生国魂神社と上方芸能
(Ikutama shrine and entertainments, Osaka)

-- 2004.11.27 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2009.10.07 改訂

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 ■はじめに

 このページの写真は04年に集中的に撮りました。



 地下鉄谷町筋線及び千日前線の谷町九丁目駅から谷町9丁目交差点の南西角の出口に出ると大阪市天王寺区生玉町で、ここから谷町筋を200m弱南に行くと西に参道が在り鳥居が見えます。

 ■生国魂神社

 (1)生玉さん

 生玉町のラブホテル街の真ん中に生国魂神社(生國魂神社)天王寺区生玉町13-9)が東向きに鎮座して居ます(右の写真、鳥居の奥の緑色の屋根の建物が拝殿)。鳥居には丁度、夏の厄除けの為「茅の輪」(※1~※1-2)が飾られて居ますが、「茅の輪」の除厄は蘇民将来伝説(※1-3)に由来するものです。
 先ずは【参考文献】△1と境内の説明板を基にこの神社の由緒から述べましょう。「大阪の歴史は生国魂神社と共に在る」と言っても過言で無いことがお解り戴けるでしょう。

    ++++ 生国魂神社の由緒 ++++
 正式には「生国魂」と書いて「いくくにたま」、通称は「いくたま」で、後年は「生魂」や「生玉」や「活玉」の字も当てられ現町名も生玉町です。
 祭神は生島神・足島神・大物主命。社伝に拠ると神武天皇が難波津に上陸した際に上町台地の突端の「難波の碕」又は「難波の崎」)(※2) -後の石山崎で現在の大阪城北端辺り- に生島神・足島神を祀ったのが創祀で、文献上では『日本書紀』の孝徳紀冒頭に、天皇の事を評して

  仏法を尊び、神道を軽(あなど)りたまふ。生國魂社の樹を切りたまふ類、是なり。

と出て来るのが最初です(△2のp236)。伐採は難波宮造営の為だったのでしょう。
 平安時代の「延喜式神名帳」には摂津国東生郡に「難波坐生國咲國魂神社(なにわにいますいくくにさきくにたまかみやしろ)」二座、と在り式内名神大社です。中世末期の明応5(1496)年に蓮如が生国魂社の隣接地の摂州東生郡生玉庄内ノ大坂に一坊社を建てたという記述が蓮如の明応7年の書簡に出現しますが、これが「大坂」という地名の初出です。この坊社こそ、顕如の時代に一向宗(=浄土真宗)潰しに出た織田信長と石山合戦(1570~80年)を繰り広げた挙句、全て灰塵に帰し歴史の闇に消えた”幻の石山御坊(後の石山本願寺)”です。その要塞の跡地と寺内町を利用する形で豊臣秀吉が1583(天正11)年に大坂城を築城開始し、1585(天正13)年当社は現在地に移転させられました。
 正に「大坂の歴史を背負って来た」と言える神社で、爾来難波の産土神(※4)として江戸時代には「難波大社(なにわのおおやしろ)」と呼ばれ大坂庶民に「生玉さん」と親しまれて、明治には官幣大社に列せられて居ます。
 幾度かの災禍で本殿は1956(昭和31)年に鉄筋コンクリートで再建されたものですが、屋根に見える三破風(千鳥破風・すがり唐破風・千鳥破風)の生国魂造(左の写真)は独特で、秀吉当時の桃山様式を伝えるものです。
 主祭神の生島神・足島神は生島巫(いくしまのかんなぎ)に依って祀られる大八洲(おおやしま)の霊神(国土生成と守護を司る)で、歴代天皇が新都を造営すると先ずこの二神をその地に祀ったという宮中祭祀の神でもあり、今でも天皇即位の際の八十島祭(※6~※6-3)にその名を留めて居ます。この神社が「生命有るもの全ての発展」と「商売繁盛」に御利益が有るとされて居るのも、前者がこの二神に拠り後者は大物主命(=大国主命=ダイコクさん)に拠って居ます。
 境内摂社・末社は皇大神宮/住吉神社/天満宮/浄瑠璃神社/鴫野神社/城方向八幡宮/家造祖神社/鞴神社/稲荷神社/源九郎稲荷神社/精鎮社の11社、行宮(大阪市中央区本町橋)が1社です。
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 ここで『摂津名所図会』(※8)から生国魂神社の図を載せましょう(△3のp266~267)。




