[人形浄瑠璃巡り#1]浄瑠璃神社
[何故か生玉]
([Puppet Joruri 1] Joruri shrine, Osaka)

−− 2004.03.29 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2004.12.28 改訂

 ■はじめに − 人形浄瑠璃の「各論」の開始

人形浄瑠璃のマスコット。 03年11月に、日本の人形浄瑠璃「文楽」がユネスコの「人類の口承及び無形遺産の傑作」(通称:世界無形遺産)に指定された折に、人形浄瑠璃が「語り物」としての浄瑠璃操り人形とが合体し発展して来た過程を考察し
  人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)

を発表しました。
 この論考は言わば人形浄瑠璃に関する私の考えの枠組みを示した「総論」で、この中で人形浄瑠璃こそ上方文化の典型であると述べました。言わば最初に行き成り大上段から議論を振り翳(かざ)した格好に成って仕舞った訳です。そこでこれから、草創期の人形浄瑠璃を創作した人々の所縁の地を訪ね歩き乍ら、それを具体的に検証して行こうと言う、可なり”遠大な”企画がこの[人形浄瑠璃巡り]シリーズで、「総論」に対する「各論」です。関西で生まれ育ち関西で完成した芸能である人形浄瑠璃所縁の地は大阪の足元に散在して居ます、これぞ「旅は身近な所から」の実践です。
 前記の「総論」は今回からの「各論」の下敷・型板、即ちテンプレート(※1)の役割を果たしますので、適宜参照して下さい。尚、この芸能の呼び名については「総論」に記した様に、「文楽」という名称が人形浄瑠璃の代名詞に成ったのは大正時代(約1910年)頃以降のことですので「人形浄瑠璃」という呼び名で統一します。
 そして真っ先に訪れるのが「人形浄瑠璃の神々」を祀る浄瑠璃神社ですが、それは何故か生国魂神社境内に在ります。そこで副題を[何故か生玉]とし生玉地区とその周辺の所縁の地を経廻ることにしました。
 浄瑠璃神社が何故生国魂神社の境内に在るか?、と言えば実は生国魂神社の境内摂社だからです。本社の生国魂神社は▼下▼からご覧下さい。
  生国魂神社と上方芸能(Ikutama shrine and entertainments, Osaka)

 [何故か生玉]はパロディーなのですが、それは最後に明かします。このページを楽しんで戴けたら幸いです!

 ■浄瑠璃神社 − 生国魂神社境内摂社

 「総論」でご紹介した国立文楽劇場の前の千日前通りを東に進み上町台地の坂を登って行くと谷町9丁目交差点(←地下鉄谷町線及び千日前線の谷町九丁目駅が在る)に至り、交差点南西のラブホテル街の真ん中に生国魂神社(生國魂神社)(天王寺区生玉町13−9)が東向きに鎮座して居ます。
 生国魂神社上方芸能の発祥に深く関わって居ます。大坂の人々は往古から何か事が有るとこの神社に願を懸け、芸能者も願懸けを兼ねてこの境内で芸を披露するのが習わしの様に成って居ました。井原西鶴が一日に4千句もの独吟をしたり(矢数俳諧)、太平記読みや萬歳や人形遣いなどの大道芸者が集まり、大坂落語の祖と言われる米沢彦八が蓮池前(現在の生玉公園)で小咄を演じたりしたのも当地です。
 そして今回のテーマである人形浄瑠璃で近松門左衛門(※2)の『曾根崎心中』の主人公「お初と徳兵衛」、『生玉心中』の主人公「おさがと嘉平次」が出会ったのがこの神社の境内、更に門左衛門存命中に周辺で幾つもの心中事件(後出)が起きたという訳で生国魂神社を中心に生玉地区は”何故か心中と縁が深い”のです、そこが[何故か生玉]なんですね。その様な縁で境内の北西隅に境内末社として浄瑠璃神社がひっそりと祀られて居ますが、この末社の存在を知る人は希です。
 左下が浄瑠璃神社の鳥居と拝殿(←本社と同じく東向き)で、鳥居の右手に見える社名柱に「浄るり神社」、鳥居の右側支柱に「奉 為 竹本義太夫先師」(※2−1)と刻まれて居ます。右下は拝殿奥の幣殿と本殿です。幣殿の両脇の小さな石灯籠の台には「奉納 竹本源太夫」と刻まれて居ます。1876(明治9)年人形浄瑠璃関係者に依って創建されました。
写真1−1:生国魂神社境内の浄瑠璃神社。写真1−2:浄瑠璃神社の幣殿と本殿。
 境内の説明板に拠れば、祭神は音律和調霊神と文楽先覚諸霊神で、前者は三味線など我が国の音曲の守護神、後者は人形浄瑠璃関係の先覚者達を指します。人形浄瑠璃の創始・発展に功績著しかった人々を神とした浄瑠璃七功神

