-- 2008.06.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.07.16 改訂
※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。 ★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★ |
何時も共に旅を続けて居る我々 -小池・松岡・私と山村さん=「桃源倶楽部「食み出しトリオ」+紅一点」と呼びます- は、今回報告する旅で久し振りに雲南に回帰しました。思えば「2002年・”脱雲南”桃源紀行」以降、我々は長らく”脱雲南”、”雲南解脱”の旅を続けて来ましたが、今回は雲南省を”真面目”に旅をしましたので、最近体力が弱った「雲南桃源倶楽部」の会長・北山昌夫先生 -御本人は「愚公亭塞翁」と言って居ます- もさぞかし安心される事と思います、多分...。
しかし、雲南回帰の旅には番外編というのが御座いまして(←2002年の雲南旅行でも番外編が在りましたが)、塞翁が番外編を読んでも尚安心されるかどうか、私にはちと不安が在りますが...(>_<)。
それと私の場合、今回の旅には1999、2000年の雲南桃源旅行 -塞翁が案内した旅- で来た所が在るのです。約10年前に来た所がどのように変貌しているか、これも楽しみです。ですから「雲南回帰の旅」の記述には所々に「1999、2000年の思い出」を差し挟む形で書き進めて行きます。
先ずは旅の全旅程(2008年3月12日~26日)を▼下▼に記します。
◆全旅程
2008年3月 <宿泊>
12(水) 関空 ⇒ 広州 ⇒ 昆明 宝善大酒店
13(木) 昆明 → 羅平 万信旅館
14(金) 羅平 → ②文山 陽光花園酒店
15(土) 文山 → 麻栗坡 → 六河 → 麻栗坡 国豪大酒店
16(日) 麻栗坡 → 八布 → 麻栗坡 → 馬関 利贏賓館
17(月) 馬関 → ②河口 吉慶大酒店
18(火) 河口 → ②金平 金運賓館
19(水) 金平 → ②元陽の棚田 → 新街鎮 → ②緑春 天興酒店
20(木) 緑春 → 江城 → ②思茅(普洱市) 金孔雀大酒店
21(金) 思茅 → 景洪 金象賓館
22(土) 景洪 金象賓館
23(日) 景洪 ⇒ 昆明 宝善大酒店
24(月) 昆明 ⇒ 広州 沙面のユースホステル
25(火) 広州 沙面のユースホステル
26(水) 広州 ⇒ 関空
*.⇒は飛行機、②が2度目の訪問地
尚、雲南各地の地図は▼下▼を適宜参照して下さい。西双版納(シーサンパンナ)の謂れも載って居ます。
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
又、これらの地域は少数民族(Ethnic Minorities)と言われる人々が多く住んで居ますので、雲南省の少数民族については
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
を参照して下さい。
更に尚、[2008年雲南回帰の旅]シリーズは写真が非常に多いので、写真の大きさは小さくしましたので、悪しからず!
当ページの記事は「全て見た儘有りの儘、何も足さない、何も引かない」をモットーに書いてます。それでは[雲南回帰の旅#1]をお楽しみ下さい。
(1)昆明の朝
関空発が14:50だったので昆明(雲南省の省都)に着いたのが22:00過ぎ、という事で初日は寝るだけでした。昆明は標高1891mの盆地に在り亜熱帯に在り乍ら年平均気温が14.8℃で”春城”(常春の都)と呼ばれて居ます。
翌13日は7:10過ぎにホテルを出て外食です、我々は街を探検し屋台で朝食を取るのが好きなのです。裏道を歩くとご覧の様に青空市場が出て居ます(左下の写真)。中央下は豚肉で内臓と頭を除いた片側肉で1m位有ります、豪快です。猫も居ました(右下の写真)。
裏通りを抜けるとビジネス街で、左は屋台の喫茶店です。「潔卡珈琲」と書いて在りました。「お茶の国」中国も少しずつ変わりつつ有ります。
左は我々のホテルと同じ名の通り「宝善街」です。私は大阪の法善寺横丁を思い出して居ました、アッハッハ!
我々は左下の「建新園 老店」に入り(←松岡さんが写っている)、米線(ビーセン)(※1、米線は米の粉を使用)を食べました(7:40頃)。
昆明は特に熱々に煮出したスープに後から麺と具を入れて食う「過橋米線」が名物ですが、これは違います。
8:00頃一旦ホテルに帰り羅平に行く仕度をしてバスに乗ります。右が我々が泊まった宝善大酒店で、ここには帰りにもう一度泊まります。
(2)菜の花が咲く羅平
羅平は可なり田舎なので詳しく書きます、と言うか今回旅する所は昆明、西双版納以外は何処も田舎ですので、全て写真を多く詳しく書かないと行けませんね。しかし個々の写真は小さいです、ご了承下さい、アッハッハ!
羅平県は昆明の略真東に位置し標高も1600m位で年平均気温も15.1℃と昆明と略同じですが多雨地域です。少数民族は彝族・壮族・回族・白族・布依族などです。この日もどんよりして居ました。羅平行きのバスは9:00に出発しました。地図を見ると途中迄は石林(=石灰岩のカルスト地形)に行く道を通り、師宗県を通り羅平県に着きます、昆明の真東です。鉄道が走っていて羅平迄は略鉄道と交差し乍ら大体は並行して進みます。その東は雲南省では無く貴州省とか広西壮(チワン)族自治区(←カルスト地形の桂林が在る)などに成ります。因みに中国語でカルストを岩溶(yanrong)と言い(←溶岩の逆)、カルスト地形を岩溶地貌(yanrong dimao)と言いますので、宜しく!
