絵本と子ども、瀬田貞二・中川正文・松居直・渡辺茂男編、福音館書店書店、1966

絵本のよろこび、松居直、NHK出版、2002

子どもはどのように絵本を読むのか、Victor Watson & Morag Styles編、谷本誠剛監訳、柏書房、2002


ふだん読んでいる絵本作家が書いた絵本論はないかと探してみたところ、瀬田貞二『きょうはなんのひ』)、渡辺茂男(『しょうぼうじどうしゃじぷた』)、松岡享子(『おふろだいすき』)など、愛読している作家が一同に会した論集がうまい具合に見つかった。

『絵本と子ども』は、敗戦後に、日本国でも本格的に出版されるようになった絵本や児童書に関する啓蒙書。説教調の文体が多いのも、絵本作家、編集者らが当時抱いていた熱意をかえって伝える。

論者はいずれも、絵本は子どもの言語と知覚の能力、そして感受性を高めると述べ絵本がいかに子どもの暮らしに必要不可欠であるかを力説している。もちろん、絵本が子どもにとって楽しみであることを基本前提にしていることは言うまでもない。


論者に共通しているのは、絵本にはよいものと悪いものがあるという基本認識。悪い絵本の代表例は、事物を過度にデフォルメしたアニメーション映画の絵本化、それから原作の本質を無視した名作の翻案。この点、ディズニーの作品に対する批判はかなり手厳しい。

それでは、よい絵本とはどういう絵本か。瀬田貞二が、マーシャ・ブラウン(『三びきのやぎのがらがらどん』の作者)が行った講演「絵本の特質」からまとめている点がわかりやすい。挿絵や物語、読み聞かせ方など、異なる分野から議論をしている他の論者の意見も、大方一致するものと思われる。

―そのさし絵は、お話のことがらにも、精神にも、どのくらい、ふさわしいでしょうか。
―活字はどうでしょう。その型が、読みやすくて、絵とも、お話の気分とも調和していますか。
―色は適切か、ひきつけるか、それとも水増しか、大甘ですか。
―お話のなかにあるように、劇的なおもしろさがまざまざと組み立ててありますか。人物の性格づけは、豊かか、貧弱か。ただの常套依然たる人物ですか。
―ユーモアは、真からおかしいですか。それとも、わけ知り顔のおとなの、うらはらなことをいうユーモアという奴ですか。
―生き生きした力というものは、その実質をどう規則立ててみようとしてもむだですが、運筆の線や動きや形やますにリズムがありますか。またそのリズムは、お話のリズムと合っていますか。
  「以上の設問をひっくるめて、ただ一つの問いにまとめれば、こうなります―――いったい子どもには、この絵本をながめて、どれだけ豊かな、生命の経験を身につけるだろうか、と。」(瀬田貞二「絵本のみわけかた」)

三十年経ても、よい絵本に対する松居の考え方は基本的に変わらない。松居が最新刊『絵本のよろこび』で紹介している「よい絵本」は、1968年からほとんど変わってない。ところが絵本をめぐる環境は、その間に大きく変わっている。


『子どもはどのように絵本を読むのか』は、「ポスト・モダン絵本」という新しい絵本観を詳述する専門書。同書で取り上げられている絵本は従来の「よい絵本」の定義だけではくくることのできない魅力をもっている。

ポストモダン絵本とこの本が呼ぶ絵本が従来の絵本と異なるのは、物語性の解体と不条理な展開、パロディの手法、いわゆる間テクスト性を意識した他作品(主に過去の名作)からの引用、など(余談。間テクスト性という訳語は漢字とカタカナのちゃんぽんがどうも好きになれない。例えば、作際性という訳語などどうだろう。)

松居は、おそらく意図してこうした絵本は紹介しない。『どのように読むか』では頻繁にとりあげられているモーリス・センダックについて一行しか触れていないことが象徴的。私は松居を時代遅れと批判するつもりはない。

私自身、センダックを知ったのは大人になってからで、子どものころに読んでもらった絵本とはだいぶん違う印象をもった。さらに新しい研究書から知ったポストモダン絵本という概念にも、少なからず衝撃を受けた。

センダック『「かいじゅうたちのいるところ』とアルバーグ夫妻『ゆかいなゆうびんやさん』は、いただいたり、幼稚園や図書館で聞いてきたりして、知るようになった。自分の違和感より、子どもたちが喜んでいるのを見て驚いた。


思いなおしてよく観察してみると、古い絵本のなかでも、子どもたちは意外と不条理な話を好むことがわかってきた。

例えば、『おだんごぱん』(ロシア民話、瀬田貞二再話)のあっけない結末。『もこもこ』(谷川俊太郎・元永定正)の不思議な世界。昔話でも、『わらしべちょうじゃ』より『だんまりくらべ』(団子一つをめぐっておじいさんとおばあさんがだんまりくらべ。泥棒を追い払うために声を出したおばあさんを尻目に、おじいさんはうまそうに最後の一つを食べてしまう)のような話に人気がある。

確かに、こうした話は大人が読んでも確かに面白い。とはいえ、子どもの頭はやわらかい、子どもの世界は広い、などと言葉ではわかっているつもりでいても、子どもがどのように不条理な話を楽しんでいるのか、理解するのはやさしくない。『どのように読むか』をきっかけに、絵本を探す目が少し変わった気がする。

もっとも、いわゆるポストモダン絵本を紹介する『どのように読むか』でも、よい絵本とそうでない絵本があるという基本認識においては、松居ら戦後の絵本啓蒙者の掲げる絵本観と大きな違いはない。そして、絵本は読み聞かせるもの、大人と子どものコミュニケーションを円滑にする最良の媒体であると主張している点でも、両者は意見を同じくしている。このことは重要。

存在するのは、ポストモダン絵本と伝統的絵本ではなく、あくまでもよい絵本とそうでない絵本。さらに言えば、よい絵本はよい読み方をして、はじめてほんとうの意味でよい絵本になる。その意味では、ポストモダン絵本をポストモダン絵本とするのは、作品そのものではなく、その読み方といえる。

物語を解体しながら、展開を読み取る。挿絵や装丁にかくされた意味を見出す。これまで読んだ作品と比べて、同じ絵、同じ言葉、同じ意味を感じ取る。こうした読み方は、新しい絵本だけでなく、昔話にまでも応用できる。ただしよく吟味され、丁寧に作られた絵本でなければ、そのような読みには耐えられないだろう。

そのように考えると、ポストモダン的読みはけっして目新しいものではない。なぜならいつの時代でも、子どもたちは文字を知る前から、絵本のすみずみまで「読んで」いるから。


碧岡烏兎