  浄瑠璃の創始者         小野お通(※3)
  人形遣いの守護神        西宮百大夫(※4)
  浄瑠璃三味線の祖        沢住検校
  浄瑠璃語り・竹本座座元     竹本義太夫(筑後掾)(※2−1)
  浄瑠璃語り・豊竹座座元     豊竹若太夫(越前少掾)
  浄瑠璃作家           近松門左衛門
  義太夫節三味線方の祖      初世竹沢権右衛門(※5、※5−1)

を始め人形浄瑠璃及び女義太夫の物故者を文楽先覚諸霊神に加え、両祭神の神徳を合わせて「人形浄瑠璃の守護神」と成し更に広く芸能一般の上達に神徳有りとし、春分・秋分の日が例祭日です。
 ここで小野お通は大変伝説に彩られた人物で、その一つに室町中後期の『十二段草子』(※3−1)の作者とする俗説が有る為に「浄瑠璃の創始者」に列せられて居ます。義太夫以前の浄瑠璃を古浄瑠璃(※3−2)と言います。

 ■お千代・半兵衛の比翼塚 − 銀山寺


写真2:「歴史の散歩道」の赤煉瓦。 前章で、生国魂神社を中心に生玉地区は”何故か心中と縁が深い”と述べましたが、以下にその一例をご紹介します。又、この地区は浄瑠璃作品の作者・演者・登場人物など浄瑠璃関係の重要な史跡が多いのです。次にそれらの場所を訪ねて行きます。
 生国魂神社の鳥居前には「歴史の散歩道」 −右の写真の様な道路中央部の赤煉瓦の石畳が目印− と名付けられた落ち着いた雰囲気の道が、谷町筋の西150m位の所を生玉霊園迄は谷町筋と並行して通って居ます。鳥居前からこの道を南に向かって進むことにします。間も無く天王寺七坂の一つの源聖寺坂を過ぎた所に宝樹山銀山寺浄土宗、天王寺区生玉寺町6丁目)が在ります(左下の写真)。
写真3−3:お千代・半兵衛の比翼塚。 ここに門左衛門の『心中宵庚申』の主人公のお千代・半兵衛及び学者たちの墓が安置された一角が在ります(中央下の写真)。右が中央奥に在るお千代・半兵衛の比翼塚(※6)の拡大写真です。
写真3−2:銀山寺境内のお千代・半兵衛及び学者たちの墓。写真3−1:銀山寺の本堂。



 比翼塚の墓碑には右から「聲應貞現信女 一蓮通月融心信士托生 離身童子」と刻まれて居ます。大坂新靫町の八百屋「川崎屋」の養子・半兵衛と妻お千代は享保7(1722)年4月6日に生玉馬場先の大仏勧進所で心中しました。お千代は24歳の妊娠中で「離身童子」は哀れな胎児のことです。これを題材にして豊竹座は紀海音の『心中二つ腹帯』、竹本座は近松門左衛門の『心中宵庚申』というヴェリズモ浄瑠璃(←私の造語)を競演し、更に歌舞伎に脚色した『新板宵庚申』もヒットしました。
 因みに門左衛門の『心中宵庚申』のタイトルは心中の道行を「宵庚申」(※7〜※7−2)の人混みに紛れて行った為で、心中に至った原因は、姑との折り合い悪い嫁お千代が夫の留守中に一方的に姑から離縁され、それを知った夫は千代を連れ帰りますが養子の遠慮から嫁と養母の板挟みに成って死を選んだとし、人の縁の難しさと不思議さを「合縁奇縁」(※8)という言葉で言い表して居ます。又、半兵衛の戒名の前後を挟む「一蓮」と「托生」ですが作品中に「一蓮托生」は再三出て来ます。
 さて、この心中が起きた当時は未だ心中ブームでしたが翌年の享保8(1723)年の心中物出版・上演禁止令でブームは一挙に終息しましたので海音・門左衛門共にこれが最後の心中物作品に成りました。又、お千代の生家の菩提寺の来迎寺浄土宗、京都府相楽郡精華町植田)にも二人の供養墓が在るそうです。

