-- 2002.11.30 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2005.03.24 改訂
「雲南桃源倶楽部」(北山昌夫会長) -自ら愚公亭塞翁と言い塞翁と呼んでくれとの希望です- の方以外はこの話の主人公プ・リャンスオ(浦良鎖)(△1のp68、70)について誰もご存知無いでしょうね。上海出身の漢族で雲南省西双版納タイ族自治州の景洪市で今「上海知青」の看板を掲げた工芸品店を庄洪路で営んで居る精力旺盛な好漢(nice guy)(※1)です。「知青」とは知識青年の略で文化大革命(※2)の時上海から遠く西双版納へ下向して来た人で、今は庄洪路(工芸品売り場通り)の商店会長です。
この人、人は良いのですが、所謂一つの”病気”持ち、つまり女好きですね。今回はこの女好きが齎(もたら)したドタバタ劇を桟敷から見ていた私の見聞録という形で述べる次第です。右の絵はプ・リャンスオの店のスケッチです。右のこちら向きの男性がプ・リャンスオです。「上海知青」の文字も見えますね。
さあ、これから始まるドタバタ劇の登場人物を簡単に紹介して置きましょう。
プ・リャンスオ(浦良鎖) 被告:景洪市の庄洪路の商店会長。所謂一つの”病気”持ちの主役。 李文革 原告:モンハイ(勐海)在住のガイド兼日本語通訳。 ヘ・チャンリ(賀長利) 原告側証人:桃源ハウスの留守居役兼住人。娘と共稼ぎ。 北山昌夫塞翁 裁判長:「雲南桃源倶楽部」会長。景洪市内にマンションを所有。 景洪市民病院の看護婦 北山塞翁の”隠し玉”で最後に登場。
★尚、ここに掲載した話は、一定の事実に基づいては居ますが、全てフィクションであることを、予めお断りして置きます(←これは暴露本のパロディーです、アッハッハ)。参考文献として北山塞翁の『西双版納』(△1)を挙げて置きます。西双版納の地図を見る方はココをクリック(Open the map)。
時は平成14年10月21日夜、所は西双版納景洪市大曼么(ターマンメ)の桃源ハウス(=北山マンション)(△1のp43、106~109)。桃源ハウスとは95年7月29日から塞翁が生活する為に購入したマンションです(△1のp68)。元禄14年の江戸城「松の廊下」の事件を捩って講談調に始めましたが平成14年は2002年です。
舞台と成る景洪市(左の写真)は市の中心を瀾滄江(=メコン川:ラオス、カンボジア、ベトナム南部を通って南シナ海に注ぐ大河)が流れるエキゾティックで美しい街です。景洪市のシンボルの西双版納大橋(←1999年に完成)も見えて居ますね。この橋は良く目立つフォルムをです。又、機体の雲南航空公司の「雲南」の文字も見えて居ます。
実はほんの10日程前の02年10月11日に雲南航空公司は中国東方航空に併合されましたが未だ雲南航空公司のデザインの機体を利用して居ます。
事の発端はと言うと、これがちと難しいのですが、取り敢えずはプ・リャンスオにして置きましょう、何故”取り敢えず”なのかは最後迄読めば解ります。彼が所謂一つの”病気”から、桃源ハウスの管理人兼住人として留守を預かっているヘ・チャンリ(賀長利)父娘の家に、”小指”(つまり彼女)を連れてシケ込みに来たのです。最初の内は週に1回程度だったのが段々と、週2、週3、...と、到頭来ない日は無い程にエスカレートして行った訳です。何でそんな事が出来るの、だって桃源ハウスにはヘ・チャンリという住人が居るんでしょ、住人は夜何処かへ出て行く訳?、と誰しも疑問に思う事でしょう。
