牡猫ムル”吾輩”
[猫文士の心#2:元祖E.T.A.ホフマン
<牡猫ムルと”吾輩”との関係>]

(Katers Murr and 'Wagahai')

-- 2010.07.07 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2010.10.02 改訂

 ■はじめに - 

 ★このページは[猫文士の心#1:夏目漱石]の続きです。ここからドイツの牡猫ムルが関係して来ます。どうぞお楽しみに!!



牡猫ムルと”吾輩”
(Katers Murr and 'Wagahai')


『牡猫ムルの人生観』(Die Lebensansichtens des Katers Murr)

Kater ♂猫
Katze ♀猫


 夏目漱石(※1)の「猫」と言えば”吾輩(Wagahai)”以外に有り得ません。それ程”吾輩”は有名な猫であり、又広く一般の尊敬を勝ち得て居ます。所縁の土地には”吾輩”のが作られ顕彰碑も立って居ます。明治の文豪・漱石も陰では”吾輩”の事を「馬鹿猫」呼ばわりしてるみたいです(△3のp283)が、面と向かっては逆らえないのです。それはそうでしょう、これから先作家として「食って行けるかどうか」判らない状況の中で、どうやら漱石が「食って行ける」感触を掴んだのは”吾輩”がヒットしたからに他為りません。そういう意味で漱石は”吾輩”には一目も二目も置いているのです。
 この”吾輩”の舞台に成った家が千駄木の家で、当時の住所は本郷区駒込千駄木町57番地です。因みに同じ絵葉書の中で、千駄木を此猫は向三軒両隣の奴等が大嫌い」(△3のp283)と”吾輩”の所為にして居ますが、これは実は胃弱の苦沙弥先生(←漱石がモデル)の真情で、その事は”吾輩”を読めば一目瞭然です。
 胃弱に関しては晩年の小説『硝子戸の中』(→後出)の中で「私の病気と云えば、何時も極(きま)った胃の故障なので、いざとなると、絶食療法より外に手の着けようがなくなる。」と書いて居て(△4のp121)、死んだのも胃潰瘍が原因です。
 尚、当ページは横書きなので引用文の漢数字はアラビア数字に変換しました。






               (>-_*<)/~~
                m  m/

 当ページでは「文学散歩」をして居ますが、文学散歩は多少煩わしいので文学に興味無い方は「◆で始まる段」を全て読み飛ばして下さい(←「◆で始まる段」の文字の色はこの段と同じです)。
 しかし[猫文士の心#2:元祖E.T.A.ホフマン<牡猫ムルと”吾輩”との関係>]では「文学散歩」をスキップすると余り読む所が有・り・ま・せ・ん。アッハッハ、悪しからず!

 ムッ、”吾輩”じゃ、誰ニャンだ?!、...。
                猫のマスコット。 ニャ~オ!

 ■
























 ■



 (1)『猫(11)』を最終章とする




  (1)-1.話を終結させる


 これからは暫く「文学散歩」です。文学に興味無い方はスキップして下さい。

    ◆寒月の縁談問題

 前に採り上げたのは『猫(3)』に於いて金田夫人が令嬢・富子の縁談で寒月を調査に苦沙弥家に直々に来たりしましたが、『猫(11)』の於いてはこの縁談話を終結させる必要が有ります。金田家は博士になる事が結婚の条件です。
 「「へゝゝゝいろいろ御心配をかけて済みませんが、もう博士にはならないでもいいのです」
 「なぜ」
 「なぜって、私にはもうれっきとした女房があるんです」
 「いや、こりゃえらい。いつのまに秘密結婚をやったのかね。ゆだんのならない世の中だ。
苦沙弥さんただ今お聞き及びのとおり寒月君はすでに妻子があるんだとさ」
 「子供はまだですよ。そう結婚してひと月もたたないうちに子供が生まれちゃ事でさあ」
 「元来いつどこで結婚したんだ」と主人は予審判事みたような質問をかける。
 「いつって、国へ帰ったら、ちゃんと、うちで待ってたのです。きょう先生の所へ持って来た、この鰹節は結婚祝いに親類からもらったんです」
 「たった3本祝うのは
けちだな」
 「なにたくさんのうちを3本だけ持って来たのです」
 「じゃお国の女だね、やっぱり色が黒いんだね」
 「えゝまっ黒です。ちょうど私には相当です」(←
筆者注:寒月は土佐高知の出身) 「それで金田のほうはどうする気かい」
 「
どうする気でもありません
 「そりゃ少し義理がわるかろう。ねえ
迷亭
 「わるくもないさ。ほかへやりゃ同じ事だ。どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合わせをするようなものだ。...<後略>...」...<中略>...
 「...<前略>...私のほうでくれとも、もらいたいとも、先方へ申し込んだ事はありませんから、黙っていればたくさんです。...<後略>...」」
とつれない返事です(△4-1のp246~248)。斯くして寒月の縁談は一件落着。しかし迷亭「どうせ夫婦なんてものは闇の中で鉢合わせをするようなものだ。」は名言です!




