 ところで、中央上の写真で前列左から2番目は国学者・俳人の岡西惟中(※9)の墓で、左端が妻の墓です。彼の一般的業績は【脚注】に譲るとして、説明板に拠れば彼はこの銀山寺の檀家「宝樹山銀山寺興隆来由記」という当寺の縁起を著し、本堂前の扁額の「宝樹山」を揮毫し宝永2(1705)年には当寺で連歌会を催したなど、この寺に無くては為らない人でしたので付記しました。
    {この章は04年11月23日に初稿を追加し、04年12月28日に岡西惟中の記事を追加}

 ■竹田出雲(初世及び2世)の墓 − 青蓮寺

 「歴史の散歩道」を更に南下した生玉霊園の向かい側の吉祥山青蓮寺高野山真言宗、天王寺区生玉寺町3丁目)には竹田出雲(初世及び2世)の墓(※10)が在り、門前に左下の写真の様に「竹田出雲墓所」と刻んだ石柱が在るので直ぐに判ります。
写真4−1:青蓮寺の門。写真4−2:竹田出雲(初世及び2世)と竹田氏一族の墓所。 右が境内奥の竹田氏一族の墓所です。墓所手前には「竹田出雲ノ墓 文明院岑松立顕居士」と戒名を書いた立て札が立って居ますが、この戒名は2世のものです。
 既に「総論」に書きましたが、1703年に近松門左衛門の『曾根崎心中』が大当たりすると、義太夫の弟子の豊竹若太夫が独立し道頓堀に豊竹座を開設し07年には座付作者に前出の紀海音を迎え、世に言う「竹豊時代」(=第1期黄金時代)に突入しました。これに対し竹本座は座元の竹本義太夫が太夫職に専念する為に05年に座元を竹田出雲(初世)に譲り、出雲(初世)は「蘆屋道満大内鑑」初の「三人遣い」上演に携わりました。
 出雲(2世)は初世の子で、合作ですが現在は歌舞伎演目として最も高い人気を誇る「三大時代物」 −『菅原伝授手習鑑』『義経千本桜』『仮名手本忠臣蔵』− を人形浄瑠璃で次々とヒットさせ第2期黄金時代を築くと同時に今日の原型を成す「三人遣い」定着に多大な貢献をした人
です。この辺の人形浄瑠璃の歴史を確りと知りたい方は前掲の「総論」を是非お読み下さい。

 ところで、浄瑠璃とは無関係ですが、境内に見慣れない物が在りましたので序でに記して置きます。
写真4−3:青蓮寺境内の仏足石。写真4−4:青蓮寺境内のマニ車。 先ず左は仏足石(※11)という物で、有り難き釈尊の足形に賽銭が置かれて居ます。仏教発祥地のインドではこれを拝みます。
 右はラマ教(=チベット仏教)のマニ車(=経車)(※12、※12−1)です。マニ車の中には経典を蔵し、手で回すとその経典1巻を唱えるのと同等の功徳を授かるとされて居るのでラマ寺院では人々はこれを手で回し乍ら回廊を進むのです。説明板には釈尊誕生の地ネパールの学校建設援助の返礼としてネパールより贈られたものと記して在りました。

 もう一つ、竹田出雲(2世)の『仮名手本忠臣蔵』の序でを付言すると、ここから東の谷町筋の東側には赤穂義士の墓が在る吉祥寺が在り、義士が討ち入りの時に着た装束の袖と同じギザギザ模様が周壁に描かれてるので直ぐに見分けが付きます。寺名が青蓮寺の山号と同じ「吉祥」ですので興味が有る方は立ち寄って下さい。
    {この章は04年11月23日に追加、12月28日に加筆修正}