 (2)生国魂神社と八十島祭

 「八十島」(※6-1)ですが、現在の大阪市中心部は古代には海だったのですね。その詳細は既に別稿が在るので省きますが、為に古代の大坂は難波江とか難波潟と呼ばれ時代と共に徐々に海退が進み少しずつ陸地が形成されて来た事は史実です、古代大阪の地図を見て下さい。その様な陸地形成の過渡期に、この地は「洲(す)」(※2-1)を形成し「曽根洲(そねす)」と呼ばれたのが地名の起源です。そもそも地名の「そね」 -文字は曽根・曽祢などを当てる- (※2-2)自体に海水中の岩礁の意味が有り(△6のp74)、「洲(す)」とは水流に運ばれた土砂が堆積して水面上に現れた場所を指す語で、その洲や小島が数多く点在した状態を「八十島」と呼んだのです、八十(やそ)は数字の80では無く「数が多い」という意味です。八十島祭の【脚注】※6に在る「国土の生成を謝し」とは、点在する「八十島」の「地固め」をし島々を連ねる祭と解釈出来ます。現代大阪の地図を見て下さい、大阪の地が「洲(す)/八十島」と呼ばれ段々堆積して形成された事が判ると思います。










 (3)生国魂神社のユニークな摂社/末社群

 或る程度の格式の神社には大抵境内に摂社(※9)や末社(※9-1)が在り、稲荷神社などは良く見掛ける境内社の代表で、他に隣村の郷社の廃社で合祀されて末社化する場合などが有りますが、生国魂神社にはユニークな摂社/末社が多いのでそれらを中心に紹介します。又、前述した様に本社が東向きの為に一部の例外を除き境内社も殆ど東向きです。以下は【参考文献】△1を参照して居ます。

    ◆浄瑠璃神社

 生国魂神社の境内摂社の中で最もユニークなのがこの浄瑠璃神社です。右が浄瑠璃神社の鳥居と拝殿です。
 人形浄瑠璃は上方文化の結実であり、祭神は音律和調霊神文楽先覚諸霊神と在ります。後者は人形浄瑠璃関係の先覚者達を合わせ祀った浄瑠璃七功神ですが、後述の様に生国魂神社は上方の芸能や文化の発祥に深く関わりが有る為、広く「芸能一般の上達の神様」として信仰を集めて居ます。例祭日は春分・秋分の日。1876(明治9)年人形浄瑠璃関係者に依って創建されました。

 尚、浄瑠璃神社については「[人形浄瑠璃巡り#1]浄瑠璃神社」の中で詳述して居ますので、そちらも参照して下さい。

    ◆鴫野神社

 大阪城の北の今のOBP(大阪ビジネスパーク、大阪市中央区城見1、2丁目)辺りには、嘗て弁天島と呼ばれ鴫野弁財天が在りました。この弁天社は淀君の尊崇篤く、後に弁天社の隣に「淀姫社」が祀られ女性の守護神として毎月「巳の日」を縁日として居たことから「巳(みい)さん」と呼ばれ親しまれて居たそうですが、用地買収に伴ない大阪城に縁の深い当社に移されました。祭神は市寸島比賣命・大宮賣神・淀姫神で、「心願成就の絵馬」を奉納出来ます。例祭日は4月の10日と上巳の日で、毎月の巳の日が縁日です。
 OBPの東隣は城東区鴫野西、鴫野東で「鴫野」の地名が残って居ます。又、大阪城公園の今の桃園の近くには平野川に架かる新鴫野橋が在ります。

    ◆城方向(きたむき)八幡宮

 正式には城方向(きたむき)と書きますが通常は北向とも書きます。武道の神とされる八幡神を大阪城鬼門の守護の為に蓮池近く(現在の生玉公園内)に北向に祀って居たのを境内に移したもので、主祭神は誉田別命(=応神天皇)・気長足媛命(=神功皇后)・玉依比賣命。例際日は御弓神事(1月13日)走馬神事(5月5日)で、嘗ては射術流鏑馬(やぶさめ)(※11)が催され、『摂津名所図会』にも流鏑馬の図が載って居ます(△3のp268~269)。
 しかし、この図は凄い。殆ど後ろ向きで、これはパルティアン・ショット(※11-1)に近いですね!




