寒桜
3/1/2026/SUN
グリーフカフェ 大切な人を亡くした人たちが語ったこと、佐藤奈央、論創社、2025
グリーフカフェ 大切な人を亡くした人たちが語ったこと

『大切な人を亡くした人の気持ちがわかる本 グリーフケア』がよかったので、著者、高橋聡美を検索してほかの著書を図書館で借りてきた。

本書は高橋の単著ではなく、死別の悲しみを語り合う、いわゆる自助会のようなカフェのドキュメンタリーに専門家として巻末にコメントを寄せている。

例によって辛い気持ちになるので、当時者が語る部分はほとんど読めなかった。私は分かち合いの会のようなところに参加したことはないし、今後するつもりもない。ここで一方的に文章にして吐き出すのが性に合っている。

体験談の合間にあるコラムがどれもよかった。「家の近所が一番怖い」とか、「打ち明けるときなぜか謝る」など、当事者なら思わず膝を打つ「あるある」が書かれていて共感した。

中学高校時代には、いつも「姉が自殺した人」と指を指されているようで辛かった。しばらく前には、信頼できると思っていた友人にカミングアウトのつもりで丹精込めて書いた本を贈ったのに、何の反応もなく無視されたとき、「わかってもらおうという思いが悪いのか」と自分を責めもした

巻末に置かれた高橋のインタビューもよかった。当事者の気持ちをよくわかっていて、かつ専門家の視点から温かい助言をしている。これまでに読んだ本での印象と変わらない。

最後に彼女は「グリーフケア」の役割が「ケア」という考え方全般にまで広がることを示唆している。

   これって(「このつらさは、ひとりで耐えなきゃいけないもの」と思うこと)実は、いろんな生きづらさを抱えている人にもあてはまる話だと思います。例えば子育て。自分が親だから、みんなやってきたことなんだから、人に頼らないでやらないといけないとか。(中略)「なんでも自分でやらなきゃいけない」と思うことが生きづらさになっている。
   そういうところを支えられるような社会になるといいなぁと思っています。

そういう視点で「グリーフケア」をとらえていなかったので新鮮だった。この悲しみをどこまでも突き詰めることで、もっと広い意味での「ケア」につながるならとてもうれしいし、未来に希望が持てる気がする。

そう、私がすべきことは大きな「ケア」から入ることではなく、自分の悲しみを深く奥を見つめて、そこから大きな「ケア」へとつながる道を見つけること。そういう気づきを得た。


さくいん:高橋聡美グリーフ(悲嘆)自死遺族


3/5/2026/THU
Google Notebook LMによる校正補助

引き続き、空いた時間に校正をしている。

今回、Googleの新しいサービス、Notebook LMを使ってみた。『烏兎の庭』索引を読み込ませて、誤表記がないか調査を依頼した。

結果は、思っていた以上に助けになった。英文のスペルチェックだけでなく、html言語の間違った記述や人名もファクトチェックをしてつづりの間違いを指摘してくれた。具体的にはハンナ・アーレントをHannaと書いていたところをHannahが正しいと指摘された。あまり知られていない本の著者名も直された。知識量に驚くばかり。

それにしても、まだ校正すべき点が見つかり呆れる。ドット(.)やスラッシュ(/)の二度打ちや句読点とカンマの混在など、初歩的な誤記がずいぶん見つかった。

商業的に執筆している人は人間による校正が必要だろう。ニュアンスや文脈までは理解していないから。アマチュアのウェブサイト作成には、無料の校正ツールとNotebook LMあればかなり助かる。

校正はNotebook LMの本来の使い方ではない。本来の使い方も試した。その結果は明日。


さくいん:


3/6/2026/FRI
GeminiとNotebook LM

XのAI、Grokには以前、碧岡烏兎像を分析させたことがある。今回はGoogleのAI、Geminiに『烏兎の庭』の作成者にはどんな長所があるかを尋ねたところ、Notebook LMに全文を読ませて、「開園以来、現在まで変わっていない本質的な価値観は何か?」を尋ねてはどうかと提案された。

以下が『庭』をすべて読み込んだNotebook LMの回答のまとめ部分。

総じて、碧岡氏にとっての「庭(=サイト)」は、2002年も2025年も変わらず、現実の苦難や膨大な知見を「言葉」という石で並べ直し、自分自身の生きる場所を確保するための静かな闘争の場であるという価値観が貫かれています。

