玉木文之進旧宅



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萩市指定史跡 (昭和39年3月28日指定)
山口県萩市椿東字椎原1584-1
建築年代/年代不詳(江戸時代)
用途区分/武家
指定範囲/主屋
公開状況/公開
その革命的思想により明治維新の礎となった吉田松陰を祀る松陰神社から長州藩主毛利家の菩提寺である東光寺に至る細道の中途に所在する小規模な武家住宅である。犬槇の生垣を廻らした簡素な佇まいは家禄40石の大組に属する下級武士に相応しい屋敷構えである。そんな当家の建物が史跡として残るのは、この住宅が松下村塾発祥の地とされているからである。幕末の当主・玉木文之進は吉田松陰の叔父に当る人物で、彼が開いた寺小屋が松陰に引き継がれ、多くの志士を生み出すのである。

明治維新の影の立役者・吉田松陰を祀る松陰神社から長州藩主毛利家の菩提寺、東光寺に至る細道の中途に所在する小規模な武家住宅建築である。当家は家禄40石で大組に属した下級武士で、屋敷は犬槇の生垣で正面を区切り、南面して主屋を構える。その背後に井戸や物置小屋、厠等も残存しているが、史跡指定外である。屋敷裏手には畑が拡がり、半農半士的な生活が営まれていたのではないかとされている。主屋は13坪弱の小振りなものながら部屋数は5室もあり、玄関も構えて武家屋敷としての体裁を何とか保っている。幕末の玉木家の当主・文之進は吉田松陰の叔父に当る人物で、杉家から養子に入り、藩校明倫館都講、異船防禦掛を歴任、藩内各地の代官職を経て郡奉行にまで累進を重ねた。しかし彼の名が後世に残った理由は、やはり彼が維新の志士達を数多く輩出した松下村塾を開設した人物であったからであろう。吉田松陰の私塾として著名な松下村塾であるが、前身は文之進が蔵元順番検使役であった若かりし頃、部下の不祥事により引責辞任した際に、付近の児童を集めて寺小屋的な私塾を開いたことに始まる。天保13年(1842)のことである。この塾は文之進が再び藩政に戻り多忙となったことから嘉永元年(1848)に廃止となるが、安政2年(1855)に吉田松陰によりその名は引き継がれることとなった。




 

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