  (1)-2.『猫(11)』の発表

 『猫(11)』は「ホトトギス」の明治39年8月号に掲載されましたから、その約1ヶ月前の明治39(1906)年7月半ばに発表されました。






















  (1)-3.『猫(11)』の評 - 手紙




    ◆『猫(11)』を寒月が批判

 明治39(1906)年8月3日の手紙は「午後6~7時、本郷区駒込千駄木町57番地より本郷区丸山福山町4番地伊藤はる方森田米松へ」と在り、「御手紙拝見昨日来てあれ丈話した上今日6銭印紙を張って手紙をよこす人は滅多にあるまいと思ひながら読んで見ると第一が猫の攻撃は多数決だから已(やむ)を得んとあきらめて後世に知己を待つより外に仕方なし
 作文編緝(←原注)につきての御注文は虚子へ文通致し置くべく墨汁一滴の著者へは申してやれぬから是も虚子で間に合わして置くと致す。猫に至つては悉く御取りになつても差支なし...<中略>...
 君に御辞儀をしたものは正に僕の妻にして年齢は当年30。25、6に見えたと申し聞かしても喜びさうもないから話さずにおく。僕の妻にしては若過ぎるとは大に此方を老人視したものだ
 寒月先生は神経質にして仙骨あるもの。彼は僕に向つてすら丁寧に御辞儀をしたる事なし況んや愚妻に於てをや...<中略>...
 今度の小説の一部分はあるひは御気に召すかも知れず実は君位が御気に召さないと天下気に召し手がなくなるだらうと思ふ。漱石先生(←筆者注:三水偏「氵」に「敕」を使用、フォント無し虚名を擁して毎月知己を後世に待つ様では憫然(びんぜん)なり 艸々頓首
    八月三日                金
  白楊先生」
という内容です(△3のp429~430)。
 「墨汁一滴」は子規の随筆、「今度の小説」とは小説『草枕』の事です。森田米松(白楊)は漱石の教え子です。次の手紙を読めば事情が更に解ります。

 同日、虚子へ送った手紙には「午後6~7時、本郷区駒込千駄木町57番地より麹町区富士見町4丁目8番地高浜清へ」と在り、文面が「...<前略>...文学士森田白楊なるものあり小生の教へた男なるが今度作文の本を作るとかにて墨汁一滴のなかを二三滴君の文を一篇、僕の猫を一頁程もらひ度と申してきたり。どうか承諾してやつて下さい。
 寒月来つて今度の猫を攻撃森田白楊之に和す漱石(←筆者注:三水偏「氵」に「敕」を使用、フォント無し之に降る
 只今新小説の奴を執筆中あつくてかけまへん。 艸々の頓首...<後略>...」
というものです(△3のp430)。
 子規の「墨汁一滴」、虚子の文に「猫」を添えて森田という教え子が本を作りたいとの事を虚子に説明して居ます。「新小説の奴」とはこの年の9月から雑誌『新小説』に発表する小説『草枕』の事です。漱石は親しい友人には冗談を乱発しますが関西弁で「あつくてかけまへん」と言ってます。
 そして寒月来つて今度の猫を攻撃森田白楊之に和す漱石之に降る。」とは何を指して居るのか?、それは更に次の手紙を読めば解るのです。

      ◆◆漱石、寒月の批判に「御尤もなる攻撃に候」

 同年8月28日の手紙の発信元と宛先は「午後11~12時、本郷区駒込千駄木町57番地より福岡県京都郡犀川村小宮豊隆へ」と在り、文面は「...<前略>...
 猫の批評こまごま難有候苦沙弥迷亭の比較御尤に候。あれで一段落ついてまづ安心致し候。然し出来るならばあんな馬鹿気た事を生涯かいてゐたい。それでないと、腹へつめたものがもたれて困る。猫の11を非難せるもの2人ばかりありたりその1人の曰く終りの方の文明の議論が人によつて調子が変つてゐない。迷亭が喋舌つても苦沙弥が述べても同じ語気であると御尤もなる攻撃に候
 今度は新小説にかいた。9月1日発行のに草枕と題するものあり。是非読んで頂戴。こんな小説は天地開闢以来類のないものです(開闢以来の傑作と誤解してはいけない)...<後略>...」
というものです(△3のp439~440)。
 即ち、この文は「ホトトギス」8月号で「猫の11章」を書いて『吾輩は猫である』を終わらせた事を書いて居るのです。
 この2つの手紙を合わせて考えると、前の手紙で寒月、即ち寺田寅彦が来て最終章を非難し、これに森田白楊も同調したのです。後の手紙で猫の11を非難せるもの2人ばかりありたりと言って居るのは寺田寅彦と森田白楊の事です。その理由は後の手紙で迷亭が喋舌つても苦沙弥が述べても同じ語気であると。なのです。そして漱石もこれを認めて前の手紙では之に降る。」と書き、後の手紙では「御尤もなる攻撃に候」と書いて居るのです。

