山口の民家

熊谷家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年5月21日指定)
山口県萩市今魚店町47-1
建築年代/明和5年(1768)
用途区分/商家(藩御用商人)
指定範囲/主屋・離れ座敷・本蔵・宝蔵
公開状況/公開
長州藩の本拠地・萩城下の商人町であった今魚店町に、約2千坪もの広大な敷地を有する豪商家の邸宅である。商家の屋敷としては別邸ならばいざ知らず、町中の本宅でこの広さは格別なものである。江戸中期に酒造業を営む本家から分家したという当家の事業は、金融・捕鯨・塩田開発など多岐に渡り、家格も藩の御用達として御目見得、扶持給米、大年寄格、苗字帯刀を許されるまでに至っている。屋敷には主屋を筆頭に、離れ座敷や十棟の土蔵が残.るが、何れも家格に相応しく丁寧な仕事振りの建物である。文化財指定の建物以外にも屋敷内には転用されつつも数多くの土蔵群が残されており、国内における近世商家建築を代表する存在と云っても過言ではないだろう。
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菊屋家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年5月21日指定)
山口県萩市呉服町1丁目1番地
建築年代/江戸時代初期(承応元年(1652)〜明暦3年(1657))
用途区分/商家(藩御用商人・大年寄格)
指定範囲/主屋・本蔵・金蔵・米蔵・釜場
公開状況/公開
長州藩の御用を務める傍ら、領内巡検使の本陣にも充てられた城下町・萩を代表する豪商家の居宅である。「菊屋の家は別格」と地元の方が口にするのは、あながち大袈裟な云い振りでなく、萩城郭の内外を区切る外濠脇に位置し、城下町を横断する本通りに面する屋敷からは単なる御用商人という地位に止まらない、何か特別な存在感が醸し出されているようである。実際、当家代々は大年寄格に任命され、屋敷地は藩の御用屋敷として借り上げられることが度々であったという。1千坪の半町を占める広大な屋敷規模も然ることながら、17世紀半ばの建築と推定される主屋は、江戸初期より藩主に従って入部した来歴・由緒を誇る象徴として、他では味わえぬ独特の魅力を放っている。
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口羽家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年5月21日指定) 
山口県萩市堀内146
建築年代/江戸時代(19世紀初頭)
用途区分/武家(寄組・知行1018石)
指定範囲/主屋・表門
公開状況/公開
城下町・萩に残る上級武家住宅である。当家は毛利本家の拠点である萩城の前衛たる位置に大身の武家屋敷が建ち並んでいた堀内地区の橋本川に面した、特に風光明媚な一画に約4500坪もの広大な屋敷地を有する。現在、屋敷地には主屋と長屋門のみが残り、特に長屋門は海鼠壁を施した重厚感のある建物で、城下に残る他の武家門の多くが質素な簓子下見板張であるのに対し、格別に立派な造作であることから、毛利家の江戸藩邸門の移建説もあった程であるが、真偽は不明である。一方、主屋は桁行12.9m、梁間10mの小規模なもので知行高を考慮すると、本宅の建物とは到底考えにくく、隠居棟の類ではなかったかと疑われる。
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厚狭毛利家
萩屋敷長屋
国指定文化財 (昭和41年6月11日指定)
山口県萩市堀内85-2
建築年代/安政3年(1856)
用途区分/武家
指定範囲/長屋
公開状況/公開
萩城下町における毛利家一門の厚狭毛利家の屋敷地址に残る長屋建築である。桁行51.4m、梁間5.0mに及ぶ長大な建築で、分家筋の家臣団が住する長屋でさえ、これ程までに立派な建前であることに武家の面目の重要性を感じさせてくれる。ちょうど萩城の大手門前に位置することからも尚更の話であったのだろう。厚狭毛利家は長門未益領を支配した禄高8371石の大身の武家で、明治2年に描かれた萩城下町絵図においては毛利能登の名で岩国の吉川家に次ぐ広大な屋敷地を与えられていたことが判る。残念ながら本建物が唯一残された屋敷遺構であるが、長屋といえども建ちが高く、随所に出窓を配し、白漆喰壁に簓子下見板張りを施した美しい佇まいである。内部においても各部屋には畳が敷かれ、式台玄関までもが設けられる様子に流石という他にない。
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森田家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定)
山口県阿武郡福栄村大字黒川503
建築年代/江戸時代(18世紀中頃)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋・貫木門・塀重門・塀重門左右板塀
公開状況/非公開
