-- 2016.07.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2017.06.20 改訂
今迄全然書いて無かった1999年と2000年の雲南桃源倶楽部の旅を、やはりちゃんと書いて置こうと思い立ったのは2002年と2008年の中国雲南省の旅を中心に出版しようと思い、可なり準備を進めてからです。初めは99年と2000年の雲南の旅は「思い出話」として挿入しようと考えて居たのですが、書いている内に挿入程度では収まり切れなくなって急遽方針を変え(←という事は本の構成変更です!)、99年と2000年の雲南の旅を独立させる事にしました。
これは大胆な方針変更で、そう成ると1999年の旅が時系列的に先頭に来る訳で、読者が自然に入って行ける様に構成を変えなければ為りません。その辺が時間の掛かる作業に成ります。
(1)1999年と2000年の雲南の旅は写真が遣られて仕舞った!
では何故99年と2000年の旅を今迄全然書いて無かったか?、と言うと実は写真(=原画)がパソコンのトラブルの所為で見ることが出来なく成ったからです。日本国内の原画も被害に遭いました。写真が壊れたのは2004年頃だったと思います。その原因については詳細に検討して在りますので▼下▼を
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
ご覧下さい。
しかし私は文章の専門家では無いので写真が無いと、どうも筆が進まないですね。それで到頭今迄書かずに来て仕舞ったのです。
という事で、先ず99年の雲南の旅を思い出し乍ら書いて行きます。しかし、もう今から17年も前の事を覚えて居るか?、つまり記憶が曖昧に成る事が最も心配です!
(2)「雲南桃源倶楽部」を知った切っ掛け
これは既に「雲南桃源倶楽部」に書いている事ですが、「「雲南桃源倶楽部」を知った切っ掛け」から述べるのが話の筋道というものでしょう。
私が「雲南桃源倶楽部」の北山会長のことを知ったのは、或る会合で北山昌夫という今様ドン・キホーテ(※1、※1-1)がニッポンの窮屈さと家庭のシガラミから逃れる為、中国雲南省に逃避行を決め込んだ迄は良かったのですが、結局は敬愛する奥さんに連れ戻されたという話を聞いた時です。と同時に、その北山先生が当時日本人には余り知られて無かった西双版納(→後で説明)についての本『西双版納』(△1)を出版されたという紹介を聞いて、「これはオモロイ!」と思い、直ぐに本を買うことに決め北山先生の家に電話したのが切っ掛けです。しかしその時は未だ桃源倶楽部については知らなかったのです。確か98年の秋だったと思います。
そして翌年の年賀状で、「雲南桃源倶楽部」という会が在り、一緒に雲南の旅に行きませんかと書いて在ったので、「行かして下さい」と又々電話し、桃源倶楽部の会合に出たのが最初ですね。それから毎年メンバーの方々と雲南の旅を続けて居るという訳です。私は特に先生が自ら案内した旅を「雲南桃源旅行」と呼んで居ます。中川保さん(会員)のホームページ(HP)の「雲南桃源倶楽部の歩み」に拠ると、「雲南桃源倶楽部」は98年11月3日(文化の日)に立ち上げたと在ります。すると私が初めて北山先生に電話したのは、その直ぐ後という事に成ります。
ところで「パーリャンに小学校をつくる会」の事は拙著『パーリャン小学校の思い出(第2版(改訂版)』の「まえがき」に書いてます(△2のp1)が、雲南省孟連県 -正式には孟連ダイ族ラフ族ワ族自治県- のパーリャン村に小学校を建設する活動を行っており、同じ雲南省という事で富樫会長が「雲南桃源倶楽部」の招待会員に成って居ます。私が「つくる会」の事を知ったのは確か99年の秋だったと思います。それで「つくる会」に”若干の寄付”をさせて頂き「つくる会」の会員に成りました。
そういう事で1999年と2000年の雲南の旅は写真が全然無いという事をもう一度言って置きます、従って以下の写真は全て他年度や本からの借用です。それと本ページを書いているのは17年も経った2016~17年だ、という事を頭の片隅にインプットして置いて下さい。尚、太枠の写真は北山先生の『西双版納』(△1)からスキャナーで採った写真です。
(3)私の環境変化 - 脳出血、沖縄永住、出版事業
私は2011年12月2日(金)21時15分に脳出血で倒れ、2011年12月初~2012年2月末迄の3ヶ月は病院で入院生活を送りました。その後約1年間を或る施設でリハビリに専念し、2013年2月18日(月)に1年3ヶ月振りに元の環境に復帰しました。
実は、この時既に沖縄(=那覇市)に移住する事を決めていたので2013年3月18日(月)に沖縄に来て仲介の不動産屋で正式に契約し家の鍵を貰い翌日転入手続をし、こうして私はウチナーンチュ(沖縄の人)に成りましたが、この1ヶ月間は本当に忙しかったですね。
先ず2013年3月6日(水)には私が主宰してた【ブラボー、クラシック音楽!】の最終回を遣らせて戴き感無量です。実はこの最終会こそ2011年12月7日(水)に予定して居たのですが脳出血の為に開催出来なく成ったという曰く付きの会でした。【ブラボー、クラシック音楽!】は私が最も力を入れた会なのです(△2-1の「まえがき」、p1~4)。
そして出版事業を遣る事も決めていて、第1作を大阪の森之宮神社の宮司に頼んで沖縄に来ました。
それから早5年、私の出版事業/文化事業については▼下▼を
ようこそ【出版者 蛙ブックス】へ(Welcome to FROG BOOKS)
ご覧下さい。又、エルニーニョ深沢が出版した本については▼下▼を
エルニーニョ深沢が出版した本(The BOOKS that ElNino Fukazawa published)
ご覧下さい。
右半身は今でも痺れが有り言語障害が有り、これは後遺症です。
北山先生の『西双版納』の本の奥付を見ると、
1981/4~83/3 大阪外大(中国語科)聴講生
1983/3~85/2 西南農業大学(重慶(※2))で日本語講師
と在り(△1の一番最後のページ)、その西南農業大学での仕事の途中に先生は西双版納を訪れて居ます。即ち「エピローグ」の中で「84年1月、初めてこの地を訪れました。...<中略>...そして昨年(=94年)の4月、再びここを訪れました。...<中略>...この公主飯店で宿泊している時、発熱して市民病院に担ぎこまれ、お医者さん、看護婦さんの手厚い看護を受けて、やっと元気を回復することが出来たのです。有難うございました。そしてその時、看護婦の白美蘭さん(→後出)から、思いもかけず日本語で話し掛けられたのです。その上、彼女の話す日本語が、私たちの話す日本語の抑揚とそっくりであることに驚きました。私は基諾族と日本人は兄弟だと直感したのです。そのことを証明するために、ここに住んで基諾族の方々と生活を共にし、言葉の対応関係を調査・研究しよう、これを私のライフワークにしようと決めたのです。...<中略>...日本に残してきた家族や家産の問題を処理するため、明日ここを出発して帰国しますが、必ずここに帰ってまいります。その時は宜しくお願いします。」と在ります(△1のp69)。この文章は95年11月7日の誕生パーティーに奥様と連名で書かれて居ます。つまり奥様に連れ戻される前日なのです。
しかし北山先生が何故西双版納に拘泥るのか?、がこれで解ります。これを更に詳しく解説したのが△1のp62~63とp65の地図です。
そして「エピローグ」の先頭で「(95年)7月29日に、景洪市郊外のマンションで独り住まいの生活を始めてから丁度100日目の11月5日、老妻が、私の身を案じ、日本から飛行機を乗り継いで遥々景洪までやって来ました。」と在り(△1のp68)、北山マンション(=桃源ハウス)(→後出)は95年7月29日から先生が生活していた事が判ります。
でも普通の人はここ迄注意深くは読みません。すると本の構成からも誰の写真が多いかという点からも、看護婦の白美蘭さんを中心に書いて居るという印象を受けます。北山先生は99、00、02年の3回雲南桃源旅行で来て居ますが市民病院は必ず訪ねて居ます。
先生の人生は私の人生と重なります。先生が西南農業大学で教える前に大阪外大中国語科の聴講生に81年4月から成っていますが、私が東京から神戸市東灘区に転居にたのが78年6月頃なのです。しかも神戸市東灘区は芦屋市の隣です(←私は最初は東灘区住吉本町に借り住まいし、3年後位に東灘区本山中町にマンションを購入しました)。又、先生の本には阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)の事が出て来ます(△1のp115~118)が、私も阪神淡路大震災の被災者です。特に倒壊した阪神高速道路の写真が載ってます(△1のp117)が、あそこと私の本山中町のマンションは直線距離で400m位しか離れて無いのです。ですから北山先生とは不思議な縁を感じて居ます。
先生は「プロローグ」に於いて”金...、技...、夢...”と言って居られます(△1のp42)が、「金も技も夢」も無い私は「笑い」で斜(はす)から”おちょくり”を入れる所存(※3)で居りますゾ、ブワッハッハッハッハ!!
もう忘れましたが98年暮れか99年の年初に「雲南桃源倶楽部」の集まりが在り北山先生と初めて顔を合わせたのですが、例に依ってエルニーニョの説明からしましたね。しかし北山先生も驚いたでしょうね、名前がエルニーニョ深沢だなんてね。会員名簿の在る人は見て下さい、ちゃんとエルニーニョ深沢と載ってるでしょ。他の会員の方も「誰や、此奴は」と呆れたでしょうね、ワッハッハッハ!!
