1-3月のアクセス解析
Goggole Analyticsの解析プログラムが変わったので、これまでの集計結果とは傾向が少し違っている。
とはいえ、並んでいるのは常連のタイトルばかり。毎日書いているブログはあまり読まれていない。3月のブログは13人しか読んでいない。
見方を変えれば、10人程度は、定期的に訪問してくれているということでもある。これは感謝すべきことだろう。
読者が少ないことは、負け惜しみではなく、むしろありがたい。しがらみなく何に気兼ねすることもなく自由に書けるから。
アニメ版がとてもよかったのでコミックを図書館で借りてみた。
アニメ版で見たのは、高校二年の夏休み前まで。心を閉ざしていた洸が悲嘆と向き合い、双葉たち周囲の人に心を開きはじめたたところまで。コミックでは、そこからの恋愛ストーリーがクライマックスになっていた。
洸と双葉が二人の思いを確認するまでのドタバタが、コミックでは詳しく描かれている。この辺りの心理描写が咲坂伊織は非常にうまい。行ったり来たりで読んでいると大人の私でもハラハラした。
実際、恋愛は当人たちにとっては真剣なものでも、周りから見れば、単なるドタバタ喜劇に見える。とりわけ若い頃には。読んでいるとヤキモキして「早く告白すればいいのに」とイライラすることもあった。大人の目から見ているからだろう。
実際、自分が高校生の頃は、ドタバタどころかジタバタしていた。好きなのに告白できず、近づきたいのに遠ざけたり。
自分が抱えている問題を誰にもうまく伝えることができず、結果、それを受け止めてくれる人も残念ながらいなかった。
コミックを読みながら、悲嘆とも向き合えず、人に心を開くこともできなかった十代の頃の不器用だった自分を思い出した。もっとも、いま対人関係がうまくいっているわけではない。もはや「わかってもらえることはない」とあきらめの境地かもしれない。
恋愛を含めた対人関係で、強く迫る、あきらめない、ということを私はまったくしない。人間関係について、淡白すぎる、薄情すぎると言われることもある。だから、洸の積極的なアプローチや小湊のあきらめない恋をうらやましく思う。
色のついたアニメ版のほうが、登場人物がわかりやすい。白黒の漫画を読み慣れていないので、コミックではときどき人を見分けられない。
咲坂伊織の作品を、実写、アニメ、コミックでいくつか読んだり見たりしてきた。ベストを挙げると、実写は『思い、思われ、ふり、ふられ』、アニメでは『アオハライド』、そして、コミックも『思い、思われ、ふり、ふられ』、となる。
さくいん:咲坂伊織、悲嘆
食事会
娘の就職祝いを兼ねて、母と連れ立って5人で食事をした。場所は横浜の百貨店にあるイタリア料理店。
近くにいるからよく会えてうれしい
母は何度も繰り返していた。確かに、息子も娘も大学は親元から通い、就職先の勤務地も首都圏。日帰りで会える距離にいる。親である私たちも安心している。
大学進学と同時に家を出ていたらさみしかっただろうと思う一方、実家暮らしは子どもにとっては少し窮屈だったかもしれないとも思う。
いずれにしろ、もう巣立ってしまった。駅でそれぞれ違う改札へ向かう後ろ姿を見て、しんみりしてしまった。
次回は大型連休前。娘の誕生会。そんなに遠い先ではない。
さくいん:HOME(家族)
先週末、横浜の実家に泊まった。遠い昔の初恋の相手が夢に出てきた。すっかり忘れたと思っていたので、自分でも驚いた。
なぜだろう。あの頃、住んでいた家で眠ったからだろうか。
ふと、気づいた。風の匂いのせいではないか。春の生暖かい風が心の奥底に埋もれていた記憶を呼び起こしたのかもしれない。
未練があるわけではもちろんない。ただ、大林宣彦監督の映画を観たときのように甘美ななつかしさが目覚めとともに残っていた。
いまでも、ときどき苦しめられる仕事に追い回される悪夢に比べれば、ずっと気持ちのいい目覚めだった。
