11月のアクセス解析
先月は、当月の箱庭(ブログ)が読まれた。50を越すアクセスといっても、ユーザー数は10人にも満たないこともわかっている。
アクセス数は少なくても、読んでほしいと思う文章が読まれることははうれしい。しっかり読んでもらえていることは閲覧時間から想像できる。以下はそういう文章の一部。
最近、フォローしはじめたTwitterのbotで小林秀雄のある言葉を見つけた。
作品とは自分の生命の刻印ならば、作者は、どうして作品の批判やら解説やらを願う筈があろうか。愛読者を求めているだけだ。生命の刻印を愛してくれる人を期待しているだけだと思います。
【読書週間】
私が自分の文章に願う気持ちも同じ。多くの人に読まれなくてもいい。少なくてもいい。大切に読んでくれる読者に恵まれたい。
シオランのbotでも、励みになる言葉を見つけた。
読者をもたぬ作家だけが、誠実であるという贅沢をみずからに許すことができる。彼は誰にも語りかけぬ、せいぜい自分にだけだ。(『悪しき造物主』)
私の文章の、一番目の読者は私自身。私の文章を一番楽しみにしているのは私自身。
その私自身については、改訂したプロフィールを見ていただきたい。
さくいん:瀬田貞二、松居直、渡辺茂男、島薗進、小林秀雄、シオラン
筋トレのメニュー
筋トレが定着してきた。以前はしていなかった週末にも、空いた時間にするようになった。在宅勤務のあいだ、座り疲れたら立ち上がり何かする。以下、最近こなしているメニュー。
ヨガ。基本ポーズを少しずつ。気の向くままこれ以外にもする。
- 月のポーズ
- 立木のポーズ(半分は目を閉じて)
- ねじりのポーズ
- 下を向いた犬のポーズ
- 太鼓橋のポーズ
ダンベル。片方4Kgずつ。すべて15回ずつ。
- ベンチプレス
- アームカール
- アップライトロウ
- ショルダープレス
- リストカール
- サイドクランチ
チューブ。負荷7Kg相当。
- サイドレイズ
- シーテッドローイング
- レッグプレス
- アブダクション
- レッグエクステンション
その他。
- 腰ひねり+ももあげ、50回
- 青竹踏み、土踏まずの前中後、50回ずつ
- スクワット、10回
スクワットは膝の痛みがまだあるので、10回1セットだけ。正しい姿勢でできるように壁の前に立ち、膝が前に出ないようにして行う。休めてばかりでは強くなれない。少しずつ回数を増やして膝を鍛える。
先々週の週末、実家で観た。劇場で見損ねた作品。作品の迫力を体感するには劇場で見るべきだった。
衝撃を受けるほどの感動とは言えないまでも、よくまとまった作品という印象が残った。ウルトラマンをよく知る人も、初めて観る人も楽しめる構成になっていた。
私は「ウルトラマンを知る」世代なので、1966年のオリジナルとの整合性を気にしながら見た。以下、気づいたオリジナルを踏襲している点。
- ウルトラマンは人間の自己犠牲の精神に感動し地球にとどまった
- ザラブ星人はニセ・ウルトラマンとセットで登場した
- メフィラス星人は力ではなく、交渉によって地球を獲得しようと企図した
- 最後は人類の叡智が地球を守った
- 音楽や効果音ではオリジナルを活用している
このうち、一点目は『マン』というよりは、『セブン』の設定を流用したものだろう。
次にオリジナルの設定を展開した、あるいは深めたところ。
- 人間が変身し、巨大化する「設定」に合理的な説明を与えた
- 日本にしか怪獣が出現しないことにも理由づけをした
- ウルトラマンは特別な存在ではなく、無数に存在する宇宙人(外星人)の一人
驚いたのは、ウルトラマンが「光の星の掟」を破ったために粛清されそうになったこと。これは上の三点目に関連する。もっとも、ストーリーの上での違和感はなかった。
最後の場面について。私の解釈は、オリジナルの最後と同じ。目覚めたのは、神永。彼はウルトラマンと融合していたあいだの記憶がない。そう私は想像している。
見終えて思ったこと。「シン」を制作した人の思い入れの深さよりも、それだけの「思い入れ」を生み出す源泉を作った金城哲夫のこと。
言葉を換えれば、あらためて思うのは「ウルトラマン」という基本コンセプトの偉大さ。
宇宙から来た巨大な正義の使者。シンプルでいて奥深いこの基本コンセプトを思いついた金城哲夫の才覚に驚嘆せずにいられない。
もう一度、オリジナル版『ウルトラマン』を観たくなった。
さくいん:『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』、金城哲夫
勤労感謝の日。雨の祝日。のんびりするつもりで気軽に観はじめた。
