§.鍛冶の神-ギリシャと日本の神話の類似
[]
(God of blacksmith, resemblance of myth
of Greece and Japan)

-- 2008.04.01 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2008.08.06 改訂

 ■はじめに - 鍛冶の神
 私は前から不思議に思って居た事が在ります。先ず、その事(=疑問)を提示しましょう。

    ++++ 鍛冶の神 - ギリシャ神話と日本神話の類似 ++++
 鍛冶の神は日本神話では天目一箇神(又は天目一命)(※1)で名前から解る通り一つ目の神なのです。
 一方、ギリシャ神話(※2、※2-1)では「火と鍛冶の神」ヘパイストス(※5)で、彼は生まれつき体が捩じれて醜かったので母親ヘラから嫌われ遂にオリュンポスの山(※5-1)から投げ捨てられた為に跛(びっこ)に成りました(△2のp223)。そしてヘパイストスの弟子がキュクロプス(※5-2)という生まれ乍らの独眼の巨人 -キュクロプスは複数居る(△2のp93)- で、今では神の鍛冶師と考えられて居ます。
 日本神話の鍛冶の神は一つ目(或いは独眼隻眼)か跛(びっこ)とされて居て、その様な話が各地に在るのです。ギリシャ神話と日本神話の類似は実に不思議な事です。
    -------------------------------


 今迄はこの疑問に”フタ”をして -「臭いものに蓋をする」という諺通りに- 来ましたが、この疑問にチャレンジして見たく成りました。と言っても、この疑問を解くことは難しいのですが今迄私が触れた文献を総動員して疑問を払拭したいと思って居ます。何故そう思ったか、と言うと「雲南回帰の旅」を終えて今が色々な事が一段落して多少ヒマが出来たからです。{この段のリンクは08年6月4日に追加}
 そこでギリシャ神話が日本に伝わったという前提(或いは仮説) -その逆に日本神話がギリシャに伝わったという前提には私は立ちません!- に立って、この問題を考えてみる事にします、一つ目跛(びっこ)鍛冶に注意し乍ら。そかし読者の皆さんは多分退屈されると思いますが、アッハッハッハ!!
 尚、当ページは横書きなので引用文の漢数字はアラビア数字に変換しました。

 ■鍛冶の神/一つ目/跛(びっこ)
    - ギリシャ神話が日本に伝わったという仮説の証明

 (1)『元朝秘史』が伝える成吉思汗神話
 ここで文献に当たらなくては為りませんが、やはり『元朝秘史』(※7) -原文はモンゴル語、13世紀中期- です。モンゴル族(※10~※10-2)は典型的な遊牧民族(※12)で、遊牧民族は同時に騎馬民族(※12-1)である事が多いですが、モンゴル族も典型的な騎馬民族です。
 モンゴルの地図は▼下▼を参照して下さい。
  地図-モンゴル国と中国の内蒙古(Map of Mongolia and Neimenggu, -Mongolia, China-)
 色々な民族については▼下▼を参照して下さい。
  資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)

 『元朝秘史』はこう始まります、即ちチンギス合罕(※7-1、※7-2)の根源は、上なる天神(※14)よりの命運を以って生まれた「蒼い狼」であった。その妻は淡紅色の牝鹿であった。」(△4の上のp13)と。ここで合罕(かはん)汗(かん)(※7-2)と同じです。天神(濁らず「てんしん」)とは、モンゴル語の「テングリ」(△7のp35)の事で「天の神」或いは「天そのもの」を意味します。決してこれを菅原道真の天神(濁って「てんじん」)とは大いに異なるのです。『元朝秘史』(以下は『秘史』と略す)は初っ端から極めて大事な事を述べて居ます。
 第1は、天神(てんしん)という言葉から解る通り、これは「天降り型」の神話の形を取って居ますが、詳細は後に回します。
 第2は、狼始祖伝説です。即ちチンギス合罕(=成吉思汗)「蒼い狼」「蒼き狼」(牡狼)を始祖にしているという有名な逸話はここから出ている訳で、一躍『秘史』を有名にした箇所ですが、これも詳細は後に回します

