、アンドレア・デル・サルトの話が利いたと見えて主人は”吾輩”の写生を始めます。
 しかしこの話には後日談が在るのです、即ち「例の金縁めがねの美学者が久しぶりで主人を訪問した。彼は座につくと劈頭第一に「絵はどうかね」と口を切った。主人は平気な顔をして「君の忠告に従って写生を務めているが、なるほど写生をすると今まで気のつかなかった物の形や、色の精細な変化などがよくわかるようだ。西洋では昔から写生を主張した結果今日のように発達したものと思われる。さすがアンドレア、デル、サルトだ」と...<中略>...アンドレア、デル、サルトに感心する。美学者は笑いながら「実は君、あれはでたらめだよ」と頭をかく。「何が」と主人はまだからかわれた事に気がつかない。「何がって君のしきりに感服しているアンドレア、デル、サルトさ。あれは僕のちょっと捏造した話だ。君がそんなにまじめに信じようとは思わなかったハゝゝゝ」と大喜悦のていである。...<中略>...この美学者はこんないいかげんな事を吹き散らして人をかつぐのを唯一の楽しみにしている男である。...<中略>...「いや時々冗談を言うと人が真(ま)に受けるので大いに滑稽的美感を挑撥するのはおもしろい。」...<中略>...この美学者は金縁のめがねはかけているがその性質は車屋の猫に似たところがある」と在ります(△4のp19~21)。いいかげんな事とは法螺の事です。迷亭は『猫(4)』でも自炊の仲間だったという男に「あゝ迷亭ですか、相変わらず法螺を吹くと見えますね。」と言われて居ます(△4のp139)。
 要領が悪く糞真面目な主人は法螺吹きで個性派で金縁めがねの迷亭には到底勝ち目は有りません。

    ◆車屋の黒の常態

 ”吾輩”の近所には黒猫が居ます。「吾輩の家の裏に十坪(とつば)ばかりの茶園がある。...<中略>...茶の木の根を一本一本かぎながら、西側の杉垣のそばまでくると、枯れ菊を押し倒してその上に大きな猫が前後不覚に寝ている。彼は吾輩の近づくのもいっこう心づかざるごとく、また心づくも無頓着なるごとく、大きないびきをして長々とからだを横たえて眠っている。ひとの庭内に忍び入りたるものがかくまで平気に眠られるものかと、吾輩はひそかにその大胆なる度胸に驚かざるを得なかった。彼は純粋の黒猫である。...<中略>...「おれあ車屋の黒よ」昂然たるものだ。...<中略>...吾輩はまず彼がどのくらい無学であるかをためしてみようと思って左(←筆者注:下)の問答をしてみた。
 「いったい車屋と教師とはどっちがえらいだろう」
 「車屋のほうが強いにきまっていらあな。おめえのうちの主人を見ねえ、まるで骨と皮ばかりだぜ」
 「君も車屋の猫だけにだいぶ強そうだ。車屋にいるとごちそうが食えると見えるね」
 「なあにおれなんざ、どこの国へ行ったって食い物に不自由はしねえつもりだ。おめえなんかも茶畑ばかりぐるぐる回っていねえで、ちっとおれのあとへくっついて来てみねえ。ひと月とたたねえうちに見違えるように太れるぜ」
 「追ってそう願う事にしよう。しかし家(うち)は教師のほうが車屋より大きいのに住んでいるように思われる」
 「べらぼうめ、うちなんかいくら大きくたって腹の足しになるもんか」
 彼は大いにかんしゃくにさわった様子で、寒竹(かんちく)をそいだようなをしきりとびくつかせてあららか(※g)に立ち去った。吾輩が車屋の黒と知己になったのはこれからである。」
と在ります(△4のp13~15)。

      ◆◆車屋の黒の生活哲学

 「吾輩に向かって下(しも)のごとく質問した。「おめえは今までにを何匹とった事がある」知識は黒よりもよほど発達しているつもりだが腕力勇気とに至っては到底黒の比較にはならないと覚悟はしていたものの、この問いに接したる時は、さすがにきまりがよくはなかった。けれども事実は事実で偽るわけにはゆかないから、吾輩は「実はとろうとろうと思ってまだ捕らない」と答えた。...<中略>...元来黒は自慢をするだけにどこか足りないところがあって、彼の気炎を感心したように咽喉(のど)をころころ鳴らして謹聴していればはなはだ御しやすい猫である。...<中略>...「君などは年が年であるからだいぶんとったろう」とそそのかしてみた。果然彼は墻壁(しょうへき)の欠所に吶喊(とっかん)(※f)して来た。「たんとでもねえが3、40はとったろう」とは得意げなる彼の答えであった。彼はなお語をつづけて「鼠の100や200は一人でいつでも引き受けるがいたちってえやつは手に合わねえ。一度いたちに向かってひどい目に会った」「へえなるほど」とあいづちを打つ。」と話ます。黒はこの後、いたちの最後っ屁の強烈な話をし再び鼠にります。「「ひとのとったをみんな取り上げやがって交番へ持ってゆきゃがる。交番じゃだれが捕ったかわからねえからそのたんび5銭ずつくれるじゃねえか。うちの亭主なんかおれのおかげでもう1円50銭くらいもうけていやがるくせに、ろくなものを食わせた事もありゃしねえ。おい人間てものあ体(てい)のいい泥棒だぜ」さすが無学の黒もこのくらいの理屈はわかると見えてすこぶるおこった様子で背中の毛を逆立てている。...<中略>...この時から吾輩は決して鼠をとるまいと決心した。」と在ります(△4のp16~17)。黒の「おい人間てものあ体(てい)のいい泥棒だぜ」は黒が車屋から学んだ生活哲学です。そして”吾輩”は鼠を捕らない事を心に決めるのです。

    ◆断片が示す、苦沙弥・迷亭・車屋の黒 - ”吾輩”は未だ居ない

 ここに非常に面白い断片が在ります。全集の「日記及断片」の明治37・38年の断片-7K君は始め画かゝうと思つて友人B君の処へ行つて先ず何をかいたもの(←原注:「の」を追加)だらうと/するとB君はアンドリやデルサルト/画を学ぶなら何でも自然其物を写せ天に星辰あり地に(←原注:「に」を追加)露華あり飛ぶに禽あり走るに獣あり池に金魚あり故木に寒鴉あり自然是一幅の大活画なりと云ふといゝ加減な事をいふとK君は真面目になつてアンドリやデルサルトがそんな事を云ふたかい/...<中略>...向ふの屋根の上に隣の三毛猫が寝て居たK君こゝだと合点してすぐに紙を展べて彼の猫の写生を(←原注:「を」を追加)始めた...<中略>...其次にはどう云ふ考か人間が一つかいて見度なつた...<中略>...K君は最後に一策を案じて筋向ふの車屋の子の八つちゃんに5銭やつて之を写生する事にした...<中略>...
 「一体君是は何だ」とBは冷笑の意味を以て問ふた
 「夫や筋向の車屋の子だよ」
 「車屋の子はいゝがこんなものは絵にやならないよ、第一此顔の色ぢやない真黒ぢやないか」
 「車屋の子だもの」
 「著色抔(など)の汚ない色だ事」
 「それも車屋の子だから仕方ない」
 「車屋の子であると否とを問はず是は駄目だ遠近も濃淡もない英語で所謂ドーブなるものだ」
 車夫の子としてもK君は問ふ何人の子でも駄目だといふ事を聞いてK君は憮然として去つたが夫から人間の写生を断念して仕舞った...<後略>...」
というものです(△1-2のp115~117)。ここには迷亭が言った「絵をかくならなんでも自然そのものを写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに鳥あり。走るに獣あり。池に金魚あり。故木に寒鴉(かんあ)あり。自然はこれ一幅の大活画なり」という気障な台詞が殆どその儘出て来ます。

 これは明らかに『猫』が完成する途中の段階を示して居ます。つまり断片の段階を経て『猫』に成って行く訳です。即ち

      断片             『猫』
    (未だ”吾輩”が居ない)
    K君              苦沙弥
    B君              迷亭
    アンドリやデルサルト      アンドレア・デル・サルト
    最初、三毛猫を写生       吾輩を写生
    車屋の子(八つちゃん)     車屋の黒
    (K君の人間の写生のモデル)  (べらんめえ口調)


です。これに『猫(1)』の冒頭部分の断片から吾輩(←我輩に成って居る)・書生・下女のおさん、などを足したら可なり『猫』に近付いて来ます。そういう意味で興味有る断片です。唯、残念なことに断片が書かれた日付が判って居ません。この部分が『猫(1)』で発表される訳ですから明治37(1904)年12月半ば以前である事は確かですし、この断片と『猫(1)』は未だ可なりの距離が有りますので、少なくとも3ヶ月、或いは半年位前ではないか、と思って居ます。


    ◆”吾輩”に似た猫は - ノラ猫百態から

 ところで”吾輩”がどんな色や毛並みをして居るのかと言うと「吾輩は自白する。吾輩は猫として決して上乗(じょうじょう)のできではない。背といい毛並みといい顔の造作といいあえて他の猫にまさるとは決して思っておらん。...<中略>...吾輩はペルシャ産の猫のごとく黄を含める淡灰色に漆のごとき斑(ふ)入りの皮膚を有している。」と在ります(△4のp12)。私の「ノラ猫百態」 -これは実際にノラ猫を100匹集めた写真集です- の中から選ぶと、こんな猫でしょうか?!


    ◆『猫』は『猫(1)』で終わる積もりだった

 『猫』は第1~11章迄続き、明治39(1906)年5月号『猫(11)』を以て終わります(小宮豊隆氏の解説(△4のp259、267))が、漱石は元々は『猫(1)』のみで終わる積もりだった事は解説も書いて居ます(△4のp266)が、『猫(1)』が予想外に非常に好評だったのと編集者の虚子からも懇願されて続篇を書く事のしたのです。その事は漱石も語って居ます、即ち「時期が来てゐたんだ-処女作追懐談」(『文章世界』3巻12号、明治41年9月15日)に「私の処女作-と言えば先ず『猫』だらうが、...<中略>...『ホトゝギス』とは元から関係があつたが、それが近因で私が日本に帰つた時(正岡子規はもう死んで居た)編集者の虚子から何か書いて呉れないかと嘱(たの)まれたので始めて『吾輩は猫である』といふのを書いた。所が虚子がそれを読んで、これは不可(いけ)ませんと云ふ。訳を聞いて見ると段々ある。今は丸で忘れて仕舞つたが、兎に角尤もだと思つて書き直した
 今度は虚子が大いに賞めてそれを『ホトゝギス』に載せたが、実はそれ1回きりのつもりだったのだ。ところが虚子が面白いから続きを書けといふので、だん/\書いて居るうちにあんなに長くなつて了つた。...<中略>...つまり言へば私があゝいふ時期に達して居たのである。...<後略>...」
という具合です(△5のp279~283)。この事は後に本人の手紙の中でも「只無暗にかいてるとあんなものが出来るのです」と自嘲気味に言ってます。
 『猫』の解説にも「高浜虚子の『漱石氏と私』によると、漱石に『猫』を書かせたのは、虚子だったのだそうである。そのうえ虚子は、漱石がこれを『猫伝』としようか、それとも書き出しの一句をとって、『吾輩は猫である』としようかに迷っていたのを、後者にきめさせることにしたのだという。」と書いて居ます(△4のp259)。漱石の手紙の中に『猫伝』という名が時々使われて居るのは、そうした事情に由るのです。

 そして、これで終わる積もりだったという『猫(1)』の最後は、「吾輩はごちそうも食わないから別段肥りもしないが、まずまず健康でびっこにもならずにその日その日を暮らしている。は決して取らないおさんはいまだにきらいである。名前はまだつけてくれないが、欲をいっても際限がないから生涯この教師の家(うち)で無名の猫で終わるつもりだ。」と成って居ます(△4のp22)。

 (2)『猫(1)』の評 - 手紙

 『猫(1)』が発表されると「猫」評が持て囃され、手紙でも「猫」評の議論が行われます。

    ◆明治38年1月1日の大塚保治を評した手紙

 発信元と宛先は「午後(以下不明)、本郷区駒込千駄木町57番地より麻布区三河台町島津男爵邸内野間真綱へ」と在り、「...<前略>...猫伝をほめてくれて難有いほめられると増長して続篇続々篇抔(など)をかくきになる実は作者自身は少々鼻について厭気になつて居る所だ読んでもちつとも面白くない陳腐な恋人の顔を見る如く毫も感じが乗らない。...<中略>...猫伝中の美学者は無論大塚の事ではない無論大塚はだれが見てもあんな人ぢゃない。然し当人は気をまはしてさう思ふかもしれぬがそれは一向構はない。主人も僕とすれば僕他とすれば他どうでもなる。兎に角自分のあらが一番かき易くて当り障りがなくてよいと思ふ。人は悪口を叩かぬ先に自分で悪口を叩いて置く方が洒落てるぢゃありませんか。...<中略>...
 元日も好い天気で結構だ。今日は何だかシルクハットが被って見たいから一つ往来を驚かしてやらうかと思ふ 左様奈良
    元日                  金
  真綱様」

と在ります(△1のp269~270)。ここで「猫伝」と言っているのは勿論小説『吾輩は猫である』の事です、漱石は当初タイトルを『猫伝』にするか『吾輩は猫である』にするか迷って居たのです、だから書簡集には時々『猫伝』という名で出て来ます。
 「猫伝中の美学者」とは作中の美学者・迷亭ですが、この迷亭が東京帝国大学美学講座教授の大塚保治(※18)だと早くから言われて来ました。しかし漱石がそれを否定している根拠がこの「猫伝中の美学者は無論大塚の事ではない」の部分です。しかし美学者は物理学者より少ないので他に漱石の知人で美学者が居るかと言えば大塚保治以外に居ないのです。実は漱石と大塚保治は”ちと微妙な関係”に在るのです(→後出)。




    ◆寺田寅彦への手紙・その2 - 明治38年2月7日

 発信元と宛先は「午前9時50分、本郷区駒込千駄木町57番地より小石川区原町16番地○○方寺田寅彦へ」と在り、漱石(←筆者注:「氵」に「敕」を使用、フォント無しが熊本で死んだら熊本の漱石で、漱石が英国で死んだら英国の漱石である。漱石が千駄木で死ねば又千駄木の漱石で終る。今日迄生き延びたから色々の漱石を諸君に御目にかける事が出来た。是から10年後には又10年後の漱石が出来る。俗人は知らず漱石は一箇の頑塊なり変化せずと思ふ。此故に彼等は皆失敗す。漱石を知らんとせば彼等自らを知らざる可からず。這般(しゃはん、※19)の理を解するものは寅彦先生のみ。
  恐惶謹言
            Dynamic Law
              on
            Mr.K.Natsume.」

というものです(△1のp280~281)。
 これは "Dynamic Law on Mr.K.Natsume.(夏目金之助の動力学的法則)" だと言ってます。寺田寅彦も漱石の”お気に入り”で書簡集でもこうした冗談(=遊び)が飛び交って居ることで解ります。正岡子規など下ネタの物凄い冗談(遊び)を使ってましたよね、それは親しみの表れなのです。
 漱石は結局早稲田の「漱石山房」で他界しましたから、上の伝に従えば早稲田の漱石(或いは漱石山房の漱石)に成ります。

