8/1/2020/SAT
7月のアクセス解析
相変わらず、「モンスリーのPTGとして『未来少年コナン』を見る」が1位。
この文章は累計で3,000人以上の人が読んでいる。
総ページビューは減ったものの、7月の「箱庭」がよく読まれたのはうれしい。
先月は、Twitterで中井久夫についてのツィートが多くRTされたため、関連の文章のページビューが伸びた。といっても100は越えていない。
20人でも10人でも、読んでもらえることはうれしい。
相変わらず、「モンスリーのPTGとして『未来少年コナン』を見る」が1位。
この文章は累計で3,000人以上の人が読んでいる。
総ページビューは減ったものの、7月の「箱庭」がよく読まれたのはうれしい。
先月は、Twitterで中井久夫についてのツィートが多くRTされたため、関連の文章のページビューが伸びた。といっても100は越えていない。
20人でも10人でも、読んでもらえることはうれしい。
先月、惜しまれつつ閉店した吉祥寺のステーキハウス、葡萄屋。
お店がこれまで使用していた食器類やグラス、カトラリーを格安で販売しているという噂を聞いて、日曜日の朝、行ってみた。
販売開始は11時。早めのつもりで30分前に行ってみると、すでに10組以上が並んでいた。11時の販売開始時には私の後に長い列。
ステーキハウスで使われていたお皿は一人2枚まで。一日に販売する枚数に制限があるので後から来た人は買えなかったみたい。
目当てのものが買えたのでまず一安心。ほかに買ったのは、ガラスの小鉢、前菜か刺身に使われていたと思われる小さい角皿。小鉢と皿は4個ずつ。ジンやウィスキーのロックによさそうなオールドファッションのグラスをいくつか。これで約2,000円。まさに大放出。
吉祥寺の精肉店Sで、ちょっといいお肉を買ってきて葡萄屋のお皿にステーキを載せたら、束の間、懐かしい気持ちに浸れそう。
それにしてもこれだけ愛されていたお店が閉店するのは街の文化にとって大きな損失。
「早くて安くて、回転も早い」店ばかりになると街そのものが安っぽくならないか。
気取ったハイソな街がいいと言っているのではない。「ハレの日はあの店で」というシンボルのような店が街にあると、街への愛着も増すと思う。
とてもいい番組だった。
将来を嘱望されていた若手ピアニストが右手の指が自由に動かせなくなる病気になった。
指揮者や声楽への挑戦を試みるもうまくいかず、失意のなか、「左手のためのピアノ曲」の存在を知る。
「左手のためのピアノ曲」は第一次大戦後、右腕を失ったピアニストのために著名な作曲家たちが作曲した作品。その数は3,000とも言われている。
智内は「左手のためのピアノ曲」に生きる道を見つけ、「左手のピアニスト」となり、今は「左手のピアニスト」の指導をしたり、「左手のピアノ曲」の普及を積極的に行い、「左手のピアノ曲」を次代に伝えることが使命と考えている。
左手のピアノ曲はただ片手で演奏するだけではない。両手演奏より少ない音数をカバーするために、ペダルを多用して音の余韻を長くするという。従って、ピアノ全体を「鳴らす」ことでは左手のピアノ曲が両手演奏曲よりまさっているという。
これは非常に興味深い指摘だった。
もちろん、片手用に編曲されているとはいえ、左手でだけで演奏するには激しく速弾きで演奏しなければならない。
失意のどん底で光明を見出し、やがて歴史的使命を自覚するという、パウロのような心の旅路に私の心も動かされた。
そんな半生がほんとうにあるのか。失意のまま、その日その日を怠惰に送り、人生の使命など後ろ向きにしか考えることができない私は驚きと羨望を感じないではいられなかった。
いつの間にか机の床の上に本が堆く積み上がってしまった。この積読本を整理するために小さな本棚を買った。
買い物は通販サイトでした。大きさは幅55 x 奥行26 x 高さ88.5cm。部屋の隅にこの棚が入るちょうどいい隙間があった。
届いた荷物は厚い合板が5枚入っていたので重かった。封入されていた説明書を読むかぎり製作は難しくはなさそうだったので、すぐに作業を始めた。
作りはじめてすぐに思っていた以上にむずかしいことに気づいた。ダボを横板にあらかじめ開いている穴に差し込むところで立ち往生、ダボがうまく食い込まない。思いきり叩いたらダボが折れてしまった。
そこで他のダボは無理せず入れたら、今度はダボが入り込まず上に飛び出してしまった。そこへ上板を乗せると上板が浮いてしまう。今度は浮いている上板を叩いてみた。すると長く突き出ていたダボが上板を破って飛び出してきた。完成する前にすでに破損状態。
木ネジにも難儀した。電動ドライバーなど持っていないのでプラスドライバーを手で回すのだけれど、なかなか板に入ってくれない。無理して回すとドライバーがすべってねじ山が欠けそうになる。力を入れて、押しながら回してようやくネジは板に食い込んだ。
