2008年・雲南の河口/金平etc
[2008年雲南回帰の旅#2]
(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)

-- 2008.06.04 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.07.16 改訂

※注意:このページは写真が多く、読込みに時間が掛かります。
★---暫くお待ち下さい(Wait a minute)---★

 ■はじめに - 今回の旅程

 ★このページは[2008年雲南回帰の旅#1]の続きです。ここから河口/金平に入ります。

 今回の「雲南回帰の旅#2」の旅程を[雲南回帰の旅#1]から▼下▼にコピーして置きます。

    ◆旅程の一部

        2008年3月                    <宿泊>
                ...<前半略>...
   17(月) 馬関 → 河口                   吉慶大酒店
   18(火) 河口 → 金平                   金運賓館
   19(水) 金平 → 元陽の棚田 → 新街鎮 → 緑春    天興酒店
                ...<後半略>...
    *.が2度目の訪問地


 今回行く所も田舎なので詳しく書きます、写真も多いです。しかし個々の写真は小さいという事をご了承下さい。
 尚、雲南各地の地図は▼下▼を適宜参照して下さい。
  地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)

 又、これらの地域は少数民族(Ethnic Minorities)と言われる人々が多く住んで居ますので、雲南省の少数民族については
  資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)

を参照して下さい。
 [雲南回帰の旅#1]でも書きましたが、当ページの記事は「全て見た儘有りの儘、何も足さない、何も引かない」をモットーに書いてます。それでは[雲南回帰の旅#2]をお楽しみ下さい。

 ■3月17日 - 2度目の河口

 (1)馬関から河口へ

 馬関県は苗族・壮族・彝族・回族・瑶族などの少数民族が居ます。バスは7:20に出発なので我々は簡単に朝食を済ませてバスに乗り込みました。
 左がバス(7:00頃に撮影)で「河口」という案内板とバスには「馬関-河口」と在ります。
 未だ空が暗いですね、実際には2時間の時差が有るので日本の感覚で言えば今は6:00なのです。
 右がバスからの風景で菜の花の段々畑が見えました(7:45頃)。空は大分明るく成り、この地方特有のカルスト地形の山が見えて居ます。
 ところが馬関県の仁和鎮8:00~8:30迄の長い休憩(?)が有りましたので我々もバスを降り街に在る市場を散歩をしました。左下が果物屋(8:10頃)、次がカーブしている通りに「?有福星四面照」「慈善通来八方財」と道教の文句が書かれた貼り紙がしてある門の前に座って居る小母さんたちは野菜売りです(8:15頃)。
 そしてその次が食堂の外で麺類(=米線)を食べている -朝食に米線(ビーセン)を食べるのが雲南省南部の定番- のは誰あろう、我等の運ちゃんです。運ちゃんは毎日ここで朝飯をして居るのです。ここで朝飯タイムを取るのか!、そうと知ってたら我々もここで朝食をしてたのに、このォ~!!
 右端はミャオ族です(8:20頃)。


 ここで今日行く所を地図で示しましょう。これは[雲南回帰の旅#1]で3月15日に撮った「麻栗坡汽車客運站菅運線路示意図」から採って居ます。地図で仁和を確認出来ましたね、それでは出発です!

 8:30に仁和を出たバスは8:40頃に右上の菜の花畑が在りました。霧が出ていて100m位の山の上は霞んで居ます。羅平の菜の花畑を最初に見ましたので、どうしても菜の花畑に目が行って仕舞います。

    ◆田舎のバスは面白い! - パンク、給水(五芒星)、道路工事etc、
                    主役は運ちゃん!

 私は眠く成りうとうとしてたら9:25頃バスはパンクして立ち往生です、それでは暫くパンクの風景を。左下は仁和で米線を食っていた運ちゃんがジャッキでバスを持ち上げて居ます(9:30頃)。
 右は乗客が手伝いタイヤを外している所です(9:40頃)が、それにしても汚い、こんな状態で走って居たんだ。だけどスペアタイヤもつるつる(中古品)です!
 なんとかパンクを直し9:50頃にバスは出ました。

 そして、どうやら河口瑶族自治県に入った模様です。少数民族は瑶族・苗族・壮族・彝族・傣族・布朗族などが居ます。

 バスは10:00頃に街(=河口県の橋頭鎮:橋頭鎮は馬関県との県境の街)に入るとスペアタイアを購入します。右は車の修理工場のお母さんがスペアタイヤを新たに選んでますが、どれも似たり寄ったりでしかも、又中古品です。それを小さい子供が見て居ます(10:20頃)。
 漸くバスはパンクから解放され10:25頃に出発しました。やれやれ、これで順調に進むかと思いきや、今度は給水で10:55頃に又もやバスは停車しました。右か店員が給水している所(11:00頃)で、これで又約10分の待ちが発生です。
 私は暇を持て余し周りの風景を何気無く見ていたら五芒星を見付けて仕舞いました(左下の写真、11:03頃)。これは怪しい!

 左上の写真の拡大が右です。五芒星ペンタグラム(pentagram)とも言われ「魔除け」の護符として世界的に共通です。日本では籠目紋と言われ安倍晴明の紋です。私はこういう”怪しい物”が好きなので直ぐ目に入って仕舞うのです、困ったモンですね、アッハッハ!!
 ところで拡大写真には門の左に縦書きで「河口瑶族自治県 橋頭苗族壮族郷竹林寨 村民委員会」と在り、ここが竹林寨である事が解りました。しかし竹林寨とは中々風情が有る名ですが周囲には竹林は見当たりません。
                         ↑         ↑
                        五芒星       五芒星

 五芒星や六芒星の魔除けについては▼下▼をご覧下さい。
  ダヴィデの星(Star of David)
    {このリンクは09年3月4日に追加}

 給水を終えバスは11:05頃に竹林寨を後にしました。左下のバナナ畑が現れました(11:20頃)。次は山と川の風景ですが、写真が小さく見難いですが斜面には段々畑(←その合間にはバナナ畑も在ります)と小川が見えます(11:45頃)。そして段々畑の中を細い畔道が通って居ますが見えるでしょうか。少数民族の人たちは山間(やまあい)も開墾して居ます。
 少数民族の人たちが採れた青いバナナを洗って居ます(11:50頃)。そして洗い終わったら右端の写真の様に籠に入れて担ぎ、街に売りに行くのです(12:00頃)。街迄どの位距離が有るのでしょうか(?)。


 そして12:05頃河口 19km 屏辺 86km」という標識が現れました。
 今迄一本道でしたがここで二股に分かれます、ここは南渓鎮です。役所の建物らしき壁(左の写真)には赤い字で「養好公路」と書いて在りました。この近くを澄んだ南渓河が北から南に向かって流れ河口に注いで居ます。
 すると直ぐに検問所が在り、我々外国人はパスポート・チェック -中国人は身分証明書- です。河口県はベトナム(越南)と国境を接しているので何れ検問が在るなとは思って居ましたが、2本の道が1本に合流している南渓鎮が都合が好い訳です。

 左が私たちのパスポートを持って行き書き写して居る検問所の職員です、望遠で撮りました(12:05頃)。官僚というのは、こういう非効率的な作業を勿体付けて行なう事に生き甲斐を見出して居る様です、これは日本でも同じです。
 ところで真ん中に写って居る女性職員はちょっと可愛いかったので私が向こうの女性を指差すと、このパスポートを書き写してた職員はニヤッと笑いました。この様に私は怪しいですゾ、国籍不明人ですゾ!!