北山先生は思ったよりも小柄な方でした。北山先生からは雲南沱茶(ターチャ)(※4) -直径が2cm弱で真ん中が凹んでいる- を戴き雲南の旅に出る前に沱茶を楽しみました。日本の茶とは違い何か不思議な味がしましたね。これの大きいのを日本では餅茶(※4)と言うらしいです。私は今も空箱を持って居ますので先ずその写真から載せましょう。
先ず左上の写真から「雲南沱茶」と書いて在り、その下に「紅茶型」と在ります。そして鳥に絵(鶴か)を書いた○の両側に「注冊」「商標」と書いてます。そして下部に「国家二級企業」「中国雲南下関茶廠精制」と在ります。そして右側面に製造会社の住所が「製造者地址:雲南省大理市下関建設西路141号」と在りますが、左上の女性が白族(ペー族)の女性である事は少数民族に慣れて来ると一目瞭然です。右側面には「98-09」と製造年月の刻印が在り1998年9月製造という事が判ります。実は私は後2つ空箱を持っていて製造日の刻印は何れも「2004-02」です。
その裏側が右上の写真で「五朶金花的故郷旅游路線図」と大理市の地図が在り下関は一番下に在ります。下部に「香郁味醇形美」「提神健体益寿」と在ります。側面は"YUNNAN TUOCHA"、"TOURISM TYPE"と書いて在ります。ツーリズム・タイプ即ち観光旅行向けであると謳って居ます。
という事で北山先生は大理市下関の沱茶を愛飲してたのです。そして「雲南桃源倶楽部」の会員の方は皆この沱茶の箱に見覚えが有る筈で、私も「雲南桃源倶楽部」というと真っ先にこの箱が思い出されます。
尚、当ページの記事は「全て見た儘有りの儘、何も足さない、何も引かない」をモットーに書いてます。それでは1999年の「雲南に魅せられる旅」のスタートです。
旅の旅程は99年3月28日(日)~4月11日(日)です。但し、詳細な旅程表は有りませんが、多分下記の通りです(←違っているかも知れません)。参加人数は15名位。現地ではバス、ガイド付きです。
3/28 3/28~3/30 3/31~4/05 4/05 4/05~4/07 4/07~4/11 4/11 4/11
3/29 4/09
石林 虎跳峡
│ │
関空 → 昆明 → 景洪 → 昆明 → 大理 → 麗江 → 昆明 → 関空
✈ │ ✈ ✈ ✈ │ ✈ ↑ ✈
3/30 │ │
滇池 │ 4/07~4/11 │合流
龍門 │松岡さんは │
雲南民族村 │滇越鉄道昆河線で │
│河口(ベトナム国境)へ
│ ↑
│ │
│ │
│ 4/07 4/07
└→ 昆明 → 関空
✈ ✈ (北山先生や私)
*.JASの昆明~関空直行便は週2便(日、水曜日)です、即ち我々の旅程では3/28(日)、3/31(水)、4/4(日)、4/7(水)、4/11(日)です。
(1)JASの直行第1便で昆明へ - 昆明は5月から国際園芸博覧会
昆明は亜熱帯ですが標高1891mの盆地に在り「春城」(「常春の都」の意味)と呼ばれ、市の南西には雲南省で最大の滇池(面積298㎢、湖面の海抜1886m) -琵琶湖(面積670㎢)の半分以下- が在ります。99年5月から昆明で開催される国際園芸博覧会(略称:花博)にJAS(日本エアシステム)の関空~昆明直行便がタイミングを合わせ、99年の「雲南桃源旅行」はそれに便乗したものでした。JASの関空~昆明直行便は3月28日(日)から週2日(日と水)運行され、関空では少数民族の踊り(何族かは忘れました)などが披露され我々は直行第1便で昆明に行きました。JASの伊藤純夫さんが「雲南桃源倶楽部」の招待会員に成って居ます。しかし以上の事は実は後で知った話で当時は何も知りませんでした。
この日のことは割合と覚えていて、何故かと言えば3月28日は私の誕生日だからです。しかし今自分が何歳かが中々直ぐには出て来ません。私の生まれ年は1949年ですから、今年からそれを引いて自分の年齢を割り出すのですが、年を取り頭が呆けて来ると、その計算が直ぐには出来ないのです(←年寄りは余り自分の年齢を計算したくないという防衛本能が働くという説が有ります)。
私は最初はフルの予定で4月11日(日)迄旅する予定でしたが予定を切り上げ4月7日(水)に北山先生と一緒に帰国しました、その理由は後で説明します。
ところで99年3月28日(日)は直行第1便にJASも力を入れたと見えスチュワーデスも愛想が良くサービスも良く、桃源倶楽部も和気藹々で私はビールやワインを飲みました(←日本酒の熱燗でも有ったら文句無し!)。降りる時はボトルワインをズボンの両ポケットに1本ずつ入れ後でホテルで飲みました。99年~2002年頃迄ボトルワインが在りましたが、これはJASの関空~昆明直行便のサービスだったと思います。
この旅行には尹君と羅君が通訳として同行しましたが、律儀な尹君のお父さんは昆明空港迄迎えに来てくれました。お父さんは当時昆明に住んで居ましたがお父さんの姿は印象的で、特に2002年の飛行機トラブルで数時間遅れたのに日付が変わっても待って居た姿は忘れる事が出来ません。尹君のお父さんについては▼下▼をお読み下さい。
2002年・尹君のお父さんの思い出(Memories of Mr.Yin's father, China, 2002)
昆明の街は花博のネオンが矢鱈と点灯していますが、未だ彼方此方で突貫工事をして居り中国人のアバウトさを目の前で見せ付けられました。
(2)石林
石林に関しては2000年にも行きますので「2000年・雲南の旅」に記します。石林を見た後は昆明に戻りました。
(3)昆明の滇池/龍門/雲南民族村/円通禅寺など
雲南民族村
↓
3月30日(火)は昆明市南部の滇池を見て龍門に登り午後からは雲南民族村に行きました。何れも観光地で民族村は俗化し過ぎて居ましたね。夕方には市北部の円通禅寺に行きました。
右の写真は2002年10月25日の夕方に龍門付近から撮った滇池(面積298㎢で雲南省で最大の湖)で、嘗ては市中心部の翠湖(今は翠湖公園に成っている)も滇池の一部でした(△3のp54)。対岸に雲南民族村が写って居ます。
この日の事は先程の「2002年・尹君のお父さんの思い出」に出て居ますので、参照して下さい。
3月31日(水)~4月5日(月)は景洪で過ごしました。3月31日(水)に飛行機で昆明から景洪に行きました。
下の写真は何れも02年10月21日に撮影したものです。左下の写真は空から見た景洪市で、市の中心を瀾滄江(=メコン川)(※5)が流れるエキゾティックで美しい街です。景洪市のシンボルの西双版納大橋(←この新大橋は1999年に出来ました)も見えて居ます。又、機体の雲南航空公司の「雲南」の文字も見えて居ます。
右下の写真は北山先生が西双版納空港で飛行機を降りて来る所です。機体も1999年と同じ緑色のデザインです。
景洪は西双版納傣族自治州の中心都市で、景洪市・勐海県・勐臘県が西双版納傣族自治州を構成して居ます。西双版納傣族自治州の少数民族は傣族・哈尼族・拉祜族・布朗族・瑶族・彝族・佤族・白族などです。
今タイ国を作っている泰族は元々この辺りが本貫で、タイ国を作っているタイ族を漢字で「泰族」と表し、中国内のタイ族は人偏を付けて「傣族」と表します。景洪は海抜が500m位なので非常に蒸し暑いです。
(1)西双版納について
ところで西双版納(シーサンパンナ、Xishuangbanna)はタイ語で「田の在る12の村」の意味で、明の時代「1版納」が納税の単位でした。「西双」は
12 = 4 * 3 → 四(Si)三(San) → 西(Xi)双(Shuang)
という音韻と漢字の変化に依る「言葉遊び」、つまり洒落なのです。
(2)版納賓館の思い出
先ず景洪市の地図を見て下さい。
宿泊は版納賓館(正式には西双版納賓館)で、このホテルには沢山の思い出が有ります(右の写真、△1のp16)。入口には旧い書体で「西雙版納賓館」と書かれ先生の本に在る通りフェニックスの並木(※6)が見えて居ます。
1999年はホテルの食堂でコーヒーを飲んで庭のフェニックスを見乍ら休んでいると、庄洪路の商店会長が来たり、基諾(チノー)族の看護婦や「市井の鉄人」が来たり、その他北山先生の知り合いの方が尋ねて来たりと、この版納賓館を中心に物事が動くのです!
