島根県の民家
島根県は東西に長く、地域によっては民家の趣はまったく異なったものである。指定文化財として斐川平野の棟が弓のように反った独特の形状をした民家がまったく指定されていないのは、行政の片手落ちだと思っている。現在は比較的、残存率も良いので早いところ質の良いものを選んで指定すべきであろう。また「たたら製鉄」に関連した豪家が奥出雲地方には、何軒か残されている。公開している家も多いので製鉄関連の施設と共に廻ってみるのも楽しいものです。
道面家住宅 国指定重要文化財 (昭和44年6月20日指定) 
島根県鹿足郡吉賀町大字注連川764
建築年代/江戸後期(19世紀後半)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/外観のみ常時公開
県西南部の山口県境に程近い六日市町郊外に所在する農家建築である。日本一の清流と喧伝される高津川の蛇行により形成された河岸段丘上の散居集落内に所在しており、周囲は果樹園が広がる長閑な風情に溢れた土地柄である。桁行4間、梁間3間の規模は国指定文化財の中でも、もっとも小規模な農家建築だと思われるが、全体的に均整の取れた良い建物である。庇を設けず屋根を軒まで一気に葺き下ろし、開口部は最小限に抑えて四周に大壁を多用する閉鎖的な造りは古式を感じさせるものであるが、意外に厳しい冬場を凌ぐための寒冷対策の意味合いからの造作であろう。
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堀江家住宅 国指定重要文化財 (昭和44年6月20日指定)
島根県飯石郡吉田村大字民谷50
建築年代/江戸時代(18世紀中頃)
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
広島と島根の県境にある吉田村は「たたら製鉄」が盛んに行われた中国山地の只中にあり、日本一の山林王と称された鉄師頭取・田部家が所在する村として著名である。その田部家が所在する村の中心から南に6km程外れた谷間に当住宅は所在する。当家は近世初期から此の地に定住した一般農家で庄屋を務めたこともあったとのことである。文政8年に没した往時の当主が若い時分に古家を買い取ったと伝えられており、中国山地における広間型三間取の初期の事例として貴重である。
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木幡家住宅 国指定重要文化財 (昭和44年6月20日指定)
島根県松江市宍道町宍道1335
建築年代/享保18年(1733)
用途区分/商家(酒造業・本陣)
指定範囲/主屋・新蔵・米蔵・三階蔵・新座敷棟・飛雲閣・新奥座敷棟
公開状況/公開
蜆と夕陽の美しさで知られる宍道湖畔の中規模な宿場町に所在する商家建築である。現在の国道9号線が湖畔寄りを通ったため、旧山陰道筋の宿場町には現在でも往時の面影が残されている。当家は町の中心部に広大な敷地を有し酒造業を営んでいたが、藩主・松平候の来駕の栄に度々浴したことから八雲本陣と通称されている。屋敷内には享保年間建築の主屋を筆頭に江戸末期から明治期に整えられた多くの座敷建築群が残されており、つい最近まで旅館業を営んでおられた。
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桜井家住宅 国指定重要文化財 (平成15年5月30日指定)
県指定文化財 (平成9年12月26日指定)【土蔵・前座敷等】
島根県仁多郡奥出雲町上阿井内谷1655
建築年代/元文3年(1738)
用途区分/鉱山主(鉄師頭取)
指定範囲/主屋・後座敷・釜屋・文久土蔵・古蔵・東土蔵・西新土蔵・南ノ新土蔵・厩
公開状況/公開
今ではすっかり様子が違っているが、藩政期の中国山地一帯は「和鉄」の大供給地であり全国需要の大半を賄うほどに隆盛を極めた。当家は「鉄師頭取」として松江藩から製鉄業を営むことを特別に許された山陰地方きっての名家で、その豪壮な屋敷群は今を以て往時の威勢を偲ばせるに十分である。住宅は松江と庄原を結ぶ国道432号線の広島県境付近の山間に所在するが、屋敷内に漂う風雅な趣は「山中を迷った狩人が偶然、夢のような長者屋敷に辿りついた様」と形容するが相応しい風情である。
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熊谷家住宅 国指定重要文化財 (平成10年5月1日指定)
島根県大田市大森町ハ63
建築年代/江戸後期(文化年間)
用途区分/商家(鉱山業・酒造業・掛屋・郷宿)
指定範囲/主屋・北道具蔵・衣装蔵・小蔵・東道具蔵・米蔵雑蔵
公開状況/公開
大森銀山町の旧代官所跡に程近い場所に所在する当住宅は町内最大規模の商家建築で、石見銀山料4万8千石の唯一の掛屋(両替商)であり、大森町全体を運営・統括する町年寄を代々務めたという旧家である。銀山町だけに狭隘な土地に密集して住宅が建ち並ぶが、当家だけは屋敷地も広く、その繁栄振りを窺い知ることができる。平成13年に公有化され、平成17年より一般公開されているが、住宅の素晴らしさは云うまでもなく、家財の展示方法も民家公開の範となるような質の高さである。
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億岐家住宅 国指定重要文化財 (平成4年1月21日指定)
島根県隠岐郡隠岐の島町下西713
建築年代/享和元年(1801)
用途区分/社家(玉若酢命神社宮司)
指定範囲/主屋 (神社本殿と共に指定)
公開状況/外観のみ公開
当家は奈良時代に隠岐を支配した国造家の流れを汲む名家である。律令の時代に駅馬制度が確立され、各駅で馬を乗り継ぐ際に公用であることを証明するために駅鈴というものが用いられた。当家にはこの駅鈴が日本で唯一伝え残されている。こうした古い家柄が続いているあたりに隠岐という国の奥深さがあるといっても過言ではない。現在は屋敷に隣接する隠岐国の総社である玉若酢命神社の宮司を務めておられ、主屋の外観は一般的な農家建築の趣であるが、内部は社家特有の間取りである。
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佐々木家住宅  国指定重要文化財 (平成4年8月10日指定)
島根県隠岐郡隠岐の島町釜17
建築年代/天保7年(1836)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋
公開状況/公開


 
西周旧宅 国指定史跡 (昭和62年7月20日指定)
島根県鹿足郡津和野町後田ロ64-6
建築年代/嘉永6年(1853)以後
用途区分/医家(津和野藩医)
残存建物/主屋・土蔵・土塀
公開状況/公開