    ◆家造祖(やづくりみおや)神社

 祭神は手置帆負神彦若狭知神で、「土木建築業界や家の起工時の神様」とされて居ます。例祭日は4月11日。

    ◆鞴神社

 鞴(ふいご)(※12~※12-2)とは金属の精錬に用いる送風器の事です。

 祭神は天目一箇神(又は天目一命)(※12-3)・石凝杼売神(※12-4~※12-5)・迦具土神(※12-6)。
 ここで天目一箇神は鍛冶の神、石凝杼売神(又は石凝姥命)は元々は、天照大神が天の岩戸に隠れた時にを作った神で鏡作部(かがみつくりべ)の遠祖であり、その様な神が全部で5つ在り五部神(いつとものおのかみ)(※12-5)と言い、ここでは鋳物の神です。迦具土神は火の神です。
 鞴に代表される「金物業界の神」「家庭内の釜土の神」とされて居ます。例際日の11月8日は全国的な鞴祭(※12-1~※12-2)の日で「刀剣鍛錬神事」が行われます。右が鞴神社の本殿です。
 尚、天目一箇神は一つ目の「鍛冶の神」ですが、「鍛冶の神」について興味有る方は▼下のページ▼をご覧下さい。
  鍛冶の神-ギリシャと日本の神話の類似(God of blacksmith, resemblance of myth of Greece and Japan)
    {このリンクは08年8月6日に追加}

    ◆精鎮(せいちん)社

 嘗て表参道蓮池に祀られて居た弁財天社を明治初年に現在名に改称して移したもので、祭神は事代主神(=戎神)比咩大神(=弁天)で漁師や魚商人や釣り愛好家の信仰が篤く、例祭日は4月7日と10月1日。
 精鎮社の前には池が掘られ右の写真の様な大きな錦鯉が沢山泳いで居ます(池の上にはビニールの覆いが掛けて在りました)。
              ◇◆◇◆◇

 他に境内施設として「玉秀菴」(茶室)や「参集殿」(洋室)が在ります。

 ■生国魂神社と上方文化

 以上の様に、この神社は難波の産土神を祀り大坂の人々は往古から何か事が有るとこの神社に願を懸け、芸能者も願懸けを兼ねてこの神社で芸を披露するのが習わしの様に成って居ました。井原西鶴(※14)が一日に4千句もの独吟(矢数俳諧)をしたのがこの神社の境内の南坊で、太平記読みや漫才師などが大道芸をしたり、人形遣いが生玉人形を売ったり、近松門左衛門(※15)の大ヒット作『曾根崎心中』の主人公「お初と徳兵衛」が出会ったのもここ、更に京都で露の五郎兵衛(※17)に依って始められた大坂落語を米澤彦八(※18)が大坂に広めたのもこの神社の境内です。
 特に「日本の近代小説の祖」と言われる西鶴と「日本のシェークスピア」と言われる近松がほぼ同時代にこの神社を舞台に活躍して居たという点で、生国魂神社は上方芸能のみならず日本の近代文学の黎明に大きな影響を齎(もたら)した神社と言えるでしょう。
 そんな訳で近年、嘗ての南坊跡には井原西鶴の坐像(左下の写真)が、社務所と拝殿の間には大坂落語発祥の地を顕彰する為に米澤彦八の碑(右下の写真)が建てられました。


 又、芭蕉の句碑(左の写真、後ろの金属板が句碑で前のは説明板)も在り、松尾芭蕉(※19)も最晩年の元禄7(1694)年9月9日の「重陽の節句」(=「菊の節句」)に奈良からここを訪れ

  菊に出て
   奈良と難波は
    宵月夜


という句を残して居ます(△5のp302)。
 芭蕉はこの年の11月12日に南御堂近くの花屋仁左衛門宅で枯野の土(※19-1)に成りました(△7のp36、138)。

 最後に、同名の生国魂神社は奈良県橿原市大久保町に1社在ります。橿原市と言えば神武天皇陵(橿原市大久保町)や神武天皇を祀った橿原神宮(橿原市畝傍町)が在る所で、この社は陵墓の東300m位の地点に建ち、やはり神武天皇との深い繋がりを窺わせます。
 生島神・足島神を祀った神社としては長野県の生島足島神社(上田市下之郷)が有名で、ここの社殿は大地そのものを神として祀る為、本殿に床板が無い特異な構造をして居ます。