城下町・萩の東方約5km、旧福栄村の黒川集落に所在する上層農家である。標高464mの権現山の北斜面を開削して雛壇状に形成された田圃の中に、石垣を築いて広大な屋敷地を確保し、主屋を中心に貫木門や馬屋、米蔵等を周囲に配置する屋敷構えは、旧黒川村の開拓の功績により代々庄屋を務めた旧家に相応しいものである。主屋は18世紀中頃の建築と考えられているが、天保14年(1843)頃に座敷周辺を改造、明治後期には茅葺屋根を石州瓦葺に改めるなど外観は大きく変わっている。長州藩主の鷹狩りの際に休息所として用いられたという由緒を持つことから、座敷の矩手に配された床・違棚の優れた意匠、座敷廻りの二重縁の格式の高さにも合点が行くところだが、一方で華美ゆえに藩役所から取り壊しを命じられたという逸話があるらしい。誠に役所という組織は面倒くさい代物である。
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早川家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定)
山口県長門市通町1032
建築年代/江戸時代(18世紀後半)
用途区分/漁家(網頭)
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
県北部の中心都市・長門の北方に青海島という周囲40km程の小島がある。島全体が天然記念物に指定されている風光明媚な土地であるが、島東部の通集落は江戸時代から明治の末にかけて古式捕鯨の拠点として栄えた場所として有名である。現在でも町内には鯨墓など、嘗ての漁の繁栄を偲ばせる遺跡が点在している。当家はその通集落の南端に所在し、代々網頭や浦方役人を務めたとされる漁家で、天明5年(1785)の通浦大火後に網頭で廻船業を営んだ黒川家から住宅を買い取ったとのことである。漁師町特有の細い露地に面して建つ土蔵造の主屋は、周囲に似つかわしくない程に大店の風情を醸している。
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国森家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定)
山口県柳井市柳井津467
建築年代/江戸時代(18世紀後半)
用途区分/商家(灯油製造)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
県南東部に所在する柳井の町は瀬戸内に臨む海上交通の要衝として古くから栄え、室町期には守護大名・大内氏の支配の下、既に現在の基礎となる市街が形成されていたという。江戸期においても岩国藩の外港・商都として繁栄は続き、現在においても白壁土蔵造本瓦葺の重厚な妻入商家群が連続して残る町並は実に美しい。町並の西寄りに建つ当住宅は柳井の代表的な商家遺構で、本町通りに南接し、屋敷背後は柳井川に通じている。「室屋」の屋号で鬢付油の製造販売を行った富商であったという。
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目加田家住宅 国指定重要文化財 (昭和49年2月5日指定)
山口県岩国市横山2-6-31
建築年代/江戸時代(19世紀初期)
用途区分/武家(中級武士・知行180石)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
日本三大奇橋として名高い錦帯橋の存在により、全国的にその名を知られる城下町・岩国に所在する中級武家住宅である。当家は近江国愛知郡目加田村の出身で、天正年間に吉川元春に召抱えられた由緒を持つ。370坪程の屋敷には、かつて表門や土蔵もあったというが、現在は主屋だけが残る。当住宅で注目すべき点はやはり屋根瓦にあり、両袖の桟瓦や桟瓦と本瓦を交互に葺く手法は岩国地方だけに見られるものである。また建物中央の中廊下は幕末の武家住宅の発展を示すもので興味をそそられる。
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毛利家本邸 国指定重要文化財 (平成23年10月21日指定)
山口県防府市多々良1-15-1
建築年代/大正5年(1916)
用途区分/旧藩主本邸
指定範囲/本館・女中部屋・台所・洗濯所・奥土蔵・台所付倉庫・用達所倉庫・二階建物置・画像堂・石橋・門番所・本門
公開状況/公開
明治維新の功績により長州藩主・毛利家は、華族制度の最高位である公爵を授けられた。明治4年の廃藩置県により旧藩主は東京移住を命じられていたが、明治20年頃には旧領地に帰ることが許されるようになり、この措置に対して整備されたのが当邸宅である。旧藩時代の湊町であった三田尻に近い防府市郊外の高台に25000坪にも及ぶ広大な敷地を造成し、御殿建築の系譜を引く伝統工法をベースに鉄筋コンクリート工法など随所に近代的な建築手法を取り入れた大規模な近代和風建築である。
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有近家住宅 国指定重要文化財 (平成24年12月28日指定)
山口県山口市徳地八坂971
建築年代/明治25年(1892)
用途区分/酒造業・地主
指定範囲/主屋・米蔵・長屋・漬物小屋・正門・仕込蔵及び留蔵・瓶洗場・土地
公開状況/非公開