とりあえず本棚の形だけはできたので、積読の本を入れてみた。何冊か入れると重さで棚は何とか安定した。本を入れるスペースにはまだ余裕がある。
上面にはダボが突き出て合板が4箇所破れている。格好の悪い傷を隠すために大判の画集を横向きに重ねておいた。本棚全体は平行四辺形。片側を壁に寄せてようやく立っている。
不器用であることは自覚していたけれど、ここまでひどいとは思わなかった。
自室で在宅勤務を続けている。窓は開け放しでエアコンはつけていない。
当然、汗だくになる。水筒に入れた氷と麦茶を少しずつ飲んで喉の渇きを潤している。
なぜエアコンをつけないか。単純に暑いときには汗を流すことが自然に思えるから。
在宅だからその気になれば、いつでもシャワーを浴びて着替えることもできる。
冷たい飲み物も氷も台所に行けば、いつでも補給できる。
私の部屋は2階の南西に面していて南側に大きな窓がある。デスクはちょうどこの窓の横。ここを空けておくと涼しい風が入ってくる。この風が心地よい。
こんな状況なので、エアコンをつける気にならない。
節約の目的もある。9月に予定している健康診断を前に減量を目論んでいるところもある。
十代の頃、住んでいた実家にはエアコンはなかった。夜は窓を開け放しておけば何とか眠ることができた。エアコンを各部屋に設置したのは夏の気温が35℃になる時代になってから。
エアコンがなくても眠れたのは、窓を開けていても外が静かだったからでもある。
今は抜け道に面したところに住んでいるので、夜は窓を閉めてエアコンをつけて寝ている。
通勤してオフィスに一日中いたときはエアコンのせいで寒いくらいだった。今年は十二分に夏の暑さを満喫できそう。
小学校低学年のときは、父の会社の保養所がある軽井沢へ行った。高崎駅でだるま弁当を買ったことやアプト式機関車で碓氷峠を登ったことを覚えている。
高学年になってからは父が大阪に単身赴任していたので、そこを拠点に関西をあちらこちら旅した。はじめて行った五年生のときはまだ歴史を習っていなかったので古寺名刹を訪ねても退屈だった。その代わり、父の職場を訪ねて、大きなガスタンクに登った。その体験が自由研究になった。
六年生になり、歴史を勉強しはじめてからは父の家を拠点に一人で古寺や名勝を訪ねた。中高校生になってからは法隆寺や大仏だけではなく、足を伸ばして、高野山、比叡山、伊賀、吉野も一人で行った。
小学生の頃には無邪気な楽しい思い出が多い。歴史を学ぶ前でも、明日香の奇石を歩いて観たのは楽しかった。
あの頃、関東ではまだ細長い250ml缶しかなかったのに関西では缶ジュースが350ml缶に入っていた。炎天下、今では当たり前の太い缶で飲むジュースがおいしかった。関東にはないファンタ!の味もあったような気がする。
大人になり、自分が親になってからは、同じ体験をさせたいと思い、関西旅行へ行った。このときは両親も連れて行った。
娘と息子が東大寺の太い柱に開いた横穴を潜っている姿はデジタル写真で残っている。あのときに行っておいてよかった。美々卯の本店に行ったのも2005年の夏休みだった。
子どもと旅を楽しめる期間はそう長くない。あまり幼いと子どもの方で記憶に残らない。中学生になると部活や塾の予定が優先されてしまう。
そう考えると、親族9人で2泊3日の一緒に旅ができた昨夏の「伊東花火大会」は奇跡的な旅だった。
父が健在だったら、きっと喜んでいただろう。
写真は2005年の夏に両親と6人で行った奈良、東大寺の大仏殿。
一昨日の続き。中高生の頃のこと。80年代前半。
中学でも高校でも部活の合宿が夏休みにあった。合宿といってもどこかへ行くのではなく、学校で布団を借りてきて教室で寝泊まりした。
高校には食堂があったので昼夜はそこで食べた。朝食はたぶん飲み物とパンが配られたのだろう。よく覚えていない。
中学の合宿では、食事は部員の母親たちが家庭科室で調理していた。衛生面でも、仕事の負担の意味でも、今ではちょっと考えられない。
夜になると、中学生の時は先輩に呼び出されて「好きな女の子のクラスと名前を言え」と脅された。仕方なく適当に答えると先輩の方から「オレはあの子が好きなんだ」と聞いてもいない秘めた思いを明かしてくれた。
高校では夜に「肝試し」をした。寝起きしている教室から一番遠い図書室まで行って帰ってくる。古い校舎だったのでそれなりに不気味な体験だった。
中学でも高校でも、夜には近くの銭湯に行った。夜に酒盛りをするような不謹慎なことはしなかった。学校でしなかっただけで、私の家に集まってはよく呑んではいた。
ここまで淡々と書いてきたことからも明らかなように、どちらのイベントも楽しい行事としては記憶に残っていない。ただ、そういうことがあった、というだけ。
部活の合宿に限らず、中高生時代ではプライベートな出来事にはよく覚えているものがある一方で、学校行事の記憶は薄い。懐かしいとも思わない。
