3/1/2019/FRI
息子の帰還
北米にプチ家出させていた息子が4週間ぶりに帰ってくる。
飛行機はとっくについているはず。
「もう着いてる?」
「お寿司買って待ってるから」
追い出したつもりだった方がまったく子離れできてない。
さくいん:アメリカ
北米にプチ家出させていた息子が4週間ぶりに帰ってくる。
飛行機はとっくについているはず。
「もう着いてる?」
「お寿司買って待ってるから」
追い出したつもりだった方がまったく子離れできてない。
さくいん:アメリカ
3人で回してる今の部署。一人産休に入り、一人今月末で辞める。残っているのは障害者枠雇用(うつ・3級)の契約社員が一人。
先週来た派遣社員は技能詐称で、職務経歴書に書いてあったスキルの何一つ満足にできず一週間で辞めた。新しい派遣社員はまだ見つかっていない。
いいところを見せてやろうと思ったのも束の間、不安が大きくなってきた。
ふだんはテレビドラマを見ない私が、最近、朝ドラを見るようになった。録画しておいて、帰宅してから『まんぷく』と『べっぴんさん』を見ている。『べっぴんさん』は前に総集編をまとめて見た。そのときに面白かったので再放送で一話ずつ見ている。
新作の『まんぷく』はともかく『べっぴんさん』に惹かれるのはなぜか。
理由は阪急百貨店にある、と思う。
幼稚園の年少の頃、2年弱ほど、西宮に住んでいた。幼く、時間も短かったのに、いくつか覚えていることがある。
同じ名前で、何でも「半分こ」にした友だち。幼稚園で母が迎えが遅れて友だちと二人でずっと待っていたこと。園長先生の手品。ジャムの瓶に紙粘土と貝殻を押し付けて作った器。そして、茶色の阪急電車と百貨店のお子様ランチ。
あの頃の我が家は裕福とは言えなかったし、母は忙しくしていた。デパートへ行くことなど滅多になかったはず。だからこそ、記憶に焼き付いているのだろう。
その阪急百貨店のお子様ランチには、可愛らしいクマが描かれたエプロンが付いていた。それがドラマで「キアリス」と呼ばれているベビー服の店のデザインだったような気がする。
記憶違いかもしれない。それでも私のなかでは、電車とランチとエプロンが一つになって、幼少期の思い出の一場面になっている。
さくいん:NHK(テレビ)
朝ドラの話のつづき
今夜は、『まんぷく』でカップヌードルの開発に悪戦苦闘する萬平と福子を見たあと、『べっぴんさん』で健太郎が残業してカップヌードルを食べていた。
ほぼ同じ時代を舞台にしていたとはいえ、あまりの偶然に驚いた。
さくいん:NHK(テレビ)
一見まとまりのないように見える中井久夫の「知恵」の集まりに輪郭をつけた『中井久夫との対話』を読み、ふと、思った。私の考えにはまとまりはあるのか。思想と呼べるような深さはあるのか。
いずれの問いに対しても、答えは否。『庭』を始めてから16年経つけれども、体系らしい考えは見えていないし、思考が深まってきたとも言い難い。ただ同じところをぐるぐる回っているだけ。まさに逡巡。
一時期、"スタイル"という言葉に傾いていたことがあった。いくつか断章を書いたものの、まとまりあるものにはならなかった。
今でも雑誌の広告などで「スタイルのある生き方」などと書いてあると「それが言いたいことなんだよな」と思うことはあっても、それ以上、"スタイル"という言葉にこだわることはない。
自分の考えや生き方を語る上で、鍵となる言葉はある。これをきちんと概念化しなければならない。
労働、偶像、言葉、歴史、うつ、 信(faith)、馬鹿、悲嘆、そして、秘密。
思想というものを求めるのならば、部材となる概念を作り、それから構造を考えて、組み上げていく、そういう「操作」が必要になる。
しかし、その前に、そもそも学者でもなければ宗教者でもない私のような小者が「思想」などという大仰な旗を掲げる意味はあるのか。この数年、そこで立ち止まっている。
昨日は3 時で早退。胸焼けが酷くて昼も食べられなかった。
これで2.5時間、就業時間がマイナスだから明日から少しずつ早出をするか残業するかして帳尻を合わせなければならない。
それにしても実家へ行ったときは楽しく過ごせても、必ず翌週に疲れが残る。
昨夜、薬を飲んで寝たのに今朝になっても腹痛は治らず、今日は会社を休んだ。
一日中寝ていて、いま夕飯を食べて風呂に入ったところ。もう寝る。
20:10。
久しぶりにキーマカレーを作った。この料理は家族に評判がいい。
大学生はいつ帰ってきて、いつ食べるかわからないので、好きなときに食べられるカレーは便利。
キーマカレーの作り方。
昨日と今日、2時間ずつ歩いた。
昨日は歯医者から公園を一回りして、図書館に立ち寄り、予約していた本を受け取ってから帰った。予約していたのは雑誌『東京人』、3月号、特集は「テレビアニメと中央線」。
スタジオジブリが東小金井にあることは知っていたけれど、これほどたくさんアニメ関連企業が中央線沿線にあるとは知らなかった。
今日は昨日とは別の遠い図書館まで足を伸ばし、久しぶりにCDを借りた。
借りてきたCD。
以前は軽快なフュージョンが好きだった。最近は渋みのあるジャズを好んで聴いている。
「都会には季節感がない」という考えはありきたりに過ぎる。こうして街を歩いていると、景色が確実に春に近づいていることが東京に住んでいてもわかる。
もっとも、都内といってもここは都会とは呼べないほど、郊外に位置している。
旧約聖書、「イザヤ書」を読み終えた。
神は背信するイスラエルの王と民に怒り、叱りつける。預言者を通じてもたらされたその厳しい叱咤が ユダヤ教徒のあいだで信仰と結束を強めたことは想像に難くない。本書は旧約聖書の歴史的背景やユダヤ教の基本的な考えを示してよい道案内になった。
わからないのは、現代で「神の怒り」はどう受け止められているのか、ということ。
政治的にはイスラエルのマニフェストとなっているパレスチナ排撃は神の望むことなのか。否、と問う宗教者はイスラエルにいないのか。
身近にユダヤ教徒はいないのでそういうことを訊く機会がない。図書館に行っても、書店に行っても、キリスト教や仏教、イスラム教と比べてもユダヤ教について書いた本は少ない。
どう考えるかより前に基礎的な知識がまだ足りない。旧約聖書も「エレミヤ書」に入ったばかり。
10年前の今ごろ、ある半導体デバイスの量産立上げに関わっていた。すでに採用を決めた顧客の製品発売を1年遅らせてもまだ量産できていなかった。
熱血ベンチャー社長が、「いずれ、この製品はすべての携帯電話に搭載される」と毎日鼓舞しても信じていない社員も少なくなかった。
それが今では社長の予言通り、そのデバイスはすべてのスマホに搭載されている。
価格もサイズも当初の2割くらいになっている。
技術の進歩、普及、陳腐化は想像以上に早かった。
追ていけなかったのも無理ないか。
今月は10年前の出来事を思い出すことが多い。10年前に書いた文章を読み返す。
すでに病んでいて残り火のような気概だけを頼りに何とか働いていた。それから6年経って完全に壊れてしまった。
今思えばよく6年ももった。40代は自滅の10年だった。
朝、バスが桜並木を潜り抜けていく。