さくいん:初恋、大林宣彦
今日は月に一度の残業日。午後遅く配信されるデータを元に事業部の売上レポートを作成する。作業をしていると5時を過ぎることが多い。
もう何年も毎月している作業なのに、とても緊張する。作業が終わったのは5時半過ぎ。
コンビニへ行って缶ビールを買ってきた。ふだんよい大きい500ml缶。
気持ちを鎮めるために酒を呑む。ビールを呑んでも身体が凝り固まっているので、ボンベイサファイアをロックで呑む。
ふだんは火曜日と週末しか呑まない。それとは別にレポート作成日は必ず呑む。呑んでようやく落ち着いてくる。
この程度の作業と残業で精一杯。とても昔のようには働けない。
結果から見れば、障害者枠で働くことにしたのはいい選択だった。
さくいん:労働、ジン(マティーニ)
先日、テレビで放映していた映画『レッドオクトーバーを追え』を観た。この作品は映画館で観たのでよく覚えている。
思い出してみると、30年以上前になる学生時代にはトム・クランシーの小説をよく読んでいた。『愛国者のゲーム』や『いま、そこにある危機』など、ジャック・ライアンが活躍するシリーズ。
伊達邦彦が活躍する大藪春彦の『野獣』シリーズを何冊も読んでいた。松田優作が演じた『野獣死すべし』もよく覚えている。最近の読書傾向とはまるで違う。
あの頃は自死遺族やグリーフケアの本など、まったく読んでいなかった。興味もなかった。そのことについて、自分でも触れないようにしていたような気がする。それ以上、忘れたいと願ってさえいた。
なぜ、あの頃、グリーフワークに取り組まなかったのだろう。あのとき、きちんとケアしておけば、その後の人生も変わっていたに違いない。
その「もし」はもはや意味のない問い。その時ではなかった、と考えるしかない。実際、そうだったのだから。やがて「その時」が来たことに感謝すべきだろう。
さくいん:大藪春彦、自死・自死遺族、悲嘆
最近、著名人の訃報、とくに男性で70代で亡くなる人の知らせをよく耳にする。
70歳まで、あと15年ほど。それほど遠くないような気がする。そう言うと妻には「まだ、還暦も迎えていないのに」と笑われた。
いや、15年はけっして長くもなければ、遠くもない。あっという間ではないか。
これまでの15年間を振り返ると、確かに単純な一本道ではなかった。いまの暮らしは、15年前の私にはまったく想像できなかっただろう。
そのあとの出来事も、想定外のものばかりだった。いまは生活が単調だからこのまま年を取るような気がしているだけなのかもしれない。この先の15年間にも、今の時点では予想もできない出来事に遭遇するのだろうか。
悲観的になりすぎることはよくないとわかってはいる。それでも、「あと15年くらい」、そう思って毎日を大切に生きることは悪いことではないと思う。
ついに今日はTシャツ一枚を着て、裸足で過ごした。
いい季節になってきた。これから梅雨入りまでが一番好きな季節。
裸足になると竹踏みが気持ちいい。
映画『君は月夜に光り輝く』をAmazon Primeで購入した。
感想に書いたように、この作品は『君の膵臓をたべたい』のメッセージを補完する続編と思っている。そのメッセージとは「死ぬな、生きろ」。監督は、ニ作品とも月川翔。二つの作品には彼の死生観が明瞭に描かれている。
もちろん、二つの作品には違いもある。『キミスイ』の山内桜良(浜辺美波)は先の短い自分の寿命に対して達観したような態度でいる。少なくとも人前では気丈に振る舞っている。
他方、『キミツキ』のまみず(永野芽郁)は卓也との絆が深まるほど、生きつづけたいという願いを強くする。それだけに見ている方はいたたまれない気持ちになる。
両方に出演している北村匠海の態度も違う。『キミスイ』の春樹は、桜良に特別な思いを持ちはじめていたはずなのに、最後まではっきりさせない。『キミツキ』の卓也は、生きることをあきらめようとしているまみずを積極的に励ます。そして恋心も率直に打ち明ける。