その当時にはそれほど否定的には感じてはいなかった。歳を重ねるごとに、学校の記憶は「思い出しくない」ものになっている。
そこにはいろいろな理由があるだろう。思い当たる節もいくつかある。自己観察をすればもっとよくわかってくるに違いない。いまは思い出すことも怖いので避けている。
さくいん:80年代
自分が書いた文章を読み返すと同じことを何度も書いていることに気づく。
これでは同じ話を繰り返す母のことを笑うこともできない。
書いたことを忘れているのは衰えにも感じるし、それだけ重大な体験だったとも思う。
画家が同じモチーフを何度でも描くように、同じことについて何度でも書かなければ文章は上手にならない。これは強く思う。
文章が上手になりたい
私が毎日、何かしら書いているのは、そういう気持ちがあるから。
それで職業作家になりたいというわけではない。ただ、文章がうまくなりたいだけ。
自分の見た景色を、自分の気持ちを、そのまま言葉で表現したい。
こういう気持ちを持っていることには、実はごく最近、気づいた。
文章を書くことは、楽器も弾けない、絵も描けない、スポーツも苦手な私が、かろうじてできることだから。
もっと文章が上手になりたい。
東京も真夏日になったので涼しげな写真を貼っておく。
月一回の診察日。病院の混み具合は予測できない。朝早く行くとたくさん並んでいる時もあれば、雨が降っていたりすると朝一番より診察終了間際が混む。
今朝は空いていた。診察を終えて部屋を出ると椅子が埋まるほど人がいた。盆休みの前に診てもらって薬を処方してもらいたい人たちだろう。私もその一人。
先月は寝つきが悪いと訴えて睡眠導入剤を処方してもらった。結局、薬はほとんど服用しなかった。最近はよく眠れている。寝つきの悪さは気候の変化のせいだったのかもしれない。適度にエアコンを付ければ、前のようにすぐ寝入ることができている。
診察日は外で昼食を食べる。平日、在宅で余り物を食べているので、月一回の外食は少し贅沢したくなる。先月は若い頃、時々食べていた、名の知れたつけ麺の店へ行ったが美味いとは思わなかった。歳を重ねて味覚が変わっているのか。
今日のランチは、お気に入りのアメリカン・ダイナー。パティのダブルが割安と勧められたので、Wチーズバーガーを注文。ベルギーの白ビールも呑んで大変満足した。
いつからだろう、ハンバーガーが好きになったのは。ファストフードはほとんど行かない。同じ「短時間」ならそばを食べる。ハンバーガーはむしろご馳走なので、せっかく食べる時はなるべくいいものを食べる。
店員が宣伝してくれたように、確かにダブル・バーガーはボリュームも肉汁も違った。
一人で食事をすることに抵抗はない。むしろ孤食を好んでいるかもしれない。
エジンバラへ旅したとき、あまりに城と公園がきれいだったので、興奮してホテルのレストランでフルコースを食べたこともある。
母の手料理で一番好きなものはカレー。玉ねぎをじっくり炒めたトロトロのルーに鶏肉、じゃがいも、ニンジンが入っている。たくさん作ってくれるので、1日目にはカレーライスで2日目にはカレーうどんにしてもらう。
この味を自分でも作りたくてレシピも訊いて何十回と挑戦しているけれど、同じ味にならない。私がカレーを作ると家族からは「このカレーもまずいわけじゃないから、もう別物と思って真似ようとするのはあきらめろ」と言われている。
そう言われると悔しくて何とか味を継承したいという思いが強くなる。先日、あらためて作り方を訊いたところ、「タマネギは3日間炒める」と言われて驚愕した。私も長い間炒めているつもりだったけれど、せいぜい半日。「料理の合間に少しずつかき混ぜる」ことで3日間炒めたルウができるという。
確かに母のカレーは、市販のルウを使っていないのにかなりねっとりしている。スパイスは赤い缶のカレー粉だけ。
今回、在宅勤務が終わった金曜日の夕方から土曜日の夕方まで2日間、大きな玉ねぎ9個をじっくり炒めてみた。空いている時間に火をつけてかき混ぜて、それ以外の時間をフタをして蒸した。いつもよりだいぶねっとりした状態のルウが出来た。
我が家では具材は鶏肉ではなく食べやすい挽肉が好評。母の教えに従い、「合挽き肉」という名前の肉は買わず、「豚挽肉」と「牛挽肉」を6:4の割合で買ってきた。ほかに投入する具材は、ニンジン、エリンギ、マッシュルーム、なす。ジャガイモは皮を剥くのが面倒なので入れない。煮崩れして味を損ねるので入れない方がいいと雑誌で読んでこともある。
真夏の太陽は真っ赤ではない。
真っ白。
そんなことに初めて気づいた52回目の夏。
キキョウガサクノデ
キキョウスルト
キキョウナヒトニデアイ
キキョウサセラレ
キキョウトナリ
キキョウセシ
桔梗が咲くので
帰郷すると
奇矯な人に出会い
棄教させられ
気胸となり
帰京せし