 我々は『秘史』を読み進めましょう。「蒼い狼」(初代)から生まれたのがバタチカン(男、2代)です(△4の上のp13)。飛んで12代目はドブン・メルゲン(男)とアラン・ゴア(女)という夫婦(△4の下のp297)で、ドブン・メルゲンにはドワ・ソコルという「額の真中に唯一つの目」を持った千里眼の兄が居り(△4の上のp14)、これが一つ目です。しかしドワ・ソコルが亡くなると4人の子達はドブン・メルゲンを離れドルベン人衆に成りました(△4の上のp16)。
 アラン・ゴアは夫との間に2人の子を儲け夫のドブン・メルゲンは死にます。それなのにアラン・ゴアは更に3人の子を儲けます。これを怪しんだ息子たちにアラン・ゴアは5人の子を並ばせ、1本ずつの矢を与えた。母親が「折りなさい。」と言うと「たちどころに折り捨て」ました。今度は5本の矢柄の束にして与えると「折ることは出来なかった」のです。そこで母親は子が出来た訳を話します。それに拠れば「夜ごとに、白黄色の人、家の天窓、戸口の上窓の明るみの光にのりて入り来たりわが腹を撫ぜ、その光、わが腹にしみ入るなり。出ていく時は、日・月の出入のはざまに、黄色の犬の如く這い出ずるなり。ざれ言をいかで口にすなる、汝等は。それをもって査察すれば、その示すところは、天つ子なるぞ。黒い頭をもつ人と比して、いかに語るや、汝等。彼等が普(あまね)き帝王達とならば、下々の者は、そこではじめて覚るなるぞ。...<中略>...汝等、5人のわが子達は唯一つの腹より生まれたり。汝等は、さきの5本の矢柄の如く、ひとりひとりにてあらば、あの1本ずつの矢柄の如く誰にもたやすく折られなん汝等。かの束になりし矢柄の如く共に一つのをもちてあらば、誰にもたやすくいかで折らるべきや。」と諭してアラン・ゴアは亡くなります(△4の上のp20~21)。そして5人の子供の末子ポドンチャル -愚弱なり」と言われた子(△4の上のp21)- が13代目を継ぎ、この系統から23代目(△4の下のp301)のテムジン(=テムヂン)(後のチンギス合罕(=成吉思汗))が生まれます。
 『秘史』はテムヂンという名を付けた事を「タタル族のテムヂン・ウゲを連れ来たりし時に生まれたりと云ってテムヂンという名を与えたのは、こういう事情であった。」と記して居ます(△4の上のp37)。タタル族(=タタール族)はモンゴル族の敵で、父親のイェスゲイ・バアトゥルがテムヂン・ウゲを捕虜にし戻って来た時に妻のホエルン夫人がテムジンを生んだのです。こうして見ると、アラン・ゴアの箇所が成吉思汗誕生譚のピークで、作者の並々ならぬ創作が見て取れます。

 第3、アラン・ゴアの「五本の矢」の話は皆さんも御存知の様に日本の戦国武将の毛利元就の「三本の矢」の話とそっくり同じです。実はこの話の原型は『イソップ物語』(※15、※15-1) -これもギリシャイソップ(或いはアイソポス)は紀元前6世紀の人です!- なのです。『イソップ寓話集』では「百姓の息子たち」(△9のp79)、『伊曾保物語』では「三人よき仲の事」(△9-1のp187~189)という題で載って居ます。しかも『伊曾保物語』の補注を見ると「プルタルコスの「饒舌について」にすでに見え、ハイトン『東国史』の成吉思汗の条、...<中略>...バートン版『アラビア夜話』補遺の部、仏典『賢愚因縁経』『雑宝蔵経』のほか、類似話は十指に及ぶという。」と書いて在ります(△9-1のp314~315)。中でも「ハイトン『東国史』の成吉思汗の条」は正しく『秘史』の部分と一致する訳で『秘史』の作者(不詳)はそれを参考にしたと言えます。
 第4は、光がアラン・ゴアの腹に染み入り感精し子が出来るという話は朝鮮の神話などに出て来ます。そしてアラン・ゴアはそれ以降は神憑り子孫を「天つ子」とか「帝王」と呼び、早くも成吉思汗の誕生を予感させ自らは預言者的シャーマン的(※21)に成って行きます。
 実はアラン・ゴアは「コリ・トゥマドの地なるアリク・ウスンにてコリラルタイ・メルゲンの妻バルグヂン・ゴアから生まれたアラン・ゴアという名の乙女が彼女である。」と在り、続いて「コリラルタイ・メルゲンはコリ・トゥマドの地で、黒貂・栗鼠など狩の獲物を得る生活、即ち狩猟民族(※12-2)なのです(△4の上のp15)。別の文献にも「要するにジンギス・カンは、遊牧民たるモンゴル部ではなく、別の北方森林の狩猟民族出身の女性をその祖先としていることになる。アラン・コアはまた有名な女巫者でもあった。」と在ります(△11のp64)。「女巫者」とは卑弥呼の様なシャーマンの事で、この頃のモンゴル族はシャーマニズム(※21-1)が主流でした(→後出)。
 第5は、アラン・ゴアの末子ポドンチャル「愚弱」と言われて居たにも関わらず13代目を継いだ背景には末子相続(※7-3)が窺えます。但し、テムジンはホエルン夫人との間の4男1女の長男で、先妻との間に2人居ます(△4の上のp37、△4の下のp301)。

 (2)成吉思汗即位譚
 誕生譚に続いて成吉思汗即位譚が続きます。「クレルグ山の中のセングル川のカラ・ヂュルゲンのココ・ナウルに於いてチンギス合罕に即位しました(△4の上のp115~116)。右の図が成吉思汗です(△4の下の表紙より)。ここは訳注に拠ると「テムヂン一家の生活の根拠地」ココ・ナウルは「青い湖」です(△4の上のp131、p70)。
 史実では即位が1206年(※7-1)の事とされて居ます。
 第6として、誕生譚及び即位譚には一つ目跛(びっこ)鍛冶については『秘史』はドワ・ソコルの一つ目を伝えているのみで鍛冶については全く出て来ません。

