-- 2016.10.24 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2019.03.31 改訂
パソコンのトラブルの所為で2000年の雲南の旅は写真(=原画)が全然無いという事をもう一度言って置きます、従って以下の写真は全て他年度や本からの借用です。これについては「1999年・雲南の旅」に記した通りです。又、その原因については「初歩的な神道の神々」の中で検討して在ります。
それと本ページを書いているのは17年も経った2016~17年だ、という事を頭の片隅にインプットして置いて下さい。尚、太枠の写真は北山先生の『西双版納』(△1)からスキャナーで採った写真です。
(1)2000年5月6日(土)、彭飛(ポンフェイ)氏の講演
この日の午後から彭飛氏(国際日本文化研究センター教授)の講演が国際交流センター(大阪市天王寺区上本町)で在りました。内容は「雲南岩絵や稲作の伝播経路について」で中々刺激的な話でした。特に納西(ナシ)族の東巴(トンパ)文字に言及したので、岩絵と共通する絵文字文化について大いに盛り上がりました。私は氏の著書(△2)を買いました。因みに彭飛氏も招待会員に成ってます。この日は鳥越憲三郎氏(古代史、文化人類学)も来られましたが、その話は後でします。
(2)陶器製の「水を噴射する象」
「1999年・雲南の旅」の「その後」の章で少し触れた様に、北山先生は「水を噴射する象」を陶器で作る事を考え出し、それを実現する為に2000年春頃に京都の富田一嗣氏(号:洛山、清水焼団地所属、住所:京都市山科区川田出水焼団地4-3)(※1)に依頼しました。このアイデアの元は去年の大理胡蝶泉で買った小便小僧です(小便小僧は更に「その後」の章を参照(→後出))。
まぁ、ここ迄は普通の人なら考えますが、先生はそれを実行して仕舞いました。専門の陶芸家に頼んだら金額も高く付きます。先生は100個を頼んだと聞いてますが、それだけ売れるという保証は有りません。先生は確かに象への”思い入れ”はハンパでは無いことは『西双版納』の本からも解ります(△1のp100~103)。でも普通はここで思い留まるのです。しかし芦屋のドン・キホーテは陶器の「水を噴射する象」へ向かって猪突猛進して行きました。
全長17cm位の製品は2000年初秋、つまりこの雲南の旅の少し前に完成しました。100個全部売れたかどうかは知りませんが私も1個買いました(¥6000/1個)。
この陶器製の「水を噴射する象」は中々良く出来て居ます。先ず第1に素焼の小便小僧は、水はバケツの中に入れて置けばジワジワと浸み込むのでお湯を掛けたら噴き出す穴、即ちチンポさえ有れば良いのに対し、陶器の象は水が浸み込まないので吸水口が必要なのです。どこに在るかと言えば、象を引っ繰り返すと2本の前足の間に在ります。第2に噴射口は鼻の穴ですから吸水口の水溜めタンクと内部で繋がっていなければ為りません。第3に水が漏らない様にする為に吸水口には栓をして塞ぐ必要が有ります。何を栓にするか?、誰でもが考える爪楊枝の頭部です。それで遣って見ると緩過ぎもせずきつ過ぎもせずピッタリなのです。ウーム、洛山先生、お見事!!
洛山先生は色々実験している筈です。鼻の穴の太さ、吸水タンクの大きさ、爪楊枝の頭部がピッタリ合う吸水口の太さ、など様々なノウハウ(know how)が隠されている(※2)のです。しかし、そんなノウハウなど知らない様に吸水口の横に「一嗣」と落款が在ります。それでは水を勢い良く噴射している象をお目に掛けましょう(右の写真)。
この象は「木彫りの象」と一緒に普段は置物として使って居ます。
芦屋のドン・キホーテはこの様に「少年の心」を持って居るのです。
(3)三星堆遺跡や草鞋(わらじ)や三七(田七)について
- 「雲南桃源倶楽部」の最盛期
鳥越憲三郎氏も2000年5月6日に国際交流センターで行われた「雲南桃源倶楽部」の桃源祭 -「雲南桃源倶楽部」は普段は京橋の小池さんの事務所で行われるのですが、この日は特別で彭飛氏の講演も在りました- に来られ、三星堆遺跡は素晴らしいと仰ったので甚(いた)く感激した事を覚えて居ます。
[ちょっと一言] 三星堆遺跡は2001年に行く事に成るのですが、『史記』を著した司馬遷が余りに荒唐無稽な内容の為に「歴史に非ず」と言って捨て去った『山海経』(△3)から、その通りの遺跡が出て来たのは驚異です。「歴史に非ず」とした箇所は『史記』の「大宛列伝」の「太史公曰く、...<前略>...『禹本紀』や『山海経』に書かれている奇怪な物どもについて、わたしは語ろうとは思わない。」という太史公自序の部分です(△3-1のp99)。出土した4mにも及ぶ神樹は中国神話の「十個の太陽」(△3のp122、132、159)を表し、燭陰(燭竜)(△3のp126、172)の「目は直(たて)にして」(△3のp172)を表す青銅縦目仮面が出土したので吃驚仰天です。三星堆遺跡は1986年に広漢市(成都の隣、古代の蜀)で発掘された新しい遺跡です(△4のp193)ので今後解明されて行くでしょう。
それで鳥越氏も招待会員だろうと思って会員名簿を見ると、何と我々と同じ一般会員(=正会員)です。あのプ・リャンスオ(浦良鎖)でさえ招待会員なのですゾ。私は思いました、鳥越氏は北山先生と同じく関西学院大学の出身なので言わば北山先生の先輩です、それで一歩引いた形にしたのでしょう。
この時期は「雲南桃源倶楽部」でバザーを開催したり草鞋(わらじ)のルーツや三七(田七)について勉強会を行ったりと活動が活発で、月1回の「雲南桃源倶楽部」は最盛期を迎えていた様に思えます。私は去年、景洪市の市場で納豆を味見した事をちょっとだけ話しました。
そして私は肉体を改造して「”純情可憐”なエルニーニョ」から「逞しいエルニーニョ」に変身しましたので、その点もしっかりご覧下さい。「えっ、”純情可憐”だと?、ウソつくな!」という声が聞こえますが...。
尚、当ページの記事は「全て見た儘有りの儘、何も足さない、何も引かない」をモットーに書いてます。それからもう一つ、当ページの記事は一貫して少数民族に焦点を合わせたものに成って居ます。
今回もJAS(日本エアシステム)の関空~昆明直行便(週2便:日と水)を利用しました。参加者10名。北山先生は旅行手配を中国旅行社(昆明市)の林海に頼みました。林海は日本語の出来る中国人女性ガイドを1人用意し、現地走行は厳しい道のりなので北京ジープ -能くエンジンのオーバーヒート(overheat)を起こした- とトヨタのパジェロとマイクロバスを用意しました。
桃源倶楽部側からは留学生の羅君が通訳兼”万(よろず)トラブル対応”係に当たりました。
*.紫色は予定、黒色が実績
<宿泊>
09:50 ✈ 14:30 自由行動組 昆明
11/01(水) 関空 → 昆明 市内観光組は大観公園/ (白雲酒店)
雲南省博物館/花博公園など
┌九郷┐
02(木) 昆明 →┤ ├→ 弥勒 → 開遠 開遠
└石林┘ (鍾山) 昆河線の駅 (恒虹園大酒店)
03(金) 開遠 → 文山 → 河口 河口
三七(田七) ベトナムとの国境の街 (星光酒店)
04(土) 河口 → 蔓耗(蛮耗) → 金平 金平
尹君の故郷 (金媽酒店)
05(日) 金平 → 那発 → 者米 → 緑春 → 元陽 元陽
05(日) 金平 → 那発 → 者米 → 緑春 緑春
道路工事 (招待所)
<予定より1日遅れ>
06(月) 緑春 → 元陽 → 元陽(南沙) → 新街 新街
ハニ族民家 梯田(棚田) 南沙が洪水 (?)
06(月) 元陽 → 底瑪壩 → 紅河 紅河
07(火) 新街 → 紅河 → 元江 元江
道路工事 (?)
07(火) 紅河 → 墨江 → 思茅 思茅
メイングループ
┌──────┐
08(水) 元江 ─┴→ 底瑪壩 ┴→ 墨江 → 思茅 思茅
北山先生、周小竜と会う (思茅賓館)
08(水) 思茅 → 勐養 → 三岔河 三岔河
09(木) 思茅 → 三岔河 三岔河
自然動物園、象のアトラクション ─┬─ (象谷樹上ホテル)
└─ (通常のホテル)
09(木) 三岔河 → 基諾山 → 勐侖 勐侖
10(金) 勐侖 → 勐罕 → 景洪(西双版納) 景洪
10(金) 三岔河 → 勐養 → 基諾山 → 勐罕 → 景洪 景洪
象の樹 基諾族 ガンランバ (版納賓館)
11(土) 景洪 → 打洛(国境見学)→ 景洪 → 昆明 昆明
11(土) 景洪 → 自由行動 → 景洪 → 昆明 昆明
19:40 ✈ 20:20 (白雲酒店)
14:40 ✈ 19:50
12(日) 午前中は自由行動、昼食:お別れパーティー 昆明 → 関空
今回の通訳は羅君で、羅君は留学生です。華南農業大学の黄寿山教授 -黄先生は2002年にお会いしました- も北山先生の世話で岡山大学に留学しました。リ・アーチンは昨年は版納賓館のアルバイト -先生の本には正社員の様に書いてます(△1のp40、本では玉光香と名乗る)が私にはアルバイトにしか見えなかった- をして居ましたが今年から近畿大学に留学して居ます。
去年の尹君もそうですが北山先生は多くの若い学生の世話をし、時には保証人に成ったりと、中々出来る事では有りませんゾ!
(1)昆明
11月1日(水)は午前中、関空~昆明直行便(週2便:水と日)で中国に入りました。昆明空港には今年も律儀な尹君のお父さんが出迎えに来てくれましたが今年は尹君は来て居ません。
午後は昆明市の見学で自由行動組と市内観光組に分かれ、私は自由行動組で松岡さんらと花鳥市場(→後出)などを見に行ったと思います。市内観光組は大観公園 -滇池の入口に在る- や雲南省博物館や、去年開催した花博公園などに行った筈です。
夜の食事の時に簡単な自己紹介をして親睦を深めました。部屋に帰って冷蔵庫に入れて置いたJASでせしめたボトルワイン2本を飲みました。旨かった!
(2)2度目の石林
11月2日(木)は石林へ行きました。石林は昨年も行ってますので九郷との選択だったのですが私は又もや石林にしました。九郷は宣良県で石林の北に在り九郷溶河という鍾乳洞が在る所です。通訳も二手に分かれたと思います
石林彝族自治県の石林は昆明の東南東100km位の所に在り総面積400㎢です。ここは太古は海だった所で(△4のp59)今から2億8千年前に地殻変動が始まり、カルスト地形(※3、※3-1)の独特な石灰質の岩盤が海中から地上に露出して出来たものです。黒い石柱が幾重にも重なり「石の森林」の様だからこの名が付きました。因みにカルスト地形と言うと、中国では桂林(←中でも漓江周辺の奇岩の山々)が有名です。
我々は李子箐(りしせい)石林に行きました、通常「石林」と言うとここを指します。ここは「石の森林」の中を細い曲がりくねった遊歩道が在り私たちも遊歩道を歩きました。李子箐石林の入口(=チケット売り場が在る所)には石林湖が在りますが、ここには彝(イ)族の支系のサニ族(撒尼族)が居て土産物を売ったり、石林に来た思い出にサニ族の民族衣装を着て写真を撮らせたりして居ます。
私は去年(=1999年)の旅ではサニ族の民族衣装を着て写真を撮りましたが、冒頭で話した通り、この写真は今は在りません。去年は石林から昆明に戻り、戻る途中に観光バスが何台も駐車出切る大きな土産物屋が在り、そこでヒスイ(翡翠)などを買いました。後で判った事ですがヒスイは景洪の庄洪路でミャンマー人から買えたのです。
ところで先程の彭飛教授の本に石林の良い写真が載って居ますので、そこから借用します。左が石林(△2のp26)で朝日に赤く輝いて居ます。右がサニ族の少女(△2のp27)です。
雲南省は20年に1度位の割合でM(マグニチュード)7クラスの大きな地震が在り遊歩道からも大地震の亀裂が見える所が在りました。
昆明から石林への道路は両側にユーカリ並木(※4、※4-1) -女性のガイドに教えて貰いました- が連なります。見ると下部1m位は白い塗料で塗って車のライトを反射し特に夜はその効果が倍増します。以後、下部を白く塗った並木は雲南の各地で目にします。
去年は石林から昆明に戻りましたが今年は先へ進みます。
(1)弥勒
九郷組と石林で合流し、車は南下して弥勒県に入りました。これから先は大きな街以外は道路は殆ど舗装されて無い悪路です。そして、ここからは紅河哈尼哈族彝族自治州です。弥勒という地名は仏教臭い名で日本にも在ります。弥勒県は30cm角位の石(岩)がゴロゴロと剥き出している所が在りました。女性ガイド(確か陳さん(?)、日本語が可なり上手い)が弥勒(弥陽鎮)でバスは休憩し私はガイドと2、3言話したら「ここが自分の出身地です」と言いました。
ところで、「鎮」については、中国では「県の下の行政単位」を表し「比較的大きな街」を指します。
◆北山先生、『雲南故事』のモデルの長男を訪ね”数奇な体験”をする
鍾山は弥陽鎮より先に在り可なり奥まった所に在るという印象でした。『雲南故事』のモデルの五十嵐さん(中国名:阿恵)は戦争に翻弄され旧満州から遥々雲南の地へ辿り着いた日本人女性の数奇な運命を描いたものです。中国では「雲南物語」という映画に成り日本でも上演されたそうですが私は見て居ません。北山先生は鍾山の阿恵の長男の家を態々(わざわざ)訪ね長男とお子さんとお孫さんに会い、これ又”数奇な体験”をした訳です。この時の写真は中川保さん(会員)のホームページ(HP)に載って居ます。因みに桃源倶楽部の名誉会員の五十嵐美惠さんがモデルになった人(阿恵)で今は千葉県に住んで居ます。
ところで、我々の中国の友人も文化大革命で上海や佳木斯(ジャムス)から雲南の景洪に逃れた人が居りましたね、ムッフッフ!
