色絵 Japan CUTE !、出光美術館、東京都千代田区
色に焦点を当てた陶磁器の展覧会。出光美術館へ来るのは2年ぶり。
美術作品を見るとき、いつも色から入る。形や構図はその次。
紺、青、碧、緑と続く青から緑の色が好き。
青を探して見ていると補色である黄色や金色にも目がいく。青地に金はいい。
白地に青もいい。
今回ももっとも惹かれたのは板谷波山の葆光彩。青と赤。薄いヴェールに包まれているので水色と朱色にも見える。眼福のひとときを過ごした。
出光美術館はルオーの所蔵も多い。
所蔵作品を数点ずつ展示替えする部屋には連作『受難』の30番、「ここに、一つの世界が幕を下ろして消え失せ、別の世界が生まれる」があった。
さくいん:出光美術館、板谷波山
夜桜と月光 その2
夜桜もそろそろ見納めか。
電線が無粋だが、二つ前の停留所で降りてビールを片手にそぞろ歩き。
ダンテの声
ダンテ『神曲』「煉獄篇」を読みはじめた。
黙読ではなく、心のなかでゆっくり朗読している。
ところが、読んでいるうちにいつのまにか、ウェルギリウスが力強く励ます声は星一徹(加藤精三)になり、ダンテの素直な独白は星飛雄馬(古谷徹)の声で聴こえてくる。
究極の師弟関係だからか。
書かれた言葉から声が聴こえてくるということは、言うまでもなく、
その言葉に人の心をつかむ力があることを示している。
さくいん:ダンテ、声
どうかしている
どうしたんだろ
お気に入りの店で買い物をしたのに気が重い
ふつうのうつ病とは正反対
朝ははりきっていてるのに何かするたびに自分に失望し
夕方には絶望を通り越して無気力になる
最近はお笑い番組を見ても笑わない
そもそもテレビを見なくなった
家に帰るとすぐ寝たくなる
『神曲』を開くことだけは半ば習慣になっている
それさえ二、三章読めば眠くなる
どうかしている
「ずっと眠っていたい」病が再発したらしい
疑問文
自分に能力がないのか
自分が仕事に適してないのか
自分に仕事が適していないのか
自分が仕事を甘く見ているのか
自分が考えすぎなのか
自分が周囲から浮いているのか
自分が融けこもうとしてないのか
自分に自信がないだけなのか
自分がいるべき場所ではないのではないか
自分は「ここ」にいていいのか
めぐる季節(1976)、オフコース、ウィンター・コレクション、東芝EMI、1993
オフコース「風に吹かれて」を聴いてももう何とも思わない。霧が晴れたような気持ち。
歳をとってから「老人のつぶやき」を悲しい気持ちで聴くこともないだろう。
「夏の終り」を聴いてもただただ懐かしいだけ。
でも「めぐる季節」は心をざわつかせる。
あれとこれとは違う問題。
それに気づいただけでも大きな進歩と言っていいだろう。
気がつけば、今日は月命日。
野辺送り
鎌倉のわが子も眠る山蔭に寄り添うように父も入りぬ
新しき塔婆位牌酒花を飾り鶯の声とともに懺悔文聴く
鎌倉のお墓の石に腰掛けて空に吸われし五十の悼み
夏の背広
春夏のスーツに袖を通した。
ここのところ、春夏のジャケットを着られる時期が短くなっている。
5月になれば初夏を通り過ぎて暑くなるし、街中も上着なしのクールビズ一色になる。
服飾(fashion)はいつも季節を先取りするもの。
そう思って着てみた。
28年前の新入社員のときに買ったスーツも、30年以上前、高校生の頃に買ったブレザーもまだ着られる。
着られるうちに着てあげよう。
夏のパンツ
春夏のパンツを新調した。紺色。シルエットはかなり細身。流行を追わないことが信条の店でも時代に合わせて少しずつ変わるらしい。それが"Traditional"というものか。
お気に入りだったチェックのスーツがパンツだけどこかで引っ掛けて破けてしまった。
いつも買う店で、上着をジャケットにして似合う色目を店員に訊いて、オススメをそのまま買った。
その店はアメリカで開業して今年で200年という。アメリカン・トラッドの総本山。
アメリカに憧れていた19才の頃、ニューヨークを旅して真先に本店に行ったことを覚えている。
ボタンダウンのシャツも買い足したら記念のピンバッチをくれた。
これから毎月、デザインが変わるという。さすがに毎月ここでは買えない。
本を作りたい
一生に一度でいいから本を作ってみたい。
中身は言うまでもなく、装幀から紙から活字まで、すべて自分好みで作ってみたい。
もちろん、縦書きで。
『松田道雄と「いのち」の社会主義』を読み終えてから、同じ著者の本を探して本書を見つけた。
政治家の河野太郎から宗教学者の島薗進、ジャーナリストの吉岡忍まで、幅広い執筆陣を迎えているなかで興味を引いたのは、田中智彦「『いのち』から現代世界を考える」。
著者は政治思想を専攻した後、倫理学へ帆先を変え、現在は医学部で思想と倫理を教えているという。つまり、これから医者になろうという若者に「いのち」の思想を教えている。
