-- 2011.02.15 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)
2011.03.28 改訂
■はじめに - 2011年の3月場所が八百長騒動で中止に!
前作から約2年半が経って居ます(←前作は2008年10月6日に書き終わった)が、相変わらず「不甲斐無い日本人力士たち」だと思って居たら、2010年頃から今度は角界が八百長騒ぎ(※1)で今大変な状況に成って居ます。そして遂に2011年の3月場所(=大阪場所)が八百長騒動で中止に成りました。この件に関しては▼下の「掲示板のおちゃらけ議論」(←常に「ちゃらけ」て居るから)▼でリアルタイムに議論して居ます。
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
私は八百長に関しては一家言持って居て「おちゃらけ議論」にも投稿してますが、こちらの「激辛論考」にも私の主張を載せたく成ったので、この騒動の最中に急遽私の意見を纏めました。是非お読み下さい。
尚、相撲の歴史や専門用語については
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)
を適宜参照して下さい。特に「相撲の歴史」については、上記ページの「日本の相撲の歴史」の章を、八百長(※1)については「興行と八百長体質」の章を、予(あらかじ)めじっくりと読まれる事を期待します。
■八百長についての私見
(1)相撲とは「そういうもの」
断って置きますが、私は相撲と八百長は”切っても切れない仲”だと思って居ますので八百長を問題視した事は有りません。だから私は八百長問題という言葉は使いません。ところで皆さん、相撲界には「がちんこ」(=本気勝負/真剣勝負)(※1-1)という言葉が在るのをご存知ですか?
裏を返せば「本気で無い勝負」が存在する訳で例えば巡業場所は本場所とは違い力士は本気を出さず怪我しない様に相撲を取るのです。プロ野球にもオープン戦が在りますね。巡業では大抵強い力士が途中で負け、地元の力士に勝たせ「地元のお客さん」に喜んで貰う、興行的にもその方が儲かるからです。
実は八百長の勝負も、これと同じ発想で生まれたのです。お客さんに喜んで貰い興行的にも儲かる、これが八百長の原点です。しかし八百長の勝負をお客に見破られては為りません、そこに八百長の”高度な技”が要求され、相撲は「様式の競技」なのです。
今日の相撲の原型は相撲が好きだった織田信長の安土桃山時代に作られたと考えられて居ます。そして太平・安穏な江戸時代に発展し「武技」から「見せる芸」に変質したのです。それを端的に表しているのが大相撲の「興行」(※2)という言葉です。要はプロレスなどと同じ「見世物」なのです。【脚注】※2を見て下さい、「見世物」と書いて在りますね。大相撲(※2-1)は「相撲興行」と書いて在りますね。私の意見を纏めると次の様に成ります。
八百長は明治初年に始まり「見世物」なので八百長は暗黙の了解事項であり、
相撲とは「そういうもの」、つまり「勝つも負けるも芸の内」
と割り切って見るべきもの。
お客さんに喜んで貰い興行的にも儲かる、これが八百長の原点で
そこに八百長の”高度な技”が要求される。
それを2010~2011年2月頃の八百長騒動が絶頂の時にはテレビが▲上の事▲を理解して無い”自称評論家”共に八百長口撃をさせましたが、全く馬鹿げて居ます。私は寧ろ八百長を楽しもうと思って居ます、但し、余りにも下手な八百長は攻撃(口撃)に値します。
尚、これは飽く迄も私の意見ですので、スポーツ新聞(ネット版)の記事を検索すれば色々面白い話が実名入りで見られますので、八百長については貴方(貴女)自身で判断し、貴方(貴女)自身の意見を持つことをお薦めします。
(2)大衆の心変わり - 無意識の裡に
八百長騒動で日本中が沸いて居た2011年2月に八百長に対する私の考えを掲示板に述べています。この時、例に挙げたのが63連勝中の白鵬が稀勢の里に敗れた試合でした。この試合は八百長の”高度な技”が隠されている試合でした。
実はこの試合にはもう一つの論点が、即ち大衆の心変わりが生じて居る、という事をこのページでは掘り下げて行きます。図式に書くと