(+_*)
(2)開遠市
開遠市は紅河哈尼哈族彝族自治州に在る新しい街で見るべきものは有りません。唯、昆明と河口を結ぶ昆河鉄道 -当時は雲南省とベトナムを結ぶ国際線(滇越鉄道)の一部- の開遠駅が在ります。
◆常温ビール(啤酒)には参った!!
開遠市は市ですが”田舎の街”に新しく出来た市(←中国では市の方が県より大きい)ですから本質は「田舎」です。夕食時のビール(啤酒)が全然冷えてない、つまり”常温ビール(啤酒)”が出て来たのです、これには参りました!!
旅の疲れを癒す為には先ず「冷えたビール」です。我々はそれからビールを冷蔵庫に入れましたが直ぐには冷えません。冷蔵庫が在るのにビールを冷やさない理由を訊いたら「お腹を冷やすと体に良くない」ですと、屁理屈放(こ)きやがって!
それで松岡さんが”桃源旅行のビール係”を買って出て、今夜泊まるホテルに朝電話して「ビールを冷やしとけ!」と言う訳ですが、中国語が出来ない松岡さんで話が通じたかどうか?、甚だ心許無い限りでは有りました。
何と言っても中国は「お茶文化」ですから当時は「お腹を冷やすと良くない」などと能書きを垂れてましたが変われば変わるものです。中国人が”常温ビール”を完全に払拭したのは2008年に行われた北京オリンピック・キャンペーンです。是非▼下▼のページをご覧下さい。
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
(>_<)
翌日の11月3日(金)に気が付いたのですが、開遠の街は石炭の煤煙が酷く景色が霞んで見える程で、私は早く抜け出したかったですね。開遠から東の文山県に向かいます。
◆中国のタバコ王
確か開遠市だと思って居ますが、途中の道路は悪く車は粉塵を撒き散らし乍ら進むのですが、途中約1km四方が道路が舗装されている区間が在り、女性ガイドは「ここはタバコ王の土地です」と言いました。私は呆気に取られて綺麗に舗装されている領域を眺め回した事を覚えて居ますが、車で1kmなど「あっと言う間」で、そこを過ぎると又悪路です。僅か1km四方の権力の誇示です。
私は日本にも明治期に「××王」と呼ばれた人たちが居て、その中に「タバコ王」も居た事を思い出して居ました。
(-_*)
文山県は正式には文山壮族苗族自治州と呼び壮族・彝族・苗族・回族・白族・傣族・瑶族などの少数民族が多く住んで居ます。文山に近付くと「奇妙な形をした小山」の中を縫う様にして車は進みました。私は当時は雲南の地理に関して全くの素人(しろうと)でしたが、或る程度地理を理解し再び文山に来た2008年には「奇妙な形をした小山」はカルスト地形だったという事が解りました。昨日行った石林もカルスト地形でしたが、文山のカルスト地形は貴州省を横切り広西壮族自治区の桂林迄ずっと続いて居るのです。因みに中国語でカルストを岩溶(yanrong)と言い(←溶岩の逆)、カルスト地形を岩溶地貌(yanrong dimao)と言いますので、宜しく!
◆2008年の2度目の文山訪問から2000年を偲ぶ
右の写真は2008年3月14日の夕方、2度目の文山訪問で撮ったものの借用です。橋の上から撮った風景は比較的2000年のイメージを残して居ます。但し正面の塔は東山公園の文笔塔(文筆塔)ですが文笔塔は2000年には有りませんので、念の為。写真の左側に地元民しか行かない商店街が在り2000年当時を偲ばせます。
2008年の文山は
2008年・雲南の羅平/文山etc(Luoping, Wenshan etc. of Yunnan, China, 2008)
をご覧下さい。
◆文山三七(田七)・その1
さて、2000年11月3日(金)の昼頃に文山(開化鎮)に着き昼食にしました。県庁所在地にしては”えらい田舎の街”、これが2000年の私の文山の第一印象です。桃源倶楽部のメンバーは三七(田七)について「はじめに」に書いた様に勉強会を行ったりして居たので皆さん三七については可なり良く知って居ましたが、私は三七についての予備知識はゼロでした。唯、買うなら三七の根 -粉末では無く根- だと決めて居ました。通りに三七の根を売ってる店が在りましたが興味も特に無かったので買いませんでした。
我々は昼食後、三七(田七)を栽培している畑に行きました。畑には人は殆ど居らず、代わりに黒い大きな犬が畑の檻の中に1頭居る所も有って”怪しい動き”をしたら直ぐ犬を放つゾ、と無言の圧力が掛かって居ました。広い畑には苗木がびっしり植わって居た事を覚えて居ます。当時は良く解らなかったのですが、畑の苗木は黒っぽいビニールで覆って在りました。これは遮光シートで、つまり三七は直射日光を嫌うので遮光シートは絶対必要な物だと後で解りました。2008年に再び来た時も遮光シートで覆われて居ました。
文山の三七については、是非▼下のページ▼をご覧下さい。多分、三七(田七)についての有らゆる疑問にお答えしていると思います、力作ですゾ!
文山三七(田七)の日中比較(The 37-carrot of Wenshan in Yunnan, China and Japan)
尚、この話には続きが在り、「文山三七(田七)・その2」をご覧下さい。
(-_@)
11月3日(金)の午後、文山から河口(170km)へ一気に南下するというのは可なり強行です。しかも三七の畑の出発時刻が14時を過ぎて居ました。御負けに悪路です。ここで悪路について説明しましょう。
◆悪路、道路工事、検問
中国の悪路はハンパでは有りません。前の車が見えなくなる程に車が巻き上げる土煙は凄いのです。これが雨が降ると道は泥濘(ぬかるみ)にタイヤを取られて車も右に傾き左に倒れ「真っ直ぐ」前に進めなく成ります。こういう悪条件では時速20~30kmが精々です。最悪はタイヤが泥濘に嵌まり抜け出せなく成って仕舞うのです。
何処だったか忘れましたが(緑春か、元江か?)、北京ジープが泥濘に嵌まり込んで仕舞い、既に雨は上がって居たのですが5、6人で車を押して40分位掛かってやっと車を引き上げた事が有りました。序でに言うと、この北京ジープはよくオーバーヒートを起こしボンネットを開けて車を休ませなければ為りませんでした。全く”良く役に立つ車”です。松岡さんに言わせると、北京ジープはパジェロに比べるとコストが大幅に安いので動かなく成ったらその場で捨てるという話です!
中国は2000年当時は彼方此方で道路工事を行って居ました。道路工事に出会(でくわ)すとアウトです。短くて1時間、長ければ半日以上そこで成す術無く待たなければ為りません。もう記憶が曖昧で何処だか忘れましたが、道路工事してる直ぐ脇で発破(※5)を掛けて居た事も有りました。道路工事の情報が事前に判れば道路を迂回する方法も取れるのですが共産中国は事前情報は一切流しません。私たちは2000年の旅で10回位道路工事に遭遇して居ます。
それと検問です。これは国境沿いの街では必ず有り、要するにパスポート・チェックですが検査官がパスポートの氏名などを”手書き”で書き取るので、物凄く時間が掛かります。通常、検問が有ると1時間位掛かります。でも検査官も非効率な仕事にうんざりして居るらしく、そういう検査官を”おちょくる”と面白いですよ、ムッフッフ!
(>_*)
悪路の為、車は中々河口に着かず私たちは腹が減ったので途中の”何でも屋”(※6)みたいな小さな店で”腹に溜まる菓子”を買い、それを皆で食べ乍ら道を進みました。ようやく河口の近くに来たのでしょう、外はすっかり暮れ真っ暗闇の中に検問所が有りました。河口はベトナムと国境を接してますから必ず検問が有ります(→2008年の河口の検問所はこちら)。全員パスポートを出してガイドに渡しガイドはそれを検査官に渡します。その間に我々はトイレ休憩です。検問所で約1時間位休憩して夜10時頃に河口のホテルに着きました、皆疲れた表情をして居ました。
河口瑶族自治県の少数民族は瑶族・苗族・壮族・彝族・傣族・布朗族などです。
(1)国際列車が来るのを見た!
翌日の11月4日(土)の河口(河口鎮)の事は非常に良く覚えて居ます。特に興味を持って見た事は16~17年も経った今でもはっきりと覚えているもので、これが記憶の仕組みなのでしょう。
鉄塔
↓
左は2008年3月17日に河口を訪ねた時の写真ですが、国際列車(滇越鉄道)の中国側(昆河線)の線路で単線の踏切も在ります(向こう側が昆明方面)。この踏切もこのカーブも思い出が詰まって居ます。
私たちの有志は7時前の朝早い時刻に昆河線が遣って来るというので、ここで列車を見る為に踏切の警報音が鳴るのを待ちました。やっと列車が来ると北山先生は走って来る列車に歓喜して居ましたね、丸で子供の様でした。
去年、松岡さんが乗ったのがこの列車で、河口に7:10に到着します。
”お試し屋”の自覚が出て来た私は左の写真の鉄塔に2m位攀じ登り、高い所から到着する列車を見て手を振りました。私も子供ですな、アッハッハ!!