中国自動車道の徳地ICから3km程北上した小規模な在郷町に所在する旧酒造屋敷である。国道489号線を津和野方面に向かう途上、道路傍から臨む桁行19間半にも及ぶ土蔵造の酒蔵は、威容を誇るだけでなく黄褐色の荒壁仕上でとても風情が良い。当住宅が所在する八坂集落には、今でも旅館などの町家が僅かながらに建ち並ぶが、当住宅も明治中期の建築当初は街道に面して主屋を構えていたとのこと。大正期に曳家して後退させ、現在に見られるような邸宅型の屋敷構えに改めたらしい。当家の周囲には遮る建物がなく、近代の屋敷景観を臨むのに格好の環境である。
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四階楼 国指定重要文化財 (平成17年12月27日指定)
山口県指定文化財 (平成5年5月14日指定)
山口県熊毛郡上関町室津字築出町868-1
建築年代/明治12年(1879)
用途区分/廻船問屋
指定範囲/主屋
公開状況/公開
山口沖の瀬戸内海には要衝と云える場所が3つあった。下関、中関、上関である。上中下に関という名が冠されるとおり、沖伝いに航路を取る江戸時代の船は必ず通らなければならない船の道であった。その上関とは瀬戸を挟んだ対岸に室津の地はあり、寄港地として栄えた土地柄である。四階楼を建築した小方謙九郎は高杉晋作が結成した奇兵隊に入隊、第二奇兵隊の創設に当たっては参謀役を務めた人物。維新後は出身地の室津に帰り、回漕店や汽船宿を営んだという。上関海峡に面して建つ四階建ての外観は異様で、かなり唐突な印象である。内部は見事な鏝絵が随所に施され、最上階にはステンドグラスが用いられるなど、地方における擬洋風建築の先駆的な事例で、とにかく面白い建物である。
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木戸孝允旧宅 国指定史跡 (昭和7年3月25日指定)
山口県萩市呉服町2丁目37番地
建築年代/江戸時代
用途区分/藩医
公開状況/公開
西郷隆盛、大久保利通らと並び維新三傑に数えられる明治維新成就の立役者である。若い時分は桂小五郎と称していた。当住宅は彼の生家で、萩藩医を務めた和田家の住宅である。8歳で150石の桂家の末期養子に入ったが、事情により20歳で江戸に留学するまで当住宅で過ごした。薩長同盟、五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県など彼の事績については枚挙に暇がないが、「藩医の家柄に生まれた故に武士よりも武士らしくあれ」と父から受けた教えは、彼のその後の活躍の礎となったに違いない。
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青木周弼旧宅 国指定史跡 (昭和42年1月10日指定・当家は53年追加指定)
山口県萩市南古萩町3
建築年代/江戸末期
用地区分/藩医
公開状況/公開
萩城城下町の名称で一帯を国指定史跡に指定されている古萩町・呉服町の中級武家屋敷群の一画に所在する旧藩医であり蘭学方の教授を務めた青木周弼の旧宅である。山口県柳井市の沖合に浮かぶ大島の漢方医の家に生れた彼は、大坂、江戸、長崎に遊学、蘭方医としての知識を身に付けたことで、長州藩主・毛利敬親に召し抱えられ、天保11年(1840)の医学館創設時に教授となった人物である。



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伊藤博文旧宅  国指定史跡 (昭和7年3月25日指定)
山口県萩市椿東字新道
建築年代/江戸時代
用途区分/武家
公開状況/公開
伊藤博文公は初代の総理大臣、枢密院議長、韓国統監を務めた明治という時代を代表する偉人である。昭和生まれの方々には千円札の肖像の主としてお馴染みであろう。萩郊外の松陰神社の南方に所在する当住宅は公が少年時代を過ごし、松下村塾に通っていた時分に住まいしたものである。伊藤家は長州藩の足軽身分の軽輩で、住宅は身分相応に、至って簡素なものであるが、この小さな住居から終には大勲位公爵を授かるまでに栄達した人物を輩出せしめたという事実は、明治という時代の凄さを顕すものである。
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吉田松陰旧宅 国指定史跡 (大正11年10月12日指定)
山口県萩市椿東松本市1537 (松陰神社内)
建築年代/江戸時代(天保年間)
用途区分/武家
公開状況/公開
幕末維新の志士達の精神的支柱となった吉田松陰の父・杉百合之助の住居である。松陰の実家・杉家は知行26石程の下級武士であったが、松陰は次男であったため吉田家(57石)に養子に入った。当住宅は杉家が親族であった瀬能吉次郎(49石)の持家を借り受けたもので、安政2年(1855)、松陰がペリー艦隊で密航を企てようとした罪により生家預りとなり、当住宅に幽閉されたことから「松陰幽囚家」と称されている。部屋数も多く、決して下級武士の住まいとは思えぬ立派な建築である。
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兄部家住宅 国指定史跡 (平成元年9月22日指定)
山口県防府市宮市町5-11
建築年代/寛政6年(1789)後
用途区分/本陣・酒造業
公開状況/非公開 【火災により消失しました】
