最後の手紙

烏兎の庭 - jardin dans le coeur

第五部

江ノ島遠景

6/22/2015/TUE

海街diary、是枝裕和監督・脚本、吉田秋生原作、菅野よう子音楽、東宝、ギャガ、2015
   出演:綾瀬はるか、長澤まさみ、夏帆、広瀬すず、風吹ジュン、リリー・フランキー、樹木希林、ほか


月に一度、老いた両親の住む家で週末を過ごす。私が7歳から23歳まで住んでいた家。誘い出さないと外へ出ないので、美術展や気候がよければ逗子鎌倉へ連れ出す。

先週末は雨模様だったので、映画を見た。選んだ作品は『海街diary』。題名は、聞いていた。鎌倉が舞台とも聞いていたので、知っている場所がスクリーンに映れば話の種にもなろうという期待があった京急に乗り、シネコンのある上大岡まで出かけた。


果たして、作品は、材木座、由比ヶ浜、極楽寺、七里ヶ浜など、馴染みのある場所が映るだけでも楽しい。江ノ電とその駅も重要な場面で使われている。

物語も心温まるもので、アラ八十(アラヤソ)とアラ五十(アライソ)の親子が集って見るにもちょうどよい作品だった。

作品中、浜辺や港が多く背景となる。舞台は小さな範囲にあるように思わせている。実際には鎌倉はもっと広い。花火の上がる由比ヶ浜や材木座海岸からは稲村ヶ崎があるので、江ノ島は見えない。江ノ島が見える七里ヶ浜の砂浜は徐々に狭くなっていて、行ってみるとすこし寂しい。実際には繋がっていない場所を小さな場所に集めて「鎌倉」のイメージを上手に作っている。


映像作品の感想を書くのはむずかしい。視点が多いから。筋書き、脚本とセリフ、演技、カメラワーク、ロケ地、音楽……。人それぞれに見るポイントがあるのだろう。

私の場合、いつも注目してしまうのは、脚本と演技だろうか。してしまう、というのは、無意識にそうなっていて、あとから他の人に、「監督の撮り方が……」「音楽が……」と言われても思い出せないことが多いから。

実写で、しかもSFでない本作のような作品の場合、作品を「物語」として見ることができない。作られた作品ではなく、記録されたドキュメンタリーのように見てしまう。

だから、映画を見たあとは、それが気に入った作品であるほど、没入感がいつまでも続いて、いつまでも作品世界のなかにいたい気持ちになる。

だから、見ていた話が「作り物」だったことに気づかされてしまう、いわゆる「メイキング映像」は好きではない。


作品を見ながら気づいたこと。物語にとっては重要で、その場面があってもいいはずなのに、おそらくは意図して見せていない場面がある。

たとえば、二ノ宮さん(風吹ジュン)の最期について。佳乃(長澤まさみ)は、誰よりも早く二ノ宮さんが店を閉める理由を知る。看護師をしている幸(綾瀬はるか)に、仕事で関わらざるをえない「死」について相談しているけれど、二ノ宮さんの名前は出していない。

二ノ宮さんは、市立病院に新設されたターミナルケア棟にいた。そこで幸の看護を受けていただろう。すずたちも見舞いに行ったにちがいない。しかし、その場面は映画にはない。


もう一つ、すずの浴衣姿について。幸が自分が着ていた浴衣を出してきてすず(広瀬すず)に着せる。恥ずかしそうな、少しためらうような顔つきで「(花火へ行くのは、サッカーの)ユニフォームでいいや」と断る。このとき、すずには幸に対して、まだ遠慮しているところがある。夜になり、同級生が船に集まる場面では、ほかの女の子に混じり、すずも浴衣を着ている。

すずには、どんな心境の変化があって浴衣を着ることになったのか。「お下がり」を着て、幸とすずの距離が縮まったのは間違いない。

ほかにも、話が説明もなく飛んでいるように感じる場面があった。それは、もちろん「見る者に想像する余地」(©美内すずえ)を与える、監督の仕掛けだろう。

台詞やナレーションで説明してしまえば、陳腐になる逸話も、とまどいの残る前触れとすっきりした後日談だけを見ると、どんなことがその間にあったのか、想像してしまう。見る者には十分にミステリーになる。見る人は、それぞれの家族観にもとづいて、映されたエピソードの前と後とをつないでいくのだろう。