(*_@)
(2)-1.プ・リャンスオ(浦良鎖)
先ずプ・リャンスオ(浦良鎖)(△1のp68、70)から書き始めましょう。今は庄洪路(=民族工芸品市場)の商店会長です(左が庄洪路の入口、△1のp10)。私とプ・リャンスオは馬が合う所が在って要するに明るくてアバウトなのです。プ・リャンスオは上海出身の漢族で今「上海知青」の看板 -名刺の裏にも書いて在る- を掲げた工芸品店を庄洪路で営んで居る精力旺盛な好漢です。
「知青」とは知識青年の略で文化大革命(※7)の時上海から遠く西双版納へ下向して来た人を指します。彼の店ではヒスイ(翡翠)(※8)や宝石などを扱って居て、北山先生の本にも写真が載って居ます(△1のp70、店の写真はp19)。私は1999年に貰った名刺を今でも持って居ます。
右の写真は02年3月27日に撮ったもので、右の女性も友人のチュ・ピンファン(鄒浜仿)さん(→後で説明)です。この時は「2002年・パーリャン小学校視察の旅」で景洪に寄ったのですが、私は「雲南桃源倶楽部」の北山会長からプ・リャンスオに言伝(=手紙)を頼まれて居たのです。
私はこの日は19:45頃景洪空港に着き、20:30頃ホテル(=観光酒店)に荷物を下ろしプ・リャンスオに向かえに来て貰いました。そして21:00頃から街に繰り出して屋台で豚の焼肉のフルコースを食い話が盛り上がりました。プ・リャンスオ曰く「コースの最初は尻尾の軟骨から食べ、それから内臓、そして腹、ロース、肩の肉を食べるんだ」と言いました。中国のタレは甘く無いので結構食えます。尻尾から食べるのは「大きな豚1頭でも尻尾は1つで少ししか無いからだ」と中国人的発想です。通りには屋台が一杯並び景洪は蒸し暑いので屋台は凄く理屈に叶って居ます。プ・リャンスオは背後に写っているバイクで鄒浜仿を後ろに乗せて22:30頃帰って行きました。勿論、酔っ払い運転です!
私が明るくてアバウトだと言った意味がお解りですね。
私とプ・リャンスオはこの様に旅の初めから馬が合うのです。で、プ・リャンスオは”良い子ちゃん”かと言えば、北山先生から見て結構”悪い子”なのです。その事は▼下のページ▼をお読み戴ければ解ります。
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
私は2002年の傣族民家に公安の車(=パトカー)を自分で運転して来たのには吃驚しましたね、他にもパトカーを見た人が居た筈です。この様に破天荒な所が在りますが根は良いヤツです。因みに彼も「雲南桃源倶楽部」の招待会員に成って居ますゾ!
(2)-2.チュ・ピンファン(鄒浜仿)
先程出た鄒浜仿さん(写真は上)ですが、彼女は版納賓館の従業員で漢族です。彼女はとっても日本語が上手く -我々の通訳の尹君よりも上手い!- 驚きました。彼女は北山先生の本には出て来ません。で何処で習ったのか訊くと「殆ど独学」と答えたのには更に吃驚。そして彼女も「日本へ行きたい」と言いました。私は版納賓館で毎日彼女と話をしました。彼女は景洪の街についても詳しく、これなら日本人相手のガイドが十分勤まると思いました。
その後、彼女は日本に来て(←02年の春には上の写真の如く居ましたが02年の秋の雲南桃源旅行には居なかった)、愛知県の農家に嫁いだという話を聞きました。鄒浜仿は「中国名花集」にも載って居ます。
◆03年に版納賓館は無くなり、
02~03年に雲南の環境は大きく変わった!
雲南航空公司は02年10月に中国東方航空に併合されました。私は1999年に初めて見た雲南航空公司のデザインが今でも一番好きです。右の写真は01年10月20日に中甸空港で撮ったものですが、この日は物凄い濃霧で飛行機が4時間以上遅れたという最悪の条件で、コントラストを非常に上げて居ます、「中国雲南航空」と書いて在りますね。尾翼は孔雀の羽を表して居ます、孔雀は西双版納のシンボル(→後出)なのです。
2003年はSARSが大流行し死者が多数出たので雲南桃源倶楽部も外国旅行を断念しました。04年は鳥インフルエンザが流行りました。又、我々も”脱雲南”の旅を目指し02年以降は08年の雲南回帰の旅迄雲南には来なかったのです。然う斯うしている間に02年迄在った版納賓館が03年度中に他に売られ無くなって仕舞ったのです(←私は04年にパーリャン小学校竣工式で雲南に来て居ますが、その時には版納賓館は無くなって居ました)。
正に青天の霹靂、雷に雨蛙です。我々を取り巻く雲南の環境は02~03年に大きく変わりました。
(>_<)
(2)-3.リ・アーチン(李亜琴)
次は哈尼(ハニ)族のリ・アーチン(李亜琴)です(△1のp40、本では玉光香と名乗る)。この写真には95年10月20日の日付が入って居ます。1999年の旅では版納賓館でアルバイトをしていて日本語はたどたどしかったと思います。しかし先生の本には95年時点で「版納賓館の事務室で働く」と書いて在ります(△1のp40)ので版納賓館で4~5年働いている事に成ります。李亜琴は「中国名花集」にも載って居ます。
リ・アーチンは2000年から日本の近畿大学に留学しました。私は地下鉄千日前線で2、3度会った事が在ります。2008年に行った時には中国の昆明に180㎡のマンションに旦那(=警察官)と共に住んで居ました。光陰矢の如しです。因みに”兎小屋国家”の日本では中々180㎡のマンションの部屋は在りません。
リ・アーチンにはこの他にも色々思い出が在りますが、それは「2000年・雲南の旅」のお・楽・し・み!
(2)-4.看護婦の白美蘭
次が基諾(チノー)族の看護婦の白美蘭さんです(△1のp12、92)。この人は北山先生の本に良く出て来る人で市民病院(正式名:景洪市人民医院)に勤めて居ます。北山先生は94年に発熱して市民病院に入院し、その時に看護婦の白美蘭さんから「思いもかけず日本語で話し掛けられた」事に甚(いた)く感激し(△1のp69)、先生もチノー族の故郷である基諾山に籠もったりして(△1のp86~93)、北山先生は白美蘭さんを非常に信頼して居ます。病院は瀾滄江(※5)沿いに在り、我々も市民病院を訪ねました。
右上の写真は「雲南桃源倶楽部」に掲載されているものです。2002年10月24日に病院の裏庭で撮ったもので背後の川が瀾滄江(=メコン川)です。北山先生を囲み左が白美蘭さん、右が先夫との間に出来た松松(スンスン)さんです。松松さんは95年に小学1年生(△1のp52)ですから2002年は中学2年生です(←という事は次のヘ・チャンリの娘さんと同じです)。松松さんは「中国名花集」に載って居ます。
(2)-5.ヘ・チャンリ(賀長利)
そして最後がヘ・チャンリ(賀長利)です(△1のp68)。彼は訳有って2002年にはすっかり悄気(しょげ)て居ます(右の写真、小池さんが2002年10月21日の晩に撮影)が、彼とも気が合いました。彼は黒龍江省佳木斯(ジャムス)(※9)の出身で、彼が非常に寒い佳木斯から非常に暑い熱帯の景洪に遣って来たのも90度位の方向転換です。
北山先生が「市井の哲人」(△1のp68)と呼ぶ様に彼は常に物静かな酒豪です。又、非常に達筆とか。
[ちょっと一言] 実はヘ・チャンリ自身から後で聞いたのですが、彼の父はジャーナリストで彼の父の文章が文化大革命(※7)を推進する政府(=毛沢東派)に睨まれ逮捕されたとかで、ヘ・チャンリは遥々佳木斯から雲南の地へ逃げて来たのです。しかし1999年の時点では私はこの話を知りませんでした。
そういう経歴の為か彼は肉体を使う労働に就いて居ます。これも後で松岡さんから聞いた話ですが、桃源ハウス(→後出)の留守を預かる為に彼が只で借りて娘さんと一緒に住んで居ます。奥さんとは離婚しました。ヘ・チャンリも良く版納賓館の北山先生を訪ねて来ました。
因みに、娘さんは2002年に中学2年生です。ということは看護婦の娘さんと同じ歳です、フーム!
◆中国式の勧杯(けんぱい)
1999年には中国式の「勧杯(けんぱい)」というのを遣りました。北山先生は勧杯(けんぱい)と乾杯(かんぱい)は違うと仰いました。「乾杯」 -中国では「干杯」と書く- は最初に1回だけ遣り「飲み乾す」のが通例で、それ故に「乾(干)杯」な訳なのです。これは日本も中国も同じです。
しかし中国式の「勧杯(けんぱい)」は相手と1対1に成って小さい猪口で遣ります。しかも猪口は1つだけです。つまり1つの猪口で2人が延々と”回し飲み”をします。そして自分が飲む時に「勧杯」と言うのです。
例えば「勧杯」と言って相手が先にグッと1杯目を飲み乾すと猪口を私に回し、私が「勧杯」と唱え気を入れて1杯目を飲み乾すと相手に猪口を回し、相手が「勧杯」と言って2杯目を飲み乾すと猪口を私に回し、私が「勧杯」と言って2杯目を飲み乾し、...とエンドレス勝負なのです。そして、これ以上飲めない時その旨を相手に伝えて投了します。
いくら小さい猪口と言っても中国は清酒は無いですから蒸留酒(=焼酎)で遣る訳で、しかもこれが45度~60度と日本の焼酎よりも強いので、これは後で効いて来るのです。
私は北山先生に酒が強いと見込まれて2、3回「勧杯」に引っ張り出されました(←北山先生に変な所を見込まれた私は段々と雲南桃源倶楽部の”お試し屋”即ちサンチョ・パンサ(※1)として認知されて行きます、ココを見よ!!)。私は1度だけヘ・チャンリと「勧杯」の勝負をさせられましたが、ヘ・チャンリは強い。私は6、7杯飲んだ所でギブアップ、なのにヘ・チャンリは全然平気で直ぐ別の相手と勝負、又もや勝ちました。彼は横綱です、対する私は前頭5枚目位ですね。でも、ヘ・チャンリは好い奴です。
初め私は「けんぱい」の漢字が「献杯」か「勧杯」か判らなかったのですが、良く良く考えて見ると「酒を勧める」の「勧杯」だと納得しました。それに対し「献杯」は法事の時にも使いますので注意が必要です。
(*_@)
以上が1999年の版納賓館を中心とした中国の友人たちの懐かしい思い出です。ところが皆さん、2008年の中国の友人たちの変貌振りを▼下▼から是非ご覧下さい、さぞや吃驚する筈です!!