カルスト地形の桂林は▼下▼からご覧下さい。{このリンクは2015年6月12日に変更}
2002年・桂林の漓江下り(Go down the Lijiang of Guilin, China, 2002)
その鉄道の線路が高架道路の足元に見えたので左側のバスの車窓から撮りました(この後も車窓からの写真が続きます)、9:45分頃です(左下の写真)。11:05頃には石灰剥き出しのカルスト地形の様な光景が現れました(右下の写真)。暫くは荒涼たる風景の中を走ります。
11:45頃には今度は高架の鉄道が見えて来ました(右上の写真)。
そして高架鉄道の下には菜の花畑(※2、※2-1)が見えます、未だ羅平には着いてませんがこの辺りより菜の花畑がちらほら見えました。今は師宗県を走って居ます。
左下の写真は12:30頃の菜の花の段々畑とカルスト地形の山です(←写真の左には水路が見えます)。中央下の写真は12:35頃の小型のライトバンの横転で、こちらも通行制限されました。しかし事故車の周りには誰も居ません...私は前にも中国の交通事故を見て似た様な光景でしたが、全く不可解な国と言うか滑稽な国と言うべきか。
やっとこれより羅平県です、時刻は12:45頃です(右下の写真)。中国では県境には必ず歓迎する標語を書いた垂れ幕が在り、ここには「金花銀瀑的故郷-羅平 歓迎悠」と書いて在りました。菜の花畑はバスで羅平県の1時間前から見えていた事に成ります。
羅平県に入ると左下の様に一面菜の花畑の所も在りました。そしてバスはやっと13:00頃に羅平(羅雄鎮)に到着しました、今山村さんがバスから出た所です。昆明からバスで4時間掛かった訳です。我々は直ぐ宿を取り荷物を宿に置きました。ここは田舎ですので万信旅館(右下の2枚)という文字通りの旅館です(←実は旅館の写真は翌朝撮りました)。旅館名の下には「停車住宿」「普通間 標准間」と在ります。我々は普通間でしょう。
因みに、羅平県や師宗県は曲靖市の南端の県です。中国では市の方が県より大きいのです、日本と逆ですので注意して下さい。それと「鎮」については、中国では「県の下の行政単位」を表し「比較的大きな街」を指します。
13:30頃に旅館を出て街を散歩しながら飯屋を探し13:50頃に店に入りました。菜の花と葫(ニンニク)の炒め物を真っ先に注文し、その左が豚肉と豆の炒め物、右の写真がジャガイモの千切りの炒め物です。菜の花は旨かった!
「菜の花」は中国では良く食べ私は過去に中国で何度か食べました。さっぱりして旨いですね、ニンニクを利かすのが中国風です。日本では都会のスーパーなんかで食材としての「菜の花」は見ないですね。
後は御飯とビール(啤酒)です。ラベルに「貴州神奇啤酒有限公司」と書いて在り貴州のビールです。羅平の東隣は貴州と広西チワン族自治区ですが「酒」と言ったら貴州です、茅台(マオタイ)酒も有ることですし。もう一つ、中国のビールのアルコール度数は低く大体3.5~4%位(日本は5.5%位)です。このビールも4%です。
ビールの背後に山村さんが写って居ますが彼女はビールのラベルの収集家です。ノートを持って居て気に入ったビールが有るとラベルを剥がしノートに貼るのです、私はそのノートを見せて貰った事が有ります。
◆常温ビール(啤酒)の思い出
ビールの話が出た序でに2000年の雲南桃源旅行の思い出から。2000年当時はホテルでビールを頼むと冷やして無い”常温ビール(啤酒)”が出て来たものです。それで松岡さんが”桃源旅行のビール係”を買って出て今日泊まるホテルに朝電話して「ビールを冷やしとけ!」と言う訳ですが、中国語が出来ない松岡さんで話が通じたかどうか?、甚だ心許無い限りでは有りました。
中国は「お茶の国」ですから当時は「お腹を冷やすと良くない」などと能書きを垂れてましたが変われば変わるものです。これは2008年に行われたオリンピック・キャンペーンの成果 -この記事を書いているのは2009年ですが我々がこの旅をしている時はオリンピックの5ヶ月前です- と私は看て居ます。羅平という”失礼乍ら田舎街”で冷やしたビールが出て来るとは2000年では考えられない事でした。是非▼下▼のページをご覧下さい。
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
(-_*)
14:30頃店を出て再び街を散歩です。左下はオート三輪を改造したタクシーで大都市では少なく成りましたが田舎街では主流です。中央下は砂糖黍(サトウキビ)です、これをそのまま齧(かじ)るのです。