前に見た是枝作品は『海街diary』だった。福山雅治は、東野圭吾原作のミステリー作品でなじみがある。そんなことから心温まるようなエンターテイメント作品を予想していたので、予想を覆す展開と結末に、鈍器で頭を叩かれたような衝撃があった。
よりエンターテインメント性が高いけど、やむを得ない犯罪はあるのか。人を救うための犯罪は許されるのか、というテーマは東野原作の『容疑者Xの献身』と重なるところもある。
謎ばかりが残る。はっきりしたのはタイトルにある「三度目の殺人」の意味だけ。事件の真相は、何度も違う形で見せられるために、どれが真実なのかはわからずじまい。爽快感が残る作品はもちろん心地よいが、謎だけを残す作品も深く心に突き刺さる。
犯罪とは何か。裁判とは何か。「人が人を裁く」とはどういうことか。ふだんはほとんど考えることのない重い問いかけを突きつける作品だった。
私自身は死刑に対しては反対の立場。法に基づき「人が人を裁く」ことはできても、人の命まで奪うことはできないと考える。でも、「人を救う」犯罪を認めるほど寛大ではない。
復讐を考えていた時期もある。でも、私一人が罪を背負うのは構わないが、家族に迷惑がかかるのは望むところではないので復讐はあきらめた。今は忘れようと努力している。
ところで、実際の裁判でも、弁護士、検事、裁判官のそれぞれの「都合」を調整した上で判決が下されているのだろうか。彼らも「仕事」としてやっているということは想像がつく。でも、「正義の天秤」も、同業者たちの腹の探り合いで決まっているとしたら少し怖い。そういうところにも興味が湧いた。
「命は選別されている」
この言葉が重くのしかかる。私もそれに加担しているかもしれないから。
窓の外も薄暗い、雨降る休日に似合う恐ろしい作品だった。ロックでジンを呑み干して、午後は寝込んでしまった。
さくいん:『海街diary』、広瀬すず、東野圭吾、ジン
「食わず嫌い」があるように私には「読まず嫌い」の書き手が少なくない。
私の書棚を見た人は、「あれ、この作家を読んでいるなら、あの人も読んでそうなのに」と思うことがきっとある。それが「読まず嫌い」。名前を直接、書くことはここではしない。
以下、その特徴。
- 異常な頻度で本を出している
- 表紙に大きい顔写真
- 専門分野以外でも専門家のように語る
- 事実誤認が多い
- 書名が「ばか(サル)でもわかる」
- 書名が「〇〇力」
- 書名が命令口調
- テレビでコメンテーターをしている
- 著書では上品なのに、悪態をつくなど、Twitterでモラルに欠けている
経験則から言えば「読まず嫌い」の書き手を読んでみて、そのイメージがくつがえることはほとんどない。上に書いた条件はスクリーニングとして、少なくとも私にとっては有効に機能している。
録画しておいたテレビ放映を、平日の夕方に2回に分けて観た。瀬尾まいこ原作の作品は、正月に見たテレビドラマ『優しい音楽』以来。
面白いと思った。でも、違和感も残った。それがなぜなのか、よくわからず、感想を言葉にするのに時間がかかった。そして、ふと昔、読んだある箴言を思い出した。
男の多くは唯ひとつの愛をしか知らない。娘に対する愛がそれである。しかもそこにはあらんかぎりの愛がその劫苦とともにこめられているのだ。
ジャック・シャルドンヌのこの言葉は、私童話作家の森忠明に教えられた。
父親の娘に対する深い愛情はよくわかった。そこに心を動かされた。「娘のためならば、できることは何でもしたい」。そういう気持ちには共感したし、とりわけ田中圭の演技からよく伝わってきた。母親の行動の意味は理解できなかった。
父親が娘の結婚に対して感情的に反対したり、相手に「殴らせろ」と言ったりするのは、それだけ愛情が深いからだろう。と同時に、娘を自分の一部分、もしくは自由にできる所有物と思っているせいでもあるように思う。娘を独立した個人と認めていれば「殴らせろ」とは言えないだろう。所有物という意識が過剰で、性的虐待をする父親もいないわけではない。父親の娘への愛は複雑で倒錯している。
娘を授かったとき、それまで私を袖にした女性たちを皆見返したような気持ちになった。その理由は今もわからない。一人の女性を自分の支配下においたという意識があったのかもしれない。先日、昔撮影した8ミリビデオをDVDにした。客観的に見てみると、娘を溺愛していたことがよくわかる。もちろん、今もそう。
永野芽郁を観るのは『君は月夜に光り輝く』に続いて2作目。『キミツキ』では、そのまま高校生に見えるほどあどけなさがあった。本作では高校生から結婚を決心する二十代の女性まで上手く演じていたと思う。