西双版納でタンゴ、何でや?(TANGO in Xishuangbanna, why ?, China)
(3)熱帯のスコール
西双版納は熱帯雨林気候に属し5月~10月は雨季でスコール(※10)が有ります。旅行に向いているのは乾季で今回の私たちの旅も乾季の終盤です。右の写真は02年3月30日の庄洪路のスコールで「2002年・パーリャン小学校視察の旅」で来た時のものです。
背後の土産物屋には西双版納名物の葦笛 -瓢箪を利用して居る- が見えて居ますが、葦笛は2000年に購入します。
(4)西双版納傣族自治州の観光地巡り
(4)-1.景洪市の観光地巡り
景洪市の見物では孔雀湖公園/民族風情園/ガンランバ(橄欖壩)/熱帯植物園(熱帯作物研究所)/瀾滄江(メコン川)/市民病院などに行きました。
下の2枚は04年11月3日に「2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行」で撮った橄欖壩の写真です。橄欖壩は景洪の南37kmの勐罕に在ります(△3のp117)が、ここに行く時は大抵景洪港から船で瀾滄江を下ります、1999年と04年がそうです。
それで私は橄欖壩の船着場(左の写真)は今でも良く覚えて居ますし、とても愛着が有ります。
右の写真は高床式の傣族の民家です。私たちは民家に上がらせて貰い内部を見せて貰いました。やはり竈(かまど)が在り日本の家の遠い記憶が呼び覚ませられます。
2002年に傣族民家に宿泊した経験はやはり貴重な体験で、▼下▼から是非ご覧下さい。
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
民族風情園ではタイ(傣)族の「水かけ祭」を見、瀾滄江では市民病院(←前述)を訪ねたり、小舟に乗ったり、川沿いの屋台では瀾滄江の魚を焼いて売ってますので私はこれを食べました。唐辛子がたっぷり利いているのは雲南風味です。
タイ(傣)族のゴング(※11、※11-1)を鳴らす音楽を夕方野外で聴きました。又、夕食時に傣族レストランで演奏したり曲芸を遣るのも見ました。【脚注】を見るとゴングは仏教との結び付きが強いですが、タイ国も中国の傣族も上座部仏教(=小乗仏教、南伝仏教)(※12、※12-1)が非常に盛んです。それと大勐龍の曼飛龍仏塔へも行ったと思います、良くは覚えて居ませんが(△3の118)。
それとバイクタクシーや輪タクが在って面白かったですね。特に輪タクは「人間が漕ぐ」訳で5元(約75円)で1km位先迄行って呉れました、2km位に成ると「後5元だせ」とかね、運ちゃんとの掛け合いが面白い。景洪市の街は坂が有りません。それと1999年の景洪市は時間に余裕が在ったので街を1人でバスにも乗りました。先生も書いている様に(△1のp56)、停留所が在るのか無いのかはっきりしないので、バスが来たら手を振ると止まって呉れます。降りる時も「ここで降ろして」と合図すると止まって呉れます。現地語全然判らないのに意味は通じるのです。非文明的ですがとても人間臭い暖か味が感じられます。
(4)-2.景洪市の市場巡り - 納豆、竹御飯(糯米)を食う
私は色々な市場へ行きました。市場の食材については▼下▼を参照して下さい。
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
允景洪農貿市場(△1のp7)や版納集貿市場は大きいですが市場は他にも有ります。最初は市場の雰囲気に圧倒されました。目の前で解体している豚肉、豚の脳味噌、血豆腐、スズメバチの蜂の子などに驚きました。又、瀾滄江に近いので色々な魚類が在り、鰻も売って居ました。兎に角、日本では見られない珍しい物が色々有り市場は見飽きません。私は市場の虜(とりこ)に成って仕舞いました。
こちらも目が慣れて来ると”変わった物”を求める様に成り、そこで見付けたのが納豆(※13、※13-1、△4のp116~117)です。日本の水戸納豆などに比べると柔らかく少し水っぽい感じです。私は納豆は買いませんでしたが、一寸味見をしました。確かに大豆で、まあまあ行けます、匂いも普通です。納豆は他に落花生やココヤシなどからも作るそうです。実は私は納豆大好き人間で~~す!
ネパール→雲南→江南地方と、長江(=揚子江)沿いに伝搬(←この図を見て下さい)し西日本に達している照葉樹林文化(※14)が在りますが、それが実感出来ました。因みに、この学説の提唱者が尹君が留学した大阪府立大学の中尾佐助さん(故人)です。
又、朝の景洪の街に出ると色々な食べ物を路上で売る屋台が出ます。特に雲南では現地の人々は朝食には麺(めん)を食べるという事が判りました。麺は一見、日本の饂飩(うどん)に見えますが米粉で米線(ビーセン)と言います。但し味付けは唐辛子が吃驚する程沢山入れますが、これを余り入れない様に頼みます。中には唐辛子・葱(ねぎ)・香菜(シャンツァイ) -雲南料理には香菜が非常に良く使われる- などはセルフサービスの店も有ります。しかしホテル(版納賓館など)の朝食には麺類は出て来ませんね、でもお粥はホテルでも在ります。という事で、ホテルの料理だけでは本当の現地の人たちの食事は判らないという事が判って来て、そういう意味で屋台は情報源です。
その典型が左に紹介する竹御飯(糯米)の屋台です。竹に糯米(もちごめ)を詰めたものを焙って居ます(←この写真は02年10月24日に撮影)。私は1999年にはもっと早い時間に食べましたが、02年もここで買いました、1本2元(約30円)です。すると傣族の麦藁帽子を被った小母さん -1999年も小母さんだった、同じ人かどうかは覚えて無い- は持っている鉈(なた)で竹を割ってくれるのです。全然味付けはして無く竹の内側の薄皮の香りだけがするのです。傣族はモチ米文化です。この小母さんは「中国名花集」にも載って居ます。これは最高!!
(4)-3.景洪市以外の観光地巡り
勐臘県は景洪市の東隣に在り原始熱帯雨林が最大の見所の様です(△3のp126)。それともう一つはラオス人民民主共和国と国境を接して居ます。ラオスの首都はビエンチャンで中国語で万象と書きますが、私はそれを知らず昆明空港で「万象-昆明」「万象-北京」と表示されるのを見て「万象とは何処だろう?」と思ったものです。
勐臘県勐侖の熱帯植物園(△1のp99、△3のp127)には行き植物園賓館にも泊まりました。又、熱帯植物園では「絞殺樹」という気生根を持つ巨樹を見ました(△1のp99)。この熱帯植物園も北山先生の”思い入れ”の強い所なのです。勐臘県勐侖は景洪市から勐臘県に入って直ぐの所に在ります。
◆ドクロ(髑髏)のメンガタスズメ(面型雀)を見付ける
勐臘県勐侖の熱帯植物園に泊まった時、私は胸部背面にドクロ(髑髏)の模様が在る、気味の悪いメンガタスズメ(面型雀)を見付けて仕舞いました、これはスズメガ(雀蛾/天蛾)(※15)の仲間です。
右の写真が『フリー百科事典ウィキペディア(Wikipedia)』からクロメンガタスズメ(黒面型雀)で(実物大より少し小さい)、右端は胸部背面の髑髏模様の拡大です。
尚、写真は翅を展翅した状態ですが実際には翅を閉じて居ます。
熱帯植物園の夕食時に、宿舎からレストラン(←或いは熱帯植物園の食堂か)迄北山先生が案内するので宿舎の玄関口に集合しましたが、その時に宿舎の建物内に止まって居たのです。私は初めは普通のスズメガと思ったのですが、良く見ると背中に髑髏の模様が在るではありませんか、これはドクロメンガタスズメ(髑髏面型雀)とかドクロガ(髑髏蛾)と通称されてるガ(蛾)です。私はこの蛾を見るのは初めてでしたから暫く魅入って仕舞いました!