こうした違いから『キミツキ』のほうが、切なくて、やや重い作品に仕上がっている。それゆえ、見返すこともないと思い、見放題が終わってから購入することもなかった。
先週末、実家で夜、急に『キミツキ』が見たくなり、ベッドに横になったままスマホから購入した。なぜ急にそんな気になったのか、自分でもよくわからない。
かつてとても悲しい気持ちになった部屋で、あらためて悲しみを深く感じたくなったのかもしれない。悲しい気持ちになりたい。そういうことが、私にはときどきある。
そんなときに、この作品を見返すことになるだろう。
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、月川翔、死生観、浜辺美波、北村匠海、悲しみ
長くはいてきたジーンズ。ついに穴が開いてしまったので買い替えることにした。調べてみると2015年の夏に買ったもの。色もかなり落ちている。穴が膝のあたりならヴィンテージの感じがあるのかもしれないけれど、今回はお尻の部分に穴が開いてしまったので格好がよくない。買い替えるしかない。
ちょうどリサイクルのキャンペーンをしていて、お店が1,000円で下取りしてくれた。
同じメーカー、同じストレート・モデル、同じサイズを買った。100%綿素材の昔ながらのジーンズ。
店員によると、最近は大半のモデルにストレッチ素材が入っているらしい。私は嫌い。
ジーンズ、とくに新しいジーンズは硬くてゴワゴワしていないと新品という感じがしない。
一度だけ、ストレッチ素材のモデルを買ったことがある。ジャージをはいているみたいで、私は好きになれなかった。
同じことを2017年の秋に書いている。そのときに買ったスリム・ジーンズはまだ大丈夫。スリムとストレート。当面は2本体制で暮らす。
土曜日。ジーンズを買ってから、昼にハンバーガーを食べた。診察日でもないのにハンバーガーを食べるのは珍しい。というのも、新しい店ができたので試してみたかったから。
メニューには「テキサスバーガー」とある。どんなものなのか。前に行っていた店では、「ポートランドバーガー」と書いてあった。土地によって中身や味が違うのだろう。
テキサスバーガーは美味しかった。焼き目がついているので、おそらく直火焼きのパティの焼き具合がいい。何重にも折りたたんであるレタスもシャキシャキしていて歯応えが楽しい。どこが「テキサス」なのかはわからないけど、とりあえず美味しいので満足した。
食後のコーヒーも合格点。小さいサラダが付くのもうれしい。これから診察日にはここに来ることにする。
昼食のあとは散歩。大きな酒屋でシングルモルト・ウィスキーを眺める。ここのところ、続けてジンを買っているので、次回はウィスキーがいいかもしれない。ラベルを見て味を想像するだけでも楽しい。安い酒をたくさん呑むのを止めて、美味しいお酒を少しずつ呑もう。その方が健康にもいいし、気分もいいだろう。
さらに隣りの駅まで歩いてカラオケ。3時間、歌った。
夕飯の買い物をして帰宅。今日は1万歩、歩いた。これくらいは歩かないと。
さくいん:ジン(マティーニ)
来月、Kindle版の本を刊行する。
これまでに書いた文章をあるテーマに沿って選び出し、編集して私家集を作っている。
テーマと書名は後日発表する。
現在、編集および校正中。横書きを縦書きにするだけでも手間ひまがかかる。横書きでは数字がアラビア数字になっているので、これを漢数字にするだけでもかなり面倒な作業。
今回は完全なセルフプロデュース。編集から校正、表紙デザインまで自力でしている。
いつか紙の本を作りたいとずっと思っていた。ふだん自分が電子書籍を読まないから、その選択肢は考えていなかった。
調べてみるとKindle版の作成はとても簡単。紙にこだわらず、まずは一冊作ってみることにした。