 バスは12:12頃に走り出しましたが、今度は道路工事で又停車です(左の写真、12:20頃)。工事現場の通行制限をやっと潜り抜けバスは河口鎮に入りました。
 この後私は居眠りをして仕舞い、バスが南渓河鉄道(昆河線)(→後出)を横切るのを見逃しました、残念!
 今度は給油で又もやバスは停車です。もうすっかりお馴染みに成った我等の運ちゃんが給油して居ます(12:45頃)。しかし、何で終点到着直前に給油するのかねェ?、これは中国で何回か経験して居ます...(>O<)。
 右は給油を終えたバスが街中を客運站まで走ります(12:55頃)。
 以上の様な訳で、13:00頃にバスはやっと河口の客運站に到着です。ほんと、色々有りましたなぁ。田舎のバスの主役は仁和で米線を食ってた我等の運ちゃんでした、パチパチパチ!

 (2)2度目の河口(河口鎮)

 私は河口に来たのは2度目です。初めて来たのは2000年秋の雲南桃源旅行で、その時も文山から来ましたが前はマイクロバス(或いはジープ)をチャーターして来ていますので感覚が異なり、多分馬関県を通って来ている筈ですが馬関県の事は記憶に在りません。
 松岡さんは直ぐ客運站(バス発着所)に行き明日のバスのチェックです、これは松岡さんの趣味、否”仕事”です。彼は何処へ行ってもバス発着所へ行き時刻をチェックするのです、時には発着所をタクシーで探し回ったりします。でもこうした着実な情報収集は外国の僻地を訪れる際には非常に大切です。道路が土砂崩れで寸断されてたり道路工事だったりで、コースを迂回せねば為らない事が有るのです。
 右の写真は河口の「客運班線里程票価時刻表」の一部です(13:02頃)。明日行く金平の発車時刻が表示されて居ます。

 バスの時刻のチェックが済んだら次は我々の宿(吉慶大酒店)を客運站に近い所に取りました(左の2枚の写真、13:15頃)。大酒店と言う割りには小さいホテルですが部屋は広くセミ・ダブルです(右上の写真、13:20頃)。この通りは文明街でホテルの右隣は「河口国際旅行者」と、何かと便利な立地です。

 左が私の部屋からベトナム国境の眺めです(13:25頃)。向かいのビルは「西南永康綜合問診」の看板が掛かって居ます。川の向こうはベトナムのラオカイ(老街)で、この川は「赤く濁った紅河です。河口の川については後で詳述します

 右は左の一部の拡大ですが、中国人は国境から相手国を覗くのが物凄く好きで、北朝鮮国境でも覗き乍らドリンクを飲むサービスが流行って居ます。中国人(中国の漢族)の心理を分析すると、優越感に浸れるからだと思います。

 宿が決まったら昼飯です。今日の朝食は簡単に済ましたので昼飯は豪華です(13:50頃)。
 左手前が豚脂身の煮込み、奥が豚肉と葱の炒め物、それに御飯とビール、中央が水餃子です。
 そして右が酢豚です。何も豪華な事は有りません。我々は日本の中華料理の味に飢えていたのです!
 食べ終わり店を出る時に別のテーブルでは麻雀をして居ました、牌(パイ)は日本のより大きいです(14:15頃)。左のオッサン以外は年若く中学3年生位の女の子も居ますが、向こう正面の女の子だけ真剣な表情をして居るのが印象的でした。
 この店は夜は飲める店らしく酒類が置いて在りましたが、カウンターの上には蛇酒とか朝鮮人参系の酒が置いて在りました(右の写真)が、蛇酒は何とコブラ酒です(右端の拡大写真をご覧下さい、コブラの頭が見えてます)。コブラ酒は蛇酒の中でも最高級品です、これは効きまっせ!
 腹拵えが済んだら街の散歩ですが、真っ先に鉄道です。

    ◆今は休止中の国際列車 - 思い出が一杯!

 私は河口で最も来たかったのはココです!!
 左下が今は運休中の国際列車(=滇越鉄道)のベトナム側の線路で、今ではここで「限定区域禁止入内」と在り入場禁止です(14:25頃)。

 右はもう少しアップで撮った写真で駅員か監視員(?)が1人が居ます。鉄道橋(→後出)はカーブした先に在るので、ここからは見えません。
 いやぁ、思い出しますね、2000年秋の雲南桃源旅行を。朝8:00に国境ゲートを開くとベトナム人(←例の菅笠(→後出)を被ってる人が多い)が鉄道橋 -橋の真ん中に単線の鉄道線路が在った!- を走ったり自転車に乗って渡って来て、中国人の入国審査官に身分証明書を差し出しチェックを受けるのですが、1度に100人以上ですから大変です。チェックが済んだ人は大急ぎで中国側に入り、大抵は女性(←これは雲南のパターン)が天秤棒を担ぎ売る商品を夫々の持ち場に運んで行き、中にはこの辺で荷物を広げて商売開始する人も居ます。商品は小エビとかの海産物、鶏、野菜、雑貨品などでした。ベトナム人の活力とパワーが強烈に伝わって来る光景でした。しかし逆方向(=中国からベトナムへ)に移動する人は殆ど居ません、これが両国の国力の差なのです。
 その入国審査官が居た場所は鉄道橋の直ぐ近くで、見ている私たちからも鉄道橋の向こう側のベトナムが見えたのです。ですから今は国際列車が通っていた頃よりも相当手前で入場禁止、しかも鉄道橋はカーブした先に在るので見えないのです。

 左下国際列車の中国側(=昆河線)の線路で、踏切も在ります(14:35頃)。この踏切もこのカーブも思い出が有ります(向こう側が昆明)。

 私たちの有志は朝早い時刻に昆河線が遣って来るというので、ここで列車を見る為に踏切の警報音が鳴るのを待ちましたが中々列車が遣って来ない。やっと列車が来ると塞翁は走って来る列車に歓喜して居ましたね、丸で子供の様でした。
 私は左の写真の左側に鉄の塔に2m位攀じ登り高い所から到着する列車を見ました、私も子供ですな、アッハッハ!!

 ここで国際列車の滇越鉄道「滇」雲南省の別称(昆明に滇池と言う湖が在る)、:ベトナム)について説明しましょう。上の3枚の写真で見る様に、レールの幅(=軌間(※1))は1m位です。日本は狭軌(※1-1)が標準ですが中国は広軌(※1-2)が標準なので、これは軽便鉄道(※1-3)に相当そる軌間です。もう一つメーターゲージ(※1-4)と言うのが在り、軌間は1m丁度日本が戦時中に東南アジアのタイ/ミャンマー/マレーシアなどに敷設した軌間です。尚、国際規格は広軌です。
 以上を、ちょっと一覧表で表すと、

      狭軌(標準)  広軌/新幹線   軽便鉄道
  日本   1.067m     1.435m     0.762m

      広軌(標準)         狭軌(軽便鉄道に相当)
  中国   1.435m             1.067m

の様に成ります。
 そして1996~2003年の途中迄、

          滇  越  鉄  道(855km)

  中国側(昆河線)=469m        ベトナム側=386km
    昆明北 ⇔ 河口     河口=ラオカイ(老街) ⇔ 首都ハノイ

という国際列車が走って居たのです(以後は昆河線の貨物列車のみの運行)。

 [ちょっと一言]方向指示(次) この鉄道は1898年に当時ベトナムを植民支配していたフランスが測量を開始し、1905年ベトナム側が、1910年全線が開通しました。中国側ではこれを滇越鉄道と呼びますが、中国の昆河線は高度差1800m以上、橋梁・トンネル総数3400余約6万人が動員され1万2千人が工事で死んだと伝えられる難工事でした。
 開通してからも紆余曲折が有り、戦争中の1940~42年に国民政府は日本軍が中国奥地に侵入するのを未然に防ぐ為に碧色寨~河口を破壊しました。戦後の1957年に同区間を復旧、しかし1960~75年ベトナム戦争(※2)、1979年には中越戦争(※2-1)の為に運休、1996年に再び国際列車を運行、しかし2003年昆河線の貨物列車のみと成りました。この後どう成るんでしょうか?