「西周」と書いて「にしあまね」と読む。格好いい名前だと幼き頃に思った記憶はあるが、如何なる偉人かまでは興味が湧くことはなかった。情けない話であるが当住宅を訪れて初めて彼が明治の哲学者であったことを知った。彼は津和野藩の御典医の家系に生まれ、江戸に留学するまでの20年間をこの家で過ごした。非常に勉強熱心で主屋に隣接する土蔵の中で「本の虫」と化していたとの逸話が残されている。当時の欧米列強の植民地化に対抗するために日本人の精神の近代化を説いた人物である。
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森鴎外旧宅 国指定史跡 (昭和44年10月29日指定)
島根県鹿足郡津和野町町田イ238
建築年代/江戸時代(嘉永6年以降)
用途区分/医家(津和野藩医)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
明治の文豪・森鴎外の生家である。「舞姫」、「山椒大夫」等の彼の名作を日本人なら知らぬ者は無いはずである。森家は代々津和野藩医の家系で、鴎外も医学の道を志し軍医総監にまで立身したことは有名である。当住宅は津和野城下の下級武士が住した武家町の一画にあり、主屋は小規模なものである。玄関や座敷は設けられてはいるものの決して格式の高いものではない。維新という時代に廻り遭わなければ、例え天才・鴎外と云えども世に出ることは能わなかった訳で、まさに運命としか云いようがない。
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藤間家住宅 島根県指定文化財 (昭和62年8月18日指定)
島根県簸川郡大社町杵築南1048
建築年代/江戸中期
用途区分/商家(酒造業・廻船業・大年寄・大庄屋)
指定範囲/主屋・勅使門
公開状況/非公開
道路標識に従い車で出雲大社を詣でると自然に道幅の広い県道161号線の新道を通ることになるが、以前は西側の国道431号線が旧参道であった。旧道沿いの門前町には今でも嘗ての大店が仕舞屋となって点在している。当住宅は室町年間から当地に居を定め酒造業や廻船業を営むとともに大社神領の大年寄・大庄屋を務めたという県内屈指の旧家である。国道に面して建つ勅使門は慶応3年に山陰道鎮撫使・西園寺公望の本営となった際に松江藩が整備したもので、由緒の正しさが窺われる。
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並河家住宅 島根県指定文化財 (平成9年3月28日指定)
島根県安来市安来町西小路1689
建築年代/天明3年(1783)
用途区分/商家
指定範囲/主屋・土蔵・宅地
公開状況/非公開
安来町は奥出雲地方に産する和鉄の積出港として古くから発展した所である。江戸時代においても松江藩のみならず周辺の母里藩、広瀬藩における鉄や米の集散地として繁栄を維持し、俗に「安来千軒」と称された。当住宅は町の中心部に位置し、間口20間、奥行40間の町内では群を抜く広大な敷地を有する屈指の旧家である。入母屋造二階建、妻入塗屋造の主屋は、屋根の破風に亀甲紋の平瓦を張り、二階の腰壁にも十字形の平瓦を張るなど防災に配慮すると同時に美しい外観を呈している。
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金森家住宅 島根県指定文化財 (令和4年1月28日指定)
指定史跡 (昭和49年12月27日指定)

島根県大田市大森町ハ180
建築年代/嘉永3年(1850)
用途区分/商家(郷宿)・町年寄・組頭
指定範囲/主屋・西土蔵・東土蔵・土塀
公開状況/非公開 【石見銀山御料郷宿泉屋遺宅】
大森の町は寛政12年(1800)に大火に見舞われ、町の2/3を失うという不幸に遭遇している。当住宅は大火を免れた町内で最古の民家遺構と推測される建物と県史跡指定時にはされていたが、近年の修復の際に嘉永3年(1850)の建築であることが判明。にも関わらず県指定建造物となったことは不思議ではあるが、建築年代が明確に意義ありとのことだったのであろう。そもそもは屋号を泉屋と称した川北家の屋敷で町内では町年寄・掛屋を務めた熊谷家に次ぐ規模である。当家は宝暦3年(1753)に銀山料6組(大田・久利・佐摩・大家・波積・九日市)のうち波積組(江津市の一部)の郷宿を請け負った商家で、大森の代官所の触書を領内の村々に伝達するなど両者を取り結ぶ役割を果たしたとのことである。
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日野家住宅 島根県指定民俗文化財 (昭和49年12月27日指定)
島根県隠岐郡五箇村郡
旧所在地・島根県隠岐郡西郷町都万目
建築年代/江戸時代末期
指定範囲/主屋
用途区分/農家(頭百姓)
公開状況/公開
日本海に浮かぶ隠岐島の島後に所在する農家建築である。移築前に在った当初の所在地から「都万目の民家」と称され、隠岐国の一ノ宮である水若酢命神社の隣接地で一般に公開されている。当家は「頭百姓」を務めただけに規模の大きさ、内部の造作などは結構なもので、離島の民家ゆえに慎ましいものではないかという偏見は、ものの見事に打ち砕かれる。屋根の軒は腕木で出桁を支える「せがい」とし、3つある出入口の上部には欄間を設けて採光に配慮している。むしろ先進地の民家である。
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青山家住宅 島根県指定史跡 (昭和49年12月27日指定)
島根県大田市大森町ハ80

建築年代/江戸時代(文化年間)
用途区分/商家(郷宿)
公開状況/非公開 【石見銀山御料郷宿田儀屋遺宅】
重伝建地区に選定されている大森銀山町に所在する商家建築である。当住宅は江戸期には上熊谷家の所有で、屋号を田儀屋と称し、久利組の郷宿を営んでいたという。郷宿とは領内の地方に住む百姓や町人が訴訟等で代官所に出頭するため大森の町にやって来た際、呼出し待ちのために指定される宿屋のことで、一般には訴訟の手続きを助けるような行政書士のようなことも行ったらしい。当家は大森町の重立衆(町役)を務めたこともあるということで、きっと組下の人々の信頼も篤かったに違いない。
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柳原家住宅 島根県指定史跡 (昭和49年12月27日指定)
島根県大田市大森町新町
建築年代/江戸時代(文化年間)
用途区分/武家(代官所同心・7石2人扶持)
残存建物/主屋・土蔵
公開状況/非公開 【石見銀山代官所同心遺宅】
大森銀山町の中心部に残る武家住宅である。当家は慶長19年(1614)に2代目銀山奉行の竹村源兵衛によって召抱えられたという銀山地附役人の家柄で口留蕃所勤務の同心であったという。銀山開発初期には地附役人の待遇条件は相応のものであったが、江戸中期以降は扶持米の大幅な切下げが行われその地位は大幅に低下したようである。道路よりかなり後退して建てられた当住宅はかなり質素な建前ではあるが、それでも建物正面に式台玄関を設けるあたりは武家の面目である。