私は映画をほとんど見ないので、こういう手法が映画の常套なのか、是枝作品に独自のものなのかはわからない。どちらにしろ、描かれていない場面が気になった


父に捨てられた幸は、憎しみが残っているにも関わらず、父と別の女性とのあいだに生まれたすずに、「お母さんのこと、話してもいいんだよ」と言った。

父が出奔したとき、まだ幼かった千佳は父親の記憶がほとんどない。彼女はすずに「いつか、お父さんのこと、聞かせてね」と言った。

こんな優しい言葉をかけてもらえたら、愛されているという実感を持つだろう。

引き取られて、鎌倉に来てから、「ここではもうお母さんの話はしないこと」と幸に詰め寄られていたら、すずは居たたまれない気持ちになっていただろう。

あるいは、千佳に「私、お父さんのこと覚えてないから、話はしなくていいよ」と言われていたとしたら、やはり、寂しい気持ちになっただろう。

この二つの台詞が、作品のなかでとくに心に残った。それは、私自身が、そんな言葉をかけてもらいたいと思っているから、かもしれない、いや、そうに違いない。


この作品は「家族の物語」と謳っている。ふつう、家族といえば、父親と母親と子どもから構成されるものを想像してしまう。

この映画でいう家族は、そういうこれまで無批判に想定されてきた家族とすこし姿が違う。

10年以上前、鷲田清一『「聴く」ことの力』に触発されて次のように書いたことがある。

   家族というコインを裏返して考えることもできる。人間であれ、動物であれ、たとえ機械であれ、人が取替えのきかない存在という意味での生命と出会い、別れる場所であれば、夫婦、父母、兄弟、親子など決まりきった存在がいようといまいと、そこは家庭であり、その関係は家族といえるのではないだろうか。

両親と子という核家族は家族の一つの型であって、すべてでも理想でもない。女四人、母親の違う妹もいる。それでも家族。既に、いろいろな形の家族があるだろう。この映画はそういうことについても考えさせる。

別のところで、「家庭」について次のようにも書いた

   「不完全な庭」が、もう一つの「不完全な庭」と交わり、合成でも分割でもないやり方で新たに生み出される、「不完全な」しかし「一なる存在」である庭。そして、その庭が育ち新たな庭が、また生まれる。
   その一連の出来事が起こる場所を、他人はどう呼ぼうと比べることはしない。私自身は、家庭と書いて、Homeとルビをふっておく。

映画に戻る。

雨のシーンが多い。雨でなくても、全体に靄がかかったような景色が多い。

鎌倉は雨模様が似合う。晴れた日ももちろん素敵ではある。雨が降ると、鎌倉は妖しい魅力を放つ

そうした鎌倉の妖力を、この作品は上手に写していると思う。

何度も来て、よく知っているつもりだった街の新しい魅力を教えてくれた。

DVDが発売されたら、購入してロケ場所を細かく見てみたい


映画のあとは、3人で南欧料理の店へ。両親と外食すると、ほとんどといっていいほど、イタリアンになる。定年後に海外旅行をはじめ、いろいろ周ったあと、ローマを一番気に入ったらしい。私はイタリアに行ったことがない。

家族について、何度も聞いた話を聴く。両親と酒を呑みながら食事をすると同じ話ばかり繰り返してうんざりすることもある。

最近は、「傾聴」とはこういうものかな、と思うようになった。本当は、語られないことが伝えたいこと、ということもわかってきた。

スプマンテを呑み、マルゲリータを頬張り、〆にはパエリヤを食べた。楽しい休日になった。


帰宅して両親が休んだ後、一人で、映画『野性の証明』を見た。ラストシーンで、十代半ばの薬師丸ひろ子が砂浜で波と戯れる場面がある。おそらく、この作品でのすずと同じ年ごろだろう。デニムのオーバーオールにポシェット。いま、こういう姿の女の子を街で見かけることはない。

この場面と、本作のラストシーンが重なった。片方は現実で、片方は幻想。父である高倉健が見たであろう夢。あるいは、頼子がトンネルから出てくる前に想像した、幸せな未来。