 我々の仲間の松岡さんが1999年4月7日~8日昆河線に乗ってます(中川さんのホームページ)。この列車は7日の14:55に昆明北駅を出て、翌8日の7:10に河口駅に到着するもので、途中拳銃で武装した乗務員(公安?)に依るパスポート・チェックが在り、速度は時速20~30kmでトンネルや鉄橋が多い線路をギシギシ軋ませ乍ら走った、と記して居ます。そして高度差1800m以上を下って来るのです。現在運休中なので、この体験は非常に貴重です。

 もう少し見て行きましょう。左下は河口駅舎で正面に「河口站」と在ります(15:30頃)。この写真の左側の建物は「国際候車室」(INTERNATIONAL WAITING ROOM)と在り国際列車の待合室ですが、今は使われて居ません。
 右の建物には「1897」と在りました(14:35頃)。これは元々は1897(光緒23)年にフランスが建てた税関所跡で、今は「河口起義紀念館」として人民共和国を打ち立てた歴史を展示して居ます。何故こんな物がここに在るのかと言えば、1884~85年清仏戦争(※2-2)の勝利に依りフランスのベトナム支配権が確立した訳です。

 我々は国境の橋を見に行きました。左が先程から名前の出ている鉄道橋(14:40頃)で、向こう側はベトナムのラオカイ(老街)です。橋の下を流れる蒼く澄んだ川は南渓河です(河口の川については後で詳述します)。
 鉄道橋にはもう一つ思い出が有ります。塞翁始め雲南桃源旅行の面々は鉄道橋の係員に20m位渡らせて貰い皆で写真を撮ったり、ベトナム側から見た中国を撮ったりました。雲南桃源倶楽部の中には、その写真を持ってる方が居る筈です。本当に懐かしい!!

 そして右の写真が近代的な中越公路大橋 -この橋は2001年に作られたので前回来た時には無かった!- のです(14:40頃)。右端は拡大写真でベトナムの国境ゲートと出入国管理事務所(=イミグレーション)(※3)です。背後のノッポビルは知りまへん。橋の下を流れる川は南渓河です(河口の川については後で詳述)。

 私は中越公路大橋の裏手に回って見ました。やはり在りました、ベトナムに送る製品の検査をする所です。ここは貿易管理事務所で青い壁には「貿易管理」「海関検査」と書いたプレートが在りました(14:45頃)。

                (Υ)

 鉄道が済んだので街の散歩です。
 河口鎮は河口県の最南端に位置し、北回帰線より少し南なので熱帯雨林気候で海抜も76mと低いので夏は40℃に成る事も有るとかです -日本でも最近は40℃を超える事が有る!- が、年平均気温は22℃とノーマルで、今は3月なので乾季で快適です。
 左はガジュマルの並木(※5~※5-2、16:10頃)で、これも懐かしい光景です。河口は何処と無く”開放的”な感じがしますが、それには訳が有るのです...。
 下の3枚は市内の大通りを走る自動車です。先ず左下が電気バス(←3人掛けの椅子が2段と運転手の隣が1つ、7人乗りみたいです)が3台並んで近代的なビルを背景に走って居ます、スピードはそんなに出しません(16:15頃)。中国では観光地に行くと必ずと言って良い程電気バスが有り、河口はそんなに観光地だったのか、と思って仕舞いました。バスの窓には「河字」と書いて在りますので目的地の名前でしょう、車体には「中国聯通 china unicom」と運営会社名が在ります。この電気バスは前来た時には無かったと思います。
 中央下の様に同じ大通りで唸りを上げている耕運機みたいな車も走ってます。ここは中国、何でも有りです。
 右下は可愛い姉ちゃんが運転手でした、やはり窓には「河字」と在りました(16:20頃)。
  

 さあ、下が夕方の中越公路大橋近くのベトナム人行商たち -と言うよりも「国境を跨いだ出稼ぎベトナム人」と言った方が当たっている- の帰りの行列で改造自転車が凄い(16:20頃)。上に記した様に朝中国に入国して1日中商いをした人たちが今度はベトナムに帰る為に出国する為の行列ですが、ご覧の通り帰りは中国で仕入れた商品で一杯です、野菜が溢れている人も見えます。
 その次が菅笠の拡大 -この拡大した姉ちゃんは私が写真を撮るのをずっと見詰めて居ました- で殆どの人が菅笠を被って居ます、これは最早トレードマークですね。それと約90%は女性です、雲南省やベトナムでは女性が本当に良く働きます
 その次は改造リヤカーですが、これだけ長かったら滅茶苦茶荷物を積めます(16:25頃)。そして右端が少数派の若い男性の改造自転車で荷物を目一杯積んで居ます(16:30頃)。


 この改造の自転車/リヤカー中越公路大橋が出来た以後に生まれました、前来た時には有りませんでした。前はベトナムの人たちは普通の自転車やリヤカーに荷物を一杯積んで鉄道橋を渡って居たのです。
 △1に拠ると、「ベトナム側の規定によると、自転車とリヤカーで貨物を運び税関を通過すると国境住民の貿易は関税が安い。しかし車で貨物を輸送するのは国際貿易に属し、関税はずっと高い。だから大多数のベトナムの商人は、改造した自転車とリヤカーで貨物を運び、1回で3トン迄を運ぶことが出来る。」という事です。フーム、成る程。ベトナムのラオカイには3トン積める改造自転車/リヤカーを造る修理工が「ようけ一杯」居るんでしょうな、或いは改造品が製品に成ってたり。
 何れにしてもフランスやアメリカを追い出しベトナム戦争に勝利したパワーは健在です!!

    ◆河口の売春宿 - 全ては需要と供給

 我々は16:35頃から裏通りを回ってみました。河口の中越公路大橋の周辺にはベトナム人が暮らしベトナム人の市場が在ります。1階は単なる市場ですが2階へ上がると中央の吹き抜け部分の周りに美容室が多く在り他には雑貨屋など、店の看板を出してない所も更に多く在ります。全部で20部屋位ですかね。我々が上がって行くとベトナムの姐ちゃんたちがアオザイ(※7)を着て明るく話掛けて来ます。でも私たちは”商品”を買いに来たのでは無いと直ぐに悟った姐ちゃんたち -だってそうでしょ、もし”商品”が目当てなら紅一点の山村さんは連れて行きませんよ!- は、明るく冗談を言ってました。3階も同様です。この市場の階上は昼から”美容室”が売春宿に早換わり、”夜の蝶”が跋扈する深夜には更に怪しい雰囲気を醸し出すのでしょう。
 売春街は国境の街には付き物です。自由な社会では物事は善し悪しでは無く需要と供給の関係で決まり、河口ではそれが一定のバランスを得ているのです。例え売春であろうと麻薬であろうと需給関係 -これは「自由主義経済の大原則」です!- が全てです。我々も長居をしてお姉様方の商売の邪魔をせぬ様に15分でここを出て来ました。
 河口では”美容室”とか”髪廊”(床屋)とかが”売春”の隠語(※9)に成って居ます。実際、”床屋”では男の口入れ屋が値段交渉をして居ます。では”一発ナンボ?”と言うと、中国人が200元位(相場通り)であるのに対しベトナム人は50~60元だそうです、つまりこれが国力の差なのです。河口は出稼ぎベトナム人の街、余り難しい事は考えない、気持ち良かったらエエやんけ(←実に大阪的発想ですな)。それがこの街を開放的に感じさせて居ると思います。この記事は写真無しでした。

                (-_*)

 我々はホテルの方へ帰り、小池さんが麺類が良いと言うので近くの食堂で米線(ビーセン)を食べました(18:15頃)。私はご覧の様に唐辛子と葱 -トッピングは各自の自由- をたっぷり入れました、雲南は第2の故郷ですから。しかし、今日の昼あれだけ豪華な昼飯を食ったので、もう余りこってりした物は食べれないのです。歳を取りました、我々も!
 私は2度目の河口の印象と前来た時の思い出と、色々考えました、特に両国の「国力の差」という事を。そして、ふと外の景色をカーテンを開けて見たのです。
 右はホテルの部屋から22:30頃に撮ったもので、昼と同じ方角で「西南永康綜合問診」の看板が見えて居ますが、このビルの2階は喫茶店でこんな時間に随分客で賑わって居ます。これも国境の街の開放感からかも知れません。昼間見た様に、写真の右側が南渓河でその向こうはベトナムなのです。
 私は寝なければ為りません、お休みなさい!