仰る通り、その通りなんです、1つを除けば。住人のヘ・チャンリは今は娘さんと2人暮らしで、ま、左の写真がそのヘ・チャンリの娘(今中学2年生)ですが、娘さん共々昼は働きに行って家は留守なんです、当たり前ですが。この子は「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年3月24日に追加}
でプ・リャンスオがシケ込みに来るのは「昼」なんですよ、実は。夜はちゃんと奥さんの所へ帰っていて、タフですね~、ですから奥さんにもバレて無いという訳で一石二鳥。バレたら大変ですよ、プ・リャンスオの奥さんは大変な資産家の娘です(→後出)からね、上海から何の身寄りも無い田舎に出て来て、やっと見付けた奥さんに言わば”逆玉”に乗っかって居る訳ですからね。彼が庄洪路の商店会長に成れたのも奥さんに負う所が大なのです。彼も女をコマす馬力は有っても、家を叩き出されて裸一貫でゼロから人生を遣り直す馬力はもう無いでしょうからね、もう50歳を超えて居ますから。
じゃどうして昼日中シケ込みに来れるかと言うと、まあプ・リャンスオは言わば自由業、そして”小指”の方は聞く所に拠るとどうも「夜の蝶」みたいで、ですから桃源ハウスを住人と彼等で昼夜を棲み分けて居る格好ですね。これはもう今西理論(※3~※3-2)の実践でもあり資源の有効利用でもある、という訳ですね、エライ!、ここで誉めたら行けませんが。
ところで、奥さんにもバレて無いのに、何処から発覚したのか?、と誰もが疑問をお持ちでしょう。そこで第3の人物の登場と成ります、彼こそが告発者なのですから。
それが李文革、右の写真の男です。名前の通り文化大革命(※2)の始まった1966年に生まれたのでこの名が付けられたそうで、吉林省延吉出身(※4)の朝鮮族です。今は景洪市から車で2時間位西のモンハイ(勐海)という所に住んで居て、家では編み機を使ってセーターなど編物を家内工業的に製造して居るそうです。この人可なり日本語が出来て(←まあ昔の日本の占領政策の所為で幸か不幸かお父さんやお爺さんが日本語を話せたそうです)、その為ガイド兼通訳として日本人観光客が来た時などにこう遣って景洪に出稼ぎに来て居ます、ま、ガイドとしてはイマイチですが。そして李君が偶に景洪へ出て来た時に、先に桃源ハウスを占領されて「オレが昼間使えないじゃん」という訳です。
李君はキムチが無いと飯が咽喉を通らないらしくモンハイの自宅でキムチを作ったそうですが1週間も経たない内にキムチが腐るそうです、ここは熱帯ですから。それで私たちが御飯を食べて「李君も一緒に食べたら」と言っても「いえ私はいいです」と言って食べません。ま、李君にはそういう一本気な所が有ります。
そこで今度は李君と桃源ハウスの住人ヘ・チャンリとの関係を述べなくては行けませんね。ヘ・チャンリ、一言で言って彼は豪傑です。そう、何と言って説明したら良いでしょうか、塞翁は「市井の哲人」と呼んでます(△1のp68)。今のこせこせした日本人とは180度対極に居る人、と言って置きましょう。大らかでめちゃめちゃ人の好い酒豪です。彼は黒龍江省の出身(←佳木斯(ジャムス)(※4-1)と聞いて居ます)で漢民族です。どういうキッカケでヘ・チャンリと李君が知り合ったかは詳しく知りませんが、この2人、共に北方の出身ということで意気投合したのでしょう。何でも去年、ヘ・チャンリが李君の実家へ1ヶ月程住み込んで、例の編物のアルバイトをしたそうで、逆に李君が出て来た時はヘ・チャンリが家に泊めて遣っていた、とまあ、そう言った関係です。
さて、この後どう転ぶか、ここからが面白く成ります。人間と言うのは意地悪なもので、他人が転ぶのが面白くて仕方無いですね。何時も心の片隅で他人が転ぶのを期待して生きている様なものです、アッハッハ!!