因みに、1996~2003年の途中迄、
滇 越 鉄 道(855km)
中国側(昆河線)=469m ベトナム側=386km
昆明北 ⇔ 河口 河口=ラオカイ(老街) ⇔ 首都ハノイ
という国際列車が走って居たのです(以後は昆河線の貨物列車のみの運行)。
(2)ベトナム人の活力とパワー
パソコンのトラブルの所為で2000年の雲南の旅は写真が全然無いという事を「はじめに」で書きましたが、この河口でのベトナム人の写真が無いのは返す返すも残念無念です。
そこで『中国国境8000km』という本(△5)から拝借します。左が中越国境の鉄道橋(左の写真、△5のp196) -写真の向こう側がベトナムで橋の真ん中に単線の昆河線の線路が在り、菅笠を被ったベトナム人が歩いている- 、右が中国側の出入国管理事務所と税関(右の写真、△5のp208)で、ベトナム人は皆ビザを持っていて1日行商する為の納税済みの証印をビザに押して貰うのです、毎日通っても”外国”ですから。表札には「中華人民共和国 河口邊防...」と書かれて居ます。
朝8:00に国境ゲートを開くと数100人のベトナムの行商人が鉄道橋を走ったり自転車に乗って大急ぎで渡って来て、右の出入国管理事務所と税関に並びます。私はこの日、目の当たりにこの光景を見て感動しました。左右の写真の様にベトナムのトレードマークの菅笠(※7)を被った人が大勢居ました。
チェックが済んだ人は大急ぎで中国側に入り、大抵は女性が天秤棒を担ぎ夫々の持ち場に運んで行き商品を買い付けます。中には小エビなどの商品を持ち込んで、この辺で荷物を広げて商売開始する人も居ます。
商品は小エビとかの海産物、鶏、野菜、雑貨品などでした。ベトナム人の活力とパワーが強烈に伝わって来る光景でした。しかし逆方向(=中国からベトナムへ)に移動する人は殆ど居ません、これが両国の国力の差なのでしょう。
因みにレールの幅(=軌間(※8))は1.067m、即ち日本の狭軌(※8-1)です。中国は広軌(※8-2)が標準(=1.435m)です。
『中国国境8000km』には面白い記事が載って居ます。即ち、「(開遠駅の近くの)鶏街駅の脇の機関区らしい煉瓦造りの建物の中で、日本で大正末期から昭和初期に活躍した9600型蒸気機関車(主に貨物を牽引、中国名KD-55)が溶接工数人の手でアセチレンの溶接器で無残にも解体作業をしている現場を見つけた。この昆河線は日本と同じ狭軌なので9600型も最近まで働いていたのだろう。」と在ります(△5のp207)。尚、9600型について興味有る方は▼下▼をご覧下さい。
資料-SL発達史と日本SLの型式番号(The history and naming rule of SL)
大井川鉄道の”SLの人生”(The 'Life of SL', Oi-river Railway)
9:00頃に成ると鉄道橋はもう普段の状態に戻り左上の写真の様に成ります。アオザイ(※9)を着たベトナムの若い女性は少数ですが居ました。中国の女性の服装が”野暮ったい”のでベトナム人のアオザイは垢抜けて見えました。
(3)鉄道橋の上で記念撮影
私たちは暫しベトナムと中国の国境のシーンを感嘆し乍ら眺めました。日本には陸を接した国境が無いので私にはとても新鮮でした。この後私たちは先程の鉄道橋(正式名称は不明)の上に10m位出た所で全員で記念撮影をしました。この橋が国境を分けている訳で、私はどの位食み出せるのかと思い橋をベトナムの方に向かって歩き出したら直ぐ見張りの係官が「ダメだ!」と言い、橋を10m位食み出した所で「ここで記念撮影したいのだ」とジェスチャーし係官に何とか認めて貰いました。斯くて私は”お試し屋”の役割を全うした訳です。
(1)河口から金平へ
金平県は去年通訳を遣った尹君の故郷です。恐らく尹君の故郷でなかったら金平を訪れる事は無かったと思って居ます。どの旅行案内書にも載って居ない、こんな辺鄙な村に。金平県は河口方面から行く場合は必ず蔓耗を通ります、それは国境が在る為で交通が制限されて居るのです。
11月4日(土)の午後は河口→蔓耗→金平と移動しました。これについては2008年にも同じコースを行きましたので、そちらで写真入りで詳しく記述して在ります。是非▼下▼をご覧下さい。
2008年・雲南の河口/金平etc(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)
下流 ←紅河← 上流
左の写真は2008年3月18日に撮ったもので、我々のバスが左折し橋をこれから渡ろうといている所で正面のマイクロバスは対抗車です。下を流れているのが紅河で、橋のこちら側が箇旧市(个旧市)、向こう側が金平県です。この橋の名称は蛮耗橋です。
それにしても紅河流域は兎に角「赤く濁った紅河」が強烈な印象を私に刷り込みました。この赤は赤土の色で、それは鉄錆の色なのです。これについては上記の「2008年・雲南の河口/金平etc」で詳述してますので、そちらをご覧下さい。
夕方に蛮耗橋を渡った我々は又検問(=パスポート・チェック)で暫し休憩。河口は国境の街なので両国の人的交流が有り街は賑わって居ましたが、金平県は蔓耗という田舎村から南下します。まぁ、要するに”辺境”なのですが金平のクネクネした道はとても記憶に残って居ます。
金平苗族瑶族傣族自治県の少数民族は苗族・瑶族・傣族・哈尼族・彝族などが居ます。
◆鶏を潰すのは子供に人気
確か金平だと思いますが(或いは緑春か、元陽か?)、村の市場で鶏を潰す場面に出会(くわ)し子供たちに大人気でした。私も一部始終を見て居ました。
市場の小父さんが「盥(たらい)型鍋」で湯を沸かしていると近所の子供たちが集まって来ます、つまり子供たちは「これから何が行われるか」を知っているのです。湯が沸いた所で、鶏の首を少し切り血を抜き始め、血は別の小さい鍋に取ります。血は捨てません(←鶏/豚は捨てず、犬は捨てる)。鶏の頭付き胴体は「盥型鍋」の煮え湯に入れて又直ぐ出します。ちょっと冷ましてから羽を毟(むし)ります。これで終わり、湯が沸いてから5分足らず、実に簡単です。▼下▼にも様々な鳥が載って居ますので、参照して下さい。
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
日本でも鶏類は通常10人位の客人が来た時に1羽潰して持て成します。私は子供時代に田舎の家で鶏を潰す所を見て居ますので中国も日本も大差有りません。唯、中国は鶏の血も料理に使い鶏冠(とさか)の付いた顔も鍋に入ってますので、中国の方がより”野生的”と言えます。
(-_*)
しかし金平の素晴らしさは棚田(中国名:梯田)(左の写真、08年3月18日撮影)と”尖り頭”のヤオ(瑶)族 -紅頭ヤオ族と呼ぶ- です(右の女性の写真、08年3月18日撮影)。
特に紅頭ヤオ族は金平にしか居ない特異なものです。”尖り頭”は丸で鶏の鶏冠(とさか)で、頭を剃り上げ、イヤリングをし(←男もする)、頭をバンドで固定して居ます。このトサカを解(ほぐ)すと唯の赤くて四角い布です、芯など入って居ません。しかも皆年寄りで若い人は居ません。
蔓耗/蛮耗は何れも「マンハオ(Manhao)」と読み同じ地名を指します。上の蛮耗橋は2000年の旅でも覚えて居ます。実は蔓耗と蛮耗は厳密に使い分けている事が「2008年・雲南の河口/金平etc」で判りましたが、ここでは同じだと考えて下さい。
(2)金平の朝市で紅頭ヤオ族を初めて見た
翌11月5日(日)は日曜日なので朝市が在ると聞いて朝食後直ちに行って見ました。場所は中国語が出来る中川さん -彼は1999年秋から雲南民族学院に半年間留学して居ます。因みに彼の様に会社を定年してから留学しても学割が利きますゾ!!- の後に付いて行きました。小高い丘の上が朝市の場所です。野菜や鶏や雑貨など朝市で見られる品揃いです。ですが私は紅頭ヤオ族の”尖り頭”が商売している所を見付けて仕舞ったのです、以後私は”尖り頭”の撮影に集中しました。
”尖り頭”の撮影が済んだので一通り朝市を見て回って居ると、或る所で鶏を1羽抱いている小母さんと野菜を籠に持って居る小父さんが何やら喋っていると思ったら、私の目の前で鶏と野菜を物々交換しました。お金は全然介在して居ません。これは”好い光景”を見せて貰い私は嬉しく成りました。
又、朝市の端の方で猫が数匹檻に入れられて居るのを見ました。朝市から帰りホテルで桃源倶楽部の女の人(←名前を忘れた)が「ペットも売ってたわね」と言ったので、私は「あれは食べるんですよ」と答えたら吃驚してましたね、ハッハッハ!
(3)尹君のお母さんの勤める学校を訪ねる
その後、我々は尹君のお母さんの勤める小学校に行きました。尹君とは北山先生の世話で大阪府立大学に留学している学生で、去年は通訳として我々に同行しましたが今年は同行してません。学校に着くと尹君のお母さんが出迎え、お母さんは一通り学校を案内しその後校庭で寛ぎました。今日は日曜日なのに校庭には可なり生徒が居り、生徒たちは日本の小学生よりも純真な感じを受けました。
その後で尹君のお母さんは村長の家を案内しました。北山先生が村長と話をしましたが私は遠慮して外に居ました。
尹君のお母さんと別れ、これで金平とはお別れです。金平は非常に純朴な”田舎”の街です。
(4)金平県の那発、者米
11月5日(日)の午後は滅茶苦茶に強行日程で▼下▼の様な旅程です。最後の元陽はハニ族の棚田で有名ですが他の地名は全然知りません。しかし道路事情も在って、この旅程(予定)通りには行かなかった(→後出)のです。
金平→那発→者米→緑春→元陽
金平を発った車は先ず東南東に進み国境の村・那発に着きました。ここは金水河鎮の更に国境沿いの村で直ぐ東はベトナムです。国境の橋まで行き眺めた事を覚えて居ます、近くを可なり大きな老勐河が流れて居ました。その後、村人や子供たちと暫し交流しました。
その後は西に進路を換え者米で再び村人と交流しました。
◆ポラロイドカメラは威力抜群!
誰かがポラロイドカメラ(※10)で写真を撮り、その場で原像(←2~3分掛かる)して出すと村の子供たちや大人たちは滅茶驚いた表情でそれを見て居ました。彼等は写真は知ってますが、まさか自分が写って居るカラー写真が直ぐその場で出来るとは思っても居ません、しかも写真を貰えるとは!
ポラロイドカメラは他でも使いましたが威力抜群でした。
(*o@)
那発→者米と過ぎこれで金平県が終わる頃に私は金河鎮の方向を振り返って見たら、車が通って来たクネクネした道が夕日を浴びて折り重なって見えました、...何とも言えない光景で、私は金平が好きに成りました。
(1)緑春の悪路と道路工事
11月5日(日)の夕方、車は緑春県に入りました。緑春県の少数民族は哈尼族・彝族・瑶族・傣族などです。ところが緑春県は道路が悪く、又道路工事をしている所が在り、車は前に進まなく成りました。御負けにタイヤが泥んこに嵌まり運転手以外は車から降り、車を押したり引っ張り上げたりしなければ為りませんでした。やっとの事で迂回路を通り抜けて緑春(大興鎮)に着きました。今日は緑春泊です。元々元陽に泊まる予定でしたからホテルの予約は有りませんので我々はやっと招待所を確保しました。
◆緑春で招待所に泊まる
招待所と言うのは言わば行商宿で、行商の商人たちが泊まる宿です。バスタブなんか無く垂れ流しの穴からお湯が出て来たら極めてラッキー、大抵は水が出て来ます。トイレと風呂場は同じ部屋に在ります。しかし私は招待所に嬉しく成りました、というのは北山先生も「今回の旅は結構きつい旅に成る」と事前に仰って居たからです。招待所は「きつい旅」の第一歩なのです!
◆”万(よろず)トラブル対応”係
ここで羅君の通訳兼”万(よろず)トラブル対応”係について説明しましょう。我々は2人1部屋で部屋のキーを貰う訳ですが、すると誰かの部屋の鍵が閉まらない、ホテルの従業員は日本語が解らない、そこで通訳が呼ばれる訳です。
まぁ、この程度なら未だ良い方ですが問題はトイレです。2000年当時の中国のトイレはレベルが極端に低く、必ずと言って良い程何処かの部屋のトイレが詰まって居るのです。そこで通訳兼”万(よろず)トラブル対応”係の出番に成ります。
招待所は最低ですね。便座は無く中国式(=和式)トイレの排水口(=穴)と風呂の排水口(=穴)とが直ぐ下で1つに繋がって居ますから、これが詰まるとゲボゲボッという音がし固形物(=ウンコ)が逆流し出て来ます。2000年当時は1/3位の割合で詰まって居ました。”万(よろず)トラブル対応”係は固形物(=ウンコ)の掃除を招待所の従業員に中国語で遣らせる訳です。
この係は今回の旅行では大奮闘、羅君は腐らずに良く遣りました!!
◆トイレの話が出た序でに雲南の公衆トイレ
トイレの話が出た序でに雲南の公衆トイレの話をしましょう、と言っても2000年の旅に参加した人なら皆さん御存知の筈ですが。公衆トイレには大抵お爺さんかお婆さんが入口(=出口)の所に座って居ます。そして入る前に1角~2角(1.5角=1角5分も在った)を払います。1角=約1.5円です。しかし料金を取るから小奇麗なのか、というとそんな事は有りません。非常に臭いです。
立地的にどうしてもそこを利用しなければ為らない場合も有りますが、私の様に”綺麗好き”の人間から見ると、青空天井の下で大地の空気を思い切り吸って野草に養分を与える方が理に適っているので、段々私は公衆トイレを利用しなく成りました!
但し、最初の頃は”田舎の香水”の匂いが、雲南省の場合食べ物の関係から非常に「唐辛子」の匂いがするのです。私はこれに興味を持ち「唐辛子」の匂いのする公衆トイレにデジカメを持って入り写真を撮り捲りました(→後で登場)が、ウンコの色はやはり黄色でした、私は「唐辛子」の赤色を期待してたのですが、ブワッハッハッハッハ!!
(>o<)
緑春の招待所に着いた時刻は23:00近かったと思います。食事の予約は有りませんのでめいめいがお菓子を買うなり、外に食いに出掛ける必要が在ります。私は松岡さんと小池さんと外へ食いに出掛け屋台の様な店で豚肉の焼肉とビールを頼み、今回の旅のことなどを話し、食い、そして飲みました。「逞しいエルニーニョ」の本領発揮です!!
(2)緑春のハニ族の民家を見学
11月6日(月)の午前中はハニ族の民家を見学させて貰う為にハニ族の集落を訪ねました。北山先生はハニ族の人々の生活について色々と質問して居ました。私は▼下の話▼の方が余程興味が有ったので、それを書きます。
◆緑春の民家でカエルの天麩羅を食う!
棚田(中国名:梯田)が近くに在る1軒の民家に我々10人位が入ったものですから民家の方も驚いたと思います。民家の主人は取り敢えず皆にお茶を出し、何か菓子でもと考えたのでしょうが適当な菓子が無い。そこで奥から取り出して来たのが、何と「蛙の天麩羅」を丼(どんぶり)に入れた物です、出された我々の方も吃驚。体長4cm位の小さい蛙です。因みに、中国では一般的に天麩羅は無く「唐揚げ」なのですが、この「蛙の唐揚げ」は蛙の姿をカムフラージュ(※11)する為か(?)、衣(ころも)を厚くして在ったので「蛙の天麩羅」の表現にしました。
我々もお互い顔を見合わせ”食べようか、食べないで置こうか”迷って居ます。そこで”お試し屋”の私が1匹摘んで口に入れると中々行けます。そうしたら他の人も恐る恐る食べ始めました。すると、こちらは10人位居る訳ですから1人1個摘んでも丼が空に成る訳ですね。そしたら主人は嬉しそうな顔して「蛙の天麩羅」の御替りを持って来たのです。こうして我々は「蛙の天麩羅」を丼に2杯食べました。「蛙の天麩羅」を覚えている人も居ると思います。
ところで私は今考えると、これは蛙では無くイモリ(蠑螈)の仲間ではないかと思って居るのですが。中国人や日本人はイモリの黒焼などでイモリにはお世話に為って来たのです、ワッハッハッハ!!