 ■3月18日 - 河口から金平

 (1)河口県を北上 - ベトナム国境沿いに紅河を遡上

 今日通るコースは2000年秋に通って居ます。左下は我々の泊まった吉慶大酒店の姉ちゃん、ちょっと可愛い子でした(7:05頃)。
 この後、我々は客運站(バス発着所)に行きました。右が我々が乗る小型バスです、小池さんと山村さんが写って居ます(7:15頃)。バスは7:40の出発です(←昨日確かめた時刻表では7:30と在りましたが、窓に「河口7:40」と書いて在りました)。このバスは「金平金運有限責任公司」の運営です。

 右が昆明から来た夜行寝台バスです、後ろの窓に「河口-昆明」と書いて在ります(7:35頃)。昆明からはバスも鉄道の昆河線と同じくカーブがきつく高度差1800mを下って来る -上りの方が更にきつい- ので、それにバスの汚さがら言っても兵(つわもの)向きです。バスに乗ると直ぐにビニール袋とミネラルウォーターが渡されるそうです、何に使うのかって?、バス酔い対策です。

    ◆河口鎮の川 - 「蒼く澄んだ南渓河」と「赤く濁った紅河」

 河口鎮を発ったバスは8:55頃(=バスが出発してから1時間15分後)に左の車窓に「赤く濁った川」が見えます(右の写真)が、これが紅河(中国名:元江です。対岸はベトナム砂利を採掘して居ます。
 実は河口鎮は「蒼く澄んだ南渓河」と「赤く濁った紅河の合流点なのですが、更に詳しく言えばその合流点は昨日見た中越公路大橋の数10m下流(=ベトナム側)に在り、そこから先をホン河(旧名:ソンコイ河、ベトナム名)と言います。そこでは「蒼く澄んだ水」「赤く濁った水」が混ざり合う光景を見る事が出来ますが、残念乍ら中国側からは見えないのです!
 南渓河は蒙自県に発し昨日通って来た南渓鎮を流れ、一方の紅河は雲南省北部の大理辺りに発しこれから向かう元陽の方から流れて居ます。紅河が赤いのは雲南地方独特の赤土(※12)の所為で、要するに鉄錆の色なのです。皆さん良くご存じの黄河は黄色い土砂を、紅河は赤い土砂を、それぞれ大量に運んで居るのです。
 私は2000年秋に来て居ますので「赤く濁った紅河は非常に印象が強く忘れられません。

                (-_*)

    ◆国境は面白い!!

 下の4枚の写真はバスの左側車窓から撮った対岸のベトナムの風景です。

 左は驢馬が荷物の運搬をしたりベトナム人が何か議論をして居ます(9:00頃)。
 右はベトナムの山間地にも家が在ります。この写真は望遠です。
 ところが、向こう側(ベトナム)から5人の男性が舟でこちら側(中国)に遣って来ます(9:10頃、右の2枚の写真)。オイオイ、国境でそんな事して良いのか?、中越戦争(※2-1)の時はどないしてたんや??
 これだから中国は面白い。舟に乗って居るのは多分中国人です。私はこれと似た様な光景を北朝鮮の国境でも見て居ます。これだから国境は面白い!!、ウワッハッハ!

                (^v^)

 バスは9:30頃に蓮花灘(新街)に付きました、もう対岸は金平県です。ここで休憩で、私は暇潰しに写真を撮りました。

 左の果物屋では奥の方からパイナップル(←実を取り出し割り箸に指したもの)、林檎、そして一番こちら側に白い紙に包み台に「木瓜」と書いて在る物を売ってました(9:35頃)。林檎の入っていたダンボールには「水晶紅富士」と在り日本の林檎の「富士」という銘柄を彷彿とさせます。

    ◆「木瓜」とは?

 さて、その「木瓜」とはカリン(榠樝/花梨)(※15)でした。しかし、これを日本人に説明しようとすると話がややこしく成るのです。何故か?、と言うと日本ではマルメロ(←これを日本では「木瓜」と記します、※15-1)の事をセイヨウカリンとか単にカリンとか呼び慣わして居る -生産地の松本辺りでもそう呼びます- からで、この混同は相当古く江戸期からされて居た様です。その原因は中国から伝わった漢方薬でカリン(榠樝)から抽出した利尿・鎮咳剤木瓜(もっか)(※15-2)と呼んだことに在るらしいのです。
 しかも話を更に混乱させて居るのは、カリン(榠樝)もマルメロも生では食べられないのですが、両方共芳香が在る為にジャム砂糖漬け果実酒にするのです。簡単な見分け方はマルメロは綿毛(或いは産毛)に覆われて居ます。
 まぁ兎に角、中国では

    中国:木瓜 → カリン(榠樝/花梨)

の事です。

                (-_*)

 果物屋の向かいは「新街汽車客運站」と在り、又「客運賓館」の看板が在り、要するに1階がバスの発車場で2階以上が客運賓館というホテルです(左の写真、9:35頃)。
 右は改造型バイクタクシーで田舎街には未だ在ります。
 バスは10分後に走り出しました。

 どうやら河口県を抜けた様ですが、ここは何処か?
 右の写真の右側に城壁に様な壁が続き、左側は紅河で対岸は金平県です。10:20頃の撮影なので右側は箇旧市です。と言うのは帰阪してから地図で調べると、この辺は屏辺県、蒙自県、箇旧市の”境の地域”なのですが紅河と接して居るのは箇旧市のみなのです。

 10:38頃箇旧市の蔓耗鎮に入りました。左下が街の風景です。この写真の中央奥を拡大すると「紅河州百姓大荷房」という看板の店が在りますが、店は小さな雑貨屋の様です。しかし、この看板は良いですね、笑えます!

 同じく左端の女の子を拡大したのが右で、こんな田舎にしてはルックスは良いですな、後ろ向きだったのが残念!
 蔓耗鎮はあっと言う間に過ぎ間も無くバスは左折し紅河を渡ります。

 (2)金平県を南下

 下流 ←紅河← 上流
 左の写真は、我々のバスが左折し橋をこれから渡ろうといている所(10:40頃)で正面のマイクロバスは対抗車です。下を流れているのが紅河で、橋のこちら側が箇旧市、向こう側が金平県です。この橋の名称は後でネットで調べたら蛮耗橋です。

 右の写真は蛮耗橋を渡っている最中(10:41頃)で、紅河の下流方面が見えて居ます。しかし本当に「赤く濁った紅河です!
 この橋はとても印象的で、前に来た時もこの蛮耗橋を渡った事を良く覚えて居ます(→蛮耗橋については又後で触れます)。ですから私は蛮耗橋を是非撮ろうと思って居たのです。


 ここで、これから参照する地図 -これは金平の客運站(バス発着所→後出)の「金平金運有限責任公司 菅運線路図」というバスの路線図- を右に載せます、蔓耗や金平が確認出来ますね。
 金平苗族瑶族傣族自治県に入りました。少数民族は苗族・瑶族・傣族・哈尼族・彝族などが居ます。河口は国境の街なので両国の人的交流が有り街は賑わって居ましたが、金平県は蛮耗という田舎村から南下します。まぁ、要するに金平は”辺境”ですので、そのお積もりで。
 尚、金平は雲南桃源倶楽部の仲間・尹君の故郷です。

 ところが蛮耗橋を渡ったと思ったらバスは直ぐに停車しました、又検問(パスポート・チェック)です、アヘ~ェ!