      ◆◆寺田寅彦への手紙・その3 - 明治38年2月13日

 明治38(1905)年2月13日の「午後5時、...<前回と同じで省略>...(絵はがき自筆水彩画)」と在り、寅彦宛の絵葉書には「...<前略>...然し僕の猫伝もうまいなあ。天下の一品だ。10銭均一位な所にはあたる。...時に続々篇には寒月君に又大役をたのむ積りだよ」と在ります(△1のp283)。猫伝と言っているのは漱石が”吾輩”を描いた水彩画を指します、それが「10銭均一位」の価値が有ると冗談で言ってる訳です。「寒月君」とは”吾輩”の中で寺田寅彦がモデルの水島寒月ですが、それを本人宛の絵葉書の中で暴露して居ます。これも漱石流冗談と解せます。

    ◆猫の鼻息が荒くなった - 明治38年2月13日

 漱石は明治38年2月13日には、もう一通出して居ます。「午後5時、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区駒込追分町30番地奥井館皆川正禧へ(絵はがき自筆水彩画)」と在り、「君が大々的賛辞を得て猫も急に鼻息が荒くなつた様に見受候。続編もかき度(い)抔(など)と申居候。いづれ4月はホトトギスは壱百号ださうですから其時迄に掾側で趣向を考へて置くと申す話です。日本文壇の偉観は少々恐縮す(る)から御返却したいと申します。皆川さんは倫敦塔の様なものでなくては御気に入らないかと思つたら吾輩の様なのも分るえらいは大喜悦に御座候。同じ駒込区内にかう云う知己があれば町内の奴が野良と云はうが馬鹿猫と申さうが構ふ事はないと満足の体に見えます。此猫は向三軒両隣の奴等が大嫌ださうです。」と、冒頭で引用した文の登場です(△1のp283)。これは既に冒頭で述べた通り漱石自身の心情(=真情)なのです。










 (3)『猫(2)』~『猫(10)』の発表

 『猫(2)』~『猫(10)』は「ホトトギス」の明治38(1905)年2月号~明治39(1906)年4月号 -号の年月日の1ヶ月前に編集し発表される- に連載されます(△4のp259)。そして同年5月号の『猫(11)』を以て『猫』の連載は終わり完成するのです。
 ここで当ページで参照している『吾輩は猫である(上・下)』の第1章~11璋のページ番号と発表年月日の号を記して置きます。

    『猫(1)』     上  p5    明治38年 1月号
    『猫(2)』     〃 p23      〃   2月号
    『猫(3)』     〃 p84      〃   4月号
    『猫(4)』     〃p133      〃   6月号
    『猫(5)』     〃p173      〃   7月号
    『猫(6)』     〃p212      〃  10月号
    『猫(7)』     下  p5    明治39年 1月号 *
    『猫(8)』     〃 p44      〃   1月号 *
    『猫(9)』     〃 p91      〃   3月号
    『猫(10)』    〃p137      〃   4月号
    『猫(11)』    〃p201      〃   8月号

 *.明治39年1月号には第7、8章が纏めて発表された



  (3)-1.『猫(2)』の発表

 『猫(2)』は明治38(1905)年1月半ばに発表されました。

    ◆僅か1ヶ月で有名に成った”吾輩”

 「ホトトギス」の明治38(1905)年2月号の掲載された『猫(2)』は行き成り、「吾輩は新年来多少有名に成ったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。」という文章で始まります(△4のp23)。
 そして「吾輩が主人のひざの上で目をねむりながらかく考えていると、やがて下女が第2の絵はがきを持って来た。見ると活版で舶来の猫が4、5匹ずらりと行列してペンを握ったり書物を開いたり勉強をしている。その内の1匹は席を離れて机の角で西洋の猫じゃ猫じゃを踊っている。その上に日本の墨で「吾輩は猫である」と黒々とかいて、右のわきに書を読むやおどるや猫の春一日(はるひとひ)という俳句さえしたためられている。これは主人の旧門下生より来たのでだれが見たって一見して意味がわかるはずであるのに、迂闊な主人はまだ悟らないと見えて不思議そうに首をひねって、はてなことしは猫の年かなとひとり言をいった。吾輩がこれほど有名になったのをまだ気がつかずにいると見える。」と在ります(△4のp25)。明治38年1月号、即ち明治37年12月に発表された『猫(1)』は僅か1ヶ月で”吾輩”を有名にした事実がこの文から解ります。

    ◆「牡蠣の根性」とは

 「なんでも年賀の客を受けて酒の相手をするのがいやらしい。人間もこのくらい偏屈になれば申しぶんはない。そんなら早くから外出でもすればよいのにそれほどの勇気もない。いよいよ牡蠣の根性をあらわしている。しばらくすると下女が来て寒月さんがおいでになりましたという。この寒月という男はやはり主人の旧門下生であったそうだが、今では学校を卒業して、なんでも主人より立派になっているという話である。...<中略>...主人のようなしなびかけた人間を求めて、わざわざこんな話をしに来るのからして合点がゆかぬが、あの牡蠣的主人がそんな談話を聞いて時々あいづちを打つのはなおおもしろい。
 「しばらくごぶさたをしました。実は去年の暮れから大いに活動しているものですから、出よう出ようと思っても、ついこの方角へ足が向かないので」と羽織のひもをひねくりながら謎みたような事をいう。「どっちの方角へ足が向くかね」と主人はまじめな顔をして、黒もめんの紋付き羽織の袖口を引っぱる。...<中略>...「えへゝゝ少し違った方角で」と寒月君が笑う。見るときょうは前歯が一枚欠けている。「君歯をどうかしたかね」と主人は問題を転じた。「ええ実はある所で椎茸を食いましたね」「何を食ったって?」「その、少し椎茸を食ったんで。椎茸の傘を前歯でかみ切ろうとしたらぽろりと歯が欠けましたよ」「椎茸で前歯がかけるなんざ、なんだかじじい臭いね。俳句にはなるかもしれないが、恋にはならんようだな」と平手で吾輩の頭を軽くたたく。「ああそのが例のですか、なかなか肥ってるじゃありませんか、それなら車屋の黒にだって負けそうもありませんね、立派なものだ」と寒月君は大いに吾輩をほめる。...<中略>...寒月君はおもしろそうに口取り(※k、※k-1)の蒲鉾を箸ではさんで半分前歯で食い切った。吾輩はまた欠けはせぬかと心配したが今度は大丈夫であった。...<中略>...「それじゃ出るとしよう」と思い切って立つ。...<中略>...
 両人(ふたり)が出て行ったあとで、吾輩はちょっと失敬して寒月君の食い切ったかまぼこの残りをちょうだいした。吾輩もこのごろでは普通一般の猫ではない。...<中略>...今度は日記帳を出して下(しも)のような事を書きつけた。
   寒月と、根津、上野、池の端、神田へんを散歩。池の端の待合の前で芸者が裾模様の春着をきて羽根をついていた。衣装は美しいが顔はすこぶるまずい。なんとなくうちの猫に似ていた。...<中略>...
   宝丹の角を曲がるとまた一人芸者が来た。これは背のすらりとしたなで肩の格好よくできあがった女で、着ている薄紫の衣服(きもの)も素直に着こなされて上品に見えた。...<中略>...ただしその声は旅鴉(たびがらす)のごとくしゃがれておったので、せっかくの風采も大いに下落したように感ぜられた...<中略>...寒月はなんとなくそわそわしているごとく見えた。

 人間の心理ほど解しがたいものはない。...<中略>...世の中を冷笑しているのか、世の中へまじりたいのだか、くだらぬ事にかんしゃくを起こしているのか、物外(ぶつがい)(※l)に超然としているのだかさっぱり見当がつかぬ。...<中略>...
   神田の某亭で晩餐を食う。久しぶりで正宗を2、3杯飲んだら、けさは胃の具合がたいへんいい。胃弱には晩酌が一番だと思う。タカジャスターゼは無論いかん。だれがなんと言ってもだめだ。どうしたってきかないものはきかないのだ。...<中略>...
 これも決して長く続く事はあるまい。主人の心は吾輩の目玉のように間断なく変化している。」
と在ります(△4のp26~34)。ここで■色日記の文章です。
 「吾輩もこのごろでは普通一般の猫ではない。」は”吾輩”が有名に成った事えお言って居ます。
 しかし「牡蠣の根性」とは中々個性的な表現です。「世の中を冷笑しているのか、世の中へまじりたいのだか、くだらぬ事にかんしゃくを起こしているのか、物外(ぶつがい)に超然としているのだかさっぱり見当がつかぬ」状態の儘、つまり外からは何を考えているのか判然とせず、煮え切らない牡蠣の如くにくっ付いたら離さない人を言って居ます。この章の後半では”吾輩”は「牡蠣先生」と呼んで居ます(△4のp53)。
 宝丹の角」とは東京池之端の守田治兵衛の店の事です(※n-2)。漱石は胃弱なので宝丹やタカジャスターゼを常用して居ました。

      ◆◆”吾輩”曰く、日記など付けるのは無駄

 「猫などはそこへゆくと単純なものだ。食いたければ食い、寝たければ寝る、おこるときは一生懸命におこり、泣くときは絶体絶命に泣く。第一日記などという無用のものは決してつけない。つける必要がないからである。主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかもしれないが、われら猫属に至ると行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、行屎送尿(こうしそうにょう)ことごとく真正の日記であるから、別段そんなめんどうな手数をして、おのれの真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら縁側に寝ているまでの事さ。」と言ってます(△4のp32~33)。「行屎送尿」とは良く言いましたねぇ。「行住坐臥」は「行くことと止ることと坐ることと臥すこと」を表し、「行屎送尿」は「糞をし小便をすること」を表します。特に猫の小便はマーキング(marking)(※h)に利用され自分の縄張を示すとても大事な行為です。


三重吉さん、そういう事です。


    ◆雌猫の三毛子は死ぬ - 戒名は猫誉信女

 三毛子はこの近所で有名な美貌家である。...<中略>...女性の影響というものは実に莫大なものだ。杉垣のすきから、いるかなと思って見渡すと、三毛子は正月だから首輪の新しいのをして行儀よく縁側にすわっている。その背中の丸さかげんが言うに言われんほど美しい。...<中略>...吾輩のそばに来て「あら先生、おめでとう」と尾を左へ振る。...<中略>...教師の家(うち)にいるものだから三毛子だけは尊敬して先生先生といってくれる。吾輩も先生と言われてまんざら悪い心持ちもしないから、はいはいと返事をしている。...<中略>...
    君を待つ間の姫小松……
 障子の内でお師匠さんが二弦琴をひきだす。「いい声でしょう」と三毛子は自慢する。「いいようだが、吾輩にはよくわからん。ぜんたいなんというものですか」「あれ?、あれはなんとかってものよ。お師匠さんはあれが大好きなの。……お師匠さんはあれで62よ。ずいぶん丈夫だわね」...<中略>...「あれでも、もとは身分がたいへんよかったんだって。いつでもそうおっしゃるの」「へえ元はなんだったんです」「なんでも天璋院様の御祐筆の妹のお嫁に行った先のおっかさんの甥の娘なんだって」「なんですって?」「あの天璋院様の御祐筆の妹のお嫁にいった……」...<中略>...
 障子の中で二弦琴の音(ね)がぱったりやむと、お師匠さんの声で「三毛や三毛や御飯だよ」と呼ぶ。...<後略>...」
と在ります(△4のp40~42)。それで三毛子は首輪の鈴をちゃらちゃら鳴らして帰ります。待遇が大分”吾輩”とは違いますね、アッハッハ。この「天璋院」も断片に出て来ます(△1-2のp128)が、断片では単に覚書で「天璋院」だけです。
 そして三毛子が病気で寝ているという話です。「障子の中で例のお師匠さん下女が話をしているのを手水鉢の葉蘭の影に隠れて聞いているとこうであった。...<中略>...
 「風邪をひくといってもあまり出あるきもしないようだったに……」「いえね、あなた、それが近ごろは悪い友だちができましてね」
 下女は国事の秘密でも語る時のように大得意である。
 「悪い友だち?」「ええあの表通りの教師の所にいる薄ぎたない雄猫(おねこ)でございますよ」「教師というのは、あの毎朝無作法な声を出す人かえ」「ええ顔を洗うたんびに鵝鳥(がちょう)が絞め殺されるような声を出す人でござんす」
 鵝鳥が絞め殺されるような声うまい形容である。...<中略>...
 「あんな主人を持っている猫だから、どうせのら猫さ、今度来たら少したたいておやり」「たたいてやりますとも、三毛の病気になったのも全くあいつのおかげに相違ございませんもの、きっと仇をとってやります」
 とんだ冤罪をこうむったものだ。こいつはめったに近寄れないと三毛子にはとうとう会わずに帰った。」
と成ります(△4のp59~62)。
 三毛子の病は癒えずその儘死んで仕舞いました、お師匠さんは丁重な葬式を上げ三毛子に猫誉信女という戒名を付け坊主が読経しました(△4のp80)。そして葬式の後で「「つまるところ表通りの教師のうちののら猫がむやみに誘い出したからだと、わたしは思うよ」「えゝあの畜生が三毛のかたきでございますよ」」と又ぶり返します(△4のp81)。”吾輩”は当分の間、お師匠さんと下女には恨まれます。




    ◆越智東風は本人曰く「おちこち」である

 「家へ帰ると座敷の中が、いつになく春めいて主人の笑い声さえ陽気に聞こえる。はてなと明け放した縁側から上がって主人のそばへよって見ると見慣れぬ客が来ている。頭をきれいに分けて、もめんの紋付きの羽織に小倉の袴を着けて至極まじめそうな書生体(しょせいてい)の男である。主人の手あぶりの角を見ると春慶塗りの巻煙草入れと並んで越智東風君を紹介致し候水島寒月という名刺があるので、この客の名前も、寒月君の友人であるという事も知れた。主客の対話は途中からであるから前後がよくわからんが、なんでも吾輩が前回に紹介した美学者迷亭君の事に関しているらしい。」というものです(△4のp46)。ところが東風は「「あの東風(こち)というのを音(おん)で読まれるとたいへん気にするので」「はてね」と迷亭先生は金唐皮の煙草入れから煙草をつまみ出す。「私の名は越智東風(おちとうふう)ではありません、越智(おち)こちですと必ず断わりますよ」」と仰るのです(△4のp64)。

    ◆”吾輩”は一大哲学に到達 - 苦沙弥も寒月も迷亭も「太平の逸民」

 そして”吾輩”は遂に「人間というものは時間をつぶすためにしいて口を運動させて、おかしくもない事を笑ったり、おもしろくもない事をうれしがったりするほかに能もない者だと思った。...<中略>...要するに主人寒月迷亭太平の逸民(※d)で、彼らはへちまのごとく風に吹かれて超然と澄まし切っているようなものの、その実はやはり娑婆気もあり欲気もある。競争の念、勝とう勝とうの心は彼らが日常の談笑中にもちらちらとほのめいて、一歩進めば彼らが平常罵倒している俗骨どもと一つ穴の動物になるのはより見て気の毒の至りである。」という一大哲学に到達するのです(△4のp79)。「太平の逸民」については「考察」の章(→後出)で又論じます。
 ところで風に吹かれてとはボブ・ディランより早いですね、ムッフッフ!