そして遂に発覚して仕舞ったのです。或る日、李君が桃源ハウスに泊まって、住人が仕事で出て行った後に居残っていた所へ、プ・リャンスオが何時もの様に鼻歌まじりで”小指”を連れて来て出合い頭に「バッタリ」という訳ですね。ま、李君もびっくりしたでしょうが、それ以上にプ・リャンスオもタマゲたことでしょう、「何やお前、一体誰やねん?」と、お互いに思ったに違いありません、笑っちゃいますよね。
そして、或る日、と言うのが今年5月で、それから「起」の章で述べた様に段々エスカレートして行った訳ですね。
ところで今、読者の誰もが疑問に思っているのではないでしょうか?、1つは何でプ・リャンスオは他人の家である桃源ハウスに自由に出入り出来るのか?、そして2つ目は何で告発人が住人であるヘ・チャンリでは無く李文革なのか?、と。仰る通りです、これについて順を追って説明しましょう。
先ずプ・リャンスオが桃源ハウスに出入り出来る訳は、このマンションの管理人兼住人であるヘ・チャンリの権利を侵害し鍵を自由に使っているからです。住人ヘ・チャンリはプ・リャンスオの件を知って困惑はして居ましたが、何せ桃源ハウスを留守居役として無料で借りている手前、塞翁にも連絡せずに言わば黙認して居ました。右がヘ・チャンリ(賀長利)です、彼はすっかり悄気(しょげ)て居ます(小池さんが21日の晩に撮影)。日本人から見たら理解出来ないと思う方が殆どでしょうが、まヘ・チャンリとはそういう男です。ですから塞翁も今回の桃源旅行で来てみる迄は全く知らなかった、という訳です。
では何故李文革が訴えたのか?、それは李君もちょくちょく桃源ハウスに泊まったりするのでプ・リャンスオが”小指”を連れて来るのは面白く無い、ヘ・チャンリが言わない(或いは言えない)なら自分が言おうということです。ま李君は何の負い目も無いですから。又、この”小指”なる女性は李君と同じくモンハイ在住の人だそうです。
ですから李君自身が早く状況を改善したいと思っていたのです。そして到頭その機会が訪れました。さて、お立会い!
そこで愈々、北山塞翁にご登場願いましょう。右下の写真がそうです。酒仙にして「雲南桃源倶楽部」会長、自称芦屋のドン・キホーテです。この件の裁判官役ですが、或る意味ではこの件の被害者でも在り、又或る意味ではこの件の原因を作り出した人でも在るという複雑な役所(やくどころ)です。
今回の「桃源倶楽部」の旅行で21日の夜、全員で食事をした後、私たちは景洪市の版納賓館に泊まったのですが、塞翁と松岡さんは住人のヘ・チャンリ、通訳の李文革を伴って桃源ハウスに泊まりに行きました。塞翁にすれば2年振りに自分のマンションに行くのであり、それが今回の旅の第1の目的だったことでしょう。
この晩李君が「起」の章で述べた事実を言い出した訳です。李君の訴えでは、部屋には”小指”の衣装とか洗面用具などが置いた儘に成っている(←これは私も後日確認しました)、プロパンガス・水道・電気もタダで使って居る、他人の家を我が物顔で使っているのは可笑しい、ということでした。
この時に成って初めて住人のヘ・チャンリもそれは事実だと証言したのでした。
(>o<) (>_<) (>o<) (>_<) (>o<) (>_<)
(>o<) (-_@)
これを聴いた塞翁は唖然、何しろ全く寝耳に水ですから、まあ青天の霹靂と言うやつですね。暫くは言葉も出ず、やっと出た言葉が「何とかせにゃ為らん」でした。困ったことですな、センセ、笑っている場合では無いですよ!
そして「何とかした」のが、景洪市のタイ族の民家にホームステイから帰って来た24日の晩でした。取り敢えず景洪市に住んで居る別の人に管理人を代わって貰う様に話を付け、プ・リャンスオに事実を問い質して、置いて在る”小指”の荷物を持って行かせ、鍵を返却させました。その新しい管理人とは塞翁が信頼を寄せる看護婦さん(左下の写真)です。
[ちょっと一言] 桃源ハウスを語るにはもう一人欠かせない人物が居ます。それは景洪市民病院の看護婦の白美蘭さんです。この人は基諾族という少数民族の出身で塞翁は非常に信頼を寄せて居ます。この辺の経緯をちゃんと語るには、そもそも北山塞翁が何故中国それも特に西双版納に取り憑かれたか?!、という所から語り始めないと行けませんが、この看護婦さんは塞翁が雲南に取り付かれた一因を成して居ます。ま、取り敢えずは「雲南桃源倶楽部」のページにチラっと書きましたが、詳しくは北山塞翁の『西双版納』(△1のp86~93)を読んで下さい。桃源ハウスのことも載って居ます(△1のp106)。実際にはもっと面白い事が沢山有ります、プ・リャンスオの他にも。これらの面白い話を知っているのは、塞翁自身を除いては「桃源倶楽部」の極く限られた人だけです。
そう言えばホームステイが明けた後は私たちはプ・リャンスオの家(右の写真)に行き、その後で看護婦の居る市民病院へ行きましたね。塞翁はその時に”看護婦と話を付けた訳”ですな、塞翁中々遣りますな!!