◆緑春で「向日葵(ひまわり)の種」を買う
それと「蛙の天麩羅」の民家か違う民家か忘れましたが、民家の傍に「向日葵(ひまわり)の種」を売って居る店が在り私はこれを買いました。確か5元で買ったら新聞紙で作った袋 -これも懐かしい!- にイッパイ入って居て量の多さに魂消た記憶が在ります。「向日葵の種」はそれ迄も何度か見掛けましたが買ったのは初めて、何事も経験です。
「向日葵の種」は民家などで”取り敢えず”客に出す物(→後出)の様で私も何度か経験して居ます。又、中国では良くこれを齧っている人を見掛けます。
(-_@)
(1)元陽の棚田(梯田)と新街
午後は元陽を目指します、旅程は1日遅れです。どうやら元陽県に入った様です。元陽県の少数民族は哈尼族・彝族・傣族・苗族・瑶族・壮族などです。
やがて世界的に有名な哈尼(ハニ)族の棚田(梯田)が見えて来ました。
左の写真は2008年3月19日の夕方にバスの中から撮った緑春方面から見える棚田です。2000年の旅では車道で撮っただけですから、これと大差無いと思います。西日を浴びている所も2000年と同じです。
元陽の棚田については
雲南省元陽の棚田(梯田)(Rice terrace of Yuanyang, Yunnan, China)
をご覧下さい。
(2)元陽の洪水
11月6日(月)の夜は1日遅れで元陽(南沙)に泊まります。ところが南沙に行ってみると南沙は紅河の洪水の影響で泊まれません、元陽(南沙)は紅河に近く低地に在るのです。北山先生の本にも「紅河流域はしばしば水害に見舞われ、情報によると、今年(編集者注:1995年)8月にも洪水があったらしい。役所も水に浸って、被害者に救助の手が差し伸べられないとのことだ。」と在り(△1のp52)、紅河流域は洪水多発地域の様です(→紅河の洪水は後で又出て来ます)。
一同唖然としましたが旅行手配の責任者の林海(右の写真)は北山先生と相談し、多分今の元陽県新街(新街鎮)に宿泊先を変更しました。新街は高台に在り棚田が在った方へ車で40分位戻った所に在ります。新街に着いたのは20:00頃で、林海は先に携帯電話で新街のホテルを予約してたので、この日はホテルが取れました。
尚、右の写真は02年10月21日に林海が昆明の我々のホテルを訪ねて来た時に撮影したもの。彼も雲南桃源倶楽部の招待会員です。
(3)新街で雲南省の地図帳を買う
翌朝の11月7日(火)の朝食の後、8:00前に近くのスーパー(超市)に行ったら雲南省の地図帳(本のタイプ)(△6)が在ったので買いました。この地図帳は非常に重宝して居り、例えば「元陽県の少数民族は哈尼族・彝族・傣族・苗族・瑶族・壮族などです。」(△6のp91)と私が書いて居るのはこの地図帳に拠って居ます。この地図帳を広げるとこの元陽の旅を思い出すのです。
車が走り出し少し経った時に直美ちゃんが「荷物を忘れた」と言い出したのでホテルに電話したら、今からタクシーで我々を追い掛けて行くという返事だったので車を止めてタクシーを待ちました。間も無くタクシーが到着、直美ちゃんは無事荷物を取り戻しました。ホテルの好判断はロスタイムを最小にしました。
紅河という川の名前が在りますが、ここでは紅河県の事です。紅河県の少数民族は哈尼族・彝族・傣族・瑶族などです。
◆印象深い紅河(迤薩鎮)の”砦” - 中川さんが麻雀をする
11月7日(火)の午前中、元陽県を抜け紅河県に入った我々の車は西に進路を取り次の目的地の紅河(迤薩鎮)を目指し紅河を遡上します。午前中のドライブは快適でした。するとやがて山の天辺に在る迤薩鎮が可なり遠くから見えて来るのです。迤薩鎮が段々近付いて来るのを車窓から眺め最後に一気に登って行きます。”砦”という感じがして非常に印象的でした。
我々はここで昼食にしました。現地人が麻雀 -牌が日本より大分大きい- を遣って居たのですが中川さんが進み出て「ちょっと遣らせて呉れ」と言って15分位遣りました、多分半荘(ハンチャン)したのでしょう。中川さん曰く「皆安い役で直ぐ上がって仕舞うので余り面白く無いね」と。我々は”砦”を下り再び紅河を遡上します。
(-_*)
元江とは紅河の別名ですが、元江県(正式名:元江哈尼族彝族傣族自治県)も指します。元江県の少数民族は哈尼族・彝族・傣族・回族・苗族などです。
ところで、北山先生の旅程では紅河県の内陸を通り底瑪壩(←周小竜さんが住む村)に行くルートが書かれて居ましたが、内陸部は道の状態が判らず御負けに紅河は最近洪水が在ったばかりで道が寸断されて居るかも知れないという事でこのルートを諦めました、もうこの時点で今日底瑪壩に行く事は諦めたのです。私は一旦石屏県に出て小河底河沿いに迂回し元江県注垤に入るルートを採ったのではないか(?)、と思います。紅河を遡る道は今朝スーパーで買った地図を見ると、一旦紅河から一旦離れて居るからです(△6のp52)。
◆道路工事の通行止めで、何でも屋の”常温ビール”を飲む
しかし紅河の洪水の影響なのか、この辺りから又もや道路工事です。或いは既に石屏県に入って居るかも知れません。車はストップした儘動く気配は有りません。我々の仲間も車から降り手持ち無沙汰で外でぶらぶらして居ます。15:00~16:00頃だったと思います。
私がふと見ると近くの橋の袂に”喫茶店+食堂+飲み屋” -日本でも田舎に行くと万屋(よろずや)(※6-1)とか何でも屋(※6)が在りますが- が在り、ちょっと覗いて見ると店の多少厚化粧のお姐さんが2人「来来」と言って居ます、これは”飲み屋”のノリです。私は思い切って入りました。飯も在りました。カラオケ(※12)も在りました。私は一瞬カラオケを唄おうか、と思いましたが思い留まりました。そして喉が渇いて居たのでビール(啤酒)を注文すると瓶ビールが出て来ましたが、これが常温ビールでした。えっ、勿論飲みましたよ、金払ってますから!!
私は20分位で店を出ましたが未だ通行止めでした。こんな事ならカラオケを唄えば良かったな、と後悔しました(→カラオケは又後で出て来ます)。
(-_@)
この日は元江(灃江鎮)に泊まりました。灃江鎮は山で囲まれた盆地の様な所で、多分21:00を過ぎていたと思いますが、山の上から灃江鎮が見えて来た光景を今でもはっきりと覚えて居ます。灃江鎮は小さな街でその街明かりを目指して山道をグネグネと降りる様(さま)は辺境に遣って来たという感じがしました。この日もホテルの着くのが遅く成り私は緑春で買った「向日葵の種」を齧り乍ら車に揺られて居ました。
私は「雲南桃源倶楽部」に対しマイナスの面も書かない訳には行きません。その心は「全て見た儘有りの儘、...」に書くことなのです。
今回の旅は「予定がきつい」という事は事前に判って居ましたが、特に河口、緑春、元陽、元江などでホテルに着く時間が大幅に遅れた事や旅程の変更、トイレの詰まりが多かった事などは非常に評判が悪かったのです。私は殆ど小池さんと同室でしたが一晩だけ他の人と一緒に成りました。そうしたら、その人が北山先生の事をボロ糞に言うのです、私は生返事をして聞いて居ましたが。それからもう一人、この人は私が先生に紹介したのですが、この人も先生の旅程(=予定)を批判して居ました。しかし二人共北山先生に対しては何も言わないのです、しかし私に言われても困るのですが。
他に道路事情の悪さ(=道路工事や悪路)も不満の対象に成って居ました。唯、現地の道路事情は事前に取れない場合が殆どで先生も距離で推定する以外に方法は無かったので、後は「運を天に任せる」以外仕方無いのです。
結局、悪条件を承知して以後の雲南の旅を続けたのは小池・松岡・中川保・私と先生自身の5人だけです。これは以後も -2002年から山村さんが加わる- 変わらず続きます。先生は体が弱り2002年が最後です。即ち、今回の旅に依って「雲南桃源倶楽部」は実質上は真っ二つに分かれ月1回の集まりにも不満組は段々来なく成りました。以後、上記の数名が「雲南桃源倶楽部」の名に於いて旅を続けたのです。尤も小池・松岡・山村と私は2004~07年は”脱雲南”の旅を続け、再び雲南回帰の旅をするのは2008年の事ですが。
私は少数民族に対する興味から雲南の旅を続けました。それに私は”不良”(→後出)ですから、これ位の悪条件など”へっちゃら”、”屁の河童”、”蛙の面(つら)に小便”です、ブワッハッハッハ!!
(1)二手に別れる - メインは墨江県に
翌朝、11月8日(水)は二手に別れます。メインは墨江県に向かうグループ、北山先生と私だけが紅河県底瑪壩の”老朋友”周小竜さんに会いに行きました、運転手は林海です。我々3人の方が先にホテルを出発しました。
(2)北山先生、周小竜さんと涙の対面! - 私の北山先生随行記
この底瑪壩の事は非常にはっきりと覚えて居ます。紅河県底瑪壩は紅河県西端部に在り、我々の車は元江(灃江鎮)から南下し因遠鎮迄は国道213ですから道は良いですが、そこで左折してからはローカルな道を進み道は段々悪く成って行きました、その上小雨がぱらついて来ました。この辺りから再び紅河県に入ったと思われます。林海も途中で道が判らなく成り農作業に行く通行人(←通行人は少ない!)に住所を言って道を確かめます。途中タイヤが取られそうな箇所も在り車はゆっくりしか進めなく成りました。
<紅河県/元江県の周辺県の位置関係と周小竜さんの写真>
┌──┐ ┌─────┐
│ ├─────┤ │
│ │ │ 石屏 │
│ │ │ ● │
│ │ 元江 ◩│ │
│ 墨│ ● 注│ │
│ 江│ 垤├─────┼───
│ ●│因遠 ◩ │ 紅河● │元陽●
│ └─┬───┘ │
│ │ ◩ 底瑪郷河瑪村 │
│ │ (周小竜と会う)│
│ ├─────────┤
│ │ 緑春 │
└────┘ ● │
先生は道すがら周小竜のことを話して呉れました。その話は先生の本に載って居ます、即ち「自分たちの故郷は、雲南省の紅河州紅河県底瑪郷河瑪村で、私は周小竜といい、15才です。今年は籾が不作で、食べるものがなくなりました。その上、水害にも遭いました。...<中略>...困り果てた挙げ句、食べ物を求めて、ここにやって来たのです。...<中略>...尚、彼らはいずれもハニ族(少数民族)だとのことでした」と(△1のp50)。この話を翌日看護婦に話すと、看護婦は彼等は所謂「浮浪児」で「先生が一人を助けるのは良い。しかし、千人万人が助けられるだろうか。」と問われ返事に窮したとも書いて居ます(△1のp52)。
私は先生の『西双版納』の本の主な部分は読んで来ましたが、この部分は読んで無かったので初めて知りました、私は旅程に「老朋友」と書いて在ったので老人だと思って居ました。この文章が書かれたのは95年9月18日と在り(△1のp51)、景洪のメコン川(瀾滄江)沿いに周小竜さんらが野宿していた時の95年8月に撮った写真が載って居ます(右上の写真、周小竜は左端の少年)。今年は2000年ですから周小竜さんは20歳という事に成ります。
底瑪郷河瑪村は新街で私が買った地図帳に載って居ます(△6のp92)、紅河県の西端部に河瑪が在り、その近くに垤瑪郷(←これが先生の言う底瑪郷)が在ります。やっと底瑪壩 -「壩」は「堤」「土手」や「山間部の平地」を表す- に着いた様ですが最後の200m位は車が入って行けません、道路が泥濘(ぬかる)んで居るのです。周りの景色を見れば洪水が在った事は一目瞭然で畑の作物が全部なぎ倒されて居るのです。ホテルからここ迄約50分です。車から降りた先生と私は泥濘の道を歩いて進みました。
<底瑪壩(底瑪郷河瑪村)>
車2台がすれ違う
のがやっと
││ ││ │
││←約200m→││←──────約500m──→│
││ ││ ・ ・ │
││下 □││ ・ ・ │ 水田
車││り ■│←周小竜の家││ ││ │
を●│坂 □││ ││ ││ 下り坂__/☜周小竜
下│└───────┘└─────┘└─//─┘└───/ __/
車│┌─────────────────────────/
││ 畑 畑 ↑ 畑 畑
山 ││下 │
││り この道路は泥濘で車が入れない
││坂 作物は全部なぎ倒されている
近所の子供や小母さんが5、6人出て来て周さんの家を教えて呉れました、だけど周さんは水田の様子を見に行ったと言いました。水田は家からは見えません(上の図)。私たちは暫く家の前で待つ事にしました。30分待ちましたが周小竜は来ません。先生は「仕方無いね、メイングループをそんなに待たせられない。」と言いました。そして「よし、後5分だけ待とう。5分待って来なかったら帰ろう。」と仰り、手帳を取り出し何かを書き出しました、多分周小竜に渡す言伝です。
その時です、子供が「周小竜が来た!」と叫びました。見ると周小竜が坂に成っている所を上って来ます。水牛を1頭(※13)連れ、杁(えぶり)の様な農具(※14)を1つ持ってこちらにやって来ます。彼は牛耕(※13-1)のスタイルで水田の様子を見に行ったのです、耕せたかどうかは判りません。近くで見たら足は裸足(はだし)、上半身は裸、下半身は泥んこです。水牛は多分小母さんの家で借りたのでしょう。
先生は周さんが見えた時からボロボロ涙を流し「老朋友!」と叫んで居ます。そして周さんを抱き寄せると大粒の涙を流し、もう涙が流れる儘です。先生は時々「老朋友、老朋友!」と叫んで泣いて居ます。やがて周さんは自分の家 -3畳位の土間(←日本で言う三和土(たたき))と奥に4畳半位の部屋が在り、裸電球が1つ- に案内し裸電球を付け「向日葵の種」を出して呉れました。お茶を出すには湯をこれから沸かさなければ為りません。先生は全然食べなかったですが私は折角出して呉れたので少し食べました。
先生は「何も要らないよ」とジェスチャーで示し、何時頃景洪から戻ったのか?、水田は大丈夫だったのか?、暮らしは何とか遣って行けるのか?、などを聞き、余り時間が無いのでもう帰らなければ為らない旨を伝え、彼に志を渡して引き上げたのです。
周さんは私(=160cm)より2、3cm位背が低く未だ少年のあどけなさが残って居ました。今見ると上の写真にそっくりです。私はこの模様をつぶさに写真に撮ったのですが、この写真は今は在りません。
尚、松岡さんの話に拠れば周小竜さんはその後結婚したらしいですが私はその話は知りません。その情報は北山先生が文通で入手したものだと思います。
ところで昨日は底瑪壩に寄らず迂回して正解です。水害に遭った紅河県西端部を内陸部をぐじゃぐじゃ行くよりも、元江県から入った方が良いという事が解りました。
私たちは車に乗り元江県の因遠鎮迄は元来た道を引き返し、そこから左折し国道213を西に進み墨江を目指しました。
国道213は道が良く墨江県(正式名:墨江哈尼族自治県)に入ると間も無く墨江(玖聯鎮)に着きました。墨江県の少数民族は哈尼族・彝族・傣族などです。ここから思茅地区(→後で説明)です。
玖聯鎮には11:30頃着き、ここでメイングループと合流です。もうメイングループは北回帰線のモニュメント(※15)を見て休んで居ました。北山先生も休まれましたので私は急いで走ってモニュメントをザッと見て来ました。要するに墨江は北回帰線上に在り、ここが熱帯と亜熱帯の境界(※15-1)なのです。急いで見た所為で墨江の街の印象は薄いのです。
墨江を過ぎると普洱茶(プアール茶)(※16)で有名な普洱県(正式名:普洱哈尼族彝族自治県)に入りました。県庁所在地は普洱(寧洱鎮)です。ここも思茅地区(→後で説明)です。普洱県の少数民族は哈尼族・彝族・傣族・白族・傈僳族・拉祜族・回族などです。普洱茶については
2002年・パーリャン小学校視察の旅(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
を参照して下さい。
ところが普洱県に入った頃から水牛を数頭連れた人が車道を跨ぎ我々の車の方がそれを待ちます。と思うと又もや水牛を数頭連れた人が今度は道路を歩いて居ます。今朝の周小竜さんも水牛を連れて居ましたが、この辺も牛耕が盛んな様です。水牛は雲南や東南アジアの稲作地帯では水田耕作に利用されるのが一般的です(※13-1)。私は嬉しく成りましたね、北山先生を見ると先生も水牛に喝采を送って居ます!