  (3)-2.『猫(3)』~『猫(10)』の発表

    ◆『猫(3)』 - 金田夫人の鉤鼻

 『猫(3)』は明治38(1905)年3月半ばに発表されました。「おりから格子戸のベルが飛び上がるほど鳴って「御免なさい」と鋭い女の声がする。迷亭と主人は思わず顔を見合わせて沈黙する。
 主人のうちへ女客は稀有だなと見ていると、かの鋭い声の所有主は縮緬の二枚重ねを畳へすりつけながらはいって来る。年は40の上を少し越したくらいだろう。抜け上がった生(は)えぎわから前髪が堤防工事のように高くそびえて、少なくとも顔の長さの2分の1だけ天に向かってせり出している。目が切り通しの坂ぐらいな勾配で、直線につるし上げられて左右に対立する。直線とは鯨より細いという形容である。だけはむやみに大きい。人の鼻を盗んで来て顔のまん中へすえ付けたように見える。...<中略>...その鼻はいわゆる鍵鼻(←筆者注:鉤鼻)(※c)で、ひとたびはせいいっぱい高くなってみたが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先のほうへゆくと、初めの勢いに似ずたれかかって、下にあるくちびるをのぞき込んでいる。かく著しい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うと言わんより、鼻が口をきいているとしか思われない。吾輩はこの偉大なる鼻に敬意を表するため、以来はこの女を称して鼻子鼻子と呼ぶつもりである。」
と”吾輩”の最初の紹介です(△4のp102)が、やはり金田夫人(鼻子)の鉤鼻(鍵鼻)の異常な大きさが真っ先に出て来ます。鉤鼻は鷲鼻(※c-1)とも言いユダヤ民族ペルシャ民族が典型です。天狗の鼻も大きいですが、天狗の鼻に関してはこの様な穿(うが)った見方も有りますゾ!

 [ちょっと一言]方向指示(次) 私が子供時代に『吾輩は猫である』をテレビ -多分モノクロ(白黒)の時代- で遣った事が有りました。もう他の場面とかは忘れましたが、鼻子の場面だけは未だ良く覚えて居ます。それは張りぼてデカい鼻を付けて居るのですが大写しにすると鼻の継ぎ目が見えて居るという漫画チックな作りで笑って仕舞いました。多分子供向けの番組だったと思います。

 続いて話はこう続きます。「「どうも結構なお住まいでそこと」と座敷じゅうをにらめ回す。主人は「うそをつけ」と腹の中で言ったまま、ぷかぷか煙草をふかす。...<中略>...「ちと伺いたい事があって、参ったんですが」と鼻子は再び話の口を切る。「はあ」と主人がきわめて冷淡に受ける。これではならぬと鼻子は「実は私(わたくし)はついご近所で──あの向こう横丁の角屋敷なんですが」「あの大きな西洋館の倉のあるうちですか、どうりであすこには金田という標札が出ていますな」...<中略>...ことに実業界などでは、どこに、だれが何をしているかいっこう知らん。...<中略>...
 「金田って人を君知ってるか」と主人は無造作に迷亭に聞く。「知ってるとも、金田さんは僕の伯父の友だちだ。このあいだなんざ園遊会へおいでになった」と迷亭はいよいよまじめである。「へえ、君の伯父さんてえなだれだい」「牧山男爵さ」と迷亭はいよいよまじめである。...<中略>...鼻子は急に向き直って迷亭のほうを見る。迷亭は大島紬に古渡更紗か何か重ねて澄ましている。「おや、あなたが牧山様の──なんでいらっしゃいますか、ちっとも存じませんで、はなはだ失礼をいたしました...<中略>...」と急に丁寧な言葉づかいをして、おまけにおじぎまでする、迷亭は「へえゝなに、ハゝゝゝ」と笑っている。」
と成ります(△4のp103~104)。「牧山男爵」という又もや迷亭の法螺が飛び出します。しかし、不意に来た鼻子に対し「大島紬に古渡更紗か何か」を着込んでいる所が流石迷亭で、接ぎの当たった普段着をのべつ幕無しに着ている苦沙弥先生とは違います。苦沙弥は本代の請求が丸善から来たりして家計は余裕が無いのに対して迷亭は悠々自適なのです。迷亭は更にこの鼻に「進化論の大原則」を持ち込み話を大袈裟にします(△4のp128)。それにしても先程の[ちょっと一言]にも書きましたが金田夫人は全く漫画的です。

      ◆◆『猫(4)』 - 金田家と苦沙弥は対立

 ところで金田夫人の亭主は、金田邸に忍び込んだ”吾輩”に金田君は妻君に似合わず鼻の低い男である。」と書かれていて(△4のp135)、このアンバランスも漫画的です。そして金田君は「あの苦沙弥という変物が、どういうわけか水島に入れ知恵をするので、あの金田の娘をもらってはいかんなどとほのめかすそうだ──なあ鼻子そうだな」と言い(△4のp141)、金田家と苦沙弥が対立する構図が出来上がります。

 金田鼻子が苦沙弥の家を訪ねた目的は金田家の令嬢・富子と水島寒月君の縁談話がどういう訳か持ち上がっていて金田夫人直々の調査だったのです。但し条件は寒月が博士論文を書く事でしたが寒月が中々これを仕上げないのです。その結末は最集章の『猫(11)』に出て来ます(△4-1のp245~247)が、それは[猫文士の心#2]で扱います。

    ◆『猫(5)』 - 猫鍋を食う多々良三平

 『猫(5)』は明治38(1905)年6月半ばに発表されました。或る日多々良三平が訪ねて来ます。この男は唐津なまり(△4のp190)の法学士で何と六つ井物産の役員(△4のp195)という超エリートですが、エリートに有るまじき意見を吐きます。
 「「奥さん大(ふと)かやつをぜひ一ちょう飼いなさい。──はだめですばい、飯を食うばかりで──ちっとは鼠でも捕りますか」
 「1匹もとった事はありません。ほんとうに横着なずうずうしいですよ」
 「いやそりゃ、どうもこうもならん。早々捨てなさい。わたしがもらって行って煮て食おうかしらん」
 「あら、多々良さんは猫を食べるの」
 「食いました。うもうござります
 「ずいぶん豪傑ね」」
という具合です(△4のp195)。多々良君の猫鍋の話を聞いた”吾輩”は部屋の隅に小さく成って居ました。
 又、次の様に語っても居ます。「不明の結果皮をはいで三味線屋に売り飛ばし、肉を刻んで多々良君の膳に上(のぼ)すような無分別をやられてはゆゆしき大事である。」と(△4のp203)。

      ◆◆昭和の文豪・川端康成の「猫捕り」

 ここで、明治・大正の文豪に対し昭和の文豪・川端康成(※20)が「猫捕り(猫取り)」について、昭和5(1930)年頃の下層民が闇商売として猫を捕らえる瞬間を描写して居ます(▼下▼を参照)。
  [人形浄瑠璃巡り#3]大阪市西成([Puppet Joruri 3] Nishinari, Osaka)

 今その部分をここからコピーして置きます(△10のp54)。

 「猫を見つけると、紐でしばった雀を投げ出す。雀が羽ばたきする。猫が飛びつく。紐をじりじり引きしぼる。猫がおびき寄せられる。そこをつかまえる早業が、呼吸だ。
 捕らえた猫は、直ぐたたき殺す。公園の暗がりか、河岸の物陰で、生皮を剥ぐ。その皮は着物の下にかくして、腰に巻きつけておく。三味線屋へ高く売れる。」


 どうです?!、中々凄いでしょ。





    ◆『猫(6)』 - あの蒙求が出て来た!

 『猫(6)』は明治38(1905)年9月半ばに発表されました。「「実は先日僕がある用事はあって図書館へ行って帰りに門を出ようとしたら偶然老梅君に出会ったのさ。あの男が卒業後図書館に足が向くとはよほど不思議な事だと思って感心に勉強するねと言ったら先生妙な顔をして、なに本を読みに来たんじゃない、今門前を通りかかったらちょっと小用がしたくなったから拝借に立ち寄ったんだと言ったんで大笑いをしたが、老梅君と君(←筆者注:寒月君)とは反対の好例として新撰蒙求にぜひ入れたいよ」と迷亭君例のごとく長たらしい注釈をつける。主人は少しまじめになって「君そう毎日毎日珠(たま)ばかり磨(す)ってるのもよかろうが、元来いつごろできあがるつもりかね」と聞く。「まあこの様子じゃ10年ぐらいかかりそうです」と寒月君は主人よりのんきに見受けられる。」と在ります(△4のp226)。寒月君は珠を磨いて、それを博士論文の実験に使うそうで、が磨き上がらないと博士に成れない、博士に成れないと金田令嬢との結婚が出来ないという訳です。
 ところで、漱石という号に決めたのは蒙求からでしたが漱石はそれを仄めかして居ます。
 そして、この少し後で迷亭が余計な事を喋り「「奥さんのように別に思いも思われもしない苦沙弥君の所へ片付いて生涯の何物たるをお解しにならんかたには、御不審ももっともだが……」「あら何を証拠にそんな事をおっしゃるの。ずいぶん軽蔑なさるのねと奥さんを怒らせて仕舞います。その言い訳に迷亭「そりゃ僕の艶聞などは、いくら有ってもみんな七十五日(※21)以上経過しているから、君がたの記憶には残っていないかもしれないいが──実はこれでも失恋の結果、この年になるまで独身で暮らしているんだよ」と言います(△4のp227)。

      ◆◆少女売りの話

 迷亭が突然こんな話をします。「「苦沙弥君、君も覚えているかもしれんが僕らの5、6歳の時までは女の子を唐茄子のように籠へ入れて天秤棒でかついで売ってあるいたもんだ、ねえ君」「僕はそんな事は覚えておらん」「君の国じゃどうだか知らないが、静岡じゃたしかにそうだった」「まさか」と細君が小さい声を出すと、「ほうとうですか」と寒月君がほんとうらしからぬ様子で聞く。
 「ほんとうさ。現に僕のおやじが価(ね)をつけた事がある。その時僕はなんでも6つぐらいだったろう。おやじと一緒に油町(あぶらまち)から通町(とおりちょう)へ散歩に出ると、向こうから大きな声をして女の子はよしかな、女の子はよしかなとどなってくる。僕らがちょうど2丁目の角へ来ると、伊勢源という呉服屋の前でその男に出っくわした。...<中略>...」「君は呉服屋の話をするのか、人売りの話をするのか」「そうそう人売りの話をやっていたんだっけ。...<中略>...」「...<中略>...──それで僕がおやじと伊勢源の前までくると、例の人売りがおやじを見て旦那女の子しまい物はどうです、安く負けておくから買っておくんなさいなと言いながら天秤棒をおろして汗をふいているのさ。見ると籠の中には前に1人後ろに1人両方とも2歳ばかりの女の子が入れてある。おやじはこの男に向かって安ければ買ってもいいが、もうこれぎりかいと聞くと、へえあいにくきょうはみんな売り尽くしてたった2つになっちまいました。どっちでもいいから取っとくんなさいなと女の子を両手で持って唐茄子かなんぞのようにおやじの鼻の先へ出すと、おやじはぽんぽんと頭をたたいてみて、ははあかなりな音だと言った。それからいよいよ談判が始まってさんざん値切った末おやじが、買ってもいいが品はたしかだろうなと聞くと、ええ前のやつは始終見ているから間違いはありませんがね後ろにかついでるほうは、なにしろ目がないんですから、ことによるとひびが入ってるかもしれません。こいつのほうなら受け合えない代わりに値段を引いておきますと言った。僕はこの問答をいまだに記憶しているんだがその時子供心に女というものはなるほど油断のならないものだと思ったよ。──しかし明治38年の今日こんなばかなまねをして女の子を売ってあるくものもなし、目を放して後ろへかついだほうはけんのんだなどという事も聞かないようだ。だから僕の考えではやはり泰西文明のおかげで女の品行もよほど進歩したものだろうと断定するのだが、どうだろう寒月君
 寒月君は返事をする前にまず鷹揚な咳払いを一つして見せたが、それからわざと落ち付いた低い声で、こんな観察を述べられた。「このごろの女は学校のゆき帰りや、合奏会や、慈善会や、園遊会で、ちょいと買ってちょうだいな、あらおいや?、などと自分で自分を売りにあるいていますから、そんな八百屋のお余りを雇って、女の子はよしか、なんて下品な依託販売をやる必要はないですよ。...<後略>...」」
という内容です(△4のp235~237)。
 静岡は迷亭の故郷で例の伯父さんが居ます。










      ◆◆俳劇に高浜虚子登場!

 寒月脚本について語り出します、即ち「「...<前略>...僕も一つ新機軸をだして俳劇というのを作ってみたのさ」「俳劇たどんなものだい」「俳句趣味の劇というのを詰めて俳劇の2字にしたのさ」...<中略>...「ところへ花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈心入りの帽子をかぶって、透綾(すきや)の羽織に、薩摩飛白(がすり)の尻端折(しりっぱしょ)りの半靴(はんぐつ)というこしらえで出てくる。...<中略>...それで虚子が花道ゆき切っていよいよ本舞台にかかった時、ふと句案の目をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びている、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏(からす)が1羽とまって女の行水を見おろしている。そこで虚子先生大いに俳味に感動したという思い入れが50秒ばかりあって、行水の女にほれる烏(からす)かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。──どうだろう、こういう趣向は。お気に入りませんかね。...<後略>...」」と(△4のp240~242)。
 『猫』は俳句雑誌「ホトトギス」(※10-2)に連載されました、それは朗読会「山会」で朗読する為です。それが「ホトトギス」の編集責任者の高浜虚子が実名入りで登場して来る訳ですから、これは面白い。明治38(1905)年9月半ばの朗読会は盛り上がった筈です、しかも「長い柳の枝に烏(からす)が1羽とまって女の行水を見おろしている。」という情景ですから、何も俳句趣味が有ろうが無かろうが「男は皆好き」な光景です。御負けに俳句が良い!
    行水の 女にほれる 烏(からす)かな
は実に単純で卑近な表現が男の真情を吐露して居ます。朗読会でも皆ゲラゲラ笑ったに違い有りません。朗読会に参加していた虚子は「これは1本参った!」という感じでしょう。これは漱石の諧謔趣味と一般読者に対するサービス精神の表れです。
 この様に連載物は現場の状況を取り入れて行き、或る時にはわざと「状況の一部を露出」する事も大切なのですが、最近のテレビの様に露出過剰のヤラセ(遣らせ)が横行している事は困った現象です。物事には「適度な範囲」というものが有り過ぎたるは猶(なお)及ばざるが如し」なのです。
 





    ◆『猫(7)』 - ”吾輩”の年齢

 『猫(7)』は明治38(1905)年12月半ばに発表されました。そこに”吾輩”の年齢に関して重要な事が書かれて居ます。即ち「吾輩は去年生まれたばかりで、当年とって1歳だから人間がこんな病気にかかりだした当時のありさまは記憶に存しておらん、のみならずそのみぎりは浮世の風中にふわついておらなかったに相違ないが、猫の1年は人間の10年にかけ合うと言ってもよろしい。...<中略>...主人の第三女などは数え年で3つだそうだが、知識の発達から言うと、いやはや鈍いものだ。泣く事と、寝小便をする事と、おっぱいを飲む事よりほかになんにも知らない。」と言ってます(△4-1のp5~6)。これは猫の享年(→後出)を計算する時に参考と成ります。