      ◆◆大坂の滑稽新聞、猫文士の漫画を載せる

 ところで後の手紙、即ち8月28日の手紙には大坂ノ滑稽新聞所蔵の写しが載って居ます(左下の写真、これは学生が切り抜きを送ってくれたものです、△3のp439)。


←「作原石漱目夏」(右から読む)


 この「大坂ノ滑稽新聞所蔵の写し」とは私の大好きな宮武外骨(※2)の編集に成るもので、明治34年1月に宮武外骨が主筆で大阪の滑稽新聞社から創刊され、同41年10月に発売禁止処分を食らった”曰く付き”(※2-1)のものです(△3のp928)。外骨の「滑稽新聞」に興味が有る方は『滑稽漫画館』(△6のp9~14)などをお読み下さい。
 しかし、これは中々面白い漫画ですね。漱石は完璧に猫文士(Cat writer)にされて居ます、アッハッハ!


←「るあで猫は輩我」(我輩に成っている)

 では何故、後の手紙で迷亭が喋舌つても苦沙弥が述べても同じ語気であると。なのか?、それに対し漱石が「御尤もなる攻撃に候」と自分の非を認めて居るのか?、という疑問に答えなければ為りません。














    ◆藤代禎輔への手紙

 明治33年(1900)11月20日、発信元はロンドンで宛先はベルリンです(△3のp155~156)。
 明治33年12月27日、発信元はロンドンで宛先はベルリンです(△3のp159)。
 明治34年1月3日、発信元はロンドンで宛先はベルリンです(△3のp160~161)。
 明治34(1901)年2月5日、発信元はロンドンで宛先は「在独乙藤代禎輔へ」と成って居ます(△3のp168~169)。
 同年6月19日、「Tooting より在独乙伯林藤代禎輔へ」で、文面は「」です(△3のp184)。




 ■漱石の最晩年
































大正5(1916)年1月18日

 この前後の書簡は同年1月13日(木)と1月19日(水)です。先ず大正5年1月13日の手紙は「牛込区早稲田南町7番地より在シャム井田芳子へ(うつし)」と在り、その手紙の最後に次の一節が在ります。「...<前略>...
 明日から国技館で相撲が始まります。私は友達の桟敷で10日間此春場所の相撲を見せてもらふ約束をしました。みんなが変な顔をして相撲がそんなに好きか/\と訊きます。相撲ばかりぢゃありません。私は大抵のものが好きなんです。...<後略>...」
と(△3-1のp532~533)。

 大正5年1月19日の手紙は「午後1時~2時、牛込区早稲田南町7番地より京橋区瀧山町4番地東京朝日新聞社内松山忠二郎へ」と在り、「拝復御案内有難く候小生去冬以来風邪の気味にてそれが為か左の肩より腰にかけては鈍痛はげしくリヨマチか肩の凝か知らざれど兎に角医者の手に合はず困り入候現に原稿などをかくのが非常の苦痛と努力に候去年以来約束の相撲見物丈は原稿より骨が折れない故どうか今日迄継続致候も愈(いよよ)となれば是も欠席の覚悟に候此際の御案内甚だ無礼ながら我儘を申せば聊(いささ)か苦痛の気味に有之候久しく諸君と会(かい)せざる故かういふ好時期を利用したきは山々なれどどうも坐つて居られさうにもなく候相撲は後ろへ寄りかゝり背中をしきりに動かしどうにか斯うにか持ち応え居候も夜中は痛みの為安眠の出来ぬ始末に候
 電話で御返事する筈の処くだ/\しくて却つて面倒故書面にて申上候何卒あしからず
 万一向後諸君と会合の場合もあらば其節参上万々御詫可申上候 以上
    一月十九日               夏目金之助
  松山忠二郎様」

ついう内容です(△3-1のp533~534)。「去冬以来」と在るので大正4年暮れの手紙を見ると大正4年12月25日の手紙にリヨマチで腕が痛みますつゞけて机に凴る事が出来ません」と書かれて居ます(△3-1のp529)。漱石は若い頃からリウマチに悩まされて居ます。