そして、ヘ・チャンリにも何か変わったことが有ったら直ぐ日本に連絡する様に、更に新しい管理人(=看護婦)には定期的にヘ・チャンリと連絡を取り変わったことが起こったら管理人からも日本に連絡する様に依頼して、まあ無事一件落着と相い成った訳です。
因みに、右の写真は左から小渕さん、プ・リャンスオ、李文革君、山村さん、そして小渕さん(妻)です。
塞翁は24日の夜は再び桃源ハウス(=自分の家)に泊まり25日の午前中に私たちと一緒に昆明に帰りました。
(1)ドタバタ劇の味わい
さて、以上のドタバタ劇を見た私の感想ですが、何事も原因が有って結果が引き起こされるものですが、今回の件は何処に原因が在ったか?、という問題は依然残された儘ですね。
最初に私は、事の発端はちと難しいと言いましたが、それは以上の様な事だったのです。直接的な現象としてはプ・リャンスオが”小指”を頻繁に連れて来る様に成ったことですが、しかし原因の一端を作っているのは北山塞翁自身だ、とも言える訳ですね、つまり桃源ハウスを言わば相手を信用した形で長い間放置して居ましたからね。或いは又、文化大革命に原因が在ると言う人も居ますね、文革さえ無かったら今回の主人公プ・リャンスオはそもそも西双版納には来て無かった訳ですからね。という訳で事の発端を一元的に決めるのは難しいのです!!
さてプ・リャンスオはその後どうしたでしょうか。彼は24日の裁きの日、塞翁から問い詰められた時は、興奮して上海語で何やら言い訳めいた言葉をまくし立てたそうですが、早口で誰も解らなかったそうです。ま、事実を認めたのか認めなかったのかは知りませんが、一応”小指”の荷物を引き払って鍵も返却しました。
この男次はどうするか?、と思っていたら25日の朝、「おっはよう!」と言ってヘッチャラな顔して版納賓館の部屋へ入って来ました。そして塞翁には「あのマンションに泊まったりして居るのは自分だけでは無い」と、暗に李君のことを仄めかすことも忘れませんでした。その後私たちが昆明へ発つのを見送りに景洪の空港迄来て居ました。ま、彼としては精一杯の誠意でしょう。
(2)プ・リャンスオにアンコール - えっ、この子だあれ!
さて、左の写真の女性、誰だか判りますか?、中々カワイイ子でしょ、これ、プ・リャンスオの店の子なんですが、只の店員ですかねえ?、怪しいと思いませんか?、旅行で寄る度に女子店員が変わっているのも怪しさに輪を掛けて居ますね、ヘッヘッヘ!
この子は「中国名花集」に登録しました。{このリンクは05年3月24日に追加}
私の診断ではプ・リャンスオの”病気”、あれは直りません、今回の件位では。桃源ハウスを追い出されても、その内に又別の所を見付けるでしょう。
ま、北山塞翁には悪いんですが、この儘終わって仕舞っては、私の様なヤジ馬からすると面白く無い、ブラボーで終わった後、もう一度アンコール(※5)を見たいという気持ちです。そこで最後に今回の主人公プ・リャンスオをカーテンコール(※5-1)に呼び出しましょう、皆さん盛大な拍手で出迎えてください。
よおっ、プ・リャンスオ、待ってました!!
(3)プ・リャンスオ、シャツを着替えて登場!
右の写真の人物が何を隠そう、お騒がせのプ・リャンスオその人です。この写真は21日の晩に皆で再会を祝して宴を張った時のものです。プ・リャンスオの”病気”が発覚するのはこの宴の後で桃源ハウスに移ってからです。
その右の写真が奥さん(小池さんが撮影)で、僅か15分位の間にプ・リャンスオはグレイのチェックの”よれよれ”のシャツからブルーの”しゃん”としたシャツに着替えて奥さんを迎えて居ます。御負けに”よれよれ”で飲んでいるのはコーラです。
プ・リャンスオは資産家の奥さんに気を使っているのが解りますね。奥さんは今のところプ・リャンスオの”病気”には気付いて無い様です。
私は今思っているのですが、この儘すんなり終わらせず、もう一波瀾二波瀾起こす為にも次に景洪を訪れる時には、中国では一般的に普及して居る蛇酒をプ・リャンスオに進呈することにします。蛇酒でガンガン下半身を盛り立てて、最後っ屁の一花を咲かせ更に面白いドタバタ劇を見せて貰いたいのです。冒頭で彼を精力旺盛な好漢と紹介しましたが彼はこの様に文字通り”好ましい漢族”なのです、ブハッハッハッハッハ!!
