『春待つ僕ら』を観てから、北村匠海のほかの作品を探してみて見つけた。監督は『君は膵臓をたべたい』の月川翔。これは面白そうと思い観はじめた。
映像がきれいな作品、ということが第一印象。次に思ったことは、このストーリーは月川監督のオリジナルではないか、ということ。原作があったことはエンドロールで知った。
月川翔が書いた作品と感じたのは、多くの点で『キミスイ』に呼応していたから。似ているということではない。「不治の病」という設定こそ似ていても、二つの作品はむしろ真逆。真逆でありながらも、『キミスイ』のメッセージをさらに敷衍しているようにも感じた。
『キミスイ』と反対になっている点。
- 二人は想いを打ち明けあっている
- 二人は互いを名前で呼び合っている
- 出会いから別れまでの時間がずっと長い
- ヒロインは短いながらも「生」を全うした
- 死への恐怖を露わにしている(山内桜良はそれを隠そうとしている)
- 亡くなる場面がない
- 葬儀の場面が意味あるものとして描かれ、主人公も出席している
- 大人が物語に関わっている
- 親からみた子の死(悲しみや恐れ)が描かれている
- イクスピアリや江ノ島など関東圏であることが強調されている。行動範囲も広い。
- 対称的にヒロインの世界は病室だけ
- 死者との関わりが日記や手紙の文字だけではなく、録音された声で直接的で生々しい
- 設定のなかにすでに亡くなっている二人の死が組み込まれている
- 主人公の方から積極的に「生きて」というメッセージが発せられている
- 主人公は親しい人を失くす悲しみ、悲嘆を知っている
最後の点については、北村匠海演じる卓也は自死遺族であることが示唆されていることも記しておきたい。子を失った(これから失う)親の悲しみがかなり赤裸々に描かれている。
卓也の姉の死はなぜか鮮烈に描写されている。この場面を見たときには正直「観なければよかった」と思った。
本作は、『キミスイ』でエピローグで明らかになる「生きて」というメッセージを明確に物語の中心に据えている。この点で『キミスイ』の続編のようにも思えたし、『キミスイ』を補完する作品にも感じられた。
卓也は死別の悲しみをよく知っていた。だからこそ、まみずに生きてほしいと願い、彼女の願いを聞き入れた。そしてまみずは卓也の真意を受け止めて「生きたい」と望むようになり、短いながらもその「生」を全うした。この点は衝撃的な別れと悔恨で終わった春樹と桜良の関係と大きく違う。
『キミスイ』では悲嘆の回復が予感されたところで物語は終わっていた。一方、本作では、互いの気持ちも確かめ、まみずが「生」を全うしたから、卓也は悲嘆からスムーズに回復することができた。エピローグがそれをよく示している。
月川監督は『キミスイ』で何か描ききれなかったものがあると考えていたのではないか。だからこの作品を撮ったのではないか。勝手にそんな想像をしている。
月川監督は、インタビューで「“受注生産型”の監督」と自称している。つまり、オファーがあって引き受けている。また「「生きるということ」についての映画を作ろうと思ってやってきた」と語っている。似た設定の作品をあえて引き受けたのは、『キミスイ』のエピローグで提示したテーマをさらに展開したかったからではないだろうか。これも勝手な推測。
二つの作品はストーリーの起伏も違う。『キミスイ』は衝撃的な展開のある、言ってみれば「どんでん返し」の物語。対して本作は同じメッセージが繰り返されながら、じわじわと盛り上がっていき、クライマックスがあり、穏やかなエピローグがある。悲しい話ではあるけど衝撃や悔恨はない。言わば王道の恋愛物語。2時間に満たない作品なのに中身はかなり濃い。小さなエピソードを本筋に絡めながら散りばめることが、月川監督は非常に巧いと思う。
生前の姉の姿や友人の兄とのエピソードなどは、撮影はしたもののカットされたらしい。そういう場面を加えて、もう少し長くてもよかったようにも思う。
繰り返す。本作は『キミスイ』で提示された「生きて」という死者から生者への希望のメッセージをさらに強く伝えている。言葉を換えれば、本作は、月川監督の「死生観」を極上のエンターテインメントに包んで提示している。
そのメッセージを私なりにまとめれば、次のようになる。
たとえ余命がゼロと宣告されても、たとえ大切な人を失くしても、人は生き続けなければならないし、苦しみや悲しみだけでなく、希望を持って生き続けることができる。
遺される者も、遺された者も、離れていく者も、立ち去った者も、それを望んでいる。
時間としては短くても、人は幸福に生ききることができる。
死者は生者の心のなかで生き続ける。
これまで書いてきたように、本作は、極上のラブ・ストーリーのなかに「生きること」についての深い洞察が込められている、素晴らしい作品と言える。
それでも、どちらの作品が好きか、と問われれば、いまの私ならば『キミスイ』と答えるだろう。この作品は私自身のグリーフ・ケアの転機にもなったから。
個人的には『キミスイ』の音楽に魅力を感じる。繰り返されるシンプルな「共病文庫」のテーマもいいし、エピローグで屋上の語りを重ねる「桜良の想い」もいい。このサントラは繰り返し聴いている。主題歌も世代的に言ってMr.Childrenの方にSEKAI NO OWARIよりもなじみがある。
ちなみにMr.Children, "himawari"を、本作中、卓也がまみずの代行でカラオケに行き熱唱している。歌っているのは「そんな君に僕は恋していた」というところ。
浜辺美波も北村匠海もフレッシュで、月川監督の演出も本作を観たあとでは荒削りな感じさえする。原作の持つ荒削りながらも愚直で力強いエネルギーも『キミスイ』を支えている。そういう意味では、本作は、配役も演技も脚本や演出も、相当に練り込まれている。
だから、これから繰り返して観るとまだ発見があり、本作への愛着はもっと増すかもしれない。
補記。上の文章を書くにあたり、以下の本を参考にした。この2冊を図書館で借りてきて、読んでいるあいだに、この作品を観る機会があった。上に書いたことは2冊の感想でもある。不思議な巡り合わせを感じる。
人は無人称の一般的な人間として死ぬのではありません。死んではならないと言ったときに、死んではならないのはいつも名前を持った具体的な誰かなんです。
(「プロローグ 人は死んではならない」)
死と向き合って生きる - キリスト教と死生学、平山正実、教文館、2014
死ぬまでベストを尽くすこと、それでも完成に至らないのであれば、その事実をありのまま受け入れること、そして、あとは神に委ねる姿勢が信仰者として大切である。
限界状況における生の拠り所とは何か、それは最後まで新しい物語を紡ぎ出すことである。人が病や死に襲われ、過去の人生を展開できず行き詰まったとき、新たな物語を編み上げることができるかどうかが重要である。
(「附論 キリスト教と死生学 未完の完」)
さくいん:『君の膵臓をたべたい』、北村匠海、自死遺族、声、悲嘆、死生観、小松美彦、名前、平山正実