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岡家住宅  島根県指定史跡 (昭和49年12月27日指定)
島根県大田市
建築年代/江戸中期
用途区分/武家(地附役人)
残存建物/主屋
公開状況/非公開 【石見銀山代官所地役人遺宅】

江戸中期頃は銀山地附役人の澤井氏の居宅、その後は親戚関係にあった同じく銀山地附役人の鹿野氏の居宅であった。


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阿部家住宅  島根県指定史跡 (昭和50年8月12日指定)
島根県大田市大森町ハ159-1
建築年代/寛政元年(1789)
用途区分/武家(地附役人50俵3人扶持)
残存建物/主屋・土蔵
公開状況/非公開(宿屋として営業中) 
【石見銀山代官所地役人遺宅】
大森銀山町内に所在する旧地附役人の武家住居である。当町は狭い谷間に形成された町場ゆえに本来であれば住区を分けて配置されるべき武家と商家の各々の住居が、混在して配置されることを特徴とするが、屋敷構えだけはやはり厳然と区別されており、武家屋敷は大小に拘わらず通りからやや奥まった位置に主屋を構えている。当家も通りに面して門長屋を構え、その背後に主屋を配している。当家初代は甲斐国出身で初代銀山奉行・大久保石見守によって召抱えられた家柄とのことである。
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三宅家住宅  島根県指定史跡 (昭和49年12月27日指定)
島根県大田市大森町ハ157
建築年代/江戸末期
用途区分/武家(地附役人)
残存建物/主屋・土塀・中門
公開状況/非公開 【石見銀山代官所地役人遺宅】
大森銀山町の中央部に残る武家住宅である。そもそもは甲斐国出身で慶長6年に初代銀山奉行の大久保石見守によって80俵扶持で召抱えられた田邊家の屋敷で、当家は江戸中期には銀山から産出した銀の延べ板に品質を保証する刻印を打つ役儀を負う極印所役として10石5斗2人扶持を給されたという家柄である。主屋は六間取の比較的規模が大きな造作で、周囲に残る同じ地役人層の屋敷と比べると他が切妻屋根であるのに対し当住宅は入母屋屋根とするなど格の高い建前となっている。
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高橋家住宅 島根県指定史跡 (昭和50年8月16日指定)
島根県大田市大森町
建築年代/江戸時代(安政年間以降)
用途区分/商家(銀山師・町年寄・山組頭)
残存建物/主屋・離れ座敷・茶室
公開状況/非公開
大森銀山町は代官所を中心に武家屋敷や一般の商家から成る柵外区と鉱山と鉱山労働者が起居した柵内区に分かれている。現在、主要な建造物の殆どは柵外区に残されているが、当住宅は珍しく柵内区に残る商家建築である。当家は酒造を営み、銀山師の代表である町年寄山組頭を務めたという家柄で、町内の商家としては最高位の立場にありながらも、屋敷は鉱山の坑道跡が散在する狭い谷間にあるため、素朴で窮屈な趣である。余りに銀山役所の膝元にあるため遠慮もあったのかも知れない。
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塩見家住宅 松江市指定文化財 (昭和28年8月31日指定)
島根県松江市北堀町塩見縄手305
建築年代/
用途区分/武家
指定範囲/主屋・長屋門
公開状況/公開 (松江の武家屋敷)
松平家18万6千石の居城であり、山陰地方の城郭建築の中で唯一天守閣を残す松江城の北方に、内堀に面して中老格の武家屋敷群が並ぶ一画がある。通称、塩見縄手と呼ばれるその通りは、堀端に植えられた松並木と武家屋敷の下見板張りの練塀が続く、実に風情の溢れる美しいところである。当住宅の幕末の当主・塩見小兵衛は中老職を経て最後には家老格1000石にまで累進した人物で、彼の活躍を賞して門前の通りは塩見縄手と呼ばれるようになったという。
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山田家住宅 出雲市指定文化財 (昭和35年12月21日指定)
島根県出雲市大津町570
建築年代/江戸時代中頃
用途区分/本陣
指定範囲/主屋 2棟
公開状況/非公開
国道9号線を松江から出雲に向かい斐伊川に架かる神立橋を渡ると橋の袂左手に古色を帯びた小さな町がある。ここが古来より奥出雲地方と繋がる斐伊川水運の要衝であった大津町である。当住宅は町の中心部に所在し、本通りに面して広い間口を持つ堂々たる塗屋造の構えは本陣建築に相応しいものである。嘗ては主屋の西側に続く土塀に御成門が設けられており、そこから松江7代藩主不昧公の時代に主屋西側に落棟で増築された座敷に直接上がる様になっていたとのことである。
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金藤家住宅 安来市指定文化財 (平成7年5月8日指定)
島根県安来市赤江町1515
建築年代/天保13年(1842)
用途区分/材木商
指定範囲/主屋・土蔵
公開状況/非公開


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原本家住宅  安来市指定文化財 (平成27年2月17日指定)
島根県安来市安来町大市場
建築年代/明治17年(1884)
用途区分/地主・海運業
指定範囲/主屋・書院・離れ・奥の土蔵・向蔵及び向座敷
公開状況/非公開



江角家住宅 出雲市指定文化財 (平成9年4月18日指定) 
島根県出雲市浜町520 (移築) 【出雲文化伝承館】
旧所在地・島根県斐川町坂田
建築年代/明治29年(1896)
用途区分/豪農・郡役人
指定範囲/主屋
公開状況/公開
出雲市の市制50周年を記念して平成3年に斐伊川河口付近の坂田に所在していた大地主・江角家の屋敷から主屋と長屋門、庭園部分を移築・再現した施設である。当家は先項の原鹿の江角家とは同門に当たり、やはり平田灘分の江角家より分家したのち、新田開発に成功。農地改革時には172町歩ほどの土地を所有し、県下8番目の豪農にまで成長を遂げている。主屋は豪壮かつ非常に丁寧に造られたもので、明治中期の建築ながら純粋な和風建築であることが却ってこだわりを感じさせてくれる。
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江角家住宅 出雲市指定文化財 (平成13年1月12日指定)
島根県出雲市斐川町原鹿640-1 【原鹿の旧豪農屋敷】
建築年代/明治31年(1898)
用途区分/農家(大地主)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