 ■生国魂神社周辺の風景

 (1)真言坂

 さて、上の芭蕉の句碑の写真の背後の生国魂神社の赤門(北門) -朱塗りの鳥居が在る- を出ると境内の敷地に沿って西に下るのが生玉北門坂(左下の写真)で、千日前通りと並行する生国魂神社の裏参道です。この坂を下って行くとやがて右に折れ松屋町筋と千日前通りの交差点に斜めに交わり、そこに石鳥居が在ります。
 ところで北門の両脇の2基の石灯籠天満八軒家船着場に立てられた物を移して来たものだそうです。石灯籠の台座には右下の写真の様に「萬延元年庚申 神楽月吉日建」と刻まれて居ます。


 北門から真っ直ぐに北に伸びる石畳の道が真言坂(左の写真、下り坂です)で天王寺七坂の一つです。写真の右に映っている説明用立て札に拠ると、生国魂神社の神宮寺であった法案寺を始めとする生玉十坊が明治の廃仏毀釈迄は神社周辺に存在し、神社北のこの坂近辺にはその内の6坊(医王院・観音院・桜本院・新蔵院・遍照院・曼陀羅院)が在り全て真言宗であったことが名称の由来です。

 写真には写って居ませんが、立て札の向かいのマンションの敷地の中に「右京道 天保十五年」の道標が立って居ます。今でこそ千日前通り迄の僅か60m位の短い坂道ですが、明治末期迄は高津神社参道に続き、そこから八軒家(右上の写真の石灯籠が元在った所)を経て京街道に通じて居ました。

 右は『摂津名所図会』から真言坂の図です(△3のp272~273)。

 天王寺七坂を散歩したい方は▼下のページ▼をご覧下さい。
  天王寺七坂漫ろ歩き(The 7 Slopes of Tennoji, Osaka)

 (2)ラブホテル街の中の幼稚園

 今では生国魂神社周辺は一大ラブホテル街で、左下の写真は生玉北門坂の東部に犇(ひし)めくラブホテル群です。一説に拠ると、嘗ての生玉十坊がラブホテルから地代を受け取っている、と生臭い勘繰りをする向きも有る様です、ムッフッフ!
 神社東に伸びる表参道近くには大阪市立生魂幼稚園(右下の写真)が在り、園児たちは幼い時から”人生の真実(まこと)”を横目で見遣り乍ら逞しく育って居る様で、将来が楽しみです!!
 そう言えば台湾でも”イヤラシ系”喫茶店の直ぐ前に託児所が在りましたっけね。いやいや、松島でも飛田でも吉原でも、風俗地区の”マン中”幼稚園保育園託児所を私は見出して居まっせ!!{飛田・吉原へのリンクは09年10月7日に追加}


 (4)生玉公園



 さて、上の説明でも何度か出て来た嘗ての生国魂神社の蓮池は現在は生玉公園に成って居ますが、この公園化事業が”訳有り”です。どう”訳有り”かは、この生玉公園のソフトボール場の奥へ進み、狭くて曲がった名も無い坂(左下の写真、梢の背後に青テントが見えて居ます)を降りて行くと解ります。しかしここは薄暗くしかもプー太郎のオッサンのテントで占拠されて居ますので、ここを通る人は殆ど居ません。
 しかし、そこを敢えて降りて行くと坂の途中の少し広い空き地に「生玉公園地下壕」の石碑(右下の写真)が立って居ます。

 この石碑は1996年に大阪府と大阪市が建設しました。

 石碑の文面を要約すると、生玉の公園化事業は太平洋戦争前の1940年5月に着工され太平洋戦争最中の1942年5月に開園しました。しかし同時に空襲避難用の「都市防空壕」が大阪市に依って建設され、後に陸軍に専用されました。戦後の米国調査団の報告では当時”一般には入手不可能な資材”で建設された「特別防空壕」とされて居ますが、詳しい用途は不明です。地下壕建設の労働には強制連行された朝鮮人が徴用された様です。
 内部の構造はアーチ状で無筋コンクリート造りの2階建て(当時日本は「鉄」不足)で、幅約9m、長さ約24m、高さ約6.5mだったそうで、可なり広い空間です。
 今では地下壕跡の入口はセメントで塗固められ、外に突き出た通気孔だけが僅かな遺物ですが、これも今は忘れられた存在です。