著者はナチス政の下、ホロコーストの前に重度の障害者が殺す「T4作戦」があったことを示したあと 、いわゆる相模原事件で犯人が語ったと言われる考え方が現代人広く潜んでいることを指摘する。
いま眼の前に、生まれながらの重度の精神障害者がいる。もしあなたがこの人物であったとして、こんな惨めな人生を終わらせて欲しいと思わないだろうか。このまま生かしておくことではなく、「慈悲殺」こそ本当のヒューマニズムではないのか、というわけです。(二 優生思想と自己決定権——過去)
この論考が書かれたのは2009年。事件が起きたのは2016年。ほとんど予言と言える上の文章を読んだだけでも、事件は異常な個人が引き起こしたものではなく、時代の空気に触発されて起きたものだったことがわかる。その心情には「慈悲殺」という術語まで与えられている。
元は連続講義だったという文章自体は長いものではない。話し言葉を交えている分だけ、「いのち」に対する著者の並々ならぬ思いが伝わってくる。
私たちが「いる」こと、私たちを含めてさまざまな存在が「ある」ことそれ自体に対する「敬意」、「畏怖」、「驚き」といった感覚を改めて呼び覚ます必要があるように思われます。「役に立つ」とか「立たない」ではなく、「いのち」それ自体の「有り難さ」、「罪深さ」に向き合うこと、見据えることが必要になってくるでしょう。「罪深さ」に関して付け加えておけば、私たちは他の「いのち」を殺すことでしか生きていくことができない。あらゆる「いのち」は、「いのち」を奪われることに対して全力で抗います。しかし、それでもその「いのち」を奪わないと私たちは生きていけない場合がある。その罪深さを、たとえば法律の話にすり換えて仕舞えば、「殺す」ということの重さはなくなってしまいます。(六 「いのちの倫理」が住まう場所(再))
「『殺す』ということの重さ」がなくなる、という指摘を読んで、あの詩人がこんなことを書くようになったのかとがっかりした谷川俊太郎『しんでくれた』を思い出した。
著者の熱意はわかった。でも正直なところ、自分の関心事としては響いてこない。「生命倫理」を語ることに対してもどかしさや違和感、もっとはっきり言えば嫌悪感すらある。
「生命倫理」について語る資格などない
声が聞こえる。この声はどこから。耳をすますと自分の記憶の奥底からこだましている。
五時、洗濯、朝食、強歩、病院、混雑、診察、快調、公園、新緑、薬局、並木、帰宅、
昼食、伊麺、図書館、自転車、故障、買物、修理、帰宅、雑誌、部屋、内装、妄想、
料理、麦酒、餃子、浅利酒蒸、麦酒、餃子、麦酒、餃子、麦酒、麦酒…………神曲、就寝。
凸凹に見えるけれど、実はまったくの平坦。
用心して歩いても足裏に何も感じないので変な気がする。
上の文、元のツイートでは「平坦なはずなのに凸凹に見える」 だった。
「AがBに見える」か「Bに見えるが実はA」。どちらの表現が読み手をよく錯視に誘うか。
錯視がもたらす驚きにはキャプションの影響も小さくないと思う。
縦書き
『庭』の第一部で主な文章は縦書きで書いていた。「たてがきき君」というJavaScriptを利用した変換サービスを使用していた。
このとき作ったページは、Safariなら今でも綺麗な縦書きで表示される。Chromeではまったくダメ。
他に方法はないのか、調べてみると、電子書籍化するという方法を見つけた。EPUBフォーマットは縦書き表示もできるらしい。
有料サービスがあるくらいだから、技術的にはなかなかやさしくない。
もう少し調べてから試してみる。
朝の雨空がきれいに晴れわたり快いのですこし早いけれど菊池桃子「Ocean Side」を聴きながら帰りの電車に乗り込んだ。
こんな女の子はもちろん周りにいなかったけれど、 いつもラジオで声を聴いていたから、まるで隣の席に座っていたような記憶の錯覚を起こしている。
最後の曲「I will」は、呆れるほどにLionel Richie, “Still”、そのまま。
でも、この歌の最後にあるささやきがなければ「雪に書いたラブレター」の名ささやきも生まれなかっただろう。
さくいん:菊池桃子
アイロンがけ
大学生になった息子が学習塾でアルバイトをはじめた。週に何度かスーツで出て行く。
背広は高校の卒業式の前日に急いで買った一張羅。塾で着るスーツは作業着みたいなものだから、当分それで十分だろう。
それでもシャツは替えが必要。私が間違えて買った大きめのシャツを数枚あげた。自分が着るときはアームバンドをしていた長い袖も、背丈も高くなった息子にはちょうどいい。
難点が一つ。古い素材なので、洗濯するたびにアイロンをかけなければならない。
最近は綿100%でも「ノーアイロン」を謡う製品が出ている。
仕方がないので、授業とサークル活動に忙しい息子の帰りを待ちながらアイロンをかける。
アイロンがけは嫌いではない。小さい頃はクリーニング屋になりたかったくらい。
何よりシワシワだったシャツがパリッとなるのが気持ちいい。
早朝カラオケ