<大衆の心変わり - 無意識の裡に>
双葉山の69連勝を白鵬に破って欲しく無い
大衆の判官贔屓(無意識に白鵬はモンゴル人という概念が形成される)
→ 2010年11月15日(九州場所2日目)に
八百長の”高度な技”で稀勢の里が勝利
白鵬は63連勝でストップ
と成ります。面白いのは、そして重要なのは大衆の心変わりであり、大衆は多分2010年9月場所終了時(この時は62連勝中)に判官贔屓(※3、※3-1)からか無意識の裡に「白鵬はモンゴル人である」というメッセージを組み立てて、そして11月場所の前半で”高度な技”を使わなければ69連勝は白鵬に抜かれて仕舞うので、後は「誰が何時決行するか」でした。
この日は博多の飲み屋もこの話題で盛り上がり -実は私は2010年11月15日は博多にいて相撲をホテルのテレビで見ました- 皆「稀勢の里ようやった!」でしたよ、双葉山は大分県宇佐の出身ですから、地元意識も露骨に出て
<意識の転写 - 無意識の裡に>
稀勢の里(日本人) 対 白鵬(モンゴル人)
↓ ↓
双葉山 (日本人) 対 白鵬(モンゴル人)
という戦いに意識の転写が起きる訳です、しかしこれは無意識の裡に行われます。
実際には稀勢の里が白鵬と闘っているのに、何時しか双葉山と白鵬が闘っている様な錯覚に陥るのです。こういう意識の変化は面白いし、特に無意識(=深層心理)の心の動きは研究に値します。皮肉な言い方ですが、稀勢の里は大相撲界に随分”貢献”して居ます。
尚、この一戦の1つ前に大関把瑠都(エストニア出身)が波離間投げ(又は播磨投げ)という超珍しい技で阿覧に勝った一番も見ましたが、「波離間投げ」を見たのは初めてで興奮しました!
ところで日本人の判官贔屓(※3)は中々曲者(くせもの)で、日本人は外国人に対しては無意識に「日本人を弱者の立場」に置いて考える性癖が有るので、上の稀勢の里対白鵬では稀勢の里が弱者の立場に置かれるのです。しかし、これらの心の動きは「常に無意識」に行われますから、日本人は「日本人を弱者の立場」に置くなど全く気付いてないのです。逆に白鵬の側から見ると、普段は日本人もモンゴル人も区別無いばかりか”モンゴル勢頼み”の状態ですが、何かの事で日本人と拮抗すると「日本人では無いモンゴル人」という概念が日本人の頭の中に”無意識の裡”に形成されるのです。ちょっと嫌らしいですね、日本人は。
日本人は人種を実は非常に気にしますね、無意識に意識して居ます。私はそういう日本人の中に居ると逆に自分が異邦人である事を意識して仕舞います、ワッハッハッハ!!
■大関は出世階段の「踊り場」 - ”チンタラ大関”が蔓延る訳
2000~2010年の大関(具体的には武双山/雅山/魁皇/栃東/琴光喜)は誰一人横綱に成って居ません。この間に横綱に成ったのは朝青龍/白鵬のモンゴル勢だけです。正に「不甲斐無い日本人力士たち」で実に情けない、これで日本の国技なんだそうですゾ!!
何故これ程迄に”チンタラ大関”(※4)が蔓延(はびこ)っているのか?、と言えば大関は2場所連続 -以前は3場所連続- して負け越さない限り陥落する事は無いのです。私は前から考えて居たのですが、極端な話
全休/全敗 8勝7敗 全休/全敗 8勝7敗 全休/全敗 8勝7敗
角番 勝ち越し 角番 勝ち越し 角番 勝ち越し
で凌げば1年90日の内24勝すれば地位は安泰なのです、正に”角番大関”の鑑です。それを支えているのが力士社会のごっつぁん道なのです。
しかし、これを実行するのは滅茶勇気が要りますよ。協会から詰問や厳重注意されたり、ファンは怒るし、顰蹙(ひんしゅく)を買うことだけは確実です。でもルール違反では無いのです。要はこれが故意、即ち八百長では無いと論理的に説明出来るか、に掛かって居ます。しかし大関が出世階段の「踊り場」である事は確かで、これが”チンタラ大関”を生むのです。要するに、大関だって給料は良い訳で、あくせく頑張って横綱に成るよりも”角番大関”、”チンタラ大関”、”万年大関”で長く大関を遣る方が良い、というサラリーマン根性がはっきりと見て取れます。まぁ、その気持ちも解ります、横綱に成ったら責任の重さが大関とは全然違いますから!