 ■竹本義太夫の生誕碑と墓 − 谷町筋西側歩道の堀越神社南と超願寺


写真5−1:竹本義太夫の生誕碑。 青蓮寺を出たら谷町筋に向かいます。谷町筋の西側歩道を天王寺駅に向かって堀越神社を目当てに約1km位歩き社前を南に数10m過ぎた辺りの道路沿いに義太夫生誕碑(天王寺区茶臼山町)が在ります(左の写真)。石柱型の碑には「元祖竹本義太夫誕生地」と刻まれて居ます。この碑は生誕300年記念として1950年に財団法人「人形浄瑠璃因協会」が建立した旨の刻印が側面に在ります。
写真5−2:超願寺境内の竹本義太夫の墓。 次に堀越神社前から谷町筋を渡り東に進み土塔山超願寺浄土真宗本願寺派、天王寺区大道1丁目)を目指します。この寺の境内に木製建屋に囲われた義太夫の墓が在ります(右の写真)。墓石には「元祖 竹本義太夫墓」と刻まれて居ます。左の生誕碑の「元祖」はこれを写したものと解りました。しかし誕生地と墓所が数100m以内という人も珍しいと思いましたが、大阪市の地理に”土地勘”の無い人の為に言うと、ここは四天王寺の200m位南に位置した所です。
 義太夫は現在は義太夫節(※2−2)の創始者として知られ今更言う迄も無いですが、竹本座の座元兼浄瑠璃太夫として近松門左衛門とのコンビで浄瑠璃史上最高の絶頂期(第1期黄金時代)を築いた大功労者で門左衛門と同じく浄瑠璃七功神の一柱です。

写真5−3:超願寺境内の現役の井戸その1。写真5−4:超願寺境内の現役の井戸その2。 ところで又もや珍しい物を見付けて仕舞いましたので序でに記します。それは現役のポンプ式井戸です(左右の2枚)。ご覧の様に今も水が出るので”現役”です。どうも私は”変な物”に目が行って仕舞いますなあ、アッハッハッハ!
 実は上町台地の四天王寺付近には嘗て「天王寺の七名水」に代表される良質の湧水が出た場所が点在して居ましたので、その名残で今も現役の井戸が湧き出るのでしょう。
 まぁしかし、良質と言うてもねえ、大坂は昔から「水の都」と呼ばれ乍ら大部分の井戸水の質は悪かったので、ここらの人は水道が出来る前は「七名水」の水を汲み飲料水を売る「水屋」を商ったと言います。
 今も大阪人は淀川の水を浄化して飲料水にしてますので、ハッキリ言えば京都人の小便を飲んでる様なモンでっせ!!
    {この章は04年10月18日に追加}

 ■近松門左衛門の墓 − 谷町郵便局脇の法妙寺跡

 今度は谷町筋を北に引き返し最初の生玉町を越えて谷町7丁目交差点手前に行く(←超願寺から徒歩で30〜40分位)と、竹本義太夫と共に人形浄瑠璃の全盛時代を築き浄瑠璃七功神の一柱として崇められる近松門左衛門の墓所が在ります。谷町郵便局脇のビルに挟まれた所にひっそりと在りますが、誰もそれと気付かずに通り過ぎて行きます。ここは門左衛門の妻の松屋家の菩提寺である本覚山法妙寺跡日蓮宗、大阪市中央区谷町8丁目)で、その後法妙寺が大東市に移転した為に墓石だけがここに残った訳です。
 左下が門左衛門夫妻の墓所、中央下が門左衛門夫妻の墓碑です。墓碑には門左衛門の戒名「阿耨院穆矣日一具足居士」と妻の戒名「一珠院妙中日事信女」とが刻まれて居ます。この墓所は門左衛門257年忌の1980年に大阪市教育委員会が改修を行った旨が説明板に在ります。
 そして墓碑の台座正面には「施主 近松氏 正七」と刻印、側面には右下の「丸に一文字」の紋所が在ります。
   写真6−1:谷町の法妙寺跡の近松門左衛門夫妻の墓所。写真6−2:門左衛門夫妻の墓碑。写真6−3:墓碑台座の「丸に一文字」の紋。

 門左衛門の出生や幼少年期に関しては諸説有ります(※2)が、晩年は大坂天満に住み大坂で没しました。しかし門左衛門の墓は尼崎の広済寺日蓮宗)にも在り、遺骸が葬られたのは広済寺とされて居ます。

 ■結び − 副題の本意

 以上巡って来た様に生玉町付近には浄瑠璃関係の重要な史跡が多い、これが副題の[何故か生玉]の題意だったのですが、この副題は実は「何故か埼玉」のパロディーでした。という訳で当ページの副題には二重の意味が込められて居たのです、オッホッホ!