皆さんは「羊たちの沈黙」という洋画 -同名の小説が原作(△5)- を見た事有りますか?、この猟奇的連続殺人の犯人が被害者の喉にドクロメンガタスズメの蛹を突っ込み、それで窒息死させるのですが犯人はそれで足が付くのです。背面の模様を原作から引用すると「そのガは見た目は美しいが恐ろしい。大きな黒褐色の羽がマントのようにふくらんでいて、毛に覆われた背中には、人間が初めて楽園でいきなり出会った時以来、人々に恐怖心を抱かせている独特の模様がついている。頭と同時に顔でもある丸い頭蓋骨が黒い目で見ていて、頬骨があり、目の脇に頬骨弓が微妙に浮き出ている。」と在ります(△5のp364)。
この蛾に気が付いた人は私だけでした。私は食事だけだったのでカメラは部屋に置いて来ましたが、カメラを取って来ようか迷ったのですが北山先生が来られたので諦めました。夕食が終わりさっきの場所を見ましたが、もう居ませんでした。尤も仮に撮影しても原画は壊れて居たと思いますが、もし撮影して居たら写真付きでHPに直ぐ書いていたかも知れませんね。
このアジア型の髑髏蛾は台湾/中国南部/タイ/インドネシア/マレーシア/インドなど熱帯/亜熱帯に分布して居ます。「羊たちの沈黙」はマレーシア産です。日本ではクロメンガタスズメ(黒面型雀)が定着して居ます(←輸入植物にくっ付いて混入した)。亜種としてヨーロッパ型が居ます。この蛾は蜜を吸うので養蜂業者からは大変嫌われて居ます。又、古くから文献などで知られ、背中の模様から「死人の頭」と呼ばれ不吉な話が付加されて来ました。
私は勐臘というと真っ先に髑髏蛾を思い出します。
因みに、私は昆虫が物凄く好きでトンボ/チョウ/バッタ/セミ/コウチュウなど、自分で言うのも何ですが昆虫には物凄く詳しいです。私は2013年3月から沖縄に来ていますが沖縄の昆虫は粗方2013年に調べ上げ、それを「私の昆虫アルバム・南西諸島編」というHPに書き、2014年に出版した本にそれを載せて居ます(△2-2のp52~63)。
ところで当サイトにも髑髏マークが在りますね、ムッフッフ!!
☠ (*_@)
人間の記憶は不思議なもので、髑髏蛾の事はこんなに覚えて居るのに勐臘県の他の事は余り覚えて居ません。確かもう少し奥地に行ってる筈ですが、勐醒や勐臘鎮(勐臘県の県庁)や望天樹の空中走廊に行ったかどうかは、もう忘れました。
しかし、どれも懐かしい思い出です。
(5)景洪市の土産物屋巡り
景洪市の土産物としては庄洪路のプ・リャンスオ(浦良鎖)の店やミャンマー(緬甸)人が経営する店でヒスイのネクタイピンを買いました、ヒスイはミャンマーで産出します。ミャンマー人は可なり色が黒く目も引っ込んで居ますが中々商売熱心で愛嬌が有り直ぐ話し掛けて来ます。他に孔雀の羽の扇/木彫りの象/刺繍(特に財布(=札入れ))/傣族の店で水煙草の形をした酒なども買いました。水煙草の酒は帰って友人に遣ったら友人は吃驚して居ました。
左上が庄洪路の木彫りの店(△1のp19)です。
左下が木彫りの象、右下が孔雀の羽の扇で「中国香木扇」と書いて在ります。西双版納傣族自治州では象と孔雀がシンボルです。
苗(ミャオ)族の刺繍を施した財布(札入れ)は帰国して友人に上げると結構喜ばれ、以後は苗族を見付けては雲南の土産物の定番としました。
お土産では無いですがドラゴンフルーツ(ピタヤ、火龍果)を買って熱帯果物を賞味しようとしたら「あっ、それ美味しいですよ、黒胡麻の様な種が沢山つまってますよ。」と教えて呉れた小母さんが桃源倶楽部に居ましたね。私はこの時初めてドラゴンフルーツを食べましたが今は沖縄で良く食べて居ます。
(6)大曼么の桃源ハウス(北山マンション)
景洪市の西郊外の大曼么(ターマンメ)に買った北山先生のマンション(←後に桃源ハウスと呼ばれました)にも行きました(左の写真、△1のp106)。ここで先生は95年7月29日から生活し(△1のp68)、今はヘ・チャンリが只で借りて居ます。
北山先生はドン・キホーテを演じ夢を託しましたが、現実の権化である奥方に依って日本に連れ戻されたという訳です。
松岡さんや中川さんは桃源ハウスに泊まって居ます。ここに泊まればドン・キホーテの”暫しの夢”が見て取れます。尚、中川さんは本人に尋ねたら1999年7月迄会社に勤めて居たので「1999年の旅行には参加してない」という返事でした。
4月5日(月)の午前中に景洪→昆明に、引き続いて昆明→大理の飛行機に乗りました。プ・リャンスオが西双版納空港迄見送りに来たのは覚えて居ます。ですが私は景洪→昆明と昆明→大理の飛行機での移動の事を全く覚えて居ません、寝たのか?、否寝る訳が無い!、やはり脳出血の後遺症か?
当時はリコンファーム(※16) -飛行機の座席の再確認- という面倒臭い手続きが有りましたね、通訳の尹君などもその手続きをしたんでしょうか?、聴いたら「して無い」という返事でした、やはり通訳よりもガイドの仕事なのでしょう。
大理(※17、※17-1)は正式には大理白族自治州と言い、その中心部に大理市が在ります。大理は東に洱海、西に標高4122mの蒼山を控えた美しい街(特に大理古城は)ですが、街中が既に約2000mですから蒼山はそれ程高くは感じません。ここでは右の地図を見て貰いましょう、先程の雲南沱茶の箱です。利用出来る物は大いに利用する心です!
大理の歴史については【脚注】を参照して下さい。唯、私たちのガイドは蒙古のフビライに滅ばされた時、周りの少数民族の人たちは勇敢に戦った白族を今でも尊敬していると言った事を覚えて居ます。白族の人は他の民族よりも多少背が高く態度も毅然としている所が在ります。
大理は又、大理石の産地です。日本の神戸市東灘区の御影が御影石(花崗岩)の産地であるのと同じです、実は私は御影の隣町に住んで居ました。
泊まったのは下関賓館(下関は地図の最下部)です。何故下関賓館かというと下関賓館に印がして在るからです。私は大理市下関には99年しか行って無いのです、2004年に大理に来た時(→後出)は大理古城(地図で大理と在る所)に宿泊しました。大理市下関は先程述べた「雲南桃源倶楽部」御用達の雲南沱茶を製造している所ですが、私は下関に着く迄の記憶が飛んで居るので松岡さんに聞いたら「ここには行って無い」という返事でした。観光的には下関は見るべき所は有りません。因みに洱海の北端には上関という地名が在ります(△3のp79)ので上関/下関はペアに成っているのでしょう。
(1)下関の岩蜜
昆明→大理の移動は全く記憶に無いのですが夕方ホテルに着いて街を散歩した事は覚えて居ます。市場で岩蜜というのを食べた覚えが有ります。岩蜜とは野生のミツバチ(蜜蜂)が他に移動する為に蜂の巣を捨て去った後の巣に、未だ蜜が残って居るのを”人間様がくすねた物”です。本来はコケ(苔)などが生えて硬く成り、色も赤や黄に変色し、それを溶かして飲むらしいですが、下関で売ってた物は黒っぽい蜂の巣に未だ柔らかい蜜が着いてる物で舐めると確かに蜂蜜の味がします。これを舐めてると手がべとべとに成ります。人とミツバチの知恵比べですね!
ところで私はこの日頃から中国料理の油の匂いが鼻に付く様に成り、ご飯の御数が喉を通らなく成って居ました。それは段々酷く成って行きました。
(2)洱海遊覧
4月6日(火)には朝から洱海(アールハイ)の遊覧船に乗りました。洱海(面積249㎢、湖面の海抜1972m)は耳の形をした琵琶湖(面積670㎢)の半分以下の湖です(←昆明の滇池に次いで雲南省で2番目の広さ)。この遊覧船は下関のフェリー・ターミナルから出ていて、乗ると白族の女性が白族舞踊/三道茶/白族料理をセットでサービスします(△3のp73)。この日の事は何故か良く覚えて居ます。
桃源倶楽部会員の鈴木昭司さんと遊覧船で話をしました。鈴木さんは足の悪い奥様と御一緒で「自分たち夫婦には子供が無いので白族の娘さんを養子に迎えたい。」と言って居られました。又、中国のお茶が好きなのでお茶を買って帰るとも言ってました。後で松岡さんに聞いたら「養子縁組の話は、北山先生を介して先方の親に会ったそうですが上手く纏まらなかった」そうです。鈴木さんは2000年に個人で九寨溝(四川省北部)に行ってます、未だ空港が出来る前で道が悪く「旅は最高!」だったとか。
(3)三道茶
この中で三道茶は説明する必要が有るでしょう。白族は客を持て成す時に
第一道:苦茶 小さな釜で炒った茶葉に湯を加える、苦い味
第二道:甜茶 急須のお茶に砂糖・クルミなどを入れる、甘い味
第三道:回味茶 // 蜂蜜・肉桂・山椒などを入れる、
甘味・辛味・渋味がミックス
と言って3回茶を出します。
左右の写真と説明文は『茶馬古道』の本からコピーしたものです(△6のp28)。上に書いた事が右の説明文に書いて在ります。
左の写真に材料が写って居ます。
私は遊覧船で白族の女性から、その様な説明を受けた覚えが有ります。三道茶は元々はお茶の形を借りて年長者が若者に人生を教えたとされて居ます。
中国では『茶経』(※18、△7)という本が760年頃に陸羽(※18-1)という厭世家に拠って著され、これが茶の最古の文献とされて居ます。日本では茶は渡来僧、或いは遣唐使に依って齎され、それが宮中に伝わり -聖武天皇の「行茶の儀」、嵯峨天皇の「賞茶の式」(△7のp29)- 段々と一般に広まりました。『茶経』は日本に伝わり栄西の『喫茶養生記』に結実します。
成る程、中国の「お茶文化」はハンパでは有・り・ま・せ・ん・ねぇ!