さくいん:森忠明
出社日
先週の金曜日。文書に事業部印の捺印を依頼されたので出社した。朝は遅めに出たので、電車には座れた。
最近、自分が安全と思う距離が広がっている。在宅勤務のせいだろう。半径1メートルには誰もいないでほしい。満員電車はもちろん辛い。座れると少し落ち着く。会社までは90分。つまり、在宅勤務のあいだは3時間、時間が浮いている。この時間をもっと有効に使いたい。正月に2023年の目標と一緒に考える。
昼は一人で牛丼を食べた。会社のなかでほぼ唯一、雑談ができる相手とすれ違ったので、しばらく談笑した。こういう時間が少しでもあると気が休まる。でも、会社にいても気が重いので、フレックスタイムを利用して15時に退勤した。
駅ビルにある書店で新刊をチェック。読みたい本をメモして、あとで図書館で借りる。酒を呑む金はあっても本を買う金がない。そういうさもしい暮らしを送っている。公共の図書館を活用することは税金の回収と居直ってみる。
夕方、金沢八景駅で母と待ち合わせて、なじみのワイン・ビストロへ。
前菜盛り合わせ、ポテトサラダ、ラグーのパスタ、牛ハラミのステーキ。この店は、店主が選んで買いつけているワインが売り。その上、食事がおいしい。
デザートに一つ残っていたかぼちゃのプリンを食べた。スパークリングワインを二人で一本空けて、食後に私だけロゼを一杯もらった。
2週に一回、帰省している。父が元気だった頃は月に1回だった。今のところ、母は一人で暮らしている。こうして外食もできる。先のことはわからない。何かあったら、またそのとき考える。難しい問題をただ先送りにしているだけのような気もする。
百貨店の建築の歴史をたどる展覧会。日曜日、実家からの帰りに寄り道して見た。
大正・昭和時代、百貨店はエレベーターやエスカレーターなど最新設備を備えた最先端の建築だった。87歳になる母の話によれば、大きな氷柱があったので夏の暑い日には百貨店に涼みに行ったという。
私が十代の頃も、まだ百貨店は夢と憧れの場所だった。高校二年生のときに横浜そごうができて、巨大な建物にとても驚いた記憶がある。
江戸時代から現代までの大手百貨店の歴史が壁いっぱいに展示されていた。悲しいことに現在に近いところでは「統合、閉店、破綻」などの言葉が並んでいる。
いま、百貨店は冬の時代。個々のテナントのブランド力が向上して百貨店自身のブランド力を越えている。百貨店は、有名ブランドが集積するショッピング・モール(SC)に変化してきている。とくにアメリカでは、百貨店よりもSCの方が圧倒的に高級感がある。
日本橋高島屋には今も古いデザインのエレベーターがある。昭和生まれの私は懐かしさを感じるので残ってほしいと思う。しかし、生き残りをかけた厳しい時代には、いずれ最先端の設備に置き換えられていくだろう。
本館で天せいろを食べ、地下でヒレカツを買って帰宅した。
さくいん:アメリカ
ワールドカップ敗退で思うこと
W杯サッカー、日本代表はベスト16という結果だった。私自身はサッカーに疎いので早朝深夜の試合は見なかった。
2022年6月に「ワールドカップ敗退で思う」と題して小文を書いている。W杯について、かなり否定的な論調で書いている。
これから思い出したように否定的な論調のコメントが噴出するだろう。曰く、全国民が同じ方向を向くのは怖い、マスメディアの一極集中は問題だ、ほかにも取り上げるべき問題があったはずだ、などなど。イベントが盛り上がっている間には黙っておいて、終わったとたんにアリバイ作りのために否定的な論評を付け加えておくというのが最近のメディアのパターンになっている。
メディアの加熱醸造はいつものこと。今回は強豪2チームに勝利したこともあり、メディアだけでなく「国民的熱狂」があったように見えた。
それを実感したのは子どもたちへのインタビュー。シュートした選手以外の選手の動きもよく見ていて解説者顔負けのコメントをしていた。これには驚いた。一般の人も、サッカーのルールや戦術にかなり詳しくなっていることはTwitterを見ていてもわかる。
思えば、私が否定的な文章を書いてから20年が経った。あの頃、テレビでW杯を見ていた子どもが今回、若手選手となり活躍している。日本のサッカーは20年かけて裾野を広げた。今やサッカーは野球と同等、もしくはそれ以上の国民的スポーツになっているかもしれない。
サッカーの「作られたブーム」に常に批判的だったナンシー関が存命であったら、今回のW杯をどう見ただろう。