防府天満宮の門前町であり、日本海側の藩都・萩と瀬戸内側の湊町・三田尻を結ぶ萩往還の宿場町でもあった宮市の中心部に所在する旧本陣遺構である。その立地条件に加えて主屋の間口の広さは当家が町内において只ならぬ存在であったことを如実に物語っている。実際、当地に鎌倉時代から居住していたという旧家であり、室町時代には合物販売を司る兄部役に、以降も魚物役、酒場役に任じられるなど、時代が移ろいでも各々の為政者達から商売上の特権を享受し続けられた名家であった。
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村田清風旧宅 国指定史跡 (昭和16年8月1日指定)
山口県長門市三隅下字垣頭2510-1
建築年代/不詳
用途区分/在郷武家
指定状況/本屋・米蔵・馬小屋・納屋・湯殿・墓所
公開状況/公開
当住宅は長門市中心部から東へ3kmほどの田園地帯に所在する幕末の偉人・村田清風の生家である。一般に「三隅山荘」と呼称されている。清風は僅か知行91石の地方役人の家に生まれながら藩校・明倫館に学び、藩主側近として重用され要職を歴任、幕末の長州藩の藩政改革に辣腕を振るった人物である。明治維新における長州藩の活躍は彼の財政改革なくしてはなかったとまで云われる。住宅は玄関を構え、書院座敷を備える典型的な武家住居であるが、城下屋敷とは異なりゆったりとした風情である。
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山田家住宅 山口県指定文化財 (昭和41年6月10日)
山口県周南市湯野4202-2 (移築)
建築年代/元禄年間
用途区分/在郷武家(萩藩重臣の家臣・物見役)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
徳山と防府のちょうど中間辺りの国道2号線沿いに戸田という町場がある。宿場町的な雰囲気を残す小集落であるが、当住宅はこの集落の入口付近に建っていた在郷武家住宅である。現在は戸田から北へ2kmばかり奥に入った湯野温泉郷に移築されている。藩政期において付近一帯は長州藩毛利家の重臣であった堅田家(寄組筆頭・録高6126石)の私領地で、当家はその家臣であった。住宅は江戸初期建築の古い建物と推測されているが、昭和40年の移築保存時に規模が6割程に減じられている。
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小田家住宅 山口県指定民俗文化財 (昭和54年3月31日指定)
山口県柳井市柳井津439
建築年代/宝暦3年(1753)
用途区分/商家(大年寄・灯油製造販売・廻船業・塩田経営)
公開状況/公開 【商家博物館むろやの園】
岩国藩領の外港的役割を担った柳井津の町は藩の庇護を受け、瀬戸内海沿岸地域にあっては大坂に次ぐ繁栄を誇るまでになったという。当家は柳井津の中心部・金屋町に享保元年(1716)頃から「室屋」の屋号で油の製造販売業を営み、町の大年寄役を代々務めるなど柳井津を代表する商家であった。間口14m弱、奥行119mもの縦長の屋敷には、本通りに南面して建つ主屋を筆頭に旧勘定蔵、本蔵など11棟もの建物が残存している。当家には往時の家具・家財も数多く残り、建物と共に文化財指定されている。
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久保田家住宅 萩市指定有形文化財 (平成15年6月27日指定)
山口県萩市呉服町1丁目31番地5
建築年代/江戸時代末・明治16年改造
用途区分/商家(呉服商・酒造業)
指定範囲/主屋・離れ・土蔵・表門
公開状況/公開
城下町・萩を代表する商家・菊屋家住宅(国重文)の道路を挟んだ対面に所在する商家建築である。現在においても結構な規模を誇る屋敷であるが、酒造業を営んでいた明治中期には更に数棟の土蔵が建ち並んでいたという。主屋は江戸末期の建築と推定されており、自分が今どこに居るのか判らなくなる程に複雑な間取りである。当家の祖となる人物は江戸後期に近江国から萩にやってきたとのことであるが、短期間のうちに、この場所にこれほどの屋敷を構えられ得たとは、余程の商才である。
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益田家住宅  萩市指定文化財 (昭和57年2月26日指定)
山口県萩市須佐4441-19
建築年代/明治7年(1874)
用途区分/武家(長州藩家老・旧須佐邑主)
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【須佐歴史民俗資料館】
城下町・萩から東へ約30km、旧須佐町に所在する旧邑主・益田家の在地支配のための屋敷遺構である。益田家は本姓を御神本と称し、中世に石見押領使として石見国益田の七尾城に拠ったことから益田姓を名乗ったという。以後大内氏、毛利氏に仕え、江戸期を通じて長州藩の筆頭家老として知行13000石で須佐一帯を支配した。屋敷は江戸期までは在地の役所的な機能を持つ居館と呼ぶに相応しい規模のものであったらしいが、明治初期に大幅な改築を受け、現在は座敷棟と帳場棟の簡素なものである。
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服部家住宅 東和町指定文化財