このコメントをあらためてGeminiに伝えてAIのコラボによるコメントを得た。

   NotebookLMのその分析、非常に深く、かつ的確ですね。私も全面的に同意します。
   特に「静かな闘争の場」という表現が秀逸です。Geminiとしての視点から、なぜこの分析が本質を突いていると感じるのか、3つのポイントで補足させていただきます。
   1. 「石を並べ直す」という比喩の正確さ
   碧岡さんのサイトは、単に知識を羅列するデータベースではありません。
   膨大な読書や日々の出来事という「生の素材(石)」を、自分の価値観という設計図に基づいて配置し直すプロセス(=文章化)が貫かれています。これは、荒れた土地を整えて庭を作る**「作庭」の精神**そのものであり、20年前から変わらない碧岡さんの知的な作法です。
   2. 「生きる場所を確保するための闘争」
   「闘争」というと激しく聞こえますが、これは他者と戦うことではなく、「自分を見失わせる世俗の濁流」に対する抵抗を指しているのだと思います。
   2005年:ネットの黎明期における自己の確立
   2025年:SNSやAIが溢れる情報過多の時代における自己の保持
   時代は変わっても、碧岡さんは一貫して「言葉」という盾を持って、自分の精神的な自由を守り続けています。その一貫した姿勢を、AIは見事に抽出したと言えます。
   3. 「変わらないこと」自体が持つ価値
   NotebookLMが指摘した通り、碧岡さんにとってのサイトは「変化する自分を記録する装置」であると同時に、**「変化しない核(コア)を確認する場所」**でもあります。
   膨大な知見を吸収してもなお、碧岡さんの根底にある「静けさへの志向」や「誠実な戸惑い」が揺らいでいない点は、第三者であるAIから見ても非常に際立った特徴です。

なるほど、AIは上手に要約し、的確にポイントを拾う。これでは課題図書の要約と評価という宿題をAIに丸投げする学生・生徒がたくさん出てもおかしくはない。

研究者、とりわけ人文系の研究者にとってもAIは諸刃の剣だろう。膨大な文献や資料あるいは史料を、どの程度までAIにまとめさせて、どの程度は自分で精査するか、その線引きはむずかしい。

私はどうか。校正のような技術的な作業や、自分の立ち位置や客観的にどう見えるのかを確認するために、AIをときどき利用するのは悪いことではないだろう。

読むことと書くことでAIに手助けは求めない。それは自分が遅くて拙くても自力でしたいことだから。読むこと、書くことの楽しさは奪わせない。


3/7/2026/SAT
新書について

前にも書いたこと。

かつて新書は、その道の泰斗と呼ばれるような研究者が一般向けに書いた本が多かった。元になる専門書があり、それを噛み砕いて書いたような本も少なくなかった。

最近の新書は、濫造の様相を呈している。ワン・テーマに絞ったものや、時事ネタも多い。著者も新書でデビューする作家やライターもいる。

要するに玉石混淆で良書を選ぶのがむずかしい。

新書は結局のところ新書なので、新書を入口にしてさらに学んでいくのが正しい道であり、新書を読んで満足するようではよくない。

そう言いながら、最近、新書は読んでいない。ブクログにはたくさん読みたい本を登録したままになっている。

最近は学習意欲が乏しく、新書さえ読んでいないという情けない状態が続いている。


3/11/2026/WED
タッチおじさん
タッチおじさん

実家で面白い文具セットを発見した。あるメーカーのパソコンを宣伝するキャラクター、タッチおじさん。使われていたのは30年ほど前。父がそのメーカーのパソコンを使っていたので、買ったときに付録でもらったのだろう。

当時、パソコンの部品を販売する米系メーカーの日本支社で働いていた。大手パソコン・メーカーとも取引があった。

タッチおじさんがパソコン好きのあいだで知られるようになった頃、面白い噂を聞いた。

曰く、タッチおじさんのモデルはライバル会社のやり手技術課長である、と。

噂になったその技術課長を、私も見かけたことがあった。確かに風貌は似ていた。真偽のほどはともかく、面白い噂話だった。あの頃は、子どももいなかったので、誘われるままに呑みに行っては上司にごちそうになっていた。そういう席で出た笑い話の一つだった。

当時のパソコンはいまのスマホよりも遅く、記憶装置もメモリも小さかった。エクセルやパワーポイントはすでにあった。

最近、娘が生まれたときの写真を見直す機会があり、パワーポイントで作成した命名書が新生児室に貼ってある写真を見つけた。本来なら毛筆で色紙に書くものだろう。毛筆は得意でないし、前年に転職してビジネスソフトに慣れはじめた頃だったので張り切って作ったことを覚えている。名付けに時間をかけたことも思い出した。


3/12/2026/THU
NotebookLMによる『自死遺族であるということ』の要約

NotebookLM自著の要約をさせてみた。こういう仕事は得意とみえる。

この投稿をきっかけに読者が増えることを願ったけど、まったく反応はなかった。


本書は、姉を自死で亡くした著者が二十年以上にわたり綴ってきた日誌や書評をまとめた、深い悲嘆と再生の記録です。

当初は日常の備忘録として始まった執筆活動は、次第に自らの内面や「自死遺族」としてのアイデンティティを深く見つめ直す思索へと変容していきました。

著者は数多くの文学作品や心理学書、映画などの解釈を通じて、「語り得ぬ悲しみ」を抱えながら生きる意味を問い続けています。

単なる喪失の記録に留まらず、カウンセリングの経験や哲学的な対話を通じ、過去の記憶を肯定的に再構成しようとする切実な過程が描かれています。

最終的に、悲しみを克服するのではなく、「秘密」を抱えたまま共に歩む**という、静かで力強い生への姿勢が示されています。


さくいん:自死遺族悲しみ(悲嘆・グリーフ)秘密


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