§.人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち|補遺
[女義太夫と漱石、浄瑠璃と夫婦善哉]
(The BUNRAKU is Japanese puppet show, SUP.)

−− 2006.04.07 エルニーニョ深沢(ElNino Fukazawa)

 ■女義太夫と漱石
 ★このページは本論(Main-issue)
  人形浄瑠璃「文楽」の成り立ち(The BUNRAKU is Japanese puppet show)
補遺ページ(Supplement-Page)です。

 この補遺ページに於いて、漱石の『三四郎』や書簡に現れる女義太夫や、オダサクの小説『夫婦善哉』に現れる浄瑠璃や店「夫婦善哉」について、私の思い出も交えて綴って行きます。気楽な気持ちでお読み下さい。

 (1)女義太夫の昇之助と小説『三四郎』
 『三四郎』明治41(1908)年に朝日新聞に連載された小説で、主人公の小川三四郎(△1のp10)は東京帝国大学の学生という設定で、漱石の学生時代の追想も何処かに入っている筈です。尚、この当時の東京帝国大学は秋入学(=9月に入学し7月に卒業)で『三四郎』にも「学年は9月11日に始まった。」と書かれて居ます(△1のp34)。
 『三四郎』の中に女義太夫(=娘義太夫)(※1)に触れた箇所が在ります。即ち「あくる日も例刻に学校へ行って講義を聞いた。講義の間にことしの卒業生がどこそこへいくらで売れたという話を耳にした。だれとだれがまだ残っていて、それがある官立学校の地位を競争しているうわさだなどと話しているものがあった。三四郎は漠然と、未来が遠くから眼前に押し寄せるような鈍い圧迫を感じたが、それはすぐに忘れてしまった。むしろ昇之助がなんとかしたというほうの話がおもしろかった。そこで廊下で熊本出の同級生をつかまえて、昇之助とはなんだと聞いたら、寄席へ出る娘義太夫と教えてくれた。それから寄席の看板はこんなもので、本郷のどこにあるという事まで言って聞かせた上、今度の土曜にいっしょに行こうと誘ってくれた。よく知ってると思ったら、この男はゆうべ始めて、寄席へはいったのだそうだ。三四郎はなんだか寄席へ行って昇之助が見たくなった。と在ります(△1のp39)。小説には昇之助が見たくなった。」と書かれて居ますが、残念乍ら「昇之助を見た」場面は出て来ません。

 『三四郎』が書かれた頃は女義太夫(娘義太夫)が最盛期で、寄席には三四郎と同じく書生(※2)や工員などの若い男たちが出掛け、節回しの良い所へ来ると「どうする、どうする」と囃し立て「どうする連」(※1−1)と呼ばれました。寄席は本郷には若竹が在りました。何でも、蝋燭の灯りに照らされた太夫と目が合うと狂喜し、熱演する太夫の日本髪が乱れると興奮し、簪(かんざし)が落ちると先を争って拾った」のです(水野悠子著『知られざる芸能史 娘義太夫』より)。「軟弱な」とお思いでしょうが、今のアイドルを追っ掛ける熱狂的ファン(fan)と全く同じです。
 しかし当時は照明は「蝋燭の灯り」だったのですねえ。今の様に電気の照明では無く、暗い「蝋燭の灯り」のゆらゆら揺れる灯りは確かに名状し難いエロティシズム(eroticism)が有ります。解ります解ります蝋燭の照明は、ストリップで見ましたから、ブワッハッハッハ!!

    ◆豊竹昇菊と男装の昇之助は姉妹
 昇之助と書かれて居るのは豊竹昇之助のことで、明治23(1890)年に大阪生まれで、9歳の時に姉の豊竹昇菊(4歳年上)と共に女義太夫に成り、大阪で父の経営する寄席に出演したのが始まりです。その後、明治34(1901)年に上京してからは”散切り頭”の男装(※3)で寄席へ出演し話題を呼びました。慶応3(1867)年生まれの漱石より23歳年下、『三四郎』が書かれた1908年には漱石41歳、昇之助18歳 −女として最高の歳!− で、三四郎が昇之助が見たくなった。」と言ったのも肯けます。尤も昇之助は男装ですから「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」の言葉通りの文明開化の象徴でも在ったのです。姉の昇菊も女義太夫の華と謳われました。でも作者漱石は41歳ですから、少し覚めて居ます。
 志賀直哉(1883〜1971年)も昇之助のファンで、志賀はこの時25歳です。嘸(さぞ)や、若きハートを焦がしたのでしょう、ムッフッフ!
                (-_@)

 (2)女義太夫の鶴蝶 − 明治23(1890)年正月の子規宛書簡
 正岡子規宛の手紙に鶴蝶という女義太夫が出て来ます。「牛込区喜久井町1番地より松山市湊町4丁目16番戸正岡常規へ(正岡子規『筆まかせ』より)」と在り、「...<前略>...当年の正月は不相変(あいかわらず)雑煮を食ひ寐てくらし候寄席へは5、6回程参りかるたは2返取り候一日神田の小川亭と申にて鶴蝶と申女義太夫を聞き女子にてもかゝる掘り出し物あるやと愚兄と共に大感心そこで愚兄余に云ふ様「芸がよいと顔迄よく見える」と其当否は君の御批判を願ひます...<後略>...」という内容です(△2のp14)。尚、常規は子規の本名。『筆まかせ』は子規の随筆集「明治22、3年頃の漱石の子規宛書簡はこれに書き写されて保存された」と注に在ります(△2のp897)。鶴蝶とは鶴沢鶴蝶のことで、この頃中堅の太夫です。この時は漱石は未だ満22歳だったので入れ込んだでしょう(←漱石は29歳の時(1896年)に結婚して居ます)。
 因みに、子規は都(みやこ)を、高浜虚子は小土佐(ことさ)という、何れも女義太夫に熱を上げていました。要は人間、スケベ(助兵衛)では文士も工員も書生 −書生は”吾輩”が一番嫌っていた種族でしたね(△3のp5)− も変わりないのです。文士を持ち上げたりせず、漱石や志賀直哉や子規や虚子など名立たる文士たちが女義太夫の尻を「どうする、どうする」なんて言い乍ら追っ掛け回す話を作れそうですね、ワッハッハッハ!!

 1900年頃、女義太夫(娘義太夫)はピークを迎えました、正にブーム(boom)と言って良いでしょう。人気は大正時代迄続きますが大正12(1923)年の関東大震災に因って急速に衰退しました。

 ■浄瑠璃と夫婦善哉
 (1)浄瑠璃と織田作之助の小説『夫婦善哉』
 大阪の人に「おださく/オダサク/織田作」と言われ親しまれた織田作之助(※4)の小説『夫婦善哉』昭和15(1940)年の作です(△4のp218)。主人公の蝶子は小学校を終えると女中奉公に出され17の時に芸者に成りましたが、馴染みの安化粧品問屋の息子・維康柳吉 −吃りで女房も子供(4歳)も在る31歳の男− に引っ掛かり(△4のp11)、以後は金銭的に苦労をし、蝶子はヤトナ芸者(※5、臨時雇いの芸者)、関東煮屋、果物屋などの商売で生計を立てて行かなくては為りませんでした。蝶子が商売で苦労しているのに、ボンボン育ちの柳吉は浄瑠璃の稽古を始めます(△4のp26)。『曾根崎心中』の様に浄瑠璃に出て来る男は何れも”どうしようも無く”描かれますね。
 最後の商売はカフェ「サロン蝶柳」 −蝶柳は二人の名から一文字ずつ取る− で、4歳だった柳吉の子はもう女学生に成って居ました(←母親は「父親を悪い女に奪(と)られた」と言って既に死亡、△4のp50)。或る日、女学生が柳吉(=父)の所へ「お祖父(じい)さんの病気が悪い、直ぐ来て下さい」と言ったので柳吉だけが父の最期の枕元に行くと蝶子はガスで自殺を図りましたが、柳吉が帰って来たので間一髪セーフ、新聞には「日陰者自殺を図る」などと書かれました。
 そして法善寺境内の「めおとぜんざい」に行き善哉を食べに二人で行くのです(→後出)。最後は「蝶子と柳吉はやがて浄瑠璃に凝り出した。二ツ井戸天牛書店の2階広間で開かれた素義大会で、柳吉は蝶子の三味線で「太十」を語り、2等賞を貰った。景品の大きな座蒲団は蝶子が毎日使った。」という文章で終わって居ます(△4のp52)。蝶子は若い頃は芸者だったので三味線は達者でした。
 ここで太十(たいじゅう)(※6)と言っているのは浄瑠璃『絵本太功記』(※6−1)の10段目「尼ヶ崎の段」の略称です。これは『絵本太閤記』(※6−2)という読本(よみほん)(※6−3) −江戸時代中期〜後期の小説− を基にして居ます。

    ◆浄瑠璃「太十」 − 『絵本太功記』の10段目「尼ヶ崎の段」
 それでは「太十」を少しだけ紹介しましょう。その前に歴史上の人物は「読み替え」が有ります、でもお客は解って居るのです。例えば『仮名手本忠臣蔵』では大石内蔵助を大星由良之助に読み替えた様に。
  織田信長 − 春長
  明智光秀 − 武智
  羽柴秀吉 − 久吉
 こうして置かないとヤバイのですゾ。

 「御法(みのり)の声もなまめきし。尼が崎の片辺り。誰住家と夕顔も。おのが儘なる軒のつま。傍(あた)り近所の百性共。茶碗片手に高咄し。「なふ婆様。こな様も見た所が。上方で歴々のお衆そふなが。何の為に面白ふもない。此在所へはござつたぞいの。」「アヽコレ/\甚作そりや云やんな。京の町は武智と云悪人が。春長様を殺して大騒動。大かた又下へ下つて居やしやる。久吉殿が戻つて来て。武智と是非に一合戦なけりやすまぬわいのふ。」「ハヽアそんなら年寄はうか/\京の町には居られぬ。兎角あぶなげのない様に。こんな在所へ来て居るが大でき/\。時に近付がてら。妙見講を勤るとはよい手廻し。大きな馳走に逢ました。是から随分お互にお心安ふいたしませふ。」「サア/\逝(いの)ふ」と口々に。云たい事をたくしかけ。しやべり廻つて帰りける。
    (広辞苑より)」

    ◆天牛書店
 ところで天牛書店という名前が出て来ましたが、これは今でも在る古本屋で、私が知って居るのは中央区日本橋と北区天神橋筋商店街の店です。特に日本橋の店はチャリンコで5分位なので良く行きます。二ツ井戸店の2階には大広間が在り、ここで素人浄瑠璃大会などを開いて居ましたが大阪空襲で焼失しました。天牛というのはカミキリムシ(髪切虫/天牛)の事だとばっかり思って居ましたが、これは苗字で天牛新一郎という人が明治40(1907)年に二ツ井戸店を創業しました。天牛書店に通った文人は折口信夫/武田麟太郎/司馬遼太郎などが居ます。
                (-_*)

 (2)法善寺横丁の店「夫婦善哉」
 小説『夫婦善哉』では蝶子と柳吉が店「めおとぜんざい」に夫婦善哉を食べに行く場面が最後に出て来ます。
 「柳吉は「どや、なんぞ、う、う、うまいもん食いに行こか」と蝶子を誘った。法善寺境内の「めおとぜんざい」へ行った。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に当っているところに古びた阿多福人形が据えられ、その前に「めおとぜんざい」と書いた赤い大提燈がぶら下っているのを見ると、しみじみと夫婦で行く店らしかった。...<中略>...「こ、こ、ここの善哉はなんで、二、二、二杯ずつ持って来よるか知ってるか、知らんやろ。こら昔何とか太夫ちゅう浄瑠璃のお師匠はんがひらいた店でな、一杯山盛にするより、ちょっとずつ二杯にする方が沢山はいってるように見えるやろ、そこをうまいこと考えよったのや」」と語る場面が在ります(△4のp52)。
 その通りです。初め「お福」という店を創業したのは明治16(1883)年竹本琴太夫(本名:木文字重兵衛)という浄瑠璃の太夫 −竹本は義太夫節の太夫の姓(※1−2)− です。そして「二杯にする方が沢山入ってる様に見える」盛り方が客に受けたので店の名を「夫婦善哉」にしたのです。現在、お多福人形(※7、※7−1)を飾ってあるのは「お福」時代の縁起担ぎです。このお多福人形は、何でも創業者の木文字重兵衛が千日前の古道具屋で見付け、アメリカ人に買い取られそうに成ったのを大金を叩(はた)いて手に入れたそうです。

    ◆「かめ」は重兵衛の娘の名 − おかめひょっとこ
 ところで、お多福は下膨れの醜い女性を言い「お福」とか「おかめ(お亀)」(※7−1、※7−2)とも言いますが、重兵衛が死んだ後で店を継いだのは何と娘の「かめ」なのです。重兵衛の娘が美人か不美人かを私が知る由も有りませんが、実に面白いですね。
 醜い女の「おかめ(お亀)」は、やはり醜男の「ひょっとこ」(※7−3)とペアで「おかめひょっとこ」(※7−2)などと呼ばれます。「おかめ」や「ひょっとこ」は神楽面(※7−4)に在りますが、元々は狂言面(※7−5)で「おかめ」は乙(おと)(※7−6、△5のp87)が、「ひょっとこ」は空吹(うそぶき)(※7−7、△5のp85、88)が転化したものです。
                (*_@)

 小説『夫婦善哉』は店「夫婦善哉」の売り上げにも貢献しました。店「夫婦善哉」は今も「二杯にする方が沢山入ってる様に見える」盛り方で繁盛し、更に多角経営で儲けて居ます。後は皆さんの方が良くご存知でしょう。

 (3)今の法善寺横丁
 今では法善寺界隈を法善寺横丁と呼びます。横丁(※8)の狭い路地には苔むした水掛け不動が在り不動尊に水を掛けると御利益が有るそうで、大抵誰かが水を掛けていて庶民的な雰囲気が有ります。

    ◆藤島桓夫の『月の法善寺横丁』は今でも覚えている
 法善寺横丁と言えば『月の法善寺横丁』(作詞:十二村哲、作曲:飯田景応、歌:藤島桓夫、1960年)が流行りましたね。1960年と言うと私が小学5年の時です。藤島桓夫のやわらかい大阪弁を今でも覚えて居ます。1番の歌詞は次の通りです。

  ♪包丁一本 さらしに巻いて 旅に出るのも 板場の修業
    待っててこいさん 哀しいだろが
     ああ若い二人の 思い出にじむ法善寺 月も未練な十三夜♪

 この時は未だ横浜なので法善寺横丁がどんな所か全く知りませんでしたが、何と無く歌詞からイメージして居ましたね。そして「こいさん」(※9、※9−1)という言葉が何とも言えません。この歌の台詞も良いですね。最近の歌にはこの様な情緒が有りません。
                (-_*)

 この横丁には「おでん屋」や「にしむら」という土佐料理の店 −ここの鰹の敲きと司牡丹は最高!− などが在って大阪で一番好きな場所でしたが、2002年に火災に遭ってから −私も小額ではありますが義捐金で御見舞いしました− は贔屓にしていた「にしむら」も無くなり、法善寺横丁の雰囲気が大分変わって仕舞ったので、法善寺横丁とは徒歩で15分の所に住んで居ますが今の私は行かなく成りました。

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−−− 以上 −−−

【脚注】
※1:女義太夫(おんなぎだゆう)は、女の語る義太夫節。又、女の義太夫語り。通常は太夫1名、三味線1名。特に年若い女の語る義太夫を娘義太夫と言った。天保(1830〜1844)年間より流行し、明治後半期に最全盛を謳われ、若い男たちに「どうする、どうする」と持て囃された。大正12(1923)年関東大震災で流行は衰退。竹本綾之助/豊竹呂昇らが知られる。女義太、女義。→どうする連
※1−1:どうする連(どうするれん)とは、女芸人を贔屓(ひいき)にして足繁く通う連中の称。明治時代、東京で娘義太夫を聞きに通う連中が、節回しの良い所で、「どうする、どうする」と叫んだのに起る。
※1−2:竹本(たけもと)とは、[1].(竹本義太夫から)義太夫節の太夫の芸姓の一
 [2].義太夫節の別称。
 [3].歌舞伎に出演する義太夫節演奏者の総称。チョボ。

※2:書生(しょせい)とは、この場合、student。学業を勉強する時期に在る者。学生明治/大正頃の用法

※3:散切り(ざんぎり、cropped head)とは、[1].髪を剃りもせず結びもせず切り下げた儘にして置くこと。
 [2].元結(もとゆい)を結ばず、髪を散らした儘にして置くこと。明治初年に流行し、半髪/総髪に対して、文明開化の象徴とされた。散切り頭。「―を叩いてみれば文明開化の音がする」。→散髪脱刀令。
 [3].(髪を散切りにさせられていたので言う)江戸時代、非人の俗称。

※4:織田作之助(おださくのすけ)は、小説家(1913〜1947)。大阪市生れ。大阪庶民の風俗を描いた「夫婦善哉(めおとぜんざい)」で認められ、戦後、私小説を否定して「可能性の文学」を唱道。「土曜夫人」「西鶴新論」など。

※5:雇女(やとな)とは、(「やといおんな」の意)京阪地方で、臨時に雇い入れる仲居の女。雇われ仲居。

※6:太十(たいじゅう)とは、浄瑠璃「絵本太功記」の10段目「尼ヶ崎の段」の略称。又、歌舞伎での同場面の通称。
※6−1:絵本太功記(えほんたいこうき)は、浄瑠璃の一。近松柳、他合作の時代物。1799年(寛政11)初演「絵本太閤記」などに基づき、明智(武智)光秀の叛逆を中心に秀吉(真柴久吉)を絡ませて、全13日の話を1日1段に構成。10段目「尼ヶ崎の段」「太十(たいじゅう)」と呼ばれて有名。後に歌舞伎化。
※6−2:絵本太閤記(えほんたいこうき)は、読本(よみほん)。7編84冊。武内確斎作、岡田玉山画。1797〜1802年(寛政9〜享和2)成る。太閤記物の一つとして広く読まれたが、1804年(文化1)絶版を命ぜられた。
※6−3:読本(よみほん/よみぼん)は、この場合、江戸中期〜後期の小説の一種。体裁は、大部分は半紙本、他に大本/中本のものも在る。5〜6巻を1編とし、各巻に口絵及び数葉の挿絵が在る。空想的な構成、複雑な筋を興味の中心としたものが多く、仏教的因果応報/道徳的教訓などを内容とする。寛延(1748〜1751)/宝暦(1751〜1764)の頃から行われ、上田秋成山東京伝滝沢馬琴らが代表的な作者。「雨月物語」(秋成)、「桜姫全伝曙草紙」(京伝)、「南総里見八犬伝」(馬琴)の類。

※7:お多福(おたふく、plain woman)は、[1].神楽面のお多福面(←狂言面の乙(おと)が転化)。
 [2].お多福面に似た、醜い顔の女。又、女性を罵って言う語おかめ(お亀)
※7−1:お多福面(おたふくめん)は、丸顔で、額が高く、頬が膨れ、鼻の低い、醜い女の仮面(←狂言面の乙(おと)が転化)。お福おかめ(お亀)
※7−2:お亀/阿亀(おかめ)とは、[1].神楽面のお多福の仮面(←狂言面の乙(おと)が転化)。
 [2].お多福の面に似た顔の女。醜い女を嘲って言う語「おかめひょっとこ」
 [3].お亀蕎麦の略。
※7−3:「ひょっとこ」は、(ヒヲトコ(火男)の転と言う。火を吹く時の顔付きからか)
 [1].distorted male mask。神楽面の片目が小さく口の尖った男の滑稽な仮面(←狂言面の空吹(うそぶき)が転化)。潮吹面。又、その仮面を被って踊る滑稽な踊り。浮世床初「赤熊(しゃぐま)で面をかぶつて、―を踊つて貰はあす」。
 [2].ugly face。男子を罵って言う語
※7−4:神楽面(かぐらめん、kagura mask)は、里神楽に使う仮面。素戔嗚尊/日本武尊/天狗おかめひょっとこ等。
※7−5:狂言面(きょうげんめん、Noh farce mask)は、狂言の仮面。老人/醜女の役、及び神/霊/鬼/閻魔(えんま)/動物などの役に用いる。約20種在り、主な物は祖父(おおじ)/乙(おと)/空吹(うそぶき)/嘯(うそふき)/賢徳(けんとく)/武悪(ぶあく)/猿など。→能面
※7−6:弟/乙(おと)とは、この場合、(「落す」「劣る」のオトと同源)狂言面の一。若い醜女の面(←神楽面の「おかめ」の原形)だが、瓢(ふくべ)の神/蛤(はまぐり)の精などにも用いる。
※7−7:嘯/空吹(うそふき/うそぶき)とは、狂言面の一。嘯(うそぶ)く様に口を突き出した面。蚊の精/案山子(かかし)などに用いる。神楽面のひょっとこ(火男)面の原形。

※8:横丁/横町(よこちょう、side alley)は、表通りから横へ入った町筋。よこまち(横町)。「―のたばこ屋」。

※9:「こいさん」とは、(「小いとさん」の意)関西地方で、良家の末の娘を敬愛して呼ぶ語。
※9−1:「いとさん」とは、(上方語)良家の女児/娘の敬称。お嬢さま。いとさま。浮世風呂2「お家さんの傍に立つています―を見イな」。

    (以上、出典は主に広辞苑です)

【参考文献】
△1:『三四郎』(夏目漱石作、岩波文庫)。

△2:『漱石全集 第14巻(書簡集)』(夏目漱石著、岩波書店)。

△3:『吾輩は猫である(上)』(夏目漱石作、岩波文庫)。

△4:『夫婦善哉』(織田作之助著、新潮文庫)。

△5:『日本の美術5 能狂言面』(金子良運編、至文堂)。


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