山口県大島郡東和町大字西方字高田(移築)
建築年代/明治18年(1885)
用途区分/農家兼商家(酒屋・網元・回漕業)
指定範囲/主屋・長屋・土蔵
公開状況/公開 【農村交流伝承館】
県南東部の瀬戸内海に浮かぶ防予諸島の大島に所在する在郷商家である。当住宅は現在、国道437号線脇の埋立地に移築され道の駅「サザンセトとうわ」の付属施設となっているが、元来は現在地から少し南方の町場に所在していた。江戸中期に農業を営む林家から分かれ、余程の商才に恵まれたのか幕末には武士株を取得して服部姓を名乗ったとのことである。屋敷は出稼ぎ大工を多く輩出した地だけあって、非常に洗練された丁寧な造作で、高々離島の民家と侮ってはいけない。
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玉木文之進旧宅  萩市指定史跡 (昭和39年3月28日指定) 
山口県萩市椿東字椎原1584-1
建築年代/年代不詳(江戸時代)
用途区分/武家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
その革命的思想により明治維新の礎となった吉田松陰を祀る松陰神社から長州藩主毛利家の菩提寺である東光寺に至る細道の中途に所在する小規模な武家住宅である。犬槇の生垣を廻らした簡素な佇まいは家禄40石の大組に属する下級武士に相応しい屋敷構えである。そんな当家の建物が史跡として残るのは、この住宅が松下村塾発祥の地とされているからである。幕末の当主・玉木文之進は吉田松陰の叔父に当る人物で、彼が開いた寺小屋が松陰に引き継がれ、多くの志士を生み出すのである。
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桂太郎旧宅 萩市指定史跡 (平成10年1月27日指定)
山口県萩市川島73-2
建築年代/明治42年(1909)
用途区分/総理大臣・陸軍大臣(従一位大勲位公爵叙任)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
明治という近代国家への転換期にあって陸軍長州閥を背景に権力の頂点を極めたものの、政党政治という時代の奔流に惑わされて3度も内閣総理大臣を務めては辞めた人物である。彼は弘化4年(1847)、萩市平安古で馬廻役125石の上士の家に生まれ、戊辰戦争の際には奥州総鎮撫総督府の参謀添役として出征、その後陸軍に出仕し栄達を極めるが、当旧宅は3歳の時に転居した屋敷跡に明治42年の晩年に主屋を新築したものである。その余りに簡素な佇まいに却って作為的なものを勘繰ってしまう程である。
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湯川家住宅  萩市指定史跡 (平成5年12月1日指定)
山口県萩市川島67
建築年代/不詳(安政年間?)・明治3年改築記録あり。
用途区分/武家(樋番屋敷)
指定範囲/主屋・長屋門・台所・表付属屋
公開状況/公開
城下町・萩は阿武川の三角洲に形成された町である。その突端部、すなわち阿武川がこの三角洲により西に松本川、東へ橋本川に分岐する地点に当住宅は所在する。地理的に城下では最上流部に位置していた関係から、城下を廻る用水路がこの場所から引き込まれ、当住宅はその水門の管理を行う「樋番」屋敷として用いられていたことがを判明している。禄高23石の湯川家がこの屋敷を購入したのは明治初期のことで、屋敷西側を流れる用水路(藍場川)から屋敷内に引き込まれる水路が良い風情である。
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宇野千代家住宅  登録有形文化財 (平成19年12月5日)
山口県岩国市川西2-9-35
建築年代/明治初期・明治中期に増改築
用途区分/作家生家
登録範囲/主屋
公開状況/公開
大正・昭和期を通じて活躍した女性作家・宇野千代の生家である。明治30年(1897)に当住宅で生れた彼女は、岩国高等女学校時代から秀才の誉高く、代用教員を務めた後、縁あって文学の世界に足を踏み入れると同時に多くの文学者・芸術家と交流。当時の時代性を考えたとき規格外に恋多き女性として奔放に生き、その様を自らの著作に活かし、「おはん」、「生きていく私」などの名著を生み出した。当住宅は育ての親であった継母が長く住まいしていたが、千代が昭和49年に修復、岩国帰郷時の住まいとした。千代は平成8年に98歳の大往生を遂げるが、岩国市名誉市民、文化功労者として顕彰され、死後には勲二等を追贈されている。住宅は、建築的というよりも、彼女の生き様が顕れた家として史跡的な意味合いを楽しみたい。
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水西書院  登録有形文化財 (平成12年2月15日登録)
山口県岩国市川西4-2-4
建築年代/明治19年(1886)
用途区分/藩主仮宅
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