そして右の2枚が民家の前で何かを縫っている壮(チワン)族のお婆さんと、家に貼って在る道教のお呪(まじな)いです。玄関には縦書きで「平安土字値千金」と在り、上部には横書きで「富貴」「四季平安」「招財童子 進宝郎君」と書いて在りました。
私は又変った物を見付けて仕舞いました、馬の張り子です(左の写真)。店には「芸術紙火店」と在り店の両側には「形体芸術樣樣尽有」「紙表蔑紮栩栩如生」と在ります。しかし張り子には新聞紙を貼り付けて在ります。?、と思って居ると3軒位隣に完成品が在りました(右の写真)。先程の店は中間製品を作って居たのです。
その次は「打鉄匠」です(右の写真)。「東関街」の「鉄楽農具維修部」です。鉄の万(よろず)修理屋です。この通りを「東関街」と言う事が判りました。
現地の人たちの生(なま)の姿が見れるので街の散歩は面白い。未だ未だ色々撮りましたが、今回は比較的珍しいもの、変わったものを選びました。今時刻は16:00頃です。
この後我々はタクシー(←60元、当然値切って)で風景地区(=観光スポット)に行きました。因みに中国の旅では「値切るのが鉄則」と書いて在りますゾ(△1のp297)。風景地区には16:30頃に着いたのでタクシーで大体30分位の所です。
天候が良くないので写真は今一ですが取り敢えず一面の菜の花をパチリ(下の3枚)。右下の写真は接写でミツバチ(蜜蜂)も撮りました。この蜜蜂は養蜂業者のものです、序でにハチミツ(蜂蜜)も売ります。
ところで向こうの山や近くの山がボコボコしてるのは石灰岩に依るカルスト地形です。
観光用の着飾った人が水牛に乗って、ぬかるんだ泥んこ道を歩いて来ました(右の写真)、16:50頃です(←そう言えば風景地区の方に牛街という地名が在りました)。これもお金を取って人を乗せる為です。この様にここでは全てが管理されて居るのです。
羅平の菜の花が一般に広まったのは99年に昆明で開催された国際園芸博覧会(略称:花博)が切っ掛けの様です。99年の昆明の花博は覚えて居ます、私が初めて雲南桃源旅行に参加した年で昆明の街中が花博ムード一杯でした。
我々は待たせて在ったタクシーで「東関街」に帰り、17:20頃に戻りました。
街に戻ると昼間より活気が有りました、そうです小学生がぞろぞろ帰って来るからです。
左の写真は学校の帰りに何かを買いに店に入る女の子、中央の写真は羅平県東屏小学家長学校から出て来る小学生です。
もう一つ右上の写真は水煙草の煙管を売る小母ちゃんですが足元の壺も売って居ました、妙な組み合わせです。
そして晩飯です、時刻は18:20頃。左は焼き飯とビール、右は刀削麺擬き(←米粉で作る)とトマトと玉子の炒め物と豚肉炒めです。
しかし、これは何だか新疆ウイグルの料理みたいですね。皆さん、今回は雲南回帰の旅ですゾ、アッハッハ!!
私はベッドの中で菜の花畑は去年(=2007年)ドイツでも見た事を思い出して居ました。帰阪してから写真を調べたらミュンヘン郊外で、着陸する飛行機から菜の花畑を撮って居ました。
(1)羅平から硯山を経て文山へ
今日もどんよりして居ます。左下が我々が乗る硯山迄行きの小型バス -バスには「羅平 丘北 硯山」と書いて在りました、これは丘北県を通って行くという意味です- で8:30に出発です(今の時刻は8:05頃です)。今日は南下します。
バスは羅平県を抜け師宗県の曲祖迄は昨日のコースを逆行し、そこで左折し可なり悪い道をガタゴト走り2番目の写真の様にバナナ畑などが在りました(9:40頃)。そしてチワン族の小母さんと驢馬です(3番目の写真、10:08頃)。右端の写真の川が南盤江だと思います(10:10頃)。
左の写真は師宗県の街の様子です、ここは飯屋で女の子が御飯をパクついて居ます(10:10頃)。間も無くバスは師宗県の高良を通り丘北県に入りますが私はここで眠く成りました、済みません...Zzz。
目が覚めたら12:05頃です、取り敢えず右の写真を撮り、ここは何処?、と他のメンバーに聞くと彼等も”うとうと”して居ました。どうやらここは丘北県の丘北(錦屏鎮)を過ぎた何処か(?)です。
左の写真は13:05頃に撮りました、ここは硯山県の維摩です。我々バスの客を相手にミカンなどを売って居ました。
そして14:45頃に硯山(江那鎮)に着きました(右の写真)。右の写真はバスの運転手と車掌です。
左のお爺さんが水煙草の煙管で悠然とタバコを吸って居ました。ここは食堂で店の小姐(シャオチエ(xiaojie))(※3)も私が写真を撮っているのを見て笑って居ます、時刻は14:55頃です。
我々もこことは違う食堂に15:25頃入り遅い昼食です。野菜スープ、鶏肉炒め、豚肉炒め、野菜炒め、キノコ炒め、と何でも炒めたら中国料理です!