      ◆◆蟷螂狩りは観察の賜物

 蟷螂(とうろう)狩りは鼠狩りほどの大運動でないかわりにそれほどの危険がない。夏の半ばから秋の始めへかけてやる遊戯としてはもっとも上乗のものだ。その方法を言うとまず庭へ出て、1匹のかまきりをさがし出す。時候がいいと1匹や2匹見つけ出すのは雑作もない。さて見つけ出したかまきり君のそばへはっと風を切って駆けてゆく。するとすわこそという身構えをして鎌首をふり上げる。かまきりでもなかなかけなげなもので、相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるからおもしろい。振り上げた鎌首を右の前足でちょっと参る。振り上げた首はやわらかいからぐにゃり横へ曲がる。この時のかまきり君の表情がすこぶる興味を添える。おやという思い入れが充分ある。ところを一足飛びに君の後ろへ回って今度は背面から君の羽根を軽く引っかく。あの羽根は平生だいじに畳んであるが、引っかき方がはげしいと、ぱっと乱れて中から吉野紙(※22)のような薄色の下着があらわれる。君は夏でも御苦労千万に二枚重ねでおつにきまっている。...<中略>...君は惰性で急回転はできないからやはりやむを得ず前進してくる、その鼻をなぐりつける。この時かまきり君は必ず羽根を広げたまま倒れる。その上をうんと前足でおさえて少しく休息する。それからまた放す。放しておいてまたおさえる。...<中略>...約30分この順序を繰り返して、身動きもできなくなったところを見澄ましてちょっと口へくわえて振ってみる。それからまた吐き出す。...<中略>...最後の手段としてむしゃむしゃ食ってしまう。ついでだからかまきりを食ったことのない人に話しておくが、かまきりはあまりうまい物ではない。」と書いて居ます(△4-1のp9~11)が、漱石は可なり猫とカマキリ双方を観察して居ます。私はバッタのページで漱石先生は相当な閑人・変人に違い無い」と言ってます。
 カマキリは人に対しても鎌首を振り上げて来ます。「相手の力量を知らんうちは抵抗するつもりでいるからおもしろい」は全くその通りで、「蟷螂の斧」(※22-1)とはそういう状態を言ったものです。それと猫が直ぐ食わないで闘いを”楽しむ”のも事実です。カマキリだけで無くトカゲなども甚振(いたぶ)り中々食いません。
 ところで、カマキリの雌(♀)は交尾した後の雄(♂)を食うことから、怖い女性をカマキリ女(鎌切女)と呼びますゾ。が♂を食べている大写しの写真が在りますので、▼下▼をクリックしてご覧下さい。
  2005年・年頭所感-幸せ保存の法則(Law of conservation of HAPPINESS, 2005 beginning)

    ◆『猫(9)』 - 初めて鏡を見て驚いた猫

 『猫(9)』は明治39(1906)年2月半ばに発表されました。そこにこんな話が載って居ます、即ち「元来というものは気味の悪いものである。深夜ろうそくを立てて、広い部屋のなかでひとり鏡をのぞき込むにはよほどの勇気がいるそうだ。吾輩などは始めて当家の令嬢から鏡を顔の前へ押しつけられた時に、はっと仰天して屋敷のまわりを3度駆け回ったくらいである。」と書かれて居ます(△4-1のp97)。
 これは私も経験が在ります。私が小学校1、2年の時に飼って居た猫(当時1歳~2歳)に鏡を見せたら不思議そうな表情をして居たので、持っていた鏡を「ワッ!」と言って顔に押し付けたら吃驚して部屋の隅へ逃げました。考えて見れば、鏡には自分の顔が映って居る訳で、猫がその時「自分の顔」と認識したかは定かでは有りません。でも「不思議そうな表情」をしたので私は鏡を立てて固定し、部屋を出て行き暫く襖(ふすま)の陰で見て居ました。すると5分位して部屋の隅から出て来ると先ず鏡の前に来て覗き、次の瞬間、猫は鏡の裏に回り何やら調べている様な仕草をしたので、私は笑いが堪え切れずに姿を表すと猫は「ニャー」と鳴きました。「猫と鏡」は中々面白いテーマですゾ!




    ◆『猫(10)』 - 断片や手紙のアイデアを利用している漱石

 『猫(10)』は明治39(1906)年3月半ばに発表されました。
 「ここにおいてか主人は今まで頭からかぶっていた夜着を一度にはねのけた。見ると大きな目を二つともあいたいる。
 「なんだ騒々しい。起きると言えば起きるのだ」
 「起きるとおっしゃてもお起きなさらんじゃありませんか」
 「だれがいつ、そんなうそをついた」
 「いつもですわ」
 「ばかを言え」
 「どっちがばかだかわかりゃしない」と妻君ぷんとして箒を突いて枕もとに立っているところは勇ましかった。この時裏の車屋の子供、八っちゃんが急に大きな声をしてワーと泣きだす。」
と在ります(△4-1のp144)。
 ここで「裏の車屋の子供、八っちゃん」を覚えて居ますか?、『猫』が完成する途中の段階を示した断片に出て来ました。漱石は断片のアイデアをこういう所で使って居ます。何故八っちゃんが「急に大きな声をしてワーと泣きだす」かは、車屋の奥さんが金田夫人に買収されて居て、隣で苦沙弥先生が夫婦喧嘩をすると八っちゃんが泣き出す様に母親に仕込まれているからです。可哀想なのは八っちゃんです。

 「突然妙な人がお客に来た。17、8の女学生である。踵(かかと)のまがった靴をはいて、紫色の袴を引きずって、髪を算盤珠のようにふくらまして勝手口から案内もこわずに上がって来た。これは主人の姪である。学校の生徒だそうだが、おりおり日曜にやって来て、よく叔父さんとけんかをして帰ってゆく雪江とかいうきれいな名のお嬢さんである。もっとも顔は名前ほどでもない、ちょっと表へ出て1、2町あるけば必ず会える人相である。...<中略>...
 「天探女(あまのじゃく)でしょう。叔父さんはあれが道楽なのよ。だから何かさせようと思ったら、うらを言うと、こっちの思いどおりになるのよ。こないだ蝠蝙傘(こうもり)を買ってもらう時にも、いらない、いらないって、わざと言ったら、いらない事があるものかって、すぐ買ってくだすったの」
 「ホヽうまいのね。わたしもこれからそうしよう」
 「そうなさいよ。それでなくっちゃ損だわ」」
と在ります(△4-1のp153)。「雪江」という名前を覚えて居ますか?、そうです、留学中に生まれた次女の名前の候補の一つに在った名前です。ここでは手紙が利用されて居る訳です。この様に漱石は断片や手紙に書いたアイデアを小説に再利用して居ます、尤もこの様な再利用は他の作家も遣って居ます。しかし「顔は名前ほどでもない」は笑っちゃいますね!
 ところで「天探女」には「あまのじゃく」とルビが振って在りますが、もう一つ「あまのさぐめ」という読みが在ります。要するに天探女(あまのさぐめ)(※23)が天邪鬼(あまのじゃく)(※23-1~※23-2)のルーツなのです。確かに漱石には天邪鬼で片意地を通す所が見受けられますので、姪の雪江の言(げん)は当たって居ます。





    ◆『猫』に使われた他の断片

 「日記及断片」の注を見ると、『猫』に使われた部分は△1-2のp95~223です(△1-2のp886~893)。p95は明治34(1901)年であり、p223は明治39(1906)年4月以前です。
 断片は覚書であり今迄で少し紹介しましたが、その他で項目のみを拾って行くと、明治37・38年の断片から「猫魔物」「立町老梅、理野陶然」「月並は馬琴の胴へ」(←「在り来たり、平凡」な事を月並と呼んだのは正岡子規の口癖)、「迷亭猶未我を解せず」(以上△1-2のp128)、「寒月のヷイオリン研究」(△1-2のp134)、「迷亭の著」(以上△1-2のp142)、明治38年11月~明治39年夏頃の断片から、「生れる時には誰も熟考してから生れるものはないが死ぬ時には誰でも苦心する」「自殺クラブ」(△1-2のp166)、「御茶の水(御茶の味噌)」(△1-2のp181)、「猫の読心術」(△1-2のp182)などです。
 この中で「迷亭の著」と在るのは『猫(4)』に出て来る「美学原論」の事で、迷亭得意の法螺で誤魔化し結局書かず仕舞い苦沙弥「迷亭はあの時分から法螺吹きだったな」と言われて居ます(△4のp164~165)。
 これらの断片が『猫』の中に埋め込まれて居ます。

 (4)『猫(2)』~『猫(10)』の評 - 手紙

    ◆『猫(2)』~『猫(3)』の評 - 美学者・大塚保治への絵葉書

 明治38(1905)年4月7日の絵葉書は「午前5時30分、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区駒込西片町10番地大塚保治へ(絵はがき)」と在り、
 の画は中々うまい。あれは妻君の代作だらう。
 猫の顔や骨格や姿勢はうまいが、色がまずい。顔の周囲にある模様見た様なものも妙だな。
 僕も画端書をかいて奥さんを驚ろかせやうと思ふがひまがないからやめ。
 僕は今大学の講義を作つて居る。いやでたまらない。学校を辞職したくなつた。学校の講義よりでもかいて居る方がいゝ。」
と在ります(△1のp292)。この絵葉書は日付から『猫(2)』~『猫(3)』が発表された時期に書かれて居ます。
 漱石は又も「学校を辞職」したいと言って居ます。漱石は松山中学五高につづいて大学も辞めたいと言ってます。
 ところで、漱石が妻君の代作だろう」と言ってるのが保治の妻・大塚楠緒子(※18-1)で、歌人にして小説家、更にこの様に絵も描けばピアノも弾く、しかも美人。男は美人に弱いのです。

      ◆◆大塚楠緒子 - 漱石の秘めた恋人説も有る

 しかし楠緒子に対する漱石の辛辣な批評を葉書に書いて居ます。手紙は遡って明治37(1904)年6月3日で「午後7時20分、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区台町36番地同学舎内野村伝四へ(はがき)」と在り、文面は「...<前略>...太陽にある大塚夫人の戦争の新体詩を見よ、無学の老卒が一杯機嫌で作れる阿呆陀羅経の如し女のくせによせばいゝのに、...<後略>...」と続きます(△1のp240~241)。「太陽」とは雑誌『太陽』の事、「大塚夫人」は勿論楠緒子の事、「戦争の新体詩」とは明治37年6月号に載った軍歌調の『進撃の歌』の事です。
 ところで、一説に拠ると漱石が明治28(1895)年に松山中学に赴任したのは楠緒子に失恋したからという話が有ります。楠緒子は漱石より8歳年下、松山中学赴任時漱石28歳、楠緒子20歳の時です。しかも、この年に楠緒子は小屋保治と結婚し小屋は嫁の姓に替えて居るのです。年齢から言っても、これは大いに有り得る説です。
 この説を採れば、楠緒子の残像を絶ち切る為に同年12月に中根鏡子と見合いをし翌明治29年6月に結婚をした、という事に成ります。これは中々面白い説です。すると楠緒子に対しては辛辣に成るのも理解出来ます、もう恋は終わったのだと自分に言い聞かせて居る、という事に成ります。

 『硝子戸の中』には楠緒子を書いた部分が在ります。




 楠緒子は1910(明治43)年に流行性感冒(←今日のインフルエンザ(※24)を拗らせて35歳で亡くなりました、一男三女の母。美人薄命なり。



    ◆『猫(6)』の評 - 死んでいゝ奴は千駄木にゴロゴロして居る

 漱石が「死んでいゝ奴は千駄木にゴロゴロして居るのに」と手紙に書いて居ますが、私はこの文章が非常に名言で大好きです。これは明治38(1905)年12月6日の手紙で、時期から言って『猫(6)』の評が出た頃です。
 この文は野間真綱(=熊本時代の教え子)の娘が亡くなった報せへの返信葉書で、「午後5時、本郷区駒込千駄木町57番地より芝区琴平町2番地朝陽館野間真綱へ(はがき)」と発信元と宛先が在ります、その全文を載せましょう。
 「御嬢さん御かくれのよし。惜しい事をしましたな。美しい小女(←原文)の死ぬ程詩的に悲しい事はない。死んでいゝ奴は千駄木にゴロ/\して居るのに思ふ様にならんな。
    白菊の一本折れて庵淋し
 僕は御嬢さんの御墓参りがしたい。いつかつれて行き玉へ。草稿をかくのでいそがしい。17日頃迄は来てはいかん。」
というものです(△1のp343)。差し詰め「死んでいゝ奴は日本中にゴロゴロして居る」のは、私が名付けた「多老」などがその最たる存在でしょう。

    ◆『猫(7)』~『猫(8)』の評 - 漱石は鬱病の傾向が有る

 明治39(1906)年2月6日には「午後3~4時、本郷区駒込千駄木町57番地より芝区琴平町2番地朝陽館野間真綱へ」と在り、「...<前略>...金がとれて地位が出来ると憂鬱病も退散するだらうと思ふがどうですか。僕なんか百万円もらつても憂鬱病だね。...<後略>...」と在ります(△1のp365)。漱石が教師を辞めたいと言うのには多少病的な感じがしますが -私は東京専門学校での漱石の教師排斥運同がトラウマ(※13)として刷り込まれていると診て居ます- 漱石が「憂鬱病」と言っているのは今で言う鬱病(※25)です。


      ◆◆漱石は段々有名になるに従って世間と乖離して行く

 明治39年2月11日には「午前11~12時、本郷区駒込千駄木町57番地より広島市猿楽町鈴木三重吉(※26)へ」と在り、「...<前略>...
 僕も此位有名になれば申分はないと思ふ。...<中略>...是はら文章でもかいてながく居ると益僕の悪口をいふものが出て来ます。仕舞には漱石は死んださうだ。いや瘋癲院(※27)へ這入った。華族の御嬢さんから惚れられたなんて妙なのが出て来るでしょう...<後略>...」
というものです(△1のp366~367)。

 又、同年2月13日の手紙には「午前8~9時、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区丸山福山町4番地伊藤はる方森田米松へ」と在り、「尊書拝見
 君の心の状態が果たして君の云ふ所の如くなれば君は少々病気に相違ない。...<中略>...君はあまり感じが強過ぎるので其鋭敏な感じに耽り過ぎた結果今日に至つたのであらう。...<中略>...
 それで近来は僕が文章をかくものだから人が色々な事をいふ。...<中略>...ある人は僕が金田夫人に強迫されて迷惑して居ると話したそうだ。...<中略>...新聞なんて何をかかうと構はないときめて居る。なぜこんなになったか分らない。又これがいゝとも断言しない。然し昔より太平である。人間は太平の方が難有いに相違ない。人間として僕は決して君の師表たる様な資格はない。然し世の中にこんなえらい人になつて見たいと崇拝する人間は一人もない。だから君も君で一人前で通して行けば夫で一人前なのだから構はんではないか。...<中略>...
 先づ最前の大町桂月の様なのは馬鹿の第一位に位するものだ。竹風先生だつてあんなものだ。樗牛なんて崇拝者は沢山あるがあんなキザな文士はいない。然しみんな押を強くして平気でいる。何も君一人が閉口する必要はない。...<中略>...僕なんかは蔭では矢張り僕が桂月其他を目する如く批評されてるのである。然し些(さ)とも構はん。蔭で云ふ事なんかはどうでもよろしい。文章もいやになる迄かいて死ぬ積りである。...<後略>...」
と真情を吐露して居ます(△1のp368~370)。
 しかし「僕が金田夫人に強迫されて迷惑して居る」とは面白い。金田夫人は『猫』に出て来る小説中の人物ですが、漱石が有名に成るに従って世間は「小説中の人物(imaginary person)と現実社会の人物(real person)」を混同して行きますが、これと同じ錯誤は今の社会の方が甚だしいです。所謂バーチャル・リアリティー(virtual reality)(※29)ですね!