 [人形浄瑠璃巡り]はこれを皮切りに徐々に様々に展開して行きます。[人形浄瑠璃巡り]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

φ−− おしまい −−ψ

【脚注】
※1:テンプレート(template)とは、
 [1].型板。型紙。
 [2].歯列矯正用の型板。
 [3].図形や文字が刳り抜いてある製図用の薄板。
 [4].コンピュータのキーボード上に置く、各キーの機能を表示したシート。
 [5].コンピュータの表計算やデータベース用ソフトで、直ぐ利用出来る様に設定済みのパターン。

※2:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者(1653〜1724)。本名、杉森信盛。平安堂・巣林子(そうりんし)などと号。越前の人。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。
 補足すると、誕生地は不詳な点が多く「広辞苑」では越前説を採用してますが、最近の研究では長州説も有力な様です。
※2−1:竹本義太夫(たけもとぎだゆう)は、江戸初期の浄瑠璃太夫(1651〜1714)。義太夫節の開祖。本名、五郎兵衛。摂津天王寺村の人。初め井上播磨掾の弟子清水(きよみず)理兵衛に学び、清水理太夫と名のり、1684年(貞享1)竹本義太夫と改名、大坂道頓堀に竹本座を設けて「操り浄瑠璃」を興行。近松門左衛門の作を語って操り人形浄瑠璃を大成。98年(元禄11)受領して竹本筑後掾藤原博教と成る。
※2−2:義太夫節(ぎだゆうぶし)は、浄瑠璃の流派の一。貞享(1684〜1688)頃、大坂の竹本義太夫が人形浄瑠璃として創始。豪放な播磨節、繊細な嘉太夫節その他先行の各種音曲の長所を摂取。作者の近松門左衛門、三味線の竹沢権右衛門、人形遣いの辰松八郎兵衛などの協力も加わって元禄(1688〜1704)頃から大流行し、各種浄瑠璃の代表的存在と成る。義太(ぎだ)。

※3:小野お通(おののおつう)は、歴代美濃に住した小野正秀の女(むすめ)(1568 〜1631?)とされるが、異説も有る。於通・阿通(おつう)とも。文芸・糸竹の技に長じた。浄瑠璃「十二段草子」の作者と伝える(←江戸時代の「色道大鏡」などで小野お通の作とされた)が、現在では改作者かと推定されて居る。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」、「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※3−1:十二段草子(じゅうにだんぞうし)は、(十二段から成ることから)古浄瑠璃・御伽草子。作者不詳(←俗説では小野お通とも)。牛若丸と浄瑠璃姫との恋物語を脚色したもの。元は読物として書かれたが、曲節を付して語り物として流行。室町中期以後の作と思われる。浄瑠璃十二段草子。浄瑠璃姫物語。浄瑠璃御前物語。
※3−2:古浄瑠璃(こじょうるり)とは、義太夫節成立以前、寛永(1624〜1644)〜貞享(1684〜1688)頃に現れた数十種の浄瑠璃各派(薩摩節・金平節・肥前節・近江節・播磨節・嘉太夫節・文弥節など)の総称。多くは一代限りで衰退し、何れも江戸中期以降は伝承されない。

※4:西宮百大夫(にしのみやひゃくだゆう)は、摂津西宮の百大夫社に祀る道祖神遊女、又は傀儡(くぐつ)の守り神とされた。梁塵秘抄「遊女の好むもの、...男の愛祈る―」。

※5:竹沢権右衛門(たけざわごんえもん)は、5世迄。初世(16??〜17??)は竹本義太夫の相三味線として初期の義太夫節の発展に寄与、義太夫死後に豊竹座の三味線方。<出典:一部「日本史人物辞典」(山川出版社)より>
※5−1:竹沢(たけざわ)は、(竹本座の「竹」と沢住の「沢」から)義太夫節三味線方の芸姓の一。

