益田家住宅 Masuda その他の写真 |
萩市指定文化財 (昭和57年2月26日指定) 山口県萩市須佐4441-19 建築年代/明治7年 用途区分/武家(長州藩家老・旧須佐邑主) 指定範囲/主屋 公開状況/公開 【須佐歴史民俗資料館】 城下町・萩から東へ約30km、旧須佐町に所在する旧邑主・益田家の在地支配のための屋敷遺構である。旧須佐町は、現在は萩市域に含まれているが、嘗ては旧阿武郡の中心地として栄えたところで、益田家の家臣団が居住する在郷町が形成された土地柄である。益田家は本姓を御神本と称し、中世に石見押領使として石見国益田の七尾城に拠ったことから益田姓を名乗ったという。以後大内氏、毛利氏に仕え、慶長5年(1600)に須佐に移封され、以後、江戸期を通じて長州藩の永代家老として知行13000石で須佐一帯を支配した。屋敷は江戸期までは在地の役所的な機能を持つ居館と呼ぶに相応しい規模のものであったらしいが、明治初期に大幅な改築を受け、現在は座敷棟と帳場棟のみが残る簡素な佇まいになっている。 須佐町教育委員会が発行した「益田氏と須佐」によれば、益田館は慶長8年(1603)に旧領の益田郷の三宅にあった御土居の館を崩し、益田市の中島港から船で須佐港に運び、笠松山下に建てたもので、古い木材や建具の一部ににその面影が今も残っている、と記述される。更に、今の館には昔の間取りがまだ残っており、領主の政治を執った間などが今も残っており、下々の者は次の間で領主の声しか聞けなかったと伝わるとも記述されている。しかし現在の建物を見る限り、旧材が流用された様子は窺えず、当初建物は完全に建て替えられたものと推察される。 益田家は先述のとおり古い家柄を誇る名族であるが、近世封建下において、その礎を築いたのは20代・益田元祥であった。彼は永禄元年(1558)に生れ、先代・益田藤兼の頃より臣従した毛利家の麾下にあって石見国の諸将と共に各地を転戦する。慶長5年(1600)の関ケ原合戦においては僚友の吉川広家と共に徳川家康の東軍に内通、戦後処理において西軍総大将を務めた毛利輝元の改易を辛うじて防長二国への縮小に止まらせることに奔走した。その過程で益田に拠点を置き、石見国を領有していた益田家も改めて阿武郡内の須佐・田万川・上小川・鈴野川・弥富等を給地として与えられ、1万2063石の永代家老として処せられたのである。石見境と称される阿武郡北部地域の領有に伴い、在地の政所として整備されたのが、益田館である。元祥当時の館は間口80間、奥行28間半の規模を誇り、屋敷南正面の東寄りに本門を構え、その東に接して番小屋、御米倉があり、その東北に米方詰所、米方計り所、米倉、細工小屋が連なり、中央部には本邸と相対して邑政堂が配置され、邑政堂の北土居に接して番小屋と台所があった。屋敷の西方には本邸があり、御守役詰所、家老詰所、側役詰所が廊下を挟んで対峙し、その西詰奥に御殿が設けられた。本邸裏手には御台所が独立して建ち、屋敷西北隅には二階建の御部屋があった。また本邸の南土塀を隔てた一画には御蔵、御馬屋、御宝藏が並んでいたという。 ところで益田家は幕末に当主の座にあった第33代・親施が有名である。天保4年(1832)に生れた彼は、安政3年(1856)の24歳の時には長州藩の国家老に相当する当職に任命され、安政5年(1858)には江戸家老に相当する当役を務めるなど幕末維新の時代に長州藩の藩政の中枢を担った。この当時の長州藩は多分に漏れず尊王攘夷派、佐幕派の間で藩論も大いに揺れ動いた時期で、徳川幕府による長州征伐で敗北を喫した長州藩は、禁門の変の責任者として益田親施、国司信濃、福原越後の三家老の切腹を講和の条件として飲まざるを得なかった歴史がある。 |