国民感情がスポーツに向いているあいだに、大事なことをこっそり決める政府のやり口は変わっていない。今回も、原発の稼働延長や自衛隊の反撃能力について国民的議論もないまま話が進められていた。サッカーは変わった。メディアと政府のやり口は変わっていない。
蛇足ながら、20年前に書いた結語を繰り返しておく。
結局、裏では金、利権、ビジネス、そういった力学が働くのなら、包み隠さず営利を目的としたクラブチーム通しで戦うイベントとしたほうが胡散臭さは減ると思う。もちろん、メジャーリーグやNBAの突出した商業主義に両手をあげて賛成というわけではないけれど、まやかしの郷土愛で金権主義にふたして、国家主義の伸張を密かに画策するより、はるかにましなような気がする。
さくいん:ナンシー関、NBA
昨日のこと。朝、パソコンを開くとデータ入力ミスを指摘するメール。
またやってしまった。何でCの次をDでなくてBにしたのだろう。注意不足にも程がある。
ここで、以前なら強烈な自己嫌悪に陥っていた。
今日はちょっと違う。
謝ってもう一度入力すればいい、と切り替えられた。
もちろん、ミスがないことが一番いい。ミスをしたときの対処も重要。
いちいち自己嫌悪に落ち込まないことも大事。
金曜日の午後、休みをとった。六本木で陶芸品を観て、銀座でウィンドーショッピングをして、ライブハウスで酔いしれた。
泉屋博古館へ行くのは初めて。静嘉堂文庫が三菱財閥のコレクションであるように、泉屋博古館は住友財閥のコレクション。その事実も到着するまで知らなかった。最寄駅は六本木一丁目とあったので六本木駅から歩いてみたらちょっと遠かった。サウジアラビアやスェーデンの大使館の脇を通ると公園の脇に小さな美術館があった。
板谷波山は7月に出光美術館で見た。出光のコレクションも素晴らしかったけれど、今回の展覧会も素晴らしかった。葆光彩磁の作品をたくさん見られて眼福の時間を過ごした。
彩色上に薄いヴェールが被せたような葆光彩磁器は本当に美しい。色合いだけではない。柔らかな器の造形や凝った文様も素晴らしい。
波山が極貧の生活から陶芸家として立身したこと、葆光彩磁は制作が非常に難しく、大正前期から昭和初期の10年間しか作られなかったことなどを展示で初めて知った。粉々にして捨てられた失敗作の陶片が大家の矜持を物語っていた。
島崎藤村は次々と家族が病に倒れても文学で独立することに邁進した。それほどの強烈な情熱を非難する気はない。そういう人もいる。ただ苦難を強いられた家族は気の毒に思う。
近代の陶芸品として初めて重要文化財に指定された大きな花瓶は確かに素晴らしい。私は、白をベースにした小さな花瓶に惹かれる。
住友家では波山の作品を別邸の応接室に飾っていたという。写真が展示されていた財閥家の豪華な屋敷に驚いた。財閥当主と一般人の格差は今よりもずっと大きかったのではないか。
個人蔵の作品もいくつか展示されていた。今でもリビングの片隅に葆光彩磁器を飾る数寄者もいるのだろうか。
来た方向とは反対の坂を降りて神谷町駅から日比谷線に乗り、銀座へ向かった。
さくいん:板谷波山、出光美術館、島崎藤村
泉屋博古館から神谷町まで歩き、日比谷線で銀座に出た。
銀座に着くと、ライブハウスの開演まで時間はまだある。たっぷり時間をかけて銀ブラをした。松屋で洋服やクリスタルグラスを見た。夏に旅した志摩観光ホテルで教えてもらったsghrのガラスも見た。クリスタルほど高くはない。これなら手が届くかもしれない。
クリスタルグラスも見た。タンブラーを2個、ショットグラスを1個持っている。次はもう一つ、タンブラーを買いたい。そう思って、店を見つけるたびに下見をしている。買うまでの時間をゆっくり楽しみたい。
銀座まで来たのだから買い物もしたい。よくよく考えて、紳士服専門の百貨店で防寒用の長靴下を買った。
次は教文館。"House of Christmas"ではオーナメントや人形を眺めた。『聖書時代史』(佐藤研)と『旧約聖書外典』を手に取ったけれど、買わなかった。一度、図書館で借りて再読するようなら買う。
酒を呑む金はあっても本を買う金はない。そういうさもしい暮らしを送っている。でも本は図書館で借りられるけど、生演奏はライブハウスに行かなければ聴けない。このお金の使い方は間違っていない。そう自分に言い聞かせながら、いつものように、岡部ともみの歌声に酔いしれた。呑みたいだけのんで、食べたいだけ食べた。
ひとり忘年会なので、一人、今年一年を振り返ってみた。
昨年は、安定した一年で大きな心境の変化もあった。それに比べると、今年は安定は継続できたものの、前進も向上も、まして飛躍はなかった。何となく月日を過ごしてしまった気がする。