久しぶりの博物館見物。今の体力気力では3日間以上の休みがないと遠出はできない。時間指定で事前予約の展覧会は面倒なので、静かで、小さな「行きつけ」の博物館へ出かけた。特集展示の前に、江戸時代に出版された『枕草子』を見ることができた。何百年前の中国の文字でも楷書なら読めるのに、数百年前の日本語がくずし字では読めない。
そして、おそらく簡略字に慣れてしまった現代中国の人は、楷書体であっても繁体字は読めないだろう。何とも不思議な矛盾。母語とは何なのか、と考えさせる。
本展は、2年前に印刷博物館で開催された「天文学と印刷」展の続編という印象を受けた。あの展覧会では、印刷技術の発達が天文学の進歩にどれだけ役だったのか、というところに視点を置いていた。
本展は、ヨーロッパ、イスラム、中国、日本、それぞれの文化圏が、どのように天文学を進歩させていったかを追いつつ、相互に与えた影響も視野に入れていた。
今回の展示で印象に残ったのは藤原定家の日記。そこに超新星の記録が書き残されていて、後の天文学に役立ったという。
記録として残され、蒐集されて保存されたからこそ、活かされた。
東洋文庫ミュージアムへ行くと、いつも2度驚かされる。一度目は飽くなき人間の探究心に対して。数千年も前から人は太陽や星の動きに法則を見出そうとしていた。その法則を究めるために観察し、新しい器具を開発し、遠く旅もし、本を出版した。
二度目は驚きは探求した成果である夥しい本や図を蒐集するコレクターの執念に対して。なぜ、一人では読みきれないほどの書籍や図画を集めるのか。その恩恵でいろいろな史料を見ることができているのだから、疑問を持つ前に感謝すべきなのだろう、その情熱に対して。
夏休みなのでちょっと奮発して、博物館の庭園にある小岩井農場のレストランで豪華なオムライスを食べた。夕立が怖いのでどこにも立ち寄らずに帰宅すると、案の定、間もなく叩きつけるような豪雨が我が家を襲った。
さくいん:東洋文庫ミュージアム
1月24日の箱庭。「白い会社」としていた題名を「優しい会社」に修正。
「黒」を「悪い」の意味で使うことは、肌が黒い人への差別になることに気づいた。
誰かのツイートで悪質な企業を「ブラック企業」と呼ぶことに問題がないか、という問いかけがあった。
それまで私は、「黒い」を「悪い」とみなす言い方に疑問を持っていなかった。つまり、私は無意識に差別をしていた。
差別は無意識に潜んでいる。そのことにも気づかされた。
貿易業務では、相互に厳しい監視をしているので、安全保障上、基本的には何を輸出しても問題ない国を「ホワイト国」と呼ぶ。善なる国がホワイトなら、善でない国は何色なのか。
この呼称もいずれ問題にされなければならないだろう。「ブラック企業」のように「黒が悪い」と直接に意味しなくても、「白は良い」と意味することは「黒は悪い」という含意を持たせてしまうから問題があるように思う。
写真は昨日訪れた東洋文庫ミュージアムで撮った一枚。知恵の小径。ナン語の知恵。
人生に学びの終わりなし
月日を無為に送るなかれ
朝は起きられた。散歩もした。
パソコンを開けた。休み中に大きな事件は起きていない様子。
休み前に取り掛かっていた仕事を午前中に済ませた。
昼食のあと、エアコンはつけず扇風機だけで1時間ほど昼寝した。
水分補給は十分。水筒に氷と麦茶を入れてガブガブ飲んでいる。
ほかの人が作ったレポートに間違いを発見。アサーティブに伝えるのに苦労する。こういうとき、逆ギレされないか、いつも極端に恐れる。
ただでさえ休み明けで緊張しているので、メールの文面に気を遣う。
午後は静かだった。
こうして、休み明け初日はなんとか切り抜けた。
夏休みの最終日。iPhoneが故障した。フローリングに落としたら画面が真暗になり、何も表示されなくなった。
最初は電話をかけるとブルブル震えていたのに、やがてケーブルでつないでもFinderに表示されなくなった。
Appleのサポートに電話をして修理の予約をしたあとで、docomoで「安心パック」に加入していることを思い出した。
さっそく電話をかけ、代替機の発送を依頼した。
電話が届いたのは翌日の午前。基本設定とアプリのデータはiCloudにバックアップされていたので、問題なく復元できた。
これで一安心、と思いきや、アプリの移行がけっこう面倒だった。とくに金融機関。
電話が代わると、アプリを最初から設定しないといけない金融機関がいくつかあった。
セキュリティの観点からは良いことなのだろう。データ移行だけで金融機関の情報も移行されるのは考えてみれば少し怖い。
これも安全のため、と思い、我慢して少しずつ設定しなおしている。
今年の夏は『AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦争』を読んだおかげで、太平洋戦争についてもっと知りたくなった。
