万年筆

書名は『本を書く』となっているけど、必ずしも「売るための本」とは限らない。原題に即して訳せば「書く生活」。書くことについて考察するエッセイ。詩的で、時には幻想的でもあり、比喩が多用されている。

書くことをめぐるエッセイは、「書くとはどういうことか」について、考えるヒントをたくさん与えてくれる。

孤独であること。日常生活からかけ離れた、特殊な空間で行われる作業であること。言うまでもなく、映画や音楽とは異なり、言葉だけで創られるということ。

しかし、逆説的にこうも言えるだろう。書くことは、対話であり、それを日常とする人もおり、映像的で音楽的でもある。著者は書くことの逆説をよく知っている。本書の文章は逆説的な表現に満ちている。

最初に書いたように本書の原題に「本」という言葉はない。けれど、中身を読むと著者は「書くこと」と「本を作ること」をほぼ同義に考えているようにもみえる。そうだろうか。書く歓びは、商品である「本」を書くことを許可された「作家」にだけ与えられる境地なのだろうか。

そうではない、と私は考える。小林秀雄が、作家だけではなく、批評家も「創作の歓びを感じていいはずだ」と書いたように、自分のためだけに書く素人の作家でも「書く歓び」を感じていいはず、と私は信じる。

もう一歩踏み込んで書けば、「書く歓び」を知っている素人が、売り物になるかどうかではなく、自分が満足できるかどうかだけを基準にして書くとき、その人は「作家」以上に書くことの本質に近づいているのではないだろうか。

そういう素人をプロでもアマでもなく、「モグリの作家」と私は呼びたい。

そう、私は「モグリ」を目指して、金にもならない文章を毎日書いている。

私の文章に「完成」はない。私が書いている文章は書店に並ばないし、製本もされず、印刷さえされない。画面に映し出されるだけ。私が書いた原稿は、いつまでも私の手元にあり、校正と推敲を待っている。

10年以上前に書いた文章でも、何度も読み返し、何度も私は書き直している。

書くことは、出来あがった作品に意味があるのでなく、書くことそれ自体に意味がある。それが本という売り物であるかどうかも関係ない。次のようなところを読むと、著者もそう考えているように私には思える。

あなたが精魂込めて書く文章は、それ自体、なんの必要性も願望もない。それはあなたを知らない。世の中のほうも、だれもあなたの文章を必要としてはいないし、だれだって靴のほうをもっと必要としている。
——書くという自由、第2章

だからこそ、私は、誰でも読める場所に、自分のためだけに、ひっそりと精魂込めて書く。


さくいん:孤独日常小林秀雄