 (3)テムジンの父イェスゲイ・バアトゥルは略奪婚
 ところで、『秘史』は「タタル族のテムヂン・ウゲを連れ来たりし時に生まれたりと云ってテムヂンという名を与えたのは、こういう事情であった。」と記して居ます(△4の上のp37)が、これはどういう事なのでしょうか?
 テムヂン・ウゲは敵方の将軍で捕虜に成った男で、その男の名を貰って将来の成吉思汗に名付けたなどは日本なら考え難い事です。これには当時のモンゴルの習俗を知る必要が有ります。別の本には「当時のモンゴルの遊牧民たちのやり方は...<中略>...すべて弱肉強食の獣のやり方そのままである。」と在り(△11のp52)、結婚とは略奪婚(※7-4)で略奪婚とは、明らかに力ずくの結婚である。」と在ります(△11のp69)。その背景には自然環境の厳しさに加え、獣に成らざるを得ない遊牧民族間の熾烈な「下克上」が在ったのです(→後で又触れます)。

 テムヂンの母ホエルン夫人が妊娠したのは正に略奪婚なのです。『秘史』は生々しく伝えて居ます、即ち「その頃、イェスゲイ・バアトゥルはオナン河の畔で鷹を放っている時、メルキド族のイェケ・チレドがオルクヌウド人衆から娘を娶り出立して来るのに遭って、うかがい見れば、容貌の佳き女性を見て、己が家に奔(はし)りかえり、己が兄ネクン・タイズ、己が弟ダリタイ・オドチギンを連れてもどって来た。」と在ります(△4の上のp33~34)。訳注に在る様に「容貌の佳き女性」がホエルン夫人です(△4の上のp48)。「チレドは山鼻を一廻りして帰り、己が車にもどって来ると、その時ホエルン夫人が言うのに「かの3人の人々を気づきたるや汝。尋常(つね)の顔面(かお)にてあらず。汝の命に及ぶ顔面なり。汝の命だにあらば、車の前室ごとに乙女等あり。黒き枠の前室ごとに女人等あり。汝の命だにあらば、乙女、女人を得るものぞ、汝。他なる名もてるを、ホエルンとぞ名づけるものぞ、汝。己が命をいとえ、わが香りをかぎて行け。」と言って己が肌衣(はだぎぬ)を脱いだのを、チレドが馬上から身をのり出して取ると、早くもかの3人とも山鼻をまわり迫って来た。チレドは足早き淡黄馬の後腿を打って蒼惶(そうこう)として、オナン河をさか上って逃走した。」と在るのです(△4の上のp34)。これは正に略奪婚の場面描写です。
 そしてイェスゲイは略奪妻のホエルン夫人が子を産んだ時、「こういった命名法はモンゴルの古くからの習慣で、女性が児を産むと、彼女が最初に目にしたものとか、そのとき起こった特別の事件などに因んで、子に命名するのが習わしだった。」(△11のp67)ので、偶々その時に捕虜に成ったタタール族の敵将テムヂン・ウゲの名を付けたという訳です。しかし「チレドゥが彼(=テムヂン)の父親だったという可能性は決してゼロではない。」のです(△11のp69)。

 (4)テムジンの意味
 一方、テムヂン(=テムジン)という名は「トルコ語で鍛冶屋をあらわすテムルジがなまったもので、かれはもともと鍛冶を業としていたのだ」という説が広まって居ます(△7のp125)。テムジンの漢字表記が鉄木真というのも意味深です、何故なら「鉄」の字が含まれて居るからです。

 それはどうやらイル・カン国のラシード・ウッディーンがペルシャ語で著した『集史』(14世紀初め)に拠ると思われます、即ち「彼らは、かつてを作っていた場所を発見した。そこで、多数の薪と炭を用意すると共に、70頭の牛馬を殺して皮をはいで皮袋製のふいごを作った。山の斜面の下に薪と炭を積み上げ、70のふいごで風を送り、強い火を起こして鉄山を溶かした。多量の鉄が得られ、同時に通り道ができた。彼らはその狭い道を通って移動して行った。チンギス・ハーンの一族はこの故事を忘れず、毎年、元旦の夜ふいごと炉と炭を用意し、鉄片を熱して鉄敷の上にのせ、槌でたたいてそれを延ばし、遠い昔の脱出行をしのぶと言う。」と在ります(△12のp155、△7のp42~43)。とかふいご(鞴)(※1-1)という言葉から鍛冶は連想出来ます。
 ここでは一先ずここで終わります、この問題は後で又論じます