すずには、居場所があってよかった。物語とわかっていても安堵した。頼子は千葉の親戚までたどり着くことはできなかった。映画を見てからもう何日も過ぎているのに、物語に引き込まれたままでいるせいか、奇妙な比較をしてしまった。


2015年12月20日追記。

四人姉妹が砂浜で遊んだあと、揃って「海猫食堂」へ出かけたとき、すずはデニムのオーバーオールを着ていた。

いま着ていても古いわけではないらしい。


それにしても、俳優という人たちは恐ろしい。四姉妹を演じた4人の女優が宣伝を目的に出演したバラエティ番組をいくつか見た。ゲームに興じ、お笑いタレントのネタに笑い転げている姿と作品のなかの姿がまったく違った。

とりわけ、綾瀬はるかは落差が大きい。バラエティ番組では、トンチンカンな言動が多い。ところが、作品のなかでは、『八重の桜』のときに見た強い女のイメージがある。今回もしっかり者の長女、でも、妹たちには相談できない悩みがある、という難しい役柄を見事に演じていた。

TVドラマ『泣くな! はらちゃん』で麻生久美子を知った。数ヶ月後、同じ放送局のドラマ『弱くても勝てます』では、髪型も服装も性格もまったく違っていた。私が好きだったのは、麻生久美子ではなく、劇中の越前さんだったと気づいた。

コミック『ガラスの仮面』の主人公、北島マヤは、ふだんはドジで何の取り柄もないが、舞台に立つと王女にさえなりきることができる。漫画のなかの話と思っていたけど、現実にも俳優という人たちはそういう傾向があるらしい。

俳優という人たちは、多かれ少なかれ、そういう面を持っているのだろう。つくづく恐ろしい。


追記。もう一つ、この物語で一番心に残った言葉。

幸がすずを抱きしめて伝えた言葉、「すずはずっとここにいていいんだよ」。

「ここ」という言葉には、三つの意味がある。三人の姉と住んでいる家、鎌倉という街、そして、「この世界」

すずは、母親が亡くなり、父親が再婚したときに「新しい家族」に疎んじられ、自分の居場所はないと思っていた。この思いは、鎌倉に住み、人や街になじみはじめても、心の奥に隠していた秘密だった。

すずの秘密は、「生シラス」に込められている。すずは、生シラスは父親と食べたことがあったのに、姉たちには「食べたことがない」と驚いてみせた。本当のことを言ったら、幸からは憎まれ、千佳をがっかりさせてしまうと思ったから。

「ここにいてもいいんだよ」という言葉は、不倫から生まれた子という負い目を消した。すずは、姉たちに受け入れられただけではなく、「この世界」に居場所を見つけられた

そのとき、もう「お父さんと食べた生シラス」のことを隠しておく必要はなくなった。


「ここにいていいんだよ」。私も、そう言ってもらいたい。もう三度も、「ここにいてはいけない」と言われているから。いや、それはまだ狭い場所でのこと。探せば、ほかの場所もあった。

私がいてもいいのかどうか、わからないのは、「この世界」。

「この世界」に、私はいていいのだろうか

私は気づかないうちに、すずの視点から幸を見ていた。私自身は、幸よりも、演じている綾瀬はるかよりも、ずっと歳をとっているのに。

そのことは、映画を見て、何日か経ってから、ふいに気づいた。


映画を見てから数週間が経っても、この物語が心から離れない。幸のような姉がいたら私の十代はどんな風になっていただろうか…………つい、そんなことを考えそうになる。やはり、気に入った映画には感情移入をしすぎる。

この映画に惹かれたのは、結局のところ、鎌倉の撮り方ではなく、四姉妹の仲睦まじいやりとりでも、若い広瀬すずの可愛らしさでさえなかったことに気づいた(私の娘のほうがずっと可愛いと自信をもって言える)。私は、すずに過剰なほど感情移入し、彼女に嫉妬していた

結局、私は自分好みの感傷フィルターを通じてしか、この作品を見ていなかった。

そのことに、そんな自分にがっかりした。同時に、途方もなくかなしい気持ちになった。


写真は、長者ヶ崎から見た江ノ島