(4)豚の生皮を食う
下関のフェリー・ターミナルに戻り、今度はバスで洱海の西岸を北上しました。場所は覚えてませんが豚の生皮が出て来たので私は恐る恐るこれを食べました。これを食った人は私ともう一人だけ(←北山先生の親類だそうで表情が大らかな人、会員名簿の北山誠さん)だった事は良く覚えて居ます。他の人は「豚の生肉はどうも」という感じでした。これは大理の名物料理の一つです(△3のp77)。
私は出された物は食ってみようと挑み、豚の皮の下の肉らしくこれを酸っぱくて辛いタレをネギとかニンニクとかと一緒に食べるのですが、これが口の中で中々切れない、これはケッタイな食い物という感じでした。
真面な御飯が油の匂いで食べられないのに生皮が食えるとは、私もケッタイ!!
(5)周城の藍染め
周城は上の地図の上部の胡蝶泉の近くで、やや南東に在ります。周城では藍の絞り染め(※19)が盛んに行われている場所なのです。この写真は「2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行」で来た04年11月4日の夕方に撮影したものなので時間的には同じ位です。
左は白族の女性が愛想を振り撒いて居ます。
右は藍染めした布を乾している所です。
右は出来上がった製品が所狭しと陳列されて居ます。
私は04年は何も買わなかったですが1999年にはテーブルクロス、ヴェスト(=チョッキ)、それと「雲南桃源旅情」と銘の入った暖簾を2つ買いました、これは特注品で後で日本に送って貰った物です。全部で幾つ注文したかは北山先生に聴かないと分かりませんが多分50枚位は注文した筈です。「雲南桃源倶楽部」の会員の方は何人かはこれを買って居ます。
その暖簾を使っているのが右の写真です、これは06年6月23日に撮影しました。これは暖簾を5枚使って居ます。デザインは大理古城の有名な崇聖寺三塔で標高4122mの蒼山をバックに三塔倒影公園の池から見たものです。北山先生は『地球の歩き方』の写真(△3のp78)を見せて「これで遣ってくれ」と言ったのだと思います。
この店は三重県の津駅に在る「大起」ですが大将の顔が見えませんね、トイレにでも行ったのでしょう。この女性は?、私は知りません、ムッフッフ!
津在住の松岡さんがちょくちょく飲みに行く店で、この日は私と2人で飲み私は結局松岡さんの家に泊めて貰いました!
この暖簾にはドン・キホーテの夢が込められて居ます。
(6)胡蝶泉の小便小僧
その後で胡蝶泉に行きました。胡蝶泉は蝶に纏わる伝説が在るそうですが、ここは物凄い観光地で観光バスが何10台も押し寄せ、うっかりしていると大人でも迷子に成りそうです。蝶は飛んで来ないし、私は胡蝶泉には興味を失い土産物屋をからかって時間を過ごしました。
そんな中で見付けたのが小便小僧です。1個10元で売ってましたが8元位に値切り5個買いました。中国では「値切るのが鉄則」と書いて在ります(△3のp297)。
そして売り子のオッサンがバケツに小便小僧を入れ小便を飛ばす実演をして居ました。こんな粗悪品ですが小便は結構飛びます。素焼(※20)の陶器なので水はバケツに入れて置くと徐々に浸み込み、これらの人形の頭から湯を掛けると中の水が膨張してチンポから噴き出すのです。故に小便小僧と言う訳ですが、私がオッサンを調子に乗せて実演して貰っていたら北山先生も来て2個位小便小僧を買いました。
小便小僧はヨーロッパなどに良く在りますがヨーロッパの物は水道を利用している物が多いですね。尚、素焼の小便小僧は2001年の麗江の白沙村でも売って居ましたので買いました。
ところが、この小便小僧は思わぬ発展を遂げるのです、後は「その後」の章をご覧下さい。
(7)大理古城のお茶屋、ロイヤルゼリーの店
胡蝶泉迄行き再び折り返して来て大理古城 -昔の県城が在った所で三塔が見え今も城壁が有ります- で「お茶屋」に入りました。店に入ると若い女性が色々なお茶の試飲をさせてくれ客はその間に買うお茶を決めます、勿論買わなくても良いのです。でも客は大抵中国の御土産としてお茶を買おうと店に入るのです。昆明や景洪など大きな都市・観光地には必ず在り大理古城にも何件か在ります。白族の民族衣装を着た数名の女性が色々説明をして呉れたのを覚えて居ます(←但しもう三道茶の説明はしない、アッハッハ!)。北山先生も我々がお茶をお土産に買うだろうと思って「お茶屋」に入ったと思います。事実、我々は思い思いにお茶を買いました。私もこの旅行の一つの目的が「お茶」だったので勿論買いました。実際、「お茶」は嵩張らないので御土産としては重宝します。
この後、会員の何方かのリクエストでロイヤルゼリー(※21)のお店にも寄ったと思います。ロイヤルゼリーも「雲南桃源倶楽部」では人気が高く会では何度か話題に成りました。
(8)大理のホテルで麗江行きキャンセルを決断
晩飯の時間に成りましたが油の匂いで食堂に入ることも出来ず、明日からの麗江行きをどうしようか?、を考えて居ました。
◆”純情可憐”なエルニーニョ!
昔(=1960年)、坂本九の歌で『悲しき六十才』(訳詞:青島幸男、作曲:アザム・バークレイ)というのが流行りました。こんな内容です。
ヤー ムスターファ
ヤー ムスターファ
遠い昔のトルコの国の 悲しい恋の物語り
純情かれんなやさしい男
それが主人公ムスターファ
...<中略>...
トルコで一の金持ちに
なってしまったムスターファ
いそいで彼女をたずねたら
今や悲しき六十才
...<後半略>...
実はこの歌は、1960年にザ・ピーナッツが歌ってヒットした『悲しき16才』のタイトルを捩って居るのです。私は今回の旅を始めた日が丁度50歳の誕生日でしたので『悲しき五十才』という訳ですが、ムスターファと同じく私も”純情可憐”な・の・で・す!!
もう一度言いましょう、皆さんは私が狗(犬)を食ったり、蛇を食ったりしているので、そうはお考えに為らない人が多いのですが、私は元来”純情可憐”なのです。因みに坂本九は高校の先輩です。
(-_*)
油の匂いで御飯を食べるどころか食堂に入ることも出来ず、熟慮の結果、明日からの麗江行きをキャンセルし昆明に帰ることを決め、北山先生に申し出て了解して戴きました。北山先生は「君が一番大丈夫だと思って居たのに」と仰いました、どういう意味なんでしょうか(?)。まぁ、北山先生も私が”純情可憐”だとは思って居なかった様です!
通訳の尹君に拠ると、尹君が麗江に同行し羅君は我々と一緒に大理から帰国したという事です。尹君は麗江で体調を悪くした中年女性の世話の為に麗江市内しか行って無いとの事でした。
松岡さんは昆明迄は4月7日(水)我々帰国組と一緒で、昆明空港で別れて滇越鉄道昆河線(=国際線)に乗って昆明→河口を一人旅しました。その99年4月7日~8日の模様は中川さんのHPに載って居ます。昆河線は殆どの区間が単線です。
列車は7日の14:55に昆明北駅を出て、翌8日の7:10に河口駅に到着するもので、途中拳銃で武装した乗務員(公安?)に依るパスポート・チェックが在り、速度は時速20~30kmでトンネルや鉄橋が多い線路をギシギシ軋ませ乍ら走った、と記して居ます。そして高度差1800m以上を下って行くのです。
右の写真は『中国国境8000km』から昆河線の車窓風景です(△8のp204)。この本は96年秋に発行されたので多分昆河線の記述は99年と同じだと思いますので、それを引用すると「8両編成の夜行列車」で「走る地域の地形の関係でトンネルが多くカーブのR(半径)が100m以下の箇所も多く、日本のJR線と同じ1.04mの狭軌(※22)が使用されている。」と書いて在ります(△8のp206)。日本の軌間は厳密には1.067mです。
序でにラオカイ(老街)からベトナムの首都ハノイ迄 -途中下車しても良い- を行って欲しかったな~(△8のp210~225)。昆河線だけだったら国際列車の中国側 -つまり国内線- しか乗って無いですからね。まぁ兎に角、この線は1996~2003年の途中迄だけ国際列車が走っていたので、この体験は非常に貴重です。
我々は来年、即ち2000年に河口に行きますが昆河線は見るだけです、残念!!
