妻は週三日勤務で出勤している。月末月初は休みなく出勤する。
妻が出勤の日は在宅勤務の私が夕食を作ることが多い。材料は週一回生協で調達。献立は妻が考え、LINEで指示されて私が作る。
昨日はほうとうを作った。冷蔵庫を開け閉めしているとジンのボトルが目に入る。するとつい手に取ってしまう。
昨日は火曜日だったのですでに缶ビールを呑んでいた。若干の罪悪感を感じながらグラスに氷を入れて残っていた1/3を呑み干してしまった。
料理をしていると呑みたくなる。これは幼い頃に見たテレビ番組「世界の料理ショー」の影響だろう。そういうことにしておく。
呑み干した理由はもう一つある。昼間、かぼちゃを買いに行ったとき、次のボトルを買っておいた。次があるから呑んだ。何はともあれ、酒呑みは言い訳好きでもある。
ところで、毎月、月初に発表していた前月のアクセス解析は、頻度を3ヶ月に1回に下げることにした。毎月ではほとんど変わり映えしない。自分では、その変わり映えしない集計を毎日確認している。
さくいん:ジン(マティーニ)
近頃「リスキリング」という言葉をよく聞く。"Reskilling"。「学び直し」をカタカナ語にしたものらしい。「リスク」+ingに聞こえてしまい「スキル」と結びつかない。正直言って使いたくない。「学び直し」で十分。
その「学び直し」。労働者のスキルアップを指して使われることが多い。「学び直し」とはスキルアップのためにするものなのだろうか?
若者ではない大人が「学び直す」ときは、学ぶこと自体が楽しいからするのではないか。あるいは、暮らしを豊かにするために知的欲求を満たそうとするのではないか。
とりわけ私のような50歳を過ぎた中年にとっては、「学び直し」の目的はキャリアアップではなく、もう一度学ぶことそれ自体を楽しんでいる人が多いように見える。「学び直し」を楽しんでいる人を、例えばTwitterだけでもたくさん見かける。
私自身、英語や仏語の勉強を再開してみて学ぶ楽しさを実感している。新しい単語や表現を知ることが楽しい。スマホゲームよりも語学が今は楽しい。
転職や昇給は、その可能性は高くないし、もはや第一の目的にはならない。
何でも労働やお金(いわゆるマネタイズ)に結びつけることが正しいこととは思えない。むしろ、労働化することは「学び直し」をつまらないものにするような気がする。
「学び直し」は「自発的な活動」であり、その魅力は労働とは対極の位置にある。
さくいん:労働、英語
2月、最初の金曜日。人生を変える大きな出来事がある日。
姉が亡くなったのが2月最初の金曜日だった。命日とは別に曜日で記憶している。
その前の年、小学五年生の冬にもちょっとした出来事があった。
担任のM先生に呼ばれて「最近、元気がないんじゃない?」と訊かれた。
姉の精神状態が不安定で家全体が不安定になっていることは話さなかった。ただ「誰にも自分のことをわかってもらえない」と気持ちを吐露したことを覚えている。それでも、内心を見透かされているようで妙な気持ちになった。
「記念日反応」と呼ばれる症状でしかないことはわかってはいる。それでも42年間、毎年身構えてこの日を迎える。
さて、今年。
どんなことが起きるだろう。
そう思うことは、人生を人任せにしていることと書きながらふと気づく。何かが起きて、線路の転轍機が切り変わる。自分で選んだと思うときでも、選ばざるを得なかったと思う。
私は私の人生を自分で選択して生きていかなければならない
もっと早く気づかせてほしかった。いや、それも人任せ。もっと早く気づくべきだった。
昨日のこと
結論から書けば大きな出来事は何もなかった。
昨日は会計年度が変わってから初めての月例レポート作成日でもあったので、昼間はすこし緊張していた。いつもよりは時間がかかったものの何とかレポートは提出できた。
夕食に初めて恵方巻というものを食べた。想像よりもおいしかった。具材の多い太巻き。これなら一月に一度くらい食べてもいい。
夜、布団のなかで、1979年のさだまさしのコンサート・フィルム『里程標』をYouTubeで見た。姉と一緒に神奈川県民ホールで観た映画。