 この日は森田米松宛にもう一通だしていて2通目は「午後5時~6時」と成って居ます。「...<前略>...は世の中があきた抔(など)といふ事はない。二三の気短かな連中がそんな事を云いたがるのだ。猫の読者はそんなに急にあきやしない。僕のつむじは真直なものさ。をかくのは立派な考だと思つてる。決してブク/\湧いて出ては来ない。只無暗にかいてるとあんなものが出来るのです。...<後略>...」と宣って居ます(△1のp370~371)。
 尚、森田米松は漱石の教え子で[猫文士の心#2]で再び出て来ます。



    ◆『猫(10)』の評
       - 鈴木三重吉を思い遣り神経衰弱を吹き飛ばす独特の理論

 明治39年6月7日に神経衰弱について三重吉に「...<前略>...君は9月上京の事と思ふ神経衰弱は全快の事なるべく結構に候然し現下の如き愚なる間違つたる世の中には正しき人でありさへすれば必ず神経衰弱になる事と存候。是から人に逢う度に君は神経衰弱かときいて然りと答へたら普通の徳義心ある人間と定める事に致さうと思つてゐる。
 今の世に神経衰弱に罹らぬ奴は金持ちの魯鈍ものか、無教育の無良心の徒か左らずば、20世紀の軽薄に満足するひやうろく玉に候。
 もし死ぬならば神経衰弱で死んだら名誉だらうと思ふ。時があつたら神経衰弱論を草して天下の犬どもに犬である事を自覚させてやりたいと思ふ...<後略>...」
と大いに独特の理論を展開して居ます(△1のp410~411)。神経衰弱は全快の事なるべく結構に候」鈴木三重吉の神経衰弱が快方に向かって居る事を言ったものです。実はこの頃、漱石も神経衰弱で悩んで居たので漱石は三重吉の分迄神経衰弱を吹き飛ばす勢いです。
 鈴木三重吉は神経衰弱を煩い東大休学中に「千鳥」を発表、それを漱石に絶賛された経緯が在ります。漱石は三重吉にこんな手紙を少し前に送って居ます(同年5月26日)。「...<前略>...いくら作つてもそのつぎの自分はどんな風にあらはれるか決して分るものでないから君も千鳥のあとに萬鳥でも億鳥でも大にかき給はん事を希望する。...<後略>...」と冗談混じりに言ってます(△1のp405)。三重吉は後年、雑誌「赤い鳥」(※26-1)を創刊し童話や童謡の発展に貢献しました。

      ◆◆『猫』は諷刺の文学

 明治39年8月7日の手紙は「午前8~9時、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区駒込西片町10番地畔柳都太郎へ」と在り、「...<前略>...
 東風君苦沙弥君皆勝手な事を申候夫故に太平の逸民に候現実世界にあの主義では如何かと存候御反対御尤に候。漱石先生も反対に候。
 彼等の云う所は皆真理に候然し只一面の真理に候。決して作者の人生観の全部の無之故其辺は御了知被下度候。あれは総体が諷刺に候現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ猫中に収め候。もし小生の個性論を論文としてかけば反対の方面と双方の働らきかける所を議論致し度と存じ候。...<中略>...
    八月七日                金
  芥舟先生」
と在ります(△1のp433)。これは『猫』が諷刺(風刺)の文学であると漱石自らが語ったものです。漱石は自らを「漱石先生」と呼んで居ます、これも洒落ですね。
 又、明治39年8月15日の手紙は千駄木の自宅から「広島市大手町1丁目井原市次郎へ」出した手紙では、「...<前略>...迷亭と云ふ男は定(さだか)でありません。苦沙弥小生の事だと世間できめて仕舞ました。寒月といふのは理学士寺田寅彦といふ今大学の講師をしてゐる人ださうです。是も世間がさう認定してのです。尤も前歯は欠けて居ます。...<後略>...」と成って居て(△1のp437)、漱石先生はモデルの事を一寸だけ出して居ます。
 『猫(2)』で語られた「太平の逸民」、これこそが『猫』の本質です。それについては「考察」の章(→後出)をお読み下さい。






    ◆『猫(10)』~『猫(11)』の評
       - 女役者が「吾輩は猫である」を上演

 明治39年9月18日の手紙には「午後0~1時、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区駒込西片町10番地畔柳都太郎へ」と在り、「...<前略>...千達で三崎座の作者の田中霜柳といふ人が来て猫を芝居にするから許諾してくれといつた。女がやるんだから面白い然かも忠臣蔵のあとだから猶面白い。猫をやるなら猫的な人間がやらなければ出来る筈はない。女役者抔(など)がやれば妙なものにして仕舞ふからだ。...<中略>...
    九月十八日               金
  芥舟学兄」
というのが在ります(△1のp453)。
 そしたら加計正文宛の同年10月3日の手紙に「...<前略>...猫の芝居を三崎座といふ所でして居る。知つた男が見て来て、見て居られないものだと云ふた。女役者がキザな事をしたら見て居られなからう夫でも毎日満員だそうだ。...<後略>...」と在ります(△1のp461)。まぁ大衆演劇的には毎日満員だそうですので、まあまあ好いじゃ有りませんか!
 それよりも漱石の言う「猫的な人間」とはどんな人間でしょうか?!、私はそっちの方に興味がありますね。これは後で出て来ますが、胃弱が高じて猫に宝丹(※n-2)を飲まそうとする御仁ではないか、と思いますゾ!!





    ◆千駄木最後の手紙 - 明治39年12月26日

 明治39(1906)年12月26日に千駄木から最後の葉書です。「午後4~5時、本郷区駒込千駄木町57番地より麹町区富士見町4丁目8番地高浜清へ(はがき)」と在り、文面は27日引き越します
 所は本郷西片町10ロノ7
であります。中々まづい処です。喬木を下つて幽谷ニ入ル
というものです(△1のp533)。

 ■考察 - 太平(泰平)の逸民

 (1)猫の家



 俳句雑誌「ホトトギス」に連載された『猫』は、『猫(1)』(明治38(1905)年1月号)~『猫(11)』(明治39年8月号)で完了します。この期間は完璧に千駄木の家に居た時期(=明治36(1903)年2月26日~明治39(1906)年12月26日)に含まれます。それ故に千駄木の家は「猫の家」と呼ばれるのです。
























 (2)「太平の逸民」とは

 「太平の逸民」とは”吾輩”が到達した哲学の形を取って居ますが、勿論これは『猫』に対する漱石自身の創作上の基本概念の表明です。主要な登場人物が全て「太平の逸民」である事、言い換えると色々な話題に遠大な理論を持ち出して話を大袈裟にしますが結局は有耶無耶に無益無害に終結する事、読者もそれを知って楽しむ事、そこに『猫』の諷刺が成り立つ前提が在るのです。だから登場人物は徹底的に俗物根性を出し、”人間以上に賢い猫”に軽蔑される事が実は『猫』の諷刺の本質なのです。
 その事は漱石自身が書簡で述べて居ます。即ち『猫(10)』頃の評(書簡)(=「『猫』は諷刺の文学」の中であれは総体が諷刺に候現代にあんな諷刺は尤も適切と存じ猫中に収め候。」であると(△1のp433)。又こうも言ってます、即ち『猫(1)』の評(書簡)「兎に角自分のあらが一番かき易くて当り障りがなくてよいと思ふ。人は悪口を叩かぬ先に自分で悪口を叩いて置く方が洒落てるぢゃありませんか。」と(△1のp269)。だから苦沙弥夫婦「主人が偕老同穴を契った夫人の脳天のまん中にはまん丸な大きなはげがある。」(△4の146)とか、「主人はあばた面(づら)である。」(△4-1の91)とか、猫に語らせて居るのもそういう観点からです。
 それによって漫画的・滑稽主義的な可笑しさアイロニー(irony、皮肉)が強調されるのです。取り分け漱石自身がモデルの苦沙弥はこの小説のキーマン(keyman)です、彼は猫の主人であり幾分かは主人公的役割をと分け合っているからです。そして登場人物は苦沙弥の家に集い「相変わらず太平の逸民の会合」(△4のp125)を開くのです。
 つまり創作側も作品を消費する側も「太平の逸民」という「遊びのルール」の上に成り立って居るのです。しかし「『猫』は諷刺の文学」の中で「彼等の云う所は皆真理に候然し只一面の真理に候。決して作者の人生観の全部の無之故其辺は御了知被下度候。」とも言ってます(△1のp433)。つまり、飽く迄「太平の逸民」とは小説上の「遊びのルール」であり、実社会での主義主張とは異なると言ってる訳です。
 しかし、この「遊びのルール」は『猫(1)』で早くも当時の知識階級や大衆の心を大いに掴み、その事は早速『猫(2)』の冒頭で漱石に「吾輩は新年来多少有名に成ったので、猫ながらちょっと鼻が高く感ぜらるるのはありがたい。」と書かせて居るのです(△4のp23)。

 (3)漱石は諧謔や皮肉が好き - 天邪鬼

 漱石は留学中のロンドンから面白い手紙を妻に向けて書きます。日付は明治34(1901)年1月24日で宛先は「牛込区矢来町3番地中ノ丸中根方夏目鏡へ」と成って居ます。漱石は手紙では妻の名を鏡子とせずにとだけ書いて居ます。文面は「昨日久々にて一書相認め郵筒に附し候処今日御地12月21日付の書翰到着皆々無事のよし承知大慶此事に御座候
 小児出産後命名の件承知致候是は中根爺様の御つけ被下る事と合認(←原注)して何とも申し遣はさず打絶申候名前も考えると無づかしきものに候へどもどうせいゝ加減の記号故簡略にて分りやすく間違いのなき様な名をつければよろしく候今度の小児男児なれば直一とか何とか御つけ可被成候是は家の人が皆の字がついて居る故なり又代輔でもよろしく是は死んだ兄の幼名なり或は親が留守だから家の留守居をする即ち門を衛ると云ふので衛門抔(など)は少々洒落て居るがどうだね門を衛るではの様で厭なら御止し己と御前の中に出来た子だからどうせ無口な奴に違ひないから夏目黙(もく)抔は乙だらう夫とも子供の名前丈でも金持然としたければ夏目富(とむ)がよかろう但し親が金之助でも此通り貧乏だからあたらない事は受合だ女の子なら春生れだから御さんでいゝね待父(まつちち)の上ノ一字ヅヽを取つてマチ即ちは如何ですかな己の御袋の名は千枝といつたこいつは少々古風で御殿女中然として居るな姉がだから妹は墨(すみ)としたら理屈ポイかな二字名がよければ雪江浪江花野なんて云ふのがあるよ千鳥鷗(かもめ)とくると鳥に縁が近くなるし、八つ橋夕霧抔(など)となると女郎の名の様だからよしたがよからうまあ/\何でも異議は申し立んから中根のおやぢと御袋に相談してきめるさ...<中略>...
    二十四日夜               金
  鏡どの
...<後略>...」
というものです(△1のp166~167)。これは次女が生まれた時のものです。「どうせいゝ加減の記号故簡略にて分りやすく間違いのなき様な名」にすれば良いと言って置き乍ら随分沢山の名を列挙して居ます。漱石にはこの様に少ない素材に理屈を付けて大袈裟にするという「特技」が有るのです。しかし漱石が上の手紙に”ああだこうだ”と書いて送った名は採用されず、結局恒子に成りました!

 この「特技」は『猫』に於いて遺憾無く発揮されて居ます。迷亭を始め苦沙弥の家に集う奇人・変人たち -”吾輩”に「主人の家へ出入りする変人は……」と言わしめて居ます(△4のp239)- の、有らゆる事に理由を付け「珍妙な理論」 -言い換えると「太平の逸民」たちの「言葉の遊び」- を作り上げて仕舞う能力は、実は漱石の能力に他ならないのです。その好例が上の手紙という訳です。そして漱石の諧謔好み、皮肉好み -つまりは天邪鬼(※23-1~※23-1)- が良く出ています。
 そして”吾輩”が「人間はよほど猫より閑(ひま)なもので退屈のあまりかようないたずらを考案して楽しんでいるものと察せられる。ただおかしいのはこの閑人(ひまじん)がよるとさわると多忙だ多忙だと触れ回るのみならず、その顔色がいかにも多忙らしい、わるくすると多忙に食い殺されはしまいかと思われるほどこせついている。」と語る言葉(△4のp213~214)にも皮肉が充満して居ます。


 (4)『猫』が書かれた時代は、それ程「太平」な時代だったのか

 『猫』には所々に同時進行中である戦争の記事が在ります。それを拾って行くと、寒月苦沙弥旅順が落ちたので市中はたいへんな景気ですよ」と散歩を促して居ます(△4の28)。
 苦沙弥「日露戦争時代」と言って居ます(△4のp126)。
 ”吾輩”は「せんだってじゅうから日本はロシアと大戦争をしているそうだ。吾輩は日本の猫だから無論日本びいきである。できうべくんば混成猫旅団を組織してロシア兵を引っかいてやりたいと思うくらいである。」と語り(△4のp204)、鼠をロシア兵に見立てて作戦を立て、「東郷大将とバルチック艦隊も出て来ます(△4のp207)。
 しかし、一方で「帰ってみると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐を食っている。吾輩が縁側から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今ごろどこをあるいているんだろうと言った。」と在ります(△4-1のp37)。
 又、明治37(1904)年11月7日の寺田寅彦宛への絵葉書に「蒲団を干してランプを明るくして長烟管でポン/\やれば天下は太平と御承知あるべし」と在ります(△1のp263)。










 ”吾輩”は「大きく言えば公平を好み中庸を愛する天意」と言ってます(△4のp118)が、勿論これは漱石自身の考え方の基本でもある訳です。


 ■本郷区駒込西片町に9ヶ月間だけ居る

 明治39(1906)年12月27日から漱石は本郷区駒込西片町10番地ろノ7号に引っ越します。翌07(明治40)年4月に東京帝国大学を去ります。6月、長男純一出生、『虞美人草』を朝日新聞に連載開始。9月、牛込区早稲田南町7番地に引っ越します。
 結局、駒込西片町の家は明治39(1906)年12月27日~明治40(1907)9月28日の9ヶ月だけ住みました。

    ◆新住所から最初の手紙 - 明治39年12月26日

 明治39(1906)年12月26日に千駄木から最後の手紙を出した漱石は、その日の内に新住所の借家に移り新住所から葉書を出して居ます。「午後4~5時、本郷区駒込西片町10番地ろノ7号より小石川区竹早町狩野亨吉へ(はがき)」と在り、
 今般左に転居致候
 本郷西片町10ロノ7
                        夏目金之助」

というものです(△1のp533)。
 又、同年12月30日には「午後6~7時、本郷区駒込西片町10番地ろノ7号より宇治山田市浦田町湯浅兼孫へ」と在り、「...<前略>...うちに居て書生の代わりをしてくれるものも欲しけれど狭隘にて居る室なし。何とか外に工夫はつかざるや。
 小生借家の持主斉藤阿具氏東京転任にて千駄木を追ひ出され両三日前表面の処に転住押しつまりて色々多忙いづれ永日を期す 頓首...<後略>...」
というものです(△1のp534)。千駄木は借家で持主が戻って来る為に明け渡した事、「狭隘」で書生の部屋が無いの「中々まづい処」と言って居る訳です。斉藤阿具氏は漱石の友人です。