方法は簡単ではあるけど、Amazonという書店に並ぶと思うとすこし緊張する。訪問する人も少ない自分のウェブサイトで好き勝手に書くこととは事情が異なる。
誤字脱字、引用文の正確さなど、気にしなければならないことは多い。まだ価格は決めていないが、買ってもらう以上、商品としてちゃんとしていないといけない。
小さい会社の思い出
米系ハイテクメーカー、5社で働いた。大企業も中小企業も経験した。そのなかでも、一番小さい規模は社長を入れても3人という世帯だった。本社はシリコンバレーにあり、まだ上場していなかった。本社にも100人程度しかいなかったと思う。
このときは楽しかった。細かいルールはもちろん、就業規則もなかった。成功という夢を抱いて張り切って働いていた。
当時、月曜日に定例のミーティングをしていた。理由は居酒屋の焼酎が半額だったから。仕事の話は早々に切り上げ、月曜日から呑んでいた。
金曜日も夕方、本社に送る週報を書き上げたら、コンビニで調達してビールを呑んでいた。桜の季節には川べりまで歩いて花見をした。楽しかった。
あれくらいの規模で、あれくらいの忙しさが私にはあっていたような気がする。
その後、会社は成長し上場もした。成長とともに従業員は増え、仕事も忙しくなった。
この会社は、半ば追い出されるようにして辞めた。社内での発表も退職当日で、客先へのあいさつもさせてくれなかった。
実のところ、もう限界だった。前職で発病したうつ病が過労と心労で悪化していた。あのまま働いていたらと思うとゾッとする。
会社はその後、大企業に買収された。日本支社がどうなったか、つきあいも途切れたので知らない。
さくいん:労働、うつ病
右肘の痛み
ダンベルを持って筋トレをしているときに変にひねったのか、右腕が痛い。
初めは肘から先の筋肉が痛かった。だから毎晩、湿布をして寝ていた。次第に痛みが上に移動して、いまは肘の骨が痛い。
カラオケのマイクを持っても痛みがあった。風呂の手桶を持つときも痛い。これは困った。
骨が痛いのでは湿布ではよくならないだろう。どうしたものか。
上半身の筋トレは、そういうわけでしばらく休んでいる。
3月は腹筋や下半身のトレーニングもサボりがちだった。
しばらくダンベルは持たない方がいいだろう。代わりに、スクワットとももあげ、腹筋のトレーニングに重点を置くことにした。
空いている時間のほぼすべてをKindle出版のために費やしている。推敲、編集、校正。
トラブルも多い。採用する文章を増やして途中に挿入したところ、Previewerで見られなくなった。どの文章が悪さをしているのか、すぐには判別できないので、追加した一章ずつ抜粋して確認しなければならなかった。
読み返すたびに、横書きで使っていたアラビア数字が縦書きにそのまま残っているのが見つかる。これが困りもの。何度掃除しても落ち葉が舞い落ちてくる秋の玄関前のよう。
突然、文字のあいだにスペースが見つかったり、漢字変換しそこねた半角英数字もときどき見つかる。今まで何度も丁寧に読み返していたと思っていたのに、変換ミスもまだある。
苦労はあってもこの作業じたいは楽しい。少しずつ見栄えはよくなっていくし、何より集中して一人でできるのがいい。グループで協働するのが苦手な性格とつくづく思う。
それにしても本作りは大変。これに紙や装丁など実物が加わったらずっと苦労するだろう。それでも、一度は作ってみたい。その思いが強くなる。
一つのことにかかりきりになると他がおろそかになるのが私の性格。最近は英仏語学習が停滞中。
金曜日、久しぶりに出社した。例によって、疎外感と孤独感の強い時間だった。オフィスがフリーアドレスになってからその思いが余計強くなった。こういう気持ちになるのはうつ病のせいかもしれない。