不甲斐ない一年だった。来年は何か変化をつけて、飛躍とまではいかないまでも、せめて一歩くらい前進したい。グラスを傾けながら、そんな反省もした。
気持ちよく酔ってきたので、したことのない自撮りをしてみた。顔は出さない。胸元だけ。ボタンダウンシャツに小紋のネクタイ。紺のブレザー。在宅勤務になり営業職時代に着ていたスーツやジャケットを着る機会がなくなった。だから、こうして「おでかけ」のときにはなるべくきちんとした格好をするようにしている。
帰りは電車が遅れ、バスがなくなり、十六夜の月を眺めながら歩いて帰宅した。家で呑みなおすつもりだったけど、身体が冷えたので、すぐに布団にもぐりこんで寝てしまった。
さくいん:銀座、ケネディハウス銀座
日曜日は快晴だった。2回洗濯機を回して、すべてベランダに干してから出かけた。バスを乗り継いで神代植物公園へ。
公園のツィートによれば、今週が見頃。前日も出かけたけど、これは見逃せないので観に行った。平日、ほとんど外出していないので、週末はできるだけ外に出る。
見事な紅葉を写真に収めることができた。雑木林を散策して満足したので、大温室へは行かなかった。
さくいん:神代植物公園
紅葉狩りのあとはいつもの深大寺そば店、多聞へ。
生ビール、冷やしたぬき中盛り、わらび餅。年越しそばをフルコースでいただいた。
2倍盛りの中盛りを食べると「もう少し食べられるかな」と思う。3倍盛りの大盛りは完食するのに苦労する。私の胃袋には中盛りがちょうどいい。
この店に通うようになったのは、30年ほど前。銀座のライブハウスと同じ頃。
なじみの店が続いているのはとてもうれしい。飲食業で30年続けるのはきっと簡単なことではない。女将さんも元気そうだった。レジで会計するときに、ひとこと会話する。これができるのは常連の特権。
バスで駅に戻り、カラオケ。4時間半、女性ボーカルの歌だけを歌った。山口百恵、松任谷由実、竹内まりや、松田聖子、南野陽子、谷山浩子、The Carpenters、最後に中島みゆき。「あなた」(小坂明子)の「私の横には」のところでちょっと泣いた。
あてがわれたのはスタンドマイクのある部屋。片手でマイクを持つよりも姿勢が崩れなくて気持ちよく歌えた。
最後だけはミスチル。"HANABI"とhimawari。満足して帰宅した。
さくいん:Mr.Children
水曜日、オフィスで仕事をした。今月二度目の出社。
月曜日にオミクロン株対応のワクチン接種を受けた。その副反応のため火曜日は高熱こそなかったものの、身体の節々が痛く、水曜日の朝でもまだだるさが残っていた。珍しく依頼ごとがあったので、9時半から5時まで仕事をした。
今日はいつもとは違い妻が家にいて私が出社だった。ふだんは逆。昼休みに妻から指示をもらい、私が夕飯の下拵えをしている。
昔は妻が家にいて私が会社に出勤していた。
ボク稼ぐ人、あなた貯める人
これが我が家のスタイルだった。
小遣い制だったので、家計をどうまわしているのか、ローンと学費はどこから捻出しているのか、すべて妻任せで、私はまったく関知していなかった。
いまは二馬力でもかつての私の稼ぎの半分にも届かない。
今夜の夕飯は何ですか
こんなメッセージを送ったら、新幹線で新横浜まで通勤していた頃を思い出した。
朝は7時前に家を出て8時には東京駅で新幹線に乗り、8時半には新横浜の事務所にいた。
帰りの新幹線から「今日の夕飯は何ですか」と訊くのが日課だった。
よく働いた
心身が壊れるのも無理なかった。ローンはないし、教育費も最後の分を払い込んだ。二人だけなら、今の稼ぎでも暮らしていけるだろう。
そう考えて、意味のない「もしも」を想像するのをやめた。
一日出社しただけでとても疲れたので、純米酒を熱燗で呑んで早く寝た。
写真は都心の30階から見た黄昏の富士山。
さくいん:労働
今週月曜日のNHKテレビ『クローズアップ現代』。東日本大震災で母親を失くしたことを誰にも話さないでいたという若い人がインタビューを受けていた。
映画『すずめの戸締まり』を見て、友人に話すことを決めたという。そして、友人は温かくその秘密を受け入れてくれたと答えていた。
秘密を抱えて生きることは、さぞかし辛かっただろう。
これこそ「公認されない死」と呼ばれる喪失体験。
テレビで答えていた人と私とでは年齢も境遇も違う。
「公認されない死」を絶対に人に打ち明けない、秘密にすることを私は選んだ。
ここ、すなわち『庭』以外では、つまりリアルな世界ではもう誰にも話さないと決めた。
話さないでいても信頼関係は築ける。むしろ、この年齢になって思春期の出来事を告白することが信頼関係を深めるきっかけになるとは思えない。