出雲空港から西へ約6km程の平野部に所在する豪農屋敷である。当家は斐伊川を挟んだ対岸の平田灘分の豪農・江角家から18世紀初頭に分家し、当初は現在地の北700mの位置にあった原鹿中組に居を構えたが、明治20年の大水害で被害に遭い、明治30年に現在地に移転したとのことである。昭和21年の農地改革時の農地所有調査では186.5haの田畑を有する県下で7番目の大地主として記録されており、その威勢は屋敷構えに如実に反映されている。主屋は伝統的で非常に端正な建前である。
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河島家住宅   大田市指定史跡 (平成5年3月17日指定) 
島根県大田市大森町ハ118-1
建築年代/江戸時代(寛政12年以降)
用途区分/武家
残存建物/主屋
公開状況/公開
大森銀山町を代表する武家住宅である。当家は慶長年間に大久保長安に召抱えられた地附役人で、組頭にまで累進したとのことであるから現地採用組としては最も出世した類であろうが、それでも石高は30俵3人扶持と決して多くは無かった。しかし屋敷は練塀を廻らせ、主屋は式台玄関や座敷を構え、小さいながらも庭園まで備えた格式高いもの。狭隘な谷間の銀山町にあって面目を保っている。維新後は町役場や警察駐在所に使用された程であるから、町内では相応の屋敷であったと云える。
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宗岡家住宅 大田市指定史跡 (平成5年3月17日指定)
島根県大田市大森町ハ164
建築年代/江戸時代
用途区分/武家(同心・15俵1人扶持)
公開状況/非公開
当家は毛利家による銀山支配の時代から銀山の代官職にあった家柄で開幕以後は銀山奉行・大久保長安により召抱えられた。往時の当主・宗岡弥右衛門は大森銀山のみならず佐渡に渡り鉱山開発を主導、果ては徳川家康にお目見得までして「佐渡」の名まで頂戴したという。以後、切米200俵扶持の銀山附役人組頭として6代目まで務めたものの、7代目以降は僅か15俵1人扶持の銀山附同心として幕末に至った。現在の住宅は町の2/3を焼失させたという寛政の大火を免れた建物と伝えられる。
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渡辺家住宅 大田市指定史跡
島根県大田市大森町ニ4-3
建築年代/文化8年(1811)
用途区分/武家(銀山附役人)
残存建物/主屋・土蔵
公開状況/店舗として営業中
当住宅は大森銀山の地附役人であった坂本家の居宅で、明治末頃に渡辺家が譲り受けたものである。坂本家は江戸時代初期の慶長年間に大森銀山奉行であった大久保長安により30俵3人扶持で召抱えられ、運上役や勘定役を務めたという家柄。道路に面して土塀を廻らせ、少し奥まった位置に主屋を構えるゆとりのある屋敷配置は平地の少ない町内にあって武家の面目を施すもの。一方、主屋の西側に表から奥まで通り土間を設ける造作は商家のような風情である。
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安田家住宅  雲南市指定史跡
島根県雲南市三刀屋町多久和
建築年代/
用途区分/農家
残存建物/主屋・離れ
公開状況/外観自由 【永井隆博士旧居】
出雲と三次を結ぶ国道54号線沿いの旧三刀屋町の中心市街を過ぎようとすると瀟洒な永井隆記念館の建物が目に飛び込んでくる。戦後久しい今の世に永井隆の名を知る人は稀になりつつあると思うが、世界で唯一の核弾頭の被爆国である日本国民としては知っておかねばならぬ人物の一人なのかもしれない。永井博士は長崎医科大学を卒業後、放射線医学の道に進まれ、その研究の過程で白血病を患い、また長﨑に投下された原爆にも被爆しながらも、医師として多くの戦災負傷者救護に尽力された方である。当住宅は博士が幼少の砌に過ごした家として保存されているが、記念館から飯石川の上流に遡った山間部に所在する。博士と同じく医師であった父・寛氏が無医村であった飯石村に招かれて開業した場所ということで、博士が小学校を卒業するまでの時代を過ごしたとのことである。
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山﨑家住宅 石見町指定文化財 (平成10年4月17日指定)
島根県邑智郡邑南町大字日貫3327
建築年代/安永8年(1779)
用途区分/農家(庄屋)
指定範囲/主屋・廊下2棟・蔵2棟
公開状況/外観のみ公開
最寄りの国道でさえ10km以上も離れた中国山地の最も奥深い場所に、このような豪家があるとは驚きである。当家の祖は中国地方の戦国大名として著名な大内家の家臣・山﨑勘解由と伝えられ、記録によれば明暦元年(1655)に庄屋職を拝命して以降、代々世襲したという。昭和21年の農地改革時の田畑所有面積は224haに及び、県下で6番目の持高であったというから、この山間のどこにそのような土地があったのか不思議である。兜状に葺いた茅屋根は他では見かけぬ独特のもの。魅力的である。
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竹原家住宅 津和野町指定文化財 (平成18年5月1日指定)
島根県鹿足郡津和野町大字長福313
建築年代/不詳
用途区分/農家
指定範囲/主屋
公開状況/非公開
津和野町域の最も山口との県境に近い山間部に所在する農家建築である。長福の中心集落からも離れた谷間に隠れるようにして建ち、案内看板も一切無いので地元の人さえもその存在を知らないのではないかと思う程である。谷に沿った狭い敷地に主屋や作業小屋、納屋が一列に並んで配置されており、詳細は定かではないが、その主屋の規模、屋敷構えから標準的な農家ではなかったかと思われる。後世の改造も殆どなく、この屋敷の周囲だけは時が止まっているように錯覚してしまう風情である。
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村上家住宅 海士町指定文化財
島根県隠岐郡海士町海士1700-2
建築年代/明治34年
用途区分/回船問屋・大庄屋
指定範囲/主屋
公開状況/公開 【村上家資料館】


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北尾家住宅 旧広瀬町指定文化財
島根県安来市広瀬町広瀬772-2
建築年代/
用途区分/武家
指定範囲/
公開状況/非公開
安来市の南西郊外にある広瀬町は松江藩の支藩・広瀬藩3万石の城下町として江戸初期に拓かれたところである。1666年に町の東を流れる飯梨川が氾濫し流れが大きく変わったため、かつて流路であった此の地に新しく町場が作られたとのことである。当住宅は旧町役場に近くに唯一残る武家屋敷で、実に品の良い屋敷構えである。かつては屋敷前に文化財として解説板が建てられていたと記憶しているが、平成の町村合併により安来市に併合後は文化財として取り扱われてはいない様子である。