座席が決まっているときは席の近い人と雑談もしていた。いまは出社しても、見知った顔は少ないし、見かけても雑談するために近くに座るのも気が引ける。フリーアドレス制は社員の帰属意識を低めるのではないか。
会社は交流を増やすためにランチ会みたいなものを企画している。そういう会を企画しなければならないということが、社員間の心の距離が離れていることの証左に思える。
出社の緊張と疲れのせいか、木曜と金曜の夜はよく眠れなかった。寝つくまでに1時間以上かかり、以降2時間ごとに目を覚まし、寝起きも悪かった。
土曜日の夜、ようやくしっかり眠ることができた。
今月はもう一回出社しなければならない。今から頭が痛い。
さくいん:労働、うつ病
汐留ミュージアムの開館20周年記念展へ行ってきた。
この美術館へ初めて来たのは2003年の7月。やはりルオー展だった。
ルオーがギュスターブ・モローに師事していたことは前から知っていた。ただ、戦後の抽象的な画風からモローの影響はあまり感じられなかった。今回、学生時代の習作も見ることができた。レンブラントやダ・ヴィンチを模範としていたこと、セザンヌとの出会いが抽象的なスタイルへ変わるきっかけだったことがよくわかった。
"Forme, Couleur, Harmonie"とはルオー自身の言葉。彼の作品の本質をよく言い当てている。
今回、気に入った作品は「キリスト教的夜景」。近くで見ると、”色”を塗りつけただけに見える”かたち”が離れて見ると人や建物に見える。この絶妙な造形にいつも心打たれる。撮影OKエリアにあったので、写真に収めた。
聖性のある作品とは「人を沈黙させる」作品、という言葉が映像資料で引用されていた。まさに。何でもない色とかたちが意味ある姿に見えるその瞬間、私は言葉を失う。
一つのスタイルを獲得するためには、長い時間の修練が必要であることをあらためて思い知らされた。
さくいん:ジョルジュ・ルオー、スタイル
4月の初めに横浜市中を流れる大岡川沿いの桜を見てきた。市内でも桜の名所で、コロナの規制もなくなったためかなりの賑わいだった。
ツィートしたあと、こちらに転載するのを忘れていたので、写真を貼っておく。
TwitterがAPIを開放しなくなったため、ツィートを記録しておくTwilogがサービスを停止している。そのためツィートはいずれ消失する恐れがある。
このサイトでは、ツィートしたもので、とくに1個でも「いいね!」がついたもの、すなわち誰かに届いたものは転載するようにしている。
今回は3週間近く過ぎてしまったが、春の思い出として記録しておく。
さくいん:横浜
来月、Kindleで発行する本の書名と書影は以下のとおり。
書名:自死遺族であるということ 『烏兎の庭』より
発売予定日:4月25日。
書影は、画像編集ツール、Canvaで作成した。
現在、校正の最終段階。なかなか校了できない。
さくいん:自死・自死遺族
表紙デザインについて
『自死遺族であるということ』の表紙デザインについて。
なるべくシンプルでミニマルなデザインにしたかった。写真は『烏兎の庭』の表紙の写真を使った。
デザインしてみると、どこかで見た覚えのある仕上がりになった。本棚を探して見つけた。『遠ざかるノートルダム』(森有正)の箱に似ている。
レイアウトこそ違えど、中心に正方形の写真を貼り付け、上下に分けてテキストを配置しているところは同じ。
これは盗用だろうか、それともオマージュと言える範囲だろうか。自分ではわからない。
この装丁がとても好きなことは正直に認める。
『遠ざかるノートルダム』を入手するより前から、『烏兎の庭』のデザインはこういう感じだった。第一部の表紙とデザインも配色も近い。そういう言い訳をしておく。
さくいん:森有正
校正の苦労
Kindle出版のためにこれまでに書いた文章を校正している。思った以上に苦労している。そこで後学のために今回、統一するのに苦労していることを書いておく。