私は道路が急に田舎臭くなったので新街で買った地図を車の中で開いて見ました、この道路は先程迄の元江県や墨江県を通って居た国道213です、他に道路は在りません。普洱県の国道213は今迄とは様子が違います。と思っていたら道路工事に出会(くわ)しました、「万事休す」です!!
車から降りて辺りをブラブラしました、他にする事が無いですから。本当に道路工事が多いとその時は思って居ましたが、後で2008年に再び思茅地区を走ったら道路はすっかり良く成って居ました。1995年頃~2010年頃は中国経済は高度成長期だったのです。思えば日本の高度成長期(1955~70年頃)もトンテンカンの槌音が木霊(こだま)して居ました、所得倍増なんていう言葉が流行りました。
そんな事を考え乍ら時間を潰しましたが未だ車は出ません。私は今迄通って来た道を振り返ると、金平で見たと同じく車が通って来た道が幾重にも折り重なって見えました。
どうやら思茅市に入った様です。この思茅市を中心に思茅地区という特別行政地区を形成して居ます。即ち、
┌─ 思茅市
│ 景東彝族自治県
│ 鎮沅彝族哈尼族拉祜族自治県
思茅地区 ─┤ 墨江哈尼族自治県
│ 江城哈尼族彝族自治県
│ 普洱哈尼族彝族自治県
│ 景谷傣族彝族自治県
│ 瀾滄拉祜族自治県
│ 西盟佤族自治県
└─ 孟連傣族拉祜族佤族自治県
の10個の市や県の連合体で、その中心が思茅市です。市庁所在地が思茅鎮で、思茅市の少数民族は彝族・傣族・哈尼族・白族・佤族・回族などです。
思茅は唐の時代より始まった茶馬古道の起点として知られ(←思茅は茶の集散地)、ここから遥々チベットのラサ(拉薩)まで雲南の茶を運び帰りに馬を持ち帰りました。しかし思茅には取り立てて見るべき物は有りません。私が思茅に来たのは今回の他に2004年のパーリャン、2008年の雲南と計3回来て居ますが、ここを利用する理由は雲南省で一番道路が良くホテルも揃って居て空港も在り雲南省のどっち方面に出るのも便利だから、唯それだけです。だから思茅市内の観光などした事は一度も無く、況してや私は思茅市内を全然知りません、アッハッハッハ!!
この日(11月8日(水))はそんな私が初めて思茅市に泊まります、北山先生の旅程(=予定)より丸1日遅れです。
11月9日(木)<景洪初日>は国道213は墨江・普洱・思茅市を通り景洪市に入りました。去年は昆明から飛行機で西双版納空港に着きましたが今年は車で思茅地区を通って景洪市に入ったので大分印象が違います。
(1)幹線道路の工事で見せた公安警察官の「力」
思茅市から李亜琴(→後出)とその婚約者が車で合流しました。当時は思茅→景洪間は彼方此方で道路工事をして居ました。確か景洪市に入ってからと思いますが、通行量が多い幹線道路(=国道213)の道路工事で車は物凄く長い渋滞です。ところが、ここで颯爽と登場するのが李亜琴の婚約者(公安警察官)です。彼は車を降り渋滞している列に向かって何か叫んで戻って来ました。すると渋滞していた前の車が端に寄り我々の車だけが前に進める様に成ったのです、他の車は相変わらず渋滞です。一同これには吃驚しましたね。御蔭で2時間位待たされると思っていた渋滞が30分位で抜けられたのです!
右の写真は08年3月23日に李亜琴の旦那に成った彼の家(昆明)で撮ったものです。版納賓館でアルバイトをしてた李亜琴を「中国名花集」に登録しました。
李亜琴の婚約者に我々一同は感謝を超え超自然的「力」に驚嘆しました。警察官や公務員の「力」 -私は中国の彼方此方で「力」を見て来ましたが- をまざまざと見せ付けられ、中国という国は恐ろしい国でも在りますゾ!
(2)三岔河の象のアトラクション、そして象に乗る!
昼頃に三岔河 -別名:象谷、ここは自然保護区に成っていて特に自然の象が見られる- という所に着きました(△1のp100~103)。北山先生の象に対する”思い入れ”の強さの表れです。右の写真は先生の本から採りました(△1のp103)が、ここで象の芸を見た後撮影したもので先生は満足そうです。
今日はここで泊まるのですが、私たちは先ず三岔河の象のアトラクション(=演芸)を見ました。このアトラクションは非常に面白かったので記します。会場は100m四方位の所で傣族の調教師が数名居て象が3匹位居ます。そもそも傣族は象と孔雀がシンボルとして居るのです。観客も非常に多く、1頭の主役の象は色々なアトラクションを演じました、勿論陰では調教師がコントロールして居るのですが。
一番観客に受けて居たのは1つ芸を見せると象がお金を貰いに観客の間を回るのですが、10元札や1元札はちゃんと受け取るのに1角(1元の1/10)は捨てるのです、この演技に観客は「やんややんや」(※17)の喝采と同時に大爆笑です。
それから会場から観衆の一人の女性が選ばれて中央で横に成り、そこへ象が通り掛かりもう少しでオッパイを潰すかと思いきやオッパイの5cm位手前で足が止まる、という演技も観客に受けて居ました。私は観客の女性は”さくら”(※17-1)だと思いましたが。
◆三岔河の象に乗る - 象の毛は丸でゴムの様
一通りアトラクションが終わると今度は観客を象に乗せる事が始まりました。今度は脇役の象も登場です。私はこの機会に生まれて初めて象に乗りました。尚、桃源倶楽部で象に乗ったのは私一人でした。
先ず象に乗る時ですが象はしゃがみます(←タクラマカン砂漠の駱駝もしゃがみます)。私が乗ると立ち上がり、私は一応手綱を掴みますが実際には調教師がコントロールし会場を一巡りしました。象に乗るのはこれで終わりですが私は象の毛に唖然とした事を覚えて居ます。1本の毛は太さが根元で直径3mm位有り、長さが4、5cm位で、それが約3cm置きにびっしり生えて居るのですが、これが丸でゴムなのです!
私はその後で会場の端に在る象の餌場を見ました。象の餌はサトウキビ(砂糖黍) -私も去年や今年に雲南に来てサトウキビを齧って居ますので旨そうなのは判ります- ですが、象の餌は筋が固そうで見るからに不味そうなサトウキビを10本位を一度に食べますが、食べる時に「バキーン」という物凄い音を発します。
ここには土産物の売店が在り私は「象谷」と入ったTシャツを買いました。
(Υ)
(3)三岔河森林公園の樹上バンガロー
夕方には三岔河森林公園に行き自然保護区の原生林を見学しました。そして北山先生、松岡さん、中川さん、と私の4人は三岔河森林公園の樹上ホテルに、他の人は通常ホテルに泊まりました。
樹上ホテルと言いますが、そんな高級な物では無く高さ7~8mの樹上にバンガローを設えた施設、つまり樹上バンガローでジャーにお湯を入れたのが配られました。運が良ければ野生の象が歩く姿を見れる、という事でしたが象は現れませんでした。北山ドン・キホーテは可なり入れ込んで居ましたね。
風が吹いたり体重の掛け方で僅かに揺れる時が”樹上”に居る事を実感出来、滅多に味わえない貴重な体験が出来て満足です。この写真も今は在りません。
(1)勐養の「象の樹」に登る - ”お試し屋”の真骨頂
11月10日(金)<景洪2日目>は先ず「象の樹」(中国名:象形榕樹(※18)) -榕樹はガジュマル(※18-1~※18-2)の事- を見に行きました(地図は△4のp111)。「象の樹」は先生の本にも載って居ます(△1のp32~33)。この樹は勐養(勐養鎮)に在り、勐養というと景洪の直ぐ北東に在り我々はもう版納賓館に近い所に来て居るのです。この時の入場券が手元に在り「勐養象樹公園游覧券 票價3元」と成って居ます、3元で入ったのです。私はこの「象の樹」は忘れる事は出来ません、それは以下を読めば解ります。
右が「象の樹」の写真で、左の方に鼻が伸びて目や耳の様なのが有って、背中の部分に跨って居るのが私です!
この樹は西双版納では大変有名で天然記念物みたいな樹ですが、それ故にこの写真を撮った後で公園の管理人から非常に怒られました。しかし北山先生がドン・キホーテ風に「ちょっと、あそこに登ったら」と言ったので、”お試し屋”事サンチョ・パンサの私が攀じ登って手を振ると、こちら側では桃源倶楽部の皆さんが「面白い、ヤレヤレッ」と拍手喝采をしたのです、ワッハッハッハ!!
ところで、この写真は2000年11月10日に撮ったものですが、2000年に撮った中で唯一無事の写真(←原画は壊れました)で、「雲南桃源倶楽部」のHPに載せてる写真なのです。上の写真は「”お試し屋”が天然記念物的な樹に跨って」居る貴重なシーンですゾ!!
(2)基諾山を登る
勐臘県勐侖の熱帯植物園(△1のp99、△4のp127)には時間的に行けなく成りました。でも私は勐侖の熱帯植物園には去年行き、植物園賓館にも泊まって居ます。
基諾山は景洪市の東50km位に在り(△4のp119)、基諾族の看護婦の白美蘭さんの故郷です。
右の写真は基諾山の原始的な焼畑(※19)で、先生の本から採りました(△1のp89)。この様な焼畑農法は基諾山の随所に見えます。
北山先生は「基諾族は立場が弱く山の上に追い立てられて居る。」と仰って居ました。又、「私は基諾族と日本人は兄弟だと直感したのです。」(△1のp69)と仰っている先生は、基諾族に特別の”思い入れ”が有り、それは先生の本の「基諾山紀行」(△1のp86~93)からも十分察せられます。
ところで、この山を上り始めた時、”唐辛子風味の田舎の香水”を発する公衆トイレで休憩したので私は”学術的”興味から写真を取り捲ったのですが、この写真は壊れて今は在りません!
尚、基諾族は55の少数民族の最後に認定された民族です、それは[ちょっと一言]に書きます。
[ちょっと一言] 1949年に成立した中華人民共和国は65年には54の少数民族を認定しました。そして79年に基諾族が中華人民共和国から認定され今日の55の少数民族に成りました。基諾族が認定される時には江沢民(93年より国家主席)と胡錦濤(03年より国家主席)が態々基諾山を訪れて居ます。因みに江沢民は私の弟子ですゾ!
◆椅子と思い座ったら黒豚だった!
