旧厚狭毛利家萩屋敷長屋
Asa-Mouri's folks tenement house



 
国指定文化財 (昭和41年6月11日指定)
山口県萩市堀内85-2
建築年代/安政3年(1856)
用途区分/武家
指定範囲/長屋
公開状況/公開
文化財保護法の改正により国による重要伝統的建造物群保存地区制度が創設されたのは昭和50年(1975)の事である。その際に全国で7地区の町並が最初の伝建地区選定されることになったが、秋田・角館や長野・妻籠宿、岐阜・荻町合掌造集落などと共に選定されたのが、萩城下町の堀内、平安古地区である。それまで文化財としての保護対象は、歴史的な史跡や優れた意匠や技術の建造物など個々の物件が対象であり、名も無き土塀や長屋門などから構成される総体としての町並や環境を守る術は無いに等しい状態にあった。実際、萩の町並を散策すると良く判ることであるが、石垣や土塀、長屋や門扉などは比較的旧態を留めてはいるが、主屋や書院などの屋敷内の主要建物は失われていることが多い。歴史的景観という曖昧糢糊とした概念でしかない括ることのできない萩の旧武家屋敷街を何とか保護するために編み出された奇策が、町並保存という手段であったといえるであろう。


今更の事ではあるが、萩は中国地方の大々名家である長州藩主・毛利家の城下町である。そのうち堀内地区は、藩主の居館である萩城における三の丸の曲輪に該当する場所で、謂わば城内における大身の武家が住する特別な一画であった。毛利家一門の厚狭毛利家の屋敷地址に残る長屋建築である。桁行51.4m、梁間5.0mに及ぶ長大な建築で、分家筋の家臣団が住する長屋でさえ、これ程までに立派な建前であることに武家の面目の重要性を感じさせてくれる。ちょうど萩城の大手門前に位置することからも尚更の話であったのだろう。厚狭毛利家は毛利元就の5男・元秋を始祖とする毛利家一門。長門未益領を支配した禄高8371石の大身の武家で、明治2年に描かれた萩城下町絵図においては毛利能登の名で岩国の吉川家に次ぐ広大な屋敷地を与えられていたことが判る。残念ながら本建物が唯一残された屋敷遺構であるが、長屋といえども建ちが高く、随所に出窓を配し、白漆喰壁に簓子下見板張りを施した美しい佇まいである。内部においても各部屋には畳が敷かれ、式台玄関までもが設けられる様子に流石という他にない。


萩藩における藩政初期の制度として「一門六家」があり、藩士中の最上階層で代々家老職を拝命した。
主席は三丘宍戸家、二席に右田毛利家、三席に厚狭毛利家、四席・吉敷毛利家、五席・阿川毛利家、六席・大野毛利家と続く。




 

一覧のページに戻る