※6:比翼塚(ひよくづか、lovers' grave, double grave)とは、相思の男女や、特に情死(=心中)後追い心中などをした男女を2人一緒に葬った塚。めおとづか(夫婦塚/女夫塚)。
※6−1:比翼(ひよく、wings abreast)とは、2羽の鳥(特に雄雌)が互いにその翼を並べること。「―の鳥」「―紋」。

※7:庚申(こうしん)とは、[1].干支の一。(かのえ)(さる)。
 [2].庚申待の略。
 [3].青面金剛の別称。
※7−1:宵庚申(よいこうしん/よいごうしん)とは、庚申待の前夜。庚申青面に参詣する。浄、心中宵庚申「今日は五日―甲子(きのえね)が近い」。
※7−2:庚申待(こうしんまち)とは、庚申の夜、仏家では帝釈天及び青面金剛を、神道では猿田彦を祀って、寝ないで徹夜する習俗。その夜眠ると、人身中に居る三尸が罪を上帝に告げるとも、命を縮めるとも言う。中国の道教の守庚申に由来する禁忌で、平安時代に伝わり、江戸時代に盛行。庚申。庚申会。庚申祭。御申待(おさるまち)。

※8:合縁奇縁/合縁機縁(あいえんきえん、karmic relations)とは、人の交わりには自ずから気心の合う合わないが有るが、それも皆不思議な縁に依るものであるという意。浄、心中宵庚申「人には―、血を分けた親子でも仲の悪いが有るもの」。

※9:岡西惟中(おかにしいちゅう)は、江戸中期の国学者・俳人(1639〜1711)。別号、一時軒など。鳥取の人。西山宗因に就いて俳諧を学び、貞門に対して談林の正統を力説。著「誹諧破邪顕正返答」「近来俳諧風体抄」「清少納言旁註」など。

※10:竹田出雲(たけだいずも)は、浄瑠璃作者。
 [1].(初世)竹本座の座元で作者を兼ねた(?〜1747)。初世竹田近江の子で俳号は奚疑(けいぎ)。宝永2(1705)年から座元として竹本義太夫近松門左衛門の協力体制を強化し竹本座の基盤を築く。作「蘆屋道満大内鑑」など。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 [2].(2世)初世の子、名は清定(1691〜1756)。座元と作者とを兼ね、人形芝居の最盛期を画した。「菅原伝授手習鑑」「義経千本桜」「仮名手本忠臣蔵」などは一代の名作。

※11:仏足石(ぶっそくせき)とは、釈尊の足形を石面に刻んだもの。インドには古くからこれを礼拝する風習が有り、西域から唐を経て奈良時代に日本にも伝わり、各地で模刻された。奈良薬師寺に在るものは長安の普光寺のものを写して753年(天平勝宝5)に造られた現存最古のもの。その傍に仏足石歌碑が在る。仏足跡。仏脚石。

※12:マニ車/摩尼車(まにぐるま)とは、チベット仏教(ラマ教)の寺院に在る、経文を蔵した車。一周回すことで一回経文を唱えたのと同等の功徳が有るとされ、信者はこれを回す。経車
※12−1:摩尼(まに)とは、[1].〔仏〕(梵語 mani、珠・宝・如意と訳す)宝石。宝玉。濁水を清らかにする不思議な働きが有るとされる。如意宝珠
 [2].(Mani)→マニ教(摩尼教)

    (以上出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『上方風俗 大阪の名所図会を読む』(宗政五十緒編、東京堂出版)。

△2:超願寺パンフレット「竹本義太夫の墓」。

●関連リンク
補完ページ(Complementary):人形浄瑠璃成立過程の総論▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
補完ページ(Complementary):本社の生国魂神社▼
生国魂神社と上方芸能(Ikutama shrine and entertainments, Osaka)
地元・足元を見直そう▼
旅は身近な所から(Usual and familiar travels)
庚申信仰の例▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
ラマ教(=チベット仏教)とは▼
2001年・紅葉の中甸(Red leaves of Zhongdian, China, 2001)
「何故か埼玉」について▼
東西三都物語(The 3-cities of east and west)


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