■相撲の歴史
「日本の相撲の歴史」については参照ページの「資料-日本の相撲の歴史と仕来たり」の「日本の相撲の歴史」の章を良く読んで下さい。
ですが、簡単に要点を纏めると以下の様に成ります。高句麗(※5)の壁画古墳(中国吉林省集安市、角觝墓は5世紀中頃(△1のp52)) -壁画古墳というと日本では高松塚古墳が名高いですが、高松塚は高句麗壁画古墳の様式で作られて居ます- の壁画には現在の相撲のスタイルに酷似した絵が描かれ、相撲の源流と伝来経路を考える上で大変興味深い存在です。
集安市の角觝図(※5-1)と秦の墳墓から出土した篦(へら)の柄の角觝図を前掲ページに載せて在ります。又、私が2007年7月末に集安市を訪れた際に撮影した禹山貴族墓群の角觝図もご覧下さい。
中国では角觝は秦の時代(前221~前206年)に流行ったそうで、力士は西域胡人(=イラン人や匈奴など)と書いて在ります(△2のp93)。角觝図から角觝には行司が居ることから、角觝が日本の相撲のルーツと考えられて居ます。角觝は前200~前100年頃には日本に伝来していた可能性が有ります、何しろ徐福(※6~※6-2)が秦の始皇帝の命令で日本に来たという伝説が各地に在りますから、もうこの頃には中国と日本は人の行き来が在ったと考えられます。因みに徐福は日本では、どちらかと言えば伝説上の人物ですが中国では『史記』に出て来るので歴史上の方士や道士(※6-1)と考えられます。但し『史記』では中国の「東の海上の島」(△3のp246、△3-1のp164)と在るだけで「日本に来た」とは書いてません。
角觝に影響を与えたスポーツとしては、西アジア/中央アジアのレスリングからモンゴル辺りのモンゴル相撲、更に韓国相撲のシルムなどが浮かび上がり、関連性を辿るとシルクロードを経てオリンピック発祥地ギリシャに連なりそうです。
一方、日本では『日本書紀』が垂仁天皇7年7月(←私は4世紀前半と考えます(△4のp27))の条に、当麻蹶速(※7)と野見宿禰(※7-1)が決闘をし「即ち当麻蹶速と野見宿禰と捔力(すまひと)らしむ。二人相対ひて立つ。各足を挙げて相蹶(ふ)む。即ち当麻蹶速が脇骨を蹶み折く。亦其の腰を踏み折きて殺しつ。故、当麻蹶速の地を奪りて、悉に野見宿禰に賜ふ。」と記し(△5のp32~34)、捔力(=角力(※5-1))は相撲の事です。垂仁天皇の前で行われた御前仕合は格闘技の究極である命懸けの決闘(△1のp14)でした。元来、格闘技は「暴力性」を内に秘めて居るのであって”お嬢さんのママゴト”とは訳が違うと私は考えます(←最近は女性が強く成ったので”草食系お兄さんの「おママゴト」”と言い換える必要が有るかも)。ですから上記の神話も中々荒っぽいのです。
この記述から4世紀前半、即ち300~350年には相撲は日本にすっかり定着して居ます(←角觝の伝来は前200~前100年頃と思ってます)。因みに野見宿禰は出雲族(△5のp32)で、上記の逸話から相撲の祖とされ、更に埴輪に制(=殉死を止め埴輪に換えた)を作り土師氏の祖とされて居ます。
古代の相撲は土俵が無い為に投げ技とか潰し技が中心でレスリングやモンゴル相撲に近い形態でした(△6のp17~18)。土俵が出来たのは織田信長の安土桃山時代と考えられて居ます。信長は大変相撲が好きで力士を集め度々上覧相撲大会を安土で催して居ます(△7のp103・241・249・323・354)が、この時に今日の相撲の原型が作られたと私は考えて居ます。
後は皆さんも馴染みの有る近世・現代の相撲に連なる訳です。この続きは「資料-日本の相撲の歴史と仕来たり」の近世以降を読んで下さい。
■2011年の3.11に因って八百長騒ぎは吹っ飛ぶ
2008年に「不甲斐無い日本人力士たち」を発表しましたが、これは2007年に始まった朝青龍バッシング(朝青龍叩き)に対する反論でした。ところが2010年頃から角界が八百長騒ぎで何人かの力士が発覚し廃業させられ更にNHKが生中継中止 -大相撲の放映権料は1場所で4億とも5億とも言われて居る様に日本相撲協会にとっては非常に痛い!- を決め大変な状態に成り、遂に2011年春場所(大阪場所:3月13日(日)~27日(日))が中止という前代未聞な状況に陥ったのです。
ところが中止の発表の約1ヶ月後の同年3月11日14時46分頃に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災) -これを当時は3.11と呼んだ- が発生し、相撲など娯楽の話題を完全に吹き飛ばして仕舞いました、何しろ地震(←未だ余震が在る)、津波に原子力発電所の事故ですから。東日本大震災に関しては「資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)」をお読み下さい。
あれだけ騒いだ八百長騒ぎでしたが、大震災の所為で日本相撲協会の改革論議は消滅、全て元の木阿弥、相撲の状況は何一つ変わらずです。いやはや、ブ~ー!