      ◆◆千駄木から駒込西片町への引っ越し

 ここで漱石の次男・夏目伸六の『猫の墓』(△9)より、明治39年12月27日の千駄木から駒込西片町への引っ越しの模様を見てみましょう。
 「気の早い町家の軒先には、既に、正月を迎える門松が立ち並び、寒い師走の風に、その竹の葉が、音をたてて、大きく揺れ動くうちを、あわただしい引越し作業が行われたのだが、大体の家財道具や、重くかさばる蔵書の類は、父の学生時代からの友人である菅虎雄さんが、わざわざ5円と云う安い駄賃で交渉して来た馬力を使って、これを運び、こまごまとした他のがらくたは、当日召集されたも弟子連が、各自これを分担したのである。
 先ず、小宮豊隆さんがランプをぶらさげ、皆川正禧さんが、昔母が世帯用にと、大枚3円也を投じて買った、超時代的のぼんぼん時計を背中にしょい、最後に、鈴木三重吉さんが、嫌がるを、無理矢理に紙屑籠の中へ押し込んで、これを風呂敷に包み、小脇に抱えて運んだのだが、結局、三重吉さんは、この猫から、途中で、大分小便をひっかけられたらしい。」
と在ります(△9のp17)。










    ◆一切の教職から退く

 明治40(1907)年4月23日に「大学教授を辞す弁」が在ります。「午後0~1時、本郷区駒込西片町10番地ろノ7号より府下巣鴨町上駒込388番地内海方野上豊一郎へ」「...<前略>...世の中はみな博士とか教授とかを左も難有きものゝ様に申し居候。小生にも教授になれと申候。教授になつて末席に列するの名誉なるは言ふ迄もなく候。教授は皆エラキ男のみと存候。然しエラカラざる僕の如きは殆ど彼等の末席にさへ列するの資格なかるべきかと存じ。思ひ切つて野に下り候。生涯は只運命を頼むより致し方なく前途は惨怛たるものに候。それにも拘はらず大学に噛み付いて黄色になつたノートを繰り返すよりも人間として殊勝ならんかと存じ候。小生向後何をやるやら何が出来るやら自分にも分らず。只やる丈やる而已に候。頻年大学生の意気妙に衰へて俗に赴く様見うけられ候。大学は月給とりをこしらへて夫で威張つてゐる所の様に感ぜられ候。...<後略>...」というものです(△1のp563)。今は教授も学生も「俗に赴く」のみです、いやはや。


    ◆世の中には常識の無い奴ばかり揃ってる

 明治40年8月6日に子分に向かって筆が滑らかに進みます。「午後4~5時、本郷区駒込西片町10番地ろノ7号より福岡県京都郡犀川村小宮豊隆へ」と在り、「豊隆先生 僕の小説は8月末には書き上げるだらうと思ふから9月早々出て来たまえ。...<中略>...
 僕が洋行して帰つたらみんなが博士になれ/\と云つた。新聞屋になつてからそんな馬鹿を云ふものがなくなつて近来晴々した。世の中の奴は常識のない奴ばかり揃つてゐる。さうして人をつらまえて奇人だの変人だの常識がないのと申す。御難の至である。ちと手前共の事を考へたらよかろうと思ふがね。...<中略>...
 小説をかいて仕舞つたら書物をよんで諸君子と遊ぼうと思ふ。それを楽しみに筆を執る。君謡(うたい)を稽古してゐるか。僕は近々再興する積だ。一所に謡はう。...<中略>...」
と(△1のp622~623)、言いたい事を遠慮無く書いて居ます、それは相手が子分の小宮豊隆(※1-7)という事も有ったでしょう。「僕の小説」とは『虞美人草』です。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 小宮豊隆の故郷の福岡県京都郡犀川村は中々面白い所です。京都は「みやこ」(※30)と読みます。注の補足に在る様に『日本書紀』景行紀に「天皇、筑紫に幸(いでま)して、豊前国の長峡県(ながをのあがた)に到りて、行宮(かりみや)を興(た)てて居(ま)します。故、其の処を号(なづ)けて京(みやこ)と曰(い)ふ。」と在ります(△11のp68)。平安前期の延喜式に豊前国京都(みやこ)郡と記され、今の福岡県京都郡や福岡県行橋市を指します。近くには御所ヶ谷神籠石や景行神社も在り、私は興味を掻き立てられます。
 [ちょっと一言]方向指示(次) 小宮豊隆に纏わる話をもう1つ紹介しましょう。芭蕉の『奥の細道』で、芭蕉は尾花沢の人々に勧められ現在山形市大字山寺の宝珠山立石寺(りっしゃくじ、通称:山寺)を訪ね、そこで「山形に立石寺(りゅうしゃくじ)と云(いふ)山寺あり。...<中略>...岩に巌(いはほ)を重ねて山とし、松柏年旧、土石老て苔滑(なめらか)に、岩上の院々扉を閉て、物の音きこえず。岩をめぐり、岩を這て、仏閣を拝し、佳景寂寞として心すみ行のみおぼゆ。」と記して、有名な

    (しず)かさや 岩にしみ入(いる) 蝉の声       芭蕉

の句を詠みました(△12のp45~46)。
 ところが、この句の蝉は一体何蝉かという「蝉論争」が精神科医で歌人の斎藤茂吉小宮豊隆の間で、大正末から昭和初めに掛けて繰り広げられました。茂吉は「岩にしみ入る」様な力強い鳴き方はアブラゼミだと主張し、小宮は「岩にしみ入る」は声が澄み切った状態を表し「閑かさや」と合わせて寧ろニイニイゼミが相応しいと言い、両者一歩も譲りませんでした。そこで山形県出身の茂吉は論争に結着を付けようと、芭蕉が立石寺に立ち寄った旧暦5月27日に当たる新暦7月13日に寺を訪れました。すると鳴いているのはニイニイゼミばかり、アブラゼミは未だ羽化して居ないのです。それで呆気無く小宮のニイニイゼミ説に落ち着きました。








    ◆本郷区駒込西片町から最後の手紙 - 明治40年9月28日

 明治40(1907)年9月28日に本郷区駒込西片町から最後の手紙(葉書)です。「午後0~1時、本郷区駒込西片町10番地ろノ7号より芝区伊皿子町35番地皆川正禧へ(はがき)」と在り、「明日曜牛込区早稲田南町9(←原注:本当は7)へ転居の筈ヒマガアルナラ見物旁(かたがた)手伝ニ来ラレン事ヲ希望」という内容です(△1のp647~648)。明日の9月29日(日)に駒込西片町から早稲田南町へ引っ越しをします。

 ■早稲田


 早稲田南町の家(=「漱石山房」)は明治40(1907)年9月29日~「終の栖(ついのすみか)」と成りました。



      漱石像  猫塚
       ↓   ↓












    ◆駒込西片町から早稲田南町へ引っ越し
       - 猫の運び屋は前回も今回も三重吉


 明治40(1907)年9月29日(日)に駒込西片町から早稲田南町へ引っ越しをします。その模様を再び夏目伸六の『猫の墓』から見てみましょう。
 「この時も、三重吉さんは、猫の運搬を引受けて、又々小便をひっかけられたのである。而も、千駄木から、目と鼻の先の西片町へ移った、最初の引越しとは訳が違い、本郷から早稲田までの長い道のりを、きびしい秋の日ざしを、真正面(まとも)に浴びながら、てくてくと、汗をぐっしょりかいて、運んだ末の事だから、三重吉さんの立腹も極点に達したらしく、その後、とうぶんの間と云うものは、この名無しを、眼の仇の様に敵視したと云う事である。
 その三重吉さんが、猫の歿後五六年もしてから、突然父に向って、是非とも、猫の追悼会をしましょうと騒ぎ出したのだが、多分、三重吉さんの心境としては、久しぶりに、恨み重なる猫を餌に、たらふくただの酒でも飲みたくなった為に違いない。」
と在ります(△9のp17~18)。まぁ、色々有ったでしょうが、早稲田南町への引っ越しは完了しました。

      ◆◆早稲田南町から最初の手紙(葉書)

 明治40年10月2日に「午前11~12時、牛込区早稲田南町7番地より小石川区原町120番地行徳俊則へ(はがき)」と在り、「家屋の儀色々御世話にあづかり難有候今月より表記の所へ移り候間右御通知申上候 以上
    十月二日」

という文で引っ越しの手伝いに感謝して居ます(△1のp648)。



 ■”吾輩”、早稲田南町の「漱石山房」で死去
    - 1908(明治41)年9月13日




 漱石の猫、即ち”吾輩”は明治41(1908)年9月13日の夜裏の物置の古い竈(へっつい)の上(※31、※31-1)で死にました。
 ”吾輩”の享年ですが、千駄木の家に勝手に居付いて仕舞ったのが明治36(1903)年2月26日以降で、夏目家の住人に成ったのがひもじいのと寒い冬ですから明治36年暮れ~明治37年初冬で、この時「宿なしの子猫という事で未だ0歳 -つまり生まれて3ヶ月位で捨てられた- です。そして明治37(1904)年12月半ばに『猫(1)』を「ホトトギス」に発表するのです。漱石は明治38(1905)年12月半ば「当年とって1歳と言ってます。すると享年は5歳と考えられます。


 そして明治43(1910)年6月には胃潰瘍内幸町の長与胃腸病院に入院、7月末に退院します。8月6日に遼陽の為に修善寺温泉菊屋本店に滞在しますが8月24日夜に大吐血、一時危篤状態に陥りますが持ち直し、10月11日に帰京し再び長与病院に入院します。書簡集も明治43年は8月21日で終わって居ます。



 明治41(1908)年9月13日の夜
   裏の物置の古い竈(へっつい)の上で、”吾輩”死す
   享年5歳

                (-_-)
                _A_
 

    ◆『永日小品』の「猫の墓」 - 漱石の猫、即ち”吾輩”の死

 漱石の小説『永日小品』の幾つかの小品中に「猫の墓」という章が在りますが、この中に”吾輩”の最後の姿が書かれて居ます。「猫の墓」から少し引用しましょう。

 「早稲田に移ってから、猫が段々痩せて来た。一向に子供と遊ぶ気色がない。日が当ると縁側に寝ている。前足を揃えた上に、四角な顎(あご)を載せて、じっと庭の植込を眺めたまま、いつまでも動く様子が見えない。...<中略>...しかもその食は大抵近所にいる大きな三毛猫が来て食ってしまった。...<中略>...
 それでも時々は用があると見えて、外へ出て行く事がある。すると何時でも近所の三毛猫から追懸けられる。そうして、怖いものだから、縁側を飛び上がって、立て切ってある障子を突き破って、囲炉裏の傍まで逃げ込んでくる。...<中略>...
 これが度重なるにつれて、猫の長い尻尾の毛が段々抜けて来た。始めは所々がぼくぼく穴のように落ち込んで見えたが、後には赤肌に脱け広がって、見るも気の毒なほどにだらりと垂れていた。...<中略>...すると、しばらくしてから、今度は三度のものを時々吐くようになった。...<中略>...来客の用意に拵(こしら)えた八反の座布団は、大方彼れのために汚されてしまった。
 「どうも仕様がないな。腸胃が悪いんだろう。宝丹(※n-2)でも水に溶いて飲ましてくれ。」
 妻は何ともいわなかった。二、三日してから、宝丹を飲ましたかと聞いたら、飲ましても駄目です、口を開きません...<中略>...
 日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした。けれども放って置いた。...<中略>...
 ある晩、彼は子供の寝る夜具の裾に腹這になっていたが、やがて、自分の捕った魚を取り上げられる時に出すような唸声を挙げた。この時変だなと気が附いたのは自分だけである。...<中略>...
 明くる日は囲炉裏の縁(ふち)に乗ったなり、一日唸っていた。茶を注いだり、薬缶を取ったりするのが気味が悪いようであった。が、夜になると猫の事は自分も妻もまるで忘れてしまった。猫が死んだのは実にその晩である。朝になって、下女が裏の物置に薪を出しに行った時は、もう硬くなって、古い竈(へっつい)の上に倒れていた。
 妻はわざわざその死態(しにざま)を見に行った。それから今までの冷淡に引き更えて急に騒ぎ出した。出入の車夫を頼んで、四角な墓標を買って来て、何か書いて遣って下さいという。自分は表に猫の墓と書いて、裏にこの下に稲妻起る宵あらんと認めた。...<中略>...
 猫の命日には、妻がきっと一切れの鮭と、鰹節を掛けた一杯の飯を墓の前に供える。今でも忘れた事がない。ただこの頃では、庭まで持って出ずに、大抵は茶の間の箪笥の上へ載せて置くようである。」
と(△13のp99~103)。

 『永日小品』は明治42(1909)年の春、即ち「猫の死」から約半年後に書かれました。だから「猫の命日」と呼んでいるのは月命日の事です。「日が落ちて微かな稲妻があらわれるような気がした」

    この下に 稲妻起る 宵あらん      漱石

の「猫と別れを告げる句」に成った訳です。
 しかし「どうも仕様がないな。腸胃が悪いんだろう。宝丹でも水に溶いて飲ましてくれ。」の議論は酷いですね、猫がハッカの匂いの芳香解毒剤(※n-2)なんか飲む訳無いでしょ。漱石は小説中の苦沙弥と区別が付いて無い様です。私は芝居の所で出て来た「猫的な人間」とは苦沙弥と区別が付かなく成った漱石自身を指す言葉の様に思われます。当ページの副題は[猫文士の心#1:夏目漱石]と言いますが、これぞ正に猫文士(Cat writer)の鑑と言えます!!