◇◆◇◆◇
1999年の旅はこの様なものでした。斯くして、エルニーニョは帰国後に「肉体の改造」に取り組むのです。後は「その後」の章をご覧下さい。
今回の旅は「雲南桃源倶楽部」としても初めての雲南桃源旅行 -北山先生が案内する旅- だった為、日程的にも余裕を持たせ見物先も観光地巡りという趣が強かった様に思いました。私にとっても初めての雲南旅行はとても面白かったですね。私は今回の「雲南に魅せられる旅」ですっかり「雲南の虜」に成りました。又、髑髏のメンガタスズメは凄かったですね。今振り返ると「髑髏のメンガタスズメ」を見たのは、後にも先にもこの1回のみです。
初日に関空で見た時もそうでしたが、雲南の少数民族は民族衣装を身に着け人情が素直で素朴で、私は雲南の少数民族に言い知れぬ共感を覚えました。55在る少数民族を全部合わせても人口比で7%程です。それ故に少数民族と呼ばれる訳ですが、普段ニュースにも出て来ないし絶対多数民族の漢族の陰に隠れて居ます。今回の旅で色々な少数民族の人を見て来ました。即ち、彝(イ)族(その支系の撒尼(サニ)族)、哈尼(ハニ)族、苗(ミャオ)族(←刺繍が得意)、傣(タイ/ダイ)族、白(ペー)族、基諾(チノー)族などです。
帰国して私は少数民族の事を”お勉強”しようと思いました、今迄全然知らなかった人たちの事を。以後一貫して私の中国の旅は少数民族に焦点を合わせたものに成って居ます。
お土産も珍しかったので沢山買いました。帰りはリュックが一杯で荷物を詰め込むのに苦労しました。手には周城で買った藍染め、そして景洪で買った水煙草の形をした酒を2本(←煙管部が40cm位在る)を両手に持って居ました。1本は友人に遣り、もう1本は自分で飲みました。まぁ、今回が初めてという事で一杯買い込み大変でしたが、今後は帰りの荷物の事も考える必要が有りそうです。
という事で、何とか纏まった様です。皆さん、どうも有難う御座居ました!!
m(_~_)m
当ページはシリーズに成って居ますが、それぞれの話は単独で完結して居ます。
尚、[雲南に魅せられる旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
>>>■その後
●帰りの昆明~関空直行便で中で
私は上で述べた様に麗江行きをキャンセルし北山先生と一緒に帰国したのですが、帰りの飛行機(昆明~関空)の中で先生は「あの「素焼の小便小僧」だけどねぇ、象の鼻から水を噴きだすのを作れんかなあ」と仰いました。私は「あぁ、そうですか」と極めて曖昧な生返事をしたと思うのですが先生はその着想を実現したのです。
「雲南桃源倶楽部」の会員の方は覚えていると思いますが、先生が京都の陶芸家に頼んで「水を噴射する象」を作って貰った事が有りましたが、あのアイデアはこの小便小僧から着想を得ているのです。これについては「2000年・雲南の旅」の「はじめに」で記します。
●”純情可憐”なエルニーニョ、帰国後に肉体を改造!
”純情可憐”なエルニーニョは99年の大理に於いて、上述の如く食事の油の匂いで飯が食えなく成って以後の旅行を続行するのが無理と判断し急遽麗江行きをキャンセルし北山先生と一緒に帰国しました。
私は「こんな事では行けない!」と深く反省し、大阪の新世界に出掛けて串カツやホルモン焼きを食って「肉体の改造」を行いました。これは聞いた話ですが、戦後間もない頃は新世界の串カツと言ったら「犬の肉」だと言われて居たそうです。
という訳で「肉体の改造」を行った「逞しいエルニーニョ」に2000年の雲南の旅でお目に掛かりしょう、チャオ!!
{この章は2017年6月20日に追加}
【脚注】
※1:ドン・キホーテ(Don Quijote[スペイン])は、[1].セルバンテス作の長編小説。前編1605年、後編15年刊。主人公のドン・キホーテは騎士道物語を読み過ぎて妄想に陥り、自らラマンチャ出身の騎士と成って痩せ馬ロシナンテに跨り、従士サンチョ・パンサを伴って遍歴の旅に出掛け、数々の滑稽な冒険を演ずるという風刺・諧謔小説。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
[2].転じて、空想的理想主義者。「―型の人物」。
※1-1:ドン・キホーテ型(―がた)とは、ドン・キホーテの様に、現実を無視し独り善がりの正義感に駆られて向う見ずの行動に出る人物の型。ツルゲーネフの分類に依る。←→ハムレット型。
※2:重慶(じゅうけい、Chongqing)は、中国四川省東部、長江と嘉陵江の合流点に在る中央政府直轄市。西南地域最大の商工業の中心。周の巴子国の都。日中戦争時は国民政府の臨時首都。面積8万2千㎢。人口3002万(1997)。別称、渝城/渝。
※3:「ちょくる」とは、[1].戯れに触れる。嬲(なぶ)る。伎、傾城浜真砂「この立廻りのうち、大名皆々片鬢を―られたり、肩先を切られたり、手疵を負ふ」。
[2].(東北地方・新潟県・関西地方で)からかう。馬鹿にする。(主に関西で)おちょくる。
※4:沱茶(たーちゃ)/餅茶(もちちゃ)/団茶(だんちゃ)とは、茶葉を丸餅状に練り固めた固形茶を指す。大きさは大小様々で、大きいものは一回毎に使用する分量だけ削って飲み、一回の飲茶に丸ごと使える小型円盤状のものは沱茶と呼ぶ。体積が少なく済み長期保存が利き、運搬に便利。中国古来の茶の保存形態で、現在では雲南地方に残る。遣唐使らに依って日本に最初に輸入された茶の形態で、団子の様な形から団茶とも呼ばれた。
※5:瀾滄江(らんそうこう)は、メコン川(Mekong river)の中国名。東南アジア第1の大河。中国青海省南部、チベット高原東部に発源、山系の走向に従って南東流後に南流、中国雲南省およびラオス・タイの境を流れ、カンボジアを貫流、ベトナム南部で南シナ海に注ぐ。下流のデルタ地帯は水田地帯として重要。長さ4350km。
※6:フェニックス(phoenix)は、この場合、ヤシ科ナツメヤシ属植物の総称。茎は円柱状。葉は大形の羽状複葉で、茎頂から四方に広がる。雌雄異株。アジア/アフリカの熱帯/亜熱帯に約25種在り、日本ではカナリーヤシ/シンノウヤシなど耐寒性の強いものが暖地で植栽される。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※7:文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは、1966年に始まる中国の政治・思想・文化闘争。毛沢東・林彪らを主導者とし、直接大衆を組織することに依って、党・行政機関の実権を劉少奇らから奪った。その極左的傾向が弊害を生み、毛沢東の死後、江青ら所謂「四人組」が責任者として逮捕され、77年終了が宣せられた。文革。
※8:翡翠(ひすい、jade, jadeite)は、この場合、玉(ぎょく)の一。鮮やかな翠緑色を呈し、緻密で光沢が有る。ミャンマー/チベット/メキシコなどに産し、装身具/装飾品として愛玩され、日本では新潟県に見出された。ジェード。→硬玉。
※9:佳木斯(ジャムス/チャムス、Jiamusi)は、中国黒竜江省の東部、松花江下流の工業都市。4本の鉄道が交わり、省東部の経済・文化の中心。人口78万6千(1995)。
※10:スコール(squall)は、急激に起こる強風で、数分間続き突然止むもの。一般に降水や雷雨を伴い風向が急変する。日本では特に熱帯地方の驟雨(しゅうう)を言うことが多い。日本国内のものは疾風(はやて、早手)、陣風(じんぷう)と言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※11:ゴング(gong)は、[1].銅鑼(どら)。
[2].打楽器(太鼓を除く)の内、容器状のものの称。
[3].ボクシングなどで、試合開始及び各ラウンドの開始/終了などの合図の鐘。
※11-1:銅鑼(どら)は、金属製の打楽器の一。多く唐金(からかね)で造り、盆形をし、紐で吊り下げて桴(ばち)で打ち鳴らす。大小各種あり、中央部に疣状の隆起を持つものなども在る。桴も種類が多く、用途に依って組合せは様々。仏教の法要や歌舞伎囃子、獅子舞などの民俗芸能の他、茶席などにも用い、出帆の合図にも打ち鳴らす。仏教用のものは鐃(にょう)と称す。度鑼。西洋では一般にゴング(gong)と言い、管弦楽で使うものはタムタム(tamtam)と言う。易林本節用集「鉦、ドラ」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※12:上座部[仏教](じょうざぶ[ぶっきょう]、Theravada[パーリ語])とは、〔仏〕部派仏教の一派。仏滅後百年頃、仏教教団は保守的な上座部と進歩的な大衆部に根本分裂し、後上座部は更に説一切有部(せついっさいうぶ)など多くの部派に分裂した。東南アジアに伝わる仏教(南伝仏教)はこの上座部の流れに属する。
補足すると、上座部仏教とは即ち小乗仏教のことであるが、小乗とは大乗の立場から批判的に言ったものなので、上座部仏教と呼んだ方が良い。
※12-1:小乗[仏教](しょうじょう[ぶっきょう]、hinayana[梵])とは、〔仏〕(劣った乗物の意)衆生済度を忘れて自己の解脱だけを求める声聞や縁覚の立場を、大乗の立場から批判的に名付けたもの。←→大乗[仏教]。
※13:納豆(なっとう、fermented soybeans)は、この場合、良く煮た大豆を藁づとなどに入れて適温中に置き、納豆菌を繁殖させて作った食品。粘り気が強いので糸引き納豆と呼ばれ、今日普通に納豆というのは、この種のものを指す。現在は、蒸し大豆に直接納豆菌を散布して発酵させたものが多い。季語は冬。浮世風呂4「―を見なせへ」。
※13-1:納豆菌(なっとうきん)は、納豆製造に用いる枯草菌。大豆に繁殖して納豆固有の粘質物と匂いとを生じさせる。
※14:照葉樹林文化(しょうようじゅりんぶんか、laurel forest culture)とは、ヒマラヤ中腹から東南アジア北部・南西中国・江南の山地を経て西日本に至る、照葉樹林地帯に共通する雑穀栽培農耕・焼畑などの文化要素が特色付ける文化で、栽培植物学者の中尾佐助が提唱。
※15:雀蛾/天蛾(すずめが、hawk moth, sphinx moth)は、チョウ目スズメガ科のガの総称。体は太く紡錘形、翅は細長く強い。敏捷に飛ぶ。夕方、花に集まり飛び乍ら長い口で蜜を吸うものが殆どだが、口が退化して餌を全く取らないものも在る。灯火にも集まる。幼虫は大形のイモムシ(芋虫)で、通常尾角を有する。キイロスズメ/セスジスズメ/ベニスズメ/オオスカシバなど日本に約60種が分布。黄別当(きべっとう)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※16:リコンファーム(reconfirm)は、航空機の予約済み座席の再確認。
※17:大理(だいり、Dali)は、[1].中国、雲南省北西部に在る都市。大理石の産地。人口52万1千(2000)。
[2].10世紀中葉(五代の後晋の時)、タイ族の段思平が南詔国に代わって今の中国雲南省に建てた国(937~1254)。11世紀末、権臣高氏が簒奪したが、1096年再興(後理国)。1254年蒙古のフビライ汗に滅ぼされた。
※17-1:南詔国(なんしょうこく)は、(詔は王の意)中国、唐代にチベット・ビルマ系の蒙氏が雲南に建てた国(649頃~902)。六詔国の一つ。10世紀初頭、権臣が簒奪。→大理。
