伊藤博文生家 Itou Hirobumi's parents home ![]() |
無指定・公開 山口県光市束荷2250-1 建築年代/大正8年(1919) 用途区分/農家(初代内閣総理大臣生家) 残存建物/主屋 公開状況/公開 (伊藤公記念公園内) 伊藤公資料館内に保存される伊藤博文の生家である。伊藤博文は云わずと知れた初代内閣総理大臣を務めた人物で、初代統監府の統監をも務めた明治政界の超大物である。 伊藤博文は天保12年(1841)、林十蔵・琴子の長男として熊毛郡束荷村野尻の農家に生まれ、幼名は林利助と称した。嘉永2年(1849)に父の十蔵が奉公先の萩藩の中間・水井武兵衛の養子となり、更に安政元年(1854)、養父・水井武兵衛が佐波郡和畑村に住した萩藩の足軽・伊藤弥右衛門家の養子に入り伊藤直右衛門を名乗ったことから、以後は一家も伊藤姓を名乗ることとなり、何の因果か、足軽身分にまで上ることとなったのである。これにより利助は春輔と改称し、武家身分の端くれとして松下村塾に学び、木戸孝允や高杉晋作らと行動を共にし、尊王攘夷運動に加わることになるのである。 明治18年(1885)には初代・内閣総理大臣を拝命、以後4度に亘り組閣した。明治21年(1888)には初代枢密院議長、日露戦争後の明治38年(1905)には朝鮮に置かれた統監府の初代統監を務めたが、明治42年(1909)に朝鮮民族主義者の安重根によってハルビン駅頭で暗殺された。その政治家としての功績としては、大日本国憲法制定に尽力し、成立後は立憲政治を国内に定着させるべく奔走したことにある。 当住宅は伊藤公の生家であるが、一家が萩に移住した後の嘉永3年(1850)に暴風雨で倒壊、大正8年(1919)に伊藤公爵遺跡保存会によって復原された建物である。復元された当初は伊藤公記念公園内ではあるが、生家があった位置とは異なる場所に建てられていたが、平成3年(1991)に元来の場所に移築・再復元された。建物の規模は48平米程の小さな家屋で、「貧しい農家」と形容されるとおりの建物である。 |