(2)2度目の文山(開化鎮)
文山行きのバスは16:10に出発し、左の景色は16:35頃撮影しました。文山県は道路が良く17:00頃には文山(開化鎮)に到着です。
右が「文山三七国際貿易中心」(中心はセンターの意)です、バスの中から撮りました。文山の三七(=田七)は名高いですが文山の三七については後で詳述。
文山や硯山は何れも文山壮族苗族自治州に属し、文山県には壮族・彝族・苗族・回族・白族・傣族・瑶族などの少数民族が住んで居ます。私は文山に来るのは2度目です。前に来たのは2000年で、その時は塞翁率いる雲南桃源旅行でチャーターしたマイクロバスで文山の三七を栽培している畑に行きました。それから9年ですが文山も随分近代化されました。
ホテルは17:30頃に可なり大きな陽光花園酒店に決めました。ホテルで少し休憩を取り、左右の2枚はホテルの部屋から出掛けに撮りました(18:25頃)。
左の写真の正面の立派なビルは県公安局で「人民公安」と書いて在りました。右の山上の塔は東山公園の文笔塔(文筆塔)です。何れも文山で買った地図に拠ります。
そして18:30頃から街を散歩です。我々は左下の写真の門を潜り奥に入って行きました。門の左支柱に「文山県南検診所」と書いて在りました(18:45頃)。2番目の写真の様に暫くは普通の民家です、小池さん・松岡さん・山村さんの姿が写って居ます。3番目の写真は橋の手前で再び文笔塔が見えて来ました。右端の写真はそれの拡大です(19:00頃)。
東山公園と文笔塔はここからは非常の目立ちます。文笔塔は高さ49mで7層を成し、そして夜間は...。
進路を左折し左の写真は橋の上からの夕景です。遠くにこの地方独特のカルスト地形の山が見えて居ます。
橋を渡ると商店街です。そして右の写真、犬の丸焼きです(19:05頃)、これは凄い。これを見て頭から食える人は兵(つわもの)です!
これを「中国のヘビーなお食事」に登録しました。{このリンクは2017年7月16日に追加}
ところで皆さんは3月半ばで19:00にしては明るいなあ、と感じて居ることでしょう。日本と中国の公式時差は1時間(=北京時間)ですが、日本の標準時が明石の東経135°、昆明が約102°で、その差は33°有るのです。360°/24時間=15度/1時間と成ります。ですから実際の雲南省との時差は約2時間なのです。だから日本の感覚で言えば19:00はもう1時間引いて18:00と考えて下さい。
そして19:30頃に撮ったのが左の写真ですが、文笔塔にネオンが点灯して居ました、これは驚き!
右の写真を見て下さい。賑やかな商店街 -ここは飲み屋街では在りません、店の中には普通の超市(=スーパー)も在りました- の背景に近代的なビル、日本の駅前の飲み屋街みたいな風景です。
左の母子連れが食べている店で我々も食事をしました。
右が我々の食事。ソーセージと野菜の土鍋御飯、玉子スープ、焼鳥風の豚肉、ビールです(19:50頃)。
下の2枚はホテルから撮りました。
左は目立つ文笔塔のネオンです(望遠、20:45頃)。右下に青い「金碧苑賓館」の広告塔も見えます。
右は街の夜景です(20:50頃)。若い人たちは街の広場に繰り出して居ました。
私は寝る前に初めて文山を訪れた時を思い出して居て、前来た時は田舎の街というイメージでしたが文山の街は随分変わりました。それと前は文山に泊まらなかったのです。
(1)文山県を走る - 三七の畑が有った!
このホテルは左の写真の中庭が在り朝食はその周囲で取るシステムに成って居て、それがホテル名の「花園」の謂れです(7:10頃)。
右の写真はカルスト地形の山です。今日もどんよりした天気です。
麻栗坡に行くには地図を見ると、文山県の追栗街を通り西畴県の連花塘・興街鎮を経由して麻栗坡県の麻栗坡に着きます。麻栗坡県はベトナムと国境を接して居て、今日は正に”辺境”の旅です。
右の写真はバス会社の社員です。今の時刻は9:25、麻栗坡行きのバスは9:30に出発です。
◆文山の三七(田七)
バスが走り出して30分位経った所で三七を栽培してる畑が現れました(左の写真、9:55頃)。これは苗一本一本に遮光シートで覆いをして在ります。
左下の写真も遮光シートで覆いをし三七を隠して居ます(9:55頃)。
右下の写真にも遮光シートが見え(10:00頃)、赤茶色の土は赤土ですが実は赤土は三七の栽培には欠かせません。
2000年に文山に来た時には獰猛そうな犬を飼って居ましたね、三七は高く売れるので盗む人も居たのでしょう。文山の三七については
文山三七(田七)の日中比較(The 37-carrot of Wenshan in Yunnan, China and Japan)
をご覧下さい。
(2)西畴県を抜け麻栗坡へ
文山県を抜け西畴県に入ると物凄い濃霧です(左の写真、10:40頃)。この霧の中を自転車をこいでいる人が居ます、判りますか?