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岡熊臣旧宅 津和野町指定史跡 (平成8年12月10日指定)
島根県鹿足郡津和野町山下字清水前327
建築年代/江戸時代(1820年前後)
用途区分/社家・国学者
指定範囲/主屋
公開状況/外観のみ自由・内部非公開
岡熊臣は鹿足郡山下村の冨長八幡宮の宮司の家に生まれ、学問を好んだ故に江戸に出て学び、のちに28年間を費やして「日本書紀伝」などを著し、津和野藩の藩校・養老館の初代国学教授となった人物である。全国的に名を知られた人物ではないが、幕末から明治維新に至る間の津和野藩の在り様を導いた人物である。住宅は津和野城下を縦断する津和野川を上流に遡った山間部に所在しており、外観的には農家建築のようである。熊臣はここを「櫻蔭館」と名付け、私塾を開設したとのことである。
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角家住宅 登録有形文化財 (平成15年12月1日登録)
島根県安来市西荒島町字下日白2172
建築年代/明治39年(1906)
用途区分/
登録範囲/主屋・門長屋・離れ客間・煉瓦造煙突
公開状況/非公開
松江と安来を結ぶ国道9号線の中間地点、中海を北に臨む一帯は3世紀頃に築造された前方後方墳が数多く点在することから古代出雲国の王陵の地に比定され、立地的に政治的重要性を帯びた場所であったと推測されている。しかし現在ではのどかな田園風景が広がるばかりで、往時を想像することは難しい。当住宅は緩やかな緑の丘陵を背に主屋の赤瓦葺の入母屋屋根がよく映える大規模な邸宅である。屋敷前面には黒瓦葺の長屋門を構えるが、これが主屋の美しさを際立たせる演出だとすれば、実に心憎い。
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奥野家住宅 登録有形文化財 (平成17年2月9日登録)
島根県安来市伯太町母里27
建築年代/明治5年(1872)
用途区分/商家
登録範囲/主屋・作業場・納屋・米蔵・宝庫
公開状況/非公開
安来市の中心部から伯太川を南方に10km程遡ったところに母里の町はある。町の中心を貫く街道は町の中央部で鍵状に矩折れしており、嘗てこの地が単なる宿場町ではなく陣屋町であったことを知らしめてくれる。当住宅は町の中心部に街道に東面して建つ商家建築で、祖先は奈良で鍛冶屋を営んでいたことから「奈良屋」を称し、藩政期から明治40年頃までは酒造業を営み、以後、山林経営や母里村長を務めたりしたという。住宅は正面に式台を構えるものの、全体に地味な建前である。
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山本家住宅 登録有形文化財 (平成17年2月9日登録)
島根県安来市伯太町母里71
建築年代/明治17年(1884)
用途区分/商家
登録範囲/主屋・前蔵・新蔵・米蔵・裏長屋・釜屋・小蔵
公開状況/非公開
安来市の南方郊外にある母里の町は藩政期においては松江藩の支藩である母里藩1万石の陣屋町であった。ただ藩主は江戸定府であったため、藩主が母里に帰館したのは幕末に至るまでに1度きりという状況であったため、在地の家臣団も江戸藩邸の1/4程度しかおらず、町の規模も小さく、あまり発展しなかったようである。さて当住宅は町を南北に縦貫する街道に東面して建つ商家建築である。主屋前面には蔀戸を設え、建ちの低いつし2階建で古風な印象であるが、明治期の建築である。
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絲原家住宅 登録有形文化財 (平成16年2月17日登録)
島根県仁多郡奥出雲町大谷856-1
建築年代/大正13年
用途区分/鉱山主(鉄師頭取)・山林大地主
登録範囲/主屋・前座敷・南蔵・米蔵・待合・御成門・塀・門柱・金屋子神社
公開状況/公開
奥出雲町の景勝地・鬼の舌震近くの山間に所在する大鉱山主の邸宅である。「たたら製鉄」で著名な島根県は明治20年の統計によれば、全国の鉄生産高の50%を占める大生産地で、中でも当家は藩政期から吉田村の田部家・上阿井村・櫻井家と並び松江藩の「三大鉄師」と称された程の豪家であった。高炉による近代製鉄との競争に敗れる大正10年頃まで「たたら」操業していたということなので、大正13年に3万余円を費やし建てた主屋は製鉄廃業後、山林大地主として製炭業を営んでいた頃のものである。
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石橋家住宅 登録有形文化財 (平成22年4月28日登録)
島根県出雲市平田町字新町834
建築年代/江戸時代(1750年頃)
用途区分/商家
登録範囲/主屋・向座敷・茶室
公開状況/公開
既に失われて久しい状況にあるが、幕末から明治中頃までの間、棉柞は出雲地方にとって米麦に次ぐ重要農産物であった。綿は織物に加工され「雲州木綿」として取引され、斐伊川が宍道湖に注ぎ込む河口部に形成された在郷町・平田市場が、その集散地として大いに繁盛したという。今でも平田町の新町、片原地区には当地方独特の切妻屋根の壁面に海鼠壁をあしらった妻入商家群が軒を連ねており、当住宅はその中にあって最古の建物とされるものである。座敷前の出雲流庭園が素晴らしい。
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酒持田本店  登録有形文化財 (平成29年6月28日登録)
島根県出雲市平田町片原町785
建築年代/明治10年(1877)
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/店舗兼主屋・旧蔵・検査場・土蔵・向座敷
公開状況/店舗として営業中


稲積家住宅 登録有形文化財 (平成19年12月5日登録)
島根県邑智郡邑南町井原1189
建築年代/江戸末期
用途区分/農家(庄屋)
登録範囲/主屋・門・背戸の蔵・下の蔵
公開状況/非公開
中国太郎の異名を持ちながら流域に殆ど平野を形成しなかった江川の上流域において唯一ある程度の耕地を確保できた場所が旧石見町の井原、矢上地区である。この一帯のみは中国山地の只中ながら比較的穏やかな里山風景が広がっている。当住宅はその井原郷全体を臨む北側の山裾に在る旧庄屋屋敷である。屋敷前面に低く石垣を築き、少し奥まって桁行10間×梁間5間の大規模な主屋が建つ。明治期に屋根を茅葺から瓦葺に改めたものの、土間上の架構は実に見事なものである。
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美濃地家住宅  登録有形文化財 (平成30年3月27日登録)
島根県益田市匹見町道川イ50
建築年代/安政2年(1855)
用途区分/農家(庄屋・割元庄屋)
残存建物/主屋・米蔵 (長屋門は復元建物)
公開状況/公開(但し冬季は休館)