    ◆猫の死亡通知 - 知る人ぞ知る有名な葉書

 明治41(1908)年9月14日、即ち「猫の死」の翌日に出した「猫の死亡通知」(葉書)が在ります。この文章は知る人ぞ知る(←知らない人は全然知らない)、つまり一部の好事家の間では非常に有名なものです。
 「午後0~1時、牛込区早稲田南町7番地より松根豊次郎、鈴木三重吉、野上豊一郎、小宮豊隆へ」(←宛先は省略)と成っていて
 「辱知猫儀久々病気の処療養不相叶ず昨夜いつの間にか裏の物置のヘッツイの上にて逝去致候埋葬の儀は車屋をたのみ箱詰にて裏の庭先にて執行仕候但し主人「三四郎」執筆中につき御会葬には及び不中候以上」(←野上宛の葉書には「箱詰にて」が「蜜柑箱へいれて」に成って居る)
というものです(△1のp716~717)。しかも葉書の縁は黒絵の具で黒く塗って有る念入りなものです。葬られた所は今の「漱石山房」の裏側です。

      ◆◆猫のその後

 同年10月20日の手紙では「午後6~7時、牛込区早稲田南町7番地より広島県山県郡加計町加計正文へ」と在り、「...<前略>...先達て家の猫が死んで裏に御墓が出来た。二三日前に35日が来て仏前へ鮭一切れ、鰹節飯一椀をそなえた。...<後略>...」と在ります(△1のp722)。
 又、同年10月27日の同じく加計正文への手紙では「...<前略>...二三日前箪笥の上にサンマの焼いたのがのつてゐたから何うしたのかと聞いたら猫の供物だと申候。...<後略>...」と在ります(△1のp723)。
 何故か猫が死んでから皆が急に猫を大事にし出したかの様です。

      ◆◆”吾輩”~3代目の事

 晩年の小説『硝子戸の中』にも”吾輩”について書いて居る部分が有ります、尤も”吾輩”が出て来るのは話の導入部だけで、話の中心は哀れな2代目の事です。
 「ある人が私の家の猫を見て、「是は何代目の猫ですか」と訊いた時、私は何気なく「2代目です」と答えたが、あとで考えると、2代目はもう通り越して、其実3代目になっていた。
 初代は宿なしであったに拘らず、ある意味からして、大分有名になったが、それに引きかえて、2代目の生涯は、主人にさえ忘れられる位、短命だった。私は誰がそれを何処から貰って来たか能く知らない。然し手の掌(ひら)に載せれば載せられるような小さい恰好をして、彼が其所いら中這い廻っていた当時を、私はまだ記憶している。此可憐な動物は、ある朝家のものが床を揚げる時、誤って上から踏み殺してしまった。ぐうという声がしたので、蒲団の下に潜り込んでいる彼をすぐ引き出して、相当な手当をしたが、もう間に合わなかった。彼はそれから一日二日して遂に死んでしまった。其後へ来たのが即ち真黒な今の猫である。」
というものです(△2のp128)。漱石の3代の猫は何れも”名無し”です。














    ◆内田百閒が「老猫」の批評を仰ぎ、その返答

 明治42(1909)年8月24日の内田百閒(※34)宛の手紙が在ります。「牛込区早稲田南町7番地より岡山市古京町内田栄造へ」と在り、文面は「御手紙拝見老猫批評の件頓と失念致居候甚だ申訳なく存候小説脱稿後種々の用事重なり居候処へ急性胃カタールに罹り臥蓐の為め何やら蚊やら取紛れ申候あしからず御海恕願候
 蓐中早速「老猫」を拝見致候筆ツキ真面目にて何の衒う処なくよろしく候。又自然の風物の叙し方も面白く思はれ候。たゞ一篇として通読するに左程の興味を促がす事無之は事実に候。今少し御工夫可然か。尤も着筆の態度、観察其他はあれにて結構に御座候へば其点は御心配御無用に候。虚子の評によれば面白からぬ様に候へども小生の見る所は虚子よりも重く候。猶御奮励御述作の程希望致候...<後略>...」
というものです(△1のp774)。ここで「カタール」と在るのはカタル(catarrh)(※36)の事です。
 それについて、少し遡って明治39(1906)年5月7日の野村伝四宛の葉書には「...<前略>...胃カタールで薬を呑むと灰色の糞が出る。不思議なものだ。...<後略>...」と書いて在ります(△1のp399)。
 「老猫」とは百閒が岡山の六高時代に書いた散文の作で、百閒はこれを漱石に送り批評を仰ぎ、その返答です。「虚子の評によれば面白からぬ様に候へども小生の見る所は虚子よりも重く候。」と漱石に言って貰ったら嬉しかった筈です。因みに、百閒は造り酒屋の一人息子でしたが倒産し、この頃生活が困窮して居ました。彼は後に上京し漱石に会い弟子入りしました。百閒は後年『贋作吾輩は猫である』(△15)という本を出版して居ます。彼は号を百鬼園(ひゃっきえん)とし筆名を百閒(ひゃっけん)として居ます。尚、夏目伸六の前掲書の序を書いて居ます。


    ◆漱石は小宮豊隆に胃腸病院から用事を頼む

 明治43(1910)年7月12日は長与胃腸病院から子分の小宮豊隆へ用事を頼んで居ます。「午後2時~3時、麹町区内幸町胃腸病院より本郷区森川町1番地小吉館小宮豊隆へ」と在り、
「一寸御願あり病気中に謡本の揃つたのを綴ぢて置きたいと思ふ。
 宅へ行つて調べて5冊づゝかり綴じになつてゐる奴を相馬屋か何処かへ持つて行つて綴ぢさしてくれ給え。
 あとからも綴ぢるのに表紙がちがつては困るから、其辺の都合のつく位沢山ある表紙を撰んでくれ玉へ。内外にて表紙を区別してもよし。
 表紙に白紙を貼付する事も頼んでくれ玉へ(あとから名前を書き込む)...<後略>...」
と成って居ます(△1のp839)。「謡本」とは能楽の謡(うたい)の本です。漱石は過去の手紙で小宮豊隆に「君謡(うたい)を稽古してゐるか。」と言ってるので、小宮豊隆だったら或る程度「謡」の事を知っているので頼んだのでしょう。小宮豊隆はこの様な細々した用件を良くこなしました。

      ◆◆修善寺から「千駄木の家」の元家主に葉書

 明治43年8月21日(大吐血の3日前)の葉書。「午前11時~午後2時、静岡県修善寺菊屋本店より本郷区駒込千駄木町57番地斉藤阿具へ(はがき)」と在り、「拝誦御訪ねを蒙り奉鳴謝候目下落付き居候間機を見て帰京静養之心組に御座候
 右不取敢御礼旁(かたがた)申上候 敬具
    八月廿一日」
と(△1のp845)、お見舞いに来てくれた事に御礼を認(したた)めて居ます。斉藤阿具は「千駄木の家」の元家主で友人、「本郷区駒込千駄木町57番地」は千駄木時代の漱石の住所です。今そこに斉藤阿具が住んで居る訳です。
 修善寺からの書簡の最後は9月11日の娘3人への返信です(△1-1のp3~4)。

 阿具への葉書で「目下落付き居候」と書いて在りますが、3日後の8月24日夜大吐血をし危篤状態に陥り、容態が落ち着いた10月11日に帰京しますが長与胃腸病院に直行、しかし長与病院では面会謝絶です。漸く長与病院から文通を再開するのは同年10月20日です(△1-1のp4)。明治43年の夏以降は漱石にとって危機の年でした。









 ■犬山の明治村

































    {この章は2013年5月8日に追加し、同年8月5日に最終更新しました。}

 ■結び - 

 迷亭は中々含蓄の有る言葉 -それは皮肉を含んで居ますが- を宣って居ます。
 「午睡(ひるね)もシナ人の詩に出てくると風流だが、苦沙弥君のように日課としてやるのは少々俗気がありますね。なんの事あない毎日少しずつ死んでみるようなものですぜ、奥さんお手数だがちょっと起こしていらっしゃい」と言って居ます(△4のp218)。
 又、「どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合わせをするようなものだ。」も全く同感ですね(△4-1のp247)。『猫(11)』は[猫文士の心#2]で詳しく扱います。
 以上の様に迷亭「太平の逸民」そのものですが、その言葉には皮肉を含んだ名言が幾つか在ります。








 初めに漱石の胃弱体質に触れましたが、最後も胃弱で締めましょう。明治38(1905)年1月6日の千駄木の家から送った手紙に

    元日や 歌を咏むべき 顔ならず
      胃弱の腹に 三椀の餅        漱石


という歌が在りました(△1のp274)。





 続編では日本では余り知られて居ない[猫文士の心#2:元祖E.T.A.ホフマン<牡猫ムルと”吾輩”との関係>](△16、△16-1)について検討を加えて行きます、乞う御期待。本編及び続編を[猫文士の心]シリーズとします。{続編へのリンクは10年7月7日に追加}
    {このページ全体は2013年10月21日に最終更新しました。}

 尚、[猫文士の心]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- つづく --ψ

【脚注】
※1:夏目漱石(なつめそうせき)は、明治・大正時代の小説家、英文学者(1867~1916)。名は金之助。江戸牛込生れ。小学校時代から漢文学に親しみ、一高在学中に正岡子規と親交を持ち俳句を作った。東大卒。五高教授。1900年(明治33)イギリスに4年間留学、帰国後東大講師、後朝日新聞社に入社。05年「吾輩は猫である」、次いで「倫敦塔」を出して文壇の地歩を確保。他に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」など。自然主義文学に対し余裕派を自認。胃弱であった。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、「明暗」執筆中に胃潰瘍で永眠しました。
※1-1:漱石枕流(そうせきちんりゅう)とは、「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す」に同じ。
※1-2:「石に漱(くちすす)ぎ流れに枕す」とは、[晋書孫楚伝](晋の孫楚が、「石に枕し流れに漱ぐ」(枕石漱流)と言うべき所を、「石に漱ぎ流れに枕す」(漱石枕流)と言い誤り、「石に漱ぐ」とは「歯を磨く事」、「流れに枕す」とは「耳を洗う事」と強弁した故事から)こじつけて言い逃れること。負け惜しみの強いこと漱石枕流(そうせきちんりゅう)
※1-3:「石に枕し流れに漱(くちすす)ぐ」とは、[三国志蜀志、彭羕伝]自然の中に隠遁して自由な生活をする。枕石漱流(ちんせきそうりゅう)。
※1-4:則天去私(そくてんきょし)は、夏目漱石の最晩年に未完の作品「明暗」で表現しようとしたとされる東洋的悟達の心境。「天に則(のっと)り私を去る」の意。小さな私を去って自然に委ねて生きること。宗教的な悟りを意味すると考えられて居る。又、創作上、作家の小主観を挟まない無私の芸術を意味したものだとする見方も在る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-5:蒙求(もうぎゅう)は、(周易蒙卦「童蒙我に求む」に拠る)児童・初学者用教科書。唐の李瀚(りかん)撰。3巻。746年頃成立。中国古代から南北朝迄の有名な人物の、類似する言行二つずつを配して4字句の韻語で記し、経・史・子類中の故実を知るのに便にした書。計596句。「孫康映雪、車胤聚蛍」の類。唐~元代、広く使われ、日本でも古くより流布
※1-6:蒙求抄(もうぎゅうしょう)は、「蒙求」の注釈書。清原宣賢1529年(享禄2)頃行なった講義を、林宗二が34年(天文3)に編。口語資料として重要。
※1-7:小宮豊隆(こみやとよたか)は、独文学者・評論家(1884~1966)。福岡県生れ。東北大教授・東京音楽学校校長を経て、学習院大教授。夏目漱石門下。漱石全集の編集に尽くす。著「夏目漱石」「中村吉右衛門」など。
 補足すると、小宮氏は酒好きで書簡集では漱石から良く叱られて居ます。しかし腰巾着の如く漱石にくっ付いていたのが幸いし漱石から「子分」と呼ばれました。しかし漱石全集の几帳面な編集には彼の人間性が良く出て居り、彼の最大の仕事です。



※2:ルーペ(Lupe[独])は、拡大鏡。虫眼鏡(むしめがね)。

※3:名主(なぬし)とは、[1].名主(みょうしゅ)名田(みょうでん)を保有し、年貢・夫役などの納入責任を負う標準農民。名主の下で名田の一部を耕作する小百姓などが在る場合、名主は下級荘官の様な性質を持つ。
 [2].(村名主)江戸時代、郡代・代官の支配を受け、又は大庄屋の下で一村内の民政を司った役人。身分は百姓。主として関東地方での称で、関西では庄屋と言い、北陸・東北では肝煎(きもいり)と言った。里正。
 [3].(町名主)町役人の一。江戸時代、都市で町奉行などの支配を受け、町年寄の下で町方の民政を行なった者。身分は町人。京都では雑色(ぞうしき)と言った。




※5:里子(さとご)は、他人に預けて養って貰う子。「―に出す」←→里親。


※7:逮夜(たいや)とは、葬式や忌日の前夜。大夜。宿夜。



※10:正岡子規(まさおかしき)は、明治の俳人・歌人(1867~1902)。名は常規(つねのり)。別号は獺祭(だっさい)書屋主人/竹の里人。松山市の人。東京大学国文科中退。1889年肺結核に倒れ、喀血したことから子規(=ホトトギスの異名)と号す。日本新聞社に入り、俳諧を研究。1895年日清戦争の従軍記者と成ったが発病、後に脊椎カリエスと成り、没年迄歩行の自由を失う。雑誌「ホトトギス」に拠って写生俳句・写生文を首唱、又「歌よみに与ふる書」を発表して短歌革新を試み、新体詩・小説にも筆を染めた。歌・俳句共に平明簡素な作風で、「万葉集」と与謝蕪村をその模範とした。その俳句を日本派、和歌を根岸派と言う。句集「寒山落木」歌集「竹の里歌」俳論書「獺祭書屋俳話」などの他、随筆「墨汁一滴」「病牀六尺」「仰臥漫録」などが在る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※10-1:子規(しき)とは、[1].鳥のホトトギスは「血を吐く迄鳴く」と言われた事から、ホトトギスの異称
 [2].正岡子規のこと。
※10-2:雑誌「ホトトギス」は、俳句雑誌1897年(明治30)正岡子規主宰・柳原極堂編集の下に松山市で発行。翌年、東京に移し高浜虚子が編集。俳句の興隆を図り、写生文・小説などの発達にも貢献。明治末期、夏目漱石の「吾輩は猫である」「坊つちやん」や虚子らの小説が掲載された。現在も続刊
※10-3:カリエス(Karies[独], caries)とは、骨の慢性炎症。殊に結核に由って骨質が次第に破壊され、乾酪壊死物が膿状に流出する骨の病気。骨瘍(こつよう)。骨疽(こっそ)
※10-4:せきついカリエス(脊椎―、spinal caries)は、脊椎の結核。血行性に椎体が侵され、その破壊、及び背柱の変形を起す。形成されたが局所に溜り、又下方に流れて流注膿瘍を作る。打痛・圧痛・神経痛・運動麻痺などを伴う。
※10-5:高浜虚子(たかはまきょし)は、俳人・小説家(1874~1959)。本名、清。愛媛県松山生れ。二高中退。正岡子規に師事。「ホトトギス」を主宰して花鳥諷詠の客観写生を説いた。「五百句」「虚子俳話」など。「俳諧師」「風流懺法」など写生文の小説でも知名。文化勲章。


※11:杜鵑/霍公鳥/時鳥/子規/杜宇/不如帰/沓手鳥/蜀魂(ほととぎす、little cuckoo)は、
 [1].(鳴き声に拠る名か。スは鳥を表す接尾語)カッコウ目カッコウ科の鳥。カッコウに似るが小形。山地の樹林に棲み、自らは巣を作らず、ウグイスなどの巣に托卵(たくらん)し、抱卵/育雛を委ねる。雄の鳴き声は極めて顕著で「てっぺんかけたか」「ほっちょんかけたか」などと聞え、昼夜ともに鳴く。背面は灰褐色、腹面は白色に黒い横縞が有り、一見小形のタカに似た鳥で、目の周りにアイリング(eye ring)が有る。全長約28cm。主にガやチョウの幼虫を捕食。中国/ヒマラヤ山脈/東南アジアに広く分布、日本には5月ごろ本州以南に渡来。夏鳥。古来、日本の文学、特に和歌に現れ、あやなしどり/くつてどり/うづきどり/しでのたおさ/たまむかえどり/夕影鳥/夜直鳥(よただどり)などの名が在る。「血を吐く迄鳴く」という迷信が有る。香川県の県鳥。季語は。万葉集18「暁に名告り鳴くなる―」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].枕詞。(飛ぶ意から) 「とばた」(地名)に掛かる。
※11-1:托卵(たくらん)とは、或る鳥が他種の鳥の巣に産卵し、その鳥に抱卵・育雛(いくすう)させること。仮親の卵より早く孵化し、仮親の卵を巣外に排除する。日本ではカッコウ科のカッコウ/ホトトギス/ジュウイチ/ツツドリの4種がこの習性を持ち、ウグイス/モズ/ホオジロ/オオルリなどの巣に産卵する。



※12:陋巷(ろうこう)とは、狭く汚い巷(ちまた)。むさくるしい町。論語雍也「賢なる哉(かな)回や、一箪の食一瓢の飲―に在り」。

※13:トラウマ(trauma)とは、[1].[医]外傷。傷害。
 [2].[心]何時迄も残る激しい恐怖などの心理的なショックや体験。心的外傷
<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>



