将棋面貴巳『愛国の構造』にはジャン=ジャック・ルソー(以下、ルソー)に言及した所が7箇所つある。その箇所を読んでみると、著者はルソーを近代的パトリオティズムを思想的に準備した人物と見ていることがわかる。
近代的パトリオティズムとは自分のアイデンティティをネーションとカントリー、すなわち国民国家に重ねる心性を指す。全体として著者はルソーに国家主義の萌芽を見ていて否定的にとらえている。
こうしたルソー観は驚くものではない。政治思想史の教科書はたいていルソーをこのように紹介する。『社会契約論』だけでルソーを判断するとそうなる。
私の見方は違う。ルソーは市民を国民にしたあと、国家を乗り越える「世界市民」になることを構想していた。なぜ、そう言えるか。それはもう一つの主著『エミール』にそう書いてあるから。
そもそもルソーは世界市民を否定していない。否定していないどころか、それを理想としている。
憐れみを柔弱へと堕落させないために、それを一般化して人類全体のうえに拡げるがよい。そのときには、正義と一致するかぎりにおいてのみ、憐れみを感ずるようになる。というのは、あらゆる徳のうちで、正義こそが人々の共通の利益に最もよく協力するからである。理性に合致するために、また自己への愛を貫くために、私たちは隣人にたいするよりも人類にたいして憐れみをより深く感ずべきである(『エミール』「第四篇)
ルソー思想のなかで一番誤解されているのは「一般意思」という概念だろう。人間は心身を「一般意思」に譲渡することで国家の市民、すなわち「国民」になる。『社会契約論』では確かにそのように書いてある。「譲渡」という言葉が誤解を生んでいる。
人が国家に心身を譲渡するのではない。人間は国家に住むことで自分の意思を一般化することができる。普遍化と言ってもいいだろう。
われわれは、国民(シトワイヤン)であったのちにはじめて、まさに人間になり始めるのである。そこから、人類への愛にもとづいているという条件で、祖国への愛を弁明し、全世界を愛していると誇ることで、何びとをも愛さない権利を持とうとする例の自称世界市民(コスモポリット)について、どう考えなければならないかがわかる。(「社会契約論 ジュネーヴ草稿」、『エミール』「第一編」)
人間一人一人の力は小さい。だから一人の人間が「人類愛」を持っていたとしてもそれはほとんど無力に近い。人類全体の問題について考えるためには個々人が持っている人類愛を圧縮しなければならない。それが国家、ということになる。
人間性の感情は、地上全体に広がるときには、薄められ弱まるようであり、われわれは韃靼地方や日本の災害によっては、ヨーロッパの人民の災害のときほどには心は動かされることはあり得ないように思われる。人間性の感情に活力を与えるためには、利害や同情をなんらかの仕方で限定し圧縮しなければならない。(『政治経済論』)
第一段階で人間は国家だけを愛するように教育され、その後、市民となった人間は自分の意思を一般化することで国家を相対化できるようになる。
国家を人類愛を圧縮する段階と考えている点で、将棋面がマーサ・ヌスバウムなどが属する「国家を手段とみる」グループに近いと考えられるだろう。
さらに人間形成の過程が『社会契約論』と『エミール』で正反対になっていることを強調しておきたい。
エミールは社会のない自然豊かな場所で野生児として育てられる。そして十分に心身が成長したとき世界を見てまわり、長い旅の結論として故郷で市民として暮らしてくことを選ぶ。そのとき、エミールは故郷を通じて世界を愛するだろう。
図式化すれば、『社会契約論』では自然人⇨市民⇨世界市民であり、『エミール』では「自然児⇨世界を巡る人⇨故郷に生きる市民」となる。
エミールは祖国だけを愛さない。同郷人だけを愛さない。彼は同郷人であろうと異邦人であろうと彼が関わる人すべてに愛情を注ぐだろう、
エミールが置かれた状況に現代社会は非常に似ている。隣人は必ずしも同じ国籍の人とは限らない。仕事でも生活でもさまざまな文化的背景を持つ人と関わることが避けられない。
とすれば、私たちは「世界市民」などと大上段に構えなくても、自分の周囲の人と普通に関われば、自然とその行動は「世界市民」的になるだろう。
もう一つ、『愛国の構造』のなかで、ルソーとの関連で興味を引いたものがある。それは「宣教師」。将棋面は愛国心を解体し相対化する人間像として「宣教師」を構想する。「宣教師」は国境を越えて、外国の民衆のなかで彼らが信じきっている愛国心の偶然性と虚構性を説く。
ルソーの思想にも似たような人間像がある。それは「立法者」。人間を市民へ導く国家の根幹となる法(ルソーはそう書いてないが憲法といっても差し支えないだろう)は市民以外の者が創らなければならないと主張する。市民が自分たちの法を作ると自分たちに都合のよい方を作ってしまうから。
この発想は面白い。「宣教者」のイメージと重なるところがある。
ついでに言えば、第三者が制定に関わった日本国憲法は、ルソーに言わせれば理想に近い法ということになる。
私のルソー理解はほとんどこの2冊に負っている。
さくいん:ジャン=ジャック・ルソー、マーサ・ヌスバウム