島根県西部の山間部に所在する庄屋屋敷である。中国道の戸河内ICから山陰の益田方面に抜ける国道191号線は中国山地を横断する快走路である。秋の紅葉の季節などは特に美しく良いところである。当住宅はその途中の山間部に所在する旧割元庄屋屋敷である。温暖なイメージの中国地方ながら周囲にはスキー場が点在するほどの豪雪地帯で、冬籠りを前提とした主屋は北国の民家さながらの大規模なものである。昭和38年の大豪雪で屋敷内の酒蔵や土蔵、木小屋等の附属建物は順次解体され、現在では主屋と米蔵を残すのみとなっているが、それでも見応えは十分なものである。
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藤田家住宅 登録有形文化財 (平成21年1月8日登録)
島根県江津市江津町328 
建築年代/嘉永6年(1853)
用途区分/商家
登録範囲/主屋・新蔵及び料理場・内蔵・東蔵・表門・塀・南蔵・北蔵
公開状況/非公開
江津の旧市街は現在のJR山陰本線の江津駅付近ではなく、支線であるJR三江線の江津本町駅東側の谷間にある。山陰道と江の川が交わる当地は交通の要衝として大いに栄えたという。当住宅は旧市街の中心部に所在する商家建築で町を代表する存在といっても過言ではない。江戸期には「五島屋」の屋号で廻船業を営むとともに銑鉄も取り扱う問屋でもあったとのことである。本町通りから少し後退して建つ主屋は格式の高さを顕しており、通りを挟んで建つ3棟の蔵群も当家の所有である。
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藤田佳宏家住宅 登録有形文化財 (平成22年1月15日登録)
島根県江津市江津町286
建築年代/江戸末期(安政5年以前)
用途区分/不詳
登録範囲/主屋・土蔵・納屋・表門及び土塀
公開状況/非公開
往時には江津湊と称された江津旧市街のやや奥まった位置に所在する中規模な邸宅建築である。川幅1m程の本町川に石橋を架け、一間幅の棟門を構え、その背後に主屋、更に屋敷裏手の野面積の石垣上に小規模な土蔵、納屋を配置する。文化財登録時の公表文によれば、「江戸時代末期の庄屋級および武士住宅の特徴を示す」と記されてはいるものの、江戸期の生業については詳らかにされていない。ただ昭和22年から江津町長を務めた藤田龍夫氏の住宅として地元では知られているらしい。
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山藤家住宅 登録有形文化財 (平成22年1月15日登録)
島根県江津市江津町298
建築年代/明治前期・昭和33年改修
用途区分/商家
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
江の川河口の湊町・江津に所在する間口7.0mのつし2階建の小規模な町家建築である。江津は東西を結ぶ山陰道と南北を結ぶ江の川の結節点として北前船の寄港地や天領米の積出港として栄えた交通の要衝で、現在でも往時の繁栄振りを僅かながらに残る古い町家群から見て取ることができる。江の川河口付近の比較的条件の好い場所には大店が多く、山手に離れるに従い小店が増えていくが当住宅はその一画に所在する。家歴については詳らかではないが以前には自転車店を営んだとある。
【平成27年4月16日解体により登録抹消】
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山下家住宅 登録有形文化財 (平成22年1月15日登録)
島根県江津市松川町畑田598
建築年代/明治16年(1883)
用途区分/農家
登録範囲/主屋・離れ・長屋・門蔵・背戸蔵・井戸小屋・石垣・門及び築地塀
公開状況/非公開
江津市街から江の川沿いに国道261号線を少し南下し、上津井温泉の案内看板に従って東側の山間へと進む。しばらくすると鄙びた温泉旅館が見えてくるが、これを超えた三叉路脇の山腹に所在する大型の農家建築である。山の斜面を削り、前面に石垣を組んで造成した敷地に桁行20m、梁間12mにも及ぶ主屋を中心に江戸末期建造の土蔵など多くの附属建造物が配置されている。島根の不思議は、耕地もさほどあるとは思われぬ山間にこうした巨大な邸宅が時々に残されていることである。
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中村家住宅 登録有形文化財 (平成21年1月8日登録)
島根県江津市桜江町大貫378-1
建築年代/明治15年(1882)
用途区分/農家(鉄商人・鍛冶屋・庄屋)
登録範囲/主屋・旧郷蔵・納戸蔵・背戸蔵・米雑蔵・農具庫・石垣
公開状況/非公開
江の川の河口近くに拓かれた江津湊から上流に向かって国道261号線を15km程遡ったところに所在する大規模な農家建築である。地元産の蛇紋岩で築かれた延長125mにも及ぶ石垣は美しく、今は堤防が築かれ仕切られているが、往時は屋敷直下までが江の川の氾濫原であったと思われる。この辺りまで遡っても江の川の川幅は広く、悠々たる大河の様相を帯びている。当家は西田屋の屋号で鉄の売買や鈩を経営した商家的要素を持つ在郷の庄屋で邸内には大貫村の郷蔵まで置かれている。
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藤井家住宅 登録有形文化財 (平成20年7月8日登録)
島根県鹿足郡津和野町日原466
建築年代/文政8年(1825)
用途区分/鉱山師・山年寄・精蝋業
登録範囲/主屋・旧蝋板場
公開状況/非公開
津和野城下の北方に位置する日原集落は、中世より近隣の朱色山より銀が採掘されたことから鉱山町として発展し、藩政期には大森代官所管轄の幕府直轄領であった。慶安3年(1650)頃からは銀に代わって銅が採掘され、三好家、藤井家、水津家の三家が銅山師として活躍した。当住宅は、その銅山師・藤井家の屋敷で、集落を縦断する街道に東面して建つ江戸末期建築の主屋を筆頭に門屋、土蔵等の多くの附属建造物群を残している。背後の高津川の土手上から見る屋敷の姿は実に壮観である。
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下森酒造場 登録有形文化財  (平成20年7月23日登録)
島根県鹿足郡津和野町左鐙字立山ノ麓9
建築年代/明治前期
用途区分/旧庄屋・酒造業
登録範囲/店舗兼主屋・旧米蔵・旧酒蔵・旧精米所・土蔵・門・煙突
公開状況/非公開
かつて津和野藩主の参勤交代は城下を一端北上し、日原集落から高津川に沿って南下し、左鐙から六日市を抜け岩国へと出た。いわゆる津和野街道と称されるルートである。当家は往時津和野藩領であった左鐙集落の庄屋を務めたという旧家で、明治期より「菊露」という銘柄で酒造業を営んだという。安蔵寺山に源を発する横道川と日本一の清流・高津川の合流点に近い川岸の狭隘地に屋敷を構えるが、江戸期建造の土蔵の他に明治~昭和初期に整えられた酒造施設群が所狭しと残されている。