車で基諾山を登り民家を見せて貰いました。幾つか見せて貰った中に部屋が暗くて良く見えない家で私が椅子だと思って座ったら、行き成りお尻の下が動いたので「えっ」と声を出したら椅子では無く黒豚でした。こちらも吃驚しましたが向こうは更に吃驚した事でしょう。黒豚は不機嫌そうに部屋から出て行きました、アッハッハッハ!!
しかし、基諾族が葉巻を作っている話は出て来ませんでしたね(→後出)。
(^O^)/~~~
夕方には車で勐罕のガンランバ(橄欖壩)に行きましたが去年も来て居ますのでそちらをご覧下さい。今日は景洪の版納賓館に泊まりますので面白い事が有りそうですね!!
(3)版納賓館で夕食前に友人たちに再会
版納賓館にはプ・リャンスオ(浦良鎖)やヘ・チャンリ(賀長利)が訪ねてくれました。又、チュ・ピンファン(鄒浜仿)さんは相変わらず版納賓館の従業員を遣って居ました。この3人は去年からの友人ですが、去年一年で10年前からの付き合いみたいに成りました、友人というのは良いものです。今回の旅は非常にハードなスケジュール(→この事については後で触れます)でしたので尚更です。
下の李亜琴も婚約者と共に思茅からの参加です。特に今朝の渋滞の道を開けさせた婚約者の「力」(=公安警察官)に我々一同吃驚しました。
◆李亜琴は私を「コアラ」と呼んだ!
哈尼(ハニ)族の李亜琴は去年会ってますので既に顔見知りです。再び彼女の写真を載せましょう(右の写真)。
今日車の中で会った時、彼女は行き成り私を「コアラ」(※4-2)と呼びました。私は咄嗟に意味が解らず「きょとん」として居ましたが彼女は委細構わず私を「コアラ」と呼び色々と話し掛けて来て、その中に今年から近畿大学の留学生に成った話もしました。彼女の日本語は大分上手く成って居ます。
私は「コアラ」とは、あのオーストラリアに居る動物の事だろうと長らく思って居ましたが、最近(=2014年頃)違うのでは無いか?、という疑いが生じました。と言うのはその時に直美ちゃんも傍に居て”肯いて居た”からです。直美ちゃんは昆明に在る雲南民族学院に現在留学中で中国語が出来ます。つまり中国語が出来る女性2人が中国語が出来ない私の前で納得していたという事に私は疑念を抱いた訳ですね。私は「コアラ」(或いは「コアラ」に似た発音の言葉)というのは中国語で”変なオッサン”とか”スケベな小父さん”という意味が有るのでは、と思って居ますゾ、ブワッハッハッハ!!
版納賓館でアルバイトをしてた李亜琴を「中国名花集」に登録しました。
(^o^)
(4)夕食の後で
11月10日(金)の夕食の後、李亜琴は直美ちゃんと私を親戚の食事に誘いました、即ち”夕食の後の夕食”です。この節でこれから述べる事は今迄他人に話した事は在りません、即ち本邦初公開です!
(4)-1.李亜琴の親戚の家で
確かお姉さんの家族(?)の家へ行きました。子供が3人位居ました。豚肉・川魚・野菜などのハニ族の料理で迎えて呉れました。香菜(※20)が非常に使われて居ました、李亜琴曰く「香菜はマラリアを媒介する蚊を寄せ付けない」と。香菜は中国料理では極普通に使われて居ますが、この言葉は傣族とか台湾の女性も同じ事を言って居ました。
それと唐辛子もふんだんに使われて居ます。しかも子供も唐辛子をたっぷり付けて食べます、寧ろそれを奨励してる様でしたね。これも「唐辛子は疫病から守ってくれる」という考え方です。日本の甘ったれた幼児教育からは出て来ない発想で、やはり熱帯・亜熱帯の気候では「強く生きる」ことが基本なのです!
(4)-2.屋台で飲む
それから3人で飲みに行きました。多分2002年にプ・リャンスオ(浦良鎖)らと飲んだ屋台が在る通りで、時刻は22:00過ぎです。李亜琴と直美ちゃんは”気が合う”様です。李亜琴も他人から束縛を受けるのが嫌なタイプで直美ちゃんも同じです。中川さんが直美ちゃんの事を「あの子は雲南民族学院の授業にも全然出て来ないし、どうする気やろ」と言ってた言葉を松岡さんも知ってるでしょう。まぁ直美ちゃんは自由奔放なのです。李亜琴も同じです。
何を話題にしたかは余り覚えて居ませんが、そんな「彼や是や」を肴にしたと思います。
(4)-3.日付が変わってから、カラオケに行く!
時刻は12:00を少し過ぎて居ました。これで終わりかなと思ったら李亜琴がカラオケに誘いました、すると直美ちゃんも「カラオケ行こう!」と言って次はカラオケです。同じ屋台通りに”屋台のカラオケ”が在るんです、つまり出入口は道路側に開放されているんです。でも客は2、3人でした。
ところで皆さん、カラオケ(karaoke)(※12)は世界に通用する国際語です。私たちはこの店に入り日本の曲を探して -karaoke は日本発ですから日本の曲は必ず在り、2000年当時は「北国の春」が中国で物凄く流行って居ましたね- 歌い捲りました。李亜琴は中国の歌を唄ってましたね、直美ちゃんはJ-ポップの歌、私はJ-ポップが嫌いで”ド演歌”です。但し、当時は日本語の歌詞は全て「ひらがな」で歌い難かったです。これが中国でカラオケを唄った最初の経験です!
カラオケを御開きにしたのが1:00過ぎです。私は飲み過ぎてフラフラで直美ちゃんに付いてホテル迄歩いて帰りました、15分位で着きました。直美ちゃんは酒豪です!!
私と同室の人(←多分、小池さん)、気が付かなかったですか?
(-_@)
斯くして、この日(←もう翌日に成っていた)は終わりましたが、私って”不良”ですなぁ、ワッハッハッハ!!
(1)予定の打洛(打洛鎮)行きは中止 - 午前中は自由行動に変更
11月11日(土)<景洪3日目>は予定では景洪→打洛→景洪と成って居ましたが今回の旅はスケジュールが厳しかったので中止し、午前中は自由行動と成りました。
(1)-1.直美ちゃんにタイ(傣)族の民族衣装を買う
それで私は景洪の市場へ買い物に行きました。酒豪の直美ちゃんにタイ(傣)族の民族衣装を買って上げました。この民族衣装は雲南桃源倶楽部(←多分2001年の)で一度だけ直美ちゃんが着て来た事が在りますので桃源倶楽部の方は覚えて居るかも知れませんんね、上下赤のデザインでした。
(1)-2.葦笛(葫芦絲)を買う
それから庄洪路(=民族工芸品市場)に行き自分の為に葦笛(中国名:葫芦絲)を買いました(右の写真)。ご覧の様に瓢箪(※21)を利用して居ます。そもそも中国名の葫芦が瓢箪(※21-1)の事なのです。
竹の部分の長さが37cm位在ります。西双版納に来ると常に流れている葦笛の曲が在るのですが、葦笛を買ったら『西双版納民族楽器 葫芦絲』(△7)という楽譜のパンフレットが付属して居り、それでこの曲の名が『有一个美麗的地方』(作曲:楊韮)という事が判りました。曲名が判ったのでCDも買いました。この曲は景洪市に2、3日居れば覚えて仕舞います、私は去年も居ましたから。私が買った楽器屋の主人も『有一个美麗的地方』の一節を吹いて呉れました。後で知った話ですが、この曲は景洪市の「市の歌」に成って居ます。
それから『西双版納 野生動物』(△8)というVCDも買いました。これには哺乳類・爬虫類・鳥類・孔雀が入ってますが特に爬虫類が素晴らしいです。私はこのVCDをDVDに変換し今でも時々見て居ます。
(1)-3.基諾族製の「葉巻」を買う
そして景洪の市場で葉巻(※22、※22-1)を買いました。それで良く見たら基諾族が作っていると書いて在りました、でも基諾山へ行った時には葉巻の話は出ませんでした。私は葉巻を2つ買い日本に帰ってから試しました。友人にも遣りましたが皆「不味い」と言ってましたね。確かに旨いものでは有りませんが、これも経験です。
右の写真は「Wander Photo Life」公式サイト(△9)からコピーしたものですが、私が買った葉巻は正しくこれです。味は極めて素朴(←作りも素朴)で値段も安いですが同サイトに拠ると、葉巻は乾燥室で乾燥され基諾族の数少ない現金収入源です。
[ちょっと一言] 一般に葉巻は煙草葉から成り、内側に詰められる充填葉(フィラー(filler))、充填葉を纏める中巻葉(バインダー(binder)、中巻葉は省かれている場合も在る)、外側を巻く上巻葉(ラッパー(wrapper))から成ります。そして温度と湿度が管理された中で熟成されます。
基諾族の葉巻は温度のみが管理され上巻葉の緑色が特徴的(←通常は茶色)です。以後私は景洪で02、04、08年に葉巻を2ケース -ケースと言ってもセロファンで包装しただけ、1ケースに24本位入って居た- 買って居ます。
この葉巻を吸っている写真は「その後」の章(→後出)で紹介して居ます。
(2)午後は市民病院へ
看護婦の白美蘭さんの勤め先の市民病院へ行きました、ここは先生は必ず訪ねて居るのです、そして景洪で発熱し白美蘭さんの手厚い看護を受けたのです(△1のp69)。
その前か後かは忘れましたが、会員の榎本滋さんが雲南の方(依旺叫さん)と結婚しその親戚だかの家にも行ったと思います、市民病院の方角に在りました。
右の写真が依旺叫さん(左)と友人です。この写真は02年10月21日に林海と一緒に昆明の我々のホテルを訪ねて来た時に撮影したものです。尚、依旺叫さんは02年は華南地方は我々と一緒でしたが西双版納には行きませんでした。{この写真は2019年3月31日に追加}
(3)傣族レストランで夕食、そして昆明に
早目の夕食は民族音楽などを演奏する傣族レストラン -去年行った店と同じかどうかは分かりません- で今回の旅を回顧し乍ら食べました。そして19:40の飛行機で昆明に行きました。
尚、李亜琴は今日日本に帰りました。今年から留学生に成ったので真面目に成ったのでしょうか?、この話には続きが在ります、ムッフッフ!!
(1)昆明の市場で文山三七を買う - 買う気は無かったのに!
11月12日(日)は午前中は自由行動です。私は昆明の花鳥市場(=景星街)で文山三七を買って仕舞いました。
◆文山三七(田七)・その2
11月12日の旅行の最後の日の午前中、自由行動で花鳥市場に行き偶然「文山三七」という看板を見付け「文山三七」の根で略実物大を買って仕舞いました(右の写真)、買う予定は無かったのですが。今手元に根の粒(つぶ)が約30個在ります。私のは2~3cmで確かに円錐形、又は紡錘形をして居ます。
もう忘れましたが多分150~200元位だと思います。文山の街の田舎染みた感じから文山で買った方が安かったと思って居ます。
しかし、特に厳重に包装してある訳では無いのに約15年間全く変質して無いのには驚きです!!
更に詳細は、前掲の「文山三七(田七)の日中比較」に書いて在ります。
(-_*)
(2)李亜琴の婚約者のお金の”運び屋”を引き受ける
李亜琴の婚約者がホテル -彼は11月9日(木)の景洪に入る迄は一緒で、我々が三岔河に行った時に昆明に車で帰りました(彼の自宅は昆明)- に来て、北山先生に「李亜琴にお金を届けて下さい。」と言って来ました。北山先生は暫く「きょとん」として居ましたが、突然私に”運び屋”の役を仰せ付かったのです。今度は私が「きょとん」としていると先生が「お金はビニールに包んで腹に括り付けて行きなさい。」と仰るので、そうしました。金額は日本円の30万円です。私はこれは大金だと思いました、中国では金の価値が違いますから中国で30万円作るのは日本で100万円以上を作るのに相当します。
多分昨日の11月11日(土)に日本に帰った李亜琴が電話で婚約者に言ったのです。以後、私は関空迄”腹の中”の違和感を感じて居ました。
(3)昆明空港で不味いコーヒーを飲む
中川寛さん -この人は私が或る会で知り合った先輩でその関係で今回の旅に参加されました- と昆明空港でコーヒーを飲みました。今回の旅の事を色々話し乍らコーヒーを飲みましたが、このコーヒーが不味い、御負けに空港料金で高い、もう最低です(←私はそれ迄版納賓館のコーヒーしか飲んだ事が無かった)。これなら日本のインスタントコーヒーの方が旨いと思いました。
でも中国のコーヒーはその後2、3年で随分旨く成りました。1999年、2000年の中国は未だ後進国だったと言えます、道路の状態、それに常温ビールを見れば明らかです。しかし、ここ2、3年で中国は物凄く変わりました、中国のコーヒーは旨く成りました。そして中国は2002年頃から後発先進国に成り、それからの数年間は皆さんがご存知の通り中国経済は高度成長を遂げ2008年の北京五輪で中国は先進国の仲間入りをしました。それは嘗ての日本が辿って来た道と全く同じなのです。
(4)関空で”腹の中”の違和感を吐き出す
飛行機は予定通り19:50に関空に着きました。右の写真は04年7月16日のタクラマカン砂漠の旅から帰国時の関西国際空港です。北山先生は家の人が迎えに来ていると言って別れ、他の人とも別れました。
李亜琴は一昨日飲んだ事はすっかり忘れた様にジーパンのラフなスタイルで到着ゲートで待って居ました。私は”腹の中”の違和感を吐き出すと李亜琴は「サンキュー、コアラ!」と明るい声で言いましたので、私は苦笑して空港を後にしました。以後、李亜琴は常に私の事を「コアラ」と呼びます!