いつもよりも遅く11時半ごろに目を閉じた。よく眠れた。
朝は5時前に目が覚めた。最近、何時に寝てもこれくらいの時刻に目が覚める。
寒いのでしばらく布団のなかにいた。いまは6時過ぎ。起きてこれを書いている。
特別なことと言えば、娘がいつもより遅く帰宅したので、帰ってくるまで胸がざわついた。それからもう一つ。Twitterで松本亨の名前を見つけた。姉は松本亨の弟子にあたる人たちに英語を教わっていた。だから、特別な出来事に感じた。
大きな出来事がなくてほんとうによかった。
さくいん:さだまさし、松本亨
去年発行されてすぐ読みたいと思った本。ようやく図書館で順番が回ってきた。
前に読んだ『日本人の死生観を読む』(島薗進)が総論、本書はその各論にあたる印象。古代から中世にかけての和歌や物語に日本人の死生観を探る。死生観の変遷という点では、『死者はどこへ行くのか』(佐藤弘夫)にも関連している。
本書を読んでまず思ったことは、和歌という表現方法が日本におけるグリーフケアの大きな柱になっていたこと。天皇から読み人知らずまで、多くの挽歌が詠まれている。亡くした人を弔い、悲しみを嘆くその歌意は、現代に暮らす私にもしみじみと伝わってくる。
悲しみを表現することがグリーフケアに寄与することは、現代の専門書にも書かれている。
和歌のような表現方法を人々が盛んに行ってきたことは、社会制度や儀式だけでは死別の悲しみは癒されないことを示している。葬儀や墓参だけでは悲しみは癒えない。だから、人々は悲しみを歌に込めた。そう考えられないだろうか。
もう一つ、これもまた古代から現代まで変わらない。生者は死者との交流を願っている。その願いもまた多くの和歌に表現されている。千年以上も前に紡がれた言葉が現代に生きる私に通じてくることに不思議な感動がある。
解釈とともに引用されている多数の和歌は、悲嘆とともに生きる私の琴線に触れるものが少なくない。
悲しみに浸りたいときに読み返したいので、本書は購入した。
さくいん:島薗進、悲嘆、死生観
7歳上の大好きだった姉、敦子が亡くなって42年が経った。
彼女と過ごした時間は12年。背伸びをして彼女と親しく会話をするようになったのは小学五年生ごろだから、実質的には2年ほど。
短い時間だったけれど、その後の私の人生に与えた影響は小さくない。私はずっと姉の影を追いかけて生きてきた。
大切な人を失うと時間が止まる。
姉が亡くなったとき、私は12歳だった。だから、今でも私の中には「12歳の私」がいる。12歳より上の女性は皆、年上に見える。
子であるはずの25歳の娘も、ときどき年上に感じてしまう。
今日は姉の好きだった音楽を聴いて悲しみに浸っている。心から悲しめるひとときは、私にとって幸福な時間でもある。
読み終えた『死者を巡る「想い」の歴史』から挽歌を一首転記しておく。
別れにし程を果てとも思ほえず恋しきことの限なければ
平時望の妻(後撰和歌集1391)
夜、秘蔵のウィスキーで献杯した。
さくいん:寒梅忌、自死遺族、悲しみ(悲嘆)
先週末の土曜日、梅を求めて小石川後楽園へ出かけた。探梅という言葉があるらしい。
まだ満開ではなかったものの、紅梅も白梅もきれいに咲いていた。白梅には、「光圀」という名札が下がっていた。
前に来たのは2016年の秋。就職活動の真っ最中だった。7年が経ち、落ち着いた暮らしを送っていることにあらためて安堵する。あの頃は「このまま職は見つからないじゃないか」ととても不安になっていた。
小石川後楽園は緑にあふれている静かな公園。でも、周囲に東京ドームや高層ビルが立ち並び、景観は美しいとはいえない。余計なものが入らない場所で公園の全景が写せる場所を探すのに苦労した。
水道橋から都営三田線に乗り、日比谷公園へ探梅のはしごした。残念ながら梅は少なく、まだ一分咲き程度だった。
待ち合わせまでまだ時間があったので、公園内のカフェで一休みしてから日比谷図書館へ行った。まずは千代田区の歴史を学ぶミュージアムを観覧。