次が西畴県の興街鎮でトイレ休憩、興街鎮の男子便所です(11:00頃)。
そして予定通り12:00に -こんな田舎でもバスが予定通りに着く事は10年前には考えられないことでした、道路も全て舗装されて居ます- 麻栗坡県の麻栗坡(麻栗鎮)に着きました。
右の写真は麻栗坡の洗濯屋、入口左に「便民洗衣店」と書いて在ります(12:05頃)。
麻栗坡県の少数民族は苗族・壮族・瑶族・彝族です。
左下の写真は橋の上から風景で川は畴陽河です(12:10頃)。遠くに祠が写って居ますが小さいので中央下に拡大写真です。遠くの山は、もう何度も出て来ましたが桂林の様なカルスト地形です。この川で魚を獲っている人(←釣では無く独特の仕掛けで)も居ました。右下が麻栗坡のバス発着所で、真ん中に横書きで「麻栗坡汽車客運站」、左端の木に縦書きで「麻栗坡通達農村運輸有限責任公司」と書いて在ります、随分立派な建物です(12:12頃)。
因みに、中国語では▼下▼の様にバスと列車の区別が日本語と紛らわしい
<日本語> <中国語> <中国語の熟語> <日本語の意味>
バス 汽車 汽車站、客運站 バス停・発着所の意味
列車(汽車) 火車 夜行火車 夜行列車の意味
ので注意して下さい。
我々はバス発着所近くに宿(左の写真:国豪大酒店)を取り荷物を置いて昼飯です。定食のソーセージと豚肉の土鍋御飯と野菜スープと昆布の炒め物です(12:40頃)。どうやら土鍋御飯はこの地方の定番みたいで、考えてみると手っ取り早くて中々合理的です。
実は私は2001年の中甸(現:香格里拉(シャングリラ))の旅で似た様な御飯を屋台で売ってました、その時は釜飯風御飯と呼んでましたが。その時は食べず終わって仕舞いましたが、中の具も似て居ます。
ところで私は中国の市場で時々昆布を見掛けますが、昆布でダシを取るのでは無く昆布を食べる文化(←但し中国ではマイナーでローカルな文化) -日本では御節料理の昆布巻きや「おでん」など割合メジャーな文化です- が中国にも存在して居ます。私が最初にそれを経験したのは麗江でした。
(3)六河郷のミャオ族 - 日本の神道の原型を見た!
我々はこの後、苗(ミャオ)族の村が在るという山村さん -山村さんは中国語が出来る- の情報で、麻栗坡県の六河という村に行くべく再び「麻栗坡汽車客運站」に行きバスを確かめたら1日1本のバスは既に11:30に出て仕舞ってもう無いので、タクシーで行く事にしました、料金は4人で200元に値切りました。
その際に客運站で撮った「麻栗坡汽車客運站菅運線路示意図」(=バス路線図、14:15頃撮影)を麻栗坡に地図の代わり使います。利用出来る物は何でも利用する、これは私のホームページ作成のスタイルです。
タクシーは14:30頃出発しました。山間部へ入ると物凄い濃霧で小雨も降って居ます。我々は下のミャオ族の小母さん -非常に明るく豪放磊落(※5)な感じ- の家を見せて貰いました(15:35頃)。小母さんは野良仕事を中断しポーズを取ってくれました。ミャオ族に限らず雲南省では女性が労働の中心です、日本の沖縄もそうです。
でも小さな男の兄弟が背中に薪を一杯背負って帰って来ます(右下の写真)が連れている水牛は何も背負ってません(15:35頃)。水牛思いの兄弟です。この辺りは牛耕の様です。
左下が小母さんの家の中庭です、遠くに小母さんが写って居ます(15:40頃)。豚小屋には豚が2頭居ました。
小母さんは手を洗って居ます。壁に水道の蛇口が付いて居て、背後には洗濯物を干して在ります。中々合理的な作りです。
◆神棚[の様な物]の存在 - 日本の神道に極めて近い構造
家の中も見せて貰いました。右は居間の写真ですが囲炉裏(※y) -囲炉裏と言っても囲いは無く土間に半円形の穴が掘って在るだけ- が在り、上から鉄製の薬缶(←日本では鉄瓶(※y-1、※y-2)と言う)が掛けて在ります、これは日本と同じです。
そしてアジアや古い日本の家には竈(かまど)(※y-3)が在る事で、それを司る主婦には誰も逆らえません。男が幾ら強がってみても毎日食べる飯を作るのは主婦だ、という単純にして峻厳な事実が全てなのです。
私が一番興味を持ったのは神棚[の様な物]が在る事で、今日取れた白菜を2つ神棚に供えて居ます(左下の写真)。苗(ミャオ)族の人たちは万物に霊魂が在るとする原始宗教(アニミズム)を信仰(※6)して居り、この部屋は家の中で最も神聖な場所です。その神棚を撮ったのが右下の写真で、真ん中に竹の様な物を束ねた物が3つ在り更に左右にも、左右に椀が在り、又御神酒でも供えるのが盃(さかずき)も在り、極めて日本の神道に近い構造をして居ます。
こういうアジアに共通する日本神道の原型については▼下▼をご覧下さい。
アジアに存在する日本神道の原型(Prototype of Japanese Shintoism exist in Asia)
神道を彷彿させる様なものは過去に私は見て居ますので、興味有る方は是非▼下▼もご覧下さい。
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
2002年・パーリャン小学校視察の旅(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
又、日本の「神」信仰については▼下▼をご覧下さい。
2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!(Be thankful everybody !, 2003 beginning)
又、日本の竈(かまど)に対する信仰ついては▼下▼をご覧下さい。
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
(-_*)
左下はテレビです、テレビが有れば文化レベルは日本と同じです!!