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弥重家住宅 登録有形文化財 (平成22年9月10日)
島根県鹿足郡津和野町森村字森イ541-1
建築年代/明治元年(1868)
用途区分/大庄屋
登録範囲/主屋・門
公開状況/美術館として営業中(杜塾美術館)
掘割に鯉が泳ぐ小京都・津和野の観光拠点である藩校・養老館から津和野大橋を渡った対岸地区が森村と称される所である。当家は元禄6年(1693)に森村の庄屋を拝命して以降、藩内の筆頭庄屋を務めたという旧家である。県文化財指定の筆頭家老・多胡家の武家屋敷門の風情にも匹敵する重厚な屋敷構えは江戸期封建制の下では到底認められる様な造作ではなく、明治元年建築故のものであろう。主屋は128坪にも及ぶ大規模なもので、広大な土間の架構は見事である。
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財間家住宅 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ハ38
建築年代/明治32年(1899)
用途区分/商家
登録範囲/主屋・本門・横門・下の蔵・上の蔵・部屋の蔵・漬物倉及び木小屋
公開状況/非公開
重伝建地区に選定されている津和野城下の旧武家町と旧商人町の境に所在する商家建築である。城下を南北に縦貫する旧山陰道に面して間口15間にも及ぶ敷地を有し、建坪120坪を超える大規模な切妻造桟瓦葺の平入つし2階建の主屋は城下を代表する町家建築と云っても過言ではないだろう。江戸期には御用商人として活躍し、明治中期以降は酒の小売販売を営んでおられたが、現在では仕舞屋となってはいる。しかしその威風堂々たる風情は今を以てなお健在である。
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橋本酒造場 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ218
建築年代/明治中期
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/店舗兼主屋・道具蔵・表門
公開状況/店舗として営業中
間口14m、木造つし2階建。


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華泉酒造場 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ221
建築年代/明治中期
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/店舗兼主屋・東の蔵・旧衣装蔵・道具蔵・中の蔵
公開状況/店舗として営業中
津和野町を縦断する本町通に西面して建つ商家建築である。この界隈は大店の商家が建ち並ぶ一画で、当家についても「華泉」の銘柄で酒造を営む間口11間の大店である。創業は享保15年(1730)というからかなりの老舗でもある。通りに接して建つ主屋は明治中期の建築で、その左右に江戸後期築の道具蔵と衣裳蔵を対称的に配置する。また主屋自身の外観も大戸口を中央部に開き、左右対称を意識した意匠となっている。屋敷裏手に酒造関連の土蔵群も残り、屋敷全体が往時の姿を保っている。
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古橋酒造場  登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ196
建築年代/大正10年(1921)
用途区分/商家(酒造業)
登録範囲/店舗兼主屋・仕込蔵・貯蔵蔵・作業場・旧衣裳蔵
公開状況/店舗として営業中
重伝建地区に選定され、多くの登録文化財に登録された町家が軒を連ねる津和野町内において、町並の中核を成しているのは酒造を生業とする大店の商家群である。その中の一軒である当家は江戸期には広島藩士で、維新により当地に移住し明治11年から酒造を始めたという比較的歴史の浅い酒造場である。ちなみに当酒造場の代表銘柄である「初陣」は当家が武家であった時代の名残を伝える命名である。建物は大正期の建物らしく他家と比較して建ちが高く、側面には洋館が附属する。
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俵種苗店 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ212
建築年代/明治中期
用途区分/商家(種苗商)
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
間口10m、木造つし2階、鉄板葺の庇が特徴。
正面に揚戸を残す。


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ささや呉服店 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ213
建築年代/江戸末期・昭和44年改修
用途区分/商家(呉服商)
登録範囲/店舗兼主屋・座敷蔵・呉服蔵・唐津蔵
公開状況/店舗として営業中
平成25年5月に重伝建に選定された津和野の町並の中程に所在する老舗呉服店である。表通りに面して間口14mの主屋と海鼠壁の土蔵が並び立つ様子は実に堂々としており、更に下屋庇を一般の町家では滅多に見られぬ銅瓦棒葺とするなど大店としての風格に満ちた建物である。津和野の町は嘉永6年(1853)の大火によって大半が焼失しており、当住宅も恐らくその際に建て直されたものと思われるが、主屋のみならず、背後の蔵群も同時に再建されており、相当な財力を誇っていた様子である。
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河田家住宅 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ235-1
建築年代/大正期
用途区分/商家
登録範囲/主屋
公開状況/非公開
山陰の小京都と謳われる津和野城下町の中央部に所在する間口11mに及ぶ町家建築である。重厚な町家が建ち並ぶ本町通り沿いにあって、木質部を露わにした比較的軽快な建前である。そもそもは通りの向いにある橋本酒造場の所有であったものを昭和初期に当家が購入したとの来歴から、本宅ではないが故に無駄を省いた造作となったのではないかと想像される。正面の店舗部分の土間前にはガラス引戸を多用し、床上部前を鉄格子窓とする造作は大正期の建築ならではのものである。
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河田商店 登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ197