各地の美術館が発行した展覧会の図録がたくさん在架収蔵されていた。これはうれしい。図録は展覧会の開催中に買わないと見られないものと思っていた。そのうち、時間をかけて見に来たい。
大判の図鑑もたくさんあった。『ハンバーガーの発想と組み立て』『ウィスキー大図鑑』『ジン大全』を眺めた。
今年初めてのライブハウス。12月は2回、一人で来た。今回は二人。
1回目のステージはアコースティック。"Teach Your Children"(CSN&Y)、Layla(Eric Clapton)、おもかげ色の空(かぐや姫)など。私好みの選曲。
その後も好きな歌がたくさん演奏された。「真夏の果実」(サザンオールスターズ)、"The End of the World"(The Carpenters)、"Africa"(TOTO)、「駅」(竹内まりや)、などなど。「おもかげ色の空」は初めて聴いた。
アンコールは"Someday"(佐野元春)だった。
ポップスが多く、ジャズっぽい曲は演奏しないバンドだけど、アコースティック・ライブを聴きながら、"Don't Know Why"(Norah Jones)などを演奏してもこの店の常連客は喜ぶのではないか、と考えたりした。"Don't Know Why"も発売からすでに20年経ち、なつかしい曲になっている。
ケネディハウスは今年開店40周年。記念に発売されたTシャツを買った。
外へ出ることが珍しく、ふだん家ではだらけた格好をしているので、出かけるときくらいはきちんとした格好をしたい。
そう考えてのコーディネート。ワイドカラーシャツ、水色のドット・タイ、もう20年以上着ているフランネルの紺ブレ。すべて同じ店で買ったもの。
きちんとした格好をすると気持ちもシャキッとする。おめかしはときどきした方がいい。
さくいん:ケネディハウス銀座、エリック・クラプトン、かぐや姫、サザンオールスターズ、カーペンターズ、佐野元春、ノラ・ジョーンズ
土曜日の小石川後楽園に続いて、日曜日にも探梅した。場所は神代植物公園。
探梅とはいい言葉。確かに並木道になり、花もにぎやかな桜と違い、梅は雑木林や公園の奥へ探しに行かないと見られない。
全体ではまだ三分咲き程度。蕾がまだ固い。あと1、2週間経てば満開だろう。素心蝋梅は満開でいい匂いを漂わせていた。
大温室には行かず、梅林だけ散策して、深大寺そばの店、多聞へ向かった。
朝早く出かけたので昼過ぎには帰宅した。
さくいん:神代植物公園
修士論文を無事提出した娘が学校帰りにケーキを買ってきた。
本来ならこちらがお祝いすべきところだが、解放された気持ちがあったのだろう。自分で買ってきた。
これで18年間(途中にもう1年間)の学業は終わる。よくがんばった。80年代後半に文系学部に所属していた私は勉強らしい勉強をしなくても卒業することができた。21世紀の理系学生は長期の休みもほとんどなく、研究室に通い詰めていた。会社勤めの方が休みが多いのではないかと思うくらい、いつも忙しそうにしていた。
息子のように短期留学や海外旅行もしていない。
修士課程では他大学との共同研究があり、2校に通学していた。他大学の研究室も片付けてきたという。その大学の近くにメディアにもよく出る有名なお店があり、記念に買ってきたということらしい。
先日は小さいながらも英語で発表する国際学会でポスター発表で優秀賞をもらった。我が家で唯一の理系はとても優秀。自慢の娘。
学費がまかなえずに大学院をあきらめた父はきっと喜んでいることだろう。
思えば、血筋がないわけではない。祖父は石炭関係の二級官吏だったし、父は天然ガスの技術者だった。娘は次世代の再生エネルギーを研究している。就職後も同じテーマで研究を続ける。よい職場に恵まれることを願う。
アップルパイは、サクサク層が重なっているというよりも、ギッシリパイと果実が詰まっている感じ。とてもおいしかった。
さくいん:80年代、HOME(家族)
株取引がうまく行っていない。
昨年末、ある銘柄に集中投資をして、株価上昇を待った。ところが、なかなか上昇しないどころか、株価は徐々に下がりはじめた。