仕方がないとは思わない。これでいい。私は秘密を大切にして生きていきたい。
さくいん:NHK(テレビ)、秘密、自死遺族
大型書店で私好みの大判の図鑑を見つけた。検索すると今年の新刊なのに近くの図書館がすでに蔵書している。さっそく借りてきて眺めた。
『哲学の本』は1冊ずつ紹介するのではなく、写真の多い哲学史という感じ。女性や黒人のように、これまで注目されていなかった思想家をたくさん取り上げている。また、歴史上の哲学者を現代の尺度で批判する姿勢も見られる。これがポリコレというものか。
そういう視点も必要なのかもしれない。同時代において、どのような意味があり、どんな影響を与えたのか、という方に私は興味が向く。
驚いたことが一つ。2000年以降の”哲学の本”として、『人生がときめく片づけの魔法』(近藤麻理恵)が挙げられている。
顔写真を添え「『コンマリ』メソッドという神道の精神修養に根差した片付けプロセスの提唱者」と紹介した上で、本文は「『空』の哲学ですら儲かる商業帝国へと変わり得る」とやや皮肉を込めたような書き方をしている。
『ザ・ミュージアム』はその歴史をひもとき、有名な美術館・博物館から最近、開館したばかりの新しいミュージアムまでたくさん紹介している。
展示内容だけでなく、建築の解説も詳しい。世界の建築図鑑として読んでも面白い。
はしがきに、パンデミックによりミュージアムは存亡の危機にさらされたとある。確かに緊急事態宣言中はまったく行けなかったし、その後、日時事前指定になったところは面倒で足を運んでいない。閉館を余儀なくされたところもあると聞く。
ミュージアムの存続は訪問者にかかっている。自覚を持たなければ。
参考:図鑑(ブクログ)
日曜日の午後、ハンドベルのコンサートを家族で聴きに出かけた。きりくが東京でクリスマスに演奏するのは3年ぶり。
グループの人数が増えて、楽器の編成も大掛かりになった。編曲も同じ曲でも前より複雑で分厚くなった気がする。"Greensleeves"や”O Holy Night"を聴いてそう思った。
クリスマスソングのメドレーの易しい曲は一つもない。耳の肥えた観客も、きりくにそういう演奏を望んでいない。前半から高速の「チャールダーシュ」を演奏するなど技術の高さを見せつけた。「鮫」(ピアソラ)では、もう誰がどの音を出しているのか、わからないほど複雑で高速の演奏だった。見ている方がドキドキする演奏が戻ってきた。
コロナ対応で、アンコールで観客に合唱を促す「きよしこの夜」は演奏だけだった。少しさびしい気もしたけれど、久しぶりにハンドベルを聴いて年の瀬を強く感じた。
終演後、銀座に出るとたくさんの人。どこのレストランも予約で満席。危うく夕食難民になりそうなところ、一軒の中華料理店で席が見つかり、ほっとした。
孫と食事ができて母が喜んでいた。5人での忘年会となった。
母を実家まで送り、そのまま泊まるつもりでいた。ところが、金曜日に仕事でトラブルが起きたため、月曜日の朝に家で仕事をしなければならなくなり、夜遅くに帰宅した。
夜11時の街は寒かった。今はこんな時間に帰宅することもない。在宅勤務のありがたさが身に沁みた。
さくいん:大坪泰子(きりく・ハンドベルアンサンブル)
メモで戒め
毎朝、株取引でその日にすることとしてはいけないことをMacのメモに書いておく。
株取引は感情的になってはいけない。冷静でいることが一番大切。
ところが目まぐるしく変わる株価を見ていると冷静さを失い、感情で取引しそうになる。
そこでメモを見る。そうすることで「してはいけないこと」を感情にまかせてすることを防止できる。
最近、これができるようになった。最初は、メモに書いてあっても感情に流されて予定していない行動をとってしまうことがたびたびあった。ナンピンしたり、狼狽売りをしたり。
月曜日。前週末に米国株が下がっていたので日本株も下がると予測できた。でも、米株は月曜日にさらに続落することも考えられた。
1219:取引しない、火曜まで待つ
メモに書いて、気持ちが揺れるたびに見直した。おかげで何もしないでいられた。案の定、米株は月曜日も下げ日本も続落した。月曜日に我慢したおかげで中途半端なナンピンをせずに済んだ。
火曜日も、午前中は何もせず待った。午後に日銀の方針変更があり、株価は暴落。下げたところをいくつか拾った。昨日は、慌てず焦らず、うまく立ち回れたと思う。
まだまだ取引が上手になったとは言えないが、一段階上がった気がしている。
ようやくスタートラインに立つことができた、と言うべきかもしれない。
