田中義一旧宅



無指定・公開
山口県萩市大字平安古町字平安古164番地3
建築年代/
用途区分/総理大臣別邸
公開状況/公開

明治はおろか大正、昭和までもが遠くになりつつある現在、昭和2年に第26代総理大臣を務めた田中義一の名を知る人は数多くないだろう。萩藩の下級武士の家に生まれ、陸軍に出仕、日露戦争時には満州軍参謀を務めるなど累進を重ね、山県有朋死去後の陸軍長州閥の後継となった。政界転身後は反動的政策を推進し、第2次大戦の元凶を作った人物である。当住宅は小倉県権令を務めた小幡高政から大正期に譲り受けた邸宅で、そもそもは萩藩次席一門の右田毛利家の下屋敷があった場所である。



昭和2年に第26代総理大臣となった田中義一は長州藩主の御六尺という下級武士の家に文久3年(1863)に生まれた。いわゆる駕籠かきの家である。陸軍に出仕したのちは、日露戦争時に満州軍参謀を務めるなど同じ長州出身の児玉源太郎の配下で活躍した。山県有朋死去後の陸軍長州閥の後継となり、軍の力を背景に共産党の大弾圧を実施するなどかなり強引な反動的政策を推し進めた。昭和2年には治安維持法の改正にも成功、対中国侵略にも積極的に加担した。いわば第2次大戦の元凶とも云える人物である。
張作霖爆死事件に絡み、事件の徹底究明を表明しながらも、軍の綱紀粛正に及び腰だったことから、昭和天皇に叱責され、総理大臣の職を辞した人物としても知られる。

邸宅の敷地は毛利筑前の下屋敷と古図に描かれており、16000石の一門次席の右田毛利家の下屋敷であったことが判明している。明治期に入って夏みかん栽培を萩の地に持ち込んだ小幡高政(江戸留守居役・小倉県権令・110銀行頭取)が、この地に住したが、大正期になって田中が取得した。





 

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