前置き。
私はうつ病と軽度の心的外傷患者として中井久夫を読んできた。中井の言葉は病苦の切実な訴えに応えてくれる祈祷書でもあり、ずっと受けているS先生の治療と比較するセカンドオピニオンでもある。
もっともS先生は、箱庭や絵は使わないものの、中井久夫を読み込んでいるのではないかと思わせるほど中井の手法に重なる診察をするので、比較するというよりも再確認することの方が多い。
本書が掲げる、中井の考えを「体系的な思想」としてとらえるという試みがそもそも非常に画期的。こういう企図はこれまでなかった。少なくとも私は知らない。先日行った斉藤環の講演会も、内容は中井の思想を総合するものではなく、著作から箴言のような断章を集めてそれぞれを解説していくというものだった。
著者も認めるように中井の考えはもともと非体系的。本人も自覚的に体系化を拒んでいるようにもみえる。それこそが、人間や自然をいつも動的な存在としてとらえようとする中井の思想の特徴でもある。中井の言葉には多くの臨床現場を通じて会得した「知恵」と呼びたくなるような思索が集まっている。
実際、彼の本を読んでいると、線を引いておきたくなる断章に次々出会う。当然、元はある文脈で書かれたものであっても、抜き出してみると一文一文が独立した考えを示してもいる。それでいて、抜き書きした断章のあいだには矛盾しているところもある。
「中井思想の全体像」を掴むのはなかなかに難しい。
それでも著者は大胆に中井の思想の俯瞰を試みる。生命観から医療観、さらに現代社会における自然哲学の復権へと中井思想を広げていく。この展開には、著者もたとえに使っている立体の箱を一面ずつ広げて行くような面白さがある。分厚い本ではないものの、中井思想を一望できた気がする。これまで矛盾に思われていた表現が、むしろ、そのように表現を書き分けていることもわかった。
現代の若者たちを観察すると、一昔前では統合失調症と診断されるような一面が見られるという。しかしそれは、若者がおかしくなってしまったのではなく、現代(の日本)社会が統合失調症的になっているのではないかと著者は診る。中井の言葉を援用しながら、身近に自然があった里山が失われたことに原因をみる論述には説得力がある。
著者は「話が逸れた」と書いているが、ここに著者の中井観がよく表れていると思う。
ただ、著者が駆使する微分積分の比喩は数学嫌いの私にはさっぱりわからなかった。
ここから先は、本書に着想を得た、私なりの「中井思想」をまとめておく。
体系的であって同時に非体系的でもある。中井の思想において、これは矛盾しない。
中井には自然を一つの世界と見る自然哲学的でマクロ的な視点と個人を一つの世界と見るミクロコスモス的な視点の二つの見方がある。次のような彼の人間観によく現れている。
われわれが自分をどうみるか、それには二つの面があります。ひとつは“one of them”(大勢の中のひとり)としての自分であり(中略)、もうひとつは、世界の中心としての自分です。(中略)一般の精神医学者はどちらかというと「one of themとしての自分」を重視しているようですが、私は、同時に「世界の中心としての自分」とのつり合いがとれていることが精神的に健康である一つの基礎条件と考えています。この「つり合いをとる」ということには微妙な困難さがあります。
(「思春期における精神病および類似状態」(1979)『「思春期を考える」ことについて』、ちくま学芸文庫、2011)
中井の思想において、宇宙は一つであり同時に個の集まりでもある。言葉を入れ替えれば「多でありながら一である」。
矛盾といえば、一つ、中井久夫の考えでまだ納得できていない点がある。
中井久夫は、トラウマからの回復は、その出来事の記憶が「一つの挿話」になり、「しばしば無意味で退屈なもの」になると述べる一方で、「ある種の心的外傷は「良心」あるいは「超自我」に通じる地下通路を持つのであるまいか」とも言う。
以前、斎藤環氏に講演会で質問した時、中井久夫は精神医学のみならず精神分析や心理学まで横断した幅広い知識をもっているから多面的な見方を持っている。前者は医学的、後者は精神分析的な知見に基づく見解と回答されたけど、今一つ腑に落ちなかった。
この問題は「多面的」というだけでは済まされない気がする。
中井の医療観・治療観について。中井は、健常と病気の二項対立を否定する。この考えは彼の医療に対する考えの根幹をなしていることは本書でも強調されている。
とはいうものの、人と病の関係は「寒かったから風邪をひいた」というような単純なものではない。病は誰にでも起きうるけれど、いったん起きた病はその人に固有であり、病気は究極的には個人的なもの。とくに精神の病についてはそれがよく当てはまる。