 ■結び - 地元の風情を楽しむゆとり





φ-- おしまい --ψ

【脚注】
※1:茅の輪(ちのわ)は、六月祓(みなづきのはらえ)に用いる、チガヤを紙で包み束ねて輪の形に作ったもの。これを潜って身を祓い清める。すがぬき。
 六月祓(又は水無月祓)は夏越祓(なごしのはらえ)の別称。六月祓晦大祓(みなづきつごもりのおおはらえ)。季語は夏。
※1-1:夏越祓(なごしのはらえ)は毎年6月晦日に行われる大祓の神事。神社では参詣人に茅の輪を潜らせて祓い浄める。邪神を和(なご)める為に行うから名付けた。夏祓、夏越の御禊(なごしのみそぎ)、輪越祭。
※1-2:チガヤ(茅・白茅)は、イネ科の多年草。原野に普通。高さ約60cm。地下茎は横走して群落を作る。春、葉より先に、軟らかい銀毛の有る花穂を付ける。穂を「つばな」「ちばな」と言い強壮薬とし、又、古くは成熟した穂で火口(ほくち)を作った。茎葉は屋根などを葺くのに用いた。しげちがや。ち。万葉集16「あめなるやささらのをのに―刈り」。
※1-3:蘇民将来(そみんしょうらい)とは、[1].疫病除けの神の名。備後風土記の、徳を施した蘇民将来という人物の子孫が茅の輪を腰に着けて疫病を免れた説話から、後に神に転じた。
 [2].護符の一。木製の六角又は八角で塔状を成すものや守札が在り、「大福長者蘇民将来子孫人也」などと記す。八坂神社末社や長野県上田市国分寺の八日堂を始め諸国寺院から出す。



※2:崎/碕(さき)とは、((さき)の意)[1].cape。陸地が海や湖に突き出た先端。岬(みさき)。
 [2].spur。山が突き出た先端。万葉集20「丘の―い廻(た)むるごとに」。
※2-1:洲/州(す、sand bar)とは、水流に運ばれた土砂が堆積して、河川・湖海の水面上に現れた所。砂洲(さす)。
※2-2:「そね」とは、多く曽根/曽祢/曾禰などの字を当てる。
 [1].(畝(うね)、尾根(おね)から)低く長く続いた高まり尾根状の地形。又、海中の暗礁をも言う。
 [2].(石根(いそね)の略)石混じりの痩せ地。埆(そね)。〈新撰字鏡5〉。



※4:産土神/生土神(うぶすながみ)は、生れた土地の守り神。近世以後、氏神・鎮守の神と同義に成る。

※6:八十島祭(やそしままつり)とは、大嘗祭の翌年、吉日を選び、勅使を摂津の難波に遣わし、住吉神・大依羅神(おおよさみのかみ)・海神・垂水神(たるみのかみ)・住道神(すむじのかみ)などを祀って、国土の生成を謝し、治世の安泰を祈る儀式。嘉祥3年(850)~元仁1(1224)迄行われた。八十島神祭。
※6-1:八十島(やそしま)とは、[1].多くの島。万葉集20「又更に―すぎて別れか行かむ」。
 [2].八十島祭の略。台記「―、大納言典侍出京」。
※6-2:大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神及び天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)と言い、神に供える新穀は予め卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇は先ず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。おおなめまつり。おおにえまつり。おおんべのまつり。
※6-3:新嘗祭(にいなめさい)は、天皇が新穀を天神地祇に勧め、又、親しくこれを食する祭儀。古くは旧暦11月の中の卯の日に行われた。近時は11月23日に行われ、祭日の一とされたが、現制ではこの日を「勤労感謝の日」として国民の祝日に加えた。天皇の即位後に初めて行うものを大嘗祭と言う。にいなめまつり。しんじょうさい。










※8:摂津名所図会(せっつめいしょずえ)は、秋里籬島著、竹原信繁他画に依り寛政8~10(1796~98)年に発刊された。




※9:摂社は、本社に付属し本社に縁故の深い神を祀った神社の称。本社と末社との間に位し、本社の境内に在るものと境外に在るものとが在る。
※9-1:末社は、本社に付属する小さい神社。えだみや。