株取引のインフルエンサーたちは皆、「感情を排して機械的に損切りしろ」と言う。その教えに従い、見込みのなさそうな銘柄を切り捨て、別の銘柄に乗り換えた。
すると今度は乗り換えた銘柄が伸び悩み、切り捨てた銘柄が上昇しはじめた。切り捨てるのではなく、待つべきだった。悔やんでもあとの祭り。自分の選択に自信が持てないからつい余計なことをしてしまう。
こういうことは株取引の世界ではよくあることなのだろうか。それにしても悔しい。すべて自己責任だからなおさら悔しい。とはいえ、幸いなことに、儲けてないだけで大損しているわけではない。株投資をやめるつもりもない。
切るべきときと待つべきときの見極めがむずかしい。まだまだ練習と耐性が必要。
失敗を重ねれば、見極めもできるようになり、取引も上手になっていくのだろうか。
今のところ、乗り換えた銘柄に上昇する気配はない。今度こそ待つ。宣言しておく。
先週の金曜日。東京でも雪が積もった。去年積もったのは1月7日だった。寒い中、横浜の実家へ帰省した。
土曜日は先々週に続いて鎌倉へ。まず小町通の昭和レトロ風喫茶店。甘めのモンブランと濃いめのコーヒーをいただいた。
次に江ノ電に乗り、稲村ヶ崎で下車。海を眺めた。江ノ島はきれいに見えたけど、天気はよかったのに富士山は拝めず。
思い出すと、2003年の2月6日にも稲村ヶ崎へ来ている。少し感傷的に気分で七里ヶ浜まで歩いた。
この年から2月6日の意味を考え直すようになった。それからの15年、2月6日の意味を私はつかみかねていた。そして2021年になってようやく、2月6日はどんな日か、私なりの考えがまとまった。稲村ヶ崎にはいろいろな思い出がある。結婚する前に、妻とも何度か来た。
そういえば映画『海街diary』のロケ地を訪ねて一人で来たこともある。
今回、驚いたのは砂浜がほとんどなくなっていたこと。満潮の頃であるにしても狭すぎる。鎌倉の砂浜が侵食されて狭くなっていることは以前から聞いている。このままでは砂浜はなくなってしまうのではないか。心配になってきた。
日曜日は快晴で春のような気温。防寒対策をした金曜日の服装では暑いくらいだった。
さくいん:鎌倉、江ノ電・江ノ島、『海街diary』
NPRのニュースによると、適度な長さの通勤はON/OFFの切り替えに役立つという。
6年前に非正規従業員になってからはそれは当てはまる。音楽やポッドキャストを聴いて、電車が混んでいることには閉口したものの、通勤時間はそれなりに気分転換になっていた。
その前の営業職時代は違った。バスに乗るとすぐにアメリカから前夜に届いているメールをチェックし、本社の社員が帰宅する前に返信し、必要ならば出社後の電話会議を設定する。通勤時間はすでに勤務時間だった。帰りも同じ。いつまでも終わらない取引先とのメールのやり取りを続け、帰宅後、家族が休んでから残業することもあった。
在宅勤務が常態化して通勤時間がまるまる3時間浮いた。
空いた時間は今のところ、筋トレと語学学習に充てている。今は寒いので散歩はほとんどしていない。その代わりにダンベルを持ってのもも上げ x 50回を1日に何度もしている。
立ち上がり、身体を動かすだけでも気分転換になる。もう満員電車には乗りたくない。
さくいん:労働
昨日、通勤について書いた。思い出してみると、これまでいろいろな方法で通勤している。
在宅勤務になる前は満員電車。その前は新幹線で通勤していた。仕事場の上で暮らしていたこともある。
クルマで通勤していたこともある。2001年から2006年まで。これは楽だった。
運転席に座れば、もうそこは自分の世界。好きな音楽を聴きながらドライブするのは楽しかった。都内は通らず、郊外から郊外だったので通勤時間も30分程度。楽だった。
一度だけ、怖い思いをしたことがある。帰宅途中、突然お腹が痛くなり、運転ができなくなった。路肩に停めて腹痛が治るまでかなり待った。一時は救急車を呼ぶかと思うほど苦しかった。一人で運転しているあいだは自分しか頼りにできないことを知り、初めて運転が怖くなった。