今回は、校正者の苦労がほんとうによくわかった。
- ダブルクオテーション。“xxx”。拡大しないと"xxx"と区別がつかない。
- ダッシュ。——xxx。
- 書籍の名称。本文にないものは『タイトル』(著者名、出版社名、出版年)。
- 書籍の名称。本文にあるものは『タイトル』(著者名)。
- 横書きで使っていた半角数字。漢数字が縦書きに変換。
- 「それがが」や「それはは」などの重複。
- 改行キーを二度押したせいで余計についてしまったスペース。
なお、漢字は完全には統一しなかった。「はじめる」もあれば「始める」もある。
文脈や漢字の密集度(読みやすさ)によって使い分けた。
昨年末、12月24日の日経新聞、書評特集「目利きが選んだ『3冊』」で、縄田一男(文芸評論家)が選んでいた小説。奇妙な書名が気になった。新しい本なのに図書館にあったので借りてきて読んだ。読みやすい文章で面白い話だったので、2日間で読了した。
高校の同級生である6人が、41歳になって再会する物語。中年と呼ばれる年齢にさしかかる時期。それぞれに悩みがある。順風満帆な人はいない。いろいろな41歳がある。誇張されている点もあるだろうけど、こんな41歳もいるかもしれないと思わせる人物造形が巧み。私を含めて中年以上の男性読者は唸らされることも多いだろう。
確かに素数とバレーボールの話だった。書名に偽りはない。こんな組み合わせを元にして、こんなに面白い話を書ける才能に感心する。
著者は登場人物たちとほぼ同じ年齢。私は10年以上前に通過している。私も人生の帰路に立っていた。それから6年のあいだに、成功があり挫折があった。仕事では大きな挫折をした一方、危うい時期もあったものの、家族は離散せずに済んだ。
それは本当に不幸中の幸いだった。本書でも、家族を大切にする人物に一番共感した。
軽妙な文章を書けないので、こういう文体に憧れがある。私自身は生真面目でも堅物でもないのに、文章を書くとどうも硬くなる。
さくいん:日経新聞、HOME(家族)
これまで20年かけて書きためてきた文章のなかから、一つのテーマに絞って文章を選び、電子書籍を作ってみた。
これを紙の本として上梓することが、いまのところ、私の一番大きな夢。
電子書籍を作るという企画は2月に思いついた。3月と4月の2ヶ月をかけて、元の横書きの文章を縦書きに変換する作業を行った。
校正に思いのほか時間がかかった。横書きの数字がそのままだったり、何度も読み返している文章なのに、誤字脱字も少なくなかった。やはり、きちんとした本を作ることは簡単なことではない。
アラ還に突入する年の記念として発売。
さくいん:自死・自死遺族、悲嘆
Kindle版を作るときにはレイアウトでとても苦労した。思い通りのページ作りがなかなかできなかった。
初めは固定レイアウトにして、揃っている行末を再現しようとしたけれど、EPUBファイルではうまくできなかった。電子書籍らしく自在に一行の文字数が変化するリフロー型で作成した。
煩雑で見にくくなるので、オリジナルでは挿入していた洋書の原題や著者名の原語表記も、Kindle版ではあきらめた。著作権で問題にならないように、音楽の歌詞の引用は削除した。その分、電子書籍らしい読みやすさは工夫できたと思う。
PDF版では、縦書き文の行末を文節、もしくは音節で揃える編集作業をした。これで思ったとおりの配置ができた。エピグラフもオリジナル通り。なので、こちらが完全版。
校正と校閲に思った以上に時間がかかった。横書きに使っていたアラビア数字を縦書きの漢数字に修正するのにかなり手間がかかった。読み返すたびに誤字脱字が見つかり、とても疲れた。校正担当者の苦労よくわかった。本を一冊作ることが、こんなに苦労するものとは知らなかった。