今思うと、北山先生は李亜琴の”運び屋”には成りたく無かったのでは、と思います。
[ちょっと一言] ところで”腹の中”の違和感、即ち30万円の解釈ですが、これは色々に解釈出来ます。李亜琴が11月10日の晩にあれだけハイ(high)に成っていた事を考え合わせると、私は次の様に解釈して居ますゾ。つまり李亜琴の婚約者と李亜琴は”婚前交渉”をしたと考えられます。現実的な考え方の李亜琴はその見返りに30万円を要求したのです、こんなの日本だったら”当たり前”でしょう、ブワッハッハッハ!!
李亜琴とはその後、日本で3回位会いましたと言っても偶然で、彼女は地下鉄千日前線の今里駅から乗って来ます。私がこの線を利用するのは千日前線南巽駅近くの古本屋(=日之出書房)に行く時(←でも大抵は自転車で行く)が殆どで、その帰りに今里駅から難波行きに乗って来てバッタリ会うとか、私が寝ていて起こされたとかです。彼女の大学は近鉄沿線で今里駅なら近鉄にも近いのです。
やはり2000年の旅を書いて良かったと思います。2000年の旅は数々の思い出が詰まっているのです。特に紅河県底瑪壩の周小竜さんと北山先生の涙の対面を書いた事で私も肩の荷が降りました。
◆「全て見た儘有りの儘、...」に書く心
もう一度言いますが、当ページの記事は「全て見た儘有りの儘、何も足さない、何も引かない」なのです。私は1999、2000年の旅をする迄は中国の雲南省を全く知りませんでした。「えっ、雲南、そりゃ~あ雲の南やろ!」てなもんです。ですから去年雲南に初めて来た時は何も彼もが初めてで刺激が有りました。しかし、日本に帰ってから私は随分色んな本を読み勉強をしました。ですから私の雲南感には変な先入観が無いと思って居ます。
日本人は直ぐGDP(国内総生産)(※23)という指標で他国の経済力を云々します(←因みに、指標が現在のGDP(国内総生産)に切り替わるのは1993年以降ですで、それ以前はGNP(国民総生産)(※23-1)という指標が使われて居ました)。例えば雲南省では月給が約1000円(=約70元)位の所がザラですが、それを聞くと日本人は雲南のGDPは物凄く低いのだろうと考えます。
中国では”三元飯”が在ります(←これは中川保さんの命名)、要するに3元でそこそこの飯(←御数が3品付きます)が食えるのです。▼下▼を見て下さい。
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
これを食って生活すれば1日3食で9元、それで7日で月のお金は無くなります。つまり外食したらダメです。そうすると自炊しか有りません、自炊で月1000円以内に切り詰める訳です。私は出来る筈だ!、と思って居ます。何となれば、月1000円で生活してる人が雲南には無数に居るからです。私は出来る事なら月1000円を実践して見たかったですね、GDPでは計れない経済が現に存在して居るのです。しかも月1000円で生活して居る少数民族に人たちは物凄く明るいのです。この事実を貴方(貴女)はどう思いますか?!
これらの事を理解するには、日本から持って来た先入観を捨て「全て見た儘有りの儘、...」に感じる事が極めて重要だと悟りました。
◆2000年の雲南の旅はエポック・メーキングな旅
又、今回の雲南桃源旅行は半分位の人には評判が非常に悪かったですね。理由は宿舎に予定通りに着かない、旅程の変更、トイレ詰まりが多い、道路工事や悪路などです。その事は既に「考察」の章に書きましたが、逆に今回の旅がその後の旅の性格や参加者を決めた様に思えます。以後の雲南の旅を続けたのは小池・松岡・中川保・私と先生自身、それに2002年から加わった山村さんだけです。そういう意味で2000年の雲南の旅はその後の旅の在り方を決めたエポック・メーキング(epoch-making)な旅だった、と思って居ます。
◆中国の路上ゲーム
ところで、今回の雲南の旅で私は中国人が路上でゲームをして楽しんでいる姿を何度も見ました。恐らく皆さんは「中国なら麻雀だろう」と御思いでしょうが、市場とか街の通りで見掛ける路上ゲームは凡そ麻雀(麻将)、中国象棋、トランプ、ビリヤードの4種類に大体の所分かれます。この4つの内どれが流行っているかは地域性が有って、例えばトランプが流行っている地域は大体皆がトランプをします。私は路上ゲームについても写真を撮りましたが今はその写真は無し。しかし2001年以降も路上ゲームについて写真を撮り続けて居ますので、それを▼下のページ▼に纏めて在ります。興味有る方はご覧下さい。
中国の路上ゲーム(Chinese street-games)
◇◆◇◆◇
こうして「雲南に魅せられる旅」で「雲南の虜」に成り、「雲南の深み」に嵌まり込んで仕舞った様です。これからズルズルと最深部に落ちて行くのか?、或いは深みから抜け出すのか??、後のお・楽・し・みです。[雲南に魅せられる旅]シリーズはこれで終了します。
尚、雲南桃源倶楽部の中川保さんには、私の記憶が曖昧に成っている部分について2017年6~7月頃に色々と質問をさせて戴き、本当に有難う御座居ました。この場を借りて御礼申し上げます。私の記憶力は段々と、しかし確実に曖昧に成って居ます。
皆さん、ここ迄付き合ってくれて、どうも有難う御座いました!!
m(_~_)m (*_@)/~~~
当ページはシリーズに成って居ますが、それぞれの話は単独で完結して居ます。
尚、[雲南に魅せられる旅]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
>>>■その後
●お茶屋で小便小僧を見た - 温度計として使ってた!
大理の胡蝶泉で1個10元(約150円)で売っていた”がさつ”な造りの素焼の小便小僧ですが、皆さん、これが温度計に成るのです。素焼の陶器なので小便の元の水はバケツに入れて置くと徐々に浸み込むのです。
「2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行」で寄った昆明の白族が経営する「お茶屋」(右の写真は04年10月30日に撮影)、この店は茶店だけで無く白族の民芸品なども売って居ます)でお茶を飲んだ -何人かは土産物を買って居ました- のですが、85℃がベストらしく、前でお茶の淹れ方を実演している女性(右の写真)は何と小便小僧に小便をさせ「湯の温度が未だ高いですね、少し待ちましょう」と宣ったので、私は驚嘆して -驚嘆したのは私だけ- 慌ててカメラを取り出しましたが時既に遅しでした。
小便小僧が何故温度計に成るのか?、これを説明しましょう。小便小僧は型に嵌めて造る粗悪品なので1個1個は型が違ったり同じ型でも個体差が有るのですが、どれか1個に固定すると小便が飛ぶ距離と温度との関係は一意に、即ちユニーク(unique)に決まるのです(右下の図を参照)。但し約50℃位以下だと小便は出ません。この日使った小便小僧は、胡蝶泉の写真の左から1又は3番目の型、即ち左下の写真のものです。
1個に固定すると、温度t
(t>Tで小便が出る)と
飛ぶ距離lは一意に決まり、
小便小僧は温度計に成るのです。
北山先生に見せて上げたかったですね。しかし小便小僧の力学を勉強しましたゾ!
{この節は2017年6月20日に追加}
●基諾族の葉巻を吸っている私
雲南桃源倶楽部は葉巻を吸う人は居りませんが、パーリャンの仲間は”悪友”が多く、2004年の竣工記念旅行では大理や麗江で3、4人の有志と基諾族の葉巻を吸いました。左は大理の周城(←周城は胡蝶泉の近く)の近くで04年11月4日に吸った写真です。
右の写真は、そのパーリャンの仲間と日本で飲んだ時(=05年2月8日)に基諾族の葉巻を吹かす私です。
私は1993年にタバコ(煙草)は止めましたが、中国に来た時は「煙草の国」中国に敬意を表し中国製のタバコを1個買います。丹東では北朝鮮のタバコを買いました。基諾族の葉巻もその一環です。タバコを吸ったからタバコを止められない事は有りません、旅が終わればピタッと止めます。
この様に私は基諾族の葉巻を愛煙しました。しかし、私って”不良”ですねぇ!
{この節は2017年6月20日に追加}
●日本の古本屋で塞翁の本を見付け買う - その本を誰かに差し上げた!
2003年か2004年頃の夏に時々行く大阪の南巽駅近くの古本屋(=日之出書房)で塞翁の本(△1)が1冊置いて在るのを見付けました。この日は自転車で行きましたが暑い日だった事を覚えて居ます。本の状態は良く余り読まれた形跡は有りませんでした。値段は正価の半額位 -この本は正価3000円- だったと思います、確か本の後ろに鉛筆で値段が書いて在ったと思います。それで私はこの本を買って来ました。
その後、時間が経ち私もこの本の事をすっかり忘れて仕舞いました。私は今は沖縄に住んで居ます。それで、ふとその事を思い出したので未だ手元に数冊在る本を調べたら、古本屋で買った本が在りません。私は塞翁の本を大阪と沖縄で数冊配りました -全部新品だと思って居た!- が、その中に古本屋で買った本が紛れて居たのです。本の後ろに値段が書いて在ったら悪しからず、アッハッハッハ!
尚、私の手元には北山塞翁直筆のサイン入り本が何冊か在ります。サインは黒いマジックで
愚公亭塞翁
北山昌夫
署
2002.9.12
と入って居ます。欲しい方はご連絡下さい。これは2002年10月19日~11月3日の第3回雲南桃源旅行(←これが最後の雲南桃源旅行に成りました)の前に、桃源倶楽部の集まりでサインして戴いたものです。
{この節は2017年7月16日に追加}
【脚注】
※1:清水焼(きよみずやき)は、京焼の一派。京都の清水・五条坂付近で産出。江戸時代前半は陶器、後半からは磁器を製し、六兵衛/道八/蔵六などが有名。
※2:ノウハウ/ノーハウ(know how)は、技術的知識/情報。物事の遣り方。骨(こつ)。
※3:カルスト地形(―ちけい、karst topography)は、(スロヴェニアのカルスト地方に見られることから)石灰岩台地で、カレンフェルト(鋸歯状の地形)・ドリーネ(擂鉢状の窪地)・石灰洞(=鍾乳洞)などが発達する特有な地形。石灰岩の表面が溶解浸食を受け易いこと、雨水は主に割れ目に沿って浸み込み周囲の岩石を溶解し易いことなどが原因と成って出来る。語源と成ったカルスト地方にこの地形が多く存在し中国の桂林や雲南省石林が、日本では山口県秋吉台や福岡県平尾台などが名高い。
※3-1:カルスト(Karst[独])は、スロベニア西部からクロアチアのイーストラ半島に掛けて広がる石灰岩台地の丘陵地帯。カルスト地形の語源。
※4:ユーカリ(属名の Eucalyptus[ラ]から)は、フトモモ科の常緑高木。オーストラリアに約500種が分布。巨木に成るものも在る。葉は革質、全体が白粉で被われ、芳香を発する。春、葉の付け根に1個、又は数個の花を開き、花後、半球形4稜の果実を結ぶ。材は船舶材・建築材に用い、葉からユーカリ油を採る。乾燥に強く、南アフリカ/地中海地域などで広く栽植。コアラがユーカリの葉しか食べない。日本では主として観賞用にマルバユーカリなどが栽培されている。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※4-1:ユーカリ油(―ゆ)は、ユーカリの若葉を水蒸気蒸留して得る精油で、無色、又は帯黄色。主成分はシネオール。特異の芳香を持ち、石鹸香料/室内香料/医薬/消毒剤とする。
※4-2:コアラ(koala)は、フクロネズミ目(有袋類)コアラ科の哺乳類。体長70cm程で、尾は殆ど無い。体毛は灰色から黄褐色。耳は大きく、白く柔らかい毛に覆われる。オーストラリア東部の低地にのみ生息、ユーカリの葉しか食べない。動作は鈍く、殆ど樹上で生活。毛皮利用とペットとする為に乱獲され、絶滅しかかったが、保護が成功して可なり回復。フクログマ。コモリグマ。
※5:発破(はっぱ)とは、鉱山や土木工事で、爆薬を仕掛けて爆破すること。又、これに用いる火薬の類。
※6:何でも屋(なんでもや)は、[1].Jack-of-all-trades。何事にも手を出したがる人。何事でも或る程度出来る人。五目屋(やごもくや)。
[2].general dealer。日用品などを色々揃えている店。
※6-1:万屋(よろずや)は、[1].general dealer。種々の物を商う店。何でも屋。
[2].Jack-of-all-trades。何事にも一通り通じた人。
※7:菅笠(すげがさ/すががさ)は、スゲの葉で編んだ笠。
※8:軌間(きかん、gauge)とは、鉄道で、左右レール頭部内側間の最短距離。1.435m(4ft8.5in)を国際標準軌間とする。ゲージ。日本の新幹線は1.435mの国際標準軌間である。又、在来線に新幹線が乗り入れられる様にしたものを3線軌条と言う。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※8-1:狭軌(きょうき、narrow gauge)とは、鉄道のレールの間隔が標準軌間(1.435m、4ft8.5in)より狭いもの。日本のJRの大部分は1.067m(3ft6in)で狭軌。←→広軌。
※8-2:広軌(こうき、broad gauge)とは、鉄道のレールの間隔が標準軌間(1.435m、4ft8.5in)より広いもの。日本の在来線では狭軌(1.067mの軌間)が多いので、狭軌より広いものを言う事が多い(すると日本の新幹線(1.435m)は広軌に成る)。←→狭軌。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※9:アオザイ(ao dai[ベトナム])は、ベトナム女性の伝統的な衣服。深いスリットが入った長い上衣にズボンを組み合せる。
※10:ポラロイドカメラ(Polaroid Land Cameraの略称)は、アメリカ、ポラロイド社のランドが考案した特殊なカメラ。現像剤が組み込まれている専用フィルムを使用し、撮影後数分以内に仕上がった写真が得られる。
※11:カムフラージュ/カモフラージュ(camouflage[仏])とは、[1].敵の眼を欺く手段・方法。偽装と迷彩とが在る。生物の隠蔽的擬態(模倣)をも言う。
[2].正体を知られない様に、外見を装うこと。
※12:カラオケ/空オケ(karaoke)は、(歌の無い「空(から)のオーケストラ」の意)
[1].歌や独奏楽器の部分を抜いて伴奏部のみを録音したもの。
[2].伴奏部を録音したテープ/ディスクなどに合わせて歌うこと。又、その装置一式。