いわゆる歴史秘話でなく、教科書のような本できちんと戦史を知りたくなった。図書館で見つけた3冊の本はいずれも表や写真と文字のバランスがよく、わかりやすかった。一通り、戦史の全体像をつかめた気がする。
とくに『データで見る』にあった14歳児の平均身長が1936年から1948年にかけて6.1cm低くなっているデータには衝撃を受けた。数字で示されると食糧事情の悪さがこれまで想像していた以上だったことがわかった。
映画『日本のいちばん長い日』に描かれた閣議は、ほぼ史実通りということもわかった。阿南陸相は最後まで「本土決戦」に執着していた。
つねづね思うことは、政府の国内に対する戦争責任。対外的な戦争責任は慰安婦問題など未解決の問題はあるものの、東京裁判で一応裁かれたことになっている。ところが、国土を焦土とし国民を貧窮させた責任は誰もとっていない。戦地においても、死者の多くが戦闘ではなく、病死や餓死だったことはすでに明らかになっている。この大きな犠牲に対する責任も果たされていない。「英霊」と言葉で称えるだけでは、彼らは報われない。
アジア人を蔑視して、戦争の拡大を喜んだ「国民の戦争責任」というものも確かにある。それはそれで問われるべき問題であるとしても、終戦勧告を何度も無視して、沖縄での住民を巻き込んでの地上戦、広島と長崎への原爆投下を招いた責任は明らかに当時の政府にある、そして天皇にも。
昭和は遠くなった。敗戦から75年が経ち、元号も二度変わっている。「あの戦争」をどう伝えるか。とても難しい。
私自身、子どもにきちんと伝えられたとは思っていない。私だって、50歳を過ぎて、ようやく全容を理解しはじめたところなのだから。
それでも表や写真、それもカラーであれば、75年前の戦争だけではなく、当時のふつうの暮らしを想像することを助けてくれる。
文豪、トルストイの有名な言葉。
幸福な家庭はどれも似たようなものだが、不幸な家庭はいずれもそれぞれに不幸なものである。
以前は「その通り」と思っていたけれど、最近になって、「そうではないのではないか」と思いはじめている。
つまり、「幸福な家庭もいずれもそれぞれに幸福なもの」ではない、と考えている。
トルストイの言葉が想定している「似た幸福」とはどういうものだろう。
お金、健康、社会的地位、家族の仲、やりがいのある仕事、親しい友人⋯。そんなところだろうか。他に何かを加えてもいい。何を加えても、それで幸福を定義することはできない、と思う。
幸福は何かが「ある」ことだけでは定義できない
いま、私はそのように考えている。言葉を換えると、「それぞれに」違う不幸を裏返したところに「それぞれに」違う幸福があるのではないか、そう考えはじめている。
貧しい人がいる。でも、お金がなくても家族で仲よく節約する暮らしに幸せを感じている人もいるのではないか。それを、「それぞれに違う」不幸、と他人が決めつけることはできないと思う。
病気の人がいる。障害を持った人もいる。でも、周りの人たちに支えられて幸せに暮らしている人はたくさんいる。
家族の誰かを亡くした人がいる。でも、ふと故人をなつかしく思い出すとき、ささやかな幸せを感じる人もいるのではないか。
心から悲しみを感じられることは幸せなこと、私はそう思う。
そんな、一見、不幸に見える幸福、他人の目からは矛盾しているような幸福もあるのではないか。
だから、「幸福」とは似通ったものではなく、それぞれの不幸の中にこそ、その人だけの真の幸福が見出されるものではないだろうか。
何かがないから「不幸」、という考え方は固定観念に染まっているように思える。
思いついたことをさらさらと書いてみた。考えははっきりしているが、うまく書けてない。
長く心に引っかかっていたことなので、いずれ、書き直すときがあるだろう。
ぼんやりと『第六部 終わりの始まり』の目次を見ていたら、どこかで見覚えのある配色と気づいた。紺地に明るい黄色。確かにどこかで見た。
思い出した。
上野の国立博物館にある法隆寺宝物館で見た「梵網経、紺紙純金泥書」。
9世紀に制作されたという青地に金文字の経典。一目惚れした配色だった。
第六部をはじめるとき、その配色を借用したことを自分でもすっかり忘れていた。
思いの外、よく似たものができた、と自賛してみる金曜日の夕方。
新型コロナ・ウィルスの感染拡大は外交や国際交流に大きな影響を与えている。閣僚たちは外遊を控え、国際シンポジウムも軒並み延期または中止されている。
本書は仕事が減ってしまった通訳者が空いた時間にこれまでの仕事から「訳せなかった」言葉を、その場面の様子とともに詳しく紹介している。
言葉を換えれば、「通訳の現場」とはどんなものかを本書は教えてくれる。本書では、知らなかったフレーズを知るだけでなく、通訳者の苦労話も存分に堪能できる。通訳者を目指す人には格好の本と言えるだろう。