 ■「成吉思汗=鍛冶屋」説が定着した訳
 (1)突厥 - トルコ系の遊牧民族
 「トルコ語で」というのは突厥(とっけつ)(※22~※22-1)のことです。突厥を興した阿史那氏アルタイ山麓(※22-2)で鍛鉄(※22-3)に従事(=柔然(※23)の鍛鉄奴隷)していたのですが552年柔然(=モンゴル系の遊牧民族)を倒し、北方アジアに覇を唱えたのです。そもそも北方アジアは匈奴/鮮卑/柔然/突厥/ウイグル/契丹/成吉思汗のモンゴル族/タタールなどの遊牧民族間の弱肉強食の「下克上」を繰り返していて(△15のp155~157)、略奪婚もこの様な事情の反映なのです。
 アルタイ地方(※22-2)は鉱物資源が豊富で古代から鉱山や製鉄や鍛冶や金・銀細工の技術者たちが集まって居ました。突厥は「鉄」の技術を携えて頭を擡(もた)げて来た言わば本命で、鉄勒(てつろく)(※22-7)という部族も在ります。

 突厥には次の様な始祖伝説を中国の史書が伝えて居ます。それに拠ると「その祖先は西海のほとりにいたが、隣国に滅ぼされ、ただ10歳ばかりの小児だけがひとり残された。この子供は、足の筋臂(ひじ)とを切られて、草沢の中へ捨てられたが、1頭の牝狼がきてこれを肉で育て、その子供が成長すると、これとまじわって懐妊した。さきの隣国の王は、使者をつかわしてこの子供を殺させた。ところが、その使者は、そばに狼が居たのでこれも殺そうとした。すると、狼はまるで神霊がそれに憑いているかのように、たちまち、海の東へうつって、ひとつの山の上へ降りたった。その山は高昌の西北にあり、そのしたに大きい洞窟があった。狼はそのなかへかくれ、そこで10人の男子を生んだ。その一人が阿史那氏族の祖先である。それらの氏族はしだいに殖えて数100家となった。それから数世代たった。かれらはともにその洞窟から出て、当時モンゴリアを支配していた柔然に服属し、金山(アルタイ)の南に住んで、鍛冶をいとなみ、柔然のために鉄をきたえていた。金山の形は丁度兜鍪(かぶと)のようであったが、かれらはかぶと「突厥」と呼んでいたため、その名前をとっておのれにつけ、みずから、突厥と称するにいたった。突厥は、その君主の営舎の門前に狼の頭のついた旗さしものをたてるが、これは、自分たちの本源を忘れぬことをしめしているのだ、云々。」と在るのです(△7のp46、p120)。

 これは非常に大事な事を伝えて居ます。先ず第1に、突厥(※22)とは"Turkut"の音訳だという事は解って居ましたが、それが兜(かぶと)を指していたとは知りませんでした。兜ということで「鉄」を連想することも可能です。第2に、これは『元朝秘史』と同じく狼始祖伝説です。そして第3に、これは阿史那氏の祖先伝説です。この中で阿史那氏の職業が鍛冶である事を明確に伝え、尚且つ10歳ばかりの小児だけがひとり残された。この子供は、足の筋臂(ひじ)とを切られて、草沢の中へ捨てられた」と在る様に、この子は跛(びっこ)であり不具者です。又、阿史那氏が柔然に服属し、柔然の鍛鉄奴隷であった事も容易に解ります。

 (2)「成吉思汗=鍛冶屋」説の定着
 こう見て来ると「成吉思汗=鍛冶屋」説はどうも突厥の伝説に起源が有りそうです。つまり蒼い狼や、さらにそのまえの鍛冶に関する伝説は、モンゴル民族がトルコ民族と接触したあとになって、そのトルコ民族の始祖伝説をとりいれ、自分たちに固有の始祖伝説のうえへつけ加えたものである。」という考え(△7のp44)が正しいと思われます。では「モンゴル族が自分たちに固有の始祖伝説の上に突厥の伝説を付け加えた」のが何時頃行われたのか?
 ここで先程『集史』の最後のところで一旦置いといた問題と合わせて考えます。『集史』は14世紀初めに出版されたのでそれ以降という事に成りますが、それは『集史』が参照され其々の文献に引用されて行き亘り、蒼い狼とか鍛冶という言葉から何時しか「成吉思汗=鍛冶屋」説に変容し、更に成吉思汗が有名人に成ったので広くそれが定着して仕舞ったと考えられます。これは現代でも全く同じで有名人の噂は直ぐ広まるものです。
 私は15世紀半ば、遅くても16世紀初めには「成吉思汗=鍛冶屋」説はモンゴル内に留まらず広く北方アジアやシベリア方面に拡散して行ったと考えます。中でもシベリア方面は次に述べる狼始祖伝説を持つ民族が多数居るのです。

 ■狼始祖伝説
 (1)ローマ建国伝説 - ロムルスとレームスの双生児
 狼始祖伝説と言えば私は古代のローマを建国伝B.C.753年)したロムルスとレームスの双生児(※24)を真っ先に思い浮かべます。この双子が牝狼乳で育てられるのです。
 この双子が牝狼に乳を飲ませて貰っている青銅像 -今はローマ市のシンボル- の写真は高校の世界史の教科書に載って居て、この青銅像だけは今でもまざまざと思い浮かべる事が出来それ程印象的でした。左の写真(←『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』より)がその青銅像です。
 伝説に拠れば、兄ロムルスは対立した弟レームスを殺して39年間在位したと言われて居ます。この伝説は紀元前3世紀には一般に流布しました、
 何故ならばB.C.296年製造のローマ貨幣に「牝狼の乳を飲む双生児」の図柄が在り右の写真がそのコインです。左側(表)が狼と双子、右側(裏)が双子に食糧を運んだキツツキが描かれて居ます。
 『ウィキペディア』に拠ると双子は遊牧民族(※12)の出身です。【脚注】※24にも牧人ファウストルスに拾われ」と在ります、この「牧人」が遊牧民を指す訳です。