補足すると、一般の人が歌うカラオケは1972年頃神戸に起こった。1976年に産業用の8トラックのカートリッジ・テープが出来た。その後カセットやレーザーディスクのカラオケが発達し、1980年代前半頃から爆発的に普及した。1986年にカラオケボックスが岡山県に出来、国民的レジャーとして定着。迅速な曲目選択、エコーが掛かる、音高キーの調節が出来るなどの日本的細やかな技術が凝縮されて世界中に広まり、"karaoke" は国際語に成って居る。<出典:「学研新世紀ビジュアル百科辞典」>
※13:水牛(すいぎゅう、[water] buffalo)は、ウシ科の哺乳類で、水辺に生活するものの総称。半月形の大きい角を持つ灰黒色のウシ。体長約3m、肩高約1.8m。外部寄生虫や体温上昇を防ぐ為、泥浴びや水浴びを好む。熱帯地方で、耕作(牛耕)/運搬用に飼われて居る。アジアスイギュウ/アフリカスイギュウ/アノア/タマラオなどが在る。バッファロー。〈和名抄11〉。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※13-1:牛耕(ぎゅうこう)は、牛を用いて田畑を耕すこと。特に中国雲南省や東南アジアの稲作地帯では水牛を水田耕作に利用する。
※14:柄振/杁(えぶり)は、農具の一。穀物の実などを掻き寄せ、又、水田の土を均(なら)すのに用いる。竿の先に横板を付け、しばしば鋸歯状の凹凸を設けたもの。〈新撰字鏡12〉。
※15:回帰線(かいきせん、tropic)とは、[1].地球上赤道の南北、緯度23度27分の緯線。北のを北回帰線(the tropic of Cancer、又は夏至線)、南のを南回帰線(the tropic of Capricorn、又は冬至線)と言う。北回帰線上では夏至の日に、南回帰線上では冬至の日に、太陽が真上に来る。これを極限として太陽は南、又は北へ回帰する。両回帰線の間が熱帯で在る。
[2].〔数〕曲面上の1点から出て、その曲面上を通って元の点に戻る曲線。
※15-1:熱帯(ねったい、tropical zone, the tropics)は、赤道を中心として南北両回帰線(緯度23度27分)に挟まれた地帯。気候上では、これよりやや広く、1年間の平均気温がセ氏20度以上の地帯を指し、椰子の生育する範囲にほぼ一致する。
※16:プアール茶/普洱茶(―ちゃ、Puer tea)は、中国茶の一種。雲南省普洱に産する茶で、麹菌を寄生させた緑茶を発酵させた赤褐色のもの。黴臭い香りが特徴。プーアル茶とも。
※17:「やんや」とは、褒め囃す声。喝采の声。又、称賛すべきこと。浮世風呂3「女房の五大力の爪弾きを聞いてるも、―な沙汰ぢやアねへ」。「―の喝采」。
※17-1:桜(さくら)とは、この場合、露店商などで、業者と通謀し、客の振りをして他の客の購買心をそそる者。又、回し者の意。
※18:榕樹(ようじゅ)とは、〔植〕ガジュマルの漢名。
※18-1:ガジュマル(榕樹[中国語])は、クワ科の常緑高木。高さ約20m。広く熱帯/亜熱帯に産する。日本では沖縄/屋久島に自生、小笠原島などに植栽。幹は多数分岐して繁茂し、多数の気根を垂れる。葉は楕円形、又は卵形、革質、無毛。黄色、又は赤褐色のイチジクに似た小形の壺形花序を生ずる。防風林/生垣/観葉植物とし、材を細工物に使う。ガジマル。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※18-2:気根(きこん、aerial root)とは、この場合、〔生〕空気中に露出した根。地上の茎/幹から出る不定根も在り、地中の根が地上に伸び出す事も在る。機能は、支柱根(トウモロコシ/タコノキなど)/呼吸根(マングローブ/ミズキンバイなど)/吸水根(フウランなど)/付着根(キヅタ)/保水根(ヘゴ)など、植物に依り異なる。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※19:焼畑(やきばた/やきはた/やいばた、swidden (agriculture))は、原始的農耕法の一。草地・林地などで、雑木・雑草を焼き、その焼跡に蕎麦・稗(ひえ)・大豆・粟(あわ)などを蒔き付ける畑。灰がその儘肥料と成る。地力が衰えると放置し、数年乃至十数年後再び焼畑として用いる。切替畑。やきまき。叢焼(やぶやき)。やぼ。山薙(やまなぎ)。ななぎ。なぎの。「―農業」。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※20:香菜/シャンツァイ/コリアンダー/コエンドロ(こうさい、xiangcai[中国], coriander, coentro[葡])は、セリ科の一年草。南ヨーロッパ原産の香味料/薬用植物。高さ30~60cm。茎・葉ともに特異な香気 -マラリアを媒介するハマダラカ(翅斑蚊)が嫌うと言う- が有り、カレー粉/クッキーなどに加える。葉は細裂した羽状複葉で、互生。夏、小白花を複散形花序に付ける。果実は小円形で、香味料、又は健胃/去痰(きょたん)薬。漢名、胡荽(こすい)。
※21:瓢箪(ひょうたん)は、(「瓢」は「ひさご」、「箪」は竹製の丸い飯櫃)
[1].gourd。ウリ科の蔓性一年草。ユウガオ(夕顔)の変種とされ、アフリカ、又はアジアの熱帯地方原産。南米での栽培が古い。葉・花ともユウガオに似る。茎は巻鬚(まきひげ)に依って他物に絡み、葉は心臓形で、掌状に浅裂。7月頃、白色の五弁花を開く。雌雄同株。果実は普通中央部に括れが有るが、そうで無いもの、小形のセンナリビョウタン(食用に成る)など多くの品種が在る。ひさご(瓢/瓠/匏)。中国名は葫蘆/葫葦/葫芦(ころ)。季語は秋。
[2].[1]の成熟果実の中身(果肉など)を除き去って乾燥して製した器。磨き、漆を掛けて仕上げた物などが在る。酒などを入れる他、水汲み・花入・炭斗(すみとり)に用いる。ひさご(瓢/瓠/匏)。ふくべ(瓠・瓢)。
<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※21-1:葫蘆/葫葦/葫芦(ころ)とは、[1].瓢箪(ひょうたん)。
[2].夕顔(ゆうがお)の漢名。
※22:葉巻(はまき)は、葉巻煙草の略。
※22-1:葉巻煙草(はまきたばこ/―タバコ、cigar)は、煙草の葉を刻まずに、巻いて作った巻煙草。シガー。
※23:GDP(gross domestic product)は国内総生産。1年間に国内で新たに生産された財・サービスの価値の合計。GNP(国民総生産)から海外での純所得を差し引いたもの。
※23-1:GNP(gross national product)は国民総生産。一国に於いて一定期間に生産された財・サービスの総額。国民所得に比べて正確に算定出来るので、経済指標として広く利用される様に成った。
補足すると、一般にGNP(国民総生産或いは国民所得)は一国民経済の福祉水準を問題にする時に有用であるが、GDP(国内総生産或いは国内所得)は一国民経済の景気変動や経済成長を問題にする時に重要となる。日本では指標が現在のGDP(国内総生産)に切り替わるのは1993年以降のこと。<出典:「現代用語の基礎知識(1999年版)」>
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。
△2:『中国雲南・岩絵の謎』(山折哲雄監修、彭飛編著、雲南省博物館協力、祥伝社)。
△3:『山海経 中国古代の神話世界』(高馬三良訳注、平凡社)。
△3-1:『史記列伝(五)』(司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)。
△4:『地球の歩き方104 雲南・四川・貴州と少数民族 1999~2000年版』(「地球の歩き方」編集室、ダイヤモンド社)。
△5:『来た、見た、撮った!-中国国境8000km』(田島正著、徳間文庫)。
△6:『雲南省地図冊(2000年版)』(雲南省測絵局編、中国地図出版社)。2000年に元陽県新街で購入。
△7:『西双版納民族楽器 葫芦絲』(葦笛(葫芦絲)に付属のパンフレット版の楽譜、何晏氏が2000年6月6日に制作)。
△8:VCD『西双版納 野生動物』(念洪勇監督、西双版納撮視文化伝播中心・雲南省烟西双版納州公司制作)。
△9:「Wander Photo Life」の「中国写真ライフ」公式サイト。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):昆明市や石林の地図▼
地図-中国・昆明と雲南省(Map of Kunming and Yunnansheng, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):西双版納の地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):カルスト地形や桂林の地図▼
地図-中国・桂林地方(Map of Guilin region, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):ベトナムやミャンマーの地図▼
地図-東南アジア(Map of Southeast Asia, -Multinational-)
@参照ページ(Reference-Page):中国雲南省の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@参照ページ(Reference-Page):SLの歴史や型式番号▼
資料-SL発達史と日本SLの型式番号(The history and naming rule of SL)
@参照ページ(Reference-Page):四川省広漢市の三星堆博物館▼
2001年・夜行列車で成都へ(To Chengdu by NIGHT TRAIN, China, 2001)
@補完ページ(Complementary):カルスト地形の桂林▼
2002年・桂林の漓江下り(Go down the Lijiang of Guilin, China, 2002)
@補完ページ(Complementary):文山三七(田七)について▼
文山三七(田七)の日中比較
(The 37-carrot of Wenshan in Yunnan, China and Japan)
@補完ページ(Complementary):河口の国際列車や金平や
紅河の「赤い色」について▼
2008年・雲南の河口/金平etc
(Hekou, Jinping etc. of Yunnan, China, 2008)
@横顔(Profile):雲南桃源倶楽部や雲南桃源旅行について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
原画ファイルの破壊状況と破壊時期▼
初歩的な神道の神々(The gods of rudimentary Shinto)
東巴(トンパ)文字や中国のカラオケ事情▼
2001年・麗しの麗江(Beautiful Lijiang, China, 2001)
華南農業大学の黄先生について▼
民族変わればゲテモノ変わる(About the bizarre food)
雲南地方で大地震▼
2003年・雲南で大地震、ヨーロッパは熱波
(The earthquake and heat-wave, 2003)
中国の「お茶文化」や茶馬古道▼
中国と世界の「お茶文化」('Tea culture' in China and the world)
版納賓館でアルバイトをしてた李亜琴を「中国名花集」に登録▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
常温ビール(啤酒)を払拭した北京オリンピック▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
文山のカルスト地形や三七(田七)について▼
2008年・雲南の羅平/文山etc
(Luoping, Wenshan etc. of Yunnan, China, 2008)
9600型蒸気機関車について▼
大井川鉄道の”SLの人生”(The 'Life of SL', Oi-river Railway)
尹君や尹君のお父さんについて▼
2002年・尹君のお父さんの思い出
(Memories of Mr.Yin's father, China, 2002)
様々な鳥や猫も食べる中国▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
元陽の棚田(梯田)▼
雲南省元陽の棚田(梯田)(Rice terrace of Yuanyang, Yunnan, China)
”脱雲南”の旅▼
2002年・”脱雲南”桃源紀行(Escape from Yunnan, China, 2002)
普洱茶(プアール茶)について▼
2002年・パーリャン小学校視察の旅
(Report of Paliang's primary school, China, 2002)
2008年には思茅地区の道路は非常に整備された▼
2008年・雲南の思茅/景洪/昆明
(Simao, Jinghong, and Kunming of Yunnan, China, 2008)
日本の高度成長期(所得倍増という言葉が流行った)▼
戦後日本の世相史(Shallow history of Japan after World War II)
2000年の昆明空港のコーヒーは不味かった!▼
外国のコーヒー事情(Coffee circumstances in foreign country)
(日本人は直ぐGDPという指標を持ち出しますが)
他国の経済力をどう見るか▼
デフレ論議に疑問を呈す(Is our DEFLATION true ?)
三元飯を食った▼
2002年・三江のトン族を訪ねて(Dong zu of Sanjiang, China, 2002)
中国の路上ゲームについて▼
中国の路上ゲーム(Chinese street-games)
「2004年のパーリャン小学校の竣工記念旅行」で寄った
昆明の白族が経営する「お茶屋」や基諾族の葉巻▼
2004年・パーリャン小学校竣工記念旅行
(Completion travel of Paliang's primary school, China, 2004)
日本でも基諾族の葉巻を吸う▼
私自身の写真集・海外と日本編(My own PHOTO album in overseas and Japan)
最後の雲南桃源旅行▼
私の外国旅行(Travel of my foreign country)
私の弟子・江沢民や私の中国名について▼
エルニーニョ深沢とは何者か?!(Who am I ?)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')