2ヶ月足らずで制作したとは思えないほど、まとまりがよい。2ページで一つのフレーズを紹介・解説する構成も読みやすい。
通訳者の仕事がたいへんなことは想像できる。翻訳することだけでも大変なことなのに、それぞれの業界にはその業界でしか通用しない"jargon"と呼ばれる符丁もある。
しかも、日本語がそうであるように英語も日々刻々と変化していて、流行語もあれば新語もある。専門職なら何でも一度資格を取ればいいというものではない。継続して勉強して変化や進歩についていかなければならない。通訳者のほかにも医師や法律家もそう。困難な仕事をこなしている専門職には敬服する。
20年近く米系企業に所属して、米国本社の幹部と日本の顧客との面談では通訳する場面も多かった。厄介だったのは、本書にあるような訳せない言葉だけではなく、面談者の性格。
ある幹部は、「お前は日本支社の営業職だからその立場で自分のプレゼンに加味して通訳しろ」と言い、ある社長は「余計なことは言うな、通訳に徹しろ」と言った。
同じ業界に長くいて専門用語も一通り覚えていたから、訳せなくて困るという場面はあまり覚えていない。どんな立ち位置で通訳するか、ということでは毎回、悩んだ。顧客の立場で本社の人間に対峙するのか、本社の通訳者として顧客と対峙するか、という問題も悩ましいものだった。
本書に紹介されている言葉は当然知らない言葉ばかり。唯一、知っていた言葉が"FIFO," First-in, First-out。先入先出し。製造業にいたのでこの言葉だけは知っていた。
さくいん:英語
本書は、執筆に加わった通訳者の一人からご恵贈いただいた。
さくいん:英語
もう何年も、もしかしたら十何年か前、日経新聞のコラム「プロムナード」で小川洋子のエッセイを読んだ。そのとき彼女の繊細な感受性と柔和な文章に強く惹かれた。それ以来、彼女のエッセイ集を探していて、ようやく見つけた。
小川洋子は繊細というよりも心配性で、引っ込み思案で、自己肯定感が低い。少なくともエッセイを読むかぎり、彼女は非常にか弱い。同じように自己肯定感が低い私は、そういうところに共感する。
たとえば、新幹線に乗るときの話。切符を見返してもまだその席が自分の席なのか自信が持てない。私もそう。その上、私は席の番号を見間違えていて、しばしば後から来た人に、「そこ、私の席なんですけど」と叱られる。
「プロムナード」で読んだ文章は、「ぶつかってきたのは相手なのに、つい謝ってしまう」という内容だった。本書にその文章は収録されていなかった。内容は「罵られ箱」が近い。
小川洋子の文章は、その性格を表していてとても優しい。他者への思いやりが感じられる。その優しい眼差しは死者へも向けられる。『アンネ・フランクの記憶』にまつわる文章は、そうした心優しい心性をよく表している。
死者へも向けられる優しい眼差しから、尾崎翠「悲しみを求める心」を思い出した。
小さな出来事、か弱い者たち、弱気な自分。まずそういうものに気づく敏感な感性に驚かされる。そうしたものをそっとすくいとり、やわらかな文体で書きつづる。
50を越える短いながらも深みのある文章を読み終えて奇妙な読後感があった。
こんなに心配性で自己肯定感が低くても生きていける
励ましというほど心強いものではない。同類の人がいたという発見だけでもない。彼女が自分自身に言い聞かせているように「これでいいんだ」という不思議な安心が残る。
嫌いというわけではないけれど、小説はほとんど読まない。代わりにエッセイを読むのが好き。
彼女の小説は読んだことはない。でも、エッセイはもっと読んでみたい気がする。
こんな不義理な読者でも、ファンを名乗っていいものだろうか。
さくいん:小川洋子
多読ではない、むしろ読む本は少ないけど本が好き。本を眺めるのが好き。とくに大型の豪華本。だから、豪華本が壁いっぱいに並ぶ東洋文庫のモリソン書庫の前に立つだけでうれしくなる。
本についての本を読むのも好き。印刷博物館で活版印刷の工房を見たときも胸がはずんだ。そういう趣味の私に、この2冊はうってつけだった。
『歴史を変えた100冊の本』は易経に始まりハリー・ポッターやピケティまで時代を作り、時代に愛された本が並ぶ。興味深い解説とともに大判の写真が魅力。グーテンベルク聖書の美しい亀甲文字。『ローマ帝国衰亡史』の豪華な装丁。
かつて、本は財産だった。革張りの本の製作法を解説する図鑑を読むとよくわかる。一冊一冊、手作りされていた時代もあった。
現代は、本は読み捨ての時代。以前、父の蔵書を写真に撮って古書店で見てもらったけど、まったく価値はないと言われた。
今まで手にとって見た本で一番豪華だったのは『殉教』。大学の図書館の片隅で見つけた。図書館で借りた本で豪華だったのは『日本車大図鑑』。
1冊でいいから、自分の文章でこんな本を作ってみたい。もしも私が本を作ることができたなら、革張りは無理でも、絶対に布張りで函入りにする。