 (2)ユーラシア内陸部は狼伝説の宝庫
 北方アジアの、もっと言うならばユーラシア内陸部の遊牧民族は、突厥が先程見た様に牝狼高車(※22-8)が年老いた牝狼(△7のp47~48)、モンゴル民族蒼い狼(牡狼)烏孫(※22-9)が牝狼(△7のp49~50)と、何れも狼始祖伝説を持って居る事(△7のp59)に注意して下さい。
 一方、スラヴ(※26)の人狼(※26-1)も有名で、「南スラヴのおける人狼は、東及び西スラヴのそれとは若干性格を異にしており、ほとんど吸血鬼(※26-2)と同一視されている。」と在ります(△12のp59)。スラヴとか中央ヨーロッパは吸血鬼の宝庫です。そして「南スラヴ及びルーマニアの冬季儀礼には特別な「狼祭」の存在が報告されており、それは人狼のあらわれる時期にほぼ一致している。セルビアとクロアチアにおいては、クリスマスに若者が狼の仮装をしたり狼のかかしを持って家々をまわる風習が、現在まで残されている。...<中略>...かつてスラヴ人においては、戦士結社の成員の定期的変身、という儀礼的行為が行われていたのではないか、ということが推測される。」として居ます(△12のp59)。

 ここで狼の話を民話から拾って見ましょう。『オルトゥタイ ハンガリー民話集』には「犬と狼の会話」(△17のp312)、「狼と少女」(△17のp315)が在ります。『シベリア民話集』には「狼とワタリガラス」(△17-1のpp35)が在ります。
 次は童話です。『グリム童話集』には「狼と七ひきの子やぎ」(△18のp66)、「赤ずきん」(△18のp267)、「狼と人間」(△18-1のp350)、「狼と狐」(△18-1のp357)が在ります。『ペロー童話集』からは「赤ずきんちゃん」(△18-2のp175)です。グリムの「赤ずきん」とペローの「赤ずきんちゃん」は大体同じ話で、我々日本人にとっては狼の話と言ったら「赤ずきん[ちゃん]」が一番有名です。でも細部は違っていて、ペロー版では赤ずきんか狼に飲み込まれた所で終わり後は教訓を垂れて終わりですが、グリム版の方は一旦飲み込まれますがその後狩人が来て赤ずきんを助け出します。





 ■









 ■結び - 






--- 完 ---

【脚注】




※1:天目一命(あまのまひとつのみこと)/天目一箇神(あまのまひとつのかみ)は、天照大神が天岩屋戸に隠れた時、刀・斧など、祭器を作ったという神。後世、金工・鍛冶の祖神とする。天津麻羅(あまつまら)。
※1-1:鞴/韛/吹子(ふいご)は、(フキガワ(吹皮)から転じた「ふいごう」の約)金属の熱処理や精錬に用いる送風器。日本では、把手(とって)を手で押し、又は引いて、長方形の箱の内に気密に取り付けた板状ピストンを往復させて風を押し出すもの(箱鞴の一種。吹差し鞴とも)、風琴に似た構造を持ち、足で踏むもの(足踏み鞴)などが在る。大型の足踏み鞴踏鞴(たたら)と呼ばれる。吹皮(ふきがわ)。浄、用明天王職人鑑「―吹く鍛冶屋のてこの衆」。


※2:ギリシャ/ギリシア(Gresia[葡], Greece、希臘)は、(「希臘」は Hellas(ギリシャ)の音訳)ヨーロッパ南東部、バルカン半島の南端と付近の諸島とから成る共和国。紀元前9~8世紀アテナイスパルタなど多くの都市国家が成立、前5世紀にそれらが同盟してペルシャ戦争を乗り切り、アテナイを中心に前5~前4世紀前半黄金時代(←ソクラテスアリストテレスなどを輩出)を現出した。前4世紀後半にマケドニアに併呑され、次いでローマ帝国の支配下に置かれ、15世紀にはトルコに征服されたが、1829年独立の王国となった。第一次大戦後、一時共和国(1924~35年)、第二次大戦後、46年王政復古、67年軍部独裁、1974年共和制に復帰。古代ギリシャの生んだ哲学/科学/文学/美術はヨーロッパ文化の重要な源泉の一つとして人類の歴史に深甚な影響を与えている。面積13万2千㎢。人口1046万(1995)。首都アテネ
※2-1:ギリシャ神話/ギリシア神話(―しんわ、Greek mythology)は、ギリシア人の生み出した神話/伝説の総称。ホメロスヘシオドスとに依って洗練され体系付けられた。ヨーロッパ諸国の美術文芸に強い影響を及ぼす。