※11:流鏑馬(やぶさめ、horseback archery)は、騎射の一種。馬上で矢継ぎ早に射る練習として、馳せながら鏑矢(かぶらや)で的を射る射技。的は方板を串に挿んで3所に立て一人各々3的(みつまと)を射る。平安末期から鎌倉時代に武士の間で盛行。現在は、神社などで儀式として挙行。三的。
※11-1:騎射(きしゃ、shooting on horseback)とは、騎馬で行う射術。古代、5月5日に朝廷で行われた馬弓(うまゆみ)や、武家で行われた犬追物(いぬおうもの)・笠懸(かさがけ)・流鏑馬(やぶさめ)の類。外国では、特にパルティア軍が用いたパルティアン・ショット(Parthian shot)と呼ばれる後ろ向き騎射法は有名。←→歩射(ぶしゃ)







※12:鞴/韛/吹子(ふいご)は、(フキガワ(吹皮)から転じた「ふいごう」の約)金属の熱処理や精錬に用いる送風器。日本では、把手(とって)を手で押し、又は引いて、長方形の箱の内に気密に取り付けた板状ピストンを往復させて風を押し出すもの(箱鞴の一種。吹差し鞴とも)、風琴に似た構造を持ち、足で踏むもの(足踏み鞴)などが在る。大型の足踏み鞴踏鞴(たたら)と呼ばれる。吹皮(ふきがわ)。浄、用明天王職人鑑「―吹く鍛冶屋のてこの衆」。
※12-1:鞴祭(ふいごまつり)は、旧暦11月8日に、鍛冶屋/鋳物師など常に鞴(ふいご)を使う者が行う祭。祭神は、金屋子神(かなやごがみ)或いは稲荷神踏鞴祭(たたらまつり)。
※12-2:金屋子神(かなやごがみ)は、踏鞴師/鍛冶師/鋳物師などの信ずる職業神。鉄の神/火の神と言われ、鞴祭(ふいごまつり)の祭神。特に中国地方に多い
※12-3:天目一命(あまのまひとつのみこと)/天目一箇神(あまのまひとつのかみ)は、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、刀・斧など、祭器を作ったという神。後世、金工・鍛冶の祖神とする。天津麻羅(あまつまら)。
※12-4:石凝姥命/伊斯許理度売命(いしこりどめのみこと)は、記紀神話で天糠戸神(あまのあらとのかみ)の子。天照大神が天の岩戸に隠れた時、を作った神。鏡作部(かがみつくりべ)の遠祖とする。五部神(いつとものおのかみ)の一。
※12-5:五部神/五伴緒神(いつとものおのかみ)とは、日本神話で天孫である瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に従ってこの国に降った五神天児屋根命(あまのこやねのみこと)・太玉命(ふとたまのみこと)・天鈿女命(あまのうずめのみこと)・石凝姥命(いしこりどめのみこと)・玉祖命(たまのおやのみこと)の総称。
 補足すると、五部神はそれぞれ下記の
  天児屋根命:中臣藤原氏の祖
  太玉命  :忌部氏(斎部氏)の祖
  天鈿女命 :猿女君(さるめのきみ)の祖
  石凝姥命 :鏡作部(かがみつくりべ)の祖
  玉祖命  :玉造部(たまつくりべ)の祖
5つの氏族や品部の祖神とされる。
※12-6:[火之]迦具土神([ひの]かぐつちのかみ)は、記紀神話で、伊弉諾・伊弉冉2尊の子。火を司る神誕生の際、母を焼死させた為、父に切り殺される火産霊神(ほむすびのかみ)。











※14:井原西鶴(いはらさいかく)は、江戸前期の浮世草子作者・俳人(1642~1693)。本名、平山藤五。大坂の人。西山宗因の門に入って談林風を学び、矢数俳諧で一昼夜2万3千5百句の記録を立て、オランダ西鶴と異名された。師の没後、浮世草子を作る。作品は良く雅俗語を折衷、物語の伝統を破って、性欲・物欲に支配されて行く人間性を生き生きと見せ、元禄前後の享楽世界を描いた好色物、義理堅い武士気質を写した武家物、町人の経済生活を描いた町人物などに特色が有る。作「好色一代男」「好色一代女」「好色五人女」「武道伝来記」「日本永代蔵」「世間胸算用」「西鶴諸国ばなし」「本朝二十不孝」「西鶴織留」、俳諧に「大句数」「西鶴大矢数」など。





