村田清風旧宅



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国指定史跡 (昭和16年8月1日指定)
山口県長門市三隅下字垣頭2510-1
建築年代/不詳
用途区分/在郷武家
指定状況/本屋・米蔵・馬小屋・納屋・湯殿・墓所
公開状況/公開

当住宅は長門市中心部から東へ3kmほどの田園地帯に所在する幕末の偉人・村田清風の生家である。一般に「三隅山荘」と呼称されている。清風は僅か知行91石の地方役人の家に生まれながら藩校・明倫館に学び、藩主側近として重用され要職を歴任、幕末の長州藩の藩政改革に辣腕を振るった人物である。明治維新における長州藩の活躍は彼の財政改革なくしてはなかったとまで云われる。住宅は玄関を構え、書院座敷を備える典型的な武家住居であるが、城下屋敷とは異なりゆったりとした風情である。

天明3年(1783)に当住宅にて村田清風は生まれた。15歳の時に萩に移住。
弘化2年(1845)に当住宅に戻り、1855年にここで死去した。
彼は藩政改革を主導した人物で、財政再建、産業興隆、明倫館の移転改築等を行い天保の改革と称されている。主屋以外には米蔵、馬小屋、納屋、湯殿、墓所等が残る。
国指定史跡 昭和16年8月1日指定
長門市三隅下字垣頭2510-7



村田清風について
幕末の激動の中、藩政改革の中心人物として手腕を振るった郷土の先賢・村田清風は、天明3年(1783)長門国大津郡三隅村沢江(現・長門市三隅下沢江)に生れました。当時、長州藩の財政は困窮を極めており、13代藩主・毛利敬親は、中級武士であった清風を抜擢登用し、藩の財政改革に当たらせました。この「天保の大改革」で、清風は負債8万貫の返済のための倹約の徹底や、武士の負債整理と士風の一新、四白政策(紙・蝋・米・塩)の振興を行い、さらに軍備の改革と充実のために江戸に武器庫を建設、萩では海洋防備等の訓練を行いました。その結果、藩政は一新し、後に長州藩が雄藩となる基礎を築き上げたのです。その後清風は、63歳のとき職を辞して三隅山荘に帰り、隠居の身となりましたが、以後、人材の育成に力を注ぎ、山荘内に開いた私塾「尊聖堂」は多くの子弟達で満ち溢れていました。その志は吉田松陰、高杉晋作、木戸孝允らに受け継がれ、長州藩改革派を輩出する原動力となりました。(出典不明・地元発行観光冊子より抜粋)
三隅山荘
三隅山荘は村田清風が19歳までと63歳から亡くなるまでの約30年間を過ごした旧宅で、近在する墓所とともに国の史跡に指定されています。式台付き玄関を入ると控えの間、床を備えた接客用座敷へと続く構成は武家住宅の特徴を成しています。(出典不明・地元発行観光冊子より改訂抜粋)

 

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