江角家住宅
Ezumi



 


そもそも簸川平野は肥沃な土地で、米の単作地帯を形成し、島根県の穀倉と云われていた。
しかし平野の低位部では宍道湖の水面よりも低い湿地帯で、例え高位部にあっても湖水位の上昇によって排水路は排水能力を失ってよく氾濫した。また鑪製鉄による砂鉄の採取に当たって土砂を流出させたため、斐伊川は天井川となり、簸川平野は度々大洪水に見舞われた。しかし排水不良による湿田を乾田化していくことは太平洋戦前には全く考慮されておらず、代わりに生産力の増進に大きな役割を果たすのが湿田上の高畝造成と苜蓿栽培であった。この栽培方法は、土地所有者(地主)の負と主導により成されたものではなく、耕作者(小作人)の負担により成された。この高畝-苜蓿栽培法は、稲の刈り取り後に畝を作って、苜蓿・詰草・豌豆・麦等を栽培し、その後に田土を打ち返して空気に暴露させることで、土地の生産力を増加させるというもの。
江角家の場合、やはり明治20年から40年の間に土地集積が最も進み、水稲耕作技術の変革により、経済的基盤を確たるものにしていく。このように小作料収入の増大により経済的基盤が盤石であったが故に、先進地帯の大地主が産業資本への転身を図る中で、当家の場合は変革を怠り、ついには農地改革で全ての田畑を失うことになるのである。


 

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