(>v<)
「いやはや」は私が呆れた時に発する声ですが、今回は「ブ~ー!」とオナラが漏れて仕舞いましたが、この様に言い難い事を「敢えて言う」のは当サイトの重要なコンセプトの一つですゾ!!
{この章は2011年3月11日に追加、2011年3月28日に最終更新}
■結び - 野球界も大相撲も3.11で大混乱
当ページは3.11(東日本大震災)を跨いで作成されました。まぁ、色々有りましたが最後はウンコボーイに登場して貰いましょう。ウンコボーイも大分有名に成りましたね。この小さいウンコボーイをクリックすると大きなウンコボーイが現れます、臭(くさ)いですよ!
今は3.11の大震災と津波と原発事故で日本中は大混乱して居ます。野球界もナベツネが大混乱に乗じて横槍を入れて居ます。大相撲は先程述べた通り、八百長騒ぎも改革論議も何処かへ吹っ飛び、日本相撲協会は密かに胸を撫で下ろして居るかも知れませんゾ、ブ~ー!、ブ~ー!!
それでは、皆さん、命だけは大切に。これにてケツ礼、いや失礼!!
{この章は2011年3月22日に追加、2011年3月28日に最終更新}
尚、[エルニーニョの相撲藪睨み]シリーズの他画面への切り換えは最下行のページ・セレクタで行って下さい。(Please switch the page by page selector of the last-line.)
【脚注】
※1:八百長(やおちょう)は、(明治初年、通称「八百長」と呼ばれた八百屋が、相撲の年寄某との碁の手合せで、勝つ力を持ち乍ら常に1勝1敗に成る様にあしらって居た事に起ると言う)
[1].fixed game。相撲や各種の競技などで、一方が前以て負ける約束をして置いて、上辺だけの勝負を争うこと。馴れ合い勝負。「―試合」。
[2].rigged affair。転じて、内々示し合わせて置いて、馴れ合いで事を運ぶこと。「質疑応答で―をする」。
※1-1:「がちんこ/かちんこ」は、相撲で、本気勝負、真剣勝負。広く、正面から本気で対決する事にも言う。
※2:興行(こうぎょう、performance)とは、客を集め、入場料を取って演劇・音曲・相撲・映画・見世物などを催すこと。「顔見世―」。
※2-1:大相撲(おおずもう)は、[1].一流の力士。大きな力士。
[2].盛大な相撲の興行。特に、日本相撲協会に依って行われる相撲興行。
[3].力の籠もった、見応えの有る相撲の取組。
※3:判官贔屓(ほうがんびいき/はんがんびいき)は、検非違使尉(けびいしのじょう)即ち判官であった源義経を薄命な英雄として愛惜し同情すること。転じて、弱者に対する第三者の同情や贔屓。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※3-1:判官(ほうがん/はんがん/じょう/ぞう/まつりごとひと)は、[1].(じょう、「丞(じょう)」の音から)律令制の四等官の第3位。次官(すけ)の下、主典(さかん)の上に位する。事務上の過誤の摘発、公文書の審査、宿直の割当てなどを担当。官司に依って文字を異にし、神祇官では「祐」、太政官では「少納言」「弁」、省では「丞」、弾正台では「忠」、使では「判官」、職・坊では「進」、寮では「允」、司では「佑」、近衛府では「将監」、衛門府・兵衛府・検非違使などでは「尉」、内侍司では「掌侍」、大宰府では「監」、鎮守府では「軍監」、国では「掾」(大国では大少の別在り)、郡では「主政」と記す。検非違使の尉は単に判官とも言う。
[2].(検非違使の尉(判官)であったから言う)源義経の称。
[3].遊里で、大尽(だいじん)客のこと。
※4:「チンタラ/ちんたら」とは、遣る気無く、鈍々(のろのろ)と事を行う様。「―歩くな」。
補足すると、この語は故意に鈍く遅い動作を指す場合が多い。
※5:高句麗・高勾麗(こうくり、Koguryo)は、古代朝鮮の国名(0頃~668)。三国の一。紀元前後、ツングース系の朱蒙の建国と言う。中国東北地方の南東部から朝鮮北部に渡り、4~5世紀広開土王・長寿王の時に全盛。都は209年より集安の丸都城、427年以来平壌。唐の高宗に滅ぼされた。中国東北部に移された高句麗の遺民は後に渤海国を建てた。故都集安や平壌に壁画古墳を残し、遼寧省や集安に古代山城を残す。高麗(こま)。<出典:一部「学研新世紀ビジュアル百科辞典」より>
※5-1:角觝/角抵(かくてい)とは、角力(すもう)。力競べ。
