レンガの壁

読みたいけど読みたくない。そういう本がある。本書はそういう本の一冊。

体罰に私が関心を持つのは、私自身が苛烈な体罰を繰り返し中学時代に受けたからにほかならない。通っていた中学校はブラック校則と暴力に満ちた収容所のような場所だった。

だから体罰は絶対悪と私は思っている。何の擁護もできない、犯罪と思っている

本書は、日本の外側から体罰が日常化している日本の学校文化を徹底的に批判する論考と期待して読みはじめた。

体罰についての本を読むのは辛い。とくに実際に起きた事例を読むのはとても辛い。中学時代の記憶が呼び起こされるから。それでも、かつて私を罵倒し、殴打した教員たちがバッサリ断罪されれば、少しは溜飲が下がるかもしれない。そういう期待があった。

ところが、本書の趣旨は私の期待とはまったく違うものだった。

本書は、体罰を絶対悪とみなす先入見を前提とせず、また、体罰を許す性質が日本の文化にあるという短絡的な結論からも出発しない。

その代わりに、体罰に関する言説——体罰はどう語られてきたか、肯定派・否定派はそれぞれどんな論拠を元にしているのか——そういうことがごく冷静に整理されている。

そして、良くも悪くも、体罰が「教育の一手法」として活用されてきた歴史も本書はあぶり出している。

体罰をめぐる言説は一辺倒ではない。体罰の定義があいまいなせいで、体罰の意味は時代とともに移り変わり、肯定派と否定派はそれぞれに論拠を持ち、体罰を受けた当事者も保護者にも、それを肯定する者と否定する者がいる。

肯定派と否定派とのあいだには、埋まることのない、深い溝があることを本書は示唆している。


1970年代後半から80年代初頭にかけての時代が、教員による暴力がもっとも深刻だったと本書は書いている。その時代、私はちょうど中学生だった。だから、簡潔にまとめられた当時の状況は私にはわかりすぎるほどよくわかる。

(1970年代から80年代初頭には)校内暴力、特に生徒が教師に暴力を振るう事件が増加したため、「毒をもって毒を制す」ために体罰は必要だと、ますます言われはじめた。多くの人びとが、体罰は「教育愛」や「愛の鞭」だと断言した。生徒間の暴力だけでなく、生徒から教師への暴力と闘うために、教師は懲戒権だけでなく体罰権を託されるべきだと信じる者もいた。
(「解決策」としての体罰——校内暴力と管理教育、第2章 日本の体罰史——その重要性、引用中は割愛)

生徒の前に教員から手を出すことを「予防的先制攻撃」と書いたことがある

教員の暴力の歴史のなかでも、きわめて特異な、あるいはきわめて異常な時代に学校生活を送っていたことが、あらためてわかった。もっとも、これには、地域差や学校間の差がある。高校や大学の同級生に尋ねても、私のような中学生活を送った人は必ずしも多くない。

では、どのような学校で、教員の暴力は日常化していたのか。私が通っていた中学校では、生徒側の暴力が深刻だったわけではない。むしろ、教員の側の管理や暴力が圧倒的で、ほとんどの生徒はそれに無言で服従しているような雰囲気だった。

だから、上記の説明だけでは私が体験した暴力空間の原因は説明できていない。


本書を読んで、これまで抱いていた疑問が一つ、解決したような気がした。

かねてから、私は暴力を振るっていた教員たちは今、過去を振り返ってどう思っているか、知りたいと思っていた。実際に再会したら問い詰めてみようと思ってさえいた。

本書の分析を通じて私は彼らの反応を推測することができた。たぶんその推測は正しい。彼らは反省も後悔もしていない。今でも「正しいことをした」と思っているだろう。体罰肯定派は現代にもいる。過去の体罰を肯定する人がいることも何ら不思議ではない。

本書の論考に従えば、暴力教員たちに反省を促すことはとても難しく、ほとんど不可能のようにみえる。


本書を読み終えて、体罰について私が知りたいことがはっきりしたように思う。その回答が本書にないことに不満はない。むしろ、本書の冷静で深い分析が、感情的になりがちな私の「体罰観」を明確にしてくれた。

私が知りたいこと。一つめ。

体罰が「解決」であった70年代から80年代にかけての学校文化の基層。一体、何が暴力を容認していたのか。生徒側の暴力に対抗するためという論理はわからないではない。でも、その説明だけでは校内暴力がなく、一方的に教員からの暴力が盛んだった私が通っていた中学校の雰囲気は説明できない。

まるで殴らない教員は弱気とみなされるような雰囲気があった。それはイジメを助長する「ノリ」(内藤朝雄)のようなもので、教員全員を覆っていた。あの、異様な緊張感に満ちた空気はどのようにして生まれ、職員室から学校全体までを包むようになったのだろう。

私が知りたいこと。二つめ。

なぜ、成人してからも十代の体罰の記憶を「愛の鞭」と思い出せるのか。明らかに法律違反である行為を容認するどころか、感謝を込めて記憶することはきわめて異常なことに思える。それはある種の洗脳ではないだろうか。

私が知りたいこと。三つめ。

体罰を目撃し、自らも被害を受け、さらにその暴力の受益者でもあった者の心の傷は癒えることがあるのか。あるとすれば、どのようにして傷は治癒されるのか。


体罰をめぐる言説が多種多様であることはわかった。私の考えも多様な言説の一つに過ぎない。それはよくわかった。

暴力は犯罪であることは明白なのに、体罰は依然として教育の現場にはびこっている。肯定派を説得して、学校から暴力を一掃することは容易なことではない。驚くことに、被害者であるはずの人たちにも肯定派が多いから。

それでは、この怒りはどう鎮めればいいのか。この心の痛みはどうすれば癒えるのか。

70年代後半から80年代前半(あるいは、昭和50年代というべきか)の暴力と規則と管理に蝕まれた学校教育の語り部になり、その愚劣さ語り継がなければならない。

でも、思い出すだけでも苦しくなることをいつになったら語り出すことができるだろう。

冷静で明晰な分析に感服したはずなのに、感想を書きはじめてみたら、どんどん感情的になってしまった。

体罰について冷静に語ることは、私にはどうしてもできない。


さくいん:体罰70年代80年代内藤朝雄