※5:ヘパイストス/ヘファイストス(Hephaistos[ギ])とは、ギリシャ神話火と鍛冶の神アフロディテの夫。彼は母親ヘラが夫(=ゼウス)と交わらずに生んだ子で、体が捩じれ醜かったので、ヘラに嫌われ投げ捨てられ跛(びっこ)に成った。ローマ神話ではウルカヌス(火と鍛冶の神)。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※5-1:オリュンポス/オリンポス(Olympos)は、ギリシア北部、テッサリアとマケドニアとの境界に在る峻峰。オリュンポスの十二神を初めとするギリシア神話の諸神が住んだと言う。高さ2917m
※5-2:キュクロペス(Kyklopes[ギ]<複数形>)/キュクロプス(Kyklops[ギ]<単数形>, Cyclops)は、ギリシャ神話で、額に丸い1眼を持った野蛮な巨人[たち]鍛冶の神ヘパイストスの手下として、ゼウスの雷電を作った。後には神の鍛冶師と考えられた。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>


※7:元朝秘史(げんちょうひし)は、モンゴル帝国の太祖成吉思汗)/太宗オゴタイ)二朝の実録。太宗時代(13世紀半ば)の編。編者不明。原本は伝わらないが、明の洪武初年の漢訳及びモンゴル語を漢字で音写したものが在り貴重。「蒼き狼と生白き牝鹿」から部族の祖が生まれたと記す。正続12巻。那珂通世の「成吉思汗実録」はその邦訳。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7-1:成吉思汗(ジンギスかん)/ジンギス・ハン/ジンギス・ハーン(Chinggis Khan)は、モンゴル帝国の創設者元の太祖(在位1206~1227)(1162~1227、1説に1167~1227)。名は鉄木真(テムジン)。父はエスゲイ、母はホエルン。幼時に父を失ったが、ケレイト部長ワン・ハン(Wang Khan、王罕)の助力で部族の長と成り、対抗者を次々に倒し、1204年ナイマンのタヤン・ハンを破ってモンゴル高原のモンゴル族を統一1206年ハン(汗)の位に付き成吉思汗と号した。次いで、金(キン)を攻略する一方、西夏に侵入、19年以降、西征の大軍を発し、ホラズムを滅ぼし、27年西夏を滅ぼしたが、負傷が元で陝西で病没。征服した地域を諸子に分封、遊牧社会を優れた国家に迄高め、諸汗国の基礎を築いた。渾名は「蒼き狼」。チンギス汗。チンギス・ハン。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7-2:汗(かん)/ハン/ハーン(khan)とは、韃靼・モンゴル・トルコなど北方遊牧民の君主の称号。可汗(かがん、かかん)。
※7-3:末子相続(まっしそうぞく/ばっしそうぞく、youngest child succession)は、末子を相続者とすること。古代社会に可なり広く行われた風習。←→長子相続。
※7-4:略奪婚/略奪結婚(りゃくだつ[けっ]こん、plunder marriage)とは、原始社会、又は未開民族の間などで、女性を他部族から略奪して妻とすること。








※10:モンゴル族(―ぞく、Mongolian race)は、モンゴル/中国内モンゴル自治区/ロシアのブリヤート共和国などに分布するハルハ族/チャハル族/ブリヤート族、更に中国領内のトンシャン/ダグール/トゥ/ボウナンなどの少数民族をも含む総称。総人口は約600万。12~13世紀にジンギス汗の下に諸部族が統合され民族としての基盤が形成された。伝統的には遊牧生活をし乍ら馬・羊・牛・山羊・駱駝の「モンゴル五畜」を飼育する。モンゴル相撲が在る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※10-1:モンゴル語(―ご、Mongolian)は、モンゴル国の公用語。モンゴル語派に属する。1940年代の文字改革によりキリル文字が使用されて来たが、90年に蒙古文字の復活が認められる。
※10-2:モンゴル語派(―ごは)は、アルタイ語族の一語派。モンゴル語/カルムイク語/ブリャート語/オイラート語/モングオル語などの総称。




※12:遊牧民族(ゆうぼくみんぞく、nomadic tribe)は、ウシヒツジヤギヤクなどの家畜を移動させ、遊牧し乍ら季節的/周期的に移動する民族。農耕生活を営む定着民族とは全く異なる文化圏を形成。その住地は農耕の営めない中央アジアチベット高原イランアラビアなどの草原/乾燥/半砂漠地帯。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12-1:騎馬民族(きばみんぞく、equestrian people)とは、中央アジアなどに住み、馬の機動性を利用して遊牧と軍事力を発展させ対外進出を行なった遊牧民族。西方のスキタイ/フン、中央の烏孫(うそん)、東方の匈奴(きょうど)/烏桓(うがん)/鮮卑/突厥(とっけつ)/ウイグル/モンゴルなど。夫余(ふよ)/高句麗/渤海/女真などを加えることも有る。
※12-2:狩猟民族(しゅりょうみんぞく、hunting tribe)は、野生のなどの捕獲を生活の基盤とした民族。人類の歴史に於いて最も古くから在る形態。広義の採集民族の1つ。エスキモー(=イヌイット)/極北の北米インディアンアフリカ原住民南米原住民オーストラリアの先住民(=アボリジニ)など。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>