日曜日の朝、早く目が覚めたのでカラオケに行った。朝9時までに入店すると何時間いても960円。これは安い。
喉とお腹を使うし、歩いて行くので運動にもなる。月イチの定例にしたい。
歌う曲は前回とほとんど同じ。覚えている限り書いておく。
2時間いたので他にもたくさん歌った。これまで書いたこととつながる曲を挙げてみた。
"The Nearness of You"を歌いたいのだけど、登録がない。Norah Jones, "Don't Know Why"は入っていても、同じアルバムに入っているこの曲は入っていない。
頼りになる医師
私のかかりつけ医であるS先生は何でも覚えている。記憶力がすごいのかと思っていたら、どうやらそうではなく、上手にメモを取っているらしい。
前回、そんな細かいことまで話したかなと自分が思い出せないことまでたどり、「それでこの間は調子どうでしたか」とおもむろに診察が始まる。
話を聴いているあいだはこちらを向いている。そのあいだも手先は動いている。どうやらポイントになる単語などをメモして診察後に書き足してまとめているのだろう。
聴き上手で褒め上手、頼れる医師、なかでも精神科医はこの技能が重要。
二つのスキルが高いのはよくメモをとっているから、ということに最近気づいた。
さくいん:S先生
Survivor's guilt
「サバイバーズギルト」(survivor's guilt)という言葉を最近になって知った。
私がこれまでに使っていた言葉では「生き残った傲慢さに耐えかねる苛立ち」という長い言葉がニュアンスは近い。ただ、少し違うところもある。
偶然にも生き残ってしまった後ろめたさは「サバイバーズギルト」の本質ではない。核心は「見捨てた」という自責の念にある。
重度の障害者や認知症の高齢者を介護する現場は壮絶な修羅場。
そこでは家族の絆を確かめ合うとともに「この人がいなければ穏やかな暮らしが送れる」という気持ちがほんの一瞬、頭をかすめることがあっても不思議ではない。
だから、その家族が、寿命であれ病気であれ、事故であれ事件であれ、亡くなったとき、悲しみとともに「安堵」も感じてしまう。そこに後ろめたさが生まれる。
悲嘆と安堵と後ろめたさが入り混じり、苛立ちを抑えきれない。
そういう状態を観察して「生き残った傲慢さに耐えかねる苛立ち」と書いた。
そういう定義であれば、”Suvivor's guilt"も私の思索を操作する概念になる。
さくいん:悲嘆
9連休
今日から9連休。
足掛け3ヶ月懸案だった案件に目処がたった。これで心置きなく休める。
いまは会社を出るとメールも見られない。だから、この先9日間は仕事に邪魔されることはない。
連休明けに大惨事になっていたら、そのときはそのときに考える。
起きていない出来事を心配するのはもうやめた。
『神曲』「煉獄篇」を読み終えた。
分厚い文庫本でも中身は詩なので、長編小説に比べればずっと短い時間で読み終えることができる。ただ、その世界観・宇宙観・宗教観は読み流すだけではとても理解できない。時を置いて再読しなければなるまい。
面白いのは天国と地獄のあいだにある煉獄という場所。訳者によれば、正統キリスト教にない概念で、12世紀頃、貴族と農民のあいだに市民階級が育ちはじめたことにより、死後の世界も三段階に区切られるようになった。
教会は聖職者や貴族が優先的に天国へ行けると説いていた一方、「天国か地獄か」は現世での行いによって決まるとダンテは考えていたらしい。
現世で悪徳に染まっていても、地獄へ落ちる前に煉獄で改悛すれば天国に行けるという発想自体が興味深い。
煉獄という検問があることで、現世での罪悪感を持たずに悪事に走る人もいるだろうし、煉獄で懲役を課せられるくらいなら現世では真面目に生きようと思う人もいるだろう。
勝手な想像を膨らませると、免罪符と予定説はここから生まれたのではないか。
天国へ行けるかどうかは、現世での生き方だけでは決まらない。それはかえって不安をかきたてる。何としてでも天国へ行きたい人の中には、この世で善行を積む人ばかりではなく、煉獄を上手に通り抜けようという小賢しい人も出てくると想像できる。
あるいは、たとえ最後に天国へ行けても地獄に等しい苛烈な場所である煉獄を通るくらいなら、現世でひたすら善行を積み上げようとする人も出てくるかもしれない。
宋磁 ―神秘のやきもの、出光美術館、東京都千代田区
青、白、黑、柿色、などさまざまな色の陶磁器が並んでいる。
いろいろ見ても、やはり青磁の青に惹かれる。
「101 青磁洗」。小さな皿。盤とも呼ばれる他の作品に比べると底がやや深い。真横から見ると台形に見える。
形も色も美しく、いつまでも見ていたい。水を湛えていないのに心が洗われる。
定期的に展示が替わるルオー室では「聖書の風景」(Paysage biblique)シリーズの一作「たそがれ あるいはイル・ド・フランス」を見た。これまで見た同シリーズの作品では一番描かれた人が多かった。
さくいん:出光美術館