※14:道後温泉(どうごおんせん)は、愛媛県松山市街の北東端に在る温泉。日本最古の温泉の一で、「伊予国風土記逸文」に聖徳太子他が訪れたと記す。単純泉。国内有数の歓楽温泉として有名。1894年(明治27)建築の道後温泉本館を中心にホテル・旅館が立ち並ぶ。石手川上流の渓谷には奥道後温泉が在る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>

※15:リウマチ/リューマチ/リュウマチ/リューマチス/リョーマチ/ロイマチス(僂麻質斯、rheumatisch[蘭], rheumatism)は、運動器に疼痛を生ずる疾患の総称。筋肉や関節に痛み炎症が多発し、それが身体の各部に流れて行く様(ギリシャ語rheuma)に感じられる所から名付けられた。現在ではリウマチ熱慢性関節リウマチ及びリウマチ性多発性筋肉痛に限ってその名称を用い、殊に前2者を指すことが多い。


※Ψ:スマフォ/スマホ(smartphone)とは、多機能携帯電話。スマートフォンの略。



※z:紅海(こうかい、Red Sea)は、(一種の藻類の為に海水の色が紅を呈する事が有るから言う)アラビア半島とアフリカとの間に在る海。面積43.8万㎢、全長2300km、平均幅180km、平均水深491m、最大水深2300m。水温・塩分濃度が高く、漁業は不振地中海との間の地峡にはスエズ運河1869年開通)が通ずる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>




※x:産業革命(さんぎょうかくめい、industrial revolution)は、産業の技術的基礎が一変し、小さな手工業的な作業場に代って、蒸気機関の利用を中心とする機械設備に依る大工場が成立し、これと共に社会構造が根本的に変化すること。産業革命を経て初めて近代資本主義経済が確立1760年代のイギリスに始まり、1830年代以降、欧州諸国に波及。日本では1880年代紡績業の機械制化に始まる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※x-1:蒸気機関(じょうききかん、steam engine)は、蒸気の膨張力を機械的な仕事に変える原動機の一種。ボイラーなどで高圧の蒸気をシリンダー内に導き、その圧力でピストンに往復運動を起こさせ、クランク機構に依り回転運動を得る。構造や取り扱いが簡単で、始動時の回転力は大きいが、重量が大きい割に大出力が得難い。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※x-2:工業暗化(こうぎょうあんか、industrial melanism)とは、19世紀後半の産業革命の進展に因る工業都市の発展に伴い、付近に生息するガ類に暗色の変異が増加した現象。イギリスのオオシモフリエダシャクで典型的に観察された。ガが止まる木の肌などが煤煙で汚れ黒化した結果、明色型が目立ち鳥などに捕食される率が高く成り、次第に暗色型が生き残る様に成った為とされる。

※y:フロックコート(frock coat)は、男子の昼用正式礼服。上衣はダブルで丈が膝まで及ぶ。黒ラシャを用い、チョッキも同布地、ズボンは縞物を穿く。→燕尾服、モーニングコート。





※16:寺田寅彦(てらだとらひこ)は、物理学者・文学者(1878~1935)。東京生れ。高知県人。東大教授。地球物理学を専攻。夏目漱石の門下、筆名は吉村冬彦。随筆・俳句に巧みで、藪柑子と号。著「冬彦集」「藪柑子集」など。
※16-1:「天災は忘れた頃にやって来る」は、(寺田寅彦の言葉とされる)天災は、起きてから年月が経ってその惨禍を忘れた頃に再び起るものである。高知市の邸址に在る碑文は「天災は忘れられたる頃来る」。

※17:掉尾(ちょうび/とうび)とは、(トウビはチョウビの慣用読み)
 [1].尾を振るうこと。
 [2].物事や文章の終りに至って勢いの奮い立つこと。転じて、最後。とうび(掉尾)。「―の勇を奮う」「―を飾る」。


※m:「一樹の陰一河の流れも他生(たしょう)の縁」とは、偶々、共に同じ樹の陰に宿り、同じ河の流れの水を汲むのも、前世からの因縁に由るものだ。


※n:ジアスターゼ/ジャスターゼ(Diastase[独])は、麦芽から製したアミラーゼ。1833年フランスのペイアン(A.Payen、1795~1871)とペルソー(J.F.Persoz、1805~1868)が発見・命名。消化剤として使用。→タカジアスターゼ。
※n-1:タカジアスターゼ/タカジャスターゼ(Taka Diastase)は、1909年(明治42)高峰譲吉がコウジカビから創製した酵素剤の商品名。→ジアスターゼ。
※n-2:宝丹(ほうたん)とは、明治初年に東京池之端の守田治兵衛の店から売り出した薄荷(はっか)の香の強い赤黒色の芳香解毒剤



※q:美学/審美学(びがく/しんびがく、esthetique[仏], aesthetics)は、(中江兆民の訳語で、旧訳語は「審美学」)自然・芸術に於ける美の本質構造を解明する学問。美的現象一般を対象として、それの内的・外的条件と基礎とを解明規定する。哲学の一部門。バウムガルテンが初めて独立の学問の名称として用いた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※q-1:バウムガルテン(Alexander Gottlieb Baumgarten)は、ドイツの哲学者(1714~1762)。ウォルフ学派に属し、Aesthetica[ラ] -日本語では美学、或いは感性学(エステティク)と訳される- という名称を創始。ドイツ美学の基礎を築いた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>





※j:アンドレア・デル・サルト(Andrea del Sarto)は、イタリアのフィレンツェ派の画家(1486~1531)。本名Andrea Domenico d'Agnolo。光と色彩を融合、優雅で気品の有る画風を確立。作「アルピエの聖母」「慈愛」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>


※g:荒らか/粗らか(あららか)は、[1].荒々しいこと。激しいこと。源氏物語葵「風―に吹き」。「足音も―に立ち去る」。
 [2].大雑把。粗雑。細やかで無いこと。枕草子55「牛飼は、大きにて、髪―なるが」。

※f:吶喊(とっかん)とは、(先ず息を止め、次いで爆発的に大声を上げる意)大勢が一時に喚き叫ぶこと。鬨(とき)の声を上げること。



※18:大塚保治(おおつかやすはる)は、明治~昭和前期の美学者(1868~1931)。群馬県出身。旧姓小屋。東大帝大卒。1896年からヨーロッパに留学、1900年に帰国し東京帝大美学講座の初代教授。芸術論・欧州文学史・絵画論を中心とする講義は名講義と言われた。妻は歌人・小説家の大塚楠緒子。<出典:「日本史人物辞典」(山川出版社)>
※18-1:大塚楠緒子(おおつかくすおこ/―なおこ)は、歌人・小説家(1875~1910)。本名は男性名の久寿雄。東京生れ。歌を佐佐木信綱に学ぶ。東京女子師範(今のお茶の水女子大)付属女学校卒、その頃より美貌の才媛と言われた。美学者の保治の妻。一男三女の母。長詩「お百度詣で」、小説「空薫(そらだき)」など。保治の友人の夏目漱石から文学的・人生的な影響を受けた。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>




※19:這般(しゃはん)とは、(「這」は此の意)これら。かよう。又、この度。今般。「―の情勢により」。


※20:川端康成(かわばたやすなり)は、昭和の小説家(1899~1972)。大阪市生れ。東大卒。横光利一らと新感覚派運動を展開。やがて独自の美的世界を築き、女性を描くことに優れる。作「伊豆の踊子」「雪国」「千羽鶴」「山の音」など。自殺。文化勲章・ノーベル賞


※21:七十五日(しちじゅうごにち)は、この場合、(「人の噂も七十五日」という諺から)人の噂が消えないという日数。


※22:吉野紙(よしのがみ)は、和紙の一種。元大和国吉野から産したのでこの名が在る。楮(こうぞ)皮の繊維を精選して、極めて薄く漉(すい)たもの。主として漆の濾過用で「漆漉(うるしこし)」とも言い、貴重品の包装にも用いた。和良紙(やわらがみ)。やわやわ。
※22-1:蟷螂の斧(とうろうのおの)とは、自分の微弱な力量を省みずに強敵に反抗すること。儚い抵抗の譬え。平家物語7「―を怒らかして隆車に向ふが如し」。


※23:天探女(あまのさぐめ)とは、日本神話で、天照大神の詔を受けて天稚彦(あめわかひこ)を問責に降った雉(きじ)天稚彦に射殺させた女の名。後世の天邪鬼(あまのじゃく)
※23-1:天邪鬼/天邪久(あまのじゃく、perversity, cussedness, bloodymindedness)は、[1].昔話に出てくる悪者。人に逆らい、人の邪魔をする天探女(あまのさぐめ)の系統を引くと言われるが、変形が多い天ん邪鬼女(あまんじゃぐめ)。〈壒嚢鈔10〉。→瓜子姫(うりこひめ)。
 [2].わざと人の言に逆らって、片意地を通す者
 [3].仁王や四天王の像が踏まえている小鬼
※23-2:天ん邪鬼(あまんじゃく)/天ん邪鬼女(あまんじゃぐめ)は、アマノジャクの転訛。



※24:インフルエンザ/流行性感冒(influenza)とは、インフルエンザ・ウイルスに因って起る急性伝染病。多くは高熱を発し、四肢疼痛・頭痛・全身倦怠・食欲不振などを呈し、急性肺炎を起し易い。流感


※k:口取(くちとり)とは、この場合、口取肴の略。
※k-1:口取肴(くちとりざかな)は、饗応の膳で、吸物と共に先ず出す取り肴。古くは、熨斗鮑(のしあわび)/昆布/勝栗の類。後には、旨煮にした魚肉を金団(きんとん)/蒲鉾/卵焼/寄せ物などと盛り合せたもの。口取。口取物。

※l:物外(ぶつがい)とは、[1].形有る物以外の世界。物質界以外。
 [2].俗世間の外。世間を離れた場所。「―に遊ぶ」。


※h:マーキング(marking)とは、[1].印を付けること。
 [2].イヌやネコが物に尿を掛けたり、足で地面を引っ掻いて臭いを付けたりする行動。自分の縄張の誇示、仲間との情報交換の為と考えられる。繁殖時に特に激しい。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>


※d:逸民/佚民(いつみん、free person like hermit)とは、[1].世を逃れて隠れている人。「泰平の―」
 [2].公職に就かず、民間に在って自適の生活を楽しむ人。


※c:鉤鼻(かぎはな/かぎばな、hooked nose)は、[1].鼻柱が(かぎ)の様に曲っている鼻。鷲鼻
 [2].平安時代の女絵の顔の描写技法の一。→引目鉤鼻(ひきめかぎはな)。
※c-1:鷲鼻(わしばな、hooked nose, nose like eagle's nib)は、鷲の嘴の様に、尖ってて曲った鼻。鉤鼻。鷲っ鼻(ぱな)。






※25:鬱病(うつびょう、depression)とは、抑鬱気分・悲哀・絶望感・不安・焦燥・苦悶感などが有り、体調優れず精神活動が抑制され、しばしば自殺企図心気妄想を抱くなどの症状を呈する精神の病気。原因不明。躁鬱病の鬱病相の形を取るもの、周期性乃至は単相性鬱病の型のものなどが在る。



※26:鈴木三重吉(すずきみえきち)は、明治・大正期の作家(1882~1936)。広島県生れ。東大英文科出身で夏目漱石門下。神経衰弱で東大休学中に「千鳥」に依り文壇に出た。他に「小鳥の巣」「桑の実」など、抒情的傾向が強い。後、童話作家として活動、雑誌「赤い鳥」を創刊して児童文学・童謡に貢献。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※26-1:赤い鳥(あかいとり)は、鈴木三重吉編集の童話童謡雑誌。1918年(大正7)創刊、29年(昭和4)休刊。31年再刊、36年廃刊。日本の童話を巌谷小波時代のお伽噺の域から進め、文芸的に高めた。






※27:瘋癲(ふうてん)とは、[1].精神状態が正常で無いこと。又、そういう人。癲狂。
 [2].定まった仕事も持たず、ぶらぶらしている人フーテン





※29:バーチャル・リアリティー(virtual reality)とは、コンピューターの作り出す仮想の空間を現実であるかの様に知覚させること。人間が行けない場所でのロボット操作などにも応用する。仮想現実。仮想現実感。

※30:都/京/京都(みやこ)とは、この場合、(「宮処(みやこ)」の意)古く、天皇が一時仮に居所とした行宮(あんぐう)をも言う。福岡県に京都(みやこ)郡が在る。万葉集1「兎道(うじ)の―の借いほし思ほゆ」。
 補足すると、福岡県京都(みやこ)郡の名称由来は、「日本書紀」に熊襲征伐の為に豊前国長峡県(ながおのあがた)に景行天皇行宮を築いたと記され、近くには御所ヶ谷神籠石も在ります。


※31:竈(へつい/へっつい)は、竈(かまど)。
※31-1:竈(かまど、kitchen range)は、この場合、(「ど」は場所を意味する語)土/石/煉瓦/鉄又はコンクリートなどで築き、その上に鍋・釜などを掛け、その下で火を焚き煮炊きする様にした設備。かま。くど/へっつい(竈)。万葉集5「―には火気(ほけ)ふき立てず」。




※34:内田百閒(うちだひゃっけん)は、小説家・随筆家(1889~1971)。名は栄造。百鬼園と号。岡山県生れ。東大卒。夏目漱石の門下。夢幻的な心象を描き、又、人生の諧謔と悲愁を綴る。作「冥途」「百鬼園随筆」「阿房列車」など。


※36:カタル/加答児(catarrhe[蘭], catarrh)とは、粘膜の漿液滲出と粘液分泌が強い炎症の一型。(宇田川玄随「西説内科撰要」に出る語) 「腸―」。










    (以上、出典は主に広辞苑です)


【参考文献】
△1:『漱石全集 第14巻(書簡集)』(夏目漱石著、岩波書店)。
△1-1:『漱石全集 第15巻(続書簡集)』(夏目漱石著、岩波書店)。
△1-2:漱石全集 第13巻(日記及断片)』(夏目漱石著、岩波書店)。


△2:『夏目漱石全集第9巻』(夏目漱石著、筑摩書房)。

△3:『文鳥・夢十夜・永日小品』(夏目漱石著、角川文庫)。漱石の年譜を参照。

△x:『三四郎』(夏目漱石作、岩波文庫)。




△4:『吾輩は猫である(上)』(夏目漱石作、岩波文庫)。
△4-1:『吾輩は猫である(下)』(夏目漱石作、岩波文庫)。

△5:『漱石全集 第25巻』(夏目金之助著、岩波書店)。





△9:『猫の墓 父:漱石の思い出』(夏目伸六著、河出文庫)。




△10:『浅草紅団・浅草祭』(川端康成著、講談社文芸文庫)。


△11:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。



△12:『芭蕉おくのほそ道(付 曾良旅日記 奥細道菅菰抄)』(松尾芭蕉著、萩原恭男校注、岩波文庫)。

△13:『夢十夜 他2篇』(夏目漱石作、岩波文庫)。







△15:『贋作吾輩は猫である』(内田百閒著、福武文庫)。


△16:『牡猫ムルの人生観(上)』(E.T.A.ホフマン作、秋山六郎兵衛訳、岩波文庫)。
△16-1:『牡猫ムルの人生観(下)』(E.T.A.ホフマン作、秋山六郎兵衛訳、岩波文庫)。

●関連リンク

参照ページ(Reference-Page):ロンドンの工業暗化について▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)




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