※15:近松門左衛門(ちかまつもんざえもん)は、江戸中期の浄瑠璃・歌舞伎脚本作者(1653~1724)。本名、杉森信盛。平安堂・巣林子(そうりんし)などと号。越前の人。歌舞伎では坂田藤十郎と、浄瑠璃では竹本義太夫と提携。竹本座の座付作者狂言本二十数編、浄瑠璃百数十曲を作り、義理人情の葛藤を題材に人の心の美しさを描いた。作「出世景清」「国性爺合戦」「曾根崎心中」「心中天網島」「女殺油地獄」「けいせい仏の原」など。




※17:露の五郎兵衛(つゆのごろべえ)は、江戸前期の落語家(1643?~1703)。京都の人。上方落語の祖。作「露がはなし」「軽口あられ酒」など。



※18:米澤彦八(よねざわひこはち)は、江戸期の落語家で4代を数える。初代(?~1714)は大坂落語の祖



※19:松尾芭蕉(まつおばしょう)は、江戸前期の俳人(1644~1694)。名は宗房。号は「はせを」と自署。別号、桃青・泊船堂・釣月庵・風羅坊など。伊賀上野に生れ、藤堂良精の子良忠(俳号、蝉吟)の近習と成り、俳諧に志した。一時京都に在り北村季吟にも師事、後に江戸に下り水道工事などに従事したが、やがて深川の芭蕉庵に移り、談林の俳風を超えて俳諧に高い文芸性を賦与し、蕉風を創始。その間各地を旅して多くの名句と紀行文を残し、難波の旅舎に没。句は「俳諧七部集」などに結集、主な紀行・日記に「野ざらし紀行」「笈の小文」「更科紀行」「奥の細道」「嵯峨日記」などが在る。
※19-1:花屋仁左衛門宅が在った場所は現在の中央区久太郎町3丁目で、御堂筋東側の植え込み内に「伝芭蕉終焉地」の石碑が立ち、向かいの南御堂には

  旅に病で 夢は枯野を かけ廻る

を刻んだ芭蕉辞世の句碑が立って居ます。




    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:生国魂神社社務所発行の由緒書「難波大社 生國魂神社略誌」。生国魂神社は03年頃から社殿や境内を整備して居て、由緒書も以前に比べ各段に進歩しました。

△2:『日本書紀(四)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。

△3:『摂津名所図会 上巻』(秋里籬島著、原田幹校訂、古典籍刊行会)。



△5:『芭蕉俳句集』(松尾芭蕉著、中村俊定校注、岩波文庫)。

△7:『カラーブックス 大阪歴史散策』(大谷晃一著、保育社)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):古代大阪の地図▼
地図-日本・大阪の河内地方(Map of Kawachi country, Osaka -Japan-)
参照ページ(Reference-Page):現代大阪の地図▼
地図-日本・淀川、桜之宮と大阪城
(Map of Yodo-river, Sakuranomiya, and Osaka castle, Osaka -Japan-)



補完ページ(Complementary):浄瑠璃神社の詳細▼
[人形浄瑠璃巡り#1]浄瑠璃神社([Puppet Joruri 1] Joruri shrine, Osaka)
補完ページ(Complementary):天王寺七坂の詳細▼
天王寺七坂漫ろ歩き(The 7 Slopes of Tennoji, Osaka)

延喜式神名帳について▼
2004年・出雲大神宮の御蔭山(Mikage-yama, Kyoto, 2004)

人形浄瑠璃成立過程の総論▼
人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)



大阪城の夜景(新鴫野橋の上から撮りました)▼
黄昏の淀川~大阪城(Twilight scene from Yodo-river to Osaka castle)


パルティアン・ショットとは▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)

一つ目の「鍛冶の神」について▼
鍛冶の神-ギリシャと日本の神話の類似
(God of blacksmith, resemblance of myth of Greece and Japan)




”イヤラシ系”の”マン中”には託児所が在る▼
2004年・台湾”味試し”旅(Let's banquet and sing in Taiwan, 2004)
旧松島遊郭の保育所▼
浪速八百八橋(808 bridges of Naniwa, Osaka)
旧飛田遊郭の保育所▼
飛田新地(Tobita is quaint red-light district, Osaka)

旧吉原遊郭の保育所▼
吉原慕情-宴の後で(Longing for Yoshiwara, after the banquet, Tokyo)

「地元の風情を楽しむゆとり」の心▼
旅は身近な所から(Usual and familiar travels)














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