※14:天神(てんしん)とは、この場合、(濁らず「テンシン」、元々は中国で天界に住む神を言い)天の神。←→地神。


※15:イソップ(Aesop)/アイソポス(Aisopos[ギ])は、「イソップ物語」の作者と伝えられる前6世紀頃古代ギリシャの寓話作者。サモス島の奴隷であったが、後解放されたと言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15-1:イソップ物語(―ものがたり、Aisopi fabulae)は、イソップが物語ったと伝えられる寓話集前3世紀頃散文で編集、以後次々に増補された。1593年(文禄2)九州天草の切支丹学寮から刊行した邦訳が在る。伊曾保物語






※21:シャーマン(shaman)とは、自らをトランス状態(忘我・恍惚)に導き、神/精霊/死者の霊などと直接に交渉し、その力を借りて託宣/予言/治病などを行う宗教的職能者。シベリアのツングース系諸族の例が早くから注目された。日本に於いても古代の巫女である卑弥呼が典型で、現在でも東北地方のイタコや南西諸島のユタなどに特徴が見られる。巫者(ふしゃ)。巫女(みこ)。巫術師(ふじゅつし)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※21-1:シャーマニズム(shamanism)とは、シャーマンを媒介とした霊的存在との交渉を中心とする宗教様式。極北/シベリア/中央アジア、北米の先住民に一般的で、類似の現象は南アジア/東南アジア/オセアニアなどにも見られる。しかし世界観/超自然観や社会的背景を反映し、一様では無い。中国/朝鮮/日本では巫術巫俗巫女等の名で知られる。


※22:突厥(とっけつ、Turkut)は、(突厥はテュルク(Turkut)の音訳)トルコ系の遊牧民。又、その遊牧民が支配した国。552年アルタイ山麓(←突厥を興した阿史那氏アルタイ山麓で鍛鉄に従事していたと言う)に起り、柔然の支配を破って独立、伊利可汗と称し、モンゴル高原/中央アジアに大遊牧帝国を建設(突厥第1帝国)。6世紀後半東西に分裂し、630年以後前後して唐に征服されたが、682年東突厥が復興し(突厥第2帝国)、744年ウイグルに滅ぼされた。東アジア遊牧民最初の文字(突厥文字)を残した。→突厥文字。
※22-1:突厥文字(とっけつもじ)は、8世紀頃突厥民族が使用した音素文字。起源はアラム文字、又はソグド文字と言われる。8世紀前半オルホン碑文(←突厥第2帝国の治世を称えたもの)が発見され、19世紀末にトムセンが解読。
※22-2:アルタイは、[1].Altai。中央アジア、ロシアの西シベリア平原、中国のジュンガル盆地、モンゴル高原との間に連なる全長約2千kmの山脈。4つの主脈に分れ、高原性。オビ川の水源。西部のロシア側では金/銀/鉄などの鉱物資源に富む
 [2].Aletai、阿勒泰。中国新疆ウイグル自治区北のロシアのアルタイ山脈南西麓の街。カザフ族が多く住む。青銅器時代のチェムルチェク古墳群や鉄器時代の岩絵、ハナス湖と中国/ロシア/モンゴルの国境に友誼峰4374m)が美しい。石人が在る。面積1万1481㎢、人口22万(2003)。




※22-3:鍛鉄(たんてつ、wrought iron)とは、[1].鉄を鍛(きた)えること。
 [2].錬鉄。







※22-7:鉄勒(てつろく)とは、隋・唐代に於けるトルコ系遊牧民突厥に属す。丁零(ていれい)・高車の後身。隋代にはバイカル湖の南からカスピ海地方にまで分布。→突厥(とっけつ)。
※22-8:高車(こうしゃ)とは、4~5世紀、北アジアに居たトルコ系部族丁零の後身で、高輪の車を乗用。485年頃今のジュンガリアに建国、6世紀突厥に敗れた。→突厥(とっけつ)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※22-9:烏孫(うそん)とは、漢代から南北朝初期に掛けて西域に拠ったトルコ系の民族。その領域は天山山脈の北方、イシッククル湖畔からイリ川の盆地を含む。前漢の武帝はこれと同盟したが、5世紀後半にモンゴル系の柔然の侵入で衰えた。



※23:柔然(じゅうぜん)とは、モンゴルの地に拠ったモンゴル系の遊牧民族。東晋の初め、鮮卑の拓跋氏に隷属し、拓跋氏の南遷後、5世紀初頭その故地を領したが、552年頃突厥に滅ぼされた。芮芮(ぜいぜい)/茹茹(じょじょ)/蠕蠕(ぜんぜん)とも称する。