さくいん:東洋文庫ミュージアム
ふと気づいた。一番仕事がキツかった時期から10年経っている。
キツかったと言っても、私にとってそうだっただけで、客観的にどうなのかはわからない。私自身は、自分の器が小さかったからこなせなかったと思っている。
今でもときどき、もう少し頑張れたんじゃないか、踏ん張れたんじゃないか、と自問することがある。よく考えると、答えは「No」にたどり着く。
あの頃は精一杯だったとして、2年間も休養したのだから、元の通り、正社員で働くこともできたのではないか。そう思うこともある。
そう思うのは、給与明細を見る日。激減した収入を見て、障害者枠の非正規雇用で再就職したことを後悔してしまう。
ならば、今からでも正社員の仕事に応募すればいい。また自問する。答えはまた「No」。仕事は見つかりそうにないし、見つけようともしていない。
結局のところ、給料が安いことについて不平を言っているに過ぎない。非正規の障害者用の仕事さえ満足にこなせていないのに。格好の悪い自分に対して不甲斐ない思いで一杯。
今日、気持ちがどんよりしているのは、仕事でミスをしたせいもある。ここのところ調子よくやれていたのに、注意力が足りずに単純な入力ミスをしてしまい、多くの人に二度手間をとらせてしまった。
こんなことだから、自分はいつまでも治らない病気なのか、と思う。
こんな日はプレイリスト「Homesick - ため息の重い日に」を聴きながら風呂に入り早く寝るしかない。
結局、昨夜は夜、コンビニへ行き、焼酎を買ってきて呑んだ。今朝は散歩もせず。
そして今日も手痛いミス。懲りない。情けない。不甲斐ない。
昨日申請した書類はほとんどの行で数字が間違っていた。自分でも笑うくらいにできない。
再申請するために一から計算し直した。たぶん、今度は合っている。
なぜ、これが最初からできないのか、自分でもわからない。
あんなにヒドい書類を提出しても、嫌味や皮肉をつけて突き返してこないところが今働いている会社の優しい社風。
今日も優しいメールに救われた。
これまでに何人も嫌な人を見てきた。意地悪な人、非協力的な人、すぐキレる人⋯⋯⋯。そういう人が今、周囲にいたら、勤務は続けられないだろう。
打たれ弱く、いつも不安でいる私は、この環境のおかげで何とか賃金労働者を続けられている。
学生だった30年程前、国際関係論という学問が流行りはじめていた。いまは流行を過ぎて定着し、細分化が進んでいる。
予備校で世界史を学んだことをきっかけに大学では「戦争と平和」について勉強したいという漠然とした思いを抱いて入学した。
国際何何という講義をいくつか履修して、国際関係論の本もいくつか読んでみた。どの本を読んでもすっきりしなかった。国際関係論は当時、国際法や国際機関、外交についての研究が多かった。つまり、国家と国家の関係を研究するのが国際関係論だった。
広島での語り部の通訳を辞めたあと、『観光コースではない沖縄』という本を手に沖縄を旅した。大学三年の春には中国旅行をして南京まで足を伸ばした。
戦災地を見て思ったことは、戦争は国がするものではない、人間がするもの、ということだった。言葉を換えれば、戦争は国と国とあいだだけにあるのではない。戦争という暴力は日常生活にある暴力の延長線上にある。
国際関係論の本は法や制度や外交政策について議論するものがほとんどで、生身の人間の匂いのしない学問に私には感じられた。
戦争をしない条約や同盟を作るだけではなく、戦争をしない人、平和をつくる人に人間が変わらなければ戦争はなくならない。それが私の持論になった。
世界がグローバル化するなかで、生きるとはどういうことか、そこで個人はいかに生きるべきか、そういうことを考えたいと思った。
学部生の時は「平和を作る人」の一例としてルソーの『エミール』を題材に論文を書いた。
そのあと、大学院で行き詰まった。どう研究を進めていけばよいか、わからなくなった。フランス語の学習も進まないのでルソー研究を続けることも難しい。
さらに、「ルソーの人間観を通じた平和概念」という学部時代の延長線上のテーマでは、自分が書きたいことを全て語っている論文を見つけてしまい、新しい知見を提示することもできなくなった。
「平和の概念」を帝国主義や勢力均衡、国際連合など制度的な意味合いから「平和に生きられる世界」という人間的な意味に置き換えるために「平和の概念」を系譜学的に研究することも考えてはみたが、あまりに範囲が広過ぎて、どこから手をつければよいのか、途方に暮れた。
そうして大学院の2年間はあっという間に過ぎ、テーマも定まらないまま、資金も底をつき進学・留学をあきらめた。
そうして二十代後半、ほとんど第二新卒のような形で就職活動を始めた。就職が決まったとき、すでに28歳になっていた。
さくいん:ジャン=ジャック・ルソー