外傷性障害の成立のためには、外傷は必要条件であろうが、むろん充分条件ではなく、当人の生理的・心理的育成史的、社会環境的な無数の要因が働き、そしてそれらすべてが時とともに変化するという複雑な連立方程式をなしているはずである。
(『徴候・記憶・外傷』「あとがき」)
病と人の関係をみても、普遍と個は両立している。
健康と病気とは対立するものではない。ある環境の下で人が示す生理的反応が過剰に表出しているだけ。健常と病気は同じ生命の一線上にある。
健康と病気とが対立するものではない、ということは、回復は病気を患う前の自分に戻ることではない、ということでもある。著者も病気の罹患から寛解までを登山に見立てた図で中井の言葉を説いている。下山は登山と同じ道を通らない。
病気と治療を通じて新しく生きはじめることを中井は促す。その意味で、寛解とは「新しい自分との出会い」と言うことができる。
余談を二つ。中井の医療観を、病気を、その人の人生にとって固有の経験ととらえる「ナラティブ・メディスン」との共通点を見ることも間違いではないだろう。
また、「経験」を通じて人は根本的に変わることができるという森有正の「変貌」の概念との比較も可能と思われる。
話を広げるときりがないので、ここではこれ以上踏み込まない。
閑話休題。
病気を治して新しい自分に出会うことは、しかし、新しい秘密を持つことでもある。精神疾患、心的外傷、悲嘆もそう⋯⋯。寛解した、 乗り越えた、と思うことがあっても、秘密は心の中から完全に消えるものではない。そして、折に触れて元病者を苦しめる。
しかも、著者も指摘しているように現実社会はますます効率化を優先しているので、病が治るだけでは社会に復帰できない。精神医療でさえ、「回復」するだけではなく病前よりも強く「成長」することを求める。「レジリエンス」「PTG」という言葉だけが流行している昨今の事態を私は歓迎しない。
おそらく中井も著者も同意してくれるだろう。
中井が考える回復後の「新しい生き方」にも強さや成長は含まれる。ただし、それは己の弱さを理解した強さであり、効率と増強ばかりを求める社会に抵抗する強さでもあり、そういう生き方ができる賢さでもある、と思う。
ところで、中井は秘密を土居健郎にならい否定的にとらえない、むしろ、自分を守る壁として積極的に「秘密を宝物のように大切にすること」を勧める。
秘密は自己と世界を隔てる壁。それは土塁や鉄壁のように硬いものではない。中井は珊瑚礁を囲む柵に喩えるという。風に揺れるカーテンを私はイメージする。ときに社会は自分に侵入してくることもあれば、自分から足を踏み出し社会に参画することもできる。
秘密は陰ではなく自分の根拠になる。ただし、その境地に至る道のりは長く険しい。
その道がどれほど険しいのか、私にはまだわからない。いま私は下山の途中。少なくとも病の頂上は過ぎたと思いたい。「階段の踊り場」のような緩やかな斜面にいる。でも、この先どう進めばよいのか、わからない。だから、少し悲しい気持ちを抱えてしばらくぼんやり草の上に座っている。
慌てて走り出して転げ落ちそうになったり、方角を間違えて登り坂に戻ったりもしている。
ゆっくりと一歩ずつ、足を踏み外さないように歩く。やさしく励ましてくれる中井の著作はこういう時ににいい道案内になる。中井の言葉にはそんな「効用」があることを本書はあらためて教えてくれた。
本書の一番の読みどころは、中井の親友だったという著者達の父親を通じた家族ぐるみの交流の逸話だろう。中井に剽軽な一面や学生時代には無頼なところもあったことに驚いた。とりわけ若い頃は著作から想像するような真面目ではなく、むしろ不良で野生的だった。
そこで思い出したのが、自ら不良少年と称した鶴見俊輔との対談。睦まじさを感じさせる会話から高い教養の裏側にやんちゃな少年の姿が垣間見えた。
鶴見俊輔と並んで、中井と比較したいのが松田道雄。本書でも、共通するものがあると指摘されている。松田も代表作『育児の百科』では、いくつもの臨床現場で体得した「知恵」のようなものを感じる。中井久夫と松田道雄の二人には比較研究の価値がある。
著者は「実験精神」を持ち中井久夫を多様な読み方をして、各人の臨床(現場)で活かしていくことを勧めて、本論を締めくくっている。
戦争体験の記憶があり旧制高校の雰囲気を知る中井久夫は、いわゆる戦後知識人の最後の世代と言える。精神医学以外の分野でも広く思索を重ねてきた彼の思想が裾野を広げて引き継がれていくことは、患者として彼の著作を読んできた私にとっても喜ばしい。
これからは精神医学以外の面からも中井久夫を楽しみたい。彼の著作は堅苦しくない話題にも富んでいる。
追記。
精神医療の自立観ーー『中井久夫との対話』再読 4.7.21
さくいん:中井久夫、S先生、斎藤環、森有正、土居健郎、鶴見俊輔、松田道雄