 この前来た時の検問の記憶はもう有りません。左の写真は軍人さんが歩いて居ました、右端は我々のバスです(10:51頃)。
 右はここで朝飯/昼飯(=米線)を食べる人たちです(10:54頃)。
 私は痺れを切らせてバスの傍に遣って来た猫に猫語で「ニャーオ」と言ったら猫は立ち止まりこちらを見て居ますのでパチリ(11:09頃)。
 バスは11:10頃やっと出発しました。昨日と同じくバスの出発が早かった -今日は7:40、昨日が7:20- ので、ここで30分の朝飯タイム(←昨日も30分でした)を取ったのです。解ったゾ、中国式バス時刻表の決め方が!

    ◆金平の棚田(梯田)

 私は居眠りをして仕舞いました。もう大分走り棚田(中国名:梯田)が見えて来ましたが、棚田を下から見上げるとちょっと解り難いかも知れませんね(左の写真、12:25頃)。
 その直ぐ後で車道のカーブを歩く”尖り頭”のヤオ族 -紅頭ヤオ族と呼ぶ(→後で詳述)- のお年寄り(←男女は不明)を見付けました、紅頭ヤオは前回も金平で見ているのです!
 バスは棚田の斜面を登り切り棚田を上から眺める位置に僅か1分で来ました(左の写真)。でも”尖り頭”のお年寄りはどの位時間が掛かるのでしょうか?

 右上は12:32頃の棚田の風景です。こちら側の斜面は急斜面で遥か下方に向かい側の斜面が在り、その向こう側の斜面も棚田で一杯です(←細い線が沢山見えますが、それが棚田です)。

 [ちょっと一言]方向指示(次) 元陽の棚田(ハニ族)が大規模で有名ですが、この金平の棚田(ヤオ族)も中々規模が大きいです。ヤオ族は大規模な棚田を作ることで知られ広西チワン族自治区龍勝の棚田を私は2002年に訪れて居ます。雲南省では多かれ少なかれ農民は棚田(中国名:梯田)を作らないと遣って行けないのです。ここら辺りで何処に平坦な土地が在りますか?、答えは明らかです。ですから雲南ではハニ族・ヤオ族・ミャオ族など比較的大規模な棚田を作る民族に限らず、彼方此方で小規模な棚田を見ることが出来ます。断って置きますが棚田は人に見せる為に作っているのでは無いですゾ!生活の為なのです。寧ろ西双版納の方が雲南省では例外的に平坦で広範な土地に大規模な水田を作れる幸運に恵まれているのです。



 峠の街、阿得博にバスは着きました(左の写真、12:35頃)。
 街は工事中でした(右の写真)。バスはこの街をゆっくり通過しました。

 13:10頃に再び棚田が見えて来ました(右下の写真)が、ここは哈尼田という地名で文字通り哈尼族(ハニ族)の棚田です。ハニ族は明日我々が行く元陽の大規模な棚田で有名です。

                (-_*)

 (3)2度目の金平(金河鎮)

 13:30頃金平(金河鎮)に着きました。検問を終え蛮耗を発ったのが11:10頃ですから蛮耗から金河鎮は正味2時間20分です。
 松岡さんは直ぐ客運站(バス発着所)に行き明日のバスの発車時刻のチェックで、右は「金運客運站班次時刻里程票価表」の一部です。今回のバス発着所は...何と我々が泊まるホテル(金運賓館)の隣でした!

 それからホテルに荷物を置いて少し休憩し14:30分頃に近場の食堂で昼飯です。左はさっぱりと野菜スープソラマメの炒め物、右がカリフラワーの炒め物肉団子です。中々洒落た味でした。

 昼食後は散歩し或る1軒の民家を見学させて貰いました(15:30頃)。庭には地鶏や名前の分からない果物が生り、軒下はツバメが巣を作って在りました。私は家のお婆さんと奥さんの被り物の写真を撮らせて貰いました(左右の2枚)。
 左がお婆さん、後ろで娘さんが笑って居ます。右が幼児を抱いたお母さんです。2人共黒い布を編んだ物を被り、お婆さんは更に濃紺の少し先の尖った帽子の様な物を付けて居ます。
 彼女らはヤオ族です。ヤオ族の衣裳は多彩なヴァリエーションが有り驚嘆します。

 小学校が在りました(右の写真、15:55頃)。尹君の御両親は2人共小学校だか中学校だかの先生をして居ました。尹君はどの小学校なのでしょうか?
 この前来た時(=2000年)は尹君は通訳として同行して無かったと言ってました、彼が同行したのは1999年だけです。もう記憶が曖昧に成って居ます。2000年の時は尹君のお母さんが学校の前で私たちを出迎えてくれたのです。

    ◆紅頭ヤオ族

 街に出ると”尖り頭”を時々見掛けます。下の左2枚がお婆さんと頭部の拡大で良く見ると耳にイヤリングをして居ます。
 左から3枚目もお婆さん、耳のイヤリングがはっきり見えます。
 そして下段がお爺さんですが、この写真は翌日19日にバスの中から撮りましたが、編集上ここに入れます。このお爺さんもイヤリングをして居ます!
 私は前回来た時に”尖り頭”に非常に驚かされた事を今でもはっきりと覚えて居ます、それ程インパクトが強かったので、先ずこれを紹介します。これは紅頭ヤオ族と言います。前回見た時は朝市で”尖り頭”を見ましたが、その朝市の場所とかは覚えて居ません。
 

 特に頭部の拡大写真(女性)を良く見て下さい、頭をバンドで固定して居ます。色と言い形と言い丸でニワトリの鶏冠(とさか)です。トサカは雄(♂)だけですが、ご覧の様に女性も居ます。そして男性は頭を剃り上げて居ます(右の写真)が、拡大写真の女性も剃り上げて居ます。右上の女性は剃り上げ部分が伸びて居ます。
 又、前回来た時には塞翁が明らかにしてますが、このトサカを解(ほぐ)すと唯の赤くて四角い布です、芯など入って居ません。それと先程見たお年寄りと今回私が見たのは全て老人でした、若い人の”尖り頭”は見て無いです。トサカを付けるには何かのルールが有りそうです。
 ヤオ族は可なり広範囲に分布して居ますが紅頭ヤオ族は金平県にしか居りませんので、是非じっくりと観察して下さい。
 尚、「資料-中国の55の少数民族」の中では紅頭ヤオ族は「紅瑶」 -訳語は色々在る- と成って居ます。ヤオ族の人たちは非常にヴァリエーションが多い民族です。

                (-_@)

 16:15頃、我々は街のメインストリートの散策を始めました。左下の写真を見て下さい。この車は燃料のプロパンガスを積んで居ます。では、馬の毛皮を背中に着て、この小父ちゃんと小母ちゃんは何して居るんでしょう(16:15頃)?
 判りました、右の写真を見て下さい(16:30頃)。これも馬の毛皮を付けて、燃料を背中の籠で背負って居るのです。右の先に歩く小母ちゃんは私の顔を”ぎょろりと見て居ますが”ハニ族です、頭の被り物が先程民家で見たのと同じです。しかし、この籠は普段はニワトリとか野菜を積みますが燃料も運ぶんですね!