いまは緊張を弛緩する抗うつ薬を服用しているので運転はしない。10年以上、レンタカーさえ運転していないのですっかり感覚も忘れている。逆走やペダルの踏み間違いのニュースをみると怖くて運転する気も起きない。
毎日クルマを運転していた頃のことを書いていたら、乗り継いできた愛車について思い出が浮かんできた。
英語のリスニング力について
最近、在宅勤務のあいだ、NPRのニュースをずっと流している。集中して聴くのではなく、ただ流している。気になるニュースのときには仕事の手を休めて集中して聴くこともある。
集中しても100%はわからない。せいぜい大意がつかめる程度。それでも聞き流すことには効用もある。
聞き流しでいても知らない単語に気づくことがある。気づいたらつづりを予測してネットで調べる。
最近知った単語は、reservoir, queer, subpoena, devastate、sprawl、baffle、など。
聞き流している英語から知らない単語をピックアップできるということは、つまり、わかるところとわからないところの境界線が引けるということであり、それは、それなりに英語の習熟度があることを示している。
フランス語ではこうはいかない。いまは3級のテキストで学習している。音声を聴いても、どこが単語の切れ目なのかもわからない。まして初めて聴く言葉はまったくわからない。
少なくとも、フランス語よりは英語ができるということがわかった。
この数年、すべてに自信を失っているので、この発見はうれしい。
これからの学習法もわかってきた。英語は読むにしろ聴くにしろ、とにかく浴びること。フランス語はていねいに基礎を固めること。モチベーションが上がってきた。
手始めにNPRのTwitterアカウントをフォローすることにした。
さくいん:英語
金曜日、いろいろ用事があったので休みにした。朝はまず耳鼻科へ。
いつものどがいがらっぽい。ウッウッ、と乾いた咳払いが癖になっている。以前、まだ毎日出社していた頃、かなり遠い席の人からクレームが入ったこともある。
声も少し枯れている。カラオケに行くと大きな声がすぐには出せず、声が出るまでに30分くらいかかる。そんな症状から咽頭がんを心配して耳鼻科を受診した。
鼻から内視鏡を入れてのどや声帯を詳しく見てもらったところ、異常はなかった。医師も声がかすれぎみなことには気づいたものの原因はわからないと言った。
「心配なら声帯の専門医に診てもらうといい」と大学病院への紹介状をもらった。
安心と不安がないまぜになった気分で病院をあとにした。
金曜日、耳鼻科のあと、夕方の約束まで時間があるので、カラオケに行った。
2月なので姉が好きだったさだまさしの曲をたくさん歌った。
歌ったのは初期のアルバム、『帰去来』『私花集』『夢供養』の曲。1984年発表の『Glass Age』以降のアルバムは聴いていない。私のなかではさだまさしは70年代の人。
この頃の曲には、別れのなかでも死別を感じさせる歌が多い。「異邦人」「第三病棟」「童話作家」「思い出はゆりかご」「セロ弾きのゴーシュ」「晩鐘」。いずれも歌詞には「死」という言葉はないけれど、そう思わずにはいられない内容。
そういう曲を歌うことを供養でもあるし、私にとってはセルフ・グリーフケアでもある。
歌いながら泣くことはなかった。ただただ、なつかしい気持ちになった。
歌詞について話し合ったり、二人でフィルム・コンサートへ行ったことを思い出した。
悲しくて、切なくて、幸せなひとときを過ごした。
さくいん:さだまさし、70年代、グリーフ(悲嘆・悲しみ)
先週の金曜日、夜は高校時代の友人二人と遅い新年会を催した。場所は日本橋。
待ち合わせの前に丸善でフランス語の参考書を下見した。よさそうな仏英辞典を見つけたけれど重いので買うのは延期した。その後、高島屋でクリスタルグラスを下見した。クリスタルグラスは今3個持っている。4個目もだいたい決めてある。あとはお金を貯めるだけ。
待ち合わせ場所は高島屋の新館にある喫茶店。ウェブサイトで見つけた店。
