吉田松陰旧宅



 
松陰は天保元年(1830)に東光寺山麓の団子岩に杉百合之助の次男として生まれた。
杉家は知行26石の下級武士で、次男であった松陰は天保6年(1835)に吉田家(知行57石)に養子に入った。
松陰は神童の類で、天保11年(1840)には藩主・毛利敬親の御前講義を行い、藩校・明倫館の兵学教授に推されるなどしている。
住宅は天保年間の建築とされ、そもそもは親族である瀬能吉次郎(知行49石)の持ち家であったものを杉家が嘉永6年(1853)に借り受けた。
安政2年(1855)ペリー艦隊の2度目の来航時に密航を企てた罪により、生家預かりとなり、当住宅に幽囚されることとなった。
住宅の東寄りの小部屋が幽囚室として残されており、3.5畳に1畳分の神棚が設えられている。
その後の安政5年(1858)には当の老中・間部■房を暗殺を企てた罪により斬首。松陰30歳であった。
父・百合之助は当時、百人中間兼盗賊改方の役に就いていたが、責任を負って隠居。
現在、当住宅は松陰神社の境内に所在しているが、移築されたものではなく、当初からこの場所にあった。むしろ住宅があった場所に神社が創建されたと云った方が良いだろう。明治23年には屋敷内の土蔵に祠が建てられ、明治40年には伊藤博文らの尽力により、県社格の神社に正式になった。
 

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