    ◆蝉を食する文化

 左の人たちは何をしてるの?、問われれば彼女たちは休憩です(左下の写真、16:50頃)。今は休憩してますが背後に燃料を運んでた小母ちゃんと同じが見えますので、この籠で何かを運ぶのです。
 右の女の人は撮(つま)みを売ってますが、赤い姉ちゃんが売っているのは小さな川エビで、青い小母さんが売っているのは何と蝉の幼虫です!

 我々は市場に行きました(左の写真)、今は14:50頃です。山村さん、小池さん、松岡さんの姿が見えます。
 私は市場でその蝉の幼虫を見付けて仕舞いました(右の写真)。多分クマゼミ(熊蝉)です。前も何処かで見ましたが写真に撮るのは初めてです。
 私が金平のホテル(金運賓館)から失敬して来た『辺陲明銤-金平』(△2)という小冊子(パンフレット)の中に傣族の「伉緬節」(4月18日、金水河鎮)という祭の事が載って居て、「日落噪抱叶响、月明人喧舞春深-傣族”伉緬節”」という説明文と共に深夜に若い男女が細い棒とビニール袋を持ち羽化直前の蝉の幼虫を捕らえる写真が掲載されて居ますので、この傣族の「伉緬節」の写真をスキャンして右に載せます。すると蝉の幼虫を売ってた人は傣族(タイ族)なのでしょうか?{この「伉緬節」の記事と右の写真は2017年7月16日に追加}
 虫食文化は世界を遍く覆って居ます。中国の虫食文化については
  中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)

を参照して下さい。蝉食の文化は北米やカナダにも有り -元々はアメリカインディアンの食文化(※17)- 有名なのがジュウシチネンゼミ(十七年蝉)やジュウサンネンゼミ(十三年蝉)を食する習慣です。これらの蝉が羽化する期間が13年とか17年素数(※18) -1を除いてその数でしか割り切れない- に成っている事も不思議です、これは前から昆虫学会では指摘されて居ますが有力な説は未だ無い様です。
 ところで、日本に居る普通の蝉でも蝉が成虫に成るには5年位掛かるのです、年の為。日本の虫食文化については
  日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)

をお読み下さい。{このリンクは10年12月14日に追加}

                (*_@)


 左の写真は生卵を10個ずつご覧の容器に入れて売って居ますが、山村さんはこの容器が懐かしいと言ってましたが、私は全然知りません(17:00頃)。え、山村さんは戦中派なんですか?、まぁ止めましょう、女性の歳を詮索するのは。
 左の女の子は10個は多いから3個だけ頂戴、なんて言ったみたいで右のヤオ族の小母ちゃんは今容器を解いている所です。いやぁ、中国は面白い!

 右は「山泉茶坊」という茶店です(17:15頃)。松岡さんと山村さんが覗いて居ます。松岡さんの頭の所に有る「茶」を拡大がその右です。これは普洱茶を固めたもので普洱地方(=雲南省普洱市(旧:思茅市)の周辺)に行くと良く見掛けます。


 最後はマンホール蓋です(左の写真、17:50頃)。「金平城建局 2000年」と在るので2000年のミレニアム(millennium)を記念して造られたものです。他に「雨汚 水」「雲南玉渓?冠南公司」と鋳造されて居ます。2000年と言えば前回私が金平に来た年ですね。
 中国のマンホール蓋を載せたのは初めてです。日本のマンホール蓋は色々な絵柄が在り面白いのです。

 散歩を終えて、正面が我々が泊まるホテルの金運賓館(左の写真) -最上階に「金運賓館」のネオンが在るが未だ点灯してない- で、バスの発着所が左隣に写って居ます。写真から食み出して居ますが「金運客運站」と在ります。

 我々はホテルを通過し晩飯を食いに行きました、時刻は18:00頃です。この日はホテルから5分位の小さなラーメン屋で、色々トッピングで具が選べるラーメン(鶏肉と野菜)を食べましたが、これが実に旨かった!
 18:30頃店を出てゆっくりとホテルへ帰りましたが途中で左の写真をパチリ。ヤオ族のお婆さんです、ヤオ族にも色々在ります。
 ところで18:30頃なのに空は未だ明るいのです。その訳は中国は全土北京時間を標準にして居ますので公式の時差は1時間なのですが、実は雲南省は時差が2時間在るのです。ですから北京時間で時刻を記して居ますが日本の感覚では今は17:30頃なのです。

 右の月はホテルの窓から撮りました、19:37頃です。この日は旧暦の2月11日、月齢10.4です。私は日本の月を撮って居ます。興味有る方は「月見の宴」をご覧下さい。
 

 ■3月19日午前中 - 金平から冷墩へ

 (1)金平から蛮耗へ - 昨日通った道を引き返す

 我々はホテルで朝食を終え7:30頃ホテルを出ました。左下はヤオ族の小母さんで被り物が独特です(7:40頃)。
 バスは8:00発の予定でしたが、これが出なく成り次の8:40発で行く事に成りました。右は我々が乗る箇旧行きのバス(7:45頃)で、次の目的地の元陽に行くには何処かで乗り継がなくては為りませんが、それは中国語が得意な山村さんに任せます。客運站はホテルの隣で、
      ホテル
    
    
    
という位置関係です。
 それでバスに乗り込んで暇を持て余して居たら、我々の泊まった金運賓館の前は”通勤”で結構人通りが多いのです(左下の写真、8:10頃)。しかし日本の様にサラリーマンを想像したら行けませんゾ、サラリーマンは籠など背負いませんよ。でも”通勤”してる事は確かです。彼等は畑とか市に行き原材料を仕入れ街で売るんだと思います、昨日の街の様子から。
 それから暫くしたら紅頭ヤオ族のお爺さんと、その右の女の子たちが現れました(中央下と右下の写真(拡大)、9:20頃)。これは昨日お目に掛かれなかった平頭ヤオ族で、黒ずくめの衣裳頭巾の様な被り物も印象的ですが、彼女たちは結婚すると眉毛を剃るのです。日本の江戸時代の女性も結婚すると眉毛を剃り御歯黒をしました。

   籠        籠
   ↓        ↓


 我々は金平(金河鎮)から蛮耗橋迄は昨日通ったコースを引き返しますが、前回来た時には先に進み金平→者米→緑春→元陽のコースで元陽へ行ってます、言わば南回りのコースです。前回はマイクロバスやジープをチャーターしてますからコースの選択はより自由でした。
 バスは予定通り8:40に予定通り出発し9:00頃に昨日見た哈尼田の棚田(=ハニ族の棚田)が又現れました。


 それから直ぐに紅頭ヤオ族の男女が何かの遺跡 -石碑には「上戸寨下寨」と陰刻- に集まって居ました(右は石碑の拡大、9:03頃)。

 9:25頃に阿得博を過ぎ、又棚田が見えて来ました(右下の写真、9:40頃)。昨日初めて紅頭ヤオ族のお年寄りを見た辺りです。

 私は地べたにへばり付く様な曲がりくねった棚田(梯田) -金平の様な- が大好きです。こんな棚田を山の天辺から谷底迄作る心は素晴らしいと思います。と同時にこんな山間地迄棚田を張り巡らさなければ為らないという事に思いを致さねば為りません。
 私は日本の棚田について紹介記事が有りますので興味が有る方は是非▼下▼を覗いて下さい。特に曲がった棚田や世界の大規模な棚田についても紹介して居ますので[米食日本の棚田の美]シリーズを是非ご覧下さい。
  2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)
    {このリンクは10年6月1日に追加}

 8:40に出発したバスは10:05頃から我々の前に1台バスが居て蛮耗迄即かず離れずでした(左下の写真)。ここは何処だ?
 金河鎮からバスで1時間25分の所は多分、大寨からの道と合流する所だと思います。先を行くバスも大寨始発ではないかと思います。そして前のバスには後ろから見て左に「蛮耗」、右に「箇旧」と書いて在ります、つまり「蛮耗」を経由して「箇旧」迄行くという意味です。写真に写っている足は”私の足”ですので”足からず”、アッハッハ!!
 ところで「蛮耗」とは「蔓耗」と同じなのか違うのか?

