樹木を貫く日差し

岡野八代については、『法の政治学』『戦争に抗する』などを読み、その仕事には注目してきたつもり。

本書は新書なのでたやすく読めると思い手に取ったところ、思った以上に専門的で、私の読解力では理解できないところも少なくなかった。そもそも、大学でも勉強しなかったので倫理学がむずかしい。去年読んだ『〈ほんもの〉という倫理』(チャールズ・テイラー)もむずかしかった。

さらに言えば、テーマがフェミニズムなので男性である私には耳が痛い話が少なくない。そういうこともあってなかなか読み終えることができなかった。

フェミニズムについて知識は多くない。私が持っている印象は、フェミニズムとは「女性の権利」を主張する政治運動(本書では〈抑圧からの解放〉と書かれている)の理論であり、普遍的な理論や思想ではないということ。

ただし、普遍的と思っていた理論や思想が、男性中心の視点から作られたものであると、本書は厳しく批判している。

ところが、本書はフェミニズムを起点としながらも、男性も含めた、いや、性別や年齢、障害の有無に関係なく、すべての人に関わる、普遍的な思想にまで広がりを持っている。

その点、副題にはフェミニズムとあるけど、フェミニズムという先入観を持って読むのはもったいない。

人は一人で社会生活を送っているのではない。どこの社会でも、誰もがケアする/される側にいる。その相互依存の関係(網の目、とも言われる)から人間観や新しい社会の構想を生み出そうと本書は宣言する。

既存の政治学は、自立的・自律的であることによって、ひとは社会人となることを当然視してきた。したがって、依存する者は、社会の包摂から取り残されがちであった。(中略)依存する者たちがまず社会に存在すると考えることができる。そして、このような傷つけられやすさと依存を根絶することは不可能であり、かつ理想でもない(第5章 誰も取り残されない社会へ)

この視点を詳述している第5章については、大いに共感した。

政治を国家や権力者から見下ろすのではなく、それぞれに異なる状況で暮らす一人一人の存在から構想するという発想にも共感する。とりわけ、国際政治では、上からの視点になりやすい。一方で、社会はどこでも多文化しつつあり、他国や他国籍の人とケアし合う関係になっている。一人一人から出発する国際政治思想という考え方には将来性があると思う。

現在、ロシアがウクライナに侵攻して、イスラエルはパレスチナを殲滅しようとしている。ニュースを見ると「国際政治学者」が、まさに国と国とが複雑に絡んだ関係を解説している。そうしたマクロ視点の国際政治学が有用であることは間違いない。加えて、国際紛争や気候変動などが、私たち一人一人にどんな影響を与えていて、どのような関わり方ができるのか、個人の視点から考える国際政治学があってもいいと思う。

ジェンダー論や家族論については、私の少ない読書のなかでは『「聴く」ことの力』(鷲田清一)と接点がある。鷲田が「臨床哲学」と呼ぶ活動のうち「聴く」ことをケアの一活動とみなすと、それは主に女性が担ってきた活動と鷲田も認めていて、その点、本書の主張と合致する。

ケアという言葉から、私が最初に思い浮かべるのはグリーフケア。死別体験の受け止め方。これもまた、すべての人が生きているあいだにケアする/される側、それぞれに立つ可能性がある。著者の提唱する「ケアの倫理」はグリーフケアに応用することもできるだろう。

たとえば、『遺族外来』(大西秀樹)で提唱されていた、死別体験の受け止め方についての教育は今後の多死社会にとっても必要なことだろう。

私自身について言えば、まだケアされる側にいて、ケアする側には立てない。自らが抱えるグリーフ(悲嘆)を、ときに人の手を借りながら、ときには一人で、過去を振り返りながら、セルフ・ケアを続けている。昨年、これまでのセルフ・グリーフケアを一冊の本にまとめた

もし、この本が誰かのグリーフケアの助けになるのなら、私も「ケアする」側に立った、と言えるかもしれない。

最後に懸念事項を三点挙げておく。一つは、「ケアの思想」の普及について。先に書いたように「ケアの思想」はフェミニズムにとどまらず、全ての人、すべての社会に新しい視座を提供する。「フェミニズムの」と前置きしてしまうとその広がりが見えにくくなってしまうのではないか。世の中にはフェミニズムと聞いただけで拒否反応を示す男性も少なくない。

そういう人も巻き込んでいくためには、出発点はフェミニズムであることを強調はしても、その広がりには前置きをつけない方がいいと思う。

二点目。これは私のフェミニズムへの偏見から生じているかもしれない。

フェミニズムが政治運動であるように、「ケアの倫理」にも実際の行動や運動を重視する面がある。発想が斬新なだけに学問研究だけでは普及しないかもしれない。しかし、実行動には、現実に絡め取られるリスクがある。

研究者が政治的な運動、とりわけ党派性が明確な運動をすることを私は好まない。黙って象牙の塔にいろ、というのではない。「理論的指導者」や「理念の追求者」という存在は、政治運動や実行動にとって非常に重要。現在、著者はそのような立場にいる。

個人的な希望を述べれば、著者にはそのような立ち位置で業績を重ねていってほしい。

三点目。人は「傷つきやすい」存在であり、だからこそ、人間は相互にケアして社会生活を送る。著者はケアの倫理はそれを「命じる」とまで言う。

  ケアの倫理が第一に命じるのは、「他者を傷つけないこと」「危害を避けること」であり、その他者の状態とその者が置かれた文脈を注視することであった。(第5章 誰も取り残されない社会へ)

人は「傷つきやすい」存在であることは認める。しかし同時に人は「傷つけやすい」存在でもある。人は他人を犠牲にしながら生きていく。人だけではない。動物や自然に対しても人間は本来的に加害する立場にありそこから逃れることはできない

互いにケアし合う存在であることを意識すると同時に、自己の加害者性を意識することも忘れてはならない。人間として誰もが持つ「加害者性」と「ケアの倫理」はどのような関係にあるだろう。また、あるべきだろうか。

たとえば、石原吉郎の次のような言葉に対して、「ケアの倫理」は、どのように応答するのだろうか。

〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。」(「ペシミストの勇気について」『石原吉郎詩文集』)

「傷つきやすさ」を理解し、「ケア」を実践するためには「傷つけやすさ」を理解して、それを前提としなければならない。私はそう考える。


さくいん:岡野八代グリーフ(悲嘆)石原吉郎