中央下は小母さんと私のツーショットです(15:50頃)。
我々は小母さんに何がしかの御礼を渡し16:00頃に家を出ました。
右下は濃霧と泥濘(ぬかるみ)の坂道を物ともせずに、地元の小父さんは平然とオートバイで駆け下りて行きました。道路脇に生えていた竹が印象的でした。
この後、待たせてあったタクシーで麻栗坡に戻りました。私にとって非常に意義有る訪問でした。
戻ったら通りに屋台の食堂が左下の写真の様に立ち並び、その1つに我々も入ると材料もオープンなので山村さんが色々選び晩飯です(17:50頃)。
中央がキノコと筍炒め、右がモヤシその他の野菜炒めと、他に焼き餃子[らしき物]と野菜スープです。
我々は中国の水餃子文化 -東北地方(=旧満州)しか焼き餃子は無い- を無視して何時も焼き餃子を注文します。右上の2つは何れもニンニクが利いて野菜炒めにはトマトも入ってました、新疆ウイグル風ですね。
(1)八布郷の少数民族と市
今日もどんより雲って居ます、今回はずっとこのな天気です。今日は麻栗坡県の八布という村に行きます、山村さんに拠れば壮(チワン)族の村だそうです。バスは8:00に出発しました。
この地方の少数民族は左の様な狭隘な土地に小規模な棚田(中国名:梯田)を作って暮らして居ます(8:50頃)。
右は下金廠という所で暫く休憩です(9:05頃)。少数民族の人たちは休憩所で情報交換している様です。
そして9:20頃に八布到着です。赤地に白で「八布加油站」(=ガソリン・スタンド)と書いて在ります。八布河の水は澄んで居て風情が有り天気が良ければもっと映えますね。麻栗坡から休憩時間を除いて約1時間10分で八布に着きました。
村のメインストリートには市が立って居て大変な混雑でした(9:25頃)。この市が毎日立つのかどうか分かりませんが、私は今日が日曜日なので特別に混んで居ると思います。
以下は市の風景です。左下は水牛の子です、ここも牛耕が行われて居ます。驢馬の背に野菜を積んで来ている人も居ます。若い女の子はズボンを選んで居ます、にこにこして居るのは店の主人です。
右から2番目は豚肉屋で、お客さんはミャオ族か。この様に雲南では女性が良く働くのです(9:30頃)。女性は大抵右下の写真の様な竹籠を背負って居ます(9:35頃)。
左は犬の肉で、真ん中から犬の足がニョキッと出て居ます。ボウルを犬の顔に被せて見せない様にして在ります(9:35頃)。
そして男はと言うと、水煙草です(9:40頃)、アッハッハ!!
ここは食堂の店先で奥で飯食ってる人も居ました。
市の風景は未だ続きます。左下は砂糖黍とバナナを売って居て、後ろに居るのがチワン族の女性です(9:45頃)。
左が青空床屋です(9:50頃)。
右はミャオ族の若い娘さんが3人で香辛料の原料を品定めして居ます(9:55頃)。
左はミャオ族の女性の全サンプルです(10:00頃)。真ん中で屈んでいる人は赤ん坊を負ぶって居ます、その左隣はお婆さん、左端の二人は小母さん、右の青い衣裳の人は娘さん、と各世代が全て出揃って居ます!
右の顔に簾(すだれ)と言うか御簾(みす)と言うか、を掛けた人はミャオ族の娘さんで私の方を見て”はにかんで”微笑して居ました。ヘーイ、チャオ!!
顔に御簾をしてる女性は他の民族衣装でも良く有りますが、やはり未婚の女性なんでしょうな。
人通りの絶えた場末に来たらビリヤードの台がやはり有りました(10:05頃)。中国ではビリヤード台を場末で良く見掛けます。
右はチワン族の人がお餅[の様な物]を焼いて居ました(10:10頃)。
左下は小母さんが鶏を測りで測ろうとして居ますが上手く測れるんでしょうか(10:15頃)。測りの部分を拡大したのが2番目の写真で、小指でバランスを取り足を縛ってある生きた鶏を分銅で測る訳ですが。小母さんの後ろの籠には生きた鶏が入って居ますが、別の箱にはアヒルの子が一杯居ました(3番目の写真)。
先程は青空床屋を見ましたが、右端の写真は青空歯医者で患者は大きく口を開けて治療して貰って居ます(10:30頃)、面白いですね。
いやぁ、市は少数民族の坩堝です。皆さんが予期しなかった写真が一杯出て来たと思います。こうして我々は自らのテレビ漬け思い込み文化 -私はテレビを持ってません- の皮を剥がす必要が有るのです!!
チワン族は大変古くから湖南省・湖北省西部で暮らした民族で、宗教は元々はアニミズム(※6)でしたが、その後は各地域に依って仏教・道教からキリスト教迄を採り入れて居ます。そしてチワン族は侗(トン)族と同じく歌垣の伝統を保持している数少ない民族なのです。歌垣については
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
をお読み下さい。
(2)八布郷から麻栗坡へ戻る - 帰りは西畴県の柏林を経由
という事で我々は10:45頃にタクシー(→後出)で麻栗坡に戻りました。ところが帰りの風景が行きとは違うのです。何故か?、それは後で判ります!
この石灰質の山(←カルスト地形に因る)は「行き」のバスでも見えました(10:55頃)。そしてセメントの材料を採掘していて発破(※x)を掛ける穴も見えます(11:00頃)。採掘風景、「行き」のバスの風景に有った?
左は綺麗な棚田です(11:10頃)。
と思っていたら右の様な大規模な棚田が現れました(11:25頃)、向こう側の斜面も棚田で覆われて居ます。これは瑶(ヤオ)族か?
それは兎も角、私が「行き」のバスで見た「小規模な棚田」では有りません...??