岩国市街を縦貫する錦川に架かる錦帯橋から少し南に下った西岸の低湿地に石垣を築いて高台とした屋敷地にひっそりと佇む旧藩主・吉川家の別邸である。錦川沿いに古桜の並木が続く堤防土手が作られる以前には錦帯橋を望むことができたというが、今では両者の間に遮るものが多く甚だ難しい。ただ往時の記憶は建物にしっかりと刻まれており、座敷を主体とする間取りに錦帯橋に面する側のみを開放的な作りとしており、橋を借景としたことが容易に窺い知れる。そもそもは旧藩主の婚礼に際してお披露目のため造営された仮屋敷であり、明治21年に嘗て藩邸があった横山地区に本邸が築かれた後は接待所として使用されたとのこと。現在は岡山の後楽園に移築されて現存する本邸建物と比較して、あまりにも簡素な造作であるのは、こうした来歴ゆえのことなのであろう。
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福元家住宅  登録有形文化財 (令和4年2月17日登録)
山口県周防大島町西屋代2144
建築年代/大正15年(1926)・昭和3年(1928)
用途区分/実業家(米国移民し貿易業で成功)
登録建物/主屋・土蔵・石塀及び煉瓦塀・井戸及び給水塔
公開状況/公開 【日本ハワイ移民資料館】
瀬戸内海の西端に浮かぶ防予諸島の大島に所在する近代和風建築である。耕地の乏しい大島では江戸中期から大工・石工等として他藩へ出稼ぎする習慣があり、明治期に入るとハワイ政府から砂糖産業に従事する労働者供出の依頼が日本政府になされ、これに応じて官約移民を多数輩出した歴史がある。当住宅は現在、その歴史を顕彰する施設として活用されているが、そもそもは明治31年に16歳で米国カリフォルニアに渡り、貿易で財を成した福元長右衛門氏が大正13年に故郷に錦を飾る形で帰国し、建てた屋敷である。
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四熊家住宅 登録有形文化財 (平成12年10月18日登録)
山口県新南陽市土井1-1-1
建築年代/江戸後期
用途区分/医家
登録範囲/主屋・診療棟
公開状況/非公開
JR山陽本線の新南陽駅から真北へ2km程の住宅街の只中に所在する旧医家住宅である。屋敷の北側に小山を背負い、南側には長大な長屋門を構え、左右に白壁の土塀が続く。屋敷中央に茅葺の主屋があり、その東側には別棟の座敷や土蔵が建ち並ぶ。一見すると庄屋屋敷のようであるが、当家は江戸初期から医業を営み、医術者養成のための私家塾まで開いたという。しかし主屋西側の庭園には徳山藩主の隠居所建設の際の仮屋が建てられたこともあると伝えられ、単なる医家でないようだ。
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礒部家住宅 登録有形文化財 (平成11年10月14日登録)
山口県光市室積5-3-20
建築年代/明治20年(1887)
用途区分/商家(浦年寄役・廻船業・金融業・塩田地主)
登録範囲/主屋・離れ座敷・釜屋
公開状況/公開 【光ふるさと郷土館別館】
新日鉄の企業城下町・光市の南部に象鼻ヶ岬という、その名の如き形をした岬がある。丸く湾曲した岬の内海は天然の良港として中世の頃から拓かれ、江戸期に至り長州藩の勘定所が置かれて後は、廻船業者が集積する商業港として大いに繁栄した。当住宅は集落の中心部に所在する商家建築で、江戸初期に田布施より出て「磯屋」の屋号で廻船業や金融業、塩田経営を行い、当地を代表する豪商となった。住宅は実に丁寧な造作で、かつ洗練されている。商家というより隠宅のような風情である。
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野村家住宅 登録有形文化財 (平成11年8月23日登録)
山口県山口市下竪小路12
建築年代/明治19年(1886)
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/主屋・土蔵
公開状況/公開 【山口ふるさと伝承総合センターまなび館】
中世に西国一の大々名と称された大内氏の居館跡で国の史跡にも指定される龍福寺の西側に所在する商家建築である。大内氏滅亡後の近世においても山口は萩往還の宿場町として何とか命脈を保ち、明治期に県庁が置かれると、再び防長二国の中心地として復活を遂げたのである。当住宅もそんな時代の流れに呼応する形で明治19年に整備された屋敷で、当初は杉助右衛門家の酒造場であった。今に残る遺構は主屋と土蔵と井戸のみであるが、以前には屋敷裏手に大規模な酒造蔵が建ち並んでいた。
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歌野清流庵
(西山家住宅)
登録有形文化財 (平成17年7月12日登録)
山口県下関市菊川町上岡枝字郷ヶ原1812
建築年代/江戸末期または明治14年
用途区分/農家(楮栽培入植農家)
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
下関市東部を流れる木屋川を上流に遡ると、昭和52年に支流の歌野川を堰き止めて造成した歌野川ダムがある。当住宅はその上流部に所在する楮栽培農家である。ダム工事とともに周辺の家々は水没し当住宅だけが取り残された。一時は空家になったこともあるが、ダムの周辺整備事業により郷土文化保存伝習施設として活用されるようになった。今でいう農村体験施設である。その後紆余曲折を経て再び解体の危機に陥ることもあったが、現在では文化財登録され、蕎麦店として何とか命脈を保っている。