昨日、メモ書きで自分を戒めていると書いた。そこで、ふと考えた。
私は言葉で考える。正確にはいつも文章で考えている。これは当たり前のようでいて、そうではない。言葉は無数にある思考方法、表現方法の一つに過ぎないから。
音楽家は音で考える。画家は映像で考える。色で考える人もいる。
私は楽器も弾けないし絵も描けない。でも、言葉に対する感性は音楽や絵画よりもある。むしろ、それしかない。他の人との比較ではない。自分のなかで言葉は重要な位置にある。
一人で黙っているときは、ここに書く文章の下書きを考えていることが多い。
そのため、言語化できない感情を持つと非常に戸惑う。感情が強いととても苦しい。
金になるかどうかは問題ではない。文章を書くことは私の生の一部と言っていい。
20年間、書いてきて、そういう境地にたどりついた。
そういえば、今日は息子の誕生日だった。冬至の日の朝に生まれて、翌日は満月だった。そこで、太陽と月をあしらった名前をつけた。
その話をある博識の方に話したら、「烏兎」という言葉を教えてくれば。月には兎が住み、太陽には八尺烏が住んでいると。
私の筆名は息子から借りている。
さくいん:言葉、名前
年内最終診察日。ハンバーガーを食べながらひとり反省会。
何でもないメールでも責められている気がすると相談した。
S先生の前で話していると泣きそうになる。
実際、何度も泣いた。
私は先生に甘えているのだろう。
具体的な回答をもらえなくても、そこに座ることが治療になっている。
さくいん:うつ病、S先生
先日、銀座の教文館で立ち読みして興味を持ち、図書館で借りてみた。読みはじめて、前に一度読んだことがあることを思い出した。
再読して考えたことが2点ある。一点目。佐藤の著作をこれまでに何冊か読んできた。彼に一貫しているのは、キリスト教のいわば「脱神話化」。伝説を排して、史実に基づくキリスト教を描くことを目指している。それは現代のキリスト教に対する批判に裏打ちされている。
何も予言者の口まねをするつもりはない。しかし現在の「キリスト教」が、その観念システムも教会体制も含め、自己を批判的に評価し、根底から自己変革すべき岐路に到達していることは間違いないと思われる。そうであればなおのこと、私たちはキリスト教史との批判的な対話を真剣に、徹底的に遂行する必要があろう。(エピローグ——岐路に立って)
その姿勢は理解できる。その上で疑問に思うのは、「真剣に、徹底的に」批判的な対話をしたのちに、キリスト教は、信仰に値する宗教であると認められるのだろうか。そもそも、宗教と呼ばれるような何かが残るだろうか。
二点目。キリスト教が成立した時代は、現代では考えられないほど、殺戮や抗争、暴力にあふれている。そのような時代にあって、愛と神の国の到来を説くイエスの教えはどんなインパクトを持っていたのだろうか。これはなかなか想像できない。おそらく、私が想像できるようなものではなかったに違いない。
そこに、「脱神話化」されても残る、キリスト教の本質があるのだろうか。わからない。
知識としてキリスト教への興味は尽きない。でも、信仰への道は、私には見えない。
何度も書いてきたことを、あらためてクリスマスの朝に書いておく。
さくいん:佐藤研
今年の本
今日から、今年触れた本、映画、展覧会からベスト5を選んでいく。音楽については、行きつけのライブハウスとハンドベルのコンサート以外に印象に残るものがないので選ばない。
今年はあまり本を読まなかった。夜、床につくと、本を開くこともなく目を閉じることが多かった。全体として無気力な一年だった。
長編小説はもちろんのこと、小説は北條民雄集と島崎藤村の短編集以外はほとんど読んでいない。
昨年は、自分が自死遺族であることについて深く考える機会が多かった。今年は中学生の頃に見たり、実際に自分が受けた体罰についてあれこれと思い返すことが多かった。
来年は計画を立てて長編小説に挑戦したい。
さくいん:北條民雄、島崎藤村、ダンテ、自死遺族、ダンテ、体罰、ピエール・ブルデュー、中井久夫
今年の映画
今年はいつになく劇場でよく映画を観た。選んだ5本のうち、4本は劇場で観た。
今年は松坂桃李を追いかけた年でもあった。劇場でも配信でも、彼が出演する作品を多く観た。ただ、暴力シーンで始まる作品だけはすぐにあきらめた。たとえ映画でも、暴力を見るのは辛い。
『ドライブ・マイ・カー』は次点。いい作品であることは分かったけど、ところどころ、肌に合わないところがあった。
青春映画をたくさん観た。そのなかでも『耳をすませば』が一番よかった。難解な作品、それから、いわゆる芸術派・文芸派の作品は好みではないのかもしれない。その理由は映画リテラシーの低さにある。
