山村家住宅
Yamamura



 
無指定・公開
山口県萩市浜崎77
建築年代/19世紀前半
用途区分/商家(船具商)
残存建物/南主屋・北主屋・南土蔵・北土蔵・離れ
公開状況/常時公開


地元発行観光パンフレットより抜粋
建物の特徴のひとつは、この辺りでは珍しい表屋造としいう、京都や大坂の豪商に見られる建築形式です。これは、一旦室内に入り、再び外(中庭)に出て、玄関があるというものです。これは、公(商売)の領域と私(プライベート)の領域を分けるという、当時最も洗練された町家の建て方で、萩のみならず、山口から九州にかけては、この建物しか見られません。
南主屋 文化元年(1804)以降、嘉永4年(1851)以前の建築
北主屋 嘉永4年(1851)以前の建築で南主屋よりも古い。
南土蔵 文化元年(1804)以降、嘉永4年(1851)以前の建築
北土蔵 昭和初期の建築
離れ 昭和初期の建築

山村家について
山村家の建物は、江戸時代から明治にかけて南棟と北棟で所有者が違っていた。山村家がこの建物の南棟を所有したのは、山村熊蔵の代。明治36年(1903)のことである。
しかし、翌明治37年に熊蔵が死去したため、妹のウメの嫁ぎ先にあたる嶋屋要七が所有し、この建物を嶋屋家の家業である呉服店の浜崎支店として利用したと思われる。
大正2年(1913)要七は、熊蔵の姪にあたる山村ヒサに建物を譲渡した。さらに大正5年にヒサの長男である山村次郎が譲渡を受け、北棟も次郎が買い取った。このころ山村家は、昭和まで続いた船具店を始めたものと思われる。
山村熊蔵は、明治20年から30年代にかけて自ら船長として船舶を所有し、韓国の日本人商店を相手に交易を行っていた。山村家には、そのことを物語る史料が伝わっている。【現地案内看板より】







 

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