 結局漱石はこの後、湯河原にリウマチの転地療養に出掛けます。その間の書簡は在りませんが、大正5年2月17日の手紙では「午後1時~2時、牛込区早稲田南町7番地より府下下渋谷122番地小泉鐵へ」と在り、「拝啓泰西の絵画彫刻4巻御恵贈にあづかりましてまことに有難う存じます厚く御礼を申上ます私はリヨマチで此間中から転地を致して居りました昨日帰京致しました書物は何時参つたか存じませんでした故御挨拶が遅くなりました御勘弁を願ひます 以上
    二月十七日               夏目金之助
  小泉鐵様」
と在ります(△3-1のp534)。転地療養の期間は大正5年1月20日頃~2月16日という事が解ります。
 ところでリウマチにはマタタビ(木天蓼)が効くのです、が非常に好きな。猫文士としてはマタタビを試して欲しかったですね!



 ■結び - 















 如何でしたか、[猫文士の心#2:元祖E.T.A.ホフマン<牡猫ムルと”吾輩”との関係>]は。これで「牡猫ムルと”吾輩”」の関係がお解り戴けた事と思います。繰り返しますが、この話は日本では殆ど知られて居ません。

 尚、[猫文士の心]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:夏目漱石(なつめそうせき)は、明治・大正時代の小説家、英文学者(1867~1916)。名は金之助。江戸牛込生れ。小学校時代から漢文学に親しみ、一高在学中に正岡子規と親交を持ち俳句を作った。東大卒。五高教授。1900年(明治33)イギリスに4年間留学、帰国後東大講師、後朝日新聞社に入社。05年「吾輩は猫である」、次いで「倫敦塔」を出して文壇の地歩を確保。他に「坊つちやん」「草枕」「虞美人草」「三四郎」「それから」「門」「彼岸過迄」「行人」「こゝろ」「道草」「明暗」など。自然主義文学に対し余裕派を自認。胃弱であった。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、「明暗」執筆中に胃潰瘍で永眠しました。



※2:宮武外骨(みやたけがいこつ)は、(「外骨」は亀の外骨内肉に因む。「亀」は彼の名を表す。後にトボネと読みを改める)明治・大正・昭和時代のジャーナリスト・風俗史家(1867~1955)。本名、亀四郎。讃岐(香川県)生れ。東京で頓智協会を設立、後に大阪で「滑稽新聞」などを発刊、政府批判・諷刺に因り再三筆禍に遭う。東大法学部に明治新聞雑誌文庫を創設。著「筆禍史」「私刑類纂」「賭博史」など。
※2-1:曰く付き(いわくつき)とは、[1].何か特別の事情の有ること。又、その様なもの。
 [2].犯罪の前歴などが有ること。









※6:藤代禎輔(ふじしろていすけ)は、明治・大正時代のドイツ文学者(1868~1927)。号は素人(そじん)。千葉県出身、東京帝国大学卒。京都帝国大学教授。1900年ドイツ留学。この時、夏目漱石と同船、帰国後も漱石と親交が有る。カール・フローレンツと共に「万葉集」のドイツ語訳を進めたが未完。「草露集」「文芸と人生」など。「猫文士気焔録」で、E.T.A.ホフマンの「牡猫ムルの人生観」と漱石の「吾輩は猫である」との類似を指摘
※6-1:畔柳芥舟(くろやなぎかいしゅう)は、明治・大正時代の英語学者(1871~1923)。山形県出身。本名は都太郎(くにたろう)。東京帝国大学卒、1893年第一高等学校の教授。「明治通俗和英節用集」「文壇花壇」など。夏目漱石とも親交が有る。





    (以上、出典は主に広辞苑です)


【参考文献】
△3:『漱石全集 第14巻(書簡集)』(夏目漱石著、岩波書店)。
△3-1:『漱石全集 第15巻(続書簡集)』(夏目漱石著、岩波書店)。


△5:『文鳥・夢十夜・永日小品』(夏目漱石著、角川文庫)。漱石の年譜を参照。


△6:『滑稽漫画館』(宮武外骨著、吉野孝雄編、河出文庫)。



△8:『吾輩は猫である(上)』(夏目漱石作、岩波文庫)。
△8-1:『吾輩は猫である(下)』(夏目漱石作、岩波文庫)。







△16:『牡猫ムルの人生観(上)』(E.T.A.ホフマン作、秋山六郎兵衛訳、岩波文庫)。
△16-1:『牡猫ムルの人生観(下)』(E.T.A.ホフマン作、秋山六郎兵衛訳、岩波文庫)。

●関連リンク


宮武外骨とは▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)







リウマチにはマタタビ(木天蓼)が効くゾ▼
ノラ猫狂詩曲(What's new PUSSYCATS ?, Japan)





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