本はまだ深読みができる。絵画や音楽、映画は表面的なところしかわからない。だから、感想もありきたりなものになる。
万能になる必要はない。映画は私にとって気軽な娯楽以上のものにはならないだろう。
さくいん:松坂桃李
今年の展覧会
博物館・美術館へあまり足を運ばない一年だった。コロナ感染防止のために事前予約制の展覧会が多く、気軽に行けなかったことが第一の理由。もう一つの理由は、何となく外出に消極的だったこと。一年を通じて無気力だった。行こうと決めていた展覧会も何となく行くことを取りやめにしたりしていた。
屋内の施設に行かなかった代わりに、神代植物公園や小金井公園にはよく行った。草木や花を愛でる機会の多い一年だった。
「鉄道と美術の150年」は本当によかった。一年の最後に今年一番の展覧会に行くことができた。終わりよければすべて良し。いい一年になったと思わせてくれる展覧会だった。
今年観た作品からベスト1を挙げるとしたら、出光美術館で観た葆光彩磁草花文花瓶(板谷波山)。波山は泉屋博古館でも観た。唯一無二の造形と色彩と文様にしばし見とれていた。
さくいん:神代植物公園、小金井公園、板谷波山、かこさとし
今年最後の忘年会。街の中華料理店で丸テーブルを囲んだ。実際には30日と31日に実家で親族集合の大忘年会がまだある。
今春、息子が独立した。娘も来春、就職して独立することが決まっている。
家族4人で食事をする機会はかなり減った。娘の誕生日、夏のブルーベリー狩りの後の暑気払い、それから先週、クリスマスイブには我が家で手巻き寿司パーティ。数えられるくらい。
それでも、今年は4人で旅行に行けたし、来年の春休みにも箱根旅行の予定がある。
ありがたいことに家族に恵まれた。子育てのあいだ、転校や受験ではそれぞれに苦労したけれど、大きな怪我やトラブルもなく社会人になれたことは幸せというほかない。誰も今のところはコロナにも感染していない。
崩壊した家庭で私は育った。だから、十代の頃は結婚するつもりはなかったし、ましてや子どもを授かることなど夢にも見なかった。それが、ふとした出会いをきっかけにして仲間内で誰よりも早く結婚し、子どもを持つことになった。
運命のいたずらなどではない。私が自分の判断でそういう選択をしてきた。なぜか。その理由はまだ言語化できない。ジョン・ナッシュの言葉を借りて、"Mysterious equation of love"としか言いようがない。
何でも言語化すればいいというものではない。とりわけ愛情にかかわることは曖昧にしておいた方がいいように思う。恋愛は言語化や分析には向いていない。
言葉にしてる間に千切れていく
それは愛に似てる
「心のまま」(松任谷由実)
デビュー50周年を迎えたユーミンもそう歌っている。
思えば今年はグルメな一年だった。下田で食い、横浜で食い、志摩で食い、そして吉祥寺で〆た。美味しい一年だった。
美味しい食事。そして美味しい酒。帰宅して、クリスマスに自分に贈ったスコットランド、アイラ島のジン、THE BOTANISTを開けた。今年もほろ酔いで暮れていく。
さくいん:HOME(家族)、松任谷由実、横浜、伊勢志摩、ジン
今年を振り返って
去年と同じように一年を振り返る。4つの質問を自分に問いかける。
自問するポイントは次の4つ。
- 1. 褒めるべきことは何か?
- 2. どんなことに驚いたか?
- 3. 一年を象徴する感情・体験は何だったか?
- 4. 「羨ましい」と思った人は誰か?
私の回答
- 1. 家族に旅行を、妻に真珠婚記念旅行をプレゼントできたこと
- 2. 結婚生活が30年続いたこと(感謝を込めて「続けてくれた」と言うべきだろう)
- 3. 無気力・無感動
- 4. 生きがいや働きがいを持ち、充実した「日常」を送っている人
今年はふわふわした気分のまま、張り合いのない時間を多く過ごした。過度の緊張がないことは幸いだった。その一方で、適度な緊張感もなかった。
張り合いを持って暮らしたい。生きがいのある「日常」を送りたい。
I want to find something I can live for.
今年の反省点と来年の目標。
さくいん:日常
今年の重大ニュース
今年も昨年に続いて、大きな気分の変調なく過ごすことができた。大きく落ち込むことはなかった分、前向きに何かに取り組んだり、大きな気持ちの変化もなかった。
今年は結婚30周年を迎えた。それが一番大きな出来事だった。それゆえ、ほかの出来事がかすんだとも言える。
さくいん:Apple、伊勢志摩、山村良橘