※6:徐福(じょふく)/徐芾(じょふつ)は、秦の始皇帝の命で、東海の三神山に不死の仙薬を求めたという方士。徐福は「史記」の「淮南衡山列伝」に、徐芾は「始皇本紀」に出て来て、同一人物と考えられる。日本の伝説では、渡来し熊野、或いは富士山に定住したと伝える。
※6-1:方士(ほうし/ほうじ、wizard)とは、神仙の術、即ち方術を行う人。仙人。道士。今昔物語集10「―と云ふは蓬莱に行く人を云ふなり」。
※6-2:三神山(さんしんざん)とは、[1].中国で、東方絶海の中央に在って、仙人の住むと伝えられた、蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)の3山の総称。三山。三島。
[2].日本で、富士・熊野・熱田の3山。祝賀の画題とする。
※7:当麻蹶速/当麻蹴速(たいまのけはや/たぎまのくはや)は、伝承では垂仁天皇時代の人。相撲(角力)の祖とされる。大和国当麻に住み、強力を誇ったが、垂仁天皇の命に拠り出雲の野見宿禰と力を競べ、腰を蹴折られ殺されたと言う。
※7-1:野見宿禰(のみのすくね)は、天穂日命の子孫。日本書紀に、出雲の勇士(いさみびと)で、垂仁天皇の命に拠り当麻蹶速(たいまのけはや)と相撲(角力)を取って勝ち、朝廷に仕えたと在り、又、皇后・日葉酢媛の葬儀の時、殉死に替えて埴輪の制を案出し土師臣(はじのおみ)の姓(かばね)を与えられたと言う。
(以上、出典は主に広辞苑です)
【参考文献】
△1:『図説 スポーツ史』(寒川恒夫編、朝倉書店)。
△2:『集安高句麗壁画』(吴广孝著、山東画報出版社)。
△3:『史記列伝(四)』(司馬遷著、小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳、岩波文庫)。
△3-1:『史記1 本紀』(司馬遷著、小竹文夫・小竹武夫訳、ちくま学芸文庫)。
△4:『相撲の誕生』(長谷川明著、新潮選書)。
△5:『日本書紀(二)』(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注、岩波文庫)。
△6:『日本の相撲』(谷川徹三・笠置山勝一著、鰭崎英朋画、ベースボール・マガジン社)。
△7:『信長公記』(太田牛一著、奥野高広・岩沢愿彦校注、角川文庫)。
●関連リンク
@参照ページ(Reference-Page):独自性や先見性は
当サイトの重要なコンセプト▼
当サイトのコンセプトについて(The Concept of this site)
@参照ページ(Reference-Page):「相撲の歴史と仕来たり」や
八百長相撲について▼
資料-日本の相撲の歴史と仕来たり(History and custom of Sumo in Japan)
@参照ページ(Reference-Page):東北地方太平洋沖地震
(東日本大震災)について▼
資料-地震の用語集(Glossary of Earthquake)
@参照ページ(Reference-Page):ウンコボーイとは▼
ウンコボーイ(Unko-boy)
@補完ページ(Complementary):2010~2011年の八百長騒動や
八百長の”高度の技”や、2011年の3.11の地震▼
エルニーニョの打っ棄り的相撲論議(ElNino's throw away Sumo discussion)
判官贔屓について▼
日本産アヒルと米国産白鳥(Japanese duck and American swan)
日本人の中に居ると異邦人を意識して仕舞う私▼
プ・リャンスオに蛇酒を捧ぐ(Snake liquor to Pu Liangsuo, China)
集安市の高句麗壁画古墳▼
中国の新少数民族か?、ラ族(裸族)
(Is a new minority of China ?, 'Luo zu')
格闘技は「暴力性」を内に秘めて居る▼
ブラボー!、乱闘試合(Bravo !, combative match)
野見宿禰と土師氏について▼
2005年・空から大阪の古墳巡り(Flight tour of TUMULI, Osaka, 2005)
「元の木阿弥(旧の木阿弥)」について▼
大和筒井城(Ruins of Tsutsui castle, Nara)
3.11の大混乱に乗じてナベツネが横槍を入れる野球界▼
大震災後のプロ野球開幕にナベツネの横暴
(Tyranny of NABETSUNE to open pro-baseball, after the great earthquake)