コーヒーを頼んだ。出されたコーヒーカップに驚いた。大倉陶園。美しい。コーヒーの美味しさが倍増されるような器だった。
その後、もう一人加わり、居酒屋で遅くまで呑んだ。
二人は旅行や転勤であちこちに行っていて、北陸や山陰、四国の見どころを教えてくれた。
2月とは思えない暖かい日だった土曜日。長い一日だった。
公園を抜けて散歩し、病院で診察を受け、ハンバーガーを食べて、博物館を見て、ビールを呑み、少し遅い新年会を楽しんだ。
公園ではロウバイがいい匂いを漂わせていた。そして診察のあとは恒例のハンバーガー。
今日はwithベーコン&チーズ。
夜10時に眠くなり寝てしまい、朝から5時絵にパッチリ目が覚めてしまう。
こういう生活サイクルでいいか?と尋ねた。
S先生の回答は「うまく行っていることを無理に変えることはない」。
安心して早寝早起きを続けることにする。
重症期には仕事で頭が休まらないでなかなか寝つけず、眠れたかと思ったら次の瞬間に目が覚めてまったく眠った気がしなかった。
かなり回復してきたことを実感する。
諸般の事情でこの店のハンバーガーはひとまず今回で終わり。来月からは違うランチ。
何を食べようか。候補はカレーライスと天ぷらそば。それとも別のハンバーガー店か。
さくいん:うつ病、S先生
先週の土曜日。病院のあと、ランチを済ませて、新宿歴史博物館へ行った。前に一度来たことがあるはずだけど、場所に記憶はなかった。都電の展示があることは覚えていた。
東京の歴史博物館というとどうしても戦中の暮らしに目が行きがち。ここは、あえてそこを外して、江戸時代から昭和初期の新宿を詳しく展示している。非常に面白い展示だった。
江戸時代の町行政の仕組み、商家の蔵造りの再現、内藤新宿のジオラマ。どれも面白い。宿場はいまの新宿通りに沿ってできていた。高層ビルのない新宿の風景は新鮮。
大正から昭和初期にかけての新宿のにぎわいや文化住宅の再現も興味深いものだった。
高野フルーツパーラー、中村屋、伊勢丹、二幸(今のアルタ)。どれも昭和初期にはできていてにぎやかな繁華街を作っていた。
戦争のせいで戦前の暮らしも暗いものと想像してしまうけれど、展示を見ていると戦前の暮らしはかなり明るいものだったとわかる。
あの明るい戦前の社会がなぜ戦争に突き進んだのか。いまの社会は再びの「戦前」にならないのか。大きな疑問が残った。
さくいん:東京
新宿歴史博物館を観たあと、曙橋から都営新宿線に乗って神保町へ。
キリスト教関連の古書店、友愛書房が今月末で閉店すると聞いて行ってみた。といっても、この店に行くこと自体が初めて。東西に伸びている古書店街と直角に交差して北に伸びている白山通りにあるので今まで来たことがなかった。
並んでいる本は本格的な歴史資料や神学の本が多くて、読んでみたい本はなかなか見つからなかった。記念に何か買いたかったし、何かに出会える予感があった。
店内を隅々見ていて見つけた。『森有正全集 第14巻 日記』。予感は当たっていた。
ついていた値札は1000円。店主に差し出すと「500円」と言われた。閉店前ですべて半額だった。
ちくま文庫の『森有正エッセー集成』に収録されているのは日記の一部。『全集』で全編読むことができるようになった。読みながら、しばらく休んでいたさくいん作りを再開する。
いい記念になった。
さくいん:森有正
先週の土曜日のこと。大学時代の友人、4人で少し遅めの新年会を開いた。場所は、前回の少し早めの忘年会と同じスペイン・バル。
トルティージャとペペロンチーノが最高に美味だった。
7時から11時半までよく呑み、よく食べ、そしてよく語り合った。それぞれの家庭や仕事の近況からウクライナ問題、日本の将来まで、学生時代のように熱っぽく語り合った。
いまはそれぞれの家庭も仕事も環境は違うけれど、同じゼミでF先生に学んだという絆は、最近になってより強くなったように思う。
そのF先生が亡くなった年齢に私たちも近づいているという発言があり、とても驚いた。
