山根家住宅
Yamane



 
無指定・外観公開 【秦佐八郎博士生家】
島根県益田市美都町都茂807
建築年代/不詳
用途区分/庄屋・酒造業
公開状況/外観のみ可能。敷地内に秦記念館あり。
(※屋敷前面の石垣上に聳え立つ重層の長屋門のみが益田市の文化財に指定されている)
万葉の歌人・柿本人麻呂や室町中期の水墨画家・雪舟に所縁のある山陰の古都・益田は、石見国の中心地として古くからの歴史を有する土地柄で、中世の領主・益田氏の居館が所在した高津川、益田川河口部の氾濫原付近には、今でも地方都市には稀な程に由緒ある神社仏閣が数多く残されている。また、山間部に至っても恐らく現在とは大きく様子が異なっていたことが窺われ、益田川上流部に所在した都茂鉱山では、平安朝の承和3年(836)には丸山抗で既に銅や銀の採掘が始まり、昭和63年(1987)に至るまでの1000年以上に亘って稼働が続いたという。後に驚異的な銀の産出量により世界にその名を轟かせた石見大森銀山の存在により陰に隠れたようになっているが、この大森銀山の開発に携わった鉱夫は、実は都茂鉱山から移住した者達であったということが鉱山町内に祀られる神社の存在により推認されている。江戸期を通じて幕府直轄地となり、石見代官支配を受けたことからも、都茂には相応の町場が形成されたことは疑いようのない事実と考えられる。
さて前置きが長くなったが、益田の地は現在でも旧山陰道に該当する国道9号線と陰陽を繋ぐ国道191号線が交わる交通の要衝である。下関を始点に日本海沿岸を終始辿ってきた国道191号線が、益田市街の交差点から海岸ルートを国道9号線に譲ると、自らはいきなり中国山地へと分け入り、深奥部の広島県加計町に至る山間ルートへと変貌する。その国道191号線を益田市街から益田川上流部へと遡ること12km程の地点に市町村合併前の旧都茂村の中心地はある。今ではこの場所が悠久の歴史を育んできた石見地方最大級の鉱山があった場所だとは想像も及ばない程の変容振りであるが、この町場から更に東の谷筋に石垣を築き、大振りな重層の長屋門を構えて堂々たる姿を今に残す民家が当住宅である。
一見して富裕な村役人層の住居であると窺い知れる当住宅は、明治期に梅毒治療の特効薬・サルバルサンを発見したことで知られる秦佐八郎博士の生家である。博士は明治6年(1873)に当地の庄屋役や戸長を務めた旧家・山根家に14人兄弟の8男として生まれ、明治20年(1887)の14歳に同村で医業を営んでいた秦家へ養子縁組されるまでの間、ここで過ごしたという。その後、博士は養子縁組の受入条件でもあった岡山第三高等学医学部(現・岡山大学医学部)で学び、卒業後は大日本私立衛生会伝染病研究所で北里柴三郎に師事し、当時、中国大陸で再流行の兆しがあったペスト研究に従事する。日露戦争時には軍医として南満州各地の野戦病院で伝染病患者の治療に当たり、戦争終結後には大陸に派遣されていた兵士達の帰還によって伝染病が日本国内に持ち込まれることを防ぐための隔離施設である似島検疫所で防疫業務に従事している。令和3年(2021)に新型コロナ感染症によるパンデミックが発生した際には、この際の徹底した防疫体制の構築という過去の偉業が再び脚光を浴びたことは記憶に新しいところであろう。そして更に博士は明治40年(1907)にドイツに留学、ドイツ国立実験治療研究所長であったパウロ・エールリッヒの下で、当時不治の病であり、世界的に大流行していた梅毒に対する化学療法の確立に成功する。後年、この梅毒治療薬であるサンバルサンの製薬化の功によりエールリッヒはノーベル医学賞を受賞するが、その功績に共同研究者として最も大なる貢献を果たしたのが、他ならぬ秦博士だったと自ら賛辞を贈っている。この特効薬は昭和18年(1943)にペニシリンが開発されるまでの間、最も世界を救った薬として知らぬ者はいなかったということである。世が移ろう中で忘却の彼方へ追いやられてしまった偉業ではあるが、少なくとも博士の努力は我々が生きていく上で永遠の手本にしなければならない姿だと思う。
ところで屋敷内に建つ主屋については外観のみ拝見することができるが、その南方に博士の業績を顕彰する益田市立秦記念館が建てられおり、写真や手紙、参考図書など博士の遺品類が展示されている。山間の辺鄙と形容しても差し支えないような土地から出た不世出の偉人の姿を学ぶに不足は無い施設である。当住宅に佇み古の世を想像するとき、博士が医学界へと進むきっかけが秦家への養子縁組にあり、それはこの中国山地の只中でありながらも都茂集落が鉱山町であったが故に人が集い、医家たる秦家が此の地に開業できたことが背景にあったという長い歴史の中の一瞬の偶然を想う。それが世界の医学界に大いなる進化をもたらしたという事実に、神の存在を感じるのは妄想が過ぎるだろうか。(2022.2.23記)

一覧のページに戻る