Kindle版では価格設定にも悩んだ。本らしい価格にするか、広く読んでもらうために最低価格にするか。初めての出版なので、まず読んでもらうことを優先にして価格は最低値に設定した。PDF版は無料で公開するので、Kindle版は出版することに意味がある。
さくいん:自死・自死遺族、悲嘆
Amazonに掲載している内容紹介。
小学六年生の冬に、7歳離れた姉を自死で失くした「私」。30代半ばになり、ようやく「自死遺族である」ことを真剣に考えるようになった。
「書きたいことはあるのだが、書けることではないのだ」。それが思索の始まりだった。
それから20年、さまざまな本を読み、本の感想や自己の内面への反省をエッセイに書き、「自死遺族」についての思索を深めてきた。本書では専門書から文学作品や絵本、映画や漫画まで、さまざまな分野の本を取り上げている。
グリーフケア(平山正実、高木慶子)、臨床心理(下園壮太)、精神科医(中井久夫、土居健郎、春日武彦)、宗教学(島薗進、山形孝夫)、哲学(西田幾多郎、小泉義之)、文学(島崎藤村、尾崎翠、梨木香歩、石原吉郎、吉田満、森山啓)、絵本(あまんきみこ、マイケル・ローゼン)、児童書(末吉暁子)、漫画(こうの史代)、映画(月川翔)。
その間には過労からうつ病になり、「私」自身も希死念慮に苦しむこともあった。外資系企業の営業職を辞め、障害者として非正規で再就職する一方、書けることことではなかったはずの「自死遺族であること」についての記述は増えていった。
目次はそのまま、自死に限らず、死別体験についてじっくり考えてみたい人へ有益なブックリスト。
また、著者が受けたグリーフケアのカウンセリングについても詳述している。
「自死遺族であることは一つの属性に過ぎない」。では、自死遺族として生きるとはどういうことか?
長い時間をかけた「自死遺族」当事者によるセルフ・グリーフケアの軌跡。
さくいん:自死・自死遺族
20年かけて書きためてきた文章を読み返しながら考えたことがある。それは2002年まで、自分が自死遺族であることを私は真剣に考えてこなかったということ。
もちろん、姉のことを忘れた日はない。しかし、それは単なる追慕の感情であり、自分の人生にとって自死遺族であるということが何を意味しているのか、客観的・論理的に、いや、主観的・感情的にも、真剣に考えた抜いたことはなかった。
この20年間、いろいろなテーマについて書いてきたけど、一つのテーマで文章を選ぼうとしたとき、私が立ち返るべきところは「自死遺族である」ということに気づいた。
「自死遺族であるということ」。それは一つの属性に過ぎない。それだけでは、行動にも表現にもならない。本書で取り上げた吉田満も次のように述べている。
体験は、だが結局それだけのものでしかない。一つの体験が真に血肉となるには、さらにそれが他の体験によって超えられることを要する。(「死と信仰」『吉田満著作集 下』)
本書を書き上げたことは、「自死遺族」になったという一つの体験を、私なりに鍛えた「他の体験」であり、言葉を換えれば、行動と試みと言える。この試みが、「真の血肉」となるかどうかは、これから先の「日常」が明らかにするだろう。
さくいん:自死・自死遺族
ブクログ:自死遺族
私が理想とする『本のエンドロール』を実現させた。
- 著者 碧岡烏兎
- 編集 碧岡烏兎
- 校正・校閲 碧岡烏兎
- 表紙デザイン 碧岡烏兎
- 表紙写真 碧岡烏兎(ブリュッセル、テルビューレン公演
- 執筆ツール mi
- 編集ツール Pages
- 表紙作成ツール Canva
- 執筆機材 iMac 24インチ、2022
- 表紙フォント 筑紫明朝H
- 表紙文字色:#061B42(6:27:66)
- 見出しフォント ヒラギノ角ゴ ProN
- 目次フォント ヒラギノ角ゴ ProN
- 本文フォント ヒラギノ明朝 ProN
今回はセルフ・プロデュース。誰の手も借りていない。これが私のスタイルかもしれない。
さくいん:スタイル