※18:茶経(ちゃきょう/さけい/ちゃけい)は、茶書。唐の陸羽の著。760年頃成立。3巻。茶の歴史・製法・器具について記述した最古の書。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※18-1:陸羽(りくう)は、中国・唐中期の文人(?~804?)。自然復帰を唱えて半生を隠棲。「茶経」を著す。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※19:絞り染め(しぼりぞめ)とは、染色法の一。糸で布帛を摘み、又縫い締め、その後に竹皮や合成樹脂のシートで包むか、或いは適当の方法で皺(しぼ)を生じさせて、部分的に液の浸入を防いでから染め出す法。鹿子(かのこ)絞り/有松絞りなど。括り染め。くくしぞめ。絞り。纐纈(こうけち)。目染め。
※20:素焼(すやき、unglazed pottery)は、この場合、陶磁器を本焼とする前に、釉(うわぐすり)を掛けず低火度で軽く焼き固めること。又、その焼物。
※21:ロイヤルゼリー(royal jelly)は、若い働き蜂の咽喉腺の分泌物。これを与えられた幼虫が女王蜂と成る。高蛋白質で、ビタミンB複合体などを含む。
※22:狭軌(きょうき、narrow gauge)とは、鉄道のレールの間隔が標準軌間(1.435m、4ft8.5in)より狭いもの。日本のJRの大部分は1.067m(3ft6in)で狭軌。←→広軌。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。
△2:『パーリャン小学校の思い出(第2版(改訂版)) ~中国雲南省の辺境地に小学校を作る~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-1:『ブラボー、クラシック音楽! ~活動履歴・曲目解説・オリジナルCD・折々の感想など~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△2-2:『めんそーれ沖縄! ~新天地沖縄と物外館の思い出~』(エルニーニョ深沢著、蛙ブックス)。
△3:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△4:『たべもの日本史総覧』(新人物往来社編・発行)。
△5:『羊たちの沈黙』(トマス・ハリス著、菊池光訳、新潮文庫)。
△6:『茶馬古道』(「茶馬古道」編集部編著、陝西師範大学出版社)。
△7:『茶経 付喫茶養生記』(「茶経」は陸羽著、林左馬衛校注、「喫茶養生記」は栄西著、安居香山校注、明徳出版社)。
△8:『来た、見た、撮った!-中国国境8000km』(田島正著、徳間文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):西双版納の地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):パーリャンの在る孟連県の地図▼
地図-中国・孟連(Map of Menglian, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):昆明と雲南省の地図▼
地図-中国・昆明と雲南省(Map of Kunming and Yunnansheng, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):雲南省の大理の地図▼
地図-中国・雲南省北部(Map of Northern part of Yunnan, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):四川省の九寨溝の地図▼
地図-中国・四川省の成都と三星堆
(Map of Chengdu and Sanxingdui of Sichuan, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):中国雲南省の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@参照ページ(Reference-Page):感染症や免疫関連の用語集▼
資料-最近流行した感染症(Recent infectious disease)
@参照ページ(Reference-Page):照葉樹林文化圏の図
(中国に入ってからは長江沿いに伝搬する)▼
資料-照葉樹林文化とフォッサマグナ
(Laurel forest culture and Fossa Magna)
@参照ページ(Reference-Page):ドクロ(髑髏)の
メンガタスズメ(面型雀)の分類学▼
資料-昆虫豆知識(Insect Trivia)
@補完ページ(Complementary):原画ファイルの破壊状況と破壊時期▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
@補完ページ(Complementary):2002年のプ・リャンスオの思い出
(2002年雲南桃源旅行・番外編)▼
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
@横顔(Profile):2002年の傣族民家に公安の車(=パトカー)を
自分で運転して来たプ・リャンスオや、傣族民家に宿泊した経験▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
@補完ページ(Complementary):2008年の中国人の友人たちの変貌振り
(2008年雲南回帰の旅・番外編)▼
西双版納でタンゴ、何でや?(TANGO in Xishuangbanna, why ?, China)
@横顔(Profile):雲南桃源倶楽部や雲南桃源旅行について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
@横顔(Profile):2002年の雲南省孟連県パーリャン村に
小学校を建てる活動▼
パーリャンに小学校をつくる会
(Construct team for Paliang's primary school)
@横顔(Profile):2004年のパーリャン小学校竣工式▼
パーリャン村の小学生を支援する会
(Support team for Paliang's schoolchildren)
最初に私の脳出血を書いたページ▼
エイが向かいし島「江井ヶ島」(Rays went toward Eigashima, Kinki)
脳出血から沖縄の人に成る迄の経過▼
2013年・大阪から那覇へ(From Osaka to Naha, Okinawa, 2013)
雲南桃源旅行についてや
JAS(日本エアシステム)の関空~昆明直行便が在った時期▼
私の外国旅行(Travel of my foreign country)
私の神戸転居や阪神淡路大震災について▼
懐かしの「純喫茶」(Nostalgic 'Pure coffee shop')
律儀な尹君のお父さんについて▼
2002年・尹君のお父さんの思い出
(Memories of Mr.Yin's father, China, 2002)
「言葉遊び」について▼
「言葉遊び」と遊び心(The 'play of word' and playing mind)
浦良鎖に北山先生の言伝(手紙)を渡した旅や景洪市の雨季のスコール▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
2004年のパーリャン小学校の竣工記念旅行で訪れた
橄欖壩や周城の藍染め▼
2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行
(Completion travel of Paliang's primary school, China, 2004)
版納賓館の鄒浜仿と李亜琴、基諾族の看護婦の娘の松松さん、
景洪で竹御飯(糯米)売っている小母さんを「中国名花集」に登録▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
2001年の中甸空港
(2002年から中甸は香格里拉に名称変更されました)▼
2001年・紅葉の中甸(Red leaves of Zhongdian, China, 2001)
SARSと感染源について▼
2003年・SARS-感染源はハクビシン?!
(The SARS, what is the source ?, 2003)
”脱雲南”の最初の旅▼
2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)
[2008年雲南回帰の旅#1]-羅平/文山の旅▼
2008年・雲南の羅平/文山etc
(Luoping, Wenshan etc. of Yunnan, China, 2008)
竈(かまど)が在る文化▼
アジアに存在する日本神道の原型
(Prototype of Japanese Shintoism exist in Asia)
中国の市場の食べ物や狗食(犬食)や蛇食▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
2013年から直ぐ仕上げた沖縄の昆虫のHP▼
私の昆虫アルバム・南西諸島編(My INSECTS album in South-West Islands)
茶馬古道や中国の「お茶文化」▼
中国と世界の「お茶文化」('Tea culture' in China and the world)
茶と禅、日本の茶の歴史▼
2006年・金谷急ぎ旅(Kanaya hurryingly, Oi-river Railway, 2006)
ケッタイとは▼
浪速のケッタイ(Strange spots in Naniwa, Osaka)
麗江にも在った小便小僧▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
滇越鉄道昆河線について▼
2008年・雲南の河口/金平etc
(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)
正しいホルモン/モツ系料理の食い方▼
日本、形有る物を食う旅(Practice of active meal, Japan)
私が主宰していた【ブラボー、クラシック音楽!】の活動記録▼
ブラボー、クラシック音楽!-活動履歴(Log of 'Bravo, CLASSIC MUSIC !')
エルニーニョ深沢が出版した本▼
エルニーニョ深沢が出版した本(The BOOKS that ElNino Fukazawa published)
私の出版事業/文化事業について▼
ようこそ【出版者 蛙ブックス】へ(Welcome to FROG BOOKS)
総合メニューにも髑髏マークが在る▼
案内板:総合目次(Direction board of ElNino's Palace)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')