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中野家住宅  登録有形文化財 (平成18年11月29日登録)
山口県下関市内日上2777
建築年代/江戸末期
用途区分/農家
登録範囲/主屋・土蔵・納屋・石垣・塀
公開状況/非公開
「下関」と聞けば、関門海峡に面した港町を想像するところであるが、平成の町村合併により、かなり内陸部まで市域が拡がっているようである。当住宅は、内陸部の純農村地帯に所在し、周囲は小高い山々に囲まれた美しい場所である。


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郷田家住宅 無指定・公開
山口県萩市川上村小市ヶ谷2319
旧所在地・山口県萩市川上村高瀬
建築年代/明治中期
用途区分/山村農家
公開状況/公開 【阿武川歴史民俗資料館】
昭和49年(1974)に完成し、総貯水量15350万トンを誇る阿武川ダムの建設に伴い水没予定地となった川上村高瀬集落から移築された山村農家住宅である。阿武川は県下第2位の水量を誇る大河ながら流域に耕地が少なく、当地区は四周を険しい山に囲まれた平家の落人伝説が残る程の山村であった。現在、住宅は消失地区の民俗文化を保存伝承するため整備された阿武川歴史民俗資料館の敷地内にある。整形四間取で通り土間を持ち、土壁を多用している点は、むしろ平野部の農家に近い造作である。
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田中義一別邸 無指定・公開
山口県萩市大字平安古町字平安古164番地3
建築年代/
用途区分/総理大臣別邸
公開状況/公開
明治はおろか大正、昭和までもが遠くになりつつある現在、昭和2年に第26代総理大臣を務めた田中義一の名を知る人は数多くないだろう。萩藩の下級武士の家に生まれ、陸軍に出仕、日露戦争時には満州軍参謀を務めるなど累進を重ね、山県有朋死去後の陸軍長州閥の後継となった。政界転身後は反動的政策を推進し、第2次大戦の元凶を作った人物である。当住宅は小倉県権令を務めた小幡高政から大正期に譲り受けた邸宅で、そもそもは萩藩次席一門の右田毛利家の下屋敷があった場所である。
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渡辺家住宅  無指定・公開(景観重要建造物 平成20年10月3日指定)
山口県萩市江向5
建築年代/明治中期
用途区分/官吏
残存建物/主屋・土蔵・長屋門・茶室
JR萩駅から萩旧城下町へと通じる県道64号線を北上、市街を横断する橋本川に架かる橋を渡り、川沿いの桜並木に見惚れながら西進すると右手に明治期の近代和風建築に典型的な風情の屋敷が現れる。幕末の萩藩士で松下村塾に学び、米英に留学して造船技術を修得、帰国後は工部省に出仕、官営長崎造船所の初代局長を歴任した渡辺蒿蔵が帰郷後の棲家として建てた邸宅建築である。全体的に座敷を主体とする空間構成で、格子欄間を多用した近代建築らしく折り目正しい硬質な印象の造作となっている。
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森井家住宅 無指定・公開 (萩市景観重要建物指定 平成21年3月4日指定)
山口県萩市西田町22
建築年代/江戸時代(18世紀後半〜幕末)
用途区分/酒屋
残存建物/主屋
御成道に面して建つ商家建築。江戸期には酒屋を営み、明治〜大正期は商工会議所、戦後〜昭和40年頃には卓球場として使用されたという。


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山村家住宅 無指定・公開
山口県萩市浜崎77
建築年代/19世紀前半
用途区分/商家(船具商)
残存建物/南主屋・北主屋・南土蔵・北土蔵・離れ
公開状況/常時公開


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山中家住宅  無指定・公開
山口県萩市浜崎209-1
建築年代/昭和6年(1931)
用途区分/商家(海産物商)
残存建物/主屋・附属屋・土蔵
萩城下の北東に位置する浜崎地区は、日本海に注ぎ込む松本川の河口部に拓かれ、藩の蔵屋敷や船蔵が置かれた長州藩における海の玄関口であった。実際、この地は町奉行管轄の萩城下ではなく、浜崎宰判という浦方を取り締まる役所の管轄であり、藩政初期の頃には浦方の武家地として成立したものの、藩政中後期にはその立地条件から魚問屋など海産物を扱う商人が集住する形に変貌を遂げたようである。当住宅は浜崎地区を縦断する本町筋に東面して建つ近代和風商家で、周囲の町家と比較して二階の建ちの高さは、比較的新しい時代を表すものである。3間程の間口に対して奥行きは20間半程にも及ぶ鰻の寝床状の敷地で、縦に3間続きの主屋を構え、中庭、附属屋を介して最奥には明和8年(1771)建築の土蔵を配する。昭和初期の建築ながら伝統的な様式の建前で、「下町のお店」という感じである。
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梅屋七兵衛旧宅  無指定・公開