建築年代/明治後期(明治30年代)
用途区分/商家
登録範囲/店舗兼主屋・離れ・庭の蔵・奥の蔵・本蔵
公開状況/非公開(店舗として営業中)
津和野城下の本町通に東面して建つ商家建築である。住宅は藩政期に商人住区の本町と武家住区であった殿町の境界位置に所在しており、かつては惣門によって両町が仕切られた場所であった。こうした位置には藩を代表する御用商人が物見を兼ねた重厚な建物を構えることが多いが、当住宅も後代の明治の建物ながらそうした風情を醸す間口9.9mの大店建築である。同じく通りに西面して建つ先述の財間家住宅と対を成すような外観で、津和野城下の商人町を代表する建物と云えるだろう。
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分銅屋
(河村家住宅)
登録有形文化財 (平成22年9月10日登録)
島根県鹿足郡津和野町後田字本町ロ190
建築年代/江戸時代末期(安政年間)/昭和初期改修
用途区分/商家
登録範囲/店舗兼主屋・はぜ蔵・土蔵・ごさ蔵及び鬢付蔵
公開状況/非公開(店舗として営業中)
津和野城下の本町通に西面して建つ間口11mの商家建築である。藩政期には津和野藩の御用を務めたとのことで、町割りに合わせた奥行きの深い短冊状の屋敷の規模から相応の大店であったことが窺える。明治期に建築された鬢付蔵や櫨蔵が主屋の背後に残されていることから、明治以降には鬢付油や和蝋燭の製造販売をしていたことが窺えるが、以前の商売については不詳である。赤い石州瓦を葺く町家が多い中、鉄板葺の当住宅は当初は板葺きであった故であろうか。
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山本家住宅 無指定・公開
島根県出雲市知井宮628
建築年代/明治15年
用途区分/農家
公開状況/公開 【出雲民芸館】
出雲市西郊の平野部に所在する山陰地方屈指の大地主の居宅である。大正3年の番付では田畑合わせて240町歩を所有し、小作1500戸を抱える県下3番目の豪農であった。現在は「出雲民芸館」の名称で屋敷内の蔵に山陰の暮らしで用いられた絣や暖簾、陶磁器等の民芸品を展示し、屋敷の前庭部を公開していただいている。屋敷表の長屋門を潜ると、清々しい程に直線的で無駄のない端正な主屋が正面に鎮座している。しばし時が経つのも忘れてしまう程の美しさである。まさに民芸である。
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旧藤原家住宅 無指定・公開
島根県仁多郡奥出雲町下横田474
旧所在地・島根県仁多郡奥出雲町下横田143-3
建築年代/明治中期
用途区分/農家
公開状況/公開 【横田郷土資料館】
奥出雲地方最大の町場である旧横田町の中心部から4km程の南方郊外に横田郷土資料館として移転・活用されている中層の農家建築である。山間部にある横田町は算盤などの木工品の生産地として著名な地域ながら、住宅の外観は板壁ではなく土壁を多用しており、内部には上手に畳敷の開放的な5部屋、下手に板敷の2部屋を設えるなど、明治期の建築らしく垢抜けした建床面積304㎡にも及ぶ大振りな建物である。建前の雰囲気としては隣の広島県の農家建築に近い風情である。
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前川家住宅 無指定・公開 
島根県邑智郡美郷町九日市321-1 (ふるさとおおち伝承館)
旧所在地・島根県飯石郡赤来町井戸谷
建築年代/文政10年(1827)
用途区分/商家(薬販売・麹製造販売)
指定範囲/主屋
公開状況/公開
当家が所在する九日市は、江戸時代には大森銀山から瀬戸内海に面する尾道へと至る大阪往還筋、いわゆる銀山街道の宿駅として発達した町である。当住宅は街道筋の傾斜地に石垣を積み、僅かばかりの平坦地に南面して建っている。文政10年(1827)に現在地より直線距離で8km程南にある飯南町井戸谷で建築され、明治18年(1885)に当地へ移築しもので、大正中期から昭和30年頃まで薬の販売や麹の製造を行っていたとのことである。現在は改められているが当初は石置屋根であったらしい。
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堀家住宅 無指定・公開
島根県鹿足郡津和野町大字邑輝795 
庭園部は国指定名勝(平成17年7月14日指定)
建築年代/天明8年(1788)
用途区分/鉱山経営(銅山年寄役)
公開状況/公開
津和野城下から西へ5km程外れた山間部に所在する銅山師の大邸宅である。まず規模の大きさに驚かされる。そして精緻に組まれた青石垣に白漆喰の練塀と山陰独特の赤瓦の建物群で構成される屋敷構えに徒ならぬものを感ぜずにはおれない。当家は藩政時代において大森代官所の支配下にあって鹿足郡内の笹ヶ谷銅山を経営、江戸中期以降は大名貸等の金融業により家業を大いに発展させたという。邸内には江戸期建築の主屋の他、明治33年築の数寄屋普請の楽山荘などが残されている。
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亀井家住宅 無指定・公開 【亀井温故館】
島根県鹿足郡津和野町中座イ906
建築年代/明治33年(1900)
用途区分/実業家邸宅を旧藩主が譲り受けたもの
残存建物/主屋・表門・練塀
公開状況/公開
旧津和野藩主である亀井家の別邸と称される屋敷である。現在は「亀井温故館」という名称で、歴代の重宝類を展示する併設の資料館と共に公開されている。旧津和野城址が築かれた霊亀山を仰ぎ見る津和野川東岸の微高地に屋敷は所在しており、そもそもは津和野出身で導火線製造販売で財を成した実業家・吉田三輔が明治33年に建てた邸宅を旧藩主家が大正年間に購入したものである。非常に大らかな品の良い建物で、華美に走らず上流階級の趣味の良さに感服させられる。
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山根家住宅 無指定・外観公開 【秦佐八郎博士生家】
島根県益田市美都町都茂807
建築年代/不詳
用途区分/庄屋
公開状況/外観のみ可能。敷地内に秦記念館あり。
明治期に梅毒治療の特効薬・サルバルサンを発見したことで知られる秦佐八郎博士の生家である。博士は当地の庄屋役や戸長を務めた旧家・山根家に14人兄弟の8男として生まれ、14歳で同村で医業を営んでいた秦家へ養子縁組されるまでの間、ここで過ごしたという。住宅の敷地内には博士の業績を顕彰する益田市立秦記念館が建てられおり、隣接する主屋については外観のみ拝見することができる。ちなみに屋敷前面の石垣上に聳え立つ重層の長屋門のみが益田市の文化財に指定されている。
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