大学院にいる頃は人並みに研究職を夢に描いていた。研究職にはなれなかったし、それでよかったと今は思っている。
知力、財力、努力
研究職は、この三つをバランスよく持つか、どれか一つ、誰よりも秀でている人がなれる職業、私はそう考えている。
誰もが認める才能があれば、十分な奨学金を得られるだろう。スポンサーがいれば、職を得られるまで十数年、無給でも研究を続けられるかもしれない。貧しくても、先が見えなくても、コツコツと努力する人もいつか認められる日が来るだろう。
研究職に就いている知人や恩師たちは上記のどれかにあてはまる。
私にはいずれも欠けていた。
今、研究職をしている友人やTwitterで知る研究職の置かれた環境は非常に厳しい。講義をして、雑務をこなし、家庭があれば家族と過ごす時間も必要。そのうえで自分の研究をする。並大抵の努力ではやりきれないだろう。研究職の実態を見聞すると、なれなくてよかったと思う。
研究職をあきらめたから、ビジネスに楽しみを見出して、そこで努力したかというとそんなこともなかった。仕事は「しなければならないもの」以外の何物でもなかった。もっとも、持っている全ての情熱を注がなければ乗り越えられないような時期は確かにあった。乗り越えられず、私は燃え尽きた。
実は、いまの状態が私の性分には合っているのかも知れない。気楽な仕事で、自分の時間がたくさんあって。収入には不満はあるけれど、その分、責任も小さい。
好きな本だけを読んで、書きたいように文章を書く時間がある。
それだけで十分に幸福に違いない。私はまだ自分の幸福に気づいていない。
さくいん:労働
土曜日の午後、葉山まで出かけた。遊泳自粛でも海岸通りは渋滞、バスも混雑していた。
「チェコ・デザイン100年の旅」は小規模な展覧会だったけど、期待以上に面白かった。
最初の展示作品はミュシャのポスター。チェコ語ではムハと呼ぶと初めて知った。音楽、踊り、詩、絵画の4つのテーマの連作ポスターに描かれた女性は美しいというよりかわいいい顔で、今の萌え絵に通じるものを感じてしまった。
食器や椅子、本の装丁、など日用品の変遷をたどる展示が面白かった。
社会の近代化と日用品の工業化、中産階級の台頭と大量生産化。
1950年代の社会主義化、1968年の抵抗と挫折。そして、1989年のビロード革命以降の脱社会主義化とポストモダン。
政治運動に関わらなくても、デザイナーたちは民芸品をモチーフにしてチェコ文化を守り、ソ連から注ぎ込まれる画一的な文化に抵抗した。
工芸美術品に凝縮された現代史を見た。
作品のなかでは食器が印象に残った真白で丸みを帯びたデザインのティーセット。現代でも売れるのではと思わせるほど洗練された曲線美だった。
写真は美術館で撮った海とバスから撮った森戸海岸。
さくいん:葉山
日曜日の朝、母が膝が痛くて歩けないというので、出かけるのはやめて映画でも見ることにした。ちょうど小川洋子のエッセイ集を読んだところだったので、彼女の代表作『博士の愛した数式』を見た。
小説は未読。話題になっていた頃、「80分しか記憶が続かない」という設定が非現実的に思えて敬遠していた。でも加古隆が手掛けた音楽はコンピレーション・アルバムで聴いて気に入り、作品も観ていないのに図書館でサウンドトラックを借りてきて持っている。加古隆を好きになったきっかけはNHKの『映像の世紀』。これもサントラ盤を持っている。
映画も記憶のことはあまり考えず、「心を閉ざした一人の老人が愛情に気づく物語」として観た。実際、私の母も、私の顔は覚えているが、2週に一度会うと、必ず同じ話をする。前に話したとは思ってないらしい。
音楽もさることながら、情景の美しい映画だった。ロケは長野県上田市や静岡県小山町でされたらしい。「私」が自転車で走りぬける森、博士とルートが枯葉を手に話し込む場面の滝、終幕、二人がキャッチボールをする海岸、どの風景も美しい。
音楽は繊細で格調高い。博士の明晰な頭脳と閉ざされてはいるけれど秘めている優しさが伝わる。
エッセイでも感じた小川洋子の優しい文体が映像にも広く染み渡っていた。
心温まる作品だった。
本作を観た後、まだ時間があったのでドキュメンタリー映画『すばらしき映画音楽たち』(Score: A Film Music Documentary, 2016)を観た。
映画音楽を作ることがとてもむずかしいこと、音楽により作品の表情まで変わってしまうこと、それだけに音楽と映像が共鳴したときに湧き上がる感動も一際大きいことが伝わってきた。
いい映画音楽には、観たあとについくちずさんでしまうようなメロディがある
ある作曲家は自分が関わった作品が上映になると、映画館のトイレで隱れているという。観終わった観客が音楽を口ずさんでいたら、映画音楽は成功。
数々の名画の魅力を増幅させた映画音楽の裏話のなかでそんな言葉を聞いた。
実家からの帰り道、私は『博士の愛した数式』のテーマ音楽を口ずさんでいた。