あの頃の先生の情熱や信念をもって毎日を過ごしているか。Yesとはとても言えない自分が情けない。
四半期に一度くらいは集まりたい。とすれば、次回は5月か。
さすがに先週末は活動しすぎた。とても疲れた。日曜日は床屋に行っただけで午後はずっと休んでいて、夜も9時半には眠くなり、すぐに寝てしまった。
正月に宣言をしてフランス語学習を再開した。
フランス語学習を始めるのは何回目だろうか。大学では履修しなかった。語学校へ行ったこともない。いつも独習。大学三年の夏に欧州旅行をする前。1999年、フランス出張の前。2006年、ベルギー旅行の前。その後も何度か、始めては挫折するの繰り返しをしてきた。
それでも、勉強したことは少しずつ残っているようで、仏検4級の問題はほとんど解答することができた。そこで当面の目標は3級合格、中期的には準2級の合格とする。いまはまず3級のテキストで学習している。
自己診断してみると、これまでの独習が挫折した理由は、テキストに従い、文法や動詞の活用を最初に覚えようとしたから。今回は勉強法を変えてみた。
いまの独習方法。とにかく例文を聴く。なるべくテキストは読まずに音声の真似をする。例文を暗誦できるくらいまで聴き込んだら、テキストを読みつづりを覚える。そこまでできたら、例文を聴いて書いてみる。音声を聴かないでも書けるようになるまでこれを繰り返す。
文法は十分な例文が身についてから学ぶ。「だからこういう変化になっていたんだ」とあとから思うくらいがいい。
これは大学受験前の英語学習と同じ。当時は受験向けと同時に英語学校にも通っていた。受験向けには駿台の『基本英文700選』と『必修英単語3000選』をすっかり覚えるまで繰り返し聴いた。
英語学校は日本語禁止という風変わりな学校だったので、受験用テキストで覚えた例文を実際に使ってみることを繰り返した。おかげで大学に入学したあとにはボランティアで通訳ができる程度には英語力がついた。後々、米系企業で働けたのもこの頃の努力のおかげ。
ところで、何のために私はフランス語を勉強しているか。明確な目的は実はない。旅行する予定はないし、フランスの文学や映画が特別好きなわけでもない。あえて言えば、勉強することそれ自体を楽しんでいる。動詞の活用も、パズルを解くような気持ちで取り組んでいる。
フランス語には英単語の語源になった言葉が多い。語源を知るのは楽しい。これも独習を楽しむ理由になっている。
さくいん:英語、フランス(パリ)、ベルギー(ブリュッセル)
1981年2月6日に18歳で亡くなった姉の生誕日。存命なら62歳。
敦香祭と名づけてから5年目になる。
姉の命日と誕生日があるので、これまで、2月になると気分が不安定になっていた。今年は命日も誕生日も穏やかな気持ちで迎えている。今年は気分が変調することはなかった。
何が変わったのか、まだうまく説明できない。2年前に受けたカウンセリングをきっかけにして死別体験の受け止め方が変わったことははっきり言える。
不安定でもなく、最近は無気力でもない。かといって元気いっぱいというわけでもない。何が変わったのか、自分でもよくわかっていないので、新しい気持ちで生きはじめた、と宣言できるような状態でもない。
読みたい本もあるし、読むと決めた本もあるのに読書は進んでいない。夜、9時を過ぎると眠くなり、10時には寝てしまい、朝までしっかり眠っている。
森有正のいう「変貌」、あるいは島崎藤村のいう「新生」とは、こんな風に事後的なものなのかもしれない。自分が変わった。新しい自分になった。それは、「変貌」や「新生」が起きたあとで、その変化を理解すること、言語化できることも変化のずっとあとになってからなのかもしれない。
少しずつ変わっている私の内面について言葉で説明できるようになるまでには、まだ時間がかかりそう。
彼女の好きだったオフコースとさだまさしを聴きながらお気に入りのジンで乾杯。
悲しみのなかで、生まれてきたこと、私の姉であったことに感謝しつつ生誕日を祝った。
さくいん:自死遺族、森有正、島崎藤村、オフコース、さだまさし、悲しみ(悲嘆)