◆麻栗坡県を一旦出て西畴県の柏林を経由した決定的瞬間の写真
決定的だったのは左下の写真で、門の上部の小学校名が「西畴県万林小学」と書かれて居たのです(11:35頃)。その小学校名の拡大が次の写真です。
これに因りタクシーは麻栗坡県を一旦出て西畴県の柏林を経由し、再び麻栗坡県に入って盤龍を通って来たのです(→麻栗坡の地図を参照)。麻栗坡県に入ってからは昨日通ったコースで、この道は省道なので道が良いのです。
しかし、その事が解ったのは帰国して「この文章」を書く為に写真と中国製雲南省の地図を詳細に見比べて初めて解った事でした。しかも私は小学校名に「西畴県」と入っている事など知らなかった訳ですから、これは全くの偶然の結果なのです。
左上の写真をもう一度見て下さい。私が乗っている車の荷台が写って居ます、そう私は体を窓から出して殆ど後ろ向きに -こういうのをパルティアン・ショット(後ろ向き騎射法)と言いますゾ- 撮って居ます。走っている車から後ろ向きに撮る事は難しいのです、嘘だと思ったら皆さん試してみて下さい、大抵焦点がボケたり被写体が上手く入らなかったりするのです。だから偶然の結果なのです。しかし、この偶然からタクシーが通ったコースを割り出す事が出来ました!
(-_*)
こうして12:10頃に麻栗坡に戻りました。左が我々が乗った自称タクシー、車の後部は荷台が付いてる小型トラックでした。帰りのバスが無いので八布の市で急遽仕立てたのです、運ちゃんも笑ってます。昨日の六河より近いし片道なのでタクシー代は100元位だと思いますが、私は知りません。しかし帰りは休憩無しですから正味1時間25分掛かっていて「行き」のバスより15分余計に掛かって居るのです。やはり遠回りなのです(→もう一度麻栗坡の地図を参照)!
でも運ちゃん、有難う。「行き」と違うコースで楽しかったよ!!
そして小型トラックがタクシーに早換わりとは面白いですね。中国はこういう融通が利きますが日本だと無理ですね、日本は四角四面ですから、アッハッハ!
(3)麻栗坡から馬関へ
馬関行きのバスは13:00出発で余計な時間は無いので我々は簡単な昼食を麺類(=ビーセン)(※1)で済ませました(右の写真、12:25頃)。
右が馬関へ行くバスです(12:50頃)。表示には「麻栗坡-馬関 八寨」と書いて在りましたが、これは馬関県の八寨鎮にも行くという意味です。麻栗坡から馬関は方角としては西南です。
午後には少し天候が回復して来ました。
左は石灰剥き出しの山(←カルスト地形)で未だ麻栗坡県です(13:35頃)。
右は幼稚園(中国名:幼兒園)です、もう馬関県に入ったのか(14:25頃)??
馬関県にも菜の花畑が在りました(15:15頃)。
間も無く馬関に到着です(右の写真、15:30頃)。そしてバスは馬関(馬白鎮)に15:40頃に到着しました。
馬関県もベトナムと国境を接しやはり”辺境”で馬白鎮の街も田舎びて居ます。本当は左下の写真は翌朝の6:45頃に撮ったものですが編集上ここに入れます。宿名は「馬関利贏賓館」と在ります。
漢和辞典を引くと、「贏」という字は「儲け」「余り」という意味で「贏利」「贏財」「余贏」と使うそうです。「利贏」=「贏利」なので、この宿は馬関でバリバリ儲ける宿です、アッハッハ!
それにしてはタオルも汚く(←洗濯はしてある)、シャワーも貧弱です!
今日は昼飯が簡単だった為に腹が減って居たので17:40頃から晩飯とし、色々注文を付けて料理して貰いました。先ず左下は骨付き豚肉、次が鶏肉と白菜の炒め物、次は豚肉と豆の炒め物、右端は隣の席の中国人が食べていて旨そうだったのでこちらにも注文したジャガイモの千切りのお好み焼き -丸で韓国風お好み焼きのチヂミ(※7)- です。後ビールを注文しました。どれも旨かった!
ホテルで我々男連中がだべっていたら20:00過ぎに、紅一点の山村さんがサウナが在るという情報を仕入れて遣って来て皆で出掛けました。
左がその店です(20:25頃)。店の名前は縦書きの看板灯に「康洪水療休閑中心」と在ります、右に拡大写真。「楽掌 ?? 足療 休閑」と正面に書いて在ります(左下の写真)。そして中の様子を右端に拡大しました。
カウンター横の女の子が2人とドアマンが我々を「歓迎光臨」して居ます。
先程見て戴いた様に今日の旅館の風呂は戴けませんので我々は「歓迎光臨」のお誘いに乗る事にしました。あぁ、好い気持ち!!
睡眠も充分取れました、明日は愈々河口ですがバスの出発が早いのです。河口は[2008年雲南回帰の旅#2]で紹介しますので、宜しく!