※24:ロムルス(Romulus)とレームス(Remus)は、伝説上のローマの建国者。マルスとレア・シルウィアとの間に生れた双生児。ティベリス川に捨てられ、牝狼の乳で育てられたが、牧人ファウストルスに拾われ、狼に育てられた地にローマを建国伝B.C.753年)。兄ロムルスは弟レームスを殺して39年間在位したと言う。
※24-1:狼(おおかみ、wolf)は、(大神の意)ネコ目(食肉類)イヌ科の哺乳類。性質が荒く肉食性。頭胴長約1~1.5m、尾長35~55cm。毛色は灰色から茶色イヌの原種と考えられ、体形はシェパードに似る。嘗ては北半球に広く分布したが、西ヨーロッパ/中国の大部分、日本などでは絶滅。家族単位の集団で生活する。シカなどの大形獣の他、ネズミなど小動物も食べる。日本本土産(ホンドオオカミ)は小形系でヤマイヌ(山犬)とも呼ばれたが、1905年奈良県を最後に姿を消し、大形の北海道産(別称エゾオオカミ)も1900年頃絶滅。季語は冬。雄略紀「―に異なること無し」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>



※26:スラヴ(Slav)は、ヨーロッパ東部から北アジアに広く分布するスラヴ系諸語を話す人々。東スラヴ人(ロシア人/ウクライナ人/白ロシア人)、西スラヴ人(ポーランド人/チェコ人/スロヴァキア人など)、南スラヴ人(セルビア人/クロアチア人/ブルガリア人など)に大別される。人口は他地域への移民も含めて3億人近くに達する。
※26-1:人狼(じんろう、replace wolf and shaman)とは、主にスラヴの民間信仰で、或る期間に変身する事が出来る呪術師シャーマンの一種)、或いは呪術師に依ってにされた人間
※26-2:吸血鬼(きゅうけつき、vampire)とは、西洋の伝説で夜半墓場から抜け出て人の生き血を吸うと言われる死霊。生き血を吸われた人も又、吸血鬼に成るとされる。ドラキュラ伝説は有名。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>










※35:日本語(にほんご、Japanese)は、日本民族の言語で、日本国の公用語(日本の国語)。語彙や文字の点で中国語の影響を受ける。系統に関しては、朝鮮語/モンゴル語などと同様ウラル・アルタイ語族の一つ、マライ・ポリネシア語族の一つ、インドのドラヴィダ語族の一つなど諸説が在る。特徴として、開音節/膠着形態/動詞文末語順敬語の使用などが挙げられる。語順は比較的自由である。音韻的特徴としては、音節の殆どが母音で終わることや、アクセントが音の高低で表されることなどが挙げられる。表記は原則として漢字と仮名混じり文で表される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
 補足すると、私は「ウラル・アルタイ語族の一つ」と考えます。
※35-1:中国語(ちゅうごくご、Chinese)は、漢民族の言語。シナ・チベット語族のシナ語派に属する。形態は孤立語。北方(北京語など)/(上海語など)/閩(びん)(福建語や廈門語など)/粤(えつ)(広東語など)/客家(はっか)湘(しょう)(湖南語など)/「韋」偏に「貪」、(読み:かん)(南昌の方言など)の7大方言が在り、北方方言(北京語)を基礎とする共通語(普通話)が広く用いられる。言語人口が10億以上とされ、世界最大の言語。シナ語








※37:天降り人(あまくだりびと)とは、天から降って来た人。天人




    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】



△2:『ギリシア神話小事典』(バーナード・エヴスリン著、小林稔訳、教養文庫)。




△4:『元朝秘史(上・下)』(著者未詳、小澤重男訳、岩波文庫)。


△7:『遊牧騎馬民族国家』(護雅夫著、講談社現代新書)。


△9:『イソップ寓話集』(山本光雄訳、岩波文庫)。
△9-1:『万治絵入本 伊曾保物語』(武藤禎夫校注、岩波文庫)。

△11:『ジンギス・カンの謎』(川崎淳之助著、講談社現代新書)。


△12:『世界の神話伝説 総解説』(自由国民社編・発行)。


△15:『地域からみる世界歴史年表』(宮崎正勝著、聖文社)。


△17:『オルトゥタイ ハンガリー民話集』(オルトゥタイ・ジュラ編、徳永康元・石本礼子・岩崎悦子・粂栄美子編訳、岩波文庫)。
△17-1:『シベリア民話集』(斎藤君子編訳、岩波文庫)。

△18:『完訳 グリム童話集(一)』(金田鬼一訳、岩波文庫)。
△18-1:『完訳 グリム童話集(二)』(金田鬼一訳、岩波文庫)。
△18-2:『完訳 ペロー童話集』(新倉朗子訳、岩波文庫)。


●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):独自性や先見性は
当サイトの重要なコンセプト▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)


参照ページ(Reference-Page):モンゴル国の地図▼
地図-モンゴル国と中国の内蒙古
(Map of Mongolia and Neimenggu, -Mongolia, China-)

参照ページ(Reference-Page):モンゴル族や中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)


補完ページ(Complementary):天神(てんしん)と
天神(てんじん)とは大いに異なる▼
2009年・年頭所感-聖牛に肖ろう
(Share happiness of Holy Ox, 2009 beginning)


[2008年雲南回帰の旅#1]-羅平/文山の旅▼
2008年・雲南の羅平/文山etc
(Luoping, Wenshan etc. of Yunnan, China, 2008)



























「中国の少数民族」について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')


総合目次に戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu