3月のアクセス解析
先月に続いて「メビウスの輪としての言葉」がよく読まれた。理由はよくわからない。残念ながら、そこに埋め込んであるリンク先の文章は読まれていない。
『風街図鑑』の急上昇は松本隆先生のRTのおかげ。インフルエンサーの力に驚かされた。
「浅野すずを探して」は自分でも気に入っている文章なのでランク入りはうれしい。
トータルのアクセス数は月を追って漸減している。それは構わない。
13位にいる『親と死別した子どもたちへ』の感想が同書の翻訳に携わったNPO、Egg Tree HouseのFACEBOOKで紹介されている。気づいてくれる人もいる。ありがたい。
多くの人に読んでもらいたい文章もあれば、共感してもらえる人にだけ読んでもらえれば、十分うれしい文章もある。
#名刺代わりの小説10選
新年度なので、自己紹介代わりにTwitterのタグから。
ブクログ:小説
#名刺代わりのエッセイ10選
昨日に続いて自己紹介。エッセイ篇。
ブクログ:エッセイ
『背教者ユリアヌス』、参考図書
『背教者ユリアヌス』を読むにあたり、4世紀のローマ帝国を想像できるように、関連した内容の図鑑を何冊か図書館で借りてきた。
競技場、城砦、神殿、住居、服装、兵隊、武器、馬車、食事、浴場、それから地図。
そういうものは、写真が豊富な図鑑を見るとよくわかる。子ども向けの絵本でも、建物や暮らしぶりを想像する参考になる。
とくに『古代ローマ軍団大百科』には、ユリアヌスがゲルマン族クノドマル王と戦ったアルゲントラートゥム(ストラスブール)の会戦(357年)での両軍の陣形図が掲載されていて、読書からさらに想像を膨らませる助けになった。
参考図書はすべて図書館で借りたもの。調べものや参考図書を探すには、図書館はとても有益。図書館の予算は削らないでほしい。
『背教者ユリアヌス』の参考図書、その2。歴史学の人物伝を2冊。
2冊を読むと『背教者ユリアヌス』は史実に即したストーリーになっていることがわかる。エピソードも実際にあったと認定されていることが多い。
鮮やかな情景描写、魅力的な登場人物の造形、張り巡らせられる伏線と回収、そっと織り込まれる架空の人物。そうした構成要素を巧みに組み合わせて長編小説はできている。
要するに、読ませる物語が出来あがっている。よくできた長編小説は、ただ話が前へと進む巻き物ではなく、立体的な構造を持っている。
簡潔にまとめれば100ページ程度に収まる伝記を、文庫本4冊の読み応えのある長編小説に仕立てる小説家の筆力にはただただ驚嘆するしかない。
見方を変えれば、小説は、どんなに史実を取材しても、あくまでも虚構であり、読み物であり、歴史の研究とは言えない。そういう本に依拠して歴史を語ってはいけない。
精神医療の自立観ーー『中井久夫との対話』再読
あるツィートをきっかけにして、村澤真保呂・村澤和多里『中井久夫との対話』を再読している。
現在でもなお(中井の批判にもかかわらず)、精神科医療の自立観は、社会の多数は(マジョリティー)の生き方、価値観を身につけて行くことに重点が置かれている。ソーシャル・スキル・トレーニングがひたすら社会適応の訓練としてもちいられ、その延長線上にジョブトレーニングがおこなわれる。
(第二章 「寛解過程論」とは何か)
同じことを中井自身の言葉で引用しておく。
このことと関係して重要なのは、現代が要求する人間の「性能」の厳しさのために、かなりのパーセントの人間が意義のある仕事に参加できなくなりつつあることである。たとえば、精神病の治療は今日非常に進歩し、多くの精神病が事実上治るようになった。しかし問題なのは、現代社会のさまざまな非人間的な側面にも耐えられるようにまで「治ら」ねばならないことである。社会復帰は、社会の方の壁が高くなってゆくために、ますます困難となりつつある。
(「現代社会に生きること」『関与と観察』、みすず書房、2005)
「PTG」や「レジリエンス」という言葉が濫用されていることを懸念する。寛解状態が、患者が自ら生み出す新しい暮らしではなく、逆境克服の押し付けになっていないだろうか。
過重労働からうつ病を発症した人が寛解するとき、目標とすべきはもう一度、過重労働に耐えられるようになることではない。過重労働とは違う尺度で自らの労働と生活を立て直すことでなければならない。
その限りにおいて「障害者手帳」は、元患者にも過重労働を無言のうちに突きつける現代社会において「免罪符」の役割を持っている。
ただし、「障害者」に対しては偏見と差別が根強くあることも忘れることはできない。
あの人はビョーキの人
そういう遠巻きの視線に耐えて暮らすことも「寛いで」緊張の「解けた」ものではない。
さくいん:中井久夫、村沢和多里、うつ病
在宅勤務の常態化が決定
在宅勤務を常態化するという通達が出た。原則、在宅勤務。
これからは「毎日出社せよ」ではなく「必要ならば出社してもよい」になる。つまり、「用がないなら来るな」。
1年間の在宅勤務で光熱費と定期券代の分、会社はかなり節約ができたらしい。オフィスもバッサリ狭くして賃料も節約している。
端的に言えば、社員全員が一度に出社するとデスクが足りなくなるくらいオフィスは狭くした。さらに狭くする計画があるらしい。
自由度が高まる一方で、放置されたような気分も残る。
夏場の光熱費も心配。
私の仕事に毎日のルーティンはない。依頼があって初めて仕事を始める。依頼がないときはヒマな時間が続く。
のんべんだらりと過ごすわけにはいかない。かといって仕事の負荷が高まるのも困る。
浮いた通勤時間をどう使うか。業務のない時間をどう過ごすか。
この先65歳まで、こういう暮らしが続くのか。ならば、生活リズムを根本的に考えなおさなければならない。睡眠、食事、運動、酒量、家事の分担、気分転換⋯⋯。
要するに「日常生活」全体のあり方を根本から見直さなければならない。
さくいん:労働、日常
最新の図鑑を図書館で見つけた。知らないメーカーがたくさんある。
エンジンやシャシーについては詳しい仕様が記載されている。すべての漢字にはふりがな。一部の車種は、QRコードから走っている動画を見ることができる。これは面白いアイデア。クルマ好きなら子どもも大人も、写真も動画も情報量も満足のいくものだろう。でも、なぜなのか、価格の表記はない。
私がスーパーカーを含めてクルマ一般に興味を持っていたのは小学校高学年の頃。1979年前後。40年も経っているのだからメーカーの顔ぶれが変わっていても不思議はない。
小学校への通学途中、毎朝、トヨタS800とフィアットX1/9とすれ違っていた。きっかけはあの2台だったかもしれない。徳大寺有恒の『間違いだらけのクルマ選び』を熟読し、毎月、小遣いで『モーターマガジン』を買っていた。新車発表会に潜り込んだり、モーターショーを見に晴海までも行った。
一時は通勤で毎日運転していた。その頃は、この先ずっとクルマに乗ると思っていた。
2006年にクルマに乗らなくなり、自動車雑誌を読む機会も減った。街で見かけるクルマの名前も、今ではわからないものが多い。すっかり興味は薄れた。
それでも、カッコいいクルマが疾走する写真を見ていると、想像力をかき立てられて楽しい気分になる。
そう、スポーツカーを運転していることを想像するだけで十分に私は満たされる。
だから、乗り物の図鑑は空想ドライブに必要不可欠。
アクセス急上昇
映画『太陽を盗んだ男』を話題にしたあるツィートに感想文を返信ツィートしたところ、突然アクセスが上昇した。
こんなに極端な変化は初めて。
たった一日で今年、これまでに一番多くアクセスされた文章になった。
松本隆氏のRTでアクセスが急上昇したときも驚いた。今回はもっと驚いた。
ただしツィートについた「いいね」はずっと少ない。読まれたものの評価はそれほど高くはなかったとみえる。そこは残念。結語部分に、『庭』を隅々まで読んだ人にしかわからない極めて個人的な感情を忍ばせたから、文意が理解されないのも仕方がない。
ふだん、ツィート上においたリンクからのアクセスはほとんどない。
試しに自分でもツィートしてみたけれど貼付したURLはほとんどクリックされなかった。
読まれるかどうかは内容ではなく(読む前には内容を知らないのだから)、どのルートに乗るかによる。そういうことがわかった。もちろん、内容がよくなければ「いいね」はつかないし、他の文章まで読んではもらうことも期待できない。
今回は、非常にマニアックな作品の話題だったので、とくにアクセスを集めたのだろう。多くのアクセスを集めた『未来少年コナン』と同様、根強いファンがいることもわかった。
さくいん:『太陽を盗んだ男』
うつ病について
うつ病とは、人に気持ちをわかってもらうことが下手になる病気。人の気持ちを受け取ることも下手になる。
要するに、自分の世界が閉じて狭くなる。狭い世界でもがいてさらに苦しくなる。
心を開いて自分を広げたり、人の心を素直に受け取ったりできればずっと楽になることは、そういう瞬間も時にはあるからわかってはいる。わかってはいても、常にそういう状態でいることができない。
自分自身を客観的に見てみると、最悪の状態からは脱しているように見える。でも、寛解状態というには程遠い。まだ感情が制御できないから。負の感情が暴走する危機がまだ時折ある。
いまの安定は薬のおかげもあるのだろう。
薬に頼らず、感情を制御できるように少しずつ心を鍛えなければならない。
さくいん:うつ病
自己紹介の続き。
番外:ビリー・ジョエル詩集
詩は、小学校三、四年生のときの担任教諭が熱心だったので、その頃、たくさん覚えた。八木重吉もその中の一人。ほかにも高村光太郎「牛」、谷川俊太郎「ことばあそび」、山村暮鳥「風景」など、暗唱できるようになるまで朗読した。
ブクログ:詩集
自己紹介の続き。
もう一つ、マンガの10選も作ろうと思ったところ、すでに作ったことがあった。
10選シリーズは、ひとまずこれで終わり。
映画はあまり見ない。10選には十代の頃、つまり70年代から80年代にに見た作品が多い。感受性が強かったせいか、大人になってから、それらに勝る感動を得た作品にめぐりあえずにいる、ということか。小説やエッセイの10選は、『庭』を始めてから読んだ作品が多い。
さくいん:70年代、80年代
Twitter、10年
昨日で、Twitterを始めてから10年経った。
過去のツィートはTwilogに保管しているけど、一度Twilogを辞めていた時期があるので、最初のツィートはすでに消えている。Twitterの仕様上、3,200件までしかアプリ上には残らない。今は2012年3月のツィートから保存されている。
最初の頃は、『庭』の校正や推敲を書いた自分に宛てのメモだった。
書いたものはすべて『庭』に残すことが私の基本方針。プラットフォームの流行に左右されたくないから。ツィートしたことは後日、箱庭と称する日記(ココ)に推敲した上で転記している。私にとって「本店」(©丸山眞男)はあくまでここ、『烏兎の庭』なので。
埋め込んだツィートはいつか消えてしまうので、自分のものでも人のものでも、ツィートを直接ここに埋めることは極力避けている。いつか元ツィートが消えてしまったら、引用タグで記述しなおすことになるだろう。
私にとってTwitterは情報源の役割が大きい。展覧会やテレビ・ラジオ番組、新刊や新譜、話題の動画などの情報を得られることはありがたい。
フォロワー数は多くないものの、読んでいる人がいることは実感できている。
やめたくなるときもあるけど、私はTwitterを続ける。
作品との出会いは、テクストという抽象的なものとの出会いではなく、本という具体的なモノとの出会い。
単行本だったり文庫本だったり、教科書だったり全集だったり。
新聞の書評で知ったり、誰かのオススメだったり、書店で衝動買いしたものだったり。
出会い方により本との付き合い方も変わる。
本とのあいだにも、人とのあいだと同じように、邂逅、交際、対立、別離、再会、回想がある。
元はあるツィートの引用RT。
石井洋次郎『文学の思考 サント=ブーヴからブルデューまで』の感想文に添えた2006年3月3日の文章から再構成した。
さくいん:石井洋次郎
ボート競技
大学に入学して間もなく、ボートの対抗戦があった。
誰かを誘って見に行こうかと思い、電話の前に立った。
その頃の私は、第一志望の学校に合格したので浮かれていた。有頂天だった。誰を誘っても来るだろうと自惚れていた。
何人かの顔が思い浮かんだ。受話器を取り、誰にかけようか思案した。
思い浮かんだのは、それまでに袖にされた人たちばかりだった。大学に受かったから振り向いてもらえると考えたのは、愚かな自惚れだった。
そう気づいて受話器を電話に戻した。誰も誘わず、ボートレースも見に行かなかった。
あの日、誰かを誘っていたら、その後の人生は大きく変わっていたかもしれない。
あの日に戻ってやり直したいと思っているわけではない。ただ、電話一本で変わるような、人生の分岐点があると思い直している。
FIRE or fired
"FIRE"という言葉を最近知った。"Financially Independent, Retire Early"。若いうちに一儲けして、その後は優雅な暮らしを謳歌する、という意味。ずっと昔、IPOで儲けてセミリタイアすることを「ゴールデン・パラシュート」と言った。それと同じだろう。
"FIRE"と言われると、"You are fired!"という宣告しか思い浮かばない。実際、そう言われたことがあるから。
"FIRE"と"fired"では意味がまったく反対。言葉の響きにもなじめないし、意味も私の生活からは程遠い。
今の私の暮らしは、"BISSL"。"Basic Income, Simple and Slow Life"。
ほどほどの稼ぎで、優雅とは言えないまでも、まあ、のんびり暮らしている。
クルマの図鑑の続き。美しいクルマの美しい写真。見ているだけで楽しい。元は自動車雑誌『カー・グラフィック』の連載だったらしい。
きれいに保存されていたものか、丁寧にリストアされたものか、とにかくクルマが美しい。
お気に入りは、フェラーリ365GTB、いすゞ・ピアッツァ、フォード GT40、ランチア・ベータ・モンテカルロ。
モンテカルロは直線的なデザインなので、てっきりジウジアーロかと思ったら、ピニンファリーナのデザインだった。70年代後半は、ウェッジシェイプが流行っていたのだろう。デロリアンもそう。当時は、私がクルマに一番熱中していた時代。
50年代のキャデラック・エルドラド・ブロアムもいい。巨大なアメ車はかっこいい。まだ幼稚園児だった頃、近所の家に止まっていた長い車体のリンカーン・コンチネンタルは憧れの的だった。
一時期クルマを持っていたし、通勤して毎日運転していた時期もある。今はもう見るだけでいい。万が一、事故を起こしたら、という恐怖心が先立つので、もう運転はすることはないだろう。
ミニカーの置き場所もないので、美しいクルマの美しい写真があれば、それで十分。
佐倉魔美の魔法
先週の水曜日、その日は一日モヤモヤしたまま業務を終えた。うまく行かないことばかりだった。
5時過ぎ、気分転換に映画でも見るつもりでAmazon Prime Videoを検索したところ、『エスパー魔美』を見つけた。しかも、119話、全話、追加料金なしで。
早速、前からもう一度見たかった「第44話 ハートブレイクバレンタイン」を選んだ。見ているうちにモヤモヤは消え去り、スッキリした気持ちになった。
そういえば、この話は「ヘビメタを聴いてスッキリ」がポイントだった。
続けて、「第45話 最後の漁」と「第46話 雪の降る街を」。「雪の降る街を」は大好きな一話。「タイムリープと家族」がテーマという意味では、"Back to the Future"に勝るとも劣らない名作と私は思っている。
ネットで見つけた秀逸な解説に誘われて「リアリズム殺人事件!?」も見た。原作とは違う結末に解説を読みながらうなづいた。アニメ版の巧みな構成がわかる一話だった。
大学生の頃、マンモス校の多人数講義に嫌気がさして不登校で家にいることが多かった。毎週火曜日、19時に家で必ず『エスパー魔美』を見ていた。それくらい、大学から縁遠く、友人もほとんどいなかった。人情味あふれる話の多い『エスパー魔美』は、そんなモヤモヤした生活に潤いを与えてくれる貴重な時間だった。
『エスパー魔美』を見ると気持ちがスッキリする。それは今でも変わらない。ストレス・コーピングに役立つ重要な道具の一つ。
さくいん:『エスパー魔美』、HOME(家族)
自己紹介の続き。小説と絵本のあいだにある児童書とジュブナイル小説から10選。
最後の2冊は子ども時代に読んだ本で『庭』に感想は残してない。『君はサヨナラ族か』と『つぶやき岩の秘密』を読んだのは、対象年齢を過ぎた高校生の頃。
小学生時代は、図鑑やクルマの雑誌ばかり読んでいて、物語の本はほとんど読まなかった。ホームズもルパンも明智小五郎も知らないまま大きくなった。
#名刺代わりのエッセイ10選(コラム編)
自己紹介のエッセイ編。短い文章のコラム集で好きな本を選んだ。
クリエイター・エコノミーについて
漱石は新聞社をパトロンにして創作に専心した。藤村は自費出版で『破戒』を上梓した。
文豪は作品を発表するだけでなく、発表方法においても先駆者だった。私はどうすべきか?
私が書いている文章は「作品」であり「コンテンツ」ではないと信じている。
「作品」をどう発表するか。
ブログを有料化しても購読者はいないだろう。書籍にしたらどうか。
本を作ることは『庭』を開いて以来、抱いている長年の夢でもある。
今は自費出版の費用もない。当面は今のままネット上での公開を継続するしかない。
売れそうなものだから売るのか、売り物にしたいから売るのか。
つまり、私は自分の文章を売りたいと思っているか。
書いたものが売れるのであればありがたい。売るために書くことはしたくない。
少なくとも、誰かの企画に基づいたり意図を汲んで書くようなことはしたくない。
好きなことをしてお金になったクリエイターが、いつの間にか望むことより望まれるものを作ったり、誰かと契約を結んで〆切のために作るようになる。その時、創造・創作は労働にすり替わっている。
創作したのものはマネタイズしなければならないのだろうか。
私はいま無償で文章を書いている。ボランティアで書いている、と言ってもいい。誰に指図されるでもなく、自発的に書いているのだから。
誰の役に立つかはわからないけど、きっと誰かのためになるとおもって無償で書いている。
お金をもらっていないという意味では、私はプロフェッショナルと言えない。遊びでやっているのではないという意味ではアマチュアでもない。
強いて言えば、その間にいる「モグリ」。そういう心意気でいたいと思っている。
私は、自分が書きたいことだけを書きたいように書く。
以上は「クリエイター・エコノミー」という言葉をネットで見かけて思いついたこと。
さくいん:夏目漱石、島崎藤村、労働、モグリ
有名なので、前から読んでみたいと思っていた作品。先日、銀座まで出かけたとき、教文館書店で見かけたので購入した。以下、ネタバレあり。
推理小説はほとんど読まない。ホームズも江戸川乱歩も読まずに大人になった。それでも『アクロイド殺人事件』は読んだことがある。クリスティではほかに『春にして君を離れ』を読んでいる。
ミステリといえば、私にとっては映画。とくに横溝正史作品を原作にした映画。小学生から中学生の頃、映画化された作品はほとんど見た、ただしテレビで。
クリスティの作品では、『オリエント急行殺人事件』もテレビで見た。『クリスタル殺人事件』も昨年、ストリーム・サービスで見た。
読み慣れていないので、人物をたびたび確かめ筋を追うので精一杯で犯人探しをしながら読むことができない。本書も誰が犯人かなど考えずに、一つの文学作品として読んだ。
古い作品なので現代のリアルな作品に比べれば、たとえば、遺体の死臭を誰も気にしないなど、現実味に乏しい点を粗探しはできる。トリックの複雑さや現実味でいえば、専門的な集団で制作している『名探偵コナン』の方が上かもしれない。そのことはこの作品の価値を落とすものではない。現代のミステリはこうした古典を土台にして作られているのだから。
この作品の魅力/魔力はトリックの複雑さやリアリティとか、そういうところにはない。
本書では殺人の動機よりも殺される理由に恐怖を感じた。人間のエゴが容赦なく暴かれている。「魔が刺した」という言葉では済まされない闇を誰もが、むろん私も、抱えている。その描写が微に入り細を穿つもので読んでいて背筋が寒くなってくる。
閉鎖空間で、集まった人たちが互いに疑心暗鬼に陥っていく過程の描写も恐ろしい。犯人が殺すのではなく、殺し合いや自死へ人を追い込むという心理作戦も、現実にそういう事件が起きているだけに、非常に恐ろしく感じた。
さくいん:アガサ・クリスティー、『名探偵コナン』、闇、自死
出社とカラオケ
先週の金曜日、久しぶりに出社した。電車は思いの外空いていて途中で座れた。会社にもほとんど人がいなかった。在宅勤務を徹底した今なら会社がオフィスを縮小したがる意向もわかる。
9時前に到着して昼には一通り仕事は終わった。することもないので、フレックスタイムを利用して3時に退社した。
帰宅前にどこか寄り道しようか。思案の上、カラオケに行くことにした。
一人カラオケにはすっかり慣れた。初回こそ妙な恥ずかしさがあったけど、今では下手でも知られていない曲でも、好きなように歌えてストレス発散にはもってこい。
いつものように、挽歌と千春と英語の歌。冠二郎「旅の終わりに」も唄った。
GreeeeN「道」を唄ったら、なぜか、ちょっと涙が出た。
2時間歌って、ビールをジョッキで2杯呑んで1,100円。スッキリ。満足した。
〆は小田和正「君住む街へ」。安らいだ気持ちのまま家路についた。
さくいん:松山千春、GreeeeN、冠二郎、小田和正
読み継ぎたい絵本10選
日経新聞土曜版「何でもランキング」に「読み継ぎたい絵本の名作10選」があったので、自分でも選んでみた。
前に「本棚の10冊で自分を表現する」というハッシュタグで絵本を選んだことがある。
今回、対象を就学前の幼児向けの絵本で、実際に私が読み聞かせた作品に絞って選んだ。
在宅勤務中のランチと散歩
在宅勤務では、じっとしている時間が長いので、昼食はほとんど食べないようにしている。食べても、魚肉ソーセージ、ミックスナッツ、こんにゃくゼリー。午後になるとおなかが空くけど、おやつは食べない。
それでも体重は減らない。運動も減っているからだろう。一日に一度は外に出るようにしているのに。加齢とともに基礎代謝も減っているに違いない。
先日、テレビでウォーキングは起きたばかりの早朝より身体が温まっている夕方がよい、と言っていた。そこで、冬の間、寒くても無理して朝に歩いていたのをやめて、最近は夕方、終業後に外へ出る。行き先はだいたい公園か図書館。
ところが、夕方、散歩に出かけると、コンビニで菓子パンや揚げ物を食べてしまうことがままある。チェリオがビールに変わっただけで、まるで駄菓子屋で買い食いをする中高生。
テレビでは、ウォーキングには高低差がある方がよい、とも言っていた。我が家の周辺は平坦でほとんど高低差がない。近いところに見晴らしのよい丘でもあれば、ウォーキングも楽しかろう。高低差がなく、碁盤の目のようになっている住宅街は歩いていても楽しくない。
そういう意味では、実家の周辺の方が散歩に適している。家は山の上にあるので高低差は大きいし、見晴らしのよい場所もある。その気になればちょっとした山登りもできる。
水曜夕方の散歩では、昼抜きだからいいだろう、と、缶ビールを買ってしまうことが少なくない。日曜から月、火までは我慢できても、水曜日には誘惑に負けてしまう。
それでも平日に深酒することはない。その点では、ストレス発散のために毎晩マティーニをあおり、ただでさえうつ病で浅い眠りをさらに浅くしていた営業職時代より、最近の日常は健康的といえる。もっとも、それが水曜日に呑む言い訳にもなっている。
今日は休前日なので呑んでいい日。罪悪感なく、心ゆくまで呑む。
さくいん:労働、マティーニ、日常
先々週、帰省した実家で見た。映画はあまり見ないし、戦争映画はさらに見ない。だから戦争映画として他作品と比べてどうなのかは私にはわからない。
見終えて言葉にできる感想が何も思い浮かばなかった。しばらくして最初に思ったことは、そうか、タイトルの意味はこういうことだったのか、ということ。
物語そのもので驚く点はなかった。軍隊の非条理や玉砕については、水木しげる『総員!玉砕せよ』を読んでいたから驚くことはなかった。日本軍は捕虜の扱いがひどく、米軍はそうではなかったというような一面的な見せ方ではなかったのはよかった。
戦闘シーンや米軍艦隊のCGは真に迫っていた。もちろん、私は本当の戦場など知らない。正確には「戦争の悲惨を伝えるには十分に現実味があった」と言うべきだろう。俳優たちの演技もよかった。
二宮和也の役柄と演技には賛否両論あるらしい。私は悪くないと思った。意気軒高な兵士ばかりではなかったことは水木しげるを見てもわかるし、生き残るのは偶然の重なりということも真実だろう。だからこそ、生き残ったことに後ろめたさを持つことになる。
要するに戦争とは殺し合い、鬼畜相手ではない、同じ人間どおしの殺し合いということをよく伝えている。人間の行いで戦争ほど非人間的なものはない。
理性的で合理的な指揮をしてきた栗林中将も最後は玉砕した。「負ける」「還る」という道はなかったのだろうか。米国駐在の経験もあり英語も堪能な知性派でも、「帝国将校」としては、そうするよりほかになかったのだろうか。
そうとすれば、大日本帝国軍はやはり狂っていたと言うほかない。
現在の日本国は狂っていないか。原発事故、金権政治、五輪優先のコロナ対策⋯⋯。
今日は昭和の日。
昭和時代に起きた戦争で兵士たちを苦しめた異常な精神は、76年を経ても、まだ遠い昔のものとは言い切れない。
さくいん:Clint Eastwood
#名刺代わりの図鑑10選
今月は新年度のはじまりに合わせて、自己紹介代わりに「10選」をたくさん作ってみた。小説、エッセイ、詩集、映画、児童書、コラム、絵本。お気に入りリストを作るのは楽しい。4月の最後に図鑑の「10選」を作る。
図鑑が好きでよく読む。一つのテーマについて情報が詰まっている。絵や写真、図解がたくさん掲載されていてわかりやすい。読む、というより眺めて楽しむ。
図書館には、自分では買えないような、高価で大型の図鑑が収蔵されている。これまでに眺めた図鑑から何度も借りているお気に入りを挙げてみる。
ブクログ:図鑑