今回の羅平/文山/麻栗坡/馬関は期せずしてカルスト地形の土地を経巡って来ました。中国でカルスト地形と言えば桂林ですが、ここで少し飛躍しますが、桂林のカルスト地形(石灰岩)が貴州省や広西壮族自治区を通って昆明の石林迄ずっと続いて居る様に思えます。実は今年(=2009年)の1月20日~2月2日迄貴州省を旅して来たのです。
それと今回は写真を撮った時刻を入れましたが、必ず「xx:xx頃」と「頃」が入ってますが、それについて説明しましょう。Windowsの写真(.jpg)には撮影時刻が .jpg の中に組み込まれて居り、この機能を利用して撮影時刻が判るのです。例えば写真屋さんでプリント写真に日付を入れる処理はこの機能を利用して居るのです。ですが、撮影時刻はデジカメのタイマーに依存するのです。ではこのタイマーは誰が設定するのかと言えば私です。このタイマーは或る時ぴったり合わせても、デジカメの色々な処理のため少しずつ遅れて来ます。ですから「頃」が付くのです。まぁ大体5分位の「ずれ」が有るかも知れません。
今回の旅は私にとっては半分位が2度目に訪れる所で、昔(=1999~2000年秋の旅)の思い出を呼び起こす言わば雲南桃源旅行の追体験の旅でもあったのです。例えば今回の文山の様に思い出が沢山有るのです、非常に懐かしかったですね。
そういう意味で久々の「雲南回帰の旅」は私にとって特別な感慨が湧いて来る旅でした。旅は未だ未だ続きます。
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【脚注】
※1:ビーフン(米粉)/ビーセン(米線)は、(福建南部・台湾での発音)粳米(うるちまい)を原料とした麺の一種。主に台湾・中国南部で食する。雲南地方ではビーセン(米線)と言う。
※2:菜の花(なのはな)は、アブラナの花。又、アブラナ。季語は春。「―や月は東に日は西に」(蕪村)。「―畑」。
※2-1:油菜(あぶらな、rape, cole)は、[1].アブラナ科の二年草。作物として世界の各地で栽培。ヨーロッパ原産。在来種はコマツナ/ハクサイ/カブなど多くの葉菜の母種とされる。他の一種はセイヨウアブラナで、現在、在来種に代り広く栽培。春に黄色い4弁の十字状花が咲く。大形で全草がやや粉白を帯びる。種子から菜種油を採る。葉は冬菜として食用、花は黄色、観賞用。飼料にも用いられる。菜の花。菜種菜。漢名、蕓薹(うんだい)。季語は冬。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
[2].ケシ目の一科。
※3:小姐(シャオチエ、xiaojie)とは、(男性から)女性を親しんで呼ぶ語。現代中国語で「小姐」は、お嬢さんの意。
※5:磊落(らいらく)とは、気が大きく朗らかで小事に拘泥らない様。「豪放―」。
※y:囲炉裏/居炉裏(いろり、hearth)は、(「囲炉裏」「居炉裏」は当て字)地方の民家などで、床(ゆか)を四角に切り抜いて作った炉(ろ)。地炉。季語は冬。「―を囲む」。囲炉裏の席は、
横座
┌─┐
客座 │炉│ 嬶座(かかざ)
└─┘
木尻(きじり)
上図の示す通り。木尻(きじり)が主人の座る席。
※y-1:鉄瓶(てつびん、iron kettle)は、飲用の湯を沸かす鋳鉄製の容器。「南部―」。
※y-2:南部鉄瓶(なんぶてつびん、iron kettle of Nanbu)とは、江戸時代以来盛岡地方から産出する鉄瓶で、優良のものとして賞用。
※y-3:竈(かまど、kitchen range)は、この場合、(「ど」は場所を意味する語)土/石/煉瓦/鉄又はコンクリートなどで築き、その上に鍋・釜などを掛け、その下で火を焚き煮炊きする様にした設備。かま。くど/へっつい(竈)。万葉集5「―には火気(ほけ)ふき立てず」。
※6:アニミズム(animism)とは、(anima[ラ]「魂・霊魂」から)宗教の原初的な超自然観の一。自然界の有らゆる事物に霊的存在を認めるという信仰。自然界の有らゆる事物は、具体的な形象を持つと同時に、それぞれ固有の霊魂や精霊などの霊的存在を有すると見做し、諸現象はその意思や働きに依るものと見做す信仰。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※x:発破(はっぱ)とは、鉱山や土木工事で、爆薬を仕掛けて爆破すること。又、これに用いる火薬の類。
※7:チヂミ([朝鮮語]chijimi)は、朝鮮風のお好み焼き。小麦粉・卵・韮・葱・魚介類などを混ぜて薄く焼き、辛口の垂れを付けて食べる。パジョン。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△5:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):四角四面を揶揄▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
@参照ページ(Reference-Page):西双版納の地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):カルスト地形について▼
地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):中国雲南省の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@補完ページ(Complementary):カルスト地形の桂林▼
2002年・桂林の漓江下り(Go down the Lijiang of Guilin, China, 2002)
@補完ページ(Complementary):文山三七(田七)について▼
文山三七(田七)の日中比較
(The 37-carrot of Wenshan in Yunnan, China and Japan)
@補完ページ(Complementary):アジアに共通する日本神道の原型▼
アジアに存在する日本神道の原型
(Prototype of Japanese Shintoism exist in Asia)
@横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
雲南”解脱”の旅▼
2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)
2002年の雲南旅行の番外編▼
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
米線や日本の神道の原型を思わせるもの▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
過橋米線について▼
昆明の「清真」通り('Qingzhen' street of Kunming, China)
常温ビール▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
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(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
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2003年・年頭所感-感謝の心を思い出そう!
(Be thankful everybody !, 2003 beginning)
日本の竈(かまど)に対する信仰ついて▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
侗(トン)族の歌垣や瑶(ヤオ)族の棚田について▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
パルティアン・ショットについて▼
民族占い(Comparative Ethnologic approach)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')