だから期待を込めて、プ・リャンスオに蛇酒で乾杯!!
(-_@)
プ・リャンスオはどう成るでしょうかねえ。彼は私と波長が合う所が有り、酒なんか飲むと面白いですよ。彼も上海から出て来て雲南で頑張って居る訳ですから。雲南という所は自分がエトランジェ -異邦人(etranger)(※6)- である事を感じさせない文化が在り、又大らかさが有りますね。私は日本に居る時の方が余程エトランジェを感じて仕舞います!
えっ、プ・リャンスオですか?、彼は...逃亡者(runaway)でしょう、ブワッハッハッハ!!
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【脚注】
※1:好漢(こうかん、good fellow, nice guy)は、良い[好い]男。好ましい男。「―惜しむべし」。
※2:文化大革命(ぶんかだいかくめい)とは、1966年に始まる中国の政治・思想・文化闘争。毛沢東・林彪らを主導者とし、直接大衆を組織することに依って、党・行政機関の実権を劉少奇らから奪った。その極左的傾向が弊害を生み、毛沢東の死後、江青ら所謂「四人組」が責任者として逮捕され、77年終了が宣せられた。文革。
※3:今西理論(いまにしりろん)とは、今西錦司が提唱した「棲み分け理論」を指す。
※3-1:棲み分け/住み分け(すみわけ、habitat segregation)とは、[1].〔生〕生活様式が類似する動物の個体又は個体群が、種としては同じ所に棲めるのに、競争などの相互作用の結果、生活の場を空間的又は時間的に分け合う状態で生存する現象。今西錦司・可児藤吉の水生昆虫の研究から生れた概念。近年は植物群落についても言うことが有る。
[2].一般語として、空間的・時間的に互いに生息場所を違える現象を言う。
※3-2:今西錦司(いまにしきんじ)は、生態・人類学者(1902~1992)。京都生れ。京大・岡山大教授、岐阜大学長。野外調査に基づき、生態学の立場から「棲み分け理論」を確立。これを発展させ霊長類の社会構造を解明し、今西進化論を提唱。登山家としても著名。著「生物社会の論理」「人類の誕生」など。文化勲章。
※4:延吉(えんきつ、Yanji)は、中国吉林省東部の都市。延辺朝鮮族自治州の政府所在地。少数民族向けの総合大学である延辺大学が在る。人口35万6千(1995)。
※4-1:佳木斯(ジャムス/チャムス、Jiamusi)は、中国黒竜江省の東部、松花江下流の工業都市。4本の鉄道が交わり、省東部の経済・文化の中心。人口78万6千(1995)。
※5:アンコール(encore)は、(元フランス語で、「なお」「もっと」の意)[1].音楽会で、演奏者が予定の演奏を終了した後、客が拍手や掛け声で追加演奏を求めること。又、それに応えて行う演奏。「―に応える」。
[2].転じて広く、再上演・再上映などの意。
※5-1:カーテンコール(curtain call)は、演劇などの幕切れに喝采して、出演者を再び舞台上に呼び出すこと。
※6:エトランゼ/エトランジェ(etranger[仏])とは、見知らぬ人。外国からの旅行者。異邦人。外国人。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『西双版納 -悠々ロングステイのすすめ-』(北山昌夫編著、三一書房)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):西双版納の地図▼
地図-中国・西双版納(Map of Xishuangbanna, -China-)
@参照ページ(Reference-Page):中国の少数民族▼
資料-中国の55の少数民族(Chinese 55 ETHNIC MINORITIES)
@横顔(Profile):「雲南桃源倶楽部」について▼
雲南桃源倶楽部(Yunnan is Shangri-La)
タイ族の民家にホームステイ▼
2002年・雲南タイ族民家宿泊記(Homestay at Dai's-house, China, 2002)
ヘ・チャンリ(賀長利)の娘さんとプ・リャンスオ(浦良鎖)の店の店員▼
中国名花集-花の写真館(Chinese Flowers)
裁判翌日(02年10月25日)の西双版納空港の様子▼
2002年の景洪ナイト・フィーバー(Jinghong night fever, China, 2002)
中国で一般的な蛇酒▼
中国のヘビーなお食事-”食狗蛇蠍的!”(Chinese heavy meal)
中国の少数民族について▼
外部サイトへ一発リンク!(External links '1-PATSU !')