    ◆「蛮耗」と「蔓耗」 - 厳密に使い分けて居る

  [1].「蛮」も「蔓」も読みが man で同じで置き換わって居るとする説。中国では時偶こういう事が在り私も何回か経験して居ます。
  [2].「蛮耗」と「蔓耗」とは厳密に使い分けて居るとする説(←昨日確認した時刻表にも「蛮耗」と書いて在ります)。

 ここでヒントに成るのが金平県の蛮耗橋です。金平県の「蛮耗」と箇旧市の「蔓耗」の違いを説明するのに少し先迄のコースを図示すると▼下図▼の様に成ります。


     │     箇旧             │
  建  │     ↗               │  河口県
  水  │    箇旧市         蔓耗鎮 │
  県  │←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←←我々の進路
  ──││────────────││────┴─────────────
    ││       紅河   ││金平県の蛮耗橋
  ──││────┬───────││───────────┬──────
  元  冷墩     │  金平県   蛮耗           │ ベトナム
  陽       │        公安詰所        │
  県 元陽(南沙) │        (パスポート・チェック)│
          │                     │
    棚田(梯田) │       金平(金河鎮)       │

  *.「鎮」は「県の下の行政単位」を表し「比較的大きな街」を指す。

 つまり、「蛮」も「蔓」も読みが同じ所は[1]を採用してますが、[2]の「蛮耗」「蔓耗」とを厳密に使い分けて居るという事が解りました。今日通るコースは、金平県の「蛮耗」を通り箇旧市の「蔓耗」は通らないのです。だからバスの時刻表にも「蛮耗」と書いて在る訳です。私もここは厳密に使い分けて書きましょう。
 しかし、それもこれも外国との国境が在る所為です。国境が無かったら紛らわしい「蛮耗」など作らなくても良かったのです。日本は陸を接する国境が在りませんので、やはりそういう国を見る事はとても勉強に成りますゾ!

                (*_@)


 さて、バスと我々のバスの間に”おんぼろトラック”が割り込みました(左の写真、10:40頃)。後ろの荷台に兄ちゃんが5、6人乗って居ます(←2人は立っていて1人はこちらを振り返って見て居ます)、これだから中国は面白い!
 バスは10:45頃蛮耗に着き、ここでパスポート・チェックです(右の写真)。金河鎮を発ったのが8:40です蛮耗迄は2時間5分で、往きのバスより約15分早かったですね。我々の前を走っていたバスも居ます。「検査点」と書かれた標識の下に「法院」と書いたパトカーが止まって居ます。
 ところで私は怪しい人間ですゾ、バスのフロントに足を投げ出している国籍不明人ですゾ、ブワッハッハッハ!!

 (2)蛮耗(金平県)から冷墩(元陽県)へ

 蛮耗では結局15分待たされ11:00の出発です、どうやら待ち時間は予め見込んでいた様です。バスは蛮耗橋を渡り左折し紅河を左側車窓に見ながら西南西に進みます(←蔓耗鎮は通りません)。これで様々な思いが詰まった金平県とはお別れです。さらば、金平!!

 これから冷墩に着く直前迄は箇旧市を走ります。私は今回の蛮耗(蔓耗)→冷墩→元陽という北回りのコースは初めて通ります。バスは暫くは箇旧市が張り出した細長いエリアを走り過ぎて黄草壩も過ぎました。
 左側車窓には「赤く濁った紅河が見えてます(11:18頃)、”私の足”も相変わらず見えてますが。
 右の写真は川で荷物を運ぶ仕掛けで日本では野猿と呼びます(望遠、11:20頃)。日本でも奈良県十津川村などに在り、私は雲南省で2、3度見て居ます。これは無人の野猿ですが自分が荷物と共に乗る有人の野猿も在ります。

 もう対岸元陽県です。途中道路工事をしてる所が在りバスは徐行したので暇潰しに右の黄色い花を撮りました(11:35頃)。ここは阿龍古辺りではないかと思います。
 左に蛇行した紅河を行く所ですが、正面に赤い小さな花 -右が拡大写真- が咲いていた木は殆ど葉が無くて非常に印象的でした(11:40頃)。
 帰国後ネットで調べたら攀枝花(はんしか)と言い、実の外皮に綿毛が付き雄しべは漢方薬に利用されてるそうです。
 紅河が左に蛇行している箇所は、撮影時刻から言って「ここだろう」と指し示す事が出来るのですが地図に名前が載ってないので残念!

 左が11:45頃の紅河の風景で土の色が鉄錆色です。道路工事をしていますが道路は広いので影響は有りません。
 右は牛が2頭 -水牛では無い- 先を歩いて居り、紅河では砂利を採掘して居ました(12:05頃)。
 ところで右の写真のバスは蛮耗迄我々の前を走っていたバスです。後ろの窓に「蛮耗」と書いて在るのが読めました。結局、冷墩迄ずっと我々のバスを先導した事に成ります、アチャー!
 蛮耗からずっと箇旧市を走って来たバスは後2、3分で元陽県の冷墩に到着します。上の図に在る様に到着直前に紅河を渡るからです。冷墩より先は[雲南回帰の旅#3]で扱います、お楽しみに!

 ■結び - 思い出が多かった河口と金平

 という事で今回訪れた河口/金平は新情報と2000年秋の思い出とが私の頭の中では交錯し始めて居ます。
 河口は中越公路大橋の出現が大きいですね、この橋は2001年に出来たのでタッチの差で前回の旅では無かったのです。従って3tも積める改造自転車/リヤカーも無かったのです。更に国境 -日本には陸続きの国境は無い!- は中国と相手国の関係が見えて面白いですね、ミャンマーとの国境は大変厳しかったです。
 一方、金平は大分道路事情が改善されて居ます、まぁ”辺境”には違い有りませんが。それと「赤く濁った紅河ですね、前は元江県(紅河の中国名が元江)・紅河県にも行ってますから、紅河の印象は強く刷り込まれて居ます。それと棚田(中国名:梯田)ですね。
 そういう訳で[雲南回帰の旅#2]は一段と雲南桃源旅行の追体験の旅と成りました。

 尚、[2008年雲南回帰の旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)

♪♪♪ つづく ♪♪♪

【脚注】
※1:軌間(きかん、gauge)とは、鉄道で、左右レール頭部内側間の最短距離。1.435m(4ft8.5in)国際標準軌間とする。ゲージ。日本の新幹線は1.435mの国際標準軌間である。又、在来線に新幹線が乗り入れられる様にしたものを3線軌条と言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-1:狭軌(きょうき、narrow gauge)とは、鉄道のレールの間隔が標準軌間(1.435m、4ft8.5in)より狭いもの。日本のJRの大部分は1.067m(3ft6in)狭軌。←→広軌
※1-2:広軌(こうき、broad gauge)とは、鉄道のレールの間隔が標準軌間(1.435m、4ft8.5in)より広いもの。日本の在来線では狭軌(1.067mの軌間)が多いので、狭軌より広いものを言う事が多い(すると日本の新幹線(1.435m)は広軌に成る)。←→狭軌。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-3:軽便鉄道(けいべんてつどう、light railway)とは、[1].一般の鉄道より簡便な規格で建設された鉄道。軌間が狭く車両も小型で規模の小さな鉄道の総称。軌間は0.600m0.610m(=所謂トロッコ列車の軌間)など種々在る。
 [2].明治政府が私設鉄道普及の為に制定した軽便鉄道法に依って敷設された鉄道。軽便鉄道で最も多く採用されている軌間は0.762m(2ft6in)である。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※1-4:メーターゲージ(meter gauge)とは、鉄道のレール間の幅(軌間)が1m丁度の線路。日本の狭軌(1.067m)よりも僅かに狭い。日本が戦時中に東南アジアのタイ/ミャンマー/マレーシアなどに敷設した軌間。