山口県萩市浜崎
建築年代/明治10年(1877)
用途区分/商家隠居宅
公開状況/公開 【古民家再生モデル住宅】
長州毛利藩の萩城下における港町・浜崎に所在する商家隠宅である。平成13年に国の重伝建地区に選定された浜崎は北国問屋や魚問屋などが軒を連ねた商人町で、この地で生まれた梅屋七兵衛も北国問屋を営む傍ら、幕末には藩の武具方御用を務めた豪商であった。彼は明治維新の際に藩命により長崎に潜入し外国製鉄砲千丁を調達することに成功、長州藩が戊辰戦争において勝利を収めることに陰ながら貢献した人物である。維新後は京都に住したが、晩年に萩に戻り当住宅で隠居生活を送ったという。本通りから少し奥まった場所にひっそりと建ち、維新の功労とは無縁に余生を送った様子が想像される住居である。
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長府毛利家住宅 無指定・公開
山口県下関市長府惣社町4-10
建築年代/明治31年〜明治36年(1898〜1903)
用途区分/旧藩主本邸
公開状況/公開 【長府毛利邸】
藩政期における長州には毛利本家の支配地であった萩藩を中心に分家支配地として徳山藩、長府藩、清末藩という支藩が存在した。当住宅は長府支藩第14代毛利元敏公が維新の際に半ば強制的に移住させられていた東京から再び故郷に帰住するため、本邸として明治36年に整備したものである。旧城下町の上級武家住区の一画に約3000坪の広大な敷地を有し、中規模ながら近世御殿建築の系譜を引く建物は華美に走らず、格式を重視したものである。表門に至るまでのアプローチも素晴らしく、50000石の外様中藩の末裔の居宅として面目躍如たる良質な住宅である。
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嘉村礒多生家  無指定・公開 (帰郷庵)
山口県山口市仁保上郷2397-1
建築年代/明治初期
用途区分/山林地主
残存建物/主屋
公開状況/公開 (宿泊施設としても利用可)
昭和初期に活躍した私小説家・嘉村礒多の生家である。山口市北郊に広がる仁保郷の最奥部に位置する上郷上ヶ山集落に所在する。仁保川の蛇行に従って山道が大きく屈曲する正面に高石垣を築き、山林を背に主屋が端座する姿は集落内で相応に権勢を誇った家柄であることを示している。そもそもは上郷地区屈指の地主の家系で、主屋は茅葺屋根の主体部に桟瓦葺の座敷部を増築した規模の大きな建前となっている。礒多は、明治30年に当地で生まれ、昭和8年で病に倒れる35年という短い生涯ではあったが、その間に自らの罪業の深さを告白した「業苦」、その生涯を赤裸々に綴った「途上」などを発表し、近代文学史上に確かな位置を得たと云われている。
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中川家住宅 無指定・公開
山口県山口市阿知須3425
建築年代/明治17年(1884)
用途区分/旧廻船船主
残存建物/主屋・大井戸
公開状況/公開 【阿知須いぐらの館】
小郡と宇部を結ぶ国道190号線の中間地点、山口湾に注ぎ込む井関川の湊町として江戸時代中頃から発展した阿知須浦に所在する商家建築である。地元では瓦葺土蔵造の商家建築を「居蔵」と称しており、廻船問屋を営み、数隻の千石船を有した当家は阿知須湊で最大規模を誇る居蔵造であった。当家初代は安芸国音戸瀬戸の出身で江戸中期に来住、廻船業者として着実に規模を拡大して幕末には士分を得るまでに成長する。住宅は明治10年頃に廻船業を止め、酒造業や地主業を営んだ頃の建物で、家業の転換期にあった故か、外観の華やかさに比して内部は意外に質素である。
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伊藤博文生家 無指定・公開
山口県光市束荷2250-1 (移築)
建築年代/江戸末期
残存建物/主屋
公開状況/公開 (伊藤公資料館内施設)



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常盤公園内民家 無指定・公開
山口県宇部市野中3丁目
建築年代/不詳
用途区分/農家
公開状況/公開 【憩の家】
宇部市東部の人工湖・常盤湖を中心に整備された常盤公園内に所在する農家建築である。現在、総合公園として市民に親しまれている常盤公園の歴史は古く、元禄11年(1698)に灌漑溜池として開削された常盤湖の周辺地を石炭採掘業で財を成した渡辺幸吉翁(宇部興産創業者)が買収し地元に寄付、大正14年(1925)に公園として開設されたものである。住宅は公園西入口近くにある牡丹園の敷地内に移設されているが、由緒来歴等は残念ながら全く不明である。時代的にさほど遡れる建物ではないと思われるが、由緒・来歴ぐらいは解説書きして欲しいものである。
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国木田独歩旧宅 無指定・公開
山口県柳井市姫田11-5
建築年代/不詳
用途区分/教師・作家
公開状況/公開
国木田独歩家族が明治25年から2年間のみ暮らした家。


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