兄部家住宅
Koube


国指定史跡 (平成元年9月22日指定)
山口県防府市宮市町5-11
建築年代/寛政6年(1789)後
用途区分/本陣・酒造業
公開状況/非公開

防府天満宮の門前町であり、日本海側の藩都・萩と瀬戸内側の湊町・三田尻を結ぶ萩往還の宿場町でもあった宮市の中心部に所在する旧本陣遺構である。その立地条件に加えて主屋の間口の広さは当家が町内において只ならぬ存在であったことを如実に物語っている。実際、当地に鎌倉時代から居住していたという旧家であり、室町時代には合物販売を司る兄部役に、以降も魚物役、酒場役に任じられるなど、時代が移ろいでも各々の為政者達から商売上の特権を享受し続けられた名家であった。


巷では防府天満宮は日本三大天満宮の一つに数えられるということだが、他の天満宮、すなわち福岡県の太宰府天満宮、京都府の北野天満宮と比較すると、今少し知名度では劣るように思われる。そもそも天満宮は、当然ながら祭神として祀られる菅原道真公の故地に勧請されることが多い訳であるが、防府と云う土地と菅公との繋がりを知る人は、よほど博識な人に限られるのではなかろうか。(少なくとも私は知らなかった。) 
しかし、それでも休日ともなれば結構な参拝者もいる様子で、年始の初詣には30万人以上が訪れるというから大したものである。山口県は教育熱心なところだと云われているが、天満宮の御利益に預かっている方々も多いのかも知れない。いずれにせよ、学問の神様が祀られる地としての面目も保っていることだけは確かである。
社殿は多くの参拝客を集めるだけあってかなり立派なものであるが、決して古いものではなく昭和の建築である。古建築を愛する者としては、厳かな雰囲気も無く、正直、あまり興味を持てない神社であるが、創建は古く菅公が死去した翌年の延喜2年(904)にまで遡り、最古の天満宮というから驚きである。ところで菅公と当社との関係は、太宰府に配流される際に、この地に立ち寄った管公が、この地を愛したことに因むらしい。きわめて希薄な理由ながら、門前の賑わいが防府という町の発展の礎となったというから、何が幸いするか判らない。
さて当家は、その防府天満宮の門前に所在している。
天満宮は防府市街の北方にある小山の裾に南面して鎮座しているが、このお膝元を東西に横切るように山陽道が通っているため、ちょうど門前町と宿場町が渾然一体となった形で町場が形成されており、本陣も兼ねたという当住宅は、その中心部に近い一画に広大な屋敷地を構えて、現在に至っている。ところで当家の姓である兄部は「コウベ」と読むらしいが、室町時代の諸色に則った由緒正しいものらしい。山川出版の山口県の歴史散歩には以下のように記述されてる。
鎌倉末期、その祖兄部五郎太郎は宮市町人として周防合物商売(合物座)の長職に就き、宮市にいて都濃・佐波・吉敷各郡内の合物商売の支配権を得たほどである。合物とはもともと鮮魚と干物の間の物、つまり塩魚を指すが、干物・焼物も合物として扱ったと思われる。兄部家はのち大内氏・毛利氏の世にも合物に関する役職を安堵され、経済的利益の独占を庇護される代わりに、諸役を納入して、相互に密接な関係をもち、酒造にも関係して宮市きっての豪商となった。
江戸時代に入り、幕藩体制の整備も進み、人の往来が盛んになると、兄部邸は幕府巡検使や九州諸大名の参勤の折りの宿所に供用された。寛永19年(1642)、兄部与左衛門が自らの財で旅館をつくり、改めて本陣を命ぜられ、代々その業を継いで廃藩まで宮市本陣を務めた。
「防長風土注進案」によると、規模は本門1棟、本家1棟、書院1棟、酒造蔵2棟であり、建物の敷地2耽畝(約2200u)余りとある。


 

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