※2:ヴェトナム戦争/ベトナム戦争(―せんそう、Vietnam War)は、1960~75年の北ベトナム/南ベトナム解放民族戦線とアメリカ/南ベトナム政府との戦争。第二次インドシナ戦争とも言い、周辺諸国のカンボジアやラオスなどをも巻き込む。アメリカは軍事費の増大と国内及び世界で高まった反戦運動に苦しみ、1973年1月パリ和平協定に調印し撤退。1975年4月解放戦線/北ベトナム軍が勝利して終結。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-1:中越戦争(ちゅうえつせんそう)は、1979年1月、中国とベトナムが国境一帯で約2週間戦った戦争。前年のベトナムに因るカンボジア侵攻を懲罰するとして、中国がベトナム領内に侵攻した事に依る。社会主義国が本格的に交戦した戦争として注目された。中国・ベトナム戦争。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※2-2:清仏戦争(しんふつせんそう)は、1884~85年、清国とフランスとのベトナム支配権を巡る戦争。天津条約を結び、ベトナムはフランス保護領と成る。

※3:イミグレーション(immigration)は、[1].(他国からの)移民。移住。
 [2].入国審査。出入国管理所。









※5:ガジュマル(榕樹[中国語])は、クワ科の常緑高木。高さ約20m。広く熱帯/亜熱帯に産する。日本では沖縄/屋久島に自生、小笠原島などに植栽。幹は多数分岐して繁茂し、多数の気根を垂れる。葉は楕円形、又は卵形、革質、無毛。黄色、又は赤褐色のイチジクに似た小形の壺形花序を生ずる。防風林生垣観葉植物とし、材を細工物に使う。ガジマル。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-1:榕樹(ようじゅ)とは、〔植〕ガジュマルの漢名。
※5-2:気根(きこん、aerial root)とは、この場合、〔生〕空気中に露出した根。地上の茎/幹から出る不定根も在り、地中の根が地上に伸び出す事も在る。機能は、支柱根(トウモロコシ/タコノキなど)呼吸根(マングローブ/ミズキンバイなど)吸水根(フウランなど)付着根(キヅタ)保水根(ヘゴ)など、植物に依り異なる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>



※7:アオザイ(ao dai[ベトナム])は、ベトナム女性の伝統的な衣服。深いスリットが入った長い上衣にズボンを組み合せる。



※9:隠語(いんご、argot)とは、特定の仲間の間にだけ通用する特別の語。隠し言葉。

※12:赤土/赭土(あかつち)は、[1].鉄分を含み、赤く黄ばんだ粘土。赤色土。黄色土。赭土(しゃど)。
 [2].赤黒色の絵具。

※15:榠樝/花梨(かりん)は、[1].バラ科の落葉高木。中国大陸の原産。古く日本に渡来した。高さ約6m。周囲2mに及ぶ。樹皮は毎年剥脱し、幹に青褐色の雲紋を現す。春の末、枝端に淡紅色5弁の花を開く。果実は黄色と成り、芳香は強いが全体が木化して生食は出来ない。観賞用に栽培し、果実は砂糖漬け果実酒、又、咳止め利尿剤にする。材は堅く光沢が有り、床柱・家具・楽器などに利用する。カラナシ。キボケ。
 [2].マルメロの別称。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15-1:マルメロ(marmelo[葡]、木瓜)は、バラ科の落葉高木。イラン/トルコ地方の原産。高さ約5m。葉は楕円形、裏面に綿毛を密生。春、白、又は淡紅色のボケに似た五弁花を付ける。果実は黄色で球形、又は洋梨形、外面に綿毛を被り、甘酸っぱくて香気が有り、普通、ジャム砂糖漬として食用。セイヨウカリン(単にカリンとも)。日本では東北・信越地方で栽培。漢名:榲桲。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※15-2:木瓜(もっか)とは、[1].〔植〕ボケの別称。〈伊京集〉。
 [2].窠文(かもん)の別称。もっこう。もこう。
 [3].カリンの果実の生薬名利尿・鎮咳剤とする。




※17:アメリカインディアン(American Indian)は、(ヨーロッパ人が、インド人だと考えたことから)南北アメリカ大陸先住民の総称(但しエスキモー、アリュート、ハワイのポリネシア人を除く)。言語/文化には地方的な差が大きいが、全て最終氷期に当時陸続きであったベーリング海峡を経てアジア大陸から渡来した人々の子孫で、モンゴロイドの特徴を持つ。

※18:素数(そすう、prime number)とは、〔数〕1及び、その数自身の他に約数を有しない正の整数。普通は1を除いた、2、3、5、7、11、13、17、...など。無限に存在する。←→非素数。←→合成数。










    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:「中越国境貿易の街、河口を見る-『人民日報』」のサイト。

△2:『辺陲明銤-金平』(張暁青・季玉輝・賈正文編、金平苗族瑶族傣族自治県旅游局・雲南瀾滄江酒業集団公司)。

●関連リンク
参照ページ(Reference-Page):西双版納の地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
参照ページ(Reference-Page):ベトナムの地図▼
地図-東南アジア(Map of Southeast Asia, -Multinational-)
参照ページ(Reference-Page):中国雲南省の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
参照ページ(Reference-Page):蝉の分類学と特徴▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
補完ページ(Complementary):中国の蛇酒や虫食文化▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
補完ページ(Complementary):日本の虫食文化▼
日本、珍にして奇なる光景#2(The RARE and STRANGE scene 2, Japan)
補完ページ(Complementary):曲がった棚田が好きな私▼
([米食日本の棚田の美]シリーズ)
2010年・京都樒原の棚田(Rice terrace of Shikimigahara, Kyoto, 2010)
横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
五芒星は「魔除け」の護符▼
阪堺電車沿線の風景-大阪編(Along the Hankai-Line, Osaka)
五芒星や六芒星の「魔除け」を特集▼
ダヴィデの星(Star of David)
私は怪しい国籍不明人▼
2003年・大阪城の梅便り
(Japanese apricot blossoms of Osaka castle, 2003)

北朝鮮国境でビールを飲む私▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')

滇池や尹君のお父さんについて▼
2002年・尹君のお父さんの思い出
(Memories of Mr.Yin's father, China, 2002)

メーターゲージの鉄道▼
大井川鉄道の”SLの人生”(The 'Life of SL', Oi-river Railway)
1999年の雲南桃源旅行で松岡さんが昆河線に乗る▼
1999年・雲南の旅(昆明/西双版納/大理)
(Kunming, Xishuangbanna, and Dali of Yunnan, China, 1999)



龍勝の棚田(ヤオ族)▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
西双版納の広大な田園風景▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
北米/カナダの十七年蝉や十三年蝉を食する習慣▼
私の昆虫アルバム・日本編-セミ類(My INSECTS album in Japan, Cicadas)
普洱茶について▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)

日本のマンホール蓋は面白い▼
ちょっと気になるマンホール蓋(Slightly anxious MANHOLE COVER)
日本の月の写真▼
月見の宴(The MOON watching banquet in Japan)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')

Select page:1:羅平/文山(Luoping, Wenshan)|2:河口/金平(Hekou, Jinping)|
         3:元陽/緑春(Yuanyang, Luchun)4:思茅/景洪/昆明(Jinghong, Kunming)
         5:番外編(TANGO in Xishuangbanna, why ?)

総合